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自分が好きですか?

あなたは自分が好きですか?嫌いですか?

多くの人は、好きなところもあるけれど、嫌いなところもあるでしょうね。
私もそうです。

自分の嫌いなところは是非とも改めて、好きになるように心がけて欲しいです。
そして好きなところは、もっともっと好きになるように磨きを掛けましょう。

――――

あなた(私)にとって、この世には好きな人も嫌いな人も、どちらでもない人も、様々な人たちがいることでしょう。
でも、それはそれでイイのです。
嫌いな人を無理くり好きになる必要はありません。

そんなことをすれば、嫌いな人を無理くり好きになる自分がイヤになってしまいます。
自分が嫌いになってしまいます。

いろんな人たちが降りてきた坩堝(るつぼ)が、「この世」なのです。
「この世」は、いろんな人たちがいることを、それぞれがそれぞれ自身で体験する天界なのです。
だからただ、「いろんな人がいるな~」と観るだけでイイのです。

間違っても、嫌いな人(つまり、その人の間違い)を矯正しよう、などと考えたりはしないでください。
それは宇宙に対する干渉・コントロールであり、宇宙に対する冒涜(ぼうとく)です。

そもそも、宇宙には「間違い」などないのです。
正邪、善悪、高低、美醜・・・など、ないのです。
これらは、「存在」を人間のご都合的な視座で切り取ったちっぽけな属性に過ぎません。

だから、嫌いな人(つまり、その人の間違い)を矯正しよう、などと考えたりはしないでください。

――――

この「物質の天界」(3次元界)は、いろんな人たちが降りてきた坩堝(るつぼ)です。

では、あなたは、どこから、何のために、この「物質の天界」に降りてきたのでしょう?

――――

あなたは、「あなたの冥界」からやってきました。

「あなたの冥界」の住人は、「あなた」です。
「あなたの冥界」には、「あなた」以外の誰もいません。
住人は無数にいるのですが、全ての住人は「あなた」なのです。
触れ合う人々の全てが「あなた」なのです。

触れ合う全ての人々に対する好きも嫌いも、「あなた」に対するものなのです。

ある魂にとって、それは楽しい天界であり、
別の魂にとって、それは辛く苦しい天界であることでしょう。

でも、こんな「あなたの冥界」では、魂は成長が出来ません。

魂の根源の望み・希求は、自身の成長です。
自身の成長――つまり、神になることです。

あなたは自身の成長のために、この「物質の天界」(3次元界)へ降りてきたのです。

――――

「物質の天界」であなたは、自分自身の好きなところをいっぱい発見し、いっぱい創造していけるのです。

自分自身の好きなところ――終局的にはそれは、正邪、善悪、高低、美醜・・・などを超えたものです。
「物質の天界」で体験できる好きなところは、ここまです。
正邪、善悪、高低、美醜・・・などを超えたところが、「物質の天界」でたどり着ける最高の到達点です。

――――

そして肉体の死を迎え、あなたはこの「物質の天界」を去っていきます。

「物質の天界」を去り、あなたは「新しいあなたの冥界」へ行くのです。

新しい「あなたの冥界」の住人は、新しい「あなた」です。
新しい「あなたの冥界」には、新しい「あなた」以外の誰もいません。
住人は無数にいるのですが、全ての住人は新しい「あなた」なのです。
触れ合う人々の全てが新しい「あなた」なのです。

触れ合う全ての人々に対する好きも嫌いも、新しい「あなた」に対するものなのです。

ある魂にとって、それは楽しい天界であり、
別の魂にとって、それは辛く苦しい天界であることでしょう。

――――

自分が好きですか?

あなたは自分が好きですか?嫌いですか?

多くの人は、好きなところもあるけれど、嫌いなところもあるでしょうね。
私もそうです。

自分の嫌いなところは是非とも改めて、好きになるように心がけて欲しいです。
そして好きなところは、もっともっと好きになるように磨きを掛けましょう。

新しい「あなたの楽しい冥界」へ向かって・・・

そして、「あなたの楽しい冥界」は無限にレベルが拡がっているのです。

     究魂 拝

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

宝くじを買った男

質問者(男):いつもワクワク生きていこうとするなかで、私は宝くじを買いました。
バシャールが言う観念の方程式として、
「私は宝くじを買った。
なぜならば、私は当たる」という方程式をつくっているのですけれども、当たらない。

バシャール:当たってワクワクするという以前に、宝くじを買うことそのものが、ワクワクなのだということもわかってください。

質問者:わかるような・・・。

バシャール:すべてのことをホリスティックに、全体像を眺めてください。
「自分は豊かなのだ」と知っているエネルギーで、期待なしに毎瞬毎瞬、一番ワクワクすることを行動していると、豊かさは何らかの形であなたのところにやってきます。

「この行動をこうしたらこうなるからワクワクする」というのではありません。
「その行動そのものがワクワクするのだ」という気持ちで行動してください。
つまり宝くじが当たったらワクワクする、というのではなく、
「買うことそのものにワクワクする」ということです。

このワクワクする豊かさのエネルギーの中にいつもいてください。
その上で考えられる中で一番ワクワクすることが宝くじを買うことであれば買ってください。

でもその宝くじを買った瞬間、これがお金になるかどうかということは忘れてください。
宝くじを買ったことは忘れて、次に一番ワクワクすることに移ってください。
そうするとあなたは、豊かさがもっとも簡単にやってくるドアを見つけたことになります。
なぜなら宝くじを買うことが、一番簡単に豊かになれる方法かどうかわからないからです。

あなたがワクワクした状態から、宝くじを買ったとしたら、あなたは豊かさのアイデアに向き合っていることになります。
けれども「宝くじが当たるという方法で豊かさがやってきて欲しい」という期待は手放していてください。
他の方法でやってくるかもしれないからです。

豊かさの定義もまた大切です。
豊かさとは「必要なときに必要なことができる状態」のことをいいます。
ときにはお金は必要でないかもしれません。
地球上では、お金というのは役に立つものです。
でもそれだけが豊かさの形ではありません。

あなたが豊かさのエネルギーの中にいて、豊かさにワクワクしていたなら、あなたは宝くじを買うことそのものにワクワクするかもしれません。
そうしていれば、誰かがいきなり現れて、あなたに必要なものをくれるかもしれません。
するとお金は必要なくなります。

自分が一番ワクワクすることを行動に起こすのだ、ということに忠実でいてください。
でも豊かさがどのようにやってくるか、その形は期待しないでください。

なぜなら期待を手放すとき、あなたは本当に豊かになるからです。

あなたが何かワクワクすることをするとき、「ただワクワクするから」という理由だけで行動してください。
「その結果にワクワクするから」という理由ではなく。


『バシャール・ペーパーバック8
  ―ワクワク、それは人生に活力を与え続ける機関車』
  (バシャール、ダリル・アンカ 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

イマ、ココに全力投球していると「気づき」が生まれる

――適切な問いも、全力投球するイマ、ココから自然と生み出される。
そして、イマ、ココから離れないかぎり、その答えを見逃すことはない。――

アタマが適切な問いを入力すれば、奇跡的な情報処理能力をもつスーパーコンピューターであるカラダは、その答えとして必要な情報や出会いを必ず提示してくれる、と老師は言われます。
そして、「それは何気ない友人との会話であったり、たまたま足を運んだ本屋で見つけた本であったり・・・。
あとは、どれだけそれをキャッチできるか、つまり気づきが大切である」
というのです。

そういえば、「ピザーラ」の創業者、浅野秀則さんも、ピザの宅配業を思いついたのは、スピルバーグの映画『ET』に出てくるピザのデリバリーシーンを見たときだと、本で読んだことあります。

野口体操の創始者、野口三千三さんも
「人間は問いを発することしかできない存在だ。
その答えはカラダが全部教えてくれる。
人間はカラダの声を聞き取る能力を謙虚に磨いていかなければならない」
と語っていますが、老師の話を聞いて、その言葉の意味がよくわかった気がします。

ただ、問題はカラダが教えてくれる答えにちゃんと気づけるかどうかですが、そのとき、もし自分勝手な思い込み(境界線)があると、その答えに気づかないと老師は言われます。
そして、こういう話をされました。
「君がピザの宅配を思いつかないのは当然だよ。
ピザーラの創業者が操縦するガンダムと、君が操縦するガンダムは性能も個性も違うんだ。
だから、同じようにピザの宅配業をやったとしても、君がお金持ちになるとはかぎらない。
君に必要な答えは、君のイマ、ココから飛び出してくるものなんだよ。
だから、答えに気づくためには、君がイマ、ココにいること、イマ、ココに全力投球していることが大切なんだ。

元禄寿司の創業者も、美味しい寿司を少しでも安く食べてもらうにはどうしたらいいか、その答えに気づけたのは、イマ、ココに全力投球していたからなんだ。
イマ、ココに全力投球するとき『~したい』という願いはなくなる。
そのとき、ワシらは子供のように好奇心のかたまりとなっているんだ。
つまり、適切な問いも、全力投球するイマ、ココから自然と生み出されるものなんだよ。
しかも、イマ、ココから離れることがないから、その答えも見逃さないのだよ」

そうなれば僕らは、秘められたガンダムの能力、可能性をどんどん引きだし、ガンダムを思いどおりに操縦する自由を楽しむことができるのでしょう。
ただ「アム口、行きます」と、イマ、ココに飛びこめばいいだけなのです。


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

アタマは問いをカラダに入力するだけでいい

――そんなことはできないと境界線を作らないで、どうしたらできるか、その問いだけをカラダに入力し続ける。
それだけでカラダに隠された能力、可能性を引きだせる。――

鉄砲の弾をよけた植芝盛平については、すでに老師がお話をされていますが、それには、こんな後日談もあるそうです。

「お弟子だった塩田剛三さんの知り合いに、山梨に住む佐藤貞次郎という猟師がいた。
彼は鉄砲打ちの名人で、時速200キロで飛ぶ山鳥のアタマを、百発百中で射抜くことができたらしい。

あるとき、塩田さんから植芝先生が鉄砲の弾をよけた話を聞き
『それでもワシの鉄砲はよけられん。
人間のアタマなんてこんなにデカイ。
ワシは山鳥のアタマを撃つんじゃ。
人間に当たらないわけがない』
と自信満々で山から下りてきたんだ。

植芝先生は、彼の挑戦を快く引き受けた。
道場の奥に植芝先生は正座して座り、佐藤さんは猟銃を構えた。
そして、まさに佐藤さんの指が引き金を引こうとした瞬間、
『待て、あんたの鉄砲は当たる』
と、植芝先生は止めたのだよ。

『あんたにはワシを撃ってやろうという気持ちがこれっぽっちもない。
最初から当たるつもりで撃とうとしている。
そんな人の鉄砲はよけられない。
たいしたものだ』
そう言って、植芝先生は佐藤さんに深々とお辞儀をしたんだ。
彼は大喜びで、山に帰っていったそうだよ」

つまり、佐藤さんの腕前がすぐれていたのは、うまく当てるにはどうしたらいいかとアタマで迷うことがまったくなかったからだというのです。
それは、鉄砲撃ちとして百発百中で当てるにはどうすればよいか、そのことを問い続けた結果、百発百中のカラダを手に入れたからだというのです。

そういえば、僕が自転車を乗りこなせるようになったのも、何度も転びながら、どうすれば転ばないでうまく自転車を乗りこなせるようになるのか、そうカラダに問い続けていたからだと思います。
そのうちにカラダがラクラク自転車を乗りこなす、「いのち」の能力を引き出したのでしょう。

老師の言葉によれば
「ひとたび、その能力を引き出してしまえば、後は、アタマの自分はポンッと指示を入力するだけで、オートマチックに自転車は乗りこなせるんだ。
カラダがせっせと入力された指示を実行してくれているから、アタマの自分はのんびり景色を楽しみながら、サイクリングすることもできる」
ということになります。

そして老師はこう言われます。
「そんなことはできないと頭で決めつけず、どうしたらできるかという問いをカラダに入力し続ければいいんだ。
それによってカラダに隠された能力、可能性を引きだすことができるんだよ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

アタマで知りカラダで感じてこそ本当の理解が生まれる

――感じるというカラダの理解は、知るというアタマの理解があるから深くなる。
知るというアタマの理解も、感じるというカラダの理解があるから深くなる。――

物事を理解するのはアタマの作業であると思ってきましたが、老師は、本当の理解は、アタマで知り、カラダで感じてこそ成り立つものだと言われます。

これまで、物事を理解する作業はアタマが行なうものだと思い込んできた僕に、こんな話をしてくれました。
「アタマといっても、それを生み出したものはカラダなんだ。
腹には、消化・吸収作用、排地作用を管理する太陽神経叢(たいようしんけいそう)と呼ばれるものがある。
神経叢とは、家庭の各部屋への電気の配線をまとめている配電盤のようなもので、たくさんの神経が集中するところだ。

それは、アメーバのような単細胞生物から進化し、ホヤのような脊索動物になったとき、すでに存在していたんだ。
ホヤのときは、腸が主体となって呼吸作用、消化・吸収作用、排泄作用を行ない、太陽神経叢がそれを管理していたわけだが、そのうち処理しなければならない情報量が増えて、腸の役割が各器官に分担されるようになり、太陽神経叢の管理する情報も各神経叢に分担されるようになった。

その各神経叢をつなぐ神経の太いパイプである脊髄が伸びてきて、その先端がふくらみはじめたのが脳髄なんだ。

ということは、アタマだけが情報処理をしているわけではなく、カラダ中にある神経叢がそれぞれ情報処理していて、アタマはそれらの情報を管理しているにすぎないとわかるだろう。

結局、アタマもカラダの一部なんだ。
本当に理解したことを体得、カラダで得るというのもそのためだよ。
『腹を割って話す』
『腹に一物がある』という言葉は、腹の中にこそ本当の考えが隠されているという意味、だが、それも、もっともなことだよ。
ワシらの脳の根源は、腸が主体となって生命活動を行なっていた時代に、すでに存在していた太陽神経叢、つまり腹にあるのだから。

だから、アタマの理解にはカラダが必要なんだ。
知るというアタマの理解は、感じるというカラダの理解があるから深くなるのだよ。
逆もまた真なりで、感じるというカラダの理解は、知るというアタマの理解があるから深くなる。

たとえば、ワシは『うなぎのひつまぶし』が大好きなんだ。
ただ食べるだけでも美味しいのに
『このウナギは、現在では産地も少なく、ほとんど市場に出回らない天然うなぎです。
しかも、50匹に1匹しか捕れない薩摩川内産の「入りうなぎ」で、まるまると太って身もやわらかく、脂もあっさりとした究極のうなぎです』
なんて言われたら、美味しきもうなぎ登りに増すだろう。
そのことを知って食べるのと食べないのとでは、味わいにも大きな違いが出てくるはずだ。

つまり、知るというアタマの理解が、感じるというカラダの理解をより味わい深いものにしてくれるんだよ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

人生の意味や価値はカラダでこそ感じ取るもの

――人生の意味や価値というものはアタマで考えるものではなく、カラダで感じるものである。
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではない。―

老師いわく
「『人間は何のために生まれてきたのか?
でそれは結局、アタマではわからない。
それなのに、アタマで理解しようとすることが間違いなんだよ。

たとえば『人間は何のために子育てするのか?』を考えてみるといい。
自分の子孫を残すため、老後の世話をしてもらうため、なんて身勝手な理由も思いつくかもしれないが、そんなことは、ほとんどの親にとって、どうだっていいことだ。

ただただ『幸せになってほしい』『かわいい』と思うのが親心だろう。

つまり、子育てにはアタマで理解できるような意味や価値がないのだよ。
だからこそ『幸せになってほしい』『かわいい』という親の思いは本物なんだ。

それでは、そもそも子育てには意味や価値なんて存在しないのか?
いや、そうではなく、それをアタマで理解しようとするから見失ってしまう。

遠くから母親を見つけた子どもが、顔いっぱいに笑顔を浮かべながら
『ママー!』と母親の胸に飛びこんでくるその瞬間、母親がカラダ全体で感じているものがある。
全身にこみあげてくる何かがある。
その何かこそ、子育ての意味や価値ではないだろうか。
すでに子育ての意味や価値をカラダは知っているのだよ。

それと同じように、人生の意味や価値というものもアタマで考えるものではなく、カラダで感じるものなんだよ。
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではないんだ。
カラダで感じることしかできないものなのだよ。

しかし、不安や心配で緊張したカラダ、境界線上での戦いに疲れ果てたカラダでは、不感症になって、しっかり感じることができなくなるんだ。
だから何よりもまず、今までカラダにためこんできた緊張を解放し、イマ、ココにどっしりと落ち着けるカラダになることが大切なんだよ」

人生の意味や価値とは、アタマで理解するものなんかではなく、カラダで感じることしかできないものだという老師の言葉に、僕は本当に驚かされました。

これまで、死にたくなるほど悩み考えても、その答えが得られなかったのは、知識や経験が足りないからではなく、とらえ方がまったく違っていたことに気づかされたのです。


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

個性という枠におさまるほど人間は小さくない

――自分らしさという枠があるために、ひとつのお面しかつけることができない。
これでは生きづらくでしょうがない。――

あるとき老師が、中国の古典『荘子』の中におもしろい物語があると言われ、「コントンさん」の話を始めました。
「南の海にオッチョコチョイさん、北の海にハヤガテンさん、中央の海にコントンさんが住んでいた。
あるとき、オッチョコチョイさんとハヤガテンさんは、コントンさんに手厚いもてなしを受けた。

二人は、コントンさんに恩返しをするために、何がいいか相談した。
人間には目、鼻、口、耳の七つの穴があるけど、コントンさんはのっペらぼう。
それでは困るだろうからと、七つの穴を開けてあげることにしたんだよ。

そして、毎日ひとつずつ穴を開けていくと、とうとう七日目にコントンさんは死んでしまった・・・。
じつは、コントンさんは境界線のない自分のことなんだよ。

でも、のっペらぼうってナゾだらけだろう。
いったいどこで見たり、聞いたり、味わったりするのか、まったく理解できないからね。
その分、未知の可能性がいっぱいの自分のことなんだ。

ところが
『グズグズしないでさっさと決めなさい』
『いつまでもメソメソしないでさっさと気持ちを入れ替えなさい』
『モジモジしないで言いたいことがあるならさっさと言いなさい』
なんて怒られながら成長していくうちに、決断力のある自分は善くて、グズグズする自分は悪いという境界線を作ってしまう。
そして、グズグズする自分を捨ててしまっんだ。

本当はグズグズする自分こそ、想像力豊かな自分なのに。
ただ、いっぱいイメージが浮かんでグズグズしてるように見えるだけなのに。
そのグズグズする自分を捨ててしまったら、想像力豊かな自分も失ってしまうんだよ。

その結果、自分をどんどん小さくしてしまい、身動きとれなくなってしまう。
まさに、コントンさんに穴をあけ、死なせてしまうようなことをしているんだ。

ということは、神さまに文句を言ったヨブも、清く正しい自分は善くて、そうじゃない自分は悪いという境界線を作っていたのではないだろうか。
ヨブの文句に逆ギレして、ワガママな子供のようなことを言った神さまとは、じつはヨブに捨てられたヨブ自身かもしれないね。

ところで、『論語』に『君子は器ならず』という言葉があるのを知っているかい?
器というのは枠があるだろう。
だから役割も限られてくるんだ。
つまり、自分らしさという枠があるために、ひとつのお面しかつけることができないのだよ。
これでは生きづらくでしょうがない。

しかし、その枠がなくなれば何にでもなれる。
コントンさんのようにのっペらぼうなら、どんなお面でも自由自在につけることができるんだ。
のっペらぼうというのは個性がないということではなく、個性という枠におさまるほど自分は小さくないということだからね。

観音さまも器ではないから何にでも変身できるんだよ。
観音さまはその場、その場に合わせて、あるときは母親、あるときは妻、上司、部下、同僚、先生、生徒・・・と次々にふさわしい役割になりきって、見事な演技をこなしていく。

その変わりっぷりや演技が、まるでたくさんのお面を次々とつけかえているかのよう、だから、十一面観音という観音さまもいらっしゃるのだよ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

泣き尽くしたとき本当の明るさ、勇気が出てくる

――とにかく、どんどん泣いて、どんどん笑うことだ。
泣けば不安や恐れも癒されるし、笑えば元気も出てくる。――

「とにかく、どんどん泣いて、どんどん笑うことだ。
泣けば不安や恐れも癒されるし、笑えば元気も出てくる」
という老師の言葉を聞いていると、思い切り泣く、思い切り笑うことから、ずいぶん遠ざかっていたような気がします。

僕は映画好きなので、まずは、思い切り泣ける映画、思い切り笑える映画をどんどん観ることからはじめてみよう、そうして、カラカラに干からびてしまった感性を、あの少年時代のようにみずみずしい感性に蘇らせたい。
そんなことを考えていると、
「良寛さんを知っているかな?」と老師が聞かれるので、
良寛さんが大好きな僕は、こんな話をしました。

あるとき、良寛さんは子どもたちとかくれんぼをしていたそうです。
そして、良寛さんが隠れる番になって、良寛さんは田んぼの中にうまく隠れることができた。
しかし、日が暮れて暗くなったため、子どもたちは良寛さんだけ見つけられないまま、家に帰ってしまいました。

翌朝、田んぼに来たお百姓さんは、良寛さんが居たので、びっくりして思わず大声で叫んでしまった。
それを聞いた良寛さんの言葉が笑えます。
「静かに!
そんなに大きな声を出したら、子どもたちに見つかってしまうよ」
なのですから。

そのあと老師は良寛さんについて、こんなエピソードがあると話してくれました。
涙がいかに人の心に癒しや元気を与える力をもっているか、話を聞いているだけで涙が流れそうでした。

「ある寒い冬の日、雪の降る中をわざわざ弟の妻がたずねてきた。
良寛さんが訳を聞くと
『息子の馬之助は年ごろになっても遊びや酒に夢中で、まったく仕事をしようとしません。
親の言うことも聞かないし、このままでは将来が心配で心配で。
何とか馬之助に言い聞かせていただけないでしょうか』
と言う。

良寛さんはその頼みを聞き入れ、あくる日、さっそく弟の家をたずねた。
ところが、久しぶりに馬之助と会った良寛さんはうれしくでしょうがない。
少しも説教をはじめる様子はなく、時のたつのも忘れて二人で楽しそうに話しこんでいる。
とうとう二晩も泊まってしまった良寛さんは、結局、説教らしいことはひと言も言わないまま、別れのあいさつをし、ワラジを履きはじめた。

そのとき良寛さんは
『馬之助、すまんがワラジのひもを結んでくれないか』
と頼んだんだ。
馬之助は良寛さんの足元にしゃがんで、ワラジのひもを結びはじめた。
すると、馬之助の首すじに何やらポタリと冷たいものが落ちた。
『何だろう?』と思って顔を見上げると、馬之助を見つめる良寛さんの目には、涙がいっぱいあふれていたのだよ。

そのまま良寛さんは何も言わずに帰っていった。
このことがあってから、馬之助は生まれ変わったように仕事に精を出すようになったということだ。

良寛さんには、馬之助の気持ちが自分のことのようにわかっていたから、何も言えなかったんだ。
すると涙がポタポタ落ちてきた。
それは、いのちからあふれ出てきた清めの涙だった。
その涙に馬之助の不安や悩みの雲も払われたんだよ。

『涙』は『水』と『戻』が組み合わさった漢字だが、ココロに潤いを与え、いのちの世界へとワシらをふたたび戻してくれるものなんだ」

ここまで話してから、老師は、じつは、あの秀吉にだって涙が枯れるまで泣き尽くした少年時代があったはずだとおっしゃいました。
「秀吉ほど陽気で話好きな男、若いころの自慢話、苦労話なら誇らしげにペラペラしゃべる男が、少年時代の話だけは
『尾張の名も無き百姓の子に生まれ、寺に入れられたが、途中で飛び出して、その後は各地を放浪した』と語るのみだ。
具体的なことは、一切、自分で語らなかったのだよ。

きっと、語るにはあまりにつらく、悲しいことが多すぎたんだろうね。
だから、きっと、泣いて、泣いて、泣き尽したんだ。
そして、あきらめたのだよ。

秀吉のお日さまのような明るさや勇気、行動力、ユーモア、慈しみとは、そこから全部、出てきたものなんだ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

受身の人生+あきらめ=主体的な人生

――イヤイヤならば受身の人生だろうが、そのイマに思い切って飛び込めば、受身の人生は主体的な人生へと逆転する。――

あるとき老師は、
「ワシらの面前で、次から次へと展開していくイマ、それはまさに、すでに放たれてしまった矢のようなものではないだろうか。
その矢に、不平、不満を言ってもしかたがない。
どうすることもできないんだ。

そうではなく、そのイマの真っ只中に身を入れる、飛び込むんだ。
どんなに受け入れがたいイマであっても、悲しくて虚しくなるようなイマであっても、そこに飛び込むんだ。
そうすれば、カラダの中心から、どんなイマ、ココであっても乗り越えさせる、摩訶不思議な働きが出てくるのだよ。

イヤイヤならば受身の人生だろうが、そのイマに思い切って飛び込めば、受身の人生は主体的な人生へと逆転するんだ。
そのときの気持ちは、何だかニヤニヤしてしまうような心地よいものだ。

お茶の掛け軸によく使われる言葉で「随所作主」(ずいしょさしゅ)という言葉があるが、それも、このことを言っているんだ。
どんなイマ、ココであっても、ブツブツ屁理屈言わず、その中に飛び込めば、自分が主人公となって楽しむことができる、という意味だよ」
と言われました。

それを聞いて僕が
「それには、何よりあきらめる勇気が大切なんですね。
それでも僕は、なかなかあきらめきれない、溺れるものはワラをもつかむタイプなんです。
そんな僕に本当にあきらめる勇気があるのかどうか・・・」
と言ったとき、老師はわずかに間を置いてから、こんなふうに話されたのです。

「あきらめてワラを手放せば、自然とカラダは浮くのだよ。
助かろう、助かろうとするから、ありのままの事実も見えなくなる。
これでは絶体絶命の大ピンチを切り抜けるアイデアも出るわけがない。
そもそも絶体絶命の大ピンチとは、自分ではどうすることもできないから絶体絶命の大ピンチなんだ。

おまけに、その自分は、つねに生きていくことの不安をもち、その不安から逃げるために作りだしてきた境界線で、がんじがらめとなっている。
それほど頼りにならない自分はないし、そんな自分が生きる人生は受け身の人生だよ。
でも、積極的にあきらめることができれば、そこから主体的な人生に変わるんだよ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

いのちには勝ち負けを超えるパワーがある

――つねに強い者が勝ち、弱い者が負ける世界にいるかぎり、決して不安から逃れることはできない。
強さ、弱さを超えた世界には恐れも心配もない。――

あるとき、老師は、剣の達人、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と、その禅の師匠、沢庵禅師が虎に対峠したときの話をされました。

「こんな話がある。
3代将軍、徳川家光の時代に、日本に初めて虎が来たんだ。
家光は家来200人を引き連れて虎を見物した。
その場所が現在の虎ノ門だよ。

虎を見ているうちに、家光には、この凶暴な虎と剣の達人である柳生宗矩を対決させたらどうなるか、という興味がわいてきた。
そして、宗矩は虎のオリの中に入ることになったんだ。

ところが、虎のオリの中に入った宗矩は怯える様子もなく、逆にギョロリと虎をにらみつけた。
すると、虎はおびえてしまい、宗矩に近づくこともできなかったんだよ。

これには、家光をはじめ一同全員、感嘆の声をあげた。

ところが『宗矩は、まだまだじゃ』と言う老人が現われた。
その人は宗矩の禅の師匠である沢庵禅師だった。
この人がトコトコ、虎のオリの中に入って行ったと思ったら、なんと凶暴な虎は猫のようにおとなしくなり、沢庵禅師になついてしまった!

その光景を見た宗矩は、深く悟るところがあったそうだ」

なぜ、虎は沢庵禅師になついてしまったのでしょうか。
そして、宗矩はいったい何を悟ったのでしょうか。

そこのところを老師にたずねると
「宗矩は1+1=2の世界に、沢庵禅師は1+1=1の世界にいたんだ。

虎を震え上がらせるばかりの闘気をもつ宗矩も、もし自分よりも強い闘気をもつ者と出会ったならば、自分のほうが震え上がってしまい、勝つことはできないだろう。
それは、つねに強い者が勝ち、弱い者が負ける世界なんだ。

その世界にいるかぎり、決して不安から逃れることはできない。
いつ、自分より強い者が現われるともかぎらないからね。
しかし、沢庵禅師のいる1+1=1の世界は、強さ、弱さを超えた世界なのだよ」
と言います。

強さ、弱さを超えた世界といわれても、ちょっと想像がつきませんが、老師が僕に
「たとえば、愛しい恋人との甘い会話を楽しんでいるとき、君のココロは自分から飛び出して、彼女とひとつになっているのではないかな?」
と聞かれるので

「はい。
きっと身も心もフニャフニャに、とろかされていることでしょう」
と、ちょっと照れながら答えました。

老師も笑みを浮かべて
「それこそ、まさに大恋愛の真っ最中ってところだ」
とおっしゃりながら、さらに

「そのとき、君は1+1=1の世界に飛び込んでいるのだよ。
自他に分かれる前の世界、あらゆるものを育む、いのちの世界に飛び込んでいるんだ。

植芝盛平は『合気とは愛気だ』とおっしゃっていたと思うが、それはまさに、自他が融合する世界、
1+1=1の世界、いのちの世界のことを語っているのだよ。

太極拳の世界もいっしょなんだ。
太極拳の太極とは、陰陽と分かれ、1+1=2となる前の世界、1+1=1の世界のことだからね。

相手とひとつになる。
相手に飛び込んでいくんだ。
もし、相手に不信感があったり恐れや心配があったりすれば、自分の殻から飛び出ることはできない。
恋人を愛するような気持ちで相手と接するんだよ」
と、1+1=1の世界について話を続けられます。

しかし、僕のような人間にとっては、それはとてつもなく困難なことです。
武道とは生きるか死ぬかの戦い、まさに食うか食われるかの戦いです。
その状況で、恋人を愛するような気持ちになるというのは、想像することすらむずかしい気がします。

それでも老師は、
「しかし、沢庵禅師は恋人を愛するような気持ちで、虎と接することができたんだ。
すると、虎も気持ちよくなって、沢庵禅師とイチャつくなんて摩詞不思議な事態も発生したわけだ」
と笑っておられます。

それにもかかわらず、虎が立ち向かってきたなら、どうなりますかとたずねると、
「そのとき、沢庵禅師は、いのちの世界とひとつなんだ。
それに立ち向かう虎は、虎自身を生かし続けるいのちに刃向かうことになる。
自分で自分を傷つけることになるのだよ」
と。

そういえば、馬庭念流(まにわねんりゅう)という剣術の流派があって、演武会では15メートル先から放たれて飛んできた矢を、剣で打ち払う術を見せるそうです。
老師の話を聞いていて、その極意を家元が語った本のなかに、こんな言葉があるのを思い出しました。
「相手の矢が弓を離れて飛び出すときに、矢先から目を離さず、その矢の中心に身を入れていく。
絶対に逃げてはならない。
すると即座に、剣で矢を払う動きが正確に身体の中心から出てくる」

そのことを老師に話すと、
「何とも味わい深い言葉じゃないか。
その家元には、いのちに対する絶対なる信頼があるんだね」
とおっしゃいます。


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
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究魂(きゅうこん)

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聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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