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競争的な生き方

鈴を数個首のまわりにつけた若い雄牛が、木製のデッキを装着した一本の薄い銅製の棒で二つの大事輪を結んでいる、精巧な作りの軽快な荷車を引っぱっていた。
このデッキの上に男が一人腰かけて、早歩で駆けている雄牛と装備とを自慢していた。
頑強だがほっそりした雄牛は、その男に貫禄を与えていた。
今や、通りすがりの村人たちをはじめ、誰もが彼を見つめていた。
かれらは立ち止まり、感嘆の眼差しで見つめ、批評し、そして通り過ぎた。
その人物はいかに誇らしげに、背をまっすぐにして坐っていたことか、じっと前方を見つめながら!

自慢は、小さなことへのものであれ、あるいは偉大な業績へのものであれ、本質的には同じである。
自分がすること、および自分の持ち物が、当人に重みと威信の気持を与えるのだが、しかしその当人自体は、全体として見れば、ほとんど意義のない存在であるように思われる。

彼は、二人の友達と一緒にやってきた。
かれらはいずれも良い学位を持ち、そしてかれらの言うには、自分たちのさまざまな職業において順調に歩んでいた。
かれらは皆結婚し、子供がおり、人生に満足しているようだったが、しかしかれらはまた動揺してもいるようだった。

「よろしければ」彼は言った。
「問題を切り出すために、一つ質問をしたいのですが。
それは、いいかげんな質問ではありません。
それは、数娩前にあなたのお話を聞いて以来、かなり私を悩ませてきたものです。
なかんずく、あなたは、もし人間が平和な社会に生きようと思うなら、競争と野心は、破壊的な衝動ゆえ、理解することによって、取り払われねばならないと言われました。
しかし闘争と葛藤は、生存のまさに本性の一部ではないでしょうか?」

現在構成されているものとしての社会は、野心や葛藤にもとづいている。
そしてほとんど誰もがこの事実を、避けえないものとして認めている。
個人は、その不可避性へと条件づけられている。
教育によって、さまざまな種類の外面的、内面的強制によって、彼は競争心を煽られる。
もし彼が、いやしくもこの社会に適合すべきだとすれば、彼はそれが立てる諸条件を受け入れねばならない。
さもなければ彼は、とてもひどい目にあうことになるというわけである。

われわれは、この社会に適合しなければならないと考えているようだ。
しかし、なぜそうすべきなのか?

「もしそうしなければ、われわれはただ零落してしまうだけのことでしょう」

もしわれわれが問題のすべての意義を見た暁には、果たしてそうなるだろうか?
われわれは、通常のパターンに従って生きなくなるかもしれないが、しかし創造的かつ幸福に、全く異なった見解をもって生きることだろう。
そのような状態は、もしわれわれが現在の社会的パターンを避けえないものとして認容していれば、引き起こすことはできない。
しかしあなたの問題点に戻るとして、野心、競争、および葛藤は、予定された、避けがたい生き方の構成要素をなすものだろうか?
あなた方は、明らかにそうだと思っておいでだ。
さて、そこから始めよう。
なぜあなた方は、この競争的な生き方を、生存の唯一の過程だと思いこんでおられるのだろうか?

「私は、自分のまわりのすべての人間たち同様、競争心を持ち、野心的です。
それは、しばしば私に満足を与え、そして時々苦痛を与える一個の事実ですが、しかし私は、ただそれを、くよくよせずに認めているだけです。
なぜなら私は、ほかのどのような生き方も知らないからです。
そしてたとえ私がそれを知ったとしても、思うに、それを試みることを私は恐れるでしょう。
私は多くの責任を抱えています。
そしてもし私が生の通常の思考や習慣をやめたら、子供たちの将来を本気で心配しなければならなくなるでしょう」

あなたは他人に対する責任がおありかもしれないが、しかしあなたにはまた、平和な世界をもたらす責任もあるのではないだろうか?
われわれ――個人、集団および国家――が、この競争的生存を避けられないものとして認容しているかぎり、人間にとって平和、永続的幸福はありえない。
競争心、野心は、内面および外面の葛藤を含蓄しているのではないだろうか?
野心的な人間は平和な人間ではない、平和や同朋愛を口にするかもしれないが。政治家は決して世界に平和をもたらすことはできない。
また組織化された信念に属している者たちにもそれはできない。
なぜならかれらはいずれも、指導者たち、救い主、教導者および模範の世界に条件づけられてきたからだ。
そしてあなたが他人に従うとき、あなたはそれによって自分自身の野心の達成を追求しておられるのだ、それがこの現実の世界でであれ、あるいは観念化の世界、いわゆる霊的な世界においてであれ。
競争心、野心には、葛藤が含蓄されているのではないだろうか?

「それは分かりますが、しかし、どうしたらよいのですか?
この競争の網に囚われていながら、どのようにしてそれから抜け出たらよいのですか?
そしてたとえ人がそれから抜け出たとしても、人と人との間に平和があるだろうというどんな保証があるのですか?
われわれのすべてが問題のすべてを同時に見ないかぎり、一人か二人によってその真理が知覚されただけでは、そこには少しの価値もないことでしょう」

あなたは、この、葛藤、達成、挫折の網からいかにして抜け出るかを知ろうとしておられる。
「いかにして」という質問それ自体が、あなたの努力が無駄に終わらないだろうという保証をあなたが得たがっていることを示唆している。
あなたは依然として、単に異なったレベルで成功することを欲しておられるだけなのだ。
あなたは、どのような方向へのいかなる野心も、また成功へのいかなる願望も、内面ならびに外面に葛藤を生み出すということがお分かりになっていない。
「いかにして」は、野心や葛藤の道であり、そしてまさにその質問そのものが、あなたが問題の真理を見ることを妨げるのである。

「いかにして?」は、よりいっそうの成功への梯子である。
しかしわれわれは、今、成功と失敗の見地から考えているのではなく、むしろ葛藤の除去という見地から考えている。
そして、葛藤なしには沈滞は避けられない、ということになるのだろうか?
然り、平和が生まれ出るのは、保護物、賞罰および保証によってではなく、あなた――諸々の野心や挫折を伴う葛藤の代理人であるあなた――がいないときなのだ。

あなたのもう一つの問題点である、万人がこの問題の真理を同時に見なければならないというのは、明白な不可能事である。
しかし、あなたがそれを見ることは可能である。
そしてあなたがそうするときには、あなたが御覧になった真理、そして自由をもたらすそれが、ほかの人々にも感化を及ぼすことだろう。
それはあなたから始まらねばならない。
なぜならあなたが世界だからだ、他人がそうであるように。

野心は、精神と心の凡庸性を生み出す。
野心は浅薄なものなのだ。
なぜならそれは、果てしなく結果を追い求めているからである。
聖人、あるいは成功した政治家、あるいはまた大支配人になりたがっているような人間は、個人的な達成にこだわっているのだ。
観念と一体化するのであれ、国家とであれ、あるいは宗教的、経済的システムと一体化するのであれ、成功しようとする衝動は、エゴ、自我――まさにその構造自体がもろく、表面的で、制限されたものであるところの――を強固にする。
このすべては、もし人がそれを調べてみさえすれば、しごく明らかなのではないだろうか?

「それは、あなたにとっては明らかかもしれませんが、しかしわれわれの大部分にとって葛藤は、存在感、自分たちは生きているのだという気持を与えてくれるのです。
野心と競争なしには、われわれの生は単調で、また無用であることでしょう」

あなた方がこの競争的な生き方を維持しているかぎり、あなた方の子供たちや、あなた方の子供たちのそのまた子供たちもまた、よりいっそうの敵意、羨望および戦争を生み出し続けることだろう。
あなた方もかれらも、平和を持つことはないだろう。
この伝統的な生存様式に条件づけられてきたので、あなた方は、順番に、あなた方の子供たちがそれを受け入れるように教育しておられるのだ。
それゆえ、世界は、この悲惨な状態のまま続いて行くことだろう。

「われわれは変わりたいとは思うのですが、しかし・・・」彼は、発言の空しさに気づいて、話しやめた。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・競争的な生き方
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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