スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

謙虚さなしに自由を学ぶことはできない


人は、新聞を読み、また世界で起こっている出来事を観察することによって、自由がますます少なくなっていること、自由の余地が狭まっていることに気づきます。
私が何を言いたいかおわかりでしょうか?

精神が自由である機会をほとんど持たないということです。
それは考え抜くこと、感じ抜くこと、発見することができないのです。
なぜなら、世界中の組織化された宗教が、その独断的信念でもって私たちの思考を損なってきたからです。
迷信と伝統とが精神を閉じ込め、条件づけてきたからです。
皆さんはヒンドゥー教徒、キリスト教徒またはイスラム教徒であり、あるいは幼いころから皆さんの上に押しつけられてきた何かその他の組織化された信念に属しており、そして皆さんは、狭いまたは広いその制限の円内で機能するのです。

自分はヒンドゥー教徒、イスラム教徒等々だと皆さんが言うとき、どうか自分自身の精神を観察してみてください。
皆さんはたんに、教え込まれてきたことを復唱しているだけなのではないでしょうか?

知らないまま、たんに受け入れているのです――で、皆さんが受け入れるのは、それが好都合だからです。
社会的、経済的に、受け入れ、そしてあの円内で生きることは、皆さんに安心・安定を与えるのです。
かくして自由が拒まれるのです――ヒンドゥー教徒、イスラム教徒にキリスト教徒にだけでなく、組織宗教の囲い内に閉じ込められているすべての人に。

で、もし皆さんが観察してみれば、自分がどんな職業に属していようと、それもまた皆さんを隷属させつつあることがわかるでしょう。
特定の職業で四十年間も過ごした人がいかにして自由でありうるでしょう?
医師がどうなるか見てごらんなさい。
大学で七年余り過ごした後、余生をずっと開業医あるいは専門医として働き、こうして彼は職業の奴隷になるのです。
明らかに、彼の自由の余地は非常に狭いのです。
それと同じことが政治家や社会改革家、理想家、目的の持主にも言えるのです。

そのように、もし観察してみれば、皆さんは世界中いたるところで自由と人間の尊厳の余地がますます少なくなっていることを見るでしょう。
私たちの精神はたんなる機械です。
で、思うに、精神と社会が私たち一人ひとりのまわりに作り上げたこの円を打破するためには、とてつもなく大いなる理解、真の知覚、洞察が必要です。
これらの奴隷状態に改めて迫り、根本的に、深く、根源的に取り組むには、人は革命的でなければならないと思います。
すなわち、ものごとをたんに外部から見るだけではなく、全的に考え、感じることが必要だということです。

そしてそのためには、人は謙虚の念を持たなければならないのではないでしょうか?
謙虚さは培われた美徳ではないと私は思います。
美徳を培うやいなや、それは美徳ではなくなるのです。

ですから、培われた美徳は忌むべきものなのです。
美徳は自発的で、無時間的なものであって、それは常に現在の瞬間に働いているものなのです。
たんに謙虚さを培う精神は、真に謙虚であることの無量の豊かさ、深さ、美しさをけっして知ることはできません。
で、もし精神がその状態になければ、それは学ぶことができないと私は思うのです。
機械的に働くことはできますが、しかし学ぶことは明らかに知識を機械的に蓄積することではありません。
学びの運動は、何かそれとはまったく違うものであり、そして学ぶためには、精神は大いなる謙虚の念を持たなければなりません。

私は自由とは何かを知りたい。
ただし、何かへの反応として自己投影された、純理論的な自由ではない、真の自由を。
が、真の自由などというものがあるのでしょうか?
あるとすればそれは、精神が幾世紀にもわたってそれ自身の上に押しつけてきたすべての伝統とパターンから実際にそれ自身を自由にしている状態です。

私は、人々が幾時代にもわたって必死に追い求めてきたこのとてつもないものが何なのか知りたい。
私はそれを見い出し、そのすべてについて学びたい。
が、もし私が謙虚の念を持たなければ、いかにしてそうできるでしょうか?
謙虚さは、精神がそれ自身の上に押しつける、自己防衛的な卑下とは無関係です。
それは醜悪なしろものです。
謙虚さを培うことはできず、そしてそれは明らかに経験することが最も困難なことがらの一つです。

なぜなら、私たちはすでに一定の地位についているからです。
私たちは一定の観念、価値観を持ち、一定量の経験、知識を備えており、そしてこの背景が私たちの活動、私たちの思考に命令するのです。

自分自身および他人の経験によって知識を蓄え、そして重要になろうとする衝動、自分自身のために権勢、威信の地位を確立しようとする衝動によって駆り立てられている老人――いかにしてそのような人が謙虚さの状態に入り、それによって自分自身のつまらない考え、小事への執着について学ぶことができるでしょう?
ですから、私たちは大いに注意深くして、この謙虚の念に深く気づかなければならないと私には思われるのです。

『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。