霊性の高い人
霊性の高い人
質問:霊性の高い人とはどういう意昧か、説明してくださいませんか。
霊性が高い人の真の特徴は、人生が人間の限られた知性ではとても理解できないような不可思議、神秘、命に満ち満ちていることを理解し、ただただ感謝と喜びに満たされ、すべてを受け入れる心を持つにいたった人です。
自分自身を「霊性の高い人」と決めつけることが問題なのは、そうするとすぐに、霊性の高い人は何をして、何をしないかと、リストを作り上げるからです。
それから何年もついやして、自分の作り上げたイメージに自分をはめこもうとします。
しかし、これも最終的にはよい結果を生みます。
というのは、この方法を長いあいだつづけていると、ついには自分の霊性を高めるために必要だと思っていたことは実行できない、という結論に達するからです。
もちろん、愛情にあふれて思いやりに満ちるときもあるでしょうが、同時に、怒ったり、恨んだりするときもあるわけです。
自己憐憫におちいるかと思うと、自分が大胆で、強くて、パワフルだと感じるときもあります。
こうして次々と展開するさまざまな状態を、すべて経験しながら学んでいくのですが、最終的には、真の霊性の高さとはどんなものかを理解することはとてもできない、という境地に達します。
頭で理解することはできないのだと悟った瞬間、慈しみの心と、無力感もしくは絶望といったふたつの異なる感情で満たされます。
自分の悩みを誰も完全に理解し、克服することはできないのだと悟った人に、他人を裁くことなどどうしてできるでしょうか。
自分が調和のとれた精神を二十四時間いつも保つことなどできないことがわかると、それを他人に期待するのは無理だと悟ります。
そこで、他人に対する思いやりの心、慈しみの心が生まれてくるのです。
同時に、「全く望みなし」という感情が生じます。
ずっと以前、私が「望みなし」の状態が好きだと言ったのはこういう理由からです。
「望みなし」の状態というのは、絶望に打ちひしがれているということではありません。
私の言う「望みなし」の状態にある人というのは、人生を理解することなどできないという、基本的叡智にやっと達し、抵抗をやめた人です。
理解しようとすると、自分で自分に頭痛の種を作るだけです。
誰かに傷つけられると、過去世で他人を傷つけたからそのカルマ(業・因縁)でこうなったのだろうかと、クヨクヨ悩む人がいます。
どうしてそんなことがわかるのですか。
また、たとえそうだとしても、それがどうだというのですか。
過去世で他人と問題を起こしたことを知ることが、その人の精神生活の助けになるでしょうか。
それを知ることでその人の心の傷が癒されるとは、少しも思いません。
自分の現在の行動を正当化するのに過去世を利用できると、頭の痛みは少しはおさまるかもしれません。
けれども、そうすることでその人の気持ちがよくなるでしょうか。
頭で何かを理解したと思った瞬間、頭はその行動に理由づけをし、それで解決した気になります。
そして、その人はもうその問題を考えようともしなくなります。
自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。
人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。
そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。
他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。
本質的には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。
人は、憎しみや悪意や悔恨(かいこん)から他人を傷つけるのではありません。
無知と怖れから人を傷つけるのです。
自分の頭で物事を理解しようとすると、何もわからなくなります。
誰かを前にして、あなたは自分とその人との関係を何とか頭でわかろうとします。
こういうことを、自分の子供や自分の親に対してやっています。
理解できれば、もう傷つけられないですむ、と自分にいつも言いきかせています。
いいですか、よく聞いてください。
頭で人生を理解することはできません。
人生はそんなに単純ではありません。
自分で思うほど、あなたは単純ではありません。
あなたは途方もなく広大無辺な存在だと、私は何回もお話したでしょう?
人がこのように広大無辺な広がりを持つ存在ならば、果たしてちっぽけな人間の頭で、自分が今自分の人生でしていることの意味や理由、他人の行動の意味や理由を理解することがいったい可能でしょうか。
「頭で理解しなければならない」と言う人は、自分が広大無辺な存在であることを否定しているのです。
したがって、霊性の高い人とは、理解の域に達しようと何年も苦心惨憺(さんたん)した人です。
あらゆる種類のヨガをやり、禅を学び、何でもやってみた人です。
そして最後には、「私とはこういう私なのだ」ということを理解するのです。
求道の結果、健康になったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。
菜食主義になって、病気になった人もいれば、それで健康になった人もいます。
「広大無辺性」に法則を当てはめることはできません。
広大無辺性に法則を当てはめようなどとするのは、ばかげたことです。
それはまるで、海辺に立って両手を広げ、
「波よ止まれ。
なぜ浜辺に波が打ち寄せるのかわかった。
だから私はここに立って命令する。
波よ止まれ」
というようなものです。
不可能なことです。
弟子として深遠な教えを学ぶときに、人は
「老師やグルは、自分の知らないことを知っている」
という考えを持ちます。
そして、自分が十分向上し、十分瞑想し、十分苦行に耐え、完全に自分を捨てることができれば、師が悟りの秘密のカギを与えてくれるだろうと期待します。
仮にこれが本当だとしてみましょう。
師は知っているが、あなたは知らない、師はカギを持っているが、あなたは持っていない、とします。
では、あなたが悟かどうかを決めるのは誰ですか。
あなたですか、師ですか。
師があなたを気に入らないとしたらどうしますか。
師があなたのシャツの色が気に入らないとか、あなたが土曜の夜していることが気に入らないとかしたらどうしますか。
師は、あなたが悟りの境地に決して達しないようにすることもできます。
あるいは、この師がたまたま批判的な性格であれば、あなたにはまだその時期が来ていないと言うかもしれません。
来世でもう一回やり直せと言うかもしれません。
三回転生してから出直してこい、と言うかもしれません。
そうされても、自分は強くてパワフルで、覚醒の可能性を自分の手に握っていると思うことができますか。
私はそうは思いません。
今度は、秘密を握っているのは師ではなく、自分だと感じているとします。
カギを握っているのはあなたなのですが、しかし、困ったことに、カギがどこにあるかわかりません。
どうやって探したらいいでしょうか。
今度は、今までと同じことを自分に対してすることになります。
もっと蔵しい戒律の生活をしたら、断食をもっとしたら、瞑想をもっとしたら、本をもっと読んだら、そうしたら、自分自身に秘密のカギを与えようというのです。
ここでもまた成功不可能な状況を生みだしています。
つまり、自分自身に対して隠していることを、自分に教えるように自分に頼んでいるというわけです。
こんなことが意味をなしますか。
私にはそうは思えません。
このような態度は、問題を取りちがえている結果から起こっています。
問題は、あなたが何かを知らないということではありません。
問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。
あなたは、自分に何かが足りない、何かが欠けているといつも思っています。
このような直線的思考をつづけるならば、何度も転生して秘密のカギを探しつづけるはめになるでしょう。
あなたのエゴは、土曜の夜の乱痴気パーティーを全部おぼえているので、そんなに罪深い人間は秘密のカギを子に入れるのにあと三年は待たなくてはならないと思わせます。
エゴはいつも、
「心配するな。
悟りはすぐそこだ。
もう少しがんばれ。
すばらしい人が現れ、その人の話を聞いたら、悟りの境地に達せられるから」
とささやきつづけます。
誰かから与えてもらわなくてはならないと思っている限り、悟りの境地に達することはできません。
それでは求める人になってしまいます。
前にも言ったようにあなたは求める人か見つける人のどちらかなのです。
求める人は求めつづけます。
見つける人は「悟りを理解することはできないし理解する必要もないしそれそのものを生きるしかない」ということを悟ります。
私が話したいと思っている、たったひとつの神秘とはこのことです。
何度もくり返しますが、これがまさにそれなのです。
一瞬一瞬を生きるという生き方がそうなのです。
人生はもっとよくなってはいきません。
自分自身に対する最良の贈り物は、人生はこれ以上よくはならないという事実を受け入れることです。
どうかわかってください。
「この瞬間」こそが、「神なるもの」の姿です。
未来のあるときを待ちつづけていると、「明日」や「いつか」を次々に生みだしていくだけです。
今日こそが毎日です。
今日こそがすべての日です。
今日こそがその日なのです。
求めるのをやめ、「これ以上頭を使うことはできない。
体をこれ以上きたえることもできない。
できることはすべてやった。
できる限りの努力はした」
と納得し、今やただ自分の無力を感じる――そう言った瞬間、心からそう思った瞬間、エゴは抵抗を捨てます。
求道ゲームを演じるようにしたのはエゴですから、勝てないとわかったときに「死ぬ」のはエゴです。
この真理があなたの意識に入った瞬間、エゴのパワーはなくなり、あなたをかり立てるのをやめ、あなたの人生を試すことをやめます。
エゴは素直に抵抗を捨て、降参します。
本当のところ、エゴは決して死ぬことはなく、ただ降参するだけです。
エゴが最も好きなゲームは、霊性を高めるゲームです。
このゲームは、自分のまわりの人間に比べて、自分の方がすぐれた人間だと思わせてくれるので、非常にパワフルです。
何しろあなたは神を求めているのですから。
神を求めるのは、人間にとって最も崇高な行為だというのは、誰でも知っています。
こうして神を求めている人は、自分がパワフルでますます強く、賢く、崇高になっていくと感じます。
ついにはまわりの人たちから、けむたがられます。
あんまり崇高で、その人がいるだけで、まわりの人たちは罪悪感を感じるようになってしまいます。
まわりが罪悪感を感じるのは、その人のエゴが、いつも他人をあれこれ価値判断しては裁いているからです。
どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないのだ、ということを忘れないでください。
悟りは起こるべきときに、自然に起こるのです。
一定のやり方というものがあるとしたら、この部屋にいる人たちの多くは、すでに悟りを開いているはずです。
もしも一定のやり方があるとすればの話です。
しかし、そんなものはありません。
既成の方法や戒律というものは、ひとりの人間の悟りの経験にもとづいて作られています。
このひとりの人間の、悟りという広大無辺の不可思議な出来事にもとづいて、それがどうやって起こったのか、どうすれば同じような境地にたどりつけるのかが、数々の教典には記されています。
このような経験をした人は真実を言葉で語るのは不可能だと知ってはいるのですが、それでも何とか言葉にしようと努力します。
こうして言葉にされた瞬間から、それは書きとめられ、何千年ものあいだ人々はそれを読み、その教えにしたがいます。
何度も転生をくり返しながら、この悟りを求めつづけている人がいます。
気の毒なことに、今その人がどんなことを試みていようと、神は自分の外にある存在だという考えを持ちつづける限り、これからもまた何度も転生をくり返しながら、同じ道を求めつづけることになるのです。
高潔な人間になろうと努力している人を見てごらんなさい。
非常にむずかしいことに取り組んでいるばかりでなく、何よりもそういう人は人生を楽しんでいません。
長いあいだ人間は、神を求めるには、人生を楽しんではいけないと思いこんできました。
神は人生の楽しみ方など何も知らないと思ってきました。
しかし、「この世に喜びがあることこそ、神の存在のあかしてある」とも昔から言われてきています。
この言葉は、一般に考えられているよりずっと重要な意味を持っています。
次のことをどうかおぼえていてください。
自分はあゆむべき道にそってすすんでいて、何事も問題なくすべてはスムーズにいっている、と心の奥のほうで声がすると、人はそれによって自分は正しい、自分はす守れていると感じはじめることがあります。
そういうときこそ、何かおかしい、何かまちがっていると気づくべきなのです。
自分の人生が道理にかなっているのは、頭を使って生きているからです。人生には道理などありません。まだそれがわかりませんか?
命とは、スイッチを入れたら動きはじめ、以後、人間が作り上げたルールにしたがって何百年も何千年も休むことなく作動しつづける、そんな都合のいい機械のようなものではありません。
そういうふうにはなっていないのです。
神とは、天真爛漫で、創造性に富んだダイナミックなエネルギーの動きであるということは、何度もくり返し言ってきました。
もしも神、すなわち、命が人間のルールにしたがって休みなく動きつづける機械だとしたら、いったいどこに天真爛漫な性質があるといえるのでしょうか。
「大いなる命」の基本要素は喜びであり、その喜びが何であれ、その瞬間に起こっていることの自然な動きのなかから生まれるのです。
「大いなる自由」は、そうした動きのなかから生まれます。
「大いなる自由」を得ると、自分を裁くのをやめられます。
自分がなろうとしているものになろうとする努力をやめ、その代わり、今の自分が自分なのだ、今この瞬間がその瞬間なのだ、と感じるようになれば、あらゆる葛藤は終わります。
ところが、自分の葛藤がなくなるのを怖れている人がいます。
葛藤がなくなれば、どうやって悟りに達するのだろうかと疑問に思うからです。
これがパラドックスだということがわかりますか。
悟りを求めて葛藤しなければならないのに、悟りに達することができるのは、葛藤をやめたときだというわけです。
ここでの問題は、問題の提起のし方がまちがっているということです。
ラマナ・マハリシは、「あなたはすでに悟りを開いている」と言っています。
それを聞いて「わかった。わかった」と言いながら、あなたはちっともそれを信じていません。
そのことはちょっとわきにおき、いつかそれについて考えようと自分に言い聞かせます。
でも、やはり信じていないのです。
マハリシはつづけます。
「悟りへの唯一の障害は、自分は悟りを開いていないという考えである」
それを聞いて、あなたは、また、??の、わかってますよ」と思いながら、や
はり信じません。
マハリシはたわごとをしゃべっている愚か者であるか、または、真理を述べているかのどちらかです。
あなたが判断してください。
マハリシが真理を述べていると判断したなら、悟りへの最大唯一の障害は、自分はまだ悟りを開いていないという考えだ、というマハリシの言葉をどうか信じてください。
マハリシを信じても、信じなくてもかまいません。
ただし、中途半端に信じるのはやめてください。
中途半端になるのは、頭とエゴと肉体のしわざです。
自分を求道者だとみなす癖を捨てられない人はどのくらいいるでしょうか。
よく注意してみると、このような自己のイメージは、自分が他人より一歩先んじていると思わせるためにエゴが使う最良の武器だということがわかります。
誰もが認めるように、求道者というのは崇高な地位を占めています。
自分のことをよく思いたいがために、多くの人がこの役を演じます。
人生のほかの面で失敗した人が、「地球界ではさんざんな結果だったが、あちらの世界ではもう少しましなことができる」と考え、精神世界を追求しようとすることがよくあります。
残念ながら、地球界とあちらの世界とはひとつなのです。
地球界を飛び越して、雲の上の天国でちがう意識のなかに存在することはできないのです。
無辺に広がる悟りの境地への一番の近道は、この地球界を完全にありのままに受け入れ、自分を完全にありのままに受け入れ、他人を完全にありのままに受け入れ、自分自身を愛するように他人を愛することです。
自分のほうがすぐれていると思っていると、他人を愛することができません。
それはわざとらしいへり下りの行為ではあっても、愛ではありません。
では、どうやって愛すればいいのでしょうか。
自分の目の前にあるものや人をできる限りとにかく愛するのです。
今、自分らしくふるまい自分らしく話し自分そのものを感じるのです。
この一瞬において自分自身であることです。
一生懸命努力することをやめると自分にそんなにきびしくなくなるしそうすると、他人にもきびしくなくなります。
この世はひどいところだと感じ、人々は否定的で批判的で、悪徳に満ちていい加減だと思っている人は自分自身が人間として欠けていると感じているので、自分がまともだと感じられるように自分よりも劣った世界を外に投射するのです。
これを果てしなくつづけるのですが、結局そこから答えは得られません。
この世界が神以外のものから創られたと考えている人に対しては、私は何も言うことはありません。
しかし、あなた方、「神なるパワーと呼ぶものによってこの世界が創られ、今だに創られつづけ、維持されていると信じるのであれば、次のステップに移る必要があります。
この世に神と悪魔というふたつの存在が本当にあるのでしょうか。
人間が神から切り離されてしまったというのは本当でしょうか。
こうした古くからの考え方がどこから生まれたか、知っていますか。
それはとても単純なことから起きたのです。
あるとき、人間が何人か集まって話し合いました。
「自分の気のおもむくままに生きるというのも悪くはないが、予測がつかない。
人生、もう少し予測可能であるべきだ。
いくつか規則を作ろう。
規則があれば、物事がどうなるか知ることができるだろう」
予測可能な世界だと面倒が起きないので、人間はそれを好んだわけです。
予測のつかない行動をとる人たちはコロコロ気が変わり、あてにできないので、都合が悪い存在です。
そういう人は、信頼できないし、頼りにできないし、無責任だ、と言われます。
彼らは気が変わるので、不都合なのです。
彼らが変わると、自分も変わらなければならず、自分はそうしたくないかもしれないと不安になります。
そこで人は変化に抵抗し、自分たちが作り上げた「宇宙の法則」とやらをもちだし、ほかの人々をコントロールしようとするわけです。
そうして、規則はさらに、責任感のある人間であれ、信頼できる人間であれ、思いやりのある人間であれ、とつづきます。
人間の生活が、いかに規則にがんじがらめになっているかわかっていますか。
何を食べるべきか、何を食べてはいけないか、いつ呼吸すべきか、どのように呼吸すべきか、何を考えるべきか、何を考えるべきでないか、いちいち決めなくてはなりません。
どうやって、これをこなしていくつもりなのでしょうか。
何を考え、何を考えるべきでないか、どうやって考えるのですか。
何という膨大な任務を自分に課したことでしょう。
しかも、どれもこれもくだらないことばかりです。
「あらゆるものは神である」という、本質的真理をみんな忘れてしまっています。
すべてが神だとしたら、あなたが選ぶこともすべて神です。
けれども、あなたはすべてが神であるということを信じていません。
教会という宗教制度は人々に「悪」というものが存在し、それに対して日夜戦いつづけなくてはならないと教えます。
私には悪は見えません。
私は悪の存在を信じません。
私は怖れの存在を信じ、人々が他人に対して冷たい態度をとるのは、怖れが原因だと考えます。
心のなかに「大いなる愛」をもって生まれなかった人は、ただのひとりもいません。
けれども、怖れは「大いなる愛」を覆いかくし、「愛するな。愛すると、自分の弱みをさらけだすことになるぞ。弱みがあると、誰かに傷つけられるぞ」とおどとかします。
傷つくということは、単に傷つくことにすぎない、それだけのことだ、ということを受け入れ、
痛みから逃れることに一生をついやすことをやめると、自分の世界が完全に変わってしまうのに気づきます。
心が痛むにまかせていてごらんなさい。
誰かそれで死にましたか。
すべての人々は傷つけられた経験があります。
何度も何度も傷つけられた経験があります。
それでも、人々はちゃんと生きています。
そのひどい経験の結果、あなたはどうなりましたか。
あなたは苦しみを怖れ、避けようとしていますが、その怖れはまぼろしてす。
悲しみなくして喜びは、経験できません。
そのふたつは同じ世界の両面なのです。
ですから、人があなたの悪口を言ったり、あなたに対してひどいことを言ったりするのなら、そうさせておけばいいのです。
どうでもいいことです。
傷つけられるようなことを言われたとき、あなたにはそれにどう対処するか、選択の道があります。
何の反応もしないこともできますし、あるいはその瞬間のすべてを楽しみながら、大胆にその、ドラマを演じきることもできます。
どちらでもいいのです。
そのことで憂鬱になり、気落ちし、罪悪感を感じたいのなら、それもけっこう、どうぞやってください。
堂々と、情熱をもって、生き生きと、エネルギッシュにやってください。
真剣にやってください。
こういうときに、何も選択の余地がないと思うと、そこで悩みが起きます。
自分は選ぶことができないと思うことが、あなたを傷つきやすくするのです。
あらゆる瞬間において、自分は選択の可能性に満ちていることがわかると、その人の世界は変わります。
あなたを傷つけるのはまわりの出来事ではなく、それに対するあなたの反応なのです。
このことは、もううん、ざりするほど聞かされたはずです。
けれども、自分の全存在をかけて、一度でも真剣にそのことに耳を傾けると、自分を傷つけるのは出来事ではなく、それに対する自分の反応だということが理解できます。
覚醒、あるいは悟りとは、あなたにとって何を意味するのでしょうか。
自分のまわりにあるものすべてとの一体感でしょうか。
喜びや慈しみの心や命を感じることでしょうか。
それらのものがまだ自分のものでないとしたら、何がそれを妨げているのかよく見てください。
注意深く観察すると、過去に根ざす怖れや、将来起こるかもしれない孤独や病気、罪悪感などに対する怖れを抱き、いつもそういうことを考えてクヨクヨしつづけている、そういう自分の想念がその原因だということがわかります。
あなたは過去と未来のふたつの極のあいだで行ったり来たりしています。
それから抜けでる道は心を静めることだ、とみんなが言います。
そこで、人はきびしい修行生活をして心を静めようとします。
でも、きびしい修行をする必要はありません。
あなたは心を静めることが必要なだけです。
あなたがしなければならないのは、それだけです。
心を静める最良の方法は、「いつも瞬間にいる」ことです。
いつも瞬間にいれば、あなたの心がザワザワすることはありません。
瞬間を生き生きと感じ、この瞬間が含むすべてのものを意識し、何ものも怖れず全意識がこの瞬間にあったら、そのとき、あなたは未来のことを考えてもいないし、過去のことを思いめぐらしてもいません。
あなたはこの瞬間、本当に生き生きとしたエネルギッシュな意識そのものとなり、それはもう、幸せな気分になるでしょう。
そして、その結果、困ったことになるかもしれません。
みじめな気分でいることに対して、あなた方の文化がどんな倫理観を持っているか、気がついているでしょうか。
子供が自分のことをすばらしく感じはじめると、母親はうねぼれてはいけないと叱ります。
自分は何かが上手だと言うと、子供は怒られます。
小さいときにすでに、自分は上手に何かできると言うのはいけないのだと学びます。
顔がきれいな子供は、自分はきれいだと言うかもしれません。
そうすると、人は、その子はうねぼれていると思うのです。
その女の子は自分の美しさを観察することはできても、その強みを自分に言ってもいけないし、他人に言うのはもっといけないということをおぼえます。
では、どうやって人は自分の強さを感じることを、学ぶことができるのでしょうか。
あなたはそれを感じることを許されていないし、まわりがあなたにそれを与えることもありません。
まわりの人間は、あなたに、自分たちよりすぐれていると感じてほしくないのです。
自分とは何かという感覚を、まわりもあなたに与えてくれず、自分自身でも与えることができないとしたら、どこからそれを得られるのでしょうか。
自分自身を受け入れ、自分の人生、自分の世界、そしてそのなかのすべての人、すべてのものを受け入れると、突然、今まで自分を受け入れてもらおうとして使ってきたエネルギーが解き放たれます。
地球界のみなさん、あなた方は人生という壁にずいぶん長いあいだ自分を打ちつけ、苦しんできました。
完全であろうとする努力をやめると、そのときようやく物事がうまくいくようになります。
今まで求めつづけてきた心の平安が得られ、物事の意味がはっきりしてきます。
私たちはあなた方に「今のままでいいんですよ」と言いつづけているのですが、ほとんどの人は私たちの言葉を信じていないようです。
すべてのものを創りだすのが神だとしたら、あなたの人生を創りだし、維持しているのも神です。
だから、すべては今のままで、そのままでいいのです。
何百万何千万という人間たちが、何度も転生をくり返しながら、信じられないほど無限に美しく躍動する「大いなる光」のタペストリーを織りつづけています。
あなた方の限られた意識のレベルからは、このタペストリーを見ることはできませんが、あなた方もいつか将来真理を理解し、ものへのこだわりを捨て、自分たちが創りだしたものを見ることができる日が来るでしょう。
そのときに、自分たちの創ったものがいかによいものだったか、ということがわかります。
必ずわかります。
この広大無辺のタペストリーこそ、あなたの人生の意味なのです。
あなた方の多くが、自分のまわりや人とのあいだで動くエネルギーの織り糸を見るという経験をしています。
「大いなる光」の波動が送られてきており、それが自分たちを生かし、はぐくんでくれていることをあなた方は知っています。
それは美しく生き生きとしていて、ダイナミックで底深く、満ち足りたすばらしいものです。
人間は自分の織り糸にあまりに近すぎるし、それを織るのに忙しくて、全体のすばらしさや、奔放さを見ることができません。
しかし、もしもそれを見ることができたら、ほんのひと筋の糸も、ただのひとつの出来事も、ただの一瞬も変えたいとは思わないでしょう。
あるがままですべて完壁だということがわかり、その一部であることに喜びとすばらしさを感じることでしょう。
あなた方はみんなその無限の広がりの一部であり、それは実に美しいのです。
どうか、そうした見方をするよう心がけてみてください。
質問:
これまでの長い人生で、自分をもっと賢く有能にするとか、精神性を高めるなどというようなことを何も学ばなかったという事実を、私は自分のエゴのせいで認めることができません。
自分の内部の奥深くを見てみると、誰でも同じような立場にいることがわかると思います。
あなた方はこれまで長いあいだ、他人の助けを借りないで、自分ひとりでがんばらなければならないとか、自分の道は自分で切り拓けとか、他人に甘えるなとか、自分のことは自分で、とかいった古い考えのなかで生きてきました。
これらの考えはすべて、くり返しの転生のなかで、何世にもわたって頭に植えつけられてきたものです。
全く過去や未来に気をとられないで、瞬間に生きるならば、自分とまわりの世界との関係が理解できます。
痛みがやってきて、それをあなたは経験し、そして痛みは去っていきます。
感情や考えがやってきて、あなたはそれに反応し、そしてそれは去っていきます。
それらのすべてを観察することにより、あなたのまわりには、これまでとはちがったパワーが築かれはじめます。
古いパターンの考えが現れなくなります。
それは、はじめはほんの瞬間的であったのが次には数時間にわたって、やがては数日間にわたるようになります。
そんなに一生懸命にがんばらなくてもいい、他人に感心されなくてもいい、賢くなくてもいい、ということがわかってきます。
こういう古い価値観のすべてが、あなたには意味のないものになってきます。
以前よりもっと幸せな気分になり、もっと喜びに満ち、ひも解かれる人生のただなかにいる、その瞬間にいると感じるようになります。
そのための唯一の方法はとにかくやることです。
自分の考えを考えないようにすることはできません。
ただ自分にできることは、全身のパワーでもって、この瞬間に意識をすえることで、新しい力が自分のなかにきざみつけられるようにすることです。
古い考えが頭にきざみつけられてきたのと同じように。
しかし、これらを築き直すのに、もっと転生をくり返す必要はありません。
この瞬間に意識をすえて生きはじめると、何の努力もなしに、今までとはちがった見方、人生観がそこから生まれてきます。
これを実行しつづけると、しだいに過去にしばられることがなくなります。
新しいものが優勢になってはじめて、古いものがなくなっていきます。
ただ一瞬一瞬に意識をすえ、本来の自分のパワーを感じると、今までの自己像はあやまっていたことに気づきます。
これまで人は、自分というものを肉体と精神を持って、時間と空間のなかを動きまわっている小さな存在だと思っていました。
これまでの古い価値観のすべては、この肉体と精神に対してのみ有効なものです。
けれども、それは本当のあなたの姿ではありません。
肉体と精神は、本来のあなたという全体性のなかのほんの小さなかけらの部分にすぎないのです。
瞬間に生きるパワーのなかから、この真のヴィジョンに対する気づきが生まれます。
真のあなたの姿のパワーに比べると、これまでの社会的規範や自分のニーズや欲求などのすべては実に色あせて見えます。
ここで私が話していることが、少しでもあなたにとって意味があるものならば、単なる概念やアイデアに終わらせず、実行に移さなければなりません。
そして、それを実行する唯一の方法はこの瞬間に生きることです。
まさにそれだけです。
それはすばらしい生き方です。
瞬間に生きはじめると、あなたはあらゆる音や景色や経験に対して、これまでより何倍も敏感になります。
全意識がその場にあると、すべては奔放で、生き生きとします。
人生が退屈なのは、自分は何でも知っていると思うからです。
けれども、あなたは何も知ってはいないのです。
なぜなら、すべての瞬間は新しいからです。
常に新しいものを、どうして知ることができるのでしょうか。
すべての瞬間が、新しいものを経験する機会になると、人生は楽しくなります。
この新鮮さこそ、人生の喜びが生まれてくるところです。
人生は決して古くなったり、終わったりはしません。
あなたが生まれたときと同じように、常に新鮮で可能性に満ちています。
『バーソロミュー
―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
(バーソロミュー 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
質問:霊性の高い人とはどういう意昧か、説明してくださいませんか。
霊性が高い人の真の特徴は、人生が人間の限られた知性ではとても理解できないような不可思議、神秘、命に満ち満ちていることを理解し、ただただ感謝と喜びに満たされ、すべてを受け入れる心を持つにいたった人です。
自分自身を「霊性の高い人」と決めつけることが問題なのは、そうするとすぐに、霊性の高い人は何をして、何をしないかと、リストを作り上げるからです。
それから何年もついやして、自分の作り上げたイメージに自分をはめこもうとします。
しかし、これも最終的にはよい結果を生みます。
というのは、この方法を長いあいだつづけていると、ついには自分の霊性を高めるために必要だと思っていたことは実行できない、という結論に達するからです。
もちろん、愛情にあふれて思いやりに満ちるときもあるでしょうが、同時に、怒ったり、恨んだりするときもあるわけです。
自己憐憫におちいるかと思うと、自分が大胆で、強くて、パワフルだと感じるときもあります。
こうして次々と展開するさまざまな状態を、すべて経験しながら学んでいくのですが、最終的には、真の霊性の高さとはどんなものかを理解することはとてもできない、という境地に達します。
頭で理解することはできないのだと悟った瞬間、慈しみの心と、無力感もしくは絶望といったふたつの異なる感情で満たされます。
自分の悩みを誰も完全に理解し、克服することはできないのだと悟った人に、他人を裁くことなどどうしてできるでしょうか。
自分が調和のとれた精神を二十四時間いつも保つことなどできないことがわかると、それを他人に期待するのは無理だと悟ります。
そこで、他人に対する思いやりの心、慈しみの心が生まれてくるのです。
同時に、「全く望みなし」という感情が生じます。
ずっと以前、私が「望みなし」の状態が好きだと言ったのはこういう理由からです。
「望みなし」の状態というのは、絶望に打ちひしがれているということではありません。
私の言う「望みなし」の状態にある人というのは、人生を理解することなどできないという、基本的叡智にやっと達し、抵抗をやめた人です。
理解しようとすると、自分で自分に頭痛の種を作るだけです。
誰かに傷つけられると、過去世で他人を傷つけたからそのカルマ(業・因縁)でこうなったのだろうかと、クヨクヨ悩む人がいます。
どうしてそんなことがわかるのですか。
また、たとえそうだとしても、それがどうだというのですか。
過去世で他人と問題を起こしたことを知ることが、その人の精神生活の助けになるでしょうか。
それを知ることでその人の心の傷が癒されるとは、少しも思いません。
自分の現在の行動を正当化するのに過去世を利用できると、頭の痛みは少しはおさまるかもしれません。
けれども、そうすることでその人の気持ちがよくなるでしょうか。
頭で何かを理解したと思った瞬間、頭はその行動に理由づけをし、それで解決した気になります。
そして、その人はもうその問題を考えようともしなくなります。
自分に正直な人であれば、他人から傷つけられることは何度も何度も起こることである、と認められるはずです。
人生の基本的真実を心の奥深くで理解すると、他人からまた傷つけられるのではないかと心配する必要がなくなります。
そしてその真実とは、「あなたの人生に関わるすべての人、世界中すべての人は心の平安を求めている」ということです。
他人を傷つけてしまったり、他人から傷つけられたりしたときにも、その行為は決して意図的なものではない、ということが理解できると、心の平安を求めることの助けになります。
本質的には、誰も他人を傷つけようなどと意図していないのだということが理解できますか。
人は、憎しみや悪意や悔恨(かいこん)から他人を傷つけるのではありません。
無知と怖れから人を傷つけるのです。
自分の頭で物事を理解しようとすると、何もわからなくなります。
誰かを前にして、あなたは自分とその人との関係を何とか頭でわかろうとします。
こういうことを、自分の子供や自分の親に対してやっています。
理解できれば、もう傷つけられないですむ、と自分にいつも言いきかせています。
いいですか、よく聞いてください。
頭で人生を理解することはできません。
人生はそんなに単純ではありません。
自分で思うほど、あなたは単純ではありません。
あなたは途方もなく広大無辺な存在だと、私は何回もお話したでしょう?
人がこのように広大無辺な広がりを持つ存在ならば、果たしてちっぽけな人間の頭で、自分が今自分の人生でしていることの意味や理由、他人の行動の意味や理由を理解することがいったい可能でしょうか。
「頭で理解しなければならない」と言う人は、自分が広大無辺な存在であることを否定しているのです。
したがって、霊性の高い人とは、理解の域に達しようと何年も苦心惨憺(さんたん)した人です。
あらゆる種類のヨガをやり、禅を学び、何でもやってみた人です。
そして最後には、「私とはこういう私なのだ」ということを理解するのです。
求道の結果、健康になったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。
菜食主義になって、病気になった人もいれば、それで健康になった人もいます。
「広大無辺性」に法則を当てはめることはできません。
広大無辺性に法則を当てはめようなどとするのは、ばかげたことです。
それはまるで、海辺に立って両手を広げ、
「波よ止まれ。
なぜ浜辺に波が打ち寄せるのかわかった。
だから私はここに立って命令する。
波よ止まれ」
というようなものです。
不可能なことです。
弟子として深遠な教えを学ぶときに、人は
「老師やグルは、自分の知らないことを知っている」
という考えを持ちます。
そして、自分が十分向上し、十分瞑想し、十分苦行に耐え、完全に自分を捨てることができれば、師が悟りの秘密のカギを与えてくれるだろうと期待します。
仮にこれが本当だとしてみましょう。
師は知っているが、あなたは知らない、師はカギを持っているが、あなたは持っていない、とします。
では、あなたが悟かどうかを決めるのは誰ですか。
あなたですか、師ですか。
師があなたを気に入らないとしたらどうしますか。
師があなたのシャツの色が気に入らないとか、あなたが土曜の夜していることが気に入らないとかしたらどうしますか。
師は、あなたが悟りの境地に決して達しないようにすることもできます。
あるいは、この師がたまたま批判的な性格であれば、あなたにはまだその時期が来ていないと言うかもしれません。
来世でもう一回やり直せと言うかもしれません。
三回転生してから出直してこい、と言うかもしれません。
そうされても、自分は強くてパワフルで、覚醒の可能性を自分の手に握っていると思うことができますか。
私はそうは思いません。
今度は、秘密を握っているのは師ではなく、自分だと感じているとします。
カギを握っているのはあなたなのですが、しかし、困ったことに、カギがどこにあるかわかりません。
どうやって探したらいいでしょうか。
今度は、今までと同じことを自分に対してすることになります。
もっと蔵しい戒律の生活をしたら、断食をもっとしたら、瞑想をもっとしたら、本をもっと読んだら、そうしたら、自分自身に秘密のカギを与えようというのです。
ここでもまた成功不可能な状況を生みだしています。
つまり、自分自身に対して隠していることを、自分に教えるように自分に頼んでいるというわけです。
こんなことが意味をなしますか。
私にはそうは思えません。
このような態度は、問題を取りちがえている結果から起こっています。
問題は、あなたが何かを知らないということではありません。
問題は、何か見つけなくてはならない、あるいはこの瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです。
あなたは、自分に何かが足りない、何かが欠けているといつも思っています。
このような直線的思考をつづけるならば、何度も転生して秘密のカギを探しつづけるはめになるでしょう。
あなたのエゴは、土曜の夜の乱痴気パーティーを全部おぼえているので、そんなに罪深い人間は秘密のカギを子に入れるのにあと三年は待たなくてはならないと思わせます。
エゴはいつも、
「心配するな。
悟りはすぐそこだ。
もう少しがんばれ。
すばらしい人が現れ、その人の話を聞いたら、悟りの境地に達せられるから」
とささやきつづけます。
誰かから与えてもらわなくてはならないと思っている限り、悟りの境地に達することはできません。
それでは求める人になってしまいます。
前にも言ったようにあなたは求める人か見つける人のどちらかなのです。
求める人は求めつづけます。
見つける人は「悟りを理解することはできないし理解する必要もないしそれそのものを生きるしかない」ということを悟ります。
私が話したいと思っている、たったひとつの神秘とはこのことです。
何度もくり返しますが、これがまさにそれなのです。
一瞬一瞬を生きるという生き方がそうなのです。
人生はもっとよくなってはいきません。
自分自身に対する最良の贈り物は、人生はこれ以上よくはならないという事実を受け入れることです。
どうかわかってください。
「この瞬間」こそが、「神なるもの」の姿です。
未来のあるときを待ちつづけていると、「明日」や「いつか」を次々に生みだしていくだけです。
今日こそが毎日です。
今日こそがすべての日です。
今日こそがその日なのです。
求めるのをやめ、「これ以上頭を使うことはできない。
体をこれ以上きたえることもできない。
できることはすべてやった。
できる限りの努力はした」
と納得し、今やただ自分の無力を感じる――そう言った瞬間、心からそう思った瞬間、エゴは抵抗を捨てます。
求道ゲームを演じるようにしたのはエゴですから、勝てないとわかったときに「死ぬ」のはエゴです。
この真理があなたの意識に入った瞬間、エゴのパワーはなくなり、あなたをかり立てるのをやめ、あなたの人生を試すことをやめます。
エゴは素直に抵抗を捨て、降参します。
本当のところ、エゴは決して死ぬことはなく、ただ降参するだけです。
エゴが最も好きなゲームは、霊性を高めるゲームです。
このゲームは、自分のまわりの人間に比べて、自分の方がすぐれた人間だと思わせてくれるので、非常にパワフルです。
何しろあなたは神を求めているのですから。
神を求めるのは、人間にとって最も崇高な行為だというのは、誰でも知っています。
こうして神を求めている人は、自分がパワフルでますます強く、賢く、崇高になっていくと感じます。
ついにはまわりの人たちから、けむたがられます。
あんまり崇高で、その人がいるだけで、まわりの人たちは罪悪感を感じるようになってしまいます。
まわりが罪悪感を感じるのは、その人のエゴが、いつも他人をあれこれ価値判断しては裁いているからです。
どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないのだ、ということを忘れないでください。
悟りは起こるべきときに、自然に起こるのです。
一定のやり方というものがあるとしたら、この部屋にいる人たちの多くは、すでに悟りを開いているはずです。
もしも一定のやり方があるとすればの話です。
しかし、そんなものはありません。
既成の方法や戒律というものは、ひとりの人間の悟りの経験にもとづいて作られています。
このひとりの人間の、悟りという広大無辺の不可思議な出来事にもとづいて、それがどうやって起こったのか、どうすれば同じような境地にたどりつけるのかが、数々の教典には記されています。
このような経験をした人は真実を言葉で語るのは不可能だと知ってはいるのですが、それでも何とか言葉にしようと努力します。
こうして言葉にされた瞬間から、それは書きとめられ、何千年ものあいだ人々はそれを読み、その教えにしたがいます。
何度も転生をくり返しながら、この悟りを求めつづけている人がいます。
気の毒なことに、今その人がどんなことを試みていようと、神は自分の外にある存在だという考えを持ちつづける限り、これからもまた何度も転生をくり返しながら、同じ道を求めつづけることになるのです。
高潔な人間になろうと努力している人を見てごらんなさい。
非常にむずかしいことに取り組んでいるばかりでなく、何よりもそういう人は人生を楽しんでいません。
長いあいだ人間は、神を求めるには、人生を楽しんではいけないと思いこんできました。
神は人生の楽しみ方など何も知らないと思ってきました。
しかし、「この世に喜びがあることこそ、神の存在のあかしてある」とも昔から言われてきています。
この言葉は、一般に考えられているよりずっと重要な意味を持っています。
次のことをどうかおぼえていてください。
自分はあゆむべき道にそってすすんでいて、何事も問題なくすべてはスムーズにいっている、と心の奥のほうで声がすると、人はそれによって自分は正しい、自分はす守れていると感じはじめることがあります。
そういうときこそ、何かおかしい、何かまちがっていると気づくべきなのです。
自分の人生が道理にかなっているのは、頭を使って生きているからです。人生には道理などありません。まだそれがわかりませんか?
命とは、スイッチを入れたら動きはじめ、以後、人間が作り上げたルールにしたがって何百年も何千年も休むことなく作動しつづける、そんな都合のいい機械のようなものではありません。
そういうふうにはなっていないのです。
神とは、天真爛漫で、創造性に富んだダイナミックなエネルギーの動きであるということは、何度もくり返し言ってきました。
もしも神、すなわち、命が人間のルールにしたがって休みなく動きつづける機械だとしたら、いったいどこに天真爛漫な性質があるといえるのでしょうか。
「大いなる命」の基本要素は喜びであり、その喜びが何であれ、その瞬間に起こっていることの自然な動きのなかから生まれるのです。
「大いなる自由」は、そうした動きのなかから生まれます。
「大いなる自由」を得ると、自分を裁くのをやめられます。
自分がなろうとしているものになろうとする努力をやめ、その代わり、今の自分が自分なのだ、今この瞬間がその瞬間なのだ、と感じるようになれば、あらゆる葛藤は終わります。
ところが、自分の葛藤がなくなるのを怖れている人がいます。
葛藤がなくなれば、どうやって悟りに達するのだろうかと疑問に思うからです。
これがパラドックスだということがわかりますか。
悟りを求めて葛藤しなければならないのに、悟りに達することができるのは、葛藤をやめたときだというわけです。
ここでの問題は、問題の提起のし方がまちがっているということです。
ラマナ・マハリシは、「あなたはすでに悟りを開いている」と言っています。
それを聞いて「わかった。わかった」と言いながら、あなたはちっともそれを信じていません。
そのことはちょっとわきにおき、いつかそれについて考えようと自分に言い聞かせます。
でも、やはり信じていないのです。
マハリシはつづけます。
「悟りへの唯一の障害は、自分は悟りを開いていないという考えである」
それを聞いて、あなたは、また、??の、わかってますよ」と思いながら、や
はり信じません。
マハリシはたわごとをしゃべっている愚か者であるか、または、真理を述べているかのどちらかです。
あなたが判断してください。
マハリシが真理を述べていると判断したなら、悟りへの最大唯一の障害は、自分はまだ悟りを開いていないという考えだ、というマハリシの言葉をどうか信じてください。
マハリシを信じても、信じなくてもかまいません。
ただし、中途半端に信じるのはやめてください。
中途半端になるのは、頭とエゴと肉体のしわざです。
自分を求道者だとみなす癖を捨てられない人はどのくらいいるでしょうか。
よく注意してみると、このような自己のイメージは、自分が他人より一歩先んじていると思わせるためにエゴが使う最良の武器だということがわかります。
誰もが認めるように、求道者というのは崇高な地位を占めています。
自分のことをよく思いたいがために、多くの人がこの役を演じます。
人生のほかの面で失敗した人が、「地球界ではさんざんな結果だったが、あちらの世界ではもう少しましなことができる」と考え、精神世界を追求しようとすることがよくあります。
残念ながら、地球界とあちらの世界とはひとつなのです。
地球界を飛び越して、雲の上の天国でちがう意識のなかに存在することはできないのです。
無辺に広がる悟りの境地への一番の近道は、この地球界を完全にありのままに受け入れ、自分を完全にありのままに受け入れ、他人を完全にありのままに受け入れ、自分自身を愛するように他人を愛することです。
自分のほうがすぐれていると思っていると、他人を愛することができません。
それはわざとらしいへり下りの行為ではあっても、愛ではありません。
では、どうやって愛すればいいのでしょうか。
自分の目の前にあるものや人をできる限りとにかく愛するのです。
今、自分らしくふるまい自分らしく話し自分そのものを感じるのです。
この一瞬において自分自身であることです。
一生懸命努力することをやめると自分にそんなにきびしくなくなるしそうすると、他人にもきびしくなくなります。
この世はひどいところだと感じ、人々は否定的で批判的で、悪徳に満ちていい加減だと思っている人は自分自身が人間として欠けていると感じているので、自分がまともだと感じられるように自分よりも劣った世界を外に投射するのです。
これを果てしなくつづけるのですが、結局そこから答えは得られません。
この世界が神以外のものから創られたと考えている人に対しては、私は何も言うことはありません。
しかし、あなた方、「神なるパワーと呼ぶものによってこの世界が創られ、今だに創られつづけ、維持されていると信じるのであれば、次のステップに移る必要があります。
この世に神と悪魔というふたつの存在が本当にあるのでしょうか。
人間が神から切り離されてしまったというのは本当でしょうか。
こうした古くからの考え方がどこから生まれたか、知っていますか。
それはとても単純なことから起きたのです。
あるとき、人間が何人か集まって話し合いました。
「自分の気のおもむくままに生きるというのも悪くはないが、予測がつかない。
人生、もう少し予測可能であるべきだ。
いくつか規則を作ろう。
規則があれば、物事がどうなるか知ることができるだろう」
予測可能な世界だと面倒が起きないので、人間はそれを好んだわけです。
予測のつかない行動をとる人たちはコロコロ気が変わり、あてにできないので、都合が悪い存在です。
そういう人は、信頼できないし、頼りにできないし、無責任だ、と言われます。
彼らは気が変わるので、不都合なのです。
彼らが変わると、自分も変わらなければならず、自分はそうしたくないかもしれないと不安になります。
そこで人は変化に抵抗し、自分たちが作り上げた「宇宙の法則」とやらをもちだし、ほかの人々をコントロールしようとするわけです。
そうして、規則はさらに、責任感のある人間であれ、信頼できる人間であれ、思いやりのある人間であれ、とつづきます。
人間の生活が、いかに規則にがんじがらめになっているかわかっていますか。
何を食べるべきか、何を食べてはいけないか、いつ呼吸すべきか、どのように呼吸すべきか、何を考えるべきか、何を考えるべきでないか、いちいち決めなくてはなりません。
どうやって、これをこなしていくつもりなのでしょうか。
何を考え、何を考えるべきでないか、どうやって考えるのですか。
何という膨大な任務を自分に課したことでしょう。
しかも、どれもこれもくだらないことばかりです。
「あらゆるものは神である」という、本質的真理をみんな忘れてしまっています。
すべてが神だとしたら、あなたが選ぶこともすべて神です。
けれども、あなたはすべてが神であるということを信じていません。
教会という宗教制度は人々に「悪」というものが存在し、それに対して日夜戦いつづけなくてはならないと教えます。
私には悪は見えません。
私は悪の存在を信じません。
私は怖れの存在を信じ、人々が他人に対して冷たい態度をとるのは、怖れが原因だと考えます。
心のなかに「大いなる愛」をもって生まれなかった人は、ただのひとりもいません。
けれども、怖れは「大いなる愛」を覆いかくし、「愛するな。愛すると、自分の弱みをさらけだすことになるぞ。弱みがあると、誰かに傷つけられるぞ」とおどとかします。
傷つくということは、単に傷つくことにすぎない、それだけのことだ、ということを受け入れ、
痛みから逃れることに一生をついやすことをやめると、自分の世界が完全に変わってしまうのに気づきます。
心が痛むにまかせていてごらんなさい。
誰かそれで死にましたか。
すべての人々は傷つけられた経験があります。
何度も何度も傷つけられた経験があります。
それでも、人々はちゃんと生きています。
そのひどい経験の結果、あなたはどうなりましたか。
あなたは苦しみを怖れ、避けようとしていますが、その怖れはまぼろしてす。
悲しみなくして喜びは、経験できません。
そのふたつは同じ世界の両面なのです。
ですから、人があなたの悪口を言ったり、あなたに対してひどいことを言ったりするのなら、そうさせておけばいいのです。
どうでもいいことです。
傷つけられるようなことを言われたとき、あなたにはそれにどう対処するか、選択の道があります。
何の反応もしないこともできますし、あるいはその瞬間のすべてを楽しみながら、大胆にその、ドラマを演じきることもできます。
どちらでもいいのです。
そのことで憂鬱になり、気落ちし、罪悪感を感じたいのなら、それもけっこう、どうぞやってください。
堂々と、情熱をもって、生き生きと、エネルギッシュにやってください。
真剣にやってください。
こういうときに、何も選択の余地がないと思うと、そこで悩みが起きます。
自分は選ぶことができないと思うことが、あなたを傷つきやすくするのです。
あらゆる瞬間において、自分は選択の可能性に満ちていることがわかると、その人の世界は変わります。
あなたを傷つけるのはまわりの出来事ではなく、それに対するあなたの反応なのです。
このことは、もううん、ざりするほど聞かされたはずです。
けれども、自分の全存在をかけて、一度でも真剣にそのことに耳を傾けると、自分を傷つけるのは出来事ではなく、それに対する自分の反応だということが理解できます。
覚醒、あるいは悟りとは、あなたにとって何を意味するのでしょうか。
自分のまわりにあるものすべてとの一体感でしょうか。
喜びや慈しみの心や命を感じることでしょうか。
それらのものがまだ自分のものでないとしたら、何がそれを妨げているのかよく見てください。
注意深く観察すると、過去に根ざす怖れや、将来起こるかもしれない孤独や病気、罪悪感などに対する怖れを抱き、いつもそういうことを考えてクヨクヨしつづけている、そういう自分の想念がその原因だということがわかります。
あなたは過去と未来のふたつの極のあいだで行ったり来たりしています。
それから抜けでる道は心を静めることだ、とみんなが言います。
そこで、人はきびしい修行生活をして心を静めようとします。
でも、きびしい修行をする必要はありません。
あなたは心を静めることが必要なだけです。
あなたがしなければならないのは、それだけです。
心を静める最良の方法は、「いつも瞬間にいる」ことです。
いつも瞬間にいれば、あなたの心がザワザワすることはありません。
瞬間を生き生きと感じ、この瞬間が含むすべてのものを意識し、何ものも怖れず全意識がこの瞬間にあったら、そのとき、あなたは未来のことを考えてもいないし、過去のことを思いめぐらしてもいません。
あなたはこの瞬間、本当に生き生きとしたエネルギッシュな意識そのものとなり、それはもう、幸せな気分になるでしょう。
そして、その結果、困ったことになるかもしれません。
みじめな気分でいることに対して、あなた方の文化がどんな倫理観を持っているか、気がついているでしょうか。
子供が自分のことをすばらしく感じはじめると、母親はうねぼれてはいけないと叱ります。
自分は何かが上手だと言うと、子供は怒られます。
小さいときにすでに、自分は上手に何かできると言うのはいけないのだと学びます。
顔がきれいな子供は、自分はきれいだと言うかもしれません。
そうすると、人は、その子はうねぼれていると思うのです。
その女の子は自分の美しさを観察することはできても、その強みを自分に言ってもいけないし、他人に言うのはもっといけないということをおぼえます。
では、どうやって人は自分の強さを感じることを、学ぶことができるのでしょうか。
あなたはそれを感じることを許されていないし、まわりがあなたにそれを与えることもありません。
まわりの人間は、あなたに、自分たちよりすぐれていると感じてほしくないのです。
自分とは何かという感覚を、まわりもあなたに与えてくれず、自分自身でも与えることができないとしたら、どこからそれを得られるのでしょうか。
自分自身を受け入れ、自分の人生、自分の世界、そしてそのなかのすべての人、すべてのものを受け入れると、突然、今まで自分を受け入れてもらおうとして使ってきたエネルギーが解き放たれます。
地球界のみなさん、あなた方は人生という壁にずいぶん長いあいだ自分を打ちつけ、苦しんできました。
完全であろうとする努力をやめると、そのときようやく物事がうまくいくようになります。
今まで求めつづけてきた心の平安が得られ、物事の意味がはっきりしてきます。
私たちはあなた方に「今のままでいいんですよ」と言いつづけているのですが、ほとんどの人は私たちの言葉を信じていないようです。
すべてのものを創りだすのが神だとしたら、あなたの人生を創りだし、維持しているのも神です。
だから、すべては今のままで、そのままでいいのです。
何百万何千万という人間たちが、何度も転生をくり返しながら、信じられないほど無限に美しく躍動する「大いなる光」のタペストリーを織りつづけています。
あなた方の限られた意識のレベルからは、このタペストリーを見ることはできませんが、あなた方もいつか将来真理を理解し、ものへのこだわりを捨て、自分たちが創りだしたものを見ることができる日が来るでしょう。
そのときに、自分たちの創ったものがいかによいものだったか、ということがわかります。
必ずわかります。
この広大無辺のタペストリーこそ、あなたの人生の意味なのです。
あなた方の多くが、自分のまわりや人とのあいだで動くエネルギーの織り糸を見るという経験をしています。
「大いなる光」の波動が送られてきており、それが自分たちを生かし、はぐくんでくれていることをあなた方は知っています。
それは美しく生き生きとしていて、ダイナミックで底深く、満ち足りたすばらしいものです。
人間は自分の織り糸にあまりに近すぎるし、それを織るのに忙しくて、全体のすばらしさや、奔放さを見ることができません。
しかし、もしもそれを見ることができたら、ほんのひと筋の糸も、ただのひとつの出来事も、ただの一瞬も変えたいとは思わないでしょう。
あるがままですべて完壁だということがわかり、その一部であることに喜びとすばらしさを感じることでしょう。
あなた方はみんなその無限の広がりの一部であり、それは実に美しいのです。
どうか、そうした見方をするよう心がけてみてください。
質問:
これまでの長い人生で、自分をもっと賢く有能にするとか、精神性を高めるなどというようなことを何も学ばなかったという事実を、私は自分のエゴのせいで認めることができません。
自分の内部の奥深くを見てみると、誰でも同じような立場にいることがわかると思います。
あなた方はこれまで長いあいだ、他人の助けを借りないで、自分ひとりでがんばらなければならないとか、自分の道は自分で切り拓けとか、他人に甘えるなとか、自分のことは自分で、とかいった古い考えのなかで生きてきました。
これらの考えはすべて、くり返しの転生のなかで、何世にもわたって頭に植えつけられてきたものです。
全く過去や未来に気をとられないで、瞬間に生きるならば、自分とまわりの世界との関係が理解できます。
痛みがやってきて、それをあなたは経験し、そして痛みは去っていきます。
感情や考えがやってきて、あなたはそれに反応し、そしてそれは去っていきます。
それらのすべてを観察することにより、あなたのまわりには、これまでとはちがったパワーが築かれはじめます。
古いパターンの考えが現れなくなります。
それは、はじめはほんの瞬間的であったのが次には数時間にわたって、やがては数日間にわたるようになります。
そんなに一生懸命にがんばらなくてもいい、他人に感心されなくてもいい、賢くなくてもいい、ということがわかってきます。
こういう古い価値観のすべてが、あなたには意味のないものになってきます。
以前よりもっと幸せな気分になり、もっと喜びに満ち、ひも解かれる人生のただなかにいる、その瞬間にいると感じるようになります。
そのための唯一の方法はとにかくやることです。
自分の考えを考えないようにすることはできません。
ただ自分にできることは、全身のパワーでもって、この瞬間に意識をすえることで、新しい力が自分のなかにきざみつけられるようにすることです。
古い考えが頭にきざみつけられてきたのと同じように。
しかし、これらを築き直すのに、もっと転生をくり返す必要はありません。
この瞬間に意識をすえて生きはじめると、何の努力もなしに、今までとはちがった見方、人生観がそこから生まれてきます。
これを実行しつづけると、しだいに過去にしばられることがなくなります。
新しいものが優勢になってはじめて、古いものがなくなっていきます。
ただ一瞬一瞬に意識をすえ、本来の自分のパワーを感じると、今までの自己像はあやまっていたことに気づきます。
これまで人は、自分というものを肉体と精神を持って、時間と空間のなかを動きまわっている小さな存在だと思っていました。
これまでの古い価値観のすべては、この肉体と精神に対してのみ有効なものです。
けれども、それは本当のあなたの姿ではありません。
肉体と精神は、本来のあなたという全体性のなかのほんの小さなかけらの部分にすぎないのです。
瞬間に生きるパワーのなかから、この真のヴィジョンに対する気づきが生まれます。
真のあなたの姿のパワーに比べると、これまでの社会的規範や自分のニーズや欲求などのすべては実に色あせて見えます。
ここで私が話していることが、少しでもあなたにとって意味があるものならば、単なる概念やアイデアに終わらせず、実行に移さなければなりません。
そして、それを実行する唯一の方法はこの瞬間に生きることです。
まさにそれだけです。
それはすばらしい生き方です。
瞬間に生きはじめると、あなたはあらゆる音や景色や経験に対して、これまでより何倍も敏感になります。
全意識がその場にあると、すべては奔放で、生き生きとします。
人生が退屈なのは、自分は何でも知っていると思うからです。
けれども、あなたは何も知ってはいないのです。
なぜなら、すべての瞬間は新しいからです。
常に新しいものを、どうして知ることができるのでしょうか。
すべての瞬間が、新しいものを経験する機会になると、人生は楽しくなります。
この新鮮さこそ、人生の喜びが生まれてくるところです。
人生は決して古くなったり、終わったりはしません。
あなたが生まれたときと同じように、常に新鮮で可能性に満ちています。
『バーソロミュー
―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
(バーソロミュー 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体