あきらめることが逃げないこと
――自分から積極的にあきらめることは、真っ正面から不安に立ち向かうことなのだ。
もっとも勇気のいることなのだ。――
かんじんなことは何もわからないまま生きていく不安を抱え、そこから逃げるために境界線を作りだしてがんじがらめになっているのが僕らだとしたら、そんなにっちもさっちもいかない状況で、何か打つ手はあるのでしょうか?
僕らにできることは、もう何も残されてない気がしてきます、と言いますと
「いや、ひとつだけある。
それは、あきらめることだ。
自分から積極的にあきらめるということだ」
と老師は言われます。
そして、こんなやり取りが続きました。
「でも、あきらめるなんて弱い奴のすることじゃないんですか?
それこそ、まさに生きていくことの不安から逃げることなんじゃないですか?」
「いや違う!
あきらめることは逃げないことなのだ。
真正面から不安に立ち向かうことなのだ。
本当のあきらめは、もっとも勇気のいることなのだ。
君が言っているような無気力なあきらめではない。
この悲しくて虚しくなるような現実をしっかり受け入れて、それでもなお積極的に生きていこうという、気合の入ったあきらめだ。
いわば究極の開き直りだ」
「無気力なあきらめと積極的なあきらめ、その違いは何となくわかるのですが・・・。
それでは、なぜ、人は無気力なあきらめなんかをもってしまうのでしょうか?」
「それは、まだ本当にあきらめていないからだよ。
もし、夢や目標をもって生きている人間が、それらを打ち砕かれてしまったらどうなるだろうか?」
「僕のように、目の前が真っ暗になって『もう生きていてもしょうがない』って気分になってしまうでしょうね」
「そのとき、夢や目標は無気力なあきらめに変わってしまうのだよ。
それこそ、あきらめてない証拠なんだ。
自分の人生に意味があるのかわからない、自分が生まれてきた価値があるのかわからない・・・そんな不安から逃げるために、夢や目標を作りだしてまで生きていたいんだ。
それが、人間の生存本能を弱く、歪んだものに変えてしまうものだよ」
「だから、夢や目標が打ち砕かれただけで、すぐペチャンコになってしまうんですね」
そして最後に、老師はこうおっしゃいました。
「あきらめることとあきらめないこと、どちらが本当に勇気のいることだろうか?
夢や目標という価値を生きがいにして生きることは、そんなに尊いことなのだろうか?」
価値があるからするのではなく、価値があるかどうかわからない、たとえ、まったくのムダであってもしてしまう、そんなところにこそ本当の価値が出てくるのではないだろうか?
感謝に価値があるからするのではなく、価値があってもなくても、そんなことおかまいなく自然と出てくる思いや言葉が本物の感謝なのではないだろうか。
愛に価値があるなんていうから、奪ったり奪われたりということが起こる。
それでは、まるで愛が商品のようなものとなってしまう。
君の好きなミスチルの歌のように、気がつけばそこにあるようなものこそ、本物の愛といえるのではないだろうか?
遊びや趣味にワシらが真剣になれるのも、それ自体には目的がないからだ。
行為そのものを楽しんでいるだけなんだ。
そこでは目的と行為(手段)はひとつになっているんだよ。
だからイマ、ココを離れることもない。
夢中で遊ぶ子どもたちが、食べることも寝ることも忘れて遊ぶほどのバイタリティーにあふれでいるのもそのためだ。
こう考えると、ワシらが何もわからないまま生きているのは、じつは、不安に思うようなことではなく、本当は素晴らしいことではないかな。
もし人生に決められた価値や目的のようなものがあれば、ワシらはただのロボットになってしまう。
何もわからないからこそ本当の価値が出てくるのだし、自分らしい人生を生きることができるんだ」
『願わなければ叶う5つの真実』 (有野真麻(ありのまあさ) 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
もっとも勇気のいることなのだ。――
かんじんなことは何もわからないまま生きていく不安を抱え、そこから逃げるために境界線を作りだしてがんじがらめになっているのが僕らだとしたら、そんなにっちもさっちもいかない状況で、何か打つ手はあるのでしょうか?
僕らにできることは、もう何も残されてない気がしてきます、と言いますと
「いや、ひとつだけある。
それは、あきらめることだ。
自分から積極的にあきらめるということだ」
と老師は言われます。
そして、こんなやり取りが続きました。
「でも、あきらめるなんて弱い奴のすることじゃないんですか?
それこそ、まさに生きていくことの不安から逃げることなんじゃないですか?」
「いや違う!
あきらめることは逃げないことなのだ。
真正面から不安に立ち向かうことなのだ。
本当のあきらめは、もっとも勇気のいることなのだ。
君が言っているような無気力なあきらめではない。
この悲しくて虚しくなるような現実をしっかり受け入れて、それでもなお積極的に生きていこうという、気合の入ったあきらめだ。
いわば究極の開き直りだ」
「無気力なあきらめと積極的なあきらめ、その違いは何となくわかるのですが・・・。
それでは、なぜ、人は無気力なあきらめなんかをもってしまうのでしょうか?」
「それは、まだ本当にあきらめていないからだよ。
もし、夢や目標をもって生きている人間が、それらを打ち砕かれてしまったらどうなるだろうか?」
「僕のように、目の前が真っ暗になって『もう生きていてもしょうがない』って気分になってしまうでしょうね」
「そのとき、夢や目標は無気力なあきらめに変わってしまうのだよ。
それこそ、あきらめてない証拠なんだ。
自分の人生に意味があるのかわからない、自分が生まれてきた価値があるのかわからない・・・そんな不安から逃げるために、夢や目標を作りだしてまで生きていたいんだ。
それが、人間の生存本能を弱く、歪んだものに変えてしまうものだよ」
「だから、夢や目標が打ち砕かれただけで、すぐペチャンコになってしまうんですね」
そして最後に、老師はこうおっしゃいました。
「あきらめることとあきらめないこと、どちらが本当に勇気のいることだろうか?
夢や目標という価値を生きがいにして生きることは、そんなに尊いことなのだろうか?」
価値があるからするのではなく、価値があるかどうかわからない、たとえ、まったくのムダであってもしてしまう、そんなところにこそ本当の価値が出てくるのではないだろうか?
感謝に価値があるからするのではなく、価値があってもなくても、そんなことおかまいなく自然と出てくる思いや言葉が本物の感謝なのではないだろうか。
愛に価値があるなんていうから、奪ったり奪われたりということが起こる。
それでは、まるで愛が商品のようなものとなってしまう。
君の好きなミスチルの歌のように、気がつけばそこにあるようなものこそ、本物の愛といえるのではないだろうか?
遊びや趣味にワシらが真剣になれるのも、それ自体には目的がないからだ。
行為そのものを楽しんでいるだけなんだ。
そこでは目的と行為(手段)はひとつになっているんだよ。
だからイマ、ココを離れることもない。
夢中で遊ぶ子どもたちが、食べることも寝ることも忘れて遊ぶほどのバイタリティーにあふれでいるのもそのためだ。
こう考えると、ワシらが何もわからないまま生きているのは、じつは、不安に思うようなことではなく、本当は素晴らしいことではないかな。
もし人生に決められた価値や目的のようなものがあれば、ワシらはただのロボットになってしまう。
何もわからないからこそ本当の価値が出てくるのだし、自分らしい人生を生きることができるんだ」
『願わなければ叶う5つの真実』 (有野真麻(ありのまあさ) 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体