受身の人生+あきらめ=主体的な人生
――イヤイヤならば受身の人生だろうが、そのイマに思い切って飛び込めば、受身の人生は主体的な人生へと逆転する。――
あるとき老師は、
「ワシらの面前で、次から次へと展開していくイマ、それはまさに、すでに放たれてしまった矢のようなものではないだろうか。
その矢に、不平、不満を言ってもしかたがない。
どうすることもできないんだ。
そうではなく、そのイマの真っ只中に身を入れる、飛び込むんだ。
どんなに受け入れがたいイマであっても、悲しくて虚しくなるようなイマであっても、そこに飛び込むんだ。
そうすれば、カラダの中心から、どんなイマ、ココであっても乗り越えさせる、摩訶不思議な働きが出てくるのだよ。
イヤイヤならば受身の人生だろうが、そのイマに思い切って飛び込めば、受身の人生は主体的な人生へと逆転するんだ。
そのときの気持ちは、何だかニヤニヤしてしまうような心地よいものだ。
お茶の掛け軸によく使われる言葉で「随所作主」(ずいしょさしゅ)という言葉があるが、それも、このことを言っているんだ。
どんなイマ、ココであっても、ブツブツ屁理屈言わず、その中に飛び込めば、自分が主人公となって楽しむことができる、という意味だよ」
と言われました。
それを聞いて僕が
「それには、何よりあきらめる勇気が大切なんですね。
それでも僕は、なかなかあきらめきれない、溺れるものはワラをもつかむタイプなんです。
そんな僕に本当にあきらめる勇気があるのかどうか・・・」
と言ったとき、老師はわずかに間を置いてから、こんなふうに話されたのです。
「あきらめてワラを手放せば、自然とカラダは浮くのだよ。
助かろう、助かろうとするから、ありのままの事実も見えなくなる。
これでは絶体絶命の大ピンチを切り抜けるアイデアも出るわけがない。
そもそも絶体絶命の大ピンチとは、自分ではどうすることもできないから絶体絶命の大ピンチなんだ。
おまけに、その自分は、つねに生きていくことの不安をもち、その不安から逃げるために作りだしてきた境界線で、がんじがらめとなっている。
それほど頼りにならない自分はないし、そんな自分が生きる人生は受け身の人生だよ。
でも、積極的にあきらめることができれば、そこから主体的な人生に変わるんだよ」
『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
あるとき老師は、
「ワシらの面前で、次から次へと展開していくイマ、それはまさに、すでに放たれてしまった矢のようなものではないだろうか。
その矢に、不平、不満を言ってもしかたがない。
どうすることもできないんだ。
そうではなく、そのイマの真っ只中に身を入れる、飛び込むんだ。
どんなに受け入れがたいイマであっても、悲しくて虚しくなるようなイマであっても、そこに飛び込むんだ。
そうすれば、カラダの中心から、どんなイマ、ココであっても乗り越えさせる、摩訶不思議な働きが出てくるのだよ。
イヤイヤならば受身の人生だろうが、そのイマに思い切って飛び込めば、受身の人生は主体的な人生へと逆転するんだ。
そのときの気持ちは、何だかニヤニヤしてしまうような心地よいものだ。
お茶の掛け軸によく使われる言葉で「随所作主」(ずいしょさしゅ)という言葉があるが、それも、このことを言っているんだ。
どんなイマ、ココであっても、ブツブツ屁理屈言わず、その中に飛び込めば、自分が主人公となって楽しむことができる、という意味だよ」
と言われました。
それを聞いて僕が
「それには、何よりあきらめる勇気が大切なんですね。
それでも僕は、なかなかあきらめきれない、溺れるものはワラをもつかむタイプなんです。
そんな僕に本当にあきらめる勇気があるのかどうか・・・」
と言ったとき、老師はわずかに間を置いてから、こんなふうに話されたのです。
「あきらめてワラを手放せば、自然とカラダは浮くのだよ。
助かろう、助かろうとするから、ありのままの事実も見えなくなる。
これでは絶体絶命の大ピンチを切り抜けるアイデアも出るわけがない。
そもそも絶体絶命の大ピンチとは、自分ではどうすることもできないから絶体絶命の大ピンチなんだ。
おまけに、その自分は、つねに生きていくことの不安をもち、その不安から逃げるために作りだしてきた境界線で、がんじがらめとなっている。
それほど頼りにならない自分はないし、そんな自分が生きる人生は受け身の人生だよ。
でも、積極的にあきらめることができれば、そこから主体的な人生に変わるんだよ」
『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体