人生の意味や価値はカラダでこそ感じ取るもの
――人生の意味や価値というものはアタマで考えるものではなく、カラダで感じるものである。
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではない。―
老師いわく
「『人間は何のために生まれてきたのか?
でそれは結局、アタマではわからない。
それなのに、アタマで理解しようとすることが間違いなんだよ。
たとえば『人間は何のために子育てするのか?』を考えてみるといい。
自分の子孫を残すため、老後の世話をしてもらうため、なんて身勝手な理由も思いつくかもしれないが、そんなことは、ほとんどの親にとって、どうだっていいことだ。
ただただ『幸せになってほしい』『かわいい』と思うのが親心だろう。
つまり、子育てにはアタマで理解できるような意味や価値がないのだよ。
だからこそ『幸せになってほしい』『かわいい』という親の思いは本物なんだ。
それでは、そもそも子育てには意味や価値なんて存在しないのか?
いや、そうではなく、それをアタマで理解しようとするから見失ってしまう。
遠くから母親を見つけた子どもが、顔いっぱいに笑顔を浮かべながら
『ママー!』と母親の胸に飛びこんでくるその瞬間、母親がカラダ全体で感じているものがある。
全身にこみあげてくる何かがある。
その何かこそ、子育ての意味や価値ではないだろうか。
すでに子育ての意味や価値をカラダは知っているのだよ。
それと同じように、人生の意味や価値というものもアタマで考えるものではなく、カラダで感じるものなんだよ。
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではないんだ。
カラダで感じることしかできないものなのだよ。
しかし、不安や心配で緊張したカラダ、境界線上での戦いに疲れ果てたカラダでは、不感症になって、しっかり感じることができなくなるんだ。
だから何よりもまず、今までカラダにためこんできた緊張を解放し、イマ、ココにどっしりと落ち着けるカラダになることが大切なんだよ」
人生の意味や価値とは、アタマで理解するものなんかではなく、カラダで感じることしかできないものだという老師の言葉に、僕は本当に驚かされました。
これまで、死にたくなるほど悩み考えても、その答えが得られなかったのは、知識や経験が足りないからではなく、とらえ方がまったく違っていたことに気づかされたのです。
『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではない。―
老師いわく
「『人間は何のために生まれてきたのか?
でそれは結局、アタマではわからない。
それなのに、アタマで理解しようとすることが間違いなんだよ。
たとえば『人間は何のために子育てするのか?』を考えてみるといい。
自分の子孫を残すため、老後の世話をしてもらうため、なんて身勝手な理由も思いつくかもしれないが、そんなことは、ほとんどの親にとって、どうだっていいことだ。
ただただ『幸せになってほしい』『かわいい』と思うのが親心だろう。
つまり、子育てにはアタマで理解できるような意味や価値がないのだよ。
だからこそ『幸せになってほしい』『かわいい』という親の思いは本物なんだ。
それでは、そもそも子育てには意味や価値なんて存在しないのか?
いや、そうではなく、それをアタマで理解しようとするから見失ってしまう。
遠くから母親を見つけた子どもが、顔いっぱいに笑顔を浮かべながら
『ママー!』と母親の胸に飛びこんでくるその瞬間、母親がカラダ全体で感じているものがある。
全身にこみあげてくる何かがある。
その何かこそ、子育ての意味や価値ではないだろうか。
すでに子育ての意味や価値をカラダは知っているのだよ。
それと同じように、人生の意味や価値というものもアタマで考えるものではなく、カラダで感じるものなんだよ。
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではないんだ。
カラダで感じることしかできないものなのだよ。
しかし、不安や心配で緊張したカラダ、境界線上での戦いに疲れ果てたカラダでは、不感症になって、しっかり感じることができなくなるんだ。
だから何よりもまず、今までカラダにためこんできた緊張を解放し、イマ、ココにどっしりと落ち着けるカラダになることが大切なんだよ」
人生の意味や価値とは、アタマで理解するものなんかではなく、カラダで感じることしかできないものだという老師の言葉に、僕は本当に驚かされました。
これまで、死にたくなるほど悩み考えても、その答えが得られなかったのは、知識や経験が足りないからではなく、とらえ方がまったく違っていたことに気づかされたのです。
『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体