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人生の目的とは

神がたったひとつあなたに望むのは、よろこぴを知り、よろこびになるということだ。
それが父なるものを知り、父のごとくになるただひとつの道だからである。

この地上界での生において、あなたがここにいる目的とは何だろうか。
多くの人々は、あるタイプの人間になる、あるいは特定の職業につくことが絶対であると教えられ、必ずそうなるよう家族や社会からきちんと見守られて育つ。
何とひどいことだろう。
あるいは人類にとって自分が偉大なる師、救世主、あるいは治癒者としてここに送られたと想像する人たちがいる。
まあ何と高貴なことよ。
さらに、神に近づくという、詳細まで決まっている聖なる道、狭き道を一歩ずつ進むためにここにいると感じている人たちがいる。
何と退屈な。

この地上界にやってくるときには、まだ誰も目的は持っていない。
父なるものは、あなたにもほかの誰にも、人生はこうなるべきだという指示を与えてはいないのだ。
ただし、それにはひとつ例外がある。
それは父からあなたへのただひとつの望みであり、存在のあるべき姿の究極を教えている。
それは、よろこびあふれる存在になるということだ。
よろこびが、あなたにとって何を意味しようとも、である。

大切な神なる存在の内面にいるあなたが、幸せでよろこびにあふれていればいるほど、あなたは神に近い姿にあり、すべての生命と調和がとれているのだ。
幸せになること、よろこびにあふれることは、父のあなたに対するただひとつの望みである。
それはまさしく、感情の中で最も偉大な価値を持つものと言える。
よろこびを理解し、よろこびそのものになるのは、どの次元にいようと、どんな叡智を達成した者であろうと、すべての人類に神が与えたただひとつの運命の道なのである。
よろこびと幸せの状態に戻れば、それは神の状態に戻ることだからだ。
よろこびが、父そのものだからである。
父とは、いつのときもよろこびの中にある「在るということ」なのだ。

最も醜悪なものから最高の美まで、父はあなたに何でも好きなものを創造できる力を与えた。あなたがよろこびを理解することを求めていく過程で、父は何でもあなたが望む姿となるだろう。
では、父はあなたの行動や自分の欲求を満たすことについて審判を下すのだろうか。
いや、そんなことはけっしてない。
それが父から息子、ひとつの生命の流れから別の生命の流れへの愛なのだ。
父がただひとつだけあなたにしてほしいこととは、それが何であろうと、とにかく幸せになり、よろこびにあふれるために必要なことだ。
それが父を知り、父そのままの姿になれるただひとつの道だからだ。

よろこびとは何なのか。
よろこびとは、まったく邪魔の入らない動きの自由のことだ。
価値判断のない表現の自由だ。
恐れや罪悪感のない存在のことだ。
よろこびとは、自分が、自分自身の条件で人生を創造していることを知っている状態なのである。
在るがままでいることを許されている自己の荘厳な姿のことだ。
それがよろこびなのだ。

なぜ、よろこびがすべての存在の状態の中で最も偉大なのであろうか。
それは、人がよろこびの状態にあるとき、その人は神そのものである流れとともにあるからだ。
その流れの中では、嫉妬や怒りや反感、あるいは戦争などが存在する余地はない。
よろこびの状態にあるとき、人を憎んだり、囚われの身にしたり、あるいは傷つけたりするのはむずかしい。
幸せでよろこびあふれる状態にあるとき、あなたはすべてのものに見られる神を愛しているのである。

よろこびが嵩じた状態にあるとき、あなたはまわりのあらゆるものと平和を保つことができる。
生きることがよろこびであるときには、反感を持ったり、不安になったり、恐れや怒り、あるいは何かが足りないと感じることはない。
よろこびの状態にあるとき、人は満たされて全きものとなり、生命と叡智、そして創造性が、まるで激しい流れの川のように内面からあふれ出してくるのだ。
よろこびの状態にあるとき、人は内面からつき動かされ、最高の偉大さを示し、深い感情を感じる。
よろこびの状態では、空は最も美しいバラの色となり、雲は燃えるような赤で飾られ、鳥は木々に歌うという朝焼けのごとく、生きることが熱情にあふれ、強烈なものになる。

よろこびにあれば、人は年老いていくことをやめ、永遠に生きる。
人生はもはや重荷ではなく、いくら求めても求め足りない驚くべき冒険となるからだ。
よろこびが目に見えるとき、あなたは自己という自分の世界とひとつになっている。
そのような状態では、あなたはユートピアを見つけているのだ。

よろこびにあふれた状態には、どうしたらなれるのだろうか。
もし自分がそう望めば、人生のあらゆる瞬間が、よろこびを表現する機会と自由を与えてくれるのだと知ることによってである。

そして、幸せやよろこびや、あるいは神から自分を離してしまう価値のあるものなど、何ひとつないのを知ることによってなのである。
そんなものは何ひとつないのだ。

何があっても自分を完壁に愛することだ。
自分を愛するとき、それは神を愛しているのだから。
人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない。
それよりも偉大な愛はないのだ。
自己を抱き、受け容れるという、その場所から自由が存在していくからである。
そして、よろこびが生まれるのはその自由からなのだ。
よろこびが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、心に抱くことができるようになる。
最も偉大で深く、意味のある愛とは、肉体の中にあって、動き、思索し、創造し、許し、そしてただ在るこの偉大な生き物である純粋で無垢な自己に対するものだ。

どんな自分でもその在るがままを愛するとき、すべての顔、すべてのものの内にあるもの、つまり私が愛する偉大なる本質を、あなたも知ることができる。
あなたは神が愛するように愛するのだ。
すると、愛することがとても簡単になる。
許すことが簡単になる。
そしてすべての生命に神を見ることが簡単になるのである。

自分の在るがままを愛するとき、不可能なこと、手の届かないことは何もなくなる。
自分を本当に愛するとき、人は自分の笑いの光の中だけに生き、よろこびの道だけを歩むようになる。
自分に恋するとき、その光、そのまとまった力、幸福、底抜けの明るさ、その楽しそうな状態が全人類へと広がっていくのだ。

そしてあなたの驚くべき存在の内面に愛があふれるとき、いろいろ不快なことがあるこの世界が美しくなり、生きることは意味を持ち、よろこびにあふれた状態になり、そのよろこびは、あなたという存在のよろこびを通じて、すべての生命を高揚させ、その栄光をたたえ、あなたの存在が純粋であることを謳い上げるのである。

自己への愛のため、自己を満たすために生きること以上に偉大な人生の目的はない。
それを成し遂げるためには、人生に飛び込み、自分に幸せをもたらすことをすることだ。
それによってのみ可能になる。
たとえそれが何であってもである。
それはまちがっているとか、あなたのために良くないなどと、いったい誰が言えるのか?
神はそんなことは絶対に言わない。
神はあなたが向かっていくあらゆる方向そのものであり、あなたのすべての体験がもたらす結果でもあるからだ。

ほかの人間にどう思うか訊ねたりもしてはならない。
あなたの人生を悩ませてきたのと同じ制限を持っているというのに、他人がよろこびについていったい何を知っているというのだ。

父なる存在は、あなたがよろこびあふれる人間になるよう迫っているようなものだ。
あなたが心を開いてそれを受け容れるのを、いつもすぐそばで待っている。
「求めよ、さらば与えられん」というのは、そういう意味なのである。
いつのときにもよろこびを持つというのは、実は単純なことなのだ。
そして、あなたはそれに値することを知ってほしい。

よろこびは、よろこびを生む。
「迫られている」よろこびを受け容れるとき、それはこれから訪れるあなたの将来の日々のよろこびをさらに高め、あなたの心を開いてもっと多くを受け容れられるようにしてくれる。
だからこそ、いつのときも自分を愛するのが絶対に必要なことなのだ。
それができれば、これから先の自分の「ぺース」が決まるのである。
何が自分を幸せにするかを自分に訊ね、それが何であっても、自分のフィーリングが告げるままに実行することだ。
自己への愛、そしてそのよろこびのために生きるとき、その陶酔と高揚の瞬間はすべてあなたの存在の魂に記録される。
そして今度は、それがこれから先、さらに多くの幸福とよろこびの瞬間をつくり出していくのである。

幸せでよろこびにあふれたとき、自分を愛し、在るがままの自分でいるときを多く過ごせば過ごすほど、あなたはすべての生にある神の力に近いところにいる。
求めるものが、すべて自分を幸せにするため、という状態で人生を生きるなら、あなたは最も偉大な運命に向かって生きていることになる。
そして奇跡的なことを成し遂げるだろう。
自己と神に対する愛のすばらしい見本となるのである。
偉大なる美、すばらしき神秘である自分自身を体験し、理解することができるだろう。
最終的には、驚くなかれ、あなたは神の顔を見ていることになるだろう。
それが自分自身であることに気づくことによって、である。
するとあなたは、さらに偉大な新たなる叡智の中で、もうひとつ別の、氷遠の生という体験へと向かっていくのだ。

私の生きた時代、私たちはアトランティア人に「魂なき者」と呼ばれていた。
そのとき、私たちが何を探し求めたか、おわかりだろうか。
それは少なくとも「目的」ではなかった。
自分たちにはないと言われた魂を探し求めたのだ。
私はみじめな野蛮人で、人間を憎んでいた。
しかし、よろこびというものを知ってから、そして自分がそれに値するのだと知ってからは、すべての生命を維持し、育み、すべての生命そのものである本質となったのである。

父なるものへと導いてくれるたったひとつの道とは、とにかく何であっても、それが自分のよろこびであると自分で決めたことなのだ。
そこへ到達する道はそれだけなのである。
それがあなたを神という故郷へと帰してくれるのだ。


主:肉体に戻ってくると決めたのは、自分だというのは本当ですか。

ラムサ:ほかに誰がそれを決めてくれるというのでしょう。

主:それでは、なぜ私はこの時代、この場所を選んで帰ってきたのか教えてもらえますか?

ラムサ:この時代、この場所での生を体験するためです。

主:でも、ここに戻ってきて達成すべき何か特別な目的、ここに帰ってくる理由があったのでしょうか。

ラムサ:主よ、「特別な目的」というのが、人生を体験するという特権のことなのです。

主:ということは、それは何でもかまわないと言うのですか。

ラムサ:何でもかまいません。
でもそれは、特定の何かではありません。
あなたは、ただ人生を体験するために帰ってきたのです。
あなたが「あなた」を選んだのです。
あなたではいけませんか?
そんなことはないでしょう。
あなたはこの時期を選びました。
いけませんか?
いまはすばらしい時代です。
生は花開き、あなたも花開いている時代です。
生きるということがどうも見過ごされ、あまり感謝もされない体験となってしまっていて、皆、生きること以外の何かを探している状態になっているようです。
でも、あなたがここにいるまず第一の大切な理由は、単に生きることなのです!
この生で達成できる最も栄光に輝くことといえば、まずこの生を全うすることなのです。
これは真実ではありませんか?
どんな大王だろうと、まずはじめに王になるための人生がなかったらどうなるでしょうか。
王になるのは彼の目的ではなかったのです。
そうなったのは、これはなかなかおもしろそうじゃないかと彼が決めたからにすぎません。
いちばん大事なことは、王になれる時点まで彼が生きたということでしょう!
あなたがこの人生で達成できる最も偉大なことは、まずそれを全うするということです。
おそらくこれはあなたが聞きたいと思っていることではないかもしれませんが、死期が近づいたとき、この答えがよくわかります。

皆、存在するための理由が必要と思っています。
「おお主よ」と彼らは私に言います。
「私の運命は何でしょうか?
この人生での目的とは何でしょうか?」。
そこで私は答えます。
「生きることです!」。
すると皆、困ったような顔をして、あまりうれしそうには見えません。
何かとても込み入った計画――大いなる山の頂に立ち、まわりには鳥がさえずり、黄金の衣に包まれた自分が人類の救世主となるような、そんな答えを聞きたがっていたからです。

主よ、あなたの目的とは、単に生きることです。
それから先どうなるかは、この人生でのあなたの美と、生の広がり、成長への貢献の延長なのです。
生きることそのものが最も重要なのだと気づき、生きることを通じて言わば「点数を稼ぐ」のだとわかったとき、自分がここにいるのはそれを望み、そうしたいからだと気づいたとき、そしてさらに、ここが自分という存在にとって戻ってくるのに居心地の良い場所だと思っていることに気づいたとき、すべては何も言わずとも理解できるはずなのです。

皆この次元にやってくるのは、ここで生き、ここで自己を表現したいからです。
それがすべての人間にとっていちばん大切なことなのです。
それがあなたの内に棲む父なるものにとってもいちばん大切なことです。
存在が始まってから後に起きることは、何か特定のものにならなければいけないという性質のものではなく、人生のすべての瞬間に、自分がなれる最高のものになるということなのです。
それが「創造」です。
そして、あなたは必ず創造をしていきます。
あなたの内にある神が、そうするようあなたをつき動かすからです。

あなたがここにいるのは、何か特定の運命のためではなく、生きるためであり、生きている一瞬一瞬に、あなたの創造性あふれる自己が、そしてあなたの魂が強く求めることをしていくためなのです。
それがわかれば、創造という領域ではあらゆることすべてが可能になります。
言葉では言いつくせぬような世界や人生を創造することができます。
自分の命を満たすことができるのです。
この明白な自由を持つのを許したとき、あなたは何でも自分が好きなものになることができるのです。

そして、自分がそれをすべて体験するのに値するのだとわかったとき、あなたは光り輝き、いつでも好きなときに、何でも好きな望みを満たすのにその光を使うことができるのです。

皆の次元において最も覚醒した人々の中に、なぜ、ただ施しを受けて生きる放浪者として生きる人がいるのか知っていますか?
それは彼らがその瞬間だけに生き、そのとき生きるのに必要なことだけをして、次の場所へと移っていくからです。
彼らは数多くの場所に行き、多くのことを見たり、実際にやったり、さまざまな人々に会ったりしてきました。
こうして彼らは多大な知識を得るとともに、人間の心についてさまざまな角度からの理解を得てきたのです。
彼らはそのままの状態できわめて覚醒した状態にあり、そのままでとても幸せなのです。
思うままに生きる自由を自分に許したからなのです。

「主よ、でも彼らには何の目的もありません」
とあなたは言うかもしれません。
彼らの目的とはその瞬間に生きることであり、自分がしたいと思うときに何か新しいこと、冒険的なことに集中することなのです。

主よ、人生は牢獄となるようにつくられているのではありません。
色あざやかでチャレンジにあふれ、数多くのエピソードと冒険が体験できる創造性と自己表現の場となるようにつくられています。
そういう体験は、必ずよろこびをもたらすのです。

主:でもラムサ、私は小さいときから、いつもこの場所から離れたいという気持ちがあり、自分の故郷はここではなく、何かほかの場所にあるのではないかと思ってきたのですが。

ラムサ:それはそのとおりで、確かに別の場所があるのです。
生はさまざまなレベル、さまざまな場所で途切れなく続くものです。
それはひとつの真実です。

でも、いまひとつの真実を話します。
もし本当にここにいたくないのなら、あなたはここには戻らなかったことでしょう。
あなたの存在の内にある生命の力は、さまざまなことを学び、そこから幸福を得るために人生を体験すべくここにいるのです。
自分はここに来た何か「高次の存在」で、やってきてはじめてこれがひどい場所であるとわかったのだと思いますか?
「高次の存在」は、どこにいようとも幸福を見いだすものです。

この次元が困難な時代を迎えるとき、確かにここでの生を少しは耐えやすくしてくれるでしょうから、ほかの場所に行くことを思うのもいいのかもしれません。
でも最後は、どこにいようとも、それをどんなものにするかは、自分の選択なのだと私たちは気づくことでしょう。
良いも悪いも、幸福も不幸も、わくわくするのも凡庸にするのも、人生の体験を決定するのは私たちの態度であり、判断でしかないのです。

ここは存在するのにはすばらしい場所です。
主よ、そのことがわかれば、あなたは賢き女性になります。
別の場所があるのを知っている以上に偉大な美徳とは、この人生を自分の手にとって、それをできるだけすばらしいものにしていくことです。
そのあらゆる部分を体験し、それを最高に楽しむことなのです!
そうすれば、あなたの存在はこの人生で満たされるようになります。
この次元を去るというとき、わざわざここに戻ってこないと体験できないものはもう何もなくなるのです。

ひとつの方向しか向いていない生き方をし、社会的に受容されるという理由だけでその生き方を続けている人たちは、死に際して苦悩と後悔にさいなまれます。
あれをしておくべきだった、これをやるべきだった、あの人を愛しておけばよかった、この人と結婚すべきだった・・・。
こういったすべての「しておけばよかった」ことが、その人をこの場所に戻し、それがすべて満たされるまで「今回はできる」ことを体験させるのです。
すべて満たされると、もうここに戻ってくることはありません。

主:でもそうすると、私はその「しておけばよかった」があったから戻ってきたことになるわけで、それがいったい何だか、いまの私にはわからないのです!

ラムサ:主よ、それは生きるということです!
もしそれではあまりに単純すぎるというのなら、何か生きる理由を自分でつくり出し、心からそれを追い求めなさい。
でも、それを満たしてしまったら、今度は何のために生きるのですか?
また別の理由、そしてまた別の、また別の、と永遠に続いてしまうわけです。

主:すると、このために戻ってきたという特定のものはないわけですね。
今回も私が成就できないかもしれないものとか・・・。

ラムサ:美しき主よ、叡智というのは蓄積された感情のことです。
この次元に来るそれぞれの存在が他と異なっているのはこのためなのです。
すでに体験し理解したことは、もう体験しません。
なぜなら、もうしたいとは望まないからです。

これからまだ理解すべきこと、あるいは自分の命を満たし、智慧を与えてくれると約束することには、あなたはいつも惹かれていきます。
それがあなたを誘い、わくわくさせ、神秘の心をくすぐり、そして惑わせるからです。
自分を在るがままにして、存在の内から湧き出る欲求、フィーリングに耳を傾ければ、すばらしき自己を、さらなる偉大な叡智と永遠のよろこびへと拡大していくのに必要なことは、あなたはいつも体験していることでしょう。

さて主よ、あなたの困惑について、ひょっとすると助けになるかもしれない知恵について、お話しましょう。
もし存在の理由を必要としているならば、それは永遠というときを通じて、あなたが「在るもの」としてその瞬間だけを生きるということです。
それは、「自己への愛」と呼ばれるものです。
自分への愛は永遠へと続いていきますが、これやあれになるといった目的は、この生の間に満たされ、次はただ別のものがそれにとって替わるだけのことです。
いつのときもあなたとともにあるのはこれしかない、というものは何でしょうか。
それは自分をもっと豊かにし、さらに偉大な叡智と自分への深き愛へと広げてくれるものです。
つまりそれは、最も厳しい目であるあなた自身の目から見て、自分を最も偉大な人間にしてくれることをしていく、ということなのです。
これは永遠に続くものです。
主よ、あなたこそが人生の目的なのです。

これやあれやをしなければならないとか、自分の運命はこうだああだなどと考えることを皆が超越して、その瞬間だけを生き、余計なものを取り払って、在るということに集中するようになれば、それまでとは比べものにならないほどの大いなる幸せと自由を発見します。
それは、生の真の状態への解放であり、本当に生きるとはどういうことかがわかることなのです。
それこそが、あなたの目的です。
在ることです!


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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