生きる意味・命の意味
自然界に親孝行はありますか?
子が自分を犠牲にして親の世話をしている動物はいますか。
親の介護のために、自分の幸せをあきらめたライオンはいますか。
親の面倒を見るために出産をあきらめたキタキツネはいますか。
親孝行は人として基本だと思っていたでしょう。
でも自然界では起こりえないことです。
自然界にはない親孝行は、自然か不自然か、どちらでしょう。
私は「不自然だから親孝行はするな」と言っているのではありません。
余裕のある範囲で親孝行をすればいいのです。
ただ自分を犠牲にするものではないのではないでしょうか。
親がわが子に求めているのは、「親孝行か、子どもの幸せか」どちらでしょう。
長年の不自然な生活の中では、「親孝行」を要求する親も少なくないでしょうが、それもまた不自然なことなのです。
本来、すべての生物は生まれながら「自分は、次の世代のために精一杯のことをする」ということをDNAとして、自然の知恵として、本能として持っているのです。
親のために自分が犠牲になろうと思うのなら、それは本当の親孝行ではありません。
それは自己満足です。
親は本能的に、子どもに対して「精一杯生きてほしい。幸せであってほしい」と願っています。
子どもが精一杯生きていくこと、それが本当の親孝行なのです。
自然界に忠や義はありますか?
自然界には、強い者が弱い者を守るために争うことはあっても、弱い者が強い者を守るために戦うことはありません。
強いライオンを守るために弱いライオンは死にますか。
ボスは群れを守るために自分が戦って死ぬことはありますが、ボスを守るために弱い者たちが戦うことはありません。
自然界にない忠義は、不自然なのです。
上司を守るために部下が罪をかぶることはありません。
忠義を要求する社会はとてもおかしな社会です。
強いものは弱いものを守るために戦えばいいのです。
だから、ボスなんです。
「忠、孝、義」は東洋の、日本の道徳の基本ですから、自主的に自発的にそれを守ることはかまいませんが、それを盾にして、それを振りかざして「お国のため」などと国民を死に追いやるのは間違っています。
いままで信じてきたものがいかに、誰かの都合のために作られたものであったか、おわかりでしょうか。
不自然な社会は、不自然なルールによって成り立っているのです。
そのことに気づくこと、そのことに「おかしい!」と発言することから変化が始まるのです。
「苦労して借金を返した」という話を聞きますが、どうしてお金のない人がお金持ちに苦労してお金を返すのでしょう。
いえ、それがいけないと言っているのではなく、まずそのことの「おかしき」に気づくことです。
自然界では「貸し借り」はありますか。
自然界には、ライオンがお腹いっぱいになったら、残りは誰が食べても怒りません。
返せなんて言いません。
借金は多くの場合、お金がない人が、お金をたくさん持っている人に借りるのです。
さらに、返す時は利子をつけて返すのが当たり前になっているのですが、それも「おかしい」と思いませんか。
もちろん、この社会の約束事だから返せるのなら返せばいいです。
しかし、返せないからといって死ぬことはないのです。
ルールを守る必要がないと言っているのではなく、不自然なことで必要以上に苦しむな、苦しめるなと言いたいのです。
親孝行ができないということで自分を苦しめないでほしい。
借金を返せないからといって死んじゃあダメだ。
生きるってそんな気持ちではダメだ。
逃げちゃあいけないし、あきらめちゃあいけない。
死んでお詫びするようなものでもない。
メンツもない。義理もない。立場もない。
自分を信じること、自分を大切にすることです。
目を覚ましてほしいのです。
生きることは素晴らしいことなのです。
人を幸せにすることはもっと素晴らしいことなのです。
そのことに気づいてもらいたいのです。
そのことに気づいたら、「生き方がわからない」とか「生きる希望を失った」とか「何のために生きているかわからない」「生きる自信がない」なんて、ありえません。
この世に、悩みなどないのです。
難しいこともないのです。
不可能もないのです。
生きるってそんなことです。
もっと自信を持って、もっと自分を受けとめて、もっと自分を好きになってほしいのです。
本当に自分を大好きになって、自分を受けとめられたら絶対に悩みません。
絶対に人を傷つけません。
たぶん、いまの多くの人に欠けていることは、本当に自分を好きであること、自分を本当に大切にすることだと思います。
そして、自分への愛、自分への信頼、自分への希望、自分への尊厳、リスペクト、そういうものが欠けているのではないでしょうか。
「生きる意味―人生を深く掘り下げるワークショップ」 高木善之 著
子が自分を犠牲にして親の世話をしている動物はいますか。
親の介護のために、自分の幸せをあきらめたライオンはいますか。
親の面倒を見るために出産をあきらめたキタキツネはいますか。
親孝行は人として基本だと思っていたでしょう。
でも自然界では起こりえないことです。
自然界にはない親孝行は、自然か不自然か、どちらでしょう。
私は「不自然だから親孝行はするな」と言っているのではありません。
余裕のある範囲で親孝行をすればいいのです。
ただ自分を犠牲にするものではないのではないでしょうか。
親がわが子に求めているのは、「親孝行か、子どもの幸せか」どちらでしょう。
長年の不自然な生活の中では、「親孝行」を要求する親も少なくないでしょうが、それもまた不自然なことなのです。
本来、すべての生物は生まれながら「自分は、次の世代のために精一杯のことをする」ということをDNAとして、自然の知恵として、本能として持っているのです。
親のために自分が犠牲になろうと思うのなら、それは本当の親孝行ではありません。
それは自己満足です。
親は本能的に、子どもに対して「精一杯生きてほしい。幸せであってほしい」と願っています。
子どもが精一杯生きていくこと、それが本当の親孝行なのです。
自然界に忠や義はありますか?
自然界には、強い者が弱い者を守るために争うことはあっても、弱い者が強い者を守るために戦うことはありません。
強いライオンを守るために弱いライオンは死にますか。
ボスは群れを守るために自分が戦って死ぬことはありますが、ボスを守るために弱い者たちが戦うことはありません。
自然界にない忠義は、不自然なのです。
上司を守るために部下が罪をかぶることはありません。
忠義を要求する社会はとてもおかしな社会です。
強いものは弱いものを守るために戦えばいいのです。
だから、ボスなんです。
「忠、孝、義」は東洋の、日本の道徳の基本ですから、自主的に自発的にそれを守ることはかまいませんが、それを盾にして、それを振りかざして「お国のため」などと国民を死に追いやるのは間違っています。
いままで信じてきたものがいかに、誰かの都合のために作られたものであったか、おわかりでしょうか。
不自然な社会は、不自然なルールによって成り立っているのです。
そのことに気づくこと、そのことに「おかしい!」と発言することから変化が始まるのです。
「苦労して借金を返した」という話を聞きますが、どうしてお金のない人がお金持ちに苦労してお金を返すのでしょう。
いえ、それがいけないと言っているのではなく、まずそのことの「おかしき」に気づくことです。
自然界では「貸し借り」はありますか。
自然界には、ライオンがお腹いっぱいになったら、残りは誰が食べても怒りません。
返せなんて言いません。
借金は多くの場合、お金がない人が、お金をたくさん持っている人に借りるのです。
さらに、返す時は利子をつけて返すのが当たり前になっているのですが、それも「おかしい」と思いませんか。
もちろん、この社会の約束事だから返せるのなら返せばいいです。
しかし、返せないからといって死ぬことはないのです。
ルールを守る必要がないと言っているのではなく、不自然なことで必要以上に苦しむな、苦しめるなと言いたいのです。
親孝行ができないということで自分を苦しめないでほしい。
借金を返せないからといって死んじゃあダメだ。
生きるってそんな気持ちではダメだ。
逃げちゃあいけないし、あきらめちゃあいけない。
死んでお詫びするようなものでもない。
メンツもない。義理もない。立場もない。
自分を信じること、自分を大切にすることです。
目を覚ましてほしいのです。
生きることは素晴らしいことなのです。
人を幸せにすることはもっと素晴らしいことなのです。
そのことに気づいてもらいたいのです。
そのことに気づいたら、「生き方がわからない」とか「生きる希望を失った」とか「何のために生きているかわからない」「生きる自信がない」なんて、ありえません。
この世に、悩みなどないのです。
難しいこともないのです。
不可能もないのです。
生きるってそんなことです。
もっと自信を持って、もっと自分を受けとめて、もっと自分を好きになってほしいのです。
本当に自分を大好きになって、自分を受けとめられたら絶対に悩みません。
絶対に人を傷つけません。
たぶん、いまの多くの人に欠けていることは、本当に自分を好きであること、自分を本当に大切にすることだと思います。
そして、自分への愛、自分への信頼、自分への希望、自分への尊厳、リスペクト、そういうものが欠けているのではないでしょうか。
「生きる意味―人生を深く掘り下げるワークショップ」 高木善之 著
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体