fc2ブログ

瞬間に生きる

この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。

         バーソロミュー

―――――

瞬間に生きる

質問:
一見矛盾したふたつの考え方について、コメントしてくださいませんか。
「グル(導師)につくのは役に立つ」というものと、「自分のパワーを他人にわたしてはいけない」というものです。

これは当然出てくる質問ですね。
私は、自分の覚醒を助けてくれるような高度なパワーの必要を説いて、同時に、自分のパワーを人にわたしてはいけないとも言いました。
では、これらのふたつはお互いにどのように関係しているのでしょうか。

まず、「パワー」という言葉が何を意味するのかをはっきりさせましょう。
私が言っている意味は、強さや広がりを持った内なる感覚のことで、これは物質界では、他人に害を与えず、その人を最大限に生かす行動として現れます。
わかっておいていただきたいのは、この地球界での本物の、グルや師についている人からは、そんな質問は決して出ないだろうということです。

グルはあなたから何かを奪おう、などという気は全くないからです。
実際、グルは自分自身のすべてを、あなたと分けあいたいと思っています。
グルは、あなたに何かを与えたいというエゴの欲求もなければ、あなたから何かを奪いたいというエゴの欲求も全くない状態にいます。

他人に自分のパワーを与えないように、と私が言うときには、特定の状況をさして言っています。
あなたの師やグルが何らかの形であなたに何かを求めたり、日常的な小さな問題までを含むすぺてを、相談に来るようにと要求するようであれば、そのような関係はもう一度見直すべきだと言っているのです。

そのやり方は、自分は弱くて、問題を自分で処理できないという気にあなたをさせるだけです。
ところが実際は、その反対こそが真実です。
あなたは自分の問題を完全に処理できるし、そうできないと思うのは全くの錯覚です。
それこそが私が打ちやぶろうとしている幻影です。

ですから、師やグルやマスターについている人は、自分の関係をよく観察してください。
グルはあなたの日常生活上の質問などは、あなたにつき返してくるはずです。
本質的な問題は常に、「どうしたら目覚めることができるか」です。
それ以外は重要ではありません。

小さな問題に関する質問を師にするということは、その問題に重要性を与えることであり、それに答えることによって、師のほうも、その問題が重要であると同意していることになります。
これは、あなたを強めるどころか弱めてしまいます。
真の師は、あなたの幻影を打ち砕きたいと思うはずです。
あなたの幻影の世界のぐらついている橋を支えたりはしません。
狭い小さな質問に答えることは、そのような問題が重要だというあなたの考えを強化することになります。

本物の師は、あなたが自分の本当の姿に目覚めることだけを望みます。
自分が想像できる最高の意識に自分のすべてをゆだねることは、自分のパワーを捨てることではありません。
なぜなら、自分のすべてをゆだねるというのは、自分のパワーと「相手」のパワーとが混ざり合うことだからです。
本当は、別々に見えるこれらのパワーは常につながっているのです。

あらゆる神なるエネルギーは、すべてをゆだねる行為などがなくとも、はじめからひとつに結びついているのです。
私のつとめは、あなた方がこの真理に気づいて、それを活用できるようにすることです。
ですから、私が「自分をゆだねる」と言うときには、それは自分のパワーを誰かに手わたすことではなく、パワーを合わせるということなのです。
そうすると、自分が弱くなるのではなく、反対に自分のなかに、はかりしれないほどのパワーがみなぎってくるのが感じられます。
人が真の神なるエネルギーに触れた場合は、パワーが、ドーッとあふれでくることでわかります。

ここでいうパワーは、人を傲慢にするものではありません。
このパワーは、人の存在のなかをめぐり、気分を高揚させるものです。
それは大胆で、勇気に満ちたもので、「これていいのだ」と常に思える気持ちです。
これこそが、「神なる源」とつながっているあかしです。
自分は取るに足らない弱い人間だと感じているとしたら、その人がしていることは何であれ、「自分のすべてをゆだねる」ことではありません。
わかっていただけたでしょうか。
これは非常に大切な点です。

グルや師が、あなたを無力で非力な存在と感じさせているとしたら、その関係を見直してください。
地球界の師であれ、ほかの次元の師であれ、自分の師との関係を分析するのは弟子の責任です。
さらに、師との関係がどのように進展しているかに注意をはらうのも、弟子の責任です。
師との関係が、日常生活の細々したことや、精神生活のささいな点にまで指示をあおぐような関係になりつつあるとしたら、その師に対して疑問を抱くべきです。

それに反して、自分自身の内なる力を身につけるよう仕向けられ、覚醒とは何かを自分で発見するために自分自身に向かうよう仕向けられているのでしたら、その人は真の師のバイブレーションのなかにいると言えます。
自分自身を助けることを学んでいくと、あなたは自分が「非現実」を脱ぎ捨てつつあることを感じ、自分のなかの多くのものが生まれ変わり、新たな世界の前に立ち、新たな気づきを経験していることを知ります。

質問:
「ものにとらわれないこと」と、「すべてをゆだねること」とのちがいを説明してくださいませんか。

究極的には、どちらの道をあゆんでも、行きつくところは同じで、「ものにとらわれないこと」と、「すべてをゆだねること」は、はじめから大きなちがいはなかったことがわかります。
ちがいはむしろ、ものにとらわれないようにしようとか、すべてをゆだねようとしている人の性質のちがいにあります。
人によってどういう面が強いかというちがいがありますから、ある人にとっては、ものにとらわれないということが最も重要な点になるし、ほかの人にとっては自分を投げだし、ゆだねることがキーポイントになります。

愛というものが最も大事だと感じる人は、すべてをゆだねるという観点から話すでしょう。
ゆだねるというのは、何かに対してゆだねるのですから、そういう人は、自分の成長段階にしたがって、その時点で最もパワフルと思えるものに自分のすべてをゆだねます。
こういう人にとっては、グルやさま、ざまなアバター(神の化身)が最も役に立ちます。
グルやアバターには全く魅力を感じないという人は、「神」に自分をゆだねるということもできます。

しかし、忘れてはならないのは、このようなグルやアバターたちの基盤となっているものは「唯一存在するのは「大いなる一」である」という真理であり、これは体験することの可能な真理だということです。

もうひとつの方法は、ものにこだわらないという道です。
これは、いわゆるインテリと言われるタイプの人に適した方法です。
すべてをゆだねる方法では、「大いなる自由」へ向けて突きすすむときに使われるのは、その人の感情体(人間のなかで、感情を感じる部分)です。
ものにこだわらない方法で使われるのは、その人の精神体(人間のなかで、思考を扱う部分)です。
自分の感情に関心があり、感情にもとづいて行動しがちな人もいれば、どちらかというと知的判断にもとづいて行動する人もいます。

ものにこだわらないときには、人は自分の精神と感情が異なる役割を演じる様子を観察できます。
そして、それをつづけていくと、自分がこの地球界で演じる役割と、自分の本質とはちがうのだということが理解できるようになります。
ものにこだわらない態度を常にとるには、自分自身を観察しなければならないし、しかも、批判的にそれをしなければなりません。
ここでいう批判的にというのは、自分自身のなかで起きていることの何を自分は観察しているのかを明確に意識し、正直にごまかさずに観察するという意味です。
自分自身をほめあげたり、または、こきおろしたりせず、その状況の真実のみを見ることです。

そうすると多くの状況のなかで、あなたがどういう立場にあるかを、自分のまわりの人が知らせてくれることに気づくでしょう。
ほかの人があなたに言うことを注意して聴き、それに対する自分の反応を観察してごらんなさい。
自分のバランスがとれていない面が、はっきりとわかります。
これに対しては別に思い悩む必要はありません。
素直に自分の存在の内側を見つめ、自分の今の状況を理解し、大げさに喜んだり、心配したりすることなく、ただアンバランスな面をまっすぐにすればいいのです。

自分を一日だけ、批判的に観察すれば、どのようにすればいいかがわかります。
何もむずかしいことではありません。
細かく注意をはらいつつ、自分が学んだことを実行してください。

自分の知的機能を使いすぎていると感じたら、意識的にそれをやめ、それ以外のものを使うようにしてください。
自分の内部に入り、問題を感じるようにしてください。
いつも感情で動いている人は、感情的反応をわきにおいて、理性的機能を使って問題を処理してください。

ものにこだわらないという方法をとる場合、常に忘れてはならないのは、「愛」は絶対的になくてはならないものだということです。
そして、自分の心をあけわたすという方法を選んだ人は、理性という機能を常にたずさえておく必要を知っておいてください。
バランスを保つためには、愛と理性のふたつが一緒になくてはなりません。
そして、バランスと調和を保ちながら求道をつづけていくと、たゆまず、確実に覚醒への道が聞けてきます。

質問:
なぜバランスを保つことが大切なのですか。

エネルギーのアンバランスは人を苦しめつづけるので、ほとんどの人間が、エネルギーのバランスを取り戻すために転生をくり返します。
感情や精神や肉体上のアンバランスが頭をもたげ、人を混乱させ、単純な問題もその本質を見えなくします。

大きな愛の心を持つ人でも、すぐにしょげかえったり、怒りっぽかったりすることもあります。
このような人は、こういったエネルギーを「静める」ために、知性に根ざす論理的機能をもっと使うことが役に立つでしょう。

その反対に、多くのインテリと言われる人は知的活動に片寄っていて、直感的機能がおとろえています。そのような人は自分のなかの感情的側面に接して、バランスを取り戻す必要があります。

大きなアンバランスの問題がないときのほうが、「大いなる自由」へ向けて確実な前進をしやすくなります。
ほとんどいつも知的機能または感情的機能のどちらか一方だけを使い、もうひとつの機能をおろそかにしている場合、その人はバランスが欠けていると言えます。
現代ではこのようなアンバランスがむしろ助長されています。
男性は知的性格をもっており、女性は感情的性格を持っていると広く信じられているからです。
このような信念体系は、人がひとつの面から他の面へと自由に移行するのをさまたげます。

よくバランスのとれた人とは、これらの両方の側面を自由に使い、人の心がよくわかり、深い愛情をもって人を愛することができ、しかも、感情や知性におぼれることがない人のことです。

質問:
どうすれば、ものにとらわれないようになれますか。

今日の地球の生活でよく見られる状況を例にとってみましょう。
交通ラッシュのなかで車を運転するというのはどうでしょう。
一日中働いたあとで家路につきます。
まわりは車でいっぱいです。
とても疲れていますが、道路が混雑しているので、家につくまで長時間かかるだろうということが予想されます。
すると突然、あなたの前の車がひどい運転をしはじめました。(ひどいというのは、こうあるべきとあなたが考えるやり方以外のすべてです)
このときこそ、ものにとらわれないことを学ぶチャンスです!

あなたはまず怒りの感情がわき起こってくるのを感じます。
あなたの肉体のなかには、はっきりとした怒りの動きがあります。
このプロセスの最初の段階では、怒りが最初に起こるのを防ぐことはできないでしょう。
それでもけっこうです。

しかし、その次にあなたがすることがとても大切になります。
怒りを感じた瞬間に、「これは怒りだ」と言うのです。
心のなかでその感情に名前をつけるのです。
「これは怒りだ」というように。

自分のなかではっきりさせなくてはならないのは、怒りというものが存在し、その怒りの状態にいる誰かが存在しているということです。
「私は怒っている」と言ってはいけません。
それでは、自分と怒りがひとつになってしまうからです。
「これは怒りだ」と言えば、存在はふたつあることになります。

次のステップは、自分が起こす反応を選択することです。
このような場合にも自分で選択することができる、ということがやがてわかります。
このことが、ものにとらわれない境地へと導いてくれます。

もしあなたの反応が、自分でコントロールできないようなエネルギーであったなら、自分の反応を選択することは全くできないでしょう。
あなたはそれにコントロールされ、どんな感情でも、そのときあなたの体のなかを流れる感情を、無意識に受け入れるだけになってしまいます。
けれども、自分と感情とは一体ではない、ということがすぐわかるようになります。
そして、ここで、あなたは選択するのです。
これまでと同じような怒りの劇を自分はまたくり返したいのだろうか、と自問してください。
それがどんな筋書きかはもうわかっています。
相手の車をやりこめようとして、クラクションを鳴らし、げんこつを振り回し、怒鳴ります。
これらはすべて筋書きのなかにあります。
仕返しをしようとします。
ときには復讐をするために、自分自身や自分の車を痛めることさえあります。

やがて、相手に怒るかどうかは関係ないのだ、問題の本質はそこにはないのだ、ということがわかるようになります。

「大いなる自由」を求めるのでしたら、自分のパワーは、選択することにあるということを理解しなくてはなりません。

それを理解した瞬間、あなたはほかの反応を選ぶことができます。

自分のなかで、エネルギーがわき上がってくるのに気づいてください。
そのエネルギーの存在を認め、その感情に名前をつけてください。
名前をつけることを通して、それから自由になれます。
というのは、それによって、すでに反応を自分から一歩離れたところにおくからです。

それから、その反応を変えたいと思わなければなりません。
そうすればできます。
まず、「たった今、私はちがうものを選ぶのだ」と言うことから始めます。
そして、選ぶのです。

こだわらないことを実行するのはむずかしくありません。
むずかしいのは、むしろ、ものにこだわらないようになりたいと決心することです。
なぜなら、自分に正直であれば、自分が攻撃されたときには、仕返しをしたくなるということを認めざるを得ないからです。
恨みを抱き、自分にされた仕打ちをいかにして相手に返すかと、あれこれ考えます。
誰もあなたを止める者はいないでしょうから、どうぞ思いのままに攻撃してごらんなさい。

けれども、そうやっていくと、結局傷つくのは自分であるということがわかるし、そんな生き方はとてもつまらない生き方だと気づきます。
怒りや復讐よりも、自分で選択するやり方のほうがずっと生き生きした生き方だということがわかります。

あなたは神の共同創造者なのですから、どうせなら、生き生きとした喜びにあふれ、永遠性を持つやり方で、神とともに創造する仕事を始めたほうがましです。
そして、敵対心に満ちた、ネガティブで他人を無力にするようなやり方は、やめたほうがよくはありませんか。

そのためには、完全に自己の内部にいることです。
その瞬間に起こっていることを、明確に意識することです。
車を運転しているときは、ハンドルにある自分の手、アクセルをふむ自分の足、自分の頭のまわりを吹く風の感覚、空気のにおいなどを意識することです。
これらのすべてを敏感に感じていなければなりません。
怒りや恨みがわき起こってきたときに、あなたがそこにちゃんといることができるようにです。
そうすれば、上司にこう言えばよかった、などという夢想から現実に戻ってくる必要もなくなります。
瞬間的に自分の感情を感じて、認めることができるので、それを変えるチャンスに恵まれます。
したがって、昔ながらの反応から自由になることもできます。

しかし、あなたの意識がそこになかったら、それが非常にむずかしくなります。
感情とそれに対する自分の反応はあっという間にやってくるので、つい以前どおりのやり方で反応してしまいます。
これらはすべて、あっという間に起こります。
ですから、あなたは一瞬にして自由になることもできるし、一瞬にしてとらわれることもできるのです。

そこで、自由になるチャンスを得るには、あなたの意識がどの瞬間においても、今自分のいるところにおかれていなければならないのです。

質問:
どうすれば、物や欲望などに対する執着から自由になれるでしょうか。

とてもよい質問ですね。
自分が持っている執着のうち、まず最も執着しているもの、最もはっきりしているものから始めてください。
それが何かわかったら、次に、なぜそれから自由になりたいのか自分に聞くのです。
欲望が何であれ、それから自由になることが自分にとって大事であり必要なのだ、とあなたが信じることが不可欠です。
人や物や主義などに執着することに何らかの価値を見いだしている限り、それから自由になりたいとは思わないはずです。
自分自身と戦うことはできません。
自分がまだ執着していたいものから、自分を引き離すことはできません。
そこで、まず最初に、自分が何かに執着しているという事実に直面することです。

強く執着しているものを選んでください。
夫や妻だったり、お金だったり、権力やセックス、または酒や麻薬などかもしれません。
いろんな可能性があります。
そこで、それらに執着することによって自分が得ているものは何か、リストを作ってください。
この執着しているものがなくなったら、どうなると思いますか。

たとえば、愛情関係をとってみましょう。
誰かに非常に強く執着していることはよい生き方だ、という錯覚を人々は抱いています。
それがよいことかどうかは、どんなふうにあなたが相手に執着しているかによります。
愛情にもとづいて執着しているのと、怖れにもとづいて執着しているのとではちがいます。
多くの愛情関係が、怖れ、相手を失う怖れに根ざしています。

自分の相手があなたの人生から去っていったらどうなるか、自分に聞いてごらんなさい。
こういう角度から自分の関係を見てみると、自分と相手との関係が、自分にとってどういう意味を持っているのか理解できます。
この相手がいなくなったら、あなたはもう愛されるに値しないのでしょうか。
あなたを愛してくれる人は、もう現れないのでしょうか。
あなたはひとりぼっちになるのでしょうか。

自分が非常に強い執着を持っていた相手を失った人は、自分はもう誰からも愛されない、という思いに打ちひしがれます。
そういう人は、自分の価値が何かという判断を他人の手にゆだねてしまったのです。
これはとても愚かなことですし、とても非現実的なことです。

自分の愛情関係を見て、自分がそれにいかに執着しているかがわかると、自分を非力なものにする関係に、自分を巻きこんでしまったことに気づきます。
そうすると、その関係が自分の人生のプラスではなく、マイナスの面であることが見えてきます。
そこで、その関係から自由になりたいという自分の気持ちに、全エネルギーをそそぐことができます。
執着から自由になって、無限の愛にもとづいた人生をあゆみつづけてください。
そのほうが、ずっと大きな満足感が得られます。
愛情関係はつづけても、所有欲は捨て去ってください。

今度は、物に執着している人、そうですね、車に執着している人について話しましょう。
こういうタイプの執着は、たいした問題ではないように思えるかもしれませんが、そうでもない場合があります。
その車とか物とかが、その人にとってどんな意味があるかによるのです。
非常に強い物質欲にとらわれている人にとっては、車は、自分の所有物に照らし合わせて、自分の価値を判断するということを意味します。
これがその人の価値の基準なのです。
執着しているものが車であろうと、人間であろうと問題ではありません。
自分以外のものに執着していると、それがなくなったら自分の価値は減ると感じます。

自分の執着が見えたからといって、自分の愛情関係から抜けだしたり、自分の所有物を全部売ったりしなさい、ということではありません。
するべきことは、その執着の後ろに空虚感、疎外感、空しさがあることを認めることです。
そのような空しさを埋めようとして、人や物にしがみつくのは、健康で自由な生き方ではありません。
このことを理解すると、ものにこだわらない境地への一歩をあゆみはじめたことになります。
自分の執着を捨てる必要を理解するのがその第一歩です。

現在あなたは、自分自身の最も深いところから来る真の望み、「大いなる自由」を得るという望みにそった生き方をしています。
海辺で砂の橋を作る子供のように、孤立の幻影を築きつづけるのもけっこうです。
それも楽しいでしょう。
しかし、あまり深刻にとらないことです。
自分の執着のすべてを見る場合、深刻にとらないというのはよいやり方です。
つまり、楽しいし、役に立つけれども、あまり深刻にとるべきではないということです。
ほかのすべてを忘れるほど、自分の愛情関係を深刻に考えないことです。
自分の所有物にあまりに大きな価値をおいて、それを失うことも考えられないほど、夢中になるべきではありません。

これらの物が、あなたの人生に自然に入ってきたり、出ていったりするのにまかせなさい。
そして、喜んで興味をもってそれらの動きに自分も参加するのです。
ものにこだわらなくなる必要が理解できると、あなたの意思は、「神なる意思」とむすばれたことになり、このプロセスはずっとやりやすくなります。

次のステップは、最も強力な道具として「気づき」を使うことです。
気づきは自分の本質を思いださせてくれます。
ものにこだわらないのも、それを思いだす方法のひとつであるし、すべてをゆだねるのも、思いだす方法のひとつです。
これらは、あなたが自分の真の姿でないものの幻影から、自分を解放することができるように、あなたに自分の本質を思いださせてくれる方法です。

物に対してそれを所有するに値すると考え、特定の人に対して関係を持つに値すると思い、人や物が自分の最大のエネルギーを使うに値すると信じている限り、こだわりを捨てることは決してできません。

人が最も望むことが現実となるのですから、「大いなる自由」を得たいという深い望みを自覚するまでは、「自分と神、自分とまわりの世界とは、切り離された別のものである」というエゴが創りだした世界観に、したがいつづけることになるでしょう。
ある人との関係がほかの人との関係より大事だというのは、すべては「大いなる一」であることを否定することです。

エゴは特別の愛情関係を生みだして、「あなたは他人とはつながっておらず、したがって特別である」と思わせようとします。
けれども事実は、あなた方はすべて同じなのです。
今までもずっとそうだったし、これからもずっとそうです。
最も高貴な人から最も堕落した人まで、すべての人は同じです。
そして、あなた方のあいだのちょっとしたちがいなどは幻影にすぎず、自分を自分でしばるために維持しているものです。
そんなものはさっさと忘れてしまってください。
無意味なものです。
そんなものは、無のなかに落としてしまってください。
どうせ無から生まれたものです。

今この瞬間にこそ、「大いなる一」の完全性が存在することを、かたく信じてください。
この完全性に触れることができるのは、今においてほかはありません。

質問:
欲望を取り除く週程は、基本的に自分の欲望に注意をはらうことにあるように思えます。
注意をはらうことは「ものにこだわらないこと」や「すべてをゆだねること」になりますか。

質問のなかに答えがあります。
人が注意をはらえるのは今この瞬間だけです。
実に単純なことです。
一瞬一瞬に意識があるときは、あなただけがそこにいて、それ以外のすべては存在しません。
そうした瞬間には、自分とまわりの世界が切り離されていると感じることはできません。
そこにあるのは、あなたと、あなたのまわりのものと、あなたのなかにあるものだけです。

注意をはらっていれば、それが何かはっきりとわかります。
ですから、やはり「注意」がキーポイントです。
それでは、すべてをゆだねるというのは、注意をはらうという観点からどう考えたらいいのでしょうか。
何に自分をゆだねているのかが焦点となります。
その瞬間にあなたが身をゆだねるのは「大いなる唯一神」です。
身をゆだねるというのは、一度やってもう忘れてしまうというものではありません。
すべてをゆだねるというのは、その人の「あり方」の問題であり、毎瞬、毎瞬、広大無辺なものにつながっているということです。
そして、「広大無辺なもの」につながるためには、「広大無辺なもの」の存在するところにいなくてはなりません。

それはどこだと思いますか。
それはここです。
「未来」とか「過去」などというものは存在しないのですから、ここしかありません。
「広大無辺なもの」に参画するには、ここにいなければならないのです。

人が、他人や出来事や自分の感情などをコントロールしようとするときには、過去の出来事や未来に対する願いに動機づけられています。
コントロールしようとしないでください。
あるがままにさせておくのです。
あるがままにさせることによって、その瞬間における心の平安や知恵や「大いなる自由」がやってきます。
今あなたの前にあるものこそが、あなたが本当に知ることのできる唯一のものだからです。
生があり、死があり、生と死のあいだのすべてのものがそこにあります。
「大いなる全体」のすべては、瞬間の連続にすぎません。
そして、それがすべてです。


『バーソロミュー
  ―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
    (バーソロミュー 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR