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何かからの自由は自由ではない

明らかに、いくつかの種類の自由があることは確かです。
政治的自由があります。
知識が与える自由、ものごとのおこない方、ノウハウを心得たときに得られる自由があります。
また、世界中を巡り歩くことができる金持の自由があり、そして能力の自由、書き、自己表現し、明晰に考えることができる自由があります。

それから、何かからの自由があります。
抑圧からの自由、羨望からの自由、伝統からの自由、野心等々からの自由があります。
そしてそれから、最後に――修行の果て、徳を積み重ねた果て、努力の果てに――得られると私たちが望む自由、一定のおこないを積み重ねることによって得ることを望む究極の自由があります。

このように、能力が与える自由、そして有徳な人生の果てに得られると見なされている自由があり、何かからの自由、これらが私たちが皆知っている類の自由です。

さて、これらの自由はたんに反応なのではないでしようか?
「私は怒りから自由になりたい」と言うとき、それはたんに一つの反応であって、怒りからの自由ではないのです。
また、有徳な生活の果てに、あるいは努力や修行によって最後に得られるだろうと皆さんが思っている自由もまた、過去のものに対する反応なのです。

どうかこのことに注意深くついてきてください。
なぜなら私は、皆さんが慣れていないという意味でややわかりにくいことを言おうとしているからです。

何かからのではない自由の感じ、原因を持たない自由、ただ自由である状態というものがあるのです。
私たちが知っている自由は常に意志によってもたらされるのではないでしょうか?

自由になろう。
技術を学ぼう。
専門家になろう。
勉強しよう――そうすればそれが自分に自由を与えてくれるだろう。
そのように、私たちは自由を達成する手段として意志を行使するのではないでしょうか?

貧乏になりたくない、だから豊かになるために自分の能力、意志、その他あらゆるものを行使するのです。
あるいは、もしうぬぼれが強ければ、私はうぬぼれが強くなくなるように意志を行使します。
そのように、私たちは意志の行使によって自由を得られると考えるのです。
が、これに反して、意志は自由をもたらさないのです。

私が指摘してきたように、何かからの自由は自由ではないのです。
皆さんは、怒りから自由になろうと努めます。
私は、皆さんが怒りから自由になってはいけないと言っているのではなく、それは自由ではないと言っているのです。
私は貪欲、狭量、羨望、あるいはその他いくつものものを免れるかもしれませんが、にもかかわらず自由ではないかもしれないのです。
自由とは、精神の一性質です。
が、その性質は、非常に慎重で立派な追求あるいは探求、非常に周到な分析によって、あるいはいろいろな観念を総合することによってもたらされるものではありません。

それゆえ、私たちが絶えず求めている自由は常に何かからの自由――例えば、悲しみからの自由――だという真理を見抜くことが重要なのです。
悲しみからの自由がないというのではなく、それから自由になるべきだとする要求はたんに一つの反応にすぎず、それゆえ皆さんを悲しみから自由にしないということです。
言わんとしていることがおわかりでしょうか?

私は様々な理由で悲しみにくれており、そしてそれから自由にならなければならないと言います。
悲しみから自由になろうとする衝動は、苦痛から生まれます。
私は、自分の夫ゆえ、息子ゆえ、あるいは何かその他の理由ゆえに苦しみます。
私は、自分が陥っている状態が厭わしく、そこでそれから逃げたいと思う。
そのような自由への願いは反応であって、自由ではないのです。
それはたんに、現在の状態に対するものとして私が望むところの、他の望ましい状態にすぎないのです。
たっぷりお金を持っており、それゆえ世界中を旅行できる人が必ずしも自由ではありませんし、利口あるいは有能な人もまた然りです。
なぜなら、彼の自由になろうという望みもまた反応にすぎないからです。

ですから私は、自由、解放はいかなる反応によって身につけ、獲得し、あるいは捜して得ることもできないということを見抜くことができないでしょうか?
それゆえ私は反応というものを理解し、また自由はいかなる意志の努力によっても起こらないということを理解しなければなりせん。

意志と自由は両立しません。
思考と自由が両立しないように。
思考は条件づけられており、それゆえ自由をもたらすことはできないのです。
経済的に皆さんはたぶん、人間がより安楽でいられるよう、より多くの衣食住にありつけるよう世界を整えることはできるでしょう。
そしてそれが自由だと考えることでしょう。
これらは必要不可欠ですが、しかしそれだけでは完全な自由とは言えないのです。

自由は精神のある状態、ある性質であり、そして私たちが探究しているのはその性質なのです。
その性質なしには、皆さんが何をしようと、世界中のすべての美徳を培おうと、皆さんはあの自由を持つことはないでしょう。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

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究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

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魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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