マスターであること
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
バーソロミュー
―――――
マスターであること
復活祭の時期にちなんで、マスターについてお話しだいと思います。
マスターとは真の「神の人」をさします。
イエス・キリストもマスターであり、釈迦牟尼もマスターでした。
そのほか歴史上の偉大な師の多くがそうでした。
マスターという言葉は、それ自体がマスターになる必要条件を表しています。
マスターになるには、まず、自分自身の人生のマスターにならなくてはなりません。
人は、意識の深いレベルで、自分が「大いなる神」の休むことなき創造過程の一部であることを自覚しており、同時に、自分がまだ見ていない心理構造の部分があることも知っています。
それは、表層意識のレベルでは、怖れの部分として意識されています。
人々がそういう部分を怖れるのは、見ようとしないがゆえに、その部分のエネルギーをまだマスターしていないからです。
ですから、マスターになるというのは、技術を修得するという意味ではなく、気づくという意味です。
恋愛関係で怖れを抱いている人がいるとします。
もしも恋愛に失敗すると、自分は孤独になり、寂しくて落ちこんでしまうにちがいないと信じているために、その人は異性との交際を始めるのを怖れます。
これは自分で意識できる怖れです。
するとここで、
「私は今、怖れを感じている。
この部分をマスターしていないということがわかった」
と自分に言うことができます。
そこで、次のステップは、自分が怖れているものをマスターすることです。
ところが、残念なことに、ほとんどの人はそうしません。
たいていの人はむしろ現状維持を望み、意識の深海を探っておぼれるより、小さな池の水面(の意識)にとどまるほうが安全だと思います。
それがうまくいかなければ、また別の方法を考えます。
けれども、ほかの解決法を求めるたびに、怖れの度合いは深まっていきます。
つまり、「失敗」がたびかさなっていくわけで、こうして失敗のパターンが作られていきます。
では、どうすればいいのでしょうか。
真の求道者は、なぜ自分が怖れているのかを何とか理解しようとします。
自分の魂の歴史が記録されているアカシック録は、誰でも見ることができるのです。
それは、内省をすることによって、自分の怖れや悩みの原因となった、現世または過去世での重要な出来事を思いだすという形になって現れます。
これは、誰かのところに行ってはじめて知ることができる、というたぐいの情報ではありません。
あなたのまわりにいつもある情報なのです。
それなのに、表層意識はその情報を「単なる想像にすぎない」と否定します。
つまり、ここで自己に対する疑いが生まれ、人はそれを受け入れます。
真のマスターは、自分の怖れを見たい、怖れから自分を解放したいという強い欲求があるので、そのような疑いに対してノーと言います。
マスターは、自分を解放するためならば、どんな方法でも使います。
そのひとつは内観することです。
そうすることによって、自分の怖れのまわりに起こるイメージや感覚をつかみ取ることができ、その怖れのさまざまな面に気づくようになります。
怖れのもたらす感覚が全体的にはっきりと示され、自分の怖れがどんな顔をしているか、一点の疑いもなく知ることができるようになります。
それがわかれば、「何も怖れない」という心境に達することができます。
ここで、自分の怖れを克服する方法をひとつお勧めしたいと思います。
怖れを感じたら、まず何よりも最初に自問すべきことは、
「この怖れはどんな感じがするか」
ということです。
怖れには、感覚や音質というものがあります。
この感覚が、体のどこかの部分を通してその人をつかみます。
その感覚には非常に強い存在感があります。
そのとき、人は頭でその感覚をとらえ、それについて語りそれから逃れようとします。
けれども誰もその感覚とただ一緒にいることはしません。
その感覚とともにいるとそこではじめて怖れが自分をすべて包みこんではいない、という事実を発見できるのです。
怖れはたしかに存在するし、それはわかっているのですが、
同時に、怖れに巻きこまれていない自分のほかの部分もたくさんあることに気づきます。
このことを自分の体験として知ると、自分の怖れを理解できるまで怖れと一緒にいる勇気が出てきます。
自分を怖れそのものだと感じたり、恐怖に打ちのめされて、自分にはそれ以外には何もないと考える、
そんな人生は耐えがたいものですから、そうした怖れから逃げださざるをえません。
しかし、怖れがあっても、自分のなかには、はかりしれない大きなパワーやバランスや安定、思いやり、ユーモアもあるということが体験のなかからわかっていれば、話はちがってきます。
指はケガしたけれど体のほかの部分は大丈夫だ、というようなものです。
指が痛いからといって崖から飛び降りるなどという極端な解決法は誰も選ばないでしょう?
体のほかの部分は健康なのですから、そこから勇気と自信を引きだすことができます。
人が怖れに打ちのめされてしまうのは、怖れは自分のほんの一部にしかすぎないという事実を理解していないからです。
自分は怖れの何倍もの大きさの存在であるということを体験として知りそれに気づきさえすれば、自分のまわりにある叡智が機能しはじめます。
恐怖のまっただなかにいるときには、物事をはっきりとは考えられません。
とにかく、逃げることしか考えられないのです。
けれども、困ったことに、怖れは逃げる方法を知りません。
それを知っているのはマスターです。
そこで、自分の小さな部分である問題を解決するために、残りの自分に力を貸してくれるように頼み、そのまま静かにして、怖れとともにいます。
そうすると、どうしたらいいか、その答えに気づくのです。
これを信じられないのは、やってみないからです。
これは生き方の問題です。
マスターするというのは、生き方のことなのです。
一週間に一時間だけマスターになることはできません。
マスターになるには、常にそうでなければなりません。
つまり、どんなに小さな怖れであろうと(小さなものから始めるほうがいいのです)怖れを感じるたびに、その怖れに対処するのです。
表面に出てくる怖れは氷山の一角で、その下にはまだ見えない怖れがたくさん隠れています。
たとえ小さな怖れであれ、それを見つめていくと、自分にとって怖れとはいったい何なのか、ということがわかってきます。
人によってそれは少しずつちがいます。
どんな怖れの部分も取り逃がしたり、見すごしたりしないでください。
こうして、人はマスターの域に達します。
疑問が起こるたびに、自分のまわりにある「大いなる叡知」を呼び起こしてください。
そうすれば、すべてがうまくいくようになります。
多くの人は、ストレスの多い状況を、わざわざ自分から選んで創りだしています。
それは、マスターになりたい人には最も賢明な方策です。
非常に快適で安全な人生を送っている人は、自分をかり立てる内面の衝動にしたがう勇気がなかったから、困難な状況におちいらなくてすんだ、という可能性もあります。
人生に何の問題もなく、うまくいっているのは、その人が完全に悟りを開いているからではなく、人生のチェスゲームの駒がすべて思い通りの場所に配置され、何の乱れもないからだけかもしれません。
しかし、いずれゲームの駒は動かさなければなりません。
自分でそうしなければ、自分の奥深くにある「大いなる自己」がその人のために駒を動かします。
いつまでも現状維持できるわけではありません。
「大いなる自己」は、未解決の問題に対処するように、その人を仕向けるには何が必要かを知っています。
自分の人生がすばらしいからといって、自己満足しないように、心しなければなりません。
自己満足していると、「奥深き自己」は、ゲーム板の上に嵐を巻き起こし、駒をゆり動かし倒すこともあります。
おめでとう!
これで、あなたにも問題が起きました。
自分が次になすべき行動を知るのに、チェスの駒が風に吹き飛ばされるのを待つ必要はありません。
あなたにはわかっています。
人間関係かもしれないし、仕事に関してかもしれません。
そのほか、いろいろな可能性があります。
本人にはそれが何かわかっています。
怖れから、そして、ただすわってテレビを見ているほうがずっと楽だから、人は次の行動をとろうとしないだけです。
しかし、自分の人生を動かしつづけていくためには、次のステップがいるのです。
人間は、ただロボットのように、幸せなだけの人生を生きるようには創られませんでした。
人生の目的は、動きつづけながら、「自己」の奥へ奥へと入っていくことにあります。
マスターというのは、自分の心理構造のすべての局面に入りこみ、すべてを発見し、何事からも目をそむけない人です。
見た目がどんなにひどく、いやなものでも、自分のなかから現れたものすべてを受け入れる人です。
すべてを心から受け入れる人です。
自分の人生がうまくいっていないことをはっきり知っているにもかかわらず、自分の人間関係が退屈で、つまらないもので、自分のまわりの人間が退屈で、つまらない人たちであることを認めようとしない人がいます。
あなたもそのひとりでしょうか。
こういう人たちの人生は変化のないよどんだ人生です。
朝、「やれやれ、また今日も同じことのくり返しか」と、イヤイヤ起きるような人は、人生がゆきづまっていることに気づいてください。
人生がゆきづまるのは、五歳でも八十五歳でも、その中間の何歳でも起きます。
あなたが肉体を離れるときまで、人生の車輪は止まりません。
それは最後までつづきます。
感情を感じられないのはいつも、ゆきづまっているときです。
しかし、変化が必要だからといって、自分の今の家やアパートを捨てて、引っ越ししなさい、と言っているのではありません。
ただ、何かを怖れて新しい動きをためらわせているのは何か、動きが鈍っているのはどの部分か、と自分に問いかけるべきだと思います。
このまますすむと問題が起きる、と怖れて立ち止まったのはどの部分ですか。
自分でよく見てみると、それがどこかわかります。
いったんそれがわかったら、今度は、その怖れを手放すことができなくなりますから、怖れに対処する気がなければ、はじめから見ないことです。
いったんその怖れに気づくと、それから逃れられません。
自分の表層意識と無意識の両方をだますことはできないので、気づいていながら、そうではないふりはできません。
したがって、何らかの行動をとらざるをえなくなり、人生に変化が起きはじめます。
私は、マスターへの道をあゆむのは、いわゆる人生の悩みを通してだということを知っているので、あなた方に悩みがあっても、何の心配もしません。
人には隠された怖れの部分があり、それを見つける必要があります。
それは、怖れから逃げだすことによってではなく、正面きって立ち向かうことによって可能です。
自分の怖れがどこから生まれたのかを理解することで、その怖れをマスターできます。
なぜ自分が怖れているのかを理解したとたん、自分を怖れや不安にしばりつけてきた縄をほどくことができるようになります。
自分をしばってきた縄は、過去世にまでさかのぼることもあります。
たとえば、「貧乏になるのではないか」という不安をいつも感じているのに、あなたの人生にはそうした怖れを裏づける何の根拠もないとします。
飢える可能性などないのに、貧乏を怖れているのです。
その怖れが強力なもので、現時点では理由のないものである場合、その原因は現世で生じたものではないかもしれません。
あなた自身の源も現世ではないのです。
息を深く吸い心を静めて、自分を見つめてください。
自己をこれまでの枠をこえた広大な存在として見ることができたなら、そして、今ある自分が数多くの転生を通して得た限りない経験の産物であり、その過程が今もつづいていることがわかったなら、自分に対する理解の幅がずっと広がることでしょう。
自分の怖れや不安がどこから来たのか、その本質は何なのか、自分に問いかけてください。
そしてここでもまた、過去世や過去の場所からのイメージや感覚を意識にのぼらせてください。
どんなに合理的な考え方をする人でも、自分の不安を理解する手助けとして、たとえば、インドの道端で飢え死にしかけている少年だった自分と、現在の自分の生活とのちがいを知る必要が生じます。
自分の不安や怖れがどこから来るのかが理解できると、自分のなかで何が起こっているのか、わかるようになります。
怖れの正体をはっきり知るまで、怖れから逃れることはできません。
お金の不安をなくすには、たくさんの仕事を持つのではなく、その不安の原因をさぐり、自分の過去の不安と今の人生との関係を理解することです。
病気やその結果としての不安も、その本当の原因が現世にあることはめったにありません。
現世での過去、または過去世において、自分のなかにある病気の不安を見つめたことのある人は、現在の自分の病気に対してはっきりした理解を持っているはずです。
そうでない場合の問題は、過去世で経験した多くの病気の記憶や漠然とした感覚が、洪水のように現在の自分におそいかかってくることです。
現在病気の人は、それでも大丈夫なのだ、ということを忘れてしまっています。
すべての病気は、その人にとって適切な状況で適切なときに起こり、その人の人生のモザイク模様にピッタリはまっているのです。
自分の人生は今あるがままでいいのだ、ということを、人はなかなか理解できません。
どんな苦境であっても、それには、はかりしれないすばらしい深い意味があるのです。
人がとらわれている怖れは、現在の状況の結果ではありません。
過去世からにじみでてくる記憶がはっきりそれと意識されないために、きちんと区別できないのです。
あなたは、今現在の状況を怖れているのではなく、昔の怖れに取りこまれているのです。
同じことが愛情関係にも言えます。
ふたりがそれぞれ別の道をあゆむときが来ても、ひとりが過去世の体験に根ざす隠れた怖れを持っていると、相手にしがみつこうとします。
その人は、過去世で恋人を失ったひどい悲しみを経験したので、別れることがふたりにとっていいこともあるのだ、ということが理解できません。
このようなことを意識にのぼらせることが、自分を救う唯一の道です。
不安や怖れを感じるたびに、それが現世の状況によるものか過去世からのものか、それともその両方からなのか、注意して見てください。
問題にぶつかったときに、自分のまわりにある「大いなるパワー」を呼び寄せたいと思ったら、その瞬間に、完全に意識を集中してください。
そうすれば、そのパワーがすすむべき道を示してくれます。
イエスが、「重荷を背負う者はみな、私のところに来るがよい。私が元気づけてあげよう」と言ったとき、何を言おうとしたのでしょうか。
それは、地球界に一度でも転生したことのある魂のオーラ(霊域)には、「無限の叡知」があり、今この瞬間において、その人の人生のあるがままの状態は、そのままでよいのである、という「大いなる理解」が存在しているということを意味しているのです。
この「それはそれでよい」という感覚が、怖れという重荷から人を解放してくれるのです。
この感覚は、キリスト意識とか、仏性とか、「神なる理解」とか、そのほかいろいろな名前で呼ばれています。
これは、今ある自分が、何も変わらずに今あるがままで完壁であることを知っている、そういう自分の部分です。
怖れから逃げようとせず、怖れとともにとどまって、今の自分の完壁さを理解しようとすると、今までにはなかった広大なヴィジョンが、はっきりとパワフルに一定の目的を持って現れます。
悟りを開く必要はありません。
イエスは、「悟りを開いた者だけ、私のところに来るがよい。私が元気づけてあげよう」とは、決して言いませんでした。
イエスは、社会で最も落ちぶれた者、最も無知な者のところへ行き、呼びかけました。
それらの人々のなかに博士号を持つ者はいませんでした。
イエスは、これらの人々が怖れに大きく支配されていることを知っていたのです。
自分の怖れだけを見つめていると、自分という広大な「存在」のほかの部分を見ることができません。
悩みにぶつかっているときには、道を示してくれるよう、悩みから解放されるよう、その意味が理解できるよう、心の平安が得られるようにと祈るのです。
そして、誰か天上にいる強力な存在に、自分の悩みを全部取り除いてもらいたい、と願うのではなく、悩みがそこにあるのだから、それとともにいようと考えてください。
そうすると、自分の今の悩みは、自分のなかのほんの小さな部分にすぎなくて、そのほかの部分は、おかげさまで、ちゃんとやっていっている、ということに気づきます。
悩み以外の自分の部分である叡智や深い理解を通して、自分の痛みが何であれ、自分の怖れが何であれ、自分の状況が何であれ、それらを意識的に受け入れられるようになります。
そのような見方をすることで、悩みを喜んで受容することができるようになり、それを楽しむということさえ可能になります。
人々は、それが痛みや苦しみや怖れに似ているというだけで、楽しむなどということは思いもおよびません。
しかし、それらを自分から遠ざけようとすることは、命の一部を自分から切り離すことです。
どうか、自分自身のマスターになる決心をしてください。
自分の怖れの部分を受け入れ、自分の人生に統合するまでは、その人は人生を半分しか生きていません。
どんな人生の苦境のなかにも、それがどんなにつらく、どんなに危険であろうとも、常に驚くぺき「命」のパワーが存在しています。
怖れている人は、人生を思いきり生きることはできません。
怖れている人が、どうやって自然体で生きていられるのでしょうか。
どうやって心を開くことができるのでしょうか。
心を開くと、暗闇がなだれこんで自分を打ちのめし、孤独になるのではないかと人は怖れています。
あなた方の多くは、勇気をもってライフスタイルを変えたり、新しい生活を始めたりしましたが、いつも目覚めた意識でいると、なぜ自分がそうしたのかを理解できるようになります。
ふつうは自分が今していることを、なぜしているのかわからないままに、人生をすごしていきます。
しかし、来る日も来る日も、その瞬間の自分をすみずみまで意識していると、何が起きているのか、わかるようになります。
新しい状況に直面して、怖れを感じるときは、ちょっと立ち止まって、自分が何を怖れているのか、自分に聞いてみてください。
その状況の何が自分の怖れを引き起こしたのか、その怖れはその瞬間の事情以外に原因があったのか、自分が必要としているのに得ていないものは何なのか、と自問してみてください。
人が怖れを抱くのは、何か欲しいのに、それが手に入らないからです。
人は、自分の必要とするものを、何か物質的なもの――もっと多くの人とか、もっとたくさんの愛とか、もっと多くのお金とか――として考えがちです。
しかし、基本的に人が求めているのは、自分を不安や怖れがない状態にしてくれるものです。
そこで、このような場合、何があなたの不安を消してくれるか考えてみてください。
たとえば、就職のために面接に行ったとします。
面接官が非常に無愛想で、あなたは不安を感じはじめます。
あなたが怖れているのは何でしょうか。
自分が拒否されたり、価値がないと思われたり、劣っていると思われることを怖れているのでしょうか。
自分の怖れのある部分は、過去に拒否された経験から来ているのだということを理解できたら、現在の不安が少なくなります。
その特定の仕事を得ることは、そんなに大事なことでしょうか。
その面接官からよく思われることがそんなに重要でしょうか。
ほかの人を雇うと誰かが言ったからといって、そんなにみじめに感じる必要があるでしょうか。
自分が求めて、得られなかったものは何か(他人から承認されること?)がわかると、その出来事をあれこれ思いわずらうことがなくなり、すっきりします。
自分に能力や経験がなくて応募した職であっても、採用されなかったら、やはり、拒否されたと感じるはずです。
人間の心理構造には、自分の世界に住むすべての人から認められたいという欲求があります。
このようなプレッシャーを少なくするため、他人の承認を求める欲求を半々に分けることを提案したいと思います。
つまり、何ごとも五十パーセントは他人の承認が得られ、残りの五十パーセントは他人から認められない、ということです。
こうすれば、ずっと気が楽になります。
その日、五十パーセントの人から認められただけで、幸せに感じるかもしれませんよ。
自分自身であろうとする人が、常に他人から認められるなどということはありえません。
キリストほどのパワーと叡智を持った人でさえ、ほんの少しの人の心しかつかめなかったのに、なぜ自分がそれ以上のことをすべきだと思うのですか。
それは可能ではないし、必要でもありません。
あなたの人生が完壁なものであるためには、すべてから認められなくてはならないということはありません。
自分の人生をすばらしいものにするために必要な承認は、ひとつだけです。
それは、今あるがままの自分を受け入れるということです。
勇気をもって自分を見つめていくことによって、それができるようになります。
そのような内観の結果、自分は今のままの自分で全く問題ないのだ、ということを学びます。
「命」というものが、今の自分、あるがままの自分を通して表現されている、そのあり方に人は心から感動し、その不可思議に驚きます。
これは、自分のまわりの人に、自分を好きかどうかと聞くことでは生まれません。
自分について知るべきこと、そのすべてを知って、それを心の底から受け入れることによって生まれます。
このことを実行するかどうかが、その人の人生の分岐点です。
世界中から愛されても、自分で自分を愛さなければ、他人の愛に気づきもしないでしょう。
その反対もまた、成りたちます。
世界中から拒否されても、自分で自分を愛していたら、他人の拒否などには気づきもしません。
自分の心のなかで自分を受け入れてください。
そうすれば、世界をすべて完全に受け入れることができるようになります。
質問:
最近、病気をしたのですが、そのときに、大きな不安におそわれました。
でも、「無限の創造主」を自分の意識の中ににすえることによって、不安が消えました。
これは逃避主義になるのでしょうか。
そのやり方があなたに効果があるのなら、それをつづけるのはよいことだと思います。
それは逃避主義ではなく、どうしたらよいか知っているということです。
人が苦悩のさなかにあるとき、「天の恩寵」というようなものが、おとずれることがよくあります。
けれども、ほとんどの人は、ほとんどの場合、それがやってくるのをじっと待っているわけにはいきません。
自分自身の「恩寵」をもたらすのは、自分自身でなければなりません。
「大いなる源」は、はかりしれない優しさと思いやりに満ちています。
人に元気を与え、人を変えてしまうようなエネルギーが体に入ってくることも、ときにはあります。
しかし、毎日天の恩寵を待ち望んでいるのに、それが起こらないと、人はそこから先へすすめなくなってしまいます。
マスターとは、「自分にできるだけのことをして、この怖れに対処しよう」と言う人です。
怖れとともにあって、それを感じとろうとすると、怖れが自分の兄弟のようになります。
自分の怖れの感覚のあらゆる側面が姿を現し、その正体を教えてくれます。
逃げだしてしまうと、自分が怖れていたものについて学ぶことができず、ただ、その怖れの結果を感じるだけです。
その反対に、勇気をもって、しっかりと腰を落ちつけていてごらんなさい。
ワクワクした気分になってきます。
自分が自分自身の主人になるのだと決心すると、ワクワクした気分がおとずれます。
この気分は自分の存在のなかの「無辺の広がり」を持つ部分から生まれ、パワーを与えてくれます。
人は人生の悩みや苦境を乗り超えるため、自分の存在が持っているすべてのパワーを呼び起こす権利があります。
けれども、このパワーはその人が呼ばない限り、動きだしません。
エゴは意思を持っており、このエゴの意思の力を使ってあなたが呼ぶと、パワーが出てきます。
人生がどのような様相を呈していようとも、どんな苦しみのなかにあろうとも、誰でも心の平安を得る権利があります。
その権利を主張してください。
あなたと怖れと、どちらがあなたという存在のマスター(主人)になるのか、それを決めるのはあなたです。
あなたの人生に起こるすべての出来事は、明確な深い意味と目的を持っています。
自分の怖れを「指」の部分とみなして、自分から離して考え、その意味を知るために、「体」全体の力を呼び起こしてください。
自分の怖れの意味を、他人に聞くという習慣におちいらないように。
他人は方向を示すことはできても、あなたではないのですから、あなたの代わりに意味を本当に知ることはできません。
あなた自身がマスターでなければなりません。
マスターになるのだという決心をしたとたんに、人生が全くちがった意味を持つようになります。
そうすると、どんな困難も受け入れられるし、どんな逆境もそれをやわらげる天の恵みとともに現れます。
自分が行うこと、経験することのすべてが、自己に対する理解を深めるプロセスの一部となります。
このことが、自己を理解するということが、あなた方の人生の課題なのです。
質問:
自分の怖れを逆転させて、代わりに繁栄を視覚化することで、それを生みだすことができますか。
すべての人が繁栄を必要としているわけではないので、私はその方法をお勧めしません。
私の基本的考え方は、
「内なる自己」は各人が必要としていることを、はっきり知っており、
それはその人を常に幸せにすることではなく、その人の内なる自己の進化をはかることだ、
というものです。
貧困のなかでのほうが、魂の成長をとげやすい人もいます。
そういう人は、苦境のなかでは自分を変えていきますが、快適な生活のなかでは何もしません。
自分が抱えている問題を理解し、それを自分の魂の成長のために使ってください。
繁栄を望むなら、つかむ努力をしてください。
ただし、あなたの内なる自己が、あなたは貧困のなかでのほうがよく学ぶと思えば、また貧乏になるでしょう。
あなたの成長に必要なものが、常にあなたの前に現れます。
あなたは、過去世で何度も繁栄の人生を送っています。
二極性からなるこの人生では、その両方を経験する必要があります。
貧困と富、病気と健康、殺すことと殺されること――あらゆる可能性を経験する必要があります。
貧しさそのものには、何も問題はありません。
貧しいと感じることが問題なのです。
あなたがこの世にいるのは、自分の怖れを知るためですから、貧困があなたに怖れをもたらすのであれば、それはすばらしいことです。
その怖れを見る必要がなくなったときには、何も努力しなくても、富や財政的豊かさを経験するでしょう。
ほとんどの人にとって、富はいいものではありません。
地球界の生活においては、お金や物質主義というのは、克服するのが大変むずかしい障壁です。
お金があると、いろいろなことをしたり、欲しいものをたくさん買ったりできるので、人生がうまくいっているような錯覚をおぼえ、自分がみじめだということを忘れてしまいがちです。
貧困に対する怖れについて深い魂のレベルで学び、そのことについての修行を終了すれば、何もしなくても、繁栄がもたらされます。
質問:
健康に意識を集中することで、病気に対する怖れを克服できないでしょうか。
「私は健康を信じる」と言って、健康に意識を集中するふりをすることはできますが、自分がなぜ病気を怖れるのか、その根本原因を見つけない限り、病気しか目に入りません。
病気であることはそれほど悪いことではありません。
貧しいこともそれほど悪いことではありません。
それは自己の内面の現実化として現れる状態ですから、それ自体それほど悪いことではないのです。
人は、すべての状態を順番に経験しなければならないのです。
富や健康を創りだすために努力したいなら、それもいいでしょう。
一生懸命にやれば、それも可能です。
しかし、自分の内なる自己がなぜ病気を創りだしたのか、ということも理解してほしいと思います。
それは、その人のなかに深く根ざした怖れがあり、それを見て、手放す必要があるからです。
その怖れを手放すと、もうそれについては完全に終了したことになります。
そこで、来世では健康になる努力をすることなく、健康になります。
怖れを手放すと、人生の一瞬一瞬、そのときに現れていることが何であれ、対処することができるようになります。
自分の怖れを根こそぎにすると、現世でそれを完了しただけでなく、来世にわたっても永遠に完了したことになります。
あなたの人生で今起こっていることは、今あなたが学ぶ必要があることなのです。
すべての人が病気になるわけではありません。
すべての人が同じことを学ぶ必要はありません。
あなたはすでに多くのレッスンを学び終わっています、が、残りのレッスンは、その根本原因が取り除かれるまで完了されません。
病気に対する怖れに意識を集中することが、健康をもたらすことになります。
『バーソロミュー
―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
(バーソロミュー 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
バーソロミュー
―――――
マスターであること
復活祭の時期にちなんで、マスターについてお話しだいと思います。
マスターとは真の「神の人」をさします。
イエス・キリストもマスターであり、釈迦牟尼もマスターでした。
そのほか歴史上の偉大な師の多くがそうでした。
マスターという言葉は、それ自体がマスターになる必要条件を表しています。
マスターになるには、まず、自分自身の人生のマスターにならなくてはなりません。
人は、意識の深いレベルで、自分が「大いなる神」の休むことなき創造過程の一部であることを自覚しており、同時に、自分がまだ見ていない心理構造の部分があることも知っています。
それは、表層意識のレベルでは、怖れの部分として意識されています。
人々がそういう部分を怖れるのは、見ようとしないがゆえに、その部分のエネルギーをまだマスターしていないからです。
ですから、マスターになるというのは、技術を修得するという意味ではなく、気づくという意味です。
恋愛関係で怖れを抱いている人がいるとします。
もしも恋愛に失敗すると、自分は孤独になり、寂しくて落ちこんでしまうにちがいないと信じているために、その人は異性との交際を始めるのを怖れます。
これは自分で意識できる怖れです。
するとここで、
「私は今、怖れを感じている。
この部分をマスターしていないということがわかった」
と自分に言うことができます。
そこで、次のステップは、自分が怖れているものをマスターすることです。
ところが、残念なことに、ほとんどの人はそうしません。
たいていの人はむしろ現状維持を望み、意識の深海を探っておぼれるより、小さな池の水面(の意識)にとどまるほうが安全だと思います。
それがうまくいかなければ、また別の方法を考えます。
けれども、ほかの解決法を求めるたびに、怖れの度合いは深まっていきます。
つまり、「失敗」がたびかさなっていくわけで、こうして失敗のパターンが作られていきます。
では、どうすればいいのでしょうか。
真の求道者は、なぜ自分が怖れているのかを何とか理解しようとします。
自分の魂の歴史が記録されているアカシック録は、誰でも見ることができるのです。
それは、内省をすることによって、自分の怖れや悩みの原因となった、現世または過去世での重要な出来事を思いだすという形になって現れます。
これは、誰かのところに行ってはじめて知ることができる、というたぐいの情報ではありません。
あなたのまわりにいつもある情報なのです。
それなのに、表層意識はその情報を「単なる想像にすぎない」と否定します。
つまり、ここで自己に対する疑いが生まれ、人はそれを受け入れます。
真のマスターは、自分の怖れを見たい、怖れから自分を解放したいという強い欲求があるので、そのような疑いに対してノーと言います。
マスターは、自分を解放するためならば、どんな方法でも使います。
そのひとつは内観することです。
そうすることによって、自分の怖れのまわりに起こるイメージや感覚をつかみ取ることができ、その怖れのさまざまな面に気づくようになります。
怖れのもたらす感覚が全体的にはっきりと示され、自分の怖れがどんな顔をしているか、一点の疑いもなく知ることができるようになります。
それがわかれば、「何も怖れない」という心境に達することができます。
ここで、自分の怖れを克服する方法をひとつお勧めしたいと思います。
怖れを感じたら、まず何よりも最初に自問すべきことは、
「この怖れはどんな感じがするか」
ということです。
怖れには、感覚や音質というものがあります。
この感覚が、体のどこかの部分を通してその人をつかみます。
その感覚には非常に強い存在感があります。
そのとき、人は頭でその感覚をとらえ、それについて語りそれから逃れようとします。
けれども誰もその感覚とただ一緒にいることはしません。
その感覚とともにいるとそこではじめて怖れが自分をすべて包みこんではいない、という事実を発見できるのです。
怖れはたしかに存在するし、それはわかっているのですが、
同時に、怖れに巻きこまれていない自分のほかの部分もたくさんあることに気づきます。
このことを自分の体験として知ると、自分の怖れを理解できるまで怖れと一緒にいる勇気が出てきます。
自分を怖れそのものだと感じたり、恐怖に打ちのめされて、自分にはそれ以外には何もないと考える、
そんな人生は耐えがたいものですから、そうした怖れから逃げださざるをえません。
しかし、怖れがあっても、自分のなかには、はかりしれない大きなパワーやバランスや安定、思いやり、ユーモアもあるということが体験のなかからわかっていれば、話はちがってきます。
指はケガしたけれど体のほかの部分は大丈夫だ、というようなものです。
指が痛いからといって崖から飛び降りるなどという極端な解決法は誰も選ばないでしょう?
体のほかの部分は健康なのですから、そこから勇気と自信を引きだすことができます。
人が怖れに打ちのめされてしまうのは、怖れは自分のほんの一部にしかすぎないという事実を理解していないからです。
自分は怖れの何倍もの大きさの存在であるということを体験として知りそれに気づきさえすれば、自分のまわりにある叡智が機能しはじめます。
恐怖のまっただなかにいるときには、物事をはっきりとは考えられません。
とにかく、逃げることしか考えられないのです。
けれども、困ったことに、怖れは逃げる方法を知りません。
それを知っているのはマスターです。
そこで、自分の小さな部分である問題を解決するために、残りの自分に力を貸してくれるように頼み、そのまま静かにして、怖れとともにいます。
そうすると、どうしたらいいか、その答えに気づくのです。
これを信じられないのは、やってみないからです。
これは生き方の問題です。
マスターするというのは、生き方のことなのです。
一週間に一時間だけマスターになることはできません。
マスターになるには、常にそうでなければなりません。
つまり、どんなに小さな怖れであろうと(小さなものから始めるほうがいいのです)怖れを感じるたびに、その怖れに対処するのです。
表面に出てくる怖れは氷山の一角で、その下にはまだ見えない怖れがたくさん隠れています。
たとえ小さな怖れであれ、それを見つめていくと、自分にとって怖れとはいったい何なのか、ということがわかってきます。
人によってそれは少しずつちがいます。
どんな怖れの部分も取り逃がしたり、見すごしたりしないでください。
こうして、人はマスターの域に達します。
疑問が起こるたびに、自分のまわりにある「大いなる叡知」を呼び起こしてください。
そうすれば、すべてがうまくいくようになります。
多くの人は、ストレスの多い状況を、わざわざ自分から選んで創りだしています。
それは、マスターになりたい人には最も賢明な方策です。
非常に快適で安全な人生を送っている人は、自分をかり立てる内面の衝動にしたがう勇気がなかったから、困難な状況におちいらなくてすんだ、という可能性もあります。
人生に何の問題もなく、うまくいっているのは、その人が完全に悟りを開いているからではなく、人生のチェスゲームの駒がすべて思い通りの場所に配置され、何の乱れもないからだけかもしれません。
しかし、いずれゲームの駒は動かさなければなりません。
自分でそうしなければ、自分の奥深くにある「大いなる自己」がその人のために駒を動かします。
いつまでも現状維持できるわけではありません。
「大いなる自己」は、未解決の問題に対処するように、その人を仕向けるには何が必要かを知っています。
自分の人生がすばらしいからといって、自己満足しないように、心しなければなりません。
自己満足していると、「奥深き自己」は、ゲーム板の上に嵐を巻き起こし、駒をゆり動かし倒すこともあります。
おめでとう!
これで、あなたにも問題が起きました。
自分が次になすべき行動を知るのに、チェスの駒が風に吹き飛ばされるのを待つ必要はありません。
あなたにはわかっています。
人間関係かもしれないし、仕事に関してかもしれません。
そのほか、いろいろな可能性があります。
本人にはそれが何かわかっています。
怖れから、そして、ただすわってテレビを見ているほうがずっと楽だから、人は次の行動をとろうとしないだけです。
しかし、自分の人生を動かしつづけていくためには、次のステップがいるのです。
人間は、ただロボットのように、幸せなだけの人生を生きるようには創られませんでした。
人生の目的は、動きつづけながら、「自己」の奥へ奥へと入っていくことにあります。
マスターというのは、自分の心理構造のすべての局面に入りこみ、すべてを発見し、何事からも目をそむけない人です。
見た目がどんなにひどく、いやなものでも、自分のなかから現れたものすべてを受け入れる人です。
すべてを心から受け入れる人です。
自分の人生がうまくいっていないことをはっきり知っているにもかかわらず、自分の人間関係が退屈で、つまらないもので、自分のまわりの人間が退屈で、つまらない人たちであることを認めようとしない人がいます。
あなたもそのひとりでしょうか。
こういう人たちの人生は変化のないよどんだ人生です。
朝、「やれやれ、また今日も同じことのくり返しか」と、イヤイヤ起きるような人は、人生がゆきづまっていることに気づいてください。
人生がゆきづまるのは、五歳でも八十五歳でも、その中間の何歳でも起きます。
あなたが肉体を離れるときまで、人生の車輪は止まりません。
それは最後までつづきます。
感情を感じられないのはいつも、ゆきづまっているときです。
しかし、変化が必要だからといって、自分の今の家やアパートを捨てて、引っ越ししなさい、と言っているのではありません。
ただ、何かを怖れて新しい動きをためらわせているのは何か、動きが鈍っているのはどの部分か、と自分に問いかけるべきだと思います。
このまますすむと問題が起きる、と怖れて立ち止まったのはどの部分ですか。
自分でよく見てみると、それがどこかわかります。
いったんそれがわかったら、今度は、その怖れを手放すことができなくなりますから、怖れに対処する気がなければ、はじめから見ないことです。
いったんその怖れに気づくと、それから逃れられません。
自分の表層意識と無意識の両方をだますことはできないので、気づいていながら、そうではないふりはできません。
したがって、何らかの行動をとらざるをえなくなり、人生に変化が起きはじめます。
私は、マスターへの道をあゆむのは、いわゆる人生の悩みを通してだということを知っているので、あなた方に悩みがあっても、何の心配もしません。
人には隠された怖れの部分があり、それを見つける必要があります。
それは、怖れから逃げだすことによってではなく、正面きって立ち向かうことによって可能です。
自分の怖れがどこから生まれたのかを理解することで、その怖れをマスターできます。
なぜ自分が怖れているのかを理解したとたん、自分を怖れや不安にしばりつけてきた縄をほどくことができるようになります。
自分をしばってきた縄は、過去世にまでさかのぼることもあります。
たとえば、「貧乏になるのではないか」という不安をいつも感じているのに、あなたの人生にはそうした怖れを裏づける何の根拠もないとします。
飢える可能性などないのに、貧乏を怖れているのです。
その怖れが強力なもので、現時点では理由のないものである場合、その原因は現世で生じたものではないかもしれません。
あなた自身の源も現世ではないのです。
息を深く吸い心を静めて、自分を見つめてください。
自己をこれまでの枠をこえた広大な存在として見ることができたなら、そして、今ある自分が数多くの転生を通して得た限りない経験の産物であり、その過程が今もつづいていることがわかったなら、自分に対する理解の幅がずっと広がることでしょう。
自分の怖れや不安がどこから来たのか、その本質は何なのか、自分に問いかけてください。
そしてここでもまた、過去世や過去の場所からのイメージや感覚を意識にのぼらせてください。
どんなに合理的な考え方をする人でも、自分の不安を理解する手助けとして、たとえば、インドの道端で飢え死にしかけている少年だった自分と、現在の自分の生活とのちがいを知る必要が生じます。
自分の不安や怖れがどこから来るのかが理解できると、自分のなかで何が起こっているのか、わかるようになります。
怖れの正体をはっきり知るまで、怖れから逃れることはできません。
お金の不安をなくすには、たくさんの仕事を持つのではなく、その不安の原因をさぐり、自分の過去の不安と今の人生との関係を理解することです。
病気やその結果としての不安も、その本当の原因が現世にあることはめったにありません。
現世での過去、または過去世において、自分のなかにある病気の不安を見つめたことのある人は、現在の自分の病気に対してはっきりした理解を持っているはずです。
そうでない場合の問題は、過去世で経験した多くの病気の記憶や漠然とした感覚が、洪水のように現在の自分におそいかかってくることです。
現在病気の人は、それでも大丈夫なのだ、ということを忘れてしまっています。
すべての病気は、その人にとって適切な状況で適切なときに起こり、その人の人生のモザイク模様にピッタリはまっているのです。
自分の人生は今あるがままでいいのだ、ということを、人はなかなか理解できません。
どんな苦境であっても、それには、はかりしれないすばらしい深い意味があるのです。
人がとらわれている怖れは、現在の状況の結果ではありません。
過去世からにじみでてくる記憶がはっきりそれと意識されないために、きちんと区別できないのです。
あなたは、今現在の状況を怖れているのではなく、昔の怖れに取りこまれているのです。
同じことが愛情関係にも言えます。
ふたりがそれぞれ別の道をあゆむときが来ても、ひとりが過去世の体験に根ざす隠れた怖れを持っていると、相手にしがみつこうとします。
その人は、過去世で恋人を失ったひどい悲しみを経験したので、別れることがふたりにとっていいこともあるのだ、ということが理解できません。
このようなことを意識にのぼらせることが、自分を救う唯一の道です。
不安や怖れを感じるたびに、それが現世の状況によるものか過去世からのものか、それともその両方からなのか、注意して見てください。
問題にぶつかったときに、自分のまわりにある「大いなるパワー」を呼び寄せたいと思ったら、その瞬間に、完全に意識を集中してください。
そうすれば、そのパワーがすすむべき道を示してくれます。
イエスが、「重荷を背負う者はみな、私のところに来るがよい。私が元気づけてあげよう」と言ったとき、何を言おうとしたのでしょうか。
それは、地球界に一度でも転生したことのある魂のオーラ(霊域)には、「無限の叡知」があり、今この瞬間において、その人の人生のあるがままの状態は、そのままでよいのである、という「大いなる理解」が存在しているということを意味しているのです。
この「それはそれでよい」という感覚が、怖れという重荷から人を解放してくれるのです。
この感覚は、キリスト意識とか、仏性とか、「神なる理解」とか、そのほかいろいろな名前で呼ばれています。
これは、今ある自分が、何も変わらずに今あるがままで完壁であることを知っている、そういう自分の部分です。
怖れから逃げようとせず、怖れとともにとどまって、今の自分の完壁さを理解しようとすると、今までにはなかった広大なヴィジョンが、はっきりとパワフルに一定の目的を持って現れます。
悟りを開く必要はありません。
イエスは、「悟りを開いた者だけ、私のところに来るがよい。私が元気づけてあげよう」とは、決して言いませんでした。
イエスは、社会で最も落ちぶれた者、最も無知な者のところへ行き、呼びかけました。
それらの人々のなかに博士号を持つ者はいませんでした。
イエスは、これらの人々が怖れに大きく支配されていることを知っていたのです。
自分の怖れだけを見つめていると、自分という広大な「存在」のほかの部分を見ることができません。
悩みにぶつかっているときには、道を示してくれるよう、悩みから解放されるよう、その意味が理解できるよう、心の平安が得られるようにと祈るのです。
そして、誰か天上にいる強力な存在に、自分の悩みを全部取り除いてもらいたい、と願うのではなく、悩みがそこにあるのだから、それとともにいようと考えてください。
そうすると、自分の今の悩みは、自分のなかのほんの小さな部分にすぎなくて、そのほかの部分は、おかげさまで、ちゃんとやっていっている、ということに気づきます。
悩み以外の自分の部分である叡智や深い理解を通して、自分の痛みが何であれ、自分の怖れが何であれ、自分の状況が何であれ、それらを意識的に受け入れられるようになります。
そのような見方をすることで、悩みを喜んで受容することができるようになり、それを楽しむということさえ可能になります。
人々は、それが痛みや苦しみや怖れに似ているというだけで、楽しむなどということは思いもおよびません。
しかし、それらを自分から遠ざけようとすることは、命の一部を自分から切り離すことです。
どうか、自分自身のマスターになる決心をしてください。
自分の怖れの部分を受け入れ、自分の人生に統合するまでは、その人は人生を半分しか生きていません。
どんな人生の苦境のなかにも、それがどんなにつらく、どんなに危険であろうとも、常に驚くぺき「命」のパワーが存在しています。
怖れている人は、人生を思いきり生きることはできません。
怖れている人が、どうやって自然体で生きていられるのでしょうか。
どうやって心を開くことができるのでしょうか。
心を開くと、暗闇がなだれこんで自分を打ちのめし、孤独になるのではないかと人は怖れています。
あなた方の多くは、勇気をもってライフスタイルを変えたり、新しい生活を始めたりしましたが、いつも目覚めた意識でいると、なぜ自分がそうしたのかを理解できるようになります。
ふつうは自分が今していることを、なぜしているのかわからないままに、人生をすごしていきます。
しかし、来る日も来る日も、その瞬間の自分をすみずみまで意識していると、何が起きているのか、わかるようになります。
新しい状況に直面して、怖れを感じるときは、ちょっと立ち止まって、自分が何を怖れているのか、自分に聞いてみてください。
その状況の何が自分の怖れを引き起こしたのか、その怖れはその瞬間の事情以外に原因があったのか、自分が必要としているのに得ていないものは何なのか、と自問してみてください。
人が怖れを抱くのは、何か欲しいのに、それが手に入らないからです。
人は、自分の必要とするものを、何か物質的なもの――もっと多くの人とか、もっとたくさんの愛とか、もっと多くのお金とか――として考えがちです。
しかし、基本的に人が求めているのは、自分を不安や怖れがない状態にしてくれるものです。
そこで、このような場合、何があなたの不安を消してくれるか考えてみてください。
たとえば、就職のために面接に行ったとします。
面接官が非常に無愛想で、あなたは不安を感じはじめます。
あなたが怖れているのは何でしょうか。
自分が拒否されたり、価値がないと思われたり、劣っていると思われることを怖れているのでしょうか。
自分の怖れのある部分は、過去に拒否された経験から来ているのだということを理解できたら、現在の不安が少なくなります。
その特定の仕事を得ることは、そんなに大事なことでしょうか。
その面接官からよく思われることがそんなに重要でしょうか。
ほかの人を雇うと誰かが言ったからといって、そんなにみじめに感じる必要があるでしょうか。
自分が求めて、得られなかったものは何か(他人から承認されること?)がわかると、その出来事をあれこれ思いわずらうことがなくなり、すっきりします。
自分に能力や経験がなくて応募した職であっても、採用されなかったら、やはり、拒否されたと感じるはずです。
人間の心理構造には、自分の世界に住むすべての人から認められたいという欲求があります。
このようなプレッシャーを少なくするため、他人の承認を求める欲求を半々に分けることを提案したいと思います。
つまり、何ごとも五十パーセントは他人の承認が得られ、残りの五十パーセントは他人から認められない、ということです。
こうすれば、ずっと気が楽になります。
その日、五十パーセントの人から認められただけで、幸せに感じるかもしれませんよ。
自分自身であろうとする人が、常に他人から認められるなどということはありえません。
キリストほどのパワーと叡智を持った人でさえ、ほんの少しの人の心しかつかめなかったのに、なぜ自分がそれ以上のことをすべきだと思うのですか。
それは可能ではないし、必要でもありません。
あなたの人生が完壁なものであるためには、すべてから認められなくてはならないということはありません。
自分の人生をすばらしいものにするために必要な承認は、ひとつだけです。
それは、今あるがままの自分を受け入れるということです。
勇気をもって自分を見つめていくことによって、それができるようになります。
そのような内観の結果、自分は今のままの自分で全く問題ないのだ、ということを学びます。
「命」というものが、今の自分、あるがままの自分を通して表現されている、そのあり方に人は心から感動し、その不可思議に驚きます。
これは、自分のまわりの人に、自分を好きかどうかと聞くことでは生まれません。
自分について知るべきこと、そのすべてを知って、それを心の底から受け入れることによって生まれます。
このことを実行するかどうかが、その人の人生の分岐点です。
世界中から愛されても、自分で自分を愛さなければ、他人の愛に気づきもしないでしょう。
その反対もまた、成りたちます。
世界中から拒否されても、自分で自分を愛していたら、他人の拒否などには気づきもしません。
自分の心のなかで自分を受け入れてください。
そうすれば、世界をすべて完全に受け入れることができるようになります。
質問:
最近、病気をしたのですが、そのときに、大きな不安におそわれました。
でも、「無限の創造主」を自分の意識の中ににすえることによって、不安が消えました。
これは逃避主義になるのでしょうか。
そのやり方があなたに効果があるのなら、それをつづけるのはよいことだと思います。
それは逃避主義ではなく、どうしたらよいか知っているということです。
人が苦悩のさなかにあるとき、「天の恩寵」というようなものが、おとずれることがよくあります。
けれども、ほとんどの人は、ほとんどの場合、それがやってくるのをじっと待っているわけにはいきません。
自分自身の「恩寵」をもたらすのは、自分自身でなければなりません。
「大いなる源」は、はかりしれない優しさと思いやりに満ちています。
人に元気を与え、人を変えてしまうようなエネルギーが体に入ってくることも、ときにはあります。
しかし、毎日天の恩寵を待ち望んでいるのに、それが起こらないと、人はそこから先へすすめなくなってしまいます。
マスターとは、「自分にできるだけのことをして、この怖れに対処しよう」と言う人です。
怖れとともにあって、それを感じとろうとすると、怖れが自分の兄弟のようになります。
自分の怖れの感覚のあらゆる側面が姿を現し、その正体を教えてくれます。
逃げだしてしまうと、自分が怖れていたものについて学ぶことができず、ただ、その怖れの結果を感じるだけです。
その反対に、勇気をもって、しっかりと腰を落ちつけていてごらんなさい。
ワクワクした気分になってきます。
自分が自分自身の主人になるのだと決心すると、ワクワクした気分がおとずれます。
この気分は自分の存在のなかの「無辺の広がり」を持つ部分から生まれ、パワーを与えてくれます。
人は人生の悩みや苦境を乗り超えるため、自分の存在が持っているすべてのパワーを呼び起こす権利があります。
けれども、このパワーはその人が呼ばない限り、動きだしません。
エゴは意思を持っており、このエゴの意思の力を使ってあなたが呼ぶと、パワーが出てきます。
人生がどのような様相を呈していようとも、どんな苦しみのなかにあろうとも、誰でも心の平安を得る権利があります。
その権利を主張してください。
あなたと怖れと、どちらがあなたという存在のマスター(主人)になるのか、それを決めるのはあなたです。
あなたの人生に起こるすべての出来事は、明確な深い意味と目的を持っています。
自分の怖れを「指」の部分とみなして、自分から離して考え、その意味を知るために、「体」全体の力を呼び起こしてください。
自分の怖れの意味を、他人に聞くという習慣におちいらないように。
他人は方向を示すことはできても、あなたではないのですから、あなたの代わりに意味を本当に知ることはできません。
あなた自身がマスターでなければなりません。
マスターになるのだという決心をしたとたんに、人生が全くちがった意味を持つようになります。
そうすると、どんな困難も受け入れられるし、どんな逆境もそれをやわらげる天の恵みとともに現れます。
自分が行うこと、経験することのすべてが、自己に対する理解を深めるプロセスの一部となります。
このことが、自己を理解するということが、あなた方の人生の課題なのです。
質問:
自分の怖れを逆転させて、代わりに繁栄を視覚化することで、それを生みだすことができますか。
すべての人が繁栄を必要としているわけではないので、私はその方法をお勧めしません。
私の基本的考え方は、
「内なる自己」は各人が必要としていることを、はっきり知っており、
それはその人を常に幸せにすることではなく、その人の内なる自己の進化をはかることだ、
というものです。
貧困のなかでのほうが、魂の成長をとげやすい人もいます。
そういう人は、苦境のなかでは自分を変えていきますが、快適な生活のなかでは何もしません。
自分が抱えている問題を理解し、それを自分の魂の成長のために使ってください。
繁栄を望むなら、つかむ努力をしてください。
ただし、あなたの内なる自己が、あなたは貧困のなかでのほうがよく学ぶと思えば、また貧乏になるでしょう。
あなたの成長に必要なものが、常にあなたの前に現れます。
あなたは、過去世で何度も繁栄の人生を送っています。
二極性からなるこの人生では、その両方を経験する必要があります。
貧困と富、病気と健康、殺すことと殺されること――あらゆる可能性を経験する必要があります。
貧しさそのものには、何も問題はありません。
貧しいと感じることが問題なのです。
あなたがこの世にいるのは、自分の怖れを知るためですから、貧困があなたに怖れをもたらすのであれば、それはすばらしいことです。
その怖れを見る必要がなくなったときには、何も努力しなくても、富や財政的豊かさを経験するでしょう。
ほとんどの人にとって、富はいいものではありません。
地球界の生活においては、お金や物質主義というのは、克服するのが大変むずかしい障壁です。
お金があると、いろいろなことをしたり、欲しいものをたくさん買ったりできるので、人生がうまくいっているような錯覚をおぼえ、自分がみじめだということを忘れてしまいがちです。
貧困に対する怖れについて深い魂のレベルで学び、そのことについての修行を終了すれば、何もしなくても、繁栄がもたらされます。
質問:
健康に意識を集中することで、病気に対する怖れを克服できないでしょうか。
「私は健康を信じる」と言って、健康に意識を集中するふりをすることはできますが、自分がなぜ病気を怖れるのか、その根本原因を見つけない限り、病気しか目に入りません。
病気であることはそれほど悪いことではありません。
貧しいこともそれほど悪いことではありません。
それは自己の内面の現実化として現れる状態ですから、それ自体それほど悪いことではないのです。
人は、すべての状態を順番に経験しなければならないのです。
富や健康を創りだすために努力したいなら、それもいいでしょう。
一生懸命にやれば、それも可能です。
しかし、自分の内なる自己がなぜ病気を創りだしたのか、ということも理解してほしいと思います。
それは、その人のなかに深く根ざした怖れがあり、それを見て、手放す必要があるからです。
その怖れを手放すと、もうそれについては完全に終了したことになります。
そこで、来世では健康になる努力をすることなく、健康になります。
怖れを手放すと、人生の一瞬一瞬、そのときに現れていることが何であれ、対処することができるようになります。
自分の怖れを根こそぎにすると、現世でそれを完了しただけでなく、来世にわたっても永遠に完了したことになります。
あなたの人生で今起こっていることは、今あなたが学ぶ必要があることなのです。
すべての人が病気になるわけではありません。
すべての人が同じことを学ぶ必要はありません。
あなたはすでに多くのレッスンを学び終わっています、が、残りのレッスンは、その根本原因が取り除かれるまで完了されません。
病気に対する怖れに意識を集中することが、健康をもたらすことになります。
『バーソロミュー
―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
(バーソロミュー 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体