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真実を発見する方法などない


当然ながら、どんな形の意思疎通においても、言葉は非常に重要です。
皆さんが抽象的で、やや複雑な問題を扱っているときは、なおのことそうです。
なぜなら、各人があらゆる言葉を、それについての自分自身の理解に従って解釈していくからです。
ですから、人生というとてつもない問題を、そのすべての複雑さおよび微妙さと共に人が扱おうと望むとき、非常に厄介なことになるのです。

もし私たちが言葉の辞書的な意味から離れず、また自分自身をしてたんなる定義、言葉が伝えることができるたんなる結論を超越させることができれば、言葉は真に有意義なものとなるのです。

例えば、「自由」という言葉を取り上げてみましょう。
各人がそれを、自分自身の特定の必要、要求、圧力および恐怖に従って解釈するでしょう。
もしあなたが野心的な人なら、あなたはその言葉を、あなたの野心を実行し、あなたの願望を達成するために必要な何かとして解釈するでしょう。

一定の伝統に縛られている人にとっては、自由は恐れるべき言葉です。
諸々の気まぐれな好みや願望に耽溺している人にとっては、その言葉はより一層の耽溺の可能性を伝えるでしょう。

このように、言葉は私たちの人生においてとてつもない意義を持っているのですが、皆さんはいかに言葉の意味が深いか、根深いかに気づいたことがあるでしょうか?
「神」、「自由」、「共産主義」、「アメリカ人」「ヒンドゥー人」、「クリスチャン」等々の言葉が、私たちにたんに神経的に影響を及ぽすだけではなく、言葉自体が私たちの存在のなかで振動し、一定の反応を引き起こすのです。

こういったすべてに皆さんが気づいているかどうかわかりませんが、しかしもし皆さんがそれに気づけば、皆さんは精神を言葉から自由にすることがいかに困難かを知るでしょう。

私が皆さんと話し合いたいのはとても複雑な問題なので、言葉とその意義を理解するだけでなく、また言葉を超越することができる精神のためらいと明晰さとをもって、それに迫るべきだと思います。

人は、世界中で現在何が起こっているかを見ることができます。
専制があるところではどこでも、自由は拒まれます。
教会、宗教の強力な組織があるところでもまた自由は拒まれます。
彼らはこの「自由」という言葉を口にしますが、しかし宗教的組織も政治的組織も共にその自由を拒むのです。

人はまた、人口過剰のところでは自由が減らざるをえないということ、組織過剰なところ、マスコミ過剰なところでもまた自由が拒まれるということを見ることができます。

では、このすべてを見た上で、皆さんや私のような個人は、どのように自由を解釈したらいいのでしょう?
組織にがんじがらめになっており、専門家が幅をきかせている社会で生きていると――人はこの世界でそうせざるをえないのですが――精神は一定の種類の技術、方法、生き方に隷従するようになります。

では、私たちはどのレベル、どの深さでその「自由」という一言葉を解釈するでしょう?
たとえ皆さんが事務所からストライキに出かけても、それは自由ということにはならず、たんに失業を招くだけでしょう。
もし皆さんが道の間違った側を走行したら、警官が皆さんを追いかけ、皆さんの自由は減じられるでしょう。
もし皆さんが自分の好きほうだいにしたり、あるいは豊かになれば、国家が皆さんを監視するようになるでしょう。
私たちはすっぽりと制裁、法律、伝統、様々な形の強制や支配に取り固まれており、それらすべてが自由を妨げているのです。

そこで、もし皆さんが一人の人間として、この間題すなわち真の自由を理解したいと思っているなら、皆さんはどの深さからそれを探究しているでしょうか?
それとも、それに少しも関心がないでしょうか?
私たちのほとんどは、実はそれに無関心なのかもしれません。
私たちの関心は日々のパン、自分たちの家族、ちっぽけなトラブル、嫉妬、野心にあり、より広い、より大きな問題には関心がないのです。

で、たんなる問題解決への関心は、療法を生み出さないでしょう。
皆さんは応急療法を見い出すかもしれませんが、しかしそれは、よくご存じのように、たんに別の問題を生み出すだけでしょう。
では、どのレベルで、どの深さから皆さんは「自由」という言葉に応えますか?

人はまた、言葉は当のものではないということを悟らなければなりません。
「真理」という言葉は真理ではありません。
が、私たちのほとんどにとって、言葉だけで充分です。
私たちは言葉を超えて、さらに言葉の奥に何が横たわっているかを調べてはみないのです。
どうかこのことをよく考えてみてください。

まさに「モスレム」(イスラム教徒)という言葉が、その言葉を代表している人間を皆さんが見つめることを妨げるのです。
その言葉に対する神経的反応、心理的反応は非常に根深く、そしてそれは皆さんのなかにあらゆる種類の観念、信念、偏見を呼び覚ますのです。

が、もし人がとても深く考え抜くことができるなら、人は言葉を実際のものから分離しなければならないということが明らかになるでしょう。
私たちの関係における誤解の多くは、私たちが言葉に与える間違った意味によるのです。
それゆえ、皆さんと私が、二人の個人として、正しい意思疎通を確立し、それによってお互いに同じレベルで、同時に理解するようにすることがとても重要なのです。

皆さんが気づいたことがあるかどうか知りませんが、しかし皆さんが誰かを愛しているとき、二人の間の意思疎通は即座的です。
同様にして、もし私たちがそのような共感関係を築くことができれば、そのときにはおそらくこの非常に複雑な問題を探究することができるでしょう。
意思疎通をはかる際の大きな困難は言葉であり、ですから皆さんと私は言葉を突き抜け、それを超越し、それによってお互いに共感しあいながら、私たちが解明し、あばき、討論しつつある問題に与かり、それを共にしていかなければなりません。

私たちは、考える過程というのは、四六時中機械のように働いている記憶の応答であることを見ます。
そこで人は「自由とは何を意味するのだろう?」と尋ねます。
どうかこの質問を理解してください。
そして私が何を言いたいかはっきりわかっていただきたいと思います。

もし自分の精神全体が時間の結果、伝統、様々な文化、経験、条件づけ、自分の家族、種族、民族、信念という背景を持っていることの結果、常に既知なるものの領域内で機能していることの結果なら、そのときにはどこに自由があるのでしょう?

もし私が、時間の結果である精神、記憶でいっぱいの自分自身の精神の限界内で常に動いているなら――事実そうなのですが――いかにして精神はそれ自身を超越したらいいのでしょう?

「自由」という言葉は、そのような精神にとっては何も意味しないのではないでしょうか?
なぜならそのような精神は「私はどうしたら自由になれるのだろう?」と言って、自由をたんに他の要求に転じてしまうだけだからです。
どうかこれに注意深くついてきてください。
そうすればおわかりになるでしょう。

私は、意識的または無意識的に、自分の人生は非常に狭い人生であり、絶えず不安や心配、苦労、恐怖、不幸、悲しみ等々につきまとわれているということに気づき、それで私は、自由にならなればならないとつぶやくのです。
精神の平和を持たなければならない、この制限から脱出しなけばならない、と言うのです。
これが、私たちの各々が求めていることです。

外面的に、様々な専制的政府の下では何の自由もありません。
皆さんは何をすべきかを告げられ、そしてそれをおこなうのです。
そして内面的に、同じ問題が続いていくのです。
ここ、いわゆる民主主義国では、皆さんは多かれ少なかれ外面的に自由です――多かれ少なかれですが。
しかし内面的には皆さんは囚人であり、ですからこの自由とは何かという問いを尋ねているのです。

教会や社会の組織が大きくなればなるほど、またマスコミの効率と手段が肥大化すればするほど、それだけ葛藤や混乱が大きくなっていくのです。
ですから私たちは常に環境と闘い、また自分自身の内部で闘っているのです。
絶え間なく苦闘が続き、そして矛盾と不幸があるのです――「妻は私を愛していない」、「私は他の人を愛している」、「死ななければならない」、「私は信じる」、「私は信じない」そこには常に動揺があり、海のような、ざわめきがあるのです。

皆さんは海を見つめたことがありますか?
風がないでいて、そよともせず、海が星々を映している日があります。
静謐があり、そよとの風もなく、平和な気配が領しているのですが、しかしその下のほうには深い流れ、深い運動があるのです。
その水は広大な領域に及んでおり、そして実際にはけっして静穏ではなく、常にざわざわと動いているのです。
風がそよぐと、とたんに静けさが破られるのです。

精神もまたそうです。
私たちは絶えずざわついており、そしてそれに気づいて言うのです。
「私に平和を与えてください、神を見つけさせてください。私はこの不幸から逃げ去り、永続的平和、祝福があるかどうかを見い出したい」。
それが私たち全員の望みであり、ゆえに私たちはかくもぞっとさせる苦闘、かくもはりつめた矛盾に陥り、願望と願望とをぶつかりあわせているのです。

野心は欲求不満と空しさを生み出し、そしてそれからこの達成願望が再び欲求不満の影を落とすのです。
混乱、紛糾、不幸の状態から、束の間の喜びを感じる状態、ときどき空を見上げて「なんと美しいことか、なんとすばらしいことか!」と言い、またときどき愛の感情を知る状態まで、皆さんは私たちの状態に気づいているでしょうから、私がこれ以上述べる必要はないでしょう。
が、それらはすべて一時的で、束の間で、そして流動的です。

そこで精神は、「永続的な平和の状態はないだろうか?」と尋ね、かくして神あるいは真理という観念に永続性をまとわせるに至るのです。
そしてすべての宗教は、観念に永続性の衣をまとわせることを奨励するのです。
世界中のあらゆる宗教は、皆さんが追い求めなければならない永遠性、祝福があり、そしてそれに至る道があると言います。
かれらは、混乱から真実に至る道があると言うのです。
おわかりでしょうか?
永続的だとされる状態を皆さんが追求するやいなや、皆さんはそれに至る道を見つけなければなりません。
すなわち、信念、方法、方式、実践・修行です。

さて、私に言わせれば、永続性もなければ方法もありません。
真実を発見するための方法などないのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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