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閉ざされた心

脳全体の能力は膨大なものだ。
なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。
残りはいったい何のためにあると思うのだろう?
何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。

もともと脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、その全き「知っている状態」で受け取るようにつくられているが、自分が受け取ることを許す波動だけを受け取る形で活動するようになっている。
そして、あなたをひとつの個体としてまとめている神のもとに嵐のようにやってくるすばらしい想念の中で、ほとんどの人は、社会意識という低い波動の想念だけを「知っている状態」として自分の内に受け容れているにすぎない。
それは、皆もよく体験してきたように、きわめて限られた狭いものだ。
そして、社会意識にしたがって生き、その限定された思考を占めている波動だけで物事を考えると、脳の中で活動するのは、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部分だけになる。

脳のほとんどは休眠状態にある。
何もしていないのだ!
それは、自分の家族、仲間、あるいは社会や教義などの限られた思考に合わない考えは、あなたが自分でそれを論破してしまうからだ。
それを除いてしまうのである。
言い換えれば、ほかの人間が受け容れてくれる考えだけを思いめぐらし、それを使って物事を考えるというわけである。

皆は「閉ざされた心」という言葉を持っている。
実はそれは、文字どおりそのままの描写だ。
社会意識の境界線を越えた思考へと脚を踏み入れるのを拒むとき、脳のある部分が波動の高い思考に対して、文字どおり閉ざされてしまうのである。
これは、脳下垂体がその口状部をほんの少ししか開放しないように設定れているからだ。
つまりそれは、脳の中でも、社会意識という低い波動を受け容れる部分だけを活動させているのである。

誰かが天才で、あなたの知らないことを知っているとき、そのたったひとつの理由とは、その人が自分の心を開き、もしこうなったらどうなるとか、突拍子もないような考え、人間の限られた思考を超える輝きを持つ想念に思いをめぐらしたからにすぎない。
そういう想念を抱き、それを使って考えることを自分に許したのである。

それに対し、あなたはそういうものを拒絶したのだ。
それが受け取れないのは、そういう思考を使って考えるのを可能にしてくれる脳の部分をまだ起動させていないからである。

それでは、あなたの光の構造(オーラ)に嵐のごとく押し寄せてぶつかってきている無限の叡智、偉大な想念はいったいどうなってしまったのだろうか。
それはあなたのレシーバーではね返されて、存在の精神を通って思考の河へと戻されているのだ。
閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。

だが、神という領域では、何も不可能なことはない。
どんなものであろうとも、その概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。
夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。
それが、すべての創造物が存在するようになった道なのである。

誰かに対し、何かが「ただの想像にすぎない」と告げるとき、あなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。
そして、まさにそれこそが、この地上界のすべての子どもたちに起きていることなのである。
つまり、あなたたち皆のことだ!

はっきりと言おう。
何であろうと、考える対象となることを許されたものは、すべて存在する。
そして、自分に考えることを許したものは、あなたは必ず体験する。
あなたの電磁場がそれをあなたのほうへと引きつけてくるからだ。

閉ざされた心でいることの最も残酷なところは、それがよろこびを知るのを妨げてしまうということだ。
それはあなたを人間の幻影の奴隷のままにしておくのである。
自分自身の、そして神の栄光を知るのを妨げてしまうのだ。
せばめられた心で社会意識にしたがって生き、考えることを続けている限り、変化をもたらすのではという恐れのおかげで、あなたは未知の次元へと脚を踏み出し、さらに偉大な現実の可能性を思いめぐらすことはけっしてないだろう。

確かにそれは変化をもたらす。
なぜなら、生きて、そして死んでいくだけのこぎれいな世界にあったものに比べたら、見るもの、理解するもの、そして自分が関わっていくものがもっとたくさんあるからだ。
自分に与えられてきた限られた思考を容認している限り、脳のはるかに多くの部分を起動させて、これまでの存在で毎日直面してきた思考以外のものを受け取り、それを体験することはあり得ない。

これまでに自分の基準として容認してきたものよりも偉大な想念をひとつ受け容れるたびに、それは脳の中の別の新しい部分を、明確な目的をもって起動させる。
それをするたびに、その偉大なる思考は、あなたの理性をさらに広げていく「手段」としての役割を、その時点から演じてくれるようになる。
それが脳のさらに別の部分を起動させ、もっと多くの思考を受け取り、もっと多くを知ることを可能にするのだ。

超意識、そして限りない思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。
それが開けば開くほど、ホルモンの流れも増え、眠ったままの状態の脳の部分ももっと起動されて、さらに多くの波動の高い思考を受け取ることができるようになるのである。

天才になるというのはとても単純なことなのだ。
自分で考えるようになればいいだけなのである。

脳は、多くの人々を困惑させてきた偉大なる神秘だ。
それを取り出しては調べてみるものの、水であるその液体を除いては何も見つけることができないでいる。
水は電気の伝導体だ。
水の比重が高いほど、そこを流れる電流の増幅も大きくなる。
脳のなかで眠った状態にある部分では、液体の比重が高くなっているが、それは、高いレベルの思考の波動を強い電流に増幅し、さらに速いスピードでそれを全身に送るという目的のためだ。
したがって、休眠状態にある脳の部分に多くの思考を蓄積すればするほど、身体は活発になり、動きも速く、その反応も深いものとなるのだ。

脳の全体が使われれば、自分の身体をどうにでもできるようになる。
あなたが受け取る想念の感情をすべて記録し、それをしっかりと抱いている魂を通じて、あなたの脳、それにそこから身体に向けて発せられる信号は、身体を自分の思考が決めるとおり、どんなものにでも創造していくことができるのである。

もし脳がその能力いっぱいまで使われたとしたら、自分の身体を一瞬のうちに光に変えてしまうことができて、しかもその身体は永遠に生きるということをあなたは知っているだろうか?
もしも手足の一部が失われているとしたら、あなたの脳はそれを再生する力があることを知っているだろうか?
完全に活動状態にある脳は、身体をわずか一瞬のうちに癒すことも、あるいは自分が望むどんな理想の形態にでも物理的にその姿を変えることができるのである。

脳全体の能力は膨大なものだ。
なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。
残りはいったい何のためにあると思うのだろうか。
何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。

身体は、脳とあなたの思考全体にしたがって維持されている。
自分の脳に入ることを許す想念は、すべて身体の全細胞に電気を送り、それを養っていくからだ。
なのに、子どものときから、さらに社会意識でものを考えるようになってからというものは、成長しなければならない、老いていかねば、そして死なねばならないというプログラミングをあなたは容認してきてしまった。
その想念を容認したために、自分の体内にある生命力の劣化が始まったのである。
「年をとっていく」という想念は、遅い波動、低い波動の電気信号を各細胞組織に送るからだ。
速度が遅いほど、身体の敏捷さも失われていく。
身体が再生し、自己を修復していく力が弱くなるからだ。
こうして、年をとるという過程が起きることが許容され、最終的には身体の死が起こるのだ。

だが、もし自分に波動の高い想念を受け続けさせれば、あなたはもっと速い、強力な電流を全身に送ることになり、身体は永遠にその瞬間にとどまることになるので、けっして年をとることも死ぬこともなくなるのである。

しかし、ここにいる誰もが、身体は年をとり、死んでいくと知っている。
だから、身体を流れる電流はゆっくりとその量が減り続けていくのである。

いまのところまだ活動していない脳の部分は、単に知るということを通じて、身体のどんな部分でも、損傷のあったところを再生する力を持っている。
自分の身体は自己治癒ができるのだと知った瞬間、その想念は中枢神経系を通してもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAに、自己の複製をつくって細胞を完壁に再生させるのである。
完壁に、だ!
奇跡的なことだと思うだろうか。
それがあるべき姿であり、まさに実際の姿なのだ!

身体が治癒するのは医師や薬を通してだけだとあなたは思っている。
確かにそういうものは効く。
それが効くと誰もが信じているからだ。
また、あなたは、こうも言われ、それを信じてもきた。
曰(いわ)く、自分で身体を治すことはできないのだ、と。
だから実際にあなたにはそれができない。
なぜなら、そのことを「知っている状態」があるからだ。

しかし、自分が聞くことは絶対の真実であると知っている状態で、治癒のできる人間を求める者もいる。
そして、それを知ることによって、それは化身の内で絶対的な真実となったのだ。
そして、彼らは癒された。
一瞬のうちにである。
「知っている状態」は、そういうことができるのだ。
そしてそれは、身体を自分の思いどおりに変えることができるのである。
あなたには、身体の動きにおいてさえ、限りないものとなる力があるのだ。
身体はそうできているのである。

存在のあらゆる瞬間、眠っていても目覚めていても、意識があろうがなかろうが、あなたはつねに神の心から想念を受け取り続けている。
そして、あなたをひとつにしているこのすばらしい神を通って入ってくるのをあなた自身が許す想念の波動は、そのすべてが、人生で最高の贈り物であり、ただひとつの現実でもある感情を得られる体験になるのだ。

だから、自分は不幸だ退屈だ、あるいは不機嫌で、何かをこわがり、反感や怒り、嫉妬やあせりを感じ、愛されていない、求められていないと感じている人に聞きたい。
いったいどんな波動の思考を感じるのを自分に許しているのか?

それは、社会意識だ。
どこによろこびなどあるのか、とあなたは訊ねるかもしれない。
どこに愛があるのか。
どこに、氷遠が?
どこに神があるのだ?
そのすべては、想念を変えるだけで、すぐそこにあるのだ。

一瞬一瞬あなたの精神を通過していくこういったすばらしい想念を、あなたはなぜ知らずにいるのだろうか。
それは、知りたがっていなかったからだ。
あなたは社会意識の庇護のもとに生きること、つまり、服も、行動も、そして考えるのも、群れと同じようにすることを選んだ。
生き延びられるように、まわりに合わせることを選び、受け容れられることを選んだのだ。

こういうことを知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるとの思考を抱くことが、自分の家族や、友達、宗教や国家の意に反することになるからだ。
だからあなたは自分の力を手放してしまった。
自分の存在の尊厳をあきらめてしまった。
自分が誰なのかを忘れ去ってしまった。
脳のはたらきを止めてしまった。
それを再び開け放つことが、私がここにいる理由なのだ。

人間が、気の遠くなるほどの長い間、必死に探し求め続けている限りなき神秘、この「神」なる宗教像は、いったい何なのだろうか。
それは思考であり、思考を受け容れるという、思考自体がもつ力であり、それを受け容れることによって、思考自体がまた思考になり、成長していくという力のことなのである。
神というのはそれだけのことなのだ。
思考の総体、生の貴さだ。
そして、あなたは自分の存在の内に、完全に神になる力を持っているのである。
完全に、である。

いまもしあなたの脳の能力が全開したとしたら、あなたはこの瞬間に永遠の果てへと行くことだろう。
知ることができることはすべて知るだろう。
あなたは太陽の色合いとなり、海の深淵、風の力、そして地平線に昇る星となることだろう。

あなたが神のすべてを知り、神のすべてとなることを妨げているのはいったい何だろうか。
変性自我である。
なぜなら、変性自我は、神であるすべての思考の波動を受け容れるのを拒むことによって、神とのつながりを断ち切るからだ。
それが害を受けることなく、安全に安心して生きていけるようにである。
これこそ、変性自我が、「反キリスト」と呼ばれるものである理由なのだ。
なぜなら、それはあなたが神の息子であることを否定するからだ。
それは、あなたが思考を受け容れ、自分と父なる存在はひとつであることを悟るのを許さないからだ。
あなたは神なる存在であり、永遠を創造する力を持つ本質であるのに気づくことを許さないからなのだ。
そして、死をもつくり出す力さえある存在であることも・・・。

反キリストとは、変性自我のことであり、その王国は社会意識だ。
それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、審判であり、生存なのである。

キリストとは、自分の内にある父なる存在の力、美、愛、そして限りなき生をすべて表現している人間のことだ。
自分は神なる存在であることを悟り、教義や預言や恐れを超越して、その悟りをそのまま体現して生きる人間のことなのだ。
そういう人間は、社会意識を超えたところに、神という無限の活力があることを知っているからである。

反キリストとキリストは同じ寺院を分かち合っている。
その寺院とは、あなたのことだ。
すべてはあなたの内面にある。
あなた自身である神が、キリストと反キリストのどちらの存在も許すからだ。
限界と無限の両方の存在を許すのである。

「ハルマゲドン」という預言のことを耳にしたことがあるだろうか。
何のことはない、あなたは自分の人生でそれをずっと生きてきているのだ。
ハルマゲドンとは、神の実現と、反キリストの容認との間の戦いのことであり、反キリストとは限りない思考が限りない表現を求めてあなたの脳の中に入るのを許さないでいる変性自我のことだ。
それは、社会意識と限りない「知っている状態」との間の戦争なのである。
それがハルマゲドンだ。
自分の外で起きる戦闘ではなく、内面のものなのだ。
自分の内に湧き上がるキリストと、支配を続ける変性自我との対立なのである。
したがって、この預言は確かにこの時代に実現していることになる。

神になるというのは、限りなき「知っている状態」、限りなき存在となることだ。
人間のままでいるというのは、さらに偉大な知識へ自分の心を開こうとしない、限られた生き物であることだ。

理論を受け容れながら、生きるということを実践しない者、師であるよりは教えられる者、探求者よりは庇護される者であることなのだ。

あらためて言おう。
あなたには知るのが可能なことはすべて知ることができる力がある。
それに、望むものは何でも実現させる力を有している。
もしそれがあなたの望みであるなら、自分の身体の中に永遠に生きていける力も持っている。

だが、そのすべてに対し、変性自我は「だめだ」と言う。
そのために、あなたは人間とは何かについてはよく知っているというのに、神は謎に包まれたままなのである。


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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