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愛ではないもの

この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。

         バーソロミュー

―――――

愛ではないもの

地球の人々の最も深い関山事のひとつは愛であり、愛とは何かということだと思います。
愛とは、本当は非常に単純なことなのですが、地球界では、多くの錯覚や誤解に満ちた概会になっています。
そこで、「愛ではないものは何か」ということについて考えてみたいと思います。

自分には愛し愛される相手がいると感じている人たちは、自分たちの愛を非常に強くて深い、決して変わることのない感情であると思っています。
ここで問題になるのは「決して変わらない」という言葉です。
一見すると永遠につづくと思われる強い愛も、よく観察してみると、決してそれが永久につづくものではないことに気づきます。

ここに深くて変わらぬ愛を抱きあっていると思っているふたりがいるとします。
このふたりが人生をともにあゆむにしたがって、ある日、奇妙なことが起こります。
ふたりにとって重要な問題に関して、大きな意見のくいちがいが生まれたのです。
このような状況にどう対処するかは人によってちがってきます。
ふたりがインテリの場合は、それぞれが自分の立場を正当化して議論をするでしょう。
ふたりが、怒るのはよくないことだと考える「いい人」であれば、自分の不満をそれとなく間接的に表現するでしょう。
また、感情的な人たちの場合には、怒鳴ったり、わめいたりすることになります。
いずれにしても、これらの言動はどれも怒りや恨みの表現であって、愛情表現ではありません。

こうした状況においては誰も愛を感じることはできません。
自分の夫婦関係や恋愛関係を注意深く観察すると、このような摩擦が何度も起きていることに気がつくはずです。

一般に愛と思われているのは、実は、引力のように惹きつけられる「魅惑」という感情の動きです。
そして、この引力には反発という感情がついてきます。
この相反するふたつの感情は常に共存しています。
現在、深い愛情関係にありながら、この魅惑と反発の感情が共存していることを認めるだけの正直さを持ちあわせない人に対しては、私から何も言うことはありません。

誰かに心を動かされているからといって、その感情を愛だと思いこむのは単純すぎます。
自分の心のなかをよく見つめてみると、非常に意地悪で否定的な感情や恨み、利己的な考えもあるのに気がつくはずです。
それは、とても人間的なことです。
ではここで、愛とは何でないか、という点について考えてみましょう。

愛は自然についたり消えたりするものではありません。
ある日あったものが、次の日にはなくなっている、というようなものでもありません。
それは愛ではなく、感情です。
愛とはワクワクするような華やかなものである、というイメージを捨ててほしいと思います。
愛とは魅惑的なものであるという考えがあやまりであることに気づき、自分の人生において大切な人々に対して抱いている本当の感情を理解したときに、やっと愛とは何かを理解できるのです。

愛とは何かということが、なぜそんなに大事なことなのでしょうか。
自分は最高の愛を経験していると感じている人も多いことでしょう。
しかし、私の目から見ると、地球の人々は最もすばらしい愛をまだ経験していません。
最高の愛とは、人々が考えているよりはるかにすばらしく、地球界で言われる「最高の愛」はそれに比べると色あせて見えます。

ここでヒントを出します。
それによって、恋愛関係にあるとき、人がとる行動についてのあやまった思いこみを捨てる助けにしてください。
まず、自分が非の打ちどころのない完壁な恋人であると思っている人は、自分を変えようとは決してしません。
一方で、恋人に対して自分の思いやりの足りなさを率直に認めることのできる人は、自分の行動を変えることをいといません。
自分のなかの思いやりのない部分に気づくということは、他人から学ぶという姿勢を持つことで、柔軟な思考を必要とします。
この姿勢は、大いなる自由―「人間界の幻影の鎖を解き放ち、無限の可能性に目覚めた状態」を得るために通らなくてはならない過程において重要な一歩です。

では、誰から学んだらよいのやでしょうか。
それは、学ぶ人がどんな人で、どんなタイプのものにその人が惹かれるかによります。
経験者の助けを借りるのが嫌いな個人主義者の場合は、ふつう自分自身の経験から学ぶことになるのですが、この方法はとても困難です。
本質と幻影を常に判別できるとは限らないし、ときには、わき道にそれて、つまらない退屈な人生を送ったりしてしまいます。

最も簡単な方法は、すでにその道を切り開いた先駆者を見つけ、自分にあった方法でその先駆者から学ぶことです。
これにはいろいろの方法があります。
この先駆者は生きている師やグル(導師)でもかまいませんが、ほかにも先駆者はいます。
多くの先駆者はすでにこの世にいませんが、あゆんだ軌跡をはっきりと残しており、本を通してそれを知ることができます。
そうした本のリストから「これだ!」と感じるものを見つけてください。
そして本物の愛、大いなる愛へ一歩でも近づけるよう、その先駆者の助けを借りてください。

まず、あなた自身のなかで、どういった分野で愛情を持った行動がとれないのかを見つけ、それから、あなたの求める「大いなる愛」の状態を実現し行動に移している師を探してください。
師は、必ずしも現在生きている人でなくてもかまいません。
肉体を持っていないからといって、その人の力強い生きた叡智を学び取れないということはありません。
人聞は個々別々の肉体を持つバラバラの存在だというのは地球界の幻影であって、高い意識の観点ではないのだということを理解してください。

では、肉体を失うと、その人の叡智はどこに行くのでしょうか。
叡智は「大いなる意識」(宇宙の集合意識)の大海原のなかに常に存在し、過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しています。
偉大な真理や叡智は死滅することはありません。
真理や叡智そのもののなかに勢いや速度というものがあり、「大いなる創造物」(宇宙のすべての現象)のなかを動きまわっています。

真理を求めたり、求道の思いに導かれたりするのは、そのような真理が宇宙のエーテル体のなかに存在するからなのです。
そのような叡智や真理を自分に引き寄せ、それを実感することは誰にでも可能です。
たとえば、自分にとっての真理の道はキリストまたはキリスト意識を体現化した道をあゆむことだと決心したとします。
その場合、キリストの愛と叡智を今の時点でも受け取ることができます。

ここで私が言っているのは、二千年前に示された、神の真理を肉体を通して現したパワフルで創造的な叡智であって、現在、キリストの言葉として信じられている単なる宗教上の解釈のことではありません。
キリストの没後、人間の言う「連続する時間」の流れのなかのどの時代においても、キリストの道をあゆむ者なら誰でもこの真理に生き生きと触れることができました。

そして、これらの人々の存在が真理の勢いを今まで維持してきました。
すぐれた使徒はこのようにして偉大な師に仕えるのです。
つまり、使徒は学び、理解し、教えを身につけ、さらにその教えに心を注ぎ、行動し、自ら体験することによって教えを生かし、「後世に残して」いくのです。
ですから、使徒が教えを身につけ、それを実践することは、師に対して大きな貢献をしていることになります。
このような教えを地球界で実践することによって、教えの真髄をより実際的に理解することができるようになります。
ですから、宇宙の「大いなる叡知」と結びついた偉大な師の誰とでも、今、交流することができるのです。

あなたが自分のすすむべき「道」を選び、その道にしたがって生きようとするなら、まず、心を完全に開いて「大いなる叡智」が何らかの形で自分の前に現れるように謙虚に祈ることです。
そうすると、あなたの人生にいろいろなことが起きはじめます。
その起こり方もさまざまです。
たとえば、何年も前にもらって読まずに放っておいた本が急に読みたくなったり、前に読んだことのある本がまた目に入り、今度読むと以前とはちがった新しいことを発見するということがあったり、また、友だちから何かもらったり、新しい考え方にめぐりあったり、といったことが起こります。

地球界の人々の感覚では、こんなことは日常的な取るに足らないことに思えるかもしれません。
しかし、宇宙の叡智との結びつきを知ろうとするなら、こうした小さな出来事に心を留めることが必要です。
「大いなる自由」を求める心が真摯であれば、「広大無辺なもの」(宇宙の無限の存在)はあなたの探求を速める手伝いをしてくれることがわかります。
今まで思いもかけなかったような人たちに出会うようになり、さらに、さまざまなことが起こりはじめますが、それが単なる偶然で起きているのではないということを理解しなくてはなりません。

なぜなら、これらすべてはあなたという存在の「あり方」そのものが強力なメッセージを宇宙に送りだしているために起こっていることだからです。
「助けてください。私にはこれが必要です」というあなたの求めの声が宇宙に流れたからなのです。
こうして求めるものが明確になり、それを自分という存在の「あり方」の中心にすえたときから、自分のまわりで何かが起こりはじめます。

このことが愛といったいどういう関係にあるのでしょう。
実はこれらすべてが愛と関わりを持っているのです。
愛とは、何かをしたり、頭であれこれ考えることではありません。
自分のなかや自分のまわりにあって、自然に流れ動くものが愛なのです。
そして、その人のあり方そのものが「崇高なる愛」なのです。

しかし、このことに地球の人々はまだ気づいていません。
人々は、愛を非常に狭いあやまった見方で見ています。
ある肉体が別の肉体を好きになったり、自分のまわりの少数の肉体に好意を持つことが愛だと思っています。
これは全くナンセンスです。

愛とは行為や行動をさすのではありません。
愛のただなかにいるときに人が鮮明に意識するのは、愛とは自分のあり方そのものだという事実です。
人のあり方そのものが愛だとすれば、誰かに対して「あり方」をどうするということはできません。
愛とはあなたの本質そのものであり、あなたのあり方なのです。
あなたそのものということは、あなたには自分でそれをコントロールできないということです。
それは「大いなる源」(すべてを生みだした根源的エネルギー)から与えられ、はじめから人間にそなわっているものです。
すべてのものはこの「大いなる愛」から創りだされます。
ですから、自分が愛であることを感じている人は、この状態が全く自分のコントロールの範囲外にあることを理解しています。
どんな人が目の前に現れようとも、愛がその瞬間を支配する感情だからです。
とても風変わりな人が現れても、その人に対する深い思いやりと、相手への理解が心のなかからわき起こってきます。
これが「大いなる愛」です。
誰を愛するか誰を愛さないかを、いつも自分で選んできた人々にとってこれは信じがたいことかもしれません。

あなたは一日のうちに何回も、自分の心のなかから思いやりや、相手の気持ちを理解する心が自然にわき上がってくるのを経験するようになります。
このような感情は必ずしも誰かに向けられた情熱的な感情ではありません。
むしろ、日常のちょっとしたことから生まれる小さな心の動きです。
自分では意識しないような、日々の小さな出来事のなかに織りこまれている感情です。
他人とのいさかいなどから目を離して、このような感情の動きにもっと注意をはらうようにすると、そうした感情が強くなり、もっとひんぱんにそれを経験するようになります。

愛は、自分の意思の力で生みだしたり、あるべきだと要求したりできるものではないということを忘れないでください。
あなたにできることは、愛を体現していると思う道にしたがうことだけです。
自分とは何か、自分とは何でないか、ということがわかってくるにつれ、この愛の真理に気づくようになります。

人生に対するこれまでの幻影がはがれ落ちると、それに代わって入ってくるのが、「大いなる愛」という、ダイナミックなパワーです。
このパワーは「神なる源」の主なエネルギーのひとつです。
このエネルギーは、あなたのなかを流れて外界に出ていき、そのたびに勢いを増していきます。
このエネルギーは観察することができます。
行動に現れた愛として見ることができます。
ただし、現在、地球界で見られるもののほとんどは個人対個人の愛の行動で、「大いなる愛」はほとんど見られません。

自分を愛情深い人間だと思っている人は、もう一度その考えを見直してください。
自分を「愛情深い人間だ」と考えるのは、人間のエゴがふりかざしたがる最大の幻影です。
性的な魅力を感じていることや、友情や、親としての本能的感情などに見られる愛は、自分はますます愛情深い人間になりつつあると思わせるために、その人のエゴが使う手立てにすぎません。

では、自分が本当に愛情深い人間かどうか、どうしたらわかるのでしょうか。
あなた方にとって、その答えはあまりにシンプルすぎて、受け入れがたいかもしれませんが、こういうことです。
自分の心をよぎるすべての人、自分の目の前に現れる人のすべてに対して、温かい思いやりの心とその人たちの気持ちを理解する心を持つことができたとき、その人は本当に愛情深い人ということができます。
ほとんどの人は、いい仕事を持ち、愛する人々に囲まれていれば、自分の人生はうまくいっていると考えます。
これもまた地球界の人々が抱いている幻影の一部です。
今はまだ多くの人が、このような感情的な愛を本当の愛と勘ちがいしています。

自分の人生を誰かのために犠牲にしようとしている人は、もう一度考えてみてください。
相手がいつもひどいことばかり言うような場合でも、あなたはその人に対して美しく、清らかな愛情を持ちつづけることができるでしょうか。
このような愛情関係においては、ふつう、それぞれがその関係から何を得ているかということが問題となります。
たとえ、自分にプラスになるものを得ていなくとも、その関係から何かを得ている限り、その人はその関係をつづけるでしょう。
けれども、その関係が変化して、自分が望むものが何ひとつ得られなくなったときに、「愛がさめた」とその人は言うのです。

恋におちいることができるということは、また、さめることもできるということです。
人間のエゴから生まれるこのような愛情関係のように、やってきたり去っていったりする愛情は本物ではないのです。

自分の感じている気持ちが「大いなる源」から生まれる本物の愛なのか、または、エゴの生みだした単なる幻影なのかを知るには、自分がその瞬間抱いている感情や思いを見つめ、「自分のまわりでどんなことが起ころうとも、この気持ちを常に持ちつづけることができるだろうか」と自分に問いかけることです。
もしその気持ちを永遠に持ちつづけることができないのでしたら、それは地球界における浮かんでは消える人間ドラマのひとつにすぎません。
「神なるもの」が生みだす本物の「創造劇」ではありません。
こういう感情にいちいち心をわずらわせなくてもいいのです。

この自分への問いかけは人生のあらゆる出来事に応用できます。
ある特定の出来事を心に思い浮かべると、そのときの気持ちや考えが不変のものかどうか、自分でわかるはずです。
不変のものであれば、その感情は「大いなるすべて」の一部であり、大切にすべき感情です。

ここで私が強調したいのは、努力や意思の力で愛を得ることはできないということです。
あなた方ひとりひとりがすでに愛そのものだからです。

ただ、この愛の状態を実感するためにあなたにできることがあります。
それは愛したいと心から望むことです。
これは誰にでもできることです。
自分に対する見方を変え、他人との関係を変え、世のなかに対する自分の態度を変えるのです。
自分の可能性のすべてを生かしたいと強く望めば、あらゆる面において自分の態度を変えることができます。
もしもそれが信じられないなら、今、自分の人生にどんな愛があるかよく考えてみてください。
本物の愛は現れたり、消えたりしません。
それは常にあるのです。
それが本物のあかしです。

あなたに最もあった、あなたらしいやり方を見つけてください。
そして愛したいと強く望むことです。
その強い気持ちが正しい道へと導いてくれます。
正しい道をあゆんでいけば、必ず最後は叡智と愛の境地へと到達します。
真の道を求めると、叡智と愛は姉妹のように一緒についてきます。
こうした道は、最初はどんなにけわしくとも、最後には愛にめぐり会います。
最初は愛にかたよった道であっても、最後には必ず叡智に行きつきます。

愛と叡智はコインの裏表であり、切り離すことはできません。
どんな道を選ぼうとも、旅の終わりに発見するのは愛と叡智なのです。
どんな道を選ぶかはそれぞれの責任です。
愛と叡智を自分のものとしていない師や、グルを、まちがって選ばないようにしてください。

愛を生みだす公式のようなものはありません。
何度も言いますが、愛のエネルギーはすでにあなたのなかを流れています。
自分のなかにある愛に注意を向けなければあってもなくても同じです。
愛があなたの人生に役に立つのでなければ、あってもしかたがないではありませんか。

「大いなる愛」とは、あなたの求めるものすべてに対して休むことなく流れる深い愛のエネルギーであり変わらぬ思いやりの心です。
それはこの宇宙のすべてを創りだした「大いなる源」の一部です。
そして「大いなる源」の一部であるあなたの一部でもあります。
人間はひとりひとり別々の肉体と別々の心を持つ「大いなる源」とは関係のない存在であるという考えは、あやまりであり、錯覚です。
すべての人間は「大いなる愛」そのものであるということを真剣に考えてみてください。

あなたは愛なのです。
あなたが愛なのですから当然あなたは愛を知ることができます。


『バーソロミュー
  ―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
    (バーソロミュー 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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