スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

遠くまで行くにはごく近くから始めなければならない



いかに多くの進歩をこの世界でなしとげようと、大空をいかに遠くまで行き、月、火星等々を訪ねようと、私たちのほとんどの人生は依然として非常に浅薄で、皮相です。
それは依然として外面的なのです。
そして内に向かうことのほうがはるかに困難です。
そのためのいかなる技法もなく、それを教えてくれるいかなる教授もいませんし、またそのなかで皆さんが内面への旅のしかたを学ぶことができるいかなる実験室もないのです。

皆さんを教導できるいかなる教師もなく、そして――どうか私を信じてほしいのですが――皆さんが精神と呼ばれるこの複雑なものを調べるのを助けることができる、いかなる種類の権威もありません。
皆さんは、何ものにも頼ることなく、完全に自分自身でそれをしなければならないのです。

そして現代文明がますます複雑になり、ますます外面的になり、進歩的になるにつれて、私たち全員がより一層浅薄に生きる傾向があるのではないでしょうか?
私たちはより多くの演奏会に出かけ、より才気走った本を読み、次々と果てしなく映画を見に行き、理知的に討論するために集まり、精神分析医の助けを借りて心理学的に自分自身に探りを入れたりするのです。

あるいは、いかにも浅薄な人生を生きているので、私たちは教会に頼り、かれらの不合理な、または合理的な教義や、そして自分の精神を、ほとんどばかげた信念で満たしたり、あるいはある種の神秘主義へと逃避するのです。
言い換えれば、自分の日常生活が浅薄であると悟って、私たちのほとんどはそれから逃げ去ろうとするのです。

私たちは自分の精神を思弁哲学や、一種の自己催眠であるいわゆる瞑想や黙想に集中させたり、あるいはもし私たちが理知的なら、私たちは自分自身の想念の世界を作り出し、そのなかで満足し、知的に充実して生きるのです。

この全過程を見ると、問題は何をなすべきかでも、いかに生きるべきかでも、あるいは私たちが世界で実際に起こっている戦争や破局に直面するときにどんな即座の行為がなされるべきかでもなく、
むしろどのようにして自由を探究したらいいかだと私には思われるのです。

なぜなら、自由なしには創造はないからです。
「自由」によって私は自分がしたいほうだいにする自由、車に乗って道を邁進したり、あるいは好きほうだいに考えたり、自分自身をある特定の活動に従事させる自由を意味しているのではありません。
そのような種類の自由は少しも真の自由ではないと私には思われます。

が、精神の自由というものがあるのではないでしょうか?
私たちのほとんどは創造的な状態に生きていないので、思慮深い真剣な人間がこの問題を非常に深く、非常に真摯に探究することが急務だと私は思うのです。

もし観察してみれば、皆さんは自由の余地がますます狭くなっていることがわかるでしょう。
政治的、宗教的、技術的に、私たちの精神は形作られつつあり、そして私たちの日常生活は、あの自由の性質を減じつつあるのです。
文明化すればするほど、それだけ自由は少なくなっていくのです。
文明がいかに人間を技術者にしつつあるか、また技術のまわりに築き上げられた精神は自由な精神ではないということに皆さんが気づいたかどうか私は知りません。
知識、教義、組織化された宗教によって形作られた精神は、自由な精神ではありません。
知識によって暗くされた精神は自由な精神ではありません。

もし私たちが自分自身のことを観察してみれば、私たちの精神が知識によって圧迫されるということが、すぐに明らかになります――私たちはそれほど多く知っているのです。
私たちの精神は、世界中の組織宗教が押しつけてきた信念や教義によって束縛されているのです。
私たちの教育はたいてい、より良い生計の糧を得るためにより多くの技術を身につける過程であり、そして私たちのまわりのあらゆるものが私たちの精神を形作っており、あらゆる種類の影響が私たちに指図し、私たちを管理しているのです。

かくして、自由の余地はますます狭くなりつつあるのです。
世間体のすさまじい重み、世論の受入れ、私たち自身の不安や恐怖――そう、これらすべてのものにもし人が気づけば、それらが自由の性質を減じつつあることがわかるでしょう。
そして、たぶん、次の問題を私たちは話し合い、そして理解することができるでしょう。

どうしたら人は精神を自由にし、にもかかわらずこの世界で、その技術、知識、経験と共に生きることができるのだろう?
思うに、これこそはこの国(アメリカ)だけではなく、インド、ヨーロッパなど、世界中の問題、中心的問題なのです。

私たちは創造的ではありません。
機械的になりつつあるのです。
私は「創造性」という言葉によってたんに詩を書いたり、絵を描いたり、あるいは何か新しいものを発明したりすることを意味しているのではありません。
これらはたんに才能に恵まれた精神の能力にすぎません。
私が言いたいのは、創造そのものである状態のことです。

が、私たちが中心的問題、すなわち私たちの精神がますます条件づけられつつあり、自由の余地がますます少なくなりつつあるという事実を理解するとき、私たちはそのすべてに立ち入ることになるでしょう。
私たちはアメリカ人、ロシア人、インド人、等々であり、それぞれの国旗の背後にそのすべての感情的、愛国的性質を潜ませています。
私たちは国境によって、教義によって、ぶつかりあう考え方によって、また様々な種類の組織化された宗教的思想によって引き離されています。
政治的、宗教的、経済的、文化的に分断されているのです。

で、もし皆さんが、私たちのまわりで起こっているこの全過程を子細に見てみれば、個々の人間存在として私たちがほとんど重要でないこと、私たちがほとんど無に等しい存在だということがわかるでしょう。

私たちは、個人的ならびに集団的に多くの問題をかかえています。
個人的に、たぶん、私たちはそれらのいくつかを解決することができ、また集団的に、自分たちができることをするでしょう。

が、これらすべての問題は明らかに要点ではありません。
要点は、思うに、精神を自由にすることであり、そして精神が自分自身を理解しないかぎり、精神はそれ自身を自由にすることはできません、
と言うか、人は自分の精神を自由にすることはできません。
それゆえ、自己認識、すなわち自分自身を刻々に知ることが不可欠なのです。
それには一定の気づきが必要です。
なぜなら、もし人が自分自身を知らなければ、推論、思考の基盤ができないからです。

が、刻々に知ることと知識とは二つの別々のことがらです。
刻々に知ることは不断の過程であり、これに反して知識は常に静的です。

その点が明らかでしょうか?
もし明らかでなければ、たぶん、先に進むにつれて私はそれを明らかにすることができるでしょう。
が、いま私がしたいことはただある一定のことを指摘することであり、私たちは後でそれらを吟味することができるでしょう。

私たちはまず手始めに、絵の全容を見なければなりません――どれか特定の点、特定の問題あるいは行為に集中するのではなく、いわば私たちの存在の全部を見つめなければならないのです。
いったん私たちがありのままの自分についてのこのとてつもない絵を見たら、私たちは自分自身という本を取り上げて、それを一章一章、一頁一頁吟味していくことができるのです。

そこで私にとって、中心的な問題は自由です。
自由は、何かからのそれではありません。
それはたんに反応です。
自由は、私が感じるところでは、何かまったく違うものです。

もし私が恐怖から自由でなければ、それは別のことがらです。
恐怖からの自由は一つの反応であって、それはただ一定の勇気を生み出すだけです。
が、私が話している自由は何かからのそれではなく、反応ではありません。

で、このことは大いなる理解を必要とします。
ここで私は、私たちがこれまで検討してきたことを熟考するため、傾聴している方々にしばらく時間をかけるようお願いしたいと思います。
私たちは何かに異議を唱えているのでも、何かを受け入れているのでもありません。
なぜなら、私は少しも皆さんにとっての権威ではないからです。

私は自分のことを教師と称しているのではありません。
私にとって、教師もなければ、信奉者もないのです。
で、どうか信じていただきたいのですが、私はこれをとても真摯な気持で申し上げているのです。
私は皆さんの教師ではなく、ですから皆さんは私の信奉者ではないのです。

皆さんが従うやいなや、皆さんは束縛され、自由ではなくなるのです。
もし皆さんが何らかの理論を受け入れれば、皆さんはその理論によって束縛されるのです。
もし皆さんが何らかの方式を実行すれば、いかにそれが複雑で、いかに古かろうとあるいは新しかろうと、皆さんはその方式の奴隷になるのです。

私たちがしようとしていることは、一緒に探究し、見い出すことです。
皆さんは、私が指摘することをただ聞いているだけでなく、聞くことによって自分自身で発見し、それによって自由になろうとしているのです。
語っている人は少しも重要ではなく、語られること、あばかれること、そして人が自分自身で発見することが最も重要なのです。

こうしたすべての個人崇拝や個人信奉、あるいは特定の個人を権威に祭り上げることは、このうえなく有害です。
重要なことは、皆さんがいかにして精神を自由にしたらいいかを自力で探究し、それによって何かを発見し、かくして一人の人間として創造的になることなのです。

結局、真実在、すなわちあの言葉で言い表わせないものは、ものが詰まっていて、身動きが取れない精神によっては発見できないのです。
いかなる聖者、いかなる求道者の経験でもない状態、あるいはそれを見い出そうと努力しているいかなる人の経験でもない状態がある、と私は思います。

なぜなら、すべての経験は実は過去を永らえさせることだからです。
経験はたんに過去を強めるだけです。
それゆえ経験は精神を自由にはしないのです。

自由をもたらす要素は、経験する主体なしに経験することができる精神の状態です。
これにもまた一定の説明が必要であり、そこでそれに立ち入ってみましょう。

いま私がぜひとも言いたいことは、個人的にだけでなく、また世界中でとてつもなく大きな混乱、動揺、不安があり、またこの混乱、不安のゆえにあらゆる種類の哲学が生まれたということです――絶望の哲学、実存哲学、あるいは存在をそのあるがままに受け入れる哲学といった。

伝統や容認から訣別し、反動の世界を構築したり、あるいはある宗教を去って他の宗教に移るのです。
すなわち、もしあなたがカトリック教徒なら、あなたはカトリック教を捨て、ヒンドゥー教徒になったり、あるいは何かその他の教団に加入するのです。
明らかに、これらの反応のどれも、精神が自由になるのを少しも助けないでしょう。

この自由をもたらすには、自己認識がなければなりません。
すなわち、自分がどのように考えるかを知り、そしてその過程で精神の全構造を発見しなけばならないのです。
ご存じのように、事実とシンボル(表象)とは二つの別のことがらです。
言葉と、言葉が表わしているものとは二つの別のことがらなのです。
私たちのほとんどにとって、シンボル――旗のシンボル、十字架のシンボル――がとてつもなく重要になってしまったので、私たちはシンボル、言葉を糧にして生きるようになったのです。
が、言葉、シンボルは少しも重要ではありません。

しかるに、言葉、シンボルを打破し、その背後にまわることは驚くほど困難な作業です。
精神を言葉――「あなたはアメリカ人だ、カトリック教徒だ、民主主義者だ、ロシア人だ、あるいはヒンドゥー教徒だ」という――から自由にすることは非常にやっかいな仕事なのです。
にもかかわらず、もし私たちが自由とは何かを探究するつもりなら、私たちはシンボル、言葉を打破しなければなりません。

精神の境界は私たちの教育、そのなかで私たちが育てられてきた文化の受容、私たちの遺伝の一部である技術によって敷かれるのです。
そして私たちの考え方を条件づけるこれらすべての層を貫通するには、非常に機敏で強烈な精神が必要です。

そこでまず初めに、この講話の目的は少しも皆さんの考え方を指示したり制御したり、あるいは皆さんの精神を形作ったりすることではないことを理解することが大切だと私は思います。
私たちの問題は、何らかの組織に属したり、どこかの話し手の言うことを聞いたり、東洋からの哲学を受け入れたり、禅仏教に没頭したり、新しい瞑想方式を見つけたり、あるいはメスカリンやその他のドラッグの服用によって新たなビジョンを持つことによって解決されるにはあまりにも大きすぎるのです。

私たちが必要としているのは非常に明断な精神――探究することを恐れない精神、ただひとり立つことができ、自分自身の孤独、自分自身の空虚に直面することができる精神、見い出すために自分自身を無にすることができる精神――です。

そこで私は皆さん全員に、真に真剣であることの大切さを指摘しておきたいと思います。
つまり、もし皆さんがここに娯楽のため、あるいは好奇心から来ているのなら、それはまったくの時間の無駄だということです。
私たちが自分で発見しなければならない、もっとはるかに深く、広い何かがあるのです。
すなわち、いかにして私たち自身の意識の限界を超越したらいいかです。
なぜなら、すべての意識は限定であり、そして意識内のすべての変化は少しも変化ではないからです。

で、私は、精神が敷いてきた境界を――神秘的にでも、幻想の状態においてでもなく、現実に――超えることが可能だと思います。
が、人が精神の性質を探究し、それによって本当に深く自分自身のことを知ったときに初めて、人はそうすることができるのです。
自分自身を知らないかぎり、皆さんは遠くへ行くことができません。
なぜなら、そのときには皆さんは幻想に陥り、空想的な観念や、ある種の新手の宗派へと逃避するだろうからです。

さて、私たちの人生のこれらすべての側面を考察した後、話し手の見るかぎり、主たる問題は自由の問題だと思います。
なぜなら、自由においてのみ私たちは発見することができ、自由においてのみ創造的な精神がありうるからであり、精神が自由なときにのみ無際限のエネルギーが湧き出るからです――そしてこのエネルギーこそは真実在の運動なのです。

結論として、私は皆さんが自分自身の精神の隷属状態についてよく考え、それを観察し、そしてそれに気づくようにしてほしいと思います。
これまで語られてきたことは、皆さん自身という本の中身のたんなる概要であって、もし皆さんが概要、見出し、若干の観念で満足してしまえば、おそらく皆さんは遠くまで行くことはできないでしょう。
それは受け入れるか拒むかの問題ではなく、むしろ皆さん自身の内部への探究の問題なのです――そしてそれはいかなる種類の権威も求めません。
それどころか、それは皆さんが誰にも従うべきではないこと、皆さんが自分自身に対する光になるべきことを求めるのです。

そしてもし皆さんがある特定の行動様式、社会的に立派である、宗教的であるとして定められてきた何らかの種類の活動に掛かりあっていれば、皆さんは自分自身に対する光であることはできないのです。
とても遠くまで行くには、人はごく近くから始めなければなりません。
で、もし人が自分自身のことを知らなければ、人はとても遠くまで行くことはできないのです。

自分自身について知るためには、精神分析医に頼る必要はありません。
人は、生きていくなかで、あらゆる種類の関係において自分自身を毎日観察することができます。
そしてその理解なしには、精神はけっして自由にはなれないのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。