スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

体験のすばらしさ

あなたは愛されている。
愛についてあなたが持つ理解を超えるほど愛されているのだ。
それは、あなたが神、自分が誰か、何者なのかを理解しようと苦心している神として以外見られたことがないからだ。

思考の探索という冒険の中で、あなたは人間という細胞体を通して自己を表現することを選んだ。
それは、人間の体験、つまり物質という限りある形体に生きる神の体験について、学ぶべきことをすべて学ぶためだった。
この体験は、神について完全に理解するために必要なことだ。
なぜなら、限りある状態を理解する前に、いったいどうして限りないという状態が理解できるだろう。
純粋な思考の膨大な広がりから物質という制限まで、神のすべてを理解する前に、神である自分のすべてを理解することがどうしてできるだろう。
悲しみ、限界、そして死という幻を体験する以前に、よろこび、自由、そして永遠をどうして理解できるだろうか。

この次元でのゲームや幻をあなたは大げさに、ひどく真剣に演じているが、その単なる目的とは、教え、成長させ、覚醒させること、言い換えればあなたを理解するのを助けるだけのことである。
この人生とは、叡智という、人生で得られる最高のもののために自分がさまざまなゲームを演じ、幻を体験する舞台にすぎないのだ。

では叡智とは何か。
それは人間の内にある神にすべて属し、人間の魂の中に集められるすばらしき宝だ。
叡智とは、あなたが思考(つまり神)の領域への冒険すべてから得てきた感情の蓄積であり、この次元を去るときにあなたが持っていく、ただひとつのものなのである。
あなたのすばらしい衣服や、邸宅、すごいスピードで走る自動車などを持っていくとでも思うのだろうか。
いったい何を持っていくと思うのか?
自分そのものを持っていくのだ。
つまり、生という本質の内部への旅で得られた感情すべてなのだ。
感情こそが、人生の真髄なのである。

圧政や宗教、政府の支配などの圧力、人種間の分断と迫害、あるいは男女、兄弟同士の分断など
を通じて人類が学んできたものは、そのすべてが、神の地位をおそらく最も衰退したところにまでおとしめることを通じて実感されたものと言えるだろう。
だがそれでも、戦いで他者を征服したり、ほかの人間の自由を拒んだり、女性をおとしめて、男よりも劣る存在にすることは、どれも実際に体験してみなければ、それがどんな感じかわからないものばかりなのだ。
自分でそういうものを夢見てはそれを現実化し、その夢を意図的に体験する創造主にならなければ、それを感情として知ることはけっしてできなかったのである。
しかし、幾度もの生を通じ、一瞬一瞬を生きることによって、それはあまりに確立された現実となってしまい、ほとんどの人間は精神に異常をきたし、不安となり、この夢の中に埋没しまったのである。

人類が自分たちにこれほど野蛮な行ないをするのを許すこの神はどこにいるのか、とあなたは訊くことだろう。
そして、こんな残虐行為が起こるのを許してきたなら、その神の愛なるものとはいったいどこにあるというのか?
それは、まず神はいつもそこにいたのだ。
神はあなたのゲームや幻像のすべてとなってきたからである。
そして、神は間違いなくあなたのことをずっと愛してきた。

なぜなら、あなたの夢をあなた自身がつくり出したそのままに体験することを許してきているのだからだ。
あなたは、もともと自分でこの夢をつくり出したことを忘れてしまったにすぎない。
そして、いつでも自分の好きなときにそれを変える選択があることも。

あなたは自分の幻像を大いなる苦難と哀しみへと織りなしてきた。
自分の身体をこわすような生き方もしている。
心はどこかにやってしまった。
偶像を崇拝している。
他者に対して批判の目を向ける。
やたらと価値判断を下し、憎しみにあふれ、所有欲が強く、つねに怖がっていて、そして間違いなく倣慢だ。
この目的は何なのか。
それは、そういう人生を生きることがどういうことかを理解することだ。

では、求める最終的な結果とは何か。
けっして死なず、永遠に生きること。
天の王国と呼ばれるものを理解し、心に抱くこと。
そして、神の顔を見ること。
それが自分自身であるのに目覚めることなのだ。

ここにいる高貴な存在たち、自分の不安や、取るに足らない思考の罠にはまっている者たちよ、あなたは自分が演じてきたゲームなどとは比べものにならないほど偉大な存在なのだ。
そのゲームが、幻像の影の奥深いところに、あなたの真の姿である崇高な美を隠してきてしまったのだ。
自分がどれほど強力で華麗な存在であるかを知っていたなら、あなたはいまのように自分を罵ったり価値判断を下したり、あるいは変質させてしまったりはしないことだろう。

そのあなたのところに私はやってきた。
私はこれまでの、そしてこれからの皆の姿すべてである。
私がきたのは、すでにあなたが自分の内に持っている「知っている状態」を再び呼び覚ますためであり、自分を見失い、罪悪感や恐れ、そして自己否定に苦しむことをなくすためなのだ。

私はなぜ皆をそれほど深く愛するのか。
それは、あなたは、私でもあるからだ。
あなたがそうであるものはすべて、あなたという存在の広がりすべてが、私にもなる。
なぜなら、私は、あなたがもともと自分の幻像をつくり出す根本となる広がりそのものだからだ。
「在るもの」である私は、ここでのふつうの言葉では表現できない愛だ。
なぜなら、そこには何の条件もないからである。
在るがままでいる皆を私は愛しているのだ。
どういう形で表現をしていても、あなたはそのままで、私が深く愛する父なる存在そのものだからである。

さて、今度は皆が自分の過ち、欠点と考えるものについて語りたいと思う。
人間が創造した正しい―誤り、あるいは完全―不完全という概念は、同時に罪悪感、後悔の念という落とし穴をつくり出し、それが人生において成長していくのをきわめて困難なことにしている。

しかし、皆に言いたいのは、この次元での数多くの生を生きたということだけをとっても、これまで皆がしてきたことで、何ひとつ悪いものはないということだ。
そして、いいものも何ひとつないのである。
それは単に、いまの自分をつくるのに役立つ生の体験であったにすぎない。
そしてそれこそが、いちばん大切ですばらしいことなのである。
なぜなら、このいまという瞬間のあなたは、この驚くべき旅を始めて以来、これまでで最も偉大な存在だからだ。
それは、あなたの叡智が過去よりも偉大だからなのである。

皆がしてきたことはすべて、私も同じことをしてきている。
皆の間違いと同じ数だけ私も間違いを犯してきた。
自分の内に強さと美徳が欠けると皆が価値判断を下している面についても、私もやはりそう思っていたことがある。
しかし、自分の弱さを知るまでは、強さがわかることはけっしてなかっただろう。
自分から生命の潮が引いていくのを見るまでは、それを愛することはなかっただろう。
そして、人間の残虐さをさげすむまでは、皆をひとり残らず心に抱き、受け容れることもけっしてできなかっただろう。

これまで皆がしてきたことはすべて、それがどんなに下劣で卑しいことであろうとも、それは単に自分のために学びの機会をつくる目的でしたことなのだ。
その学びを通して、皆は傷つき、苦痛を味わい、悲しみ、そして自分をおとしめてきたのに、そこから再び立ち上がってきた。
なぜなら、自分の真の姿である美を知り、心に抱く準備ができているあなたが、いまここにいるからなのだ。

自分が失格だ、あるいは何か過ちを犯してきたと考える人には次のことを思いめぐらせてほしい。
生まれた瞬間から、あなたも、そしてあなたの愛すべき兄弟たちも、すべての想念を一つひとつ感情面で理解していくという壮大なる旅に出発した。
あなたの魂は、あなたが自分の存在の神、あるいは精神を通して受け容れる想念〈つまり神の個々の側面〉の一つひとつの感情を蓄積するようつくられている。
自分の魂の内に受け容れ、感じてはいるが、まだ完全に理解していない想念については、魂はそれを直接体験するようあなたをつき上げる。
なぜか?
その想念のすべての側面について、体験を通してはじめて見える感情面での完全な理解を得るためだ。
その体験が、生というものである。

永遠というときを通じて、あなたは進化し、生を創造的なものへと広げ、その創造性が現実化したものをすべて体験していくようつき動かされてきた。
思考から光、物質、形あるものへ、そこから再び思考へ、そして愛とよろこびから羨み、憎しみと哀しみへ、そして再びよろこびへと戻るプロセスだ。
あらゆる形の思考、価値観、すべての感情を理解するというその命を満たすため、あなたの魂は体験から体験へ、冒険から冒険へとあなたを動かしてきた。
あなたが思考のすべてを知り、理解できるようにである。
そして、思考のすべてとは、神のすべて、そして自己のすべてのことなのだ。

魂は、まだ経験したことがないものを渇望する。
魂がある体験を渇望しているとき、それはその体験からの感情のデータを必要としていることを意味する。
そのため、魂は欲求というフィーリングをつくり出し、それがあなたの存在すべてをとらえ、冒険、体験へと駆り立てていく。
そして、その体験が終わり、そこからくる感情が収まるとき、この地上界にあるすべての黄金よりも高価な宝をあなたに与えたことになるのだ。
あなたを叡智の中へと一歩進めたのである。
それは、もうこれは体験する必要はない、そこから得られる理解はすべて得た、とあなたの魂が言っていることを示している。
あなたの魂は、また別のことを求め、あなたは何かほかのことをするようつき動かされていく。
それは必要だからであり、そうしたいからだ。
あなたの内にある炎が、すべての生を体験するよう迫るからなのである。

自分が何かを体験しようとその第一歩を踏み出したとき、それが自分にとって間違っているとか、失敗するとか知りながら、なおかつそうしたのだとでも思うだろうか。
そんなことはない。
あなたは大いなる好奇心、関心、それによろこびをもってすべての冒険に脚を踏み入れたのである。
当初はその結果がどうなるかあまりわかっていなくても、まだその体験がないという理由だけで、先に進んでいったのだ。
それは新しい、わくわくするような体験で、あなたはそこから何かを学びたかったのだ。
その冒険では確かに痛みを体験したかもしれないが、それはあなたが「痛み」という感情を理解するのに役立ち、生というもの全体への理解をさらに豊かにしたのである。
したがって、その体験はあなたの人生で、ある明確な目的を持っていたのだ。
そして、魂があなたに体験するよう熱望した、別の感情と叡智の冒険へと向かっていったのだ。
それは、あなたの魂の内に、幸せと満たされた感覚とをもたらしてくれたのである。

すべてあなたがすることは、その瞬間、自分にとって正しいことをあなたは自分の魂の内で知っているのだ。
その冒険を体験し、そこから生じたフィーリングが落ち着いて、ひとつの智慧となったあとにはじめて、ひょっとしたらもっといいやり方、あるいは違うやり方ができたかもしれないと確かめられるのである。
しかし、まず実際にその体験に一歩を踏み出し、そこから智慧という宝を手に入れるまでは、もっと良い方法があったことはわからなかったはずだ。
そんなことで断罪されるべきなのだろうか。
そんなことはない。
それは純真さであり、これこそ学びというものだからだ。

失敗というのも、何かを失敗だと信じる者たちだけの現実だ。
だが、本当の意味で、生きることに失敗する人はいない。
ひとりたりともいないのだ。
あなたがしてきたすべての行為にもかかわらず、それがどんなに卑しく、軽蔑に値するような秘密であっても(実はそんなことはないのだが)、あなたはいまでも生きており、それこそが奇跡的な出来事なのである。
失敗とは、生きるプロセスが止まることだが、何も止まってはない。
なぜなら、生は途切れなく続くものであり、一瞬一瞬、前進しているものだからだ。
だから生きるという過程では立ち止まったり、逆戻りすることはできない。
生が途切れなく広がっていく中で、一つひとつの瞬間は、さらに偉大な、そしてそれよりもっと偉大な叡智をもたらし続けていくからである。

あなたは失敗したことなどない。
いつも学んできたのだ。
不幸にならずして幸せというものをどうして知ることができるのか。
自分の目標に近づいてみて、それが自分で思い描いていたものと違う色合いのものだったとわかる前に、どうしてその目標が何かを知ることができるのか。

あなたは過ちを犯したこともない。
一度たりともないのだ。
何も間違ったことをしたこともない。
何のために罪の意識を感じる必要があるのだ?
あなたのしてきた間違ったこと、失敗、誤りなどは、すべて一歩ずつ進むための「神への階段」と呼ばれるものだ。
そして、あなたがいま知っていることは、すべて一歩一歩進むことによってのみ知ることができたものなのである。

学びについて罪悪感を感じてはいけない。
叡智について罪悪感を感じることもない。
それが覚醒というものだ。
あなたは、自分に必要だったことをしてきたという点を理解しなくてはならない。
すべては必要だったのだ。
そして、あなたはすべてにおいて正しい選択をしてきた。
すべてにおいてである!
あなたは明日も生き、次の日も、その次の日も、ずっと生き続けていくのだ。
そのとき、この今日という日に知っていたよりもずっと多くのことを自分は知っていることがわかるだろう。
だが、この今日という日は「間違い」ではない。
それはあなたを永遠へと導いてくれる道なのである。

あなたは自分の好きなように夢を創造できる。
だが、自分の理解という目的のためにどんな形の夢をつくり出そうとも、それは同時にあらゆる場所の意識全体に何かを加え、豊かにしているのである。
あなたがそこから何かをただ取り去るということはない。
それはできない。
あなたが嬉々として取り組んでいく冒険は、すべて生をさらに情熱的で鮮やかなものにする。
心に抱くすべての想念、体験するすべての幻像、すべての発見、それにどんなに卑しく醜いものでも、あなたの一つひとつの行為は、あなたの理解を広げるのであり、それが今度は人類全体の意識に新たなものを加え、それを広げるとともに、神の精神をも拡張するのである。

もし自分が人生で失敗し、何か過去に間違ったことをしたと思うと、自分自身の内面、外面両方の偉大さ、それに生全体の重要性を見て取る力を減じてしまう。
過去をなくしたいなどとけっして思ってはならない。
過去のどの一部でもだ。あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験との間の相克は、あなたの魂の内に、美しき叡智の宝玉をつくり出したからだ。
それは、もう二度とそういう夢は見る必要はないし、そのゲームをつくり出すことも、その体験もしないことを意味している。
すでにすべて体験し、それがどんなふうに感じるかもあなたは知っているし、生で最高の宝であるフィーリングというその記録を魂の内に持っているからだ。

私は、あなたが愛されていることを伝えるためにここにいる。
愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたは愛されているのだ。
それは、あなたが、自分が誰か、何なのかを理解しようと苦心している神として以外見られたことがないからである。
そして、これまでのすべての生でのあらゆる体験から、あなたは知識と智慧を得てきた。
それを世界に与えてもきた。花が開くように展開されていく生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。

あなたの人生は、あなたの内にある火がつくり出したすばらしき壮観だった。
それは、聖なるもの、神なるものとして敬意を払うべきものだ。
なぜなら、あなたが何をしようとも、あなたは神だからである。
どんな仮面をかぶろうともあなたは神なのだ。
どんな人間関係を体験していようとも、あなたはやはり神なのである。

あなたはこの生の冒険すべてを楽しむに値するのだ。
すべてを、である。
そしてもっと大事なことは、これから先あなたを待っている華麗なる冒険を楽しむにも値するということだ。

しかし、これまで自分がしてきたことは、すべて自分自身である神の叡智を得るためだったのだということに気づくまでは、あなたは「在りて在るもの」になることは許されない。
その叡智とは、いまこの瞬間、この場において、生という舞台でのあなたの体験すべてを通してその手本が示されているものなである。

自分の背中に重荷を抱えていきたい人は、もしそれが幸せをもたらすのであれば、そうしたらいい。
しかし、もしそこから学ぶべきものはすでにすべて学び、もううんざりしているなら、そんなものはどこかに捨ててしまうことだ。どうやって?
それを愛し、心に抱き、受け容れ、あなたの存在の中にそういうものがあることを許すのだ。
そうすれば、それがあなたを抑えつけることはもうなくなる。
そして、生の神秘はくっきりとした視界を通して見ることができ、愛は価値判断を下さずに感じることができて、存在のよろこびは限りない知識の力となることができるのである。

自分の生を抱き、受け容れるのだ。
自分が神なる存在であることを知り、これまであなたがしてきたことすべてがあったからこそ、いまの自分の存在の強さがあるのだということを知ることだ。

罪悪感をもつのをやめるのだ。
哀しみにくれる自分という、ばかばかしい偽善はよそう。
自分に重荷を課すのをやめることだ。そして他人のせいにするのをやめるのだ。その責任をしっかりと自分
の手につかむのだ。
もとはと言えば、それはあなたのものなのだ。
さて、これまであなたが断罪してきたことを心に抱いて受け容れ、軽蔑してきたものを愛し、幻像を生きることを終え、そして夢はすべて追い求めてしまったらどうなるのだろうか。
あなたは、ほかの人間がそういうものを彼らの学びのために体験しているのを見て、それを理解し、彼らに慈しみの心を持つことができるようになる。
そうすれば、彼らのことを、父があなたを愛するのと同じように愛することができる。
そして、彼ら自身の生の体験を持たせてあげることができる。
そうすると、あなたは「聖者」と呼ばれるものになる。

どうすれば聖者のようになれると思うだろうか。
人生から身を引くことによってではないのは確かだ。
洞窟や寺で隠遁生活をおくったり、香を焚いたり、あるいは高い山の頂にすわって、何だかわけのわからないことを思いめぐらすことででもない。
父なる存在である生を生きることによってのみ聖者になれるのであり、それは生を究極まで体験し、叡智がこれ以上はないというところまで深まっていき、人類全体を受け容れ、愛することができる存在に結晶することなのである。

神を知り、神になるただひとつの方法は、完全に生を生き、受け容れることだ。
魂がすべての生の叡智を持てるように、あらゆる状況を体験し、あらゆる感情を感じ、崇高な、あるいは卑しい行ないをすべてすることなのだ。

自分が王になるまで王の苦しみはわからない。
そして、王は自分の召使いになるまでそのつつましさを知らない。
信心深い女性は愛人になるまで、その立場にある女性の苦しみはわからないのだ。

そして愛人の立場にある女性は、信心深い女性になるまでその価値判断を知ることはできないのである。

したがって、徳ある生への道は、あらゆるものを内包するものでなくてはならない。
それは、人間の意識の内につくり出されるあらゆる性質、あらゆる状況の幻像を含んでいる。
これこそ、最も賢く、高貴な存在が、人類の冒険がつくり出したあらゆる状況を生きてきている理由なのである。

賢者は淫売であり、僧侶であった。
導師であり農民であり、殺人者でありその犠牲者であり、征服者であり征服される者であり、子どもであり親であったのである。

わかるだろうか。
あなたが責める他人の側面とは、自分の中で受け容れることのできない自分自身の側面なのだ。
あらゆる状況を生き、そのすべてと折り合いがついているならば、ほかの人間を理解し、価値判断なしに彼らをそのままでいさせてあげることができる。なぜなら、あなたはすでに彼らであったことがあり、彼らに審判を下せば、それは自分を断罪していることになるのを知っているからだ。
そうすれば、あなたは真の慈しみの心という美徳を得たのであり、深い愛があなたの魂の内に存在することとなる。
するとあなたは、まさにキリストだ。
愛を理解し、愛すべき兄弟たちを、彼らの限界を含め、許すことができるからである。

父なる存在のすべてを愛する、そのすべてになるというのは、そのすべての面を愛することだ。
そしてそのすべてとは、あなたのまわりにいる愛すべき兄弟たちのことなのだ。
どんな姿をしていようとも、あなたがそうあるように、彼らもまた自分の現実のなかで神なのである。
そして、彼らの栄光、その苦闘、その哀しみとよろこびをすべて生きたとき、あなたはすべての人の内に見える神を抱き、受け容れられるのだ。すると彼らを愛することができる。それは何も世間に出ていって皆に教えなければならないとか、救いを与えなければいけないということではない。
ただそのままそっとしておき、自分の必要性と考えにしたがって進化させてあげるのだ。
自分の命というものが、軍人になることであったり、僧侶であったり、あるいは商売をすることである人もいる。
それが彼らにとっては必要なものであり、したいことだからだ。
あなたにそれを奪い取る資格がどうしてあろうか。

この世界にいるすべての人間は、飢えていようと、身体に障害があろうと、農民であろうと王であろうと、そこから何かを得るために自分の体験を選んでいるのだ。
そこから学び、その体験を充分に得てはじめて、内奥の自己にまた別のさらに大事な叡智をもたらしてくれるほかの体験へと進んでいくのである。

あなたが本当の師となるとき、限界ある意識の闇と泥沼の中へと脚を踏み入れながらも、あなたは自分を全き存在に保つことができる。
なぜなら、あなたは世にあふれる大衆の心を理解しているからであり、彼らがなぜそういう状態なのかがわかっているからである。
それは、あなたもそうだったことがあるからだ。
限界ある状態でいるという自由をあなたは彼らに許す。
これこそが真の愛だ。
なぜなら、それが限りない叡智を持つことを学び、互いを愛することができるただひとつの道であるのをあなたは知っているからだ。

互いを愛するとは、もちろん自分自身を完全に愛することである。
そして、群衆の中にひとつの顔を見るとき、その肌の色、外見、清潔か否かなどに関係なく、その存在を見て、その内にある神が見えるのである。
本当にじっくりと見れば、誰の内にも神は見えるからだ。
そうすれば、あなたは父なる存在が愛するように愛している。
父が見るものを自分自身だけにではなく、ほかの誰にも見るようになる。
皆を見て、その真の姿である美を見ることができたとき、あなたはこの次元から、たくさんの館がある壮大なる空間へと昇る旅を始めている。

だが、自分自身を完全に受け容れ、まわりのすべての生命に生きる神を受け容れることができない者には、その扉は閉じたままなのである。

人間を神なる知性という、本来あるべき場所に戻し、何をしていようとも、人は自分自身の内にある神のために生きていることを知るとき(あなたが自分の内にある神のために生きているのと同じように)、あなたはすべての人を愛することを学ぶ。
これまでの存在ではじめて、人がどんな自己表現をしていようとも、あなたは真に彼らを愛することができる。
あなたの愛は価値判断で制限されるものはないからだ。
そして、それこそ、神として生きる人間であるキリストの内面の存在の姿なのである。

あなたの人生の道とは何だろうか。
それは、つねに自分のフィーリングにしたがうことだ。
自分の魂の内にあるフィーリングに耳を傾け、それを体験するよう魂があなたを駆り立てる冒険に脚を踏み出すことだ。
もしあなたが耳を傾けるなら、あなたの魂は何を体験する必要があるのか教えてくれるだろう。
何かに飽きたり、それをする欲求がないときは、あなたはもうその体験を終えて、そこから得られる叡智を手にしたということだ。
だが、もし何かをしたいというなら、魂の内にあるその要求は、その体験をして、そこから得られるものを手にしなくてはならないことを意味している。

それを控えたとしても、別の機会、あるいは別の存在になるときまでその体験を延期しているにすぎない。

自分の内に感じる真実を生き、それを感じている自分という存在を愛するのだ。
フィーリングというものは、表現し、満たされなければならないことを理解しよう。
何かひとつのことをしたいと思うとき、それが何であるかはまったく関係なく、その気持ちに従わないのは賢いことではない。

そこにはひとつの体験があなたを待っているのであり、人生を楽しくしてくれる壮大な冒険が控えているからだ。
自分のフィーリングに耳を傾ければ、あなたという美しき自己が深遠なる叡智へと進化していくために、あなたは必ず正しいことをしている。
自分のフィーリングに反することをしたときに、身体の病や、神経症や絶望が訪れるのである。

自分の心、自分の夢、自分の望みを追い求めることだ。
それが何であっても、魂があなたに求めることをして、それを完結させる。
そうすれば、次の冒険へと進んでいくだろう。
あなたはけっして審判を下されることはない。
ただそれは、自分のまわりにいる人間の審判を受け容れない限り、ということだ。
そしてもしそれを受け容れたとしても、そうするのがあなたの意思であるにすぎない。
その体験を得るためである。

この人生か、あるいはこれから続く生で、これやあれやをする欲求がなくなり、ただ「在る」ことを望むときがやってくる。
淫売や盗っ人や殺人者、あるいは戦争に明け暮れる因子を罵ったり、審判を下したりしたい気持ちがもう失せてしまうのだ。
そういうものになってきた体験がすでにあり、彼らのような状態でいるのがどう感じるかを知っているのである。
この次元での体験が完了しているので、それを体験するためにここに引き寄せられ、戻ってくるというものがもう何も残されていないのだ。
するとあなたは、さらに偉大なる存在の次元での新たな冒険へと向かっていくのである。

いま私があなたに語ったことを思いめぐらしてみれば、あなた自身である力強い神、内なる炎、そして生命が、ある目的をもってあなたに見せている内なる価値を知覚し、理解できるだろう。
また、人生をどういう方向に向けていきたいにしても、これこそがあなたの覚醒への道であることもわかるであろう。

そして、その道の途中にある冒険すべてから、あなたは自分という神秘について、さらに深い視点を得ることができる。
自分そのままを愛し、磨きをかけ、大切にするようになり、あなたの存在の光は天界にある太陽神(ラー)と輝きを競い、あなたの内なる平穏は、地上のすべてが静謐に浸る真夜中の平穏と競い合うほどになるのだ。

いまある自分を否定することは二度となくなる。
自分を変質させることもけっしてない。
自分という人間に価値判断を下すこともけっしてないのだ。
自分に在るがままでいさせてあげるのである。
自分を在るがままで愛するとき、あなたは威厳と優美さ、そして謙譲の強さをもってこう言える。
「父なる存在を私は深く愛す。
父と私はひとつだからだ。
そして在るがままの自分を愛す。
『われ在るもの』である私は『在りて在るもの』すべての真髄だからだ」。
するとあなたは生の流れと調和した状態に入る。
この地上界を歩く師(マスター)となるのだ。

あなたは復活したキリスト、目覚めたキりストなのである。
世界の光となるのだ。
しかし、自分のしてきたことすべてを心に抱き、受け容れ、愛するまで、それがすべて自分の人生を良きものとする目的のためであったことに気づくまでは、あなたはそうなることができない。
今日のあなたという、すばらしき存在をつくり上げたのは、これまでのあなたなのだ。

私はこの崇高なる教えを、どちらかと言えば威厳を持って皆に伝えてきたが、それは、そうすることがカルマや罪業や、審判や天罰といったものに「引っかかっている」あなたを助けてくれるからだ。
父なる存在とは、愛そのものなのである。
父には審判がない。
善悪もない。
ポジティブもネガティブもない。
父なる存在は、単に存在する「在るということ」なのだ。
そしてその「在るということ」は、あらゆる人々、あらゆる行ない、あらゆる想念、あらゆる感情、つまり森羅万象、喜怒哀楽のすべてを内包しているのである。
もし父があなたに一度でも価値判断を下すことがあったとしたなら、それは間違いなく自分への審判を下していることになる。
父とあなたとは、ひとつで同じものであるからだ。

生という名の神の愛は、あなたにいつも与えられてきた。
あなたがどんなにひどい体験をしようとも、太陽はまた昇り、天界を舞う。
季節は訪れ、去っていく。
野鳥は北の空に向けて飛び去る。

あなたが部屋の窓を閉めるとき、夜鳥はさえずる。
わかるだろうか。
もしあなたが目を向けさえすれば、この途切れなき継続性にこそ、生があなたにいつも与えてきた許しの心、そして、永遠というものがあるのに気づくことができるのだ。

この会場から去るとき、軽くて、愛にあふれた心をもっていくとよい。
あなたの重荷は取り払われたのだ。
あなたが救われることも間違いない。
神はあなたを愛しているし、これまでもずっとそうしてきたことを知ることだ。

自分は悪ではなく、そして善でもないことを知るのだ。
そして、完全でも不完全でもなく、ただ在るのだということを。
これからは父なる存在があなたの人生の一部となると思うことだ。
なぜなら、父はいつもそこにいたのだから。

そして、愛について思いを馳せるときは、いつも私のことを思ってほしい。
すると、どこからともなく風が吹いてくることだろう。

『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。