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所属は愚行であることの即座の自覚が自由をもたらす




皆さんは、何かに属そうとするこのとてつもない、抑えがたい衝動に気づいたことはありませんか?
きっと皆さんはどこかの政党、ある種のグループ、または宗教団体に属していることでしょう。
皆さんはある特定の考え方あるいは生き方に傾倒し、あるいは掛かりあっており、そしてそれは間違いなく自由を拒むのです。
皆さんは、国、体制、グループ、あるいは一定の政治的または宗教的信念に属し、それらと自分自身とを一体化させようとするこの衝動を吟味してみたことがありませんか?

で、明らかに、この所属衝動を理解せずに、たんにある党またはグループを離脱することは無意味です。
なぜなら、その後すぐに他の党やグループに傾倒してしまうからです。
皆さんは、まさにそのようにしてきたのではないでしょうか?

ある「主義」を離れて、何か他のイズム――カトリシズム、コミュニズム、道徳再武装運動、等々――に移り、加わるのです。
何かに所属しようとする衝動にかられて、皆さんはある掛かりあいから他の掛かりあいへと移っていくのです。
なぜでしょう?
これは自問してみるべき重要な問いだと思います。
なぜ皆さんは所属したがるのでしょう?

明らかに精神は、何らかの党や信念に傾倒しているときではなく、完全にただひとりあるときにのみ真なるものを受け入れることができるのです。
どうかこの問題について熟考し、皆さんの心のなかでそれと親密に接してみてください。
なぜ皆さんは属するのですか?
なぜ国や党派、なぜイデオロギー、信念、家族、民族に傾倒してきたのですか?
なぜ自分自身を何かと一体化させようとするこの願望があるのでしょう?

で、この傾倒は何を含蓄しているのでしょう?
理解することができるのは、完全に外に立つ人だけであり、特定のグループに加入している人でも、あるいはあるグループから他のグループである掛かりあいから他の掛かりあいへと果てしなく移っていく人でもないのです。

そう、皆さんが何かに属することを望むのは、それが皆さんに安心・安定感を――社会的安定だけでなく、内面的安定をも――与えるからです。
皆さんが何かに属するとき、皆さんは安心感を覚えるのです。
この、ヒンドゥーイズム(ヒンドゥー教)と呼ばれるものに属することによって、皆さんは社会的に体裁よく感じ、また内面的に安全、安定感を覚えるのです。
そのように皆さんは、安全になり、安心感を得るために自分自身を何かに傾倒させてきたのです――が、これは明らかに自由の余地を狭めるのではないでしょうか?

私たちのほとんどは自由ではありません。
私たちはヒンドゥーイズム、コミュニズム、あの社会またはこの社会、指導者、政党、組織宗教、導師の奴隷であり、それゆえ私たちは人間としての尊厳をなくしてしまったのです。
人が、自由と呼ばれるこのとてつもないものを味わい、香りをかぎ、そしてそれを知ったときにのみ、人間としての尊厳があるのです。
自由の開花から人間の尊厳が現われるのです。

が、もし私たちがこの自由を知らなければ、私たちは隷従に陥るのです。
まさにそれが世界中で起こっているのではないでしょうか?

で、私は、所属し、何かに傾倒しようとする願望が、この自由の狭隘(きょうあい)化の一因だと思うのです。
所属しようとするこの衝動を片づけ、傾倒しようとする願望から自由になるためには、人は自分自身の考え方を調べ、自分自身、自分自身の心、そして自分自身の願望と親密に触れ合わなければなりません。
これは非常に困難なことがらです。
それは忍耐、取り組みにおける一定の愛情、非難や容認を交えない、不断のたゆみない自己探究を要するのです。
それが真の瞑想なのですが、しかし皆さんはそれが容易ではないことを見い出すでしょう。
そして、私たちのうちのごくわずかしかあえてそれに乗り出そうとはしません。

私たちのほとんどは、案内され、指導されるという安易な道を選びます。
ゆえに私たちは何かに所属し、それによって自分の人間としての尊厳を失うのです。
たぶん皆さんは「ああ、これは前に聞いたことがある。彼のお気に入りのテーマだ」とつぶやき、そして立ち去るのです。
願わくば、皆さんがいま、あたかも初めて聞いているかのように聞くことができればいいのですが――日没の光景や、皆さんの友人の顔を初めて見つめるように。

すると皆さんは学び、そして学ぶことによって皆さんは――いわゆる、他の誰かによって与えられる自由ではない――真の自由を、自分自身で発見することでしょう。
ですから、この自由とは何かという問題に忍耐強く、ねばり強く迫ってみましょう。
明らかに、自由な人だけが真理を把握すること、すなわち精神の尺度を超越した永遠なる何かがあるかどうかを見い出すことができるのです。

これに反して、自分自身の経験や知識を重く背負った精神は、けっして自由ではありません。
なぜなら、知識は刻々の学びを妨げるからです。
私たちはいまお互いに親しく触れ合いつつ、この自由とは何かという問題を共に探究し、そしてどのようにしてその自由に出会ったらいいかを模索しているのです。
で、そのように探究するためには、明らかに、まず初めから自由がなければなりません。
さもなければ探究を進められないのではないでしょうか?

皆さんはきっぱりと所属することをやめなければなりません。
なぜなら、そのとき初めて皆さんの精神は探究できるようになるからです。
が、もし皆さんの精神が束縛されており、政治的、宗教的、社会的あるいは経済的な何らかの掛かりあいによって押さえつけられていれば、そのときには皆さんには何の自由もないので、まさにその掛かりあいが皆さんの探究を妨げるでしょう。

どうか語られつつあることをお聞きになり、まさに最初の探究の運動が自由から生まれなければならないという事実を自分自身の目で見てください。
ちょうど木につながれた動物が遠くまで行けないように、何らかの掛かりあいを持っていれば、そこからは探究を進められないのです。

皆さんの精神は、それがヒンドゥー教、仏教、イスラム教、キリスト教、共産主義、あるいは自分が考え出した何かその他のものに掛かりあい、傾倒しているかぎり、奴隷なのです。
ですから、探究するためには自由がなければならないということをまず初めから、いまから把握しないかぎり、私たちは一緒に先へと進めないのです。

先に進むには、過去が放棄されなければなりません――いやいやながら、不承不承にではなく、きっぱりと手放されなければならないのです。
結局、月に行くという問題に一緒に取り組んだ科学者たちは、たとえかれらがいかに自分たちの国やその他の奴隷だったかもしれなくても、探究すべく自由だったのです。
私はただ単に、研究所での科学者のあの特有の自由に言及しているだけです。
少なくともさしあたり、自分の実験室では彼は探究すべく自由だということです。
が、私たちの実験室は私たちの生の現場であり、それは毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年のこととして、私たちの一生にわたるのであり、ですから私たちの探究の自由は全面的でなければならず、専門家たちにとってのように断片的であってはならないのです。

ゆえに、もし私たちが自由とは何かを学びそして理解するつもりなら、またその底知れない次元へと深く探りを入れるつもりなら、私たちはまず初めから自分の一切の掛かりあいを放棄して、ただひとり立たなければなりません。
そしてそれはきわめて困難なことがらです。

先日カシミールで、数人のサンニャーシが私に言いました。
「私たちは万年雪の地帯で、人里離れて生きています。
私たちはけっして誰にも会いません。
誰一人、私たちを訪ねて来ることはありません」

で、私はかれらに言いました。
「皆さんは本当にひとりでしょうか、それともたんに他の人間から身体的に離れているだけでしょうか?」

するとかれらは答えました。
「ええ、そうです。私たちは単独なのです」。

が、かれらは自分たちのヴェーダやウパニシャツド、経験や蓄えられた知識と共に、またかれらの瞑想や修行と共にいたのです。
かれらはなお、かれらなりの条件づけの重荷を背負っていたのです。
それは、ただひとり、単独であることではありません。
そのような人々は、黄衣をまとい、「われわれは世俗を放棄した」と自分に言いますが、事実はそうではなかったのです。

皆さんはけっして世俗を放棄できません。
なぜなら、世俗は皆さんの一部だからです。
皆さんは数頭の牛や家や財産を放棄するかもしれませんが、しかし自分の遺伝、伝統、蓄積されてきた民族的経験、自分の条件づけの重荷の全部を放棄するためには、とてつもない探究、徹底的な調査――それは学びの運動に他ならないのですが――が必要です。
その他の道――修道士や隠者になるという――は非常に容易なのです。

そこで、どうかよく考え、よく見つめていただきたいのですが、皆さんの仕事、毎日自宅から事務所に通い、三十年、四十年あるいは五十年間勤め続け、技師、数学者、講師としての一定の知識を蓄えていくといった生き方――こういったすべてがいかに皆さんを奴隷にするかおわかりでしょうか?

もちろん、この世界では、人はなんらかの技術を身につけて、仕事を得なければなりませんが、しかしこのすべてがいかに精神のゆとりを狭めているか、よく考えてみてください。
富、進歩、安定、成功――こういったすべてが精神を狭隘(きょうあい)化しており、あげくの果てに精神は機械的になり、自分が学んだ一定のことをたんに繰り返しつつやり過ごすだけになり、現に今すでにそうなのです。

自由を探究し、その美、その広大さ、その活力、その不思議な性質――その言葉の世間的な意味では無益だという――を発見することを欲する精神は、まず初めからその掛かりあい、所属願望を片づけ、そしてその自由をもって探究に乗り出さなければなりません。

これには多くの問いが含まれています。
探究すべく自由な精神の状態とはどういうものか?
掛かりあいから自由であるとは何を意味するのか?
結婚している人は、義務的掛かり合いから自分自身を自由にすべきかっ?

そう、愛があるところ、そこには義務的掛かりあいはありません。
そのときには、皆さんは自分の妻に属さず、そして皆さんの妻は皆さんに属しません。
が、私たちは愛と呼ばれるこのとてつもないものをけっして感じたことがないので、お互いに属しあうのであり、そしてそれが私たちの困難なのです。
私たちは、ちょうど技術の修得に掛かりあってきたように、結婚に掛かりあってきたのです。
愛は掛かりあいではありません。
が、これもまた理解することが非常に困難なことがらです。
なぜなら、言葉は当のものではないからです。
他の人に対して繊細であること、理知によって汚きれない、あの純粋な感情を持つこと――そう、それこそが愛です。

皆さんは理知の性質について考えたことはありませんか?
理知とその働きは、一定のレベルではけっこうですが、しかし理知があの純粋な感情に干渉するとき、凡庸が始まるのです。
理知の働きを知り、かつあの純粋な感情に気づき、しかも両者をまぜこぜにして、互いに他方を損なわせないようにするには、非常に明晰で、鋭敏な気づきが必要なのです。

さて、私たちが何かを探究しなければならないと言うとき、実際になされなければならない探究行為というものがあるのでしょうか、それともあるのはただ直接の知覚だけでしょうか?
おわかりですか?
どうか、私が言わんとしていることを理解してください。

探究とは一般に、分析し、結論に至る過程のことです。
それが、精神、理知の働きなのではないでしょうか?
理知は言います、「私は分析した、そしてこれが私が達した結論だ」と。
その結論から理知は他の結論に達し、そのようにしてそれは進んでいくのです。

思考が結論から生じるとき、それはもやは刻々に考えてはいません。
なぜなら精神がすでに結論に達しているからです。
いかなる結論もないときにのみ、刻々の思考の運動があるのです。
これについてもまた、皆さんはそれを受け入れることも、拒むこともなしに、沈思黙考してみなければなりません。

もし私が、共産主義、カトリック主義あるいは何かその他の「主義」とはこういうものだと結論づければ、私は考えることをやめたのです。
もし私が、神がいる、あるいは神はいないと結論づければ、私は探究することをやめたのです。
結論は信念となって現われます。
もし私が、神がいるかどうか、あるいは個人との関係における国家の真の役割とは何かを見い出すつもりなら、私はけっして結論から出発することはできません。
なぜなら、結論は一種の掛かりあい、傾倒だからです。

そのように、理知の役割は常に探求し、分析し、探り出すことなのです。
が、私たちは内面的、心理的に安心・安定したいので、また私たちは人生について恐れ、心配しているので、何らかの結論に達して、それに掛かりあってしまうのです。
そしてある掛かりあいから他のそれへと私たちは移っていくのですが、私に言わせれば、そのような精神、そのような知性は結論の奴隷なので、考えること、探究することをやめたのです。

知性というものが人生においていかにとてつもなく大きな役割を果たしているか、皆さんは観察したことがありませんか?
新聞や雑誌など、私たちのまわりのあらゆるものが理性をもてはやしています。
だからと言って、私は理性に反対しているのではありません。
それどころか、人は非常に明晰に、鋭利に理性を働かせなければなりません。
が、もし観察してみればわかると思うのですが、なぜ自分が何かに属するのか、あるいは属しないのか、真理を見い出すためにはなぜアウトサイダーでなければならないか、等々について、理知は果てしなく分析し続けるのです。

私たちは、自己分析の過程について学んできました。
一方には、探求し、分析し、論理的に考え、そして結論に達する力を備えた理知があり、他方には理知によって常に干渉され、影響される感情、純粋な感情があります。
そして理知が純粋な感情に干渉するとき、この干渉から凡庸な精神が育つのです。
一方で私たちは、自分の好き嫌い、条件づけ、経験、知識、等々に基づいて論理的に考え、推論し、判断を下す理知を持ち、他方で私たちは、社会によって、恐怖によって腐敗させられる感情を持っているのです。

では、この両者は何が真理かをあばくでしょうか?
それとも、そのためにはただ知覚があるのみで、それ以外のものはないのではないでしょうか?
何を言おうとしているかおわかりでしょうか?
では、説明させてください。
私にとって、あるのはただ知覚だけです――つまり、何かが虚偽かあるいは真実かを即座に見抜くことです。
何が虚偽で、何が真実かへのこの即座の知覚が不可欠の要素なのです――その抜け目なさ、知識、掛かりあいに基づいて推論する知性ではなく。あることについての真理――例えば、自分が何かに属してはならないという真理――をたちどころに見抜くということが、ときどき皆さんに起こったにちがいありません。
それが知覚です。
つまり、あることの真理を即座に見ること、分析、推論なしに、即座の知覚を延期させるために知性が生み出すいっさいのものなしに見ることです。
それは、私たちがぺらぺらと安易に口にする「直観」とはまったく別物です。

また、知覚は経験とは無関係です。
経験は皆さんに告げます。
君は何かに属さなければならない、さもなければ破滅し、仕事や家族、あるいは財産、地位、威信を失ってしまうぞ、と。
そのように知性は、そのすべての推論、抜け目ない評価、条件づけられた思考でもって、君たちは何かに属さなければならない、存続するためには掛かりあいを持たなければならないと皆さんに言い聞かせるのです。

が、もし皆さんが自分が個人として完全にただひとり立たなければならないという真理を知覚すれば、そのときにはまさにその知覚が解放させる要因となり、ゆえに皆さんの側でただひとり立つベく努力する必要はないのです。

私には、推論でも、打算でも、分析でもなく、ただこの直接の知覚しかありません。
皆さんは分析する能力を持ち、推論するための良い、鋭い頭脳を持っているかもしれませんが、しかし理牲や分析に限定された精神は、何が真理かを知覚することができません。

いかなる宗教団体に属することも愚行だという真理を即座に知覚するためには、皆さんは自分の心の底の底まで覗き込み、知性によって生み出されたいっさいの障害物をはさませずに、完全にそれを知ることができなければなりません。

もし皆さんが自分自身と親密に交われば、皆さんはなぜ自分が所属するのか、なぜ何かに掛かりあったのかを知るでしょう。
そしてさらに前進すれば、皆さんはそこに隷属、自由の削減、掛かりあいに必然的に伴う人間の尊厳の欠如を見ることでしょう。
皆さんがこのすべてを即座に知覚すれば、皆さんは自由になるのです。
自由になるべく努力する必要はないのです。
知覚が不可欠なのはそのためなのです。
自由になるためのすべての努力は自己矛盾から起こります。
私たちが努力をするのは、自分自身の内面で矛盾の状態に陥っているからであり、そしてこの矛盾、この努力が、私たちに果てしなく隷属の踏み車を踏ませ続ける多くの逃げ道を生み出すのです。

ですから、人は非常に真剣でなければならないと思うのです。
が、それは何かに掛かりあい、傾倒するという意味ではありません。
何かに掛かりあっている人々は、少しも真剣ではないのです。
かれらは、自分自身の目的を達成し、自分自身の地位や威信を高めるために、自分自身を何かに委ねたのです。
私は、そのような人々のことを真剣とは呼びません。
真剣な人とは、自由とは何かを見い出すことを欲している人のことであり、そのためには彼は明らかに自分自身の隷属状態を調べてみなければなりません。

いや、自分は奴隷などではないと言い張らないでください。
皆さんは何かに属しており、そしてそれは隷属なのです。
皆さんの指導者たちは自由について話しますが。
そのようにヒットラーもしたし、フルシチョフもしたのです。
あらゆる圧政者、あらゆるグル、あらゆる社長・副社長が、また全宗教界・政界のあらゆる人が自由という言葉を口にします。

が、自由は何かまったく別物なのです。
それは貴重な果実であり、それなしには皆さんは人間の尊厳を失うのです。
それは愛であって、それなしには皆さんはけっして神、真理あるいはあの名なきものを見い出すことはないでしょう。
皆さんが何をしようと――美徳という美徳を養い、犠牲をささげ、奴隷のように働き、人に尽くすための方法を見つけ出そうと――自由なしには、そのどれも皆さん自身の心の内なるあの真実を明るみに出すことはないでしょう。
あの真実、あの計り知れない何かは、自由――皆さんが何かに掛かりあわずにきたとき、皆さんが何ものにも属さないとき、にがさも冷笑も、希望も絶望もなしに、完全にただひとり立つことができるときにのみ存在する全的な自由――があるときにのみ現われるのです。
そのような精神・心は、計り知れないものを受け入れることができるのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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