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至福の体験

想像は、あるがままのものの知覚を誤らせる。
それにもかかわらず、いかにわれわれは自分たちの想像力や思弁を自慢にすることか。
思弁的な精神は、そのこみ入った思考とともに、根源的変容を行なうことはできない。
それは革命的な精神ではないのだ。
それはそれ自身をあるべきものでおおってしまったのであり、そしてそれ自身の限られた、閉鎖的な投影物のパターンに従うのである。
幸福はあるべきものにはない。
それはあるがままのものの理解にある。
想像は、あるがままの知覚を妨げる、比較がそうであるように。
真実があるためには、精神は一切の想像と思弁を片づけなければならない。

彼はとても若かったが、しかし家族があり、それなりに信用のある実業家だった。
彼は、ひどく心配で、悲しそうな顔をしていた。
そしてしきりに何か言いたがった。
「しばらく以前、私は、ある非常に驚くべき体験をしました。
しかし私は、そのことをこれまで一度も、誰にも話したことがありませんので、あなたにそれをうまく説明できるかどうか定かではありません。
しかし私はそう望みます。
なぜなら私は他の誰のところにも行けませんので。
それは、私の心を完全に狂喜させる体験でした。
しかしそれは去りました。
そして今、私にはその空しい記憶しか残っていません。
たぶんあなたは、私がそれを取り戻すのを助けてくださるだろうと思います。
私は、できるだけ十分に、その祝福がどんなものだったかを、あなたにお話しします。
私はこれらのことについて読んだことはありましたが、しかしそれらは常に空しい言葉にすぎず、私の感覚に訴えただけでした。
しかし私に起こったことは、あらゆる思考を、想像や願望を超越していました。
そして今、私はそれを失ってしまったのです。
どうかお願いですから、私がそれに戻るのに手をお貸し下さい」

彼はしばらく間をおき、それから続けた。
「ある朝、私は、非常に早く目を覚ましました。
都会はまだ眠っていて、そのつぶやきはまだ始まっていませんでした。
私は、外に出なければならないと感じました。
それで私はすばやく身じたくをし、それから街路まで行きました。
牛乳配達車すら、まだ巡回していませんでした。
早春のことでした。
そして空は青白い色でした。
私は、一マイルかそこら先の公園に行くべきだ、と強く感じました。
正面玄関の入り口を出た瞬間から、私は不思議な軽快感を持ったのです。
まるで自分が空気の上を歩いているような。
向いの建物――くすんだ一棟のアパート――は、いつものすべての醜さを失っていました。
まさに煉瓦が生き生きとし、くっきりとしていたのです。
普通だったら決して気づかなかっただろうようなあらゆる小さな物が、それ自体の途方もない性質を持っているように思われました。

そして不思議にも、あらゆるものが私の一部であるように思われたのです。
何一つ私から別個ではありませんでした。
事実、観察者、知覚者としての『私』はいませんでした、もし私の意味することがお分かりいただけるなら。
あの木、あるいは溝の中のあの紙、あるいはお互いに鳴き交している鳥たちから別個に『私』はいませんでした。
それは、私が一度も知らなかった意識の状態でした。

「公園に行く途中に」彼は続けた。
「一軒の花屋があります。
私はそれを何百回となく通り過ぎました。
そして通りすがりによくそれを一瞥(いちべつ)したものです。
しかしこの特別の朝、私はその前に立ち止まりました。
板ガラスの窓は、内側からの熱と湿気で少し霜がついていましたが、しかしこれは、私が多くの種類の花を見る妨げにはなりませんでした。
立ったままそれらを見つめているうちに、私は自分が、これまで一度も味わったことのない喜びで微笑を浮かべ、そして笑っているのが分かりました。
私はそれらの中にいました、そしてそれらは私の一部でした。
こう言うと、私はあなたに、私がヒステリックで、少々気が狂っていたような印象を与えるかもしれませんが、しかしそうではありませんでした。
私は非常に慎重に身つくろいしました。
そして清潔なものを身に着け、自分の腕時計を見つめ、私の服屋の名前をはじめ、店々の名前を見、そして書店の飾り窓の中の木の題名を読んでいることに気づいていました。
あらゆるものが生き生きしていました。
そして私はあらゆるものを愛しました。
私は、これらの花々の香りでしたが、しかし花の臭いをかぐ『私』はいませんでした、もしあなたが私の意味することがお分かりでしたら。
それらと私との間には、何の分離もありませんでした。
その花屋は、異様なほど色彩で息づいていました。
そしてそのすべての美は、ぼーっとさせるものだったに違いありません。
なぜなら時間とその計測がやんでいたからです。
私はそこに、二十分余り立っていたに違いありませんが、しかし請け合って申しますが、そこには時間の感覚はありませんでした。
私はほとんど、これらの花々から私自身を引き離すことができないほどでした。
闘いと、苦痛と悲しみの世界はそこにありましたが、にもかかわらずそれはなかったのです。
つまり、その状態では、言葉は無意味です。
言葉は記述的で、分離的で、比較的ですが、しかしその状態では言葉がありませんでした。
『私』が経験しているのではありませんでした。
その状態、その体験のみがあったのです。
時間はやんでいました。
過去、現在または未来はありませんでした。
あったのはただ――おお、私はどのようにそれを言葉にしたらよいか分かりませんが、しかしそれは問題ではありません。「大いなる存在」があったのです――いや、その言葉ではありません。
それはまるで、大地が、その中そしてその上の一切とともに、祝福の状態にあったかのようでした。
そして私は、公園に向かって歩きながら、その一部でした。
公園に近づくにつれて、私はそれらの馴染みの木々の美によって、完全に魅せられてしまいました。
薄黄色からほとんど黒緑色まで、葉という葉は生き生きと踊っていました。
どの葉も目立っていて、別々でした。
そして大地全体の豊かさが、一枚の葉の中にありました。
私は、自分の心臓が早鐘のように鼓動しているのに気づいていました。
私は、非常に丈夫な心臓の持主ですが、しかし公園に入ったとき、私はほとんど呼吸できないほどでした。
そして私は、自分が気絶しつつつあるように思いました。
私はベンチに坐りました、すると涙が私の頬をころがり落ちました。
全く耐え難いような沈黙がありましたが、しかしその沈黙は、あらゆるものの苦痛と悲しみを洗い清めていました。
私がさらに公園を奥に進むと、空中に音楽がありました。
私は驚きました。
付近には家がありませんでしたので、そして朝のその時刻には、誰も公園にラジオを持ってきはしなかったでしょう。
音楽は、全部の物の一部でした。
一切の精髄、世界の一切の慈悲がその公園にありました、そして神がそこにいたのです。

「私は神学者ではありませんし、またさして宗教的な人間でもありません」と彼は続けた。
「私は、何十回となく教会の中に入ったことがありますが、しかしそれは私にとって、一度も意味を持ったことがありませんでした。
私は、教会の中で進行するすべてのナシセンスを我慢できません。
しかしその公園の中には『存在者』がおりました、そのような言葉を用いてよろしければですが――その中にあらゆるものが生き、そしてその存在を持っているところの。
私の両脚は震えていました。
そして私は、再び坐ることを余儀なくされました、背中を一本の木の方に向けて。
幹は、私と同じように生きた物でした。
そして私は、その木の一部でした。
その『存在者』の一部、世界の一部でした。私は気絶したに違いありません。
それはすべて、私にはあんまりでした。
鮮明な、生き生きした色彩、葉、岩、花、あらゆるものの信じ難い美。
そして一切の上に、・・・の祝福があったのです。

「正気にかえったときには、すでに太陽が昇っていました。
通常、私が公園まで歩くのに約十分位かかりますが、しかしそのときは、家を出てから二時間近くも経っていました。
身体には、歩いて戻るだけの力もないように思われました。
それで私はそこに坐って、力を回復させ、そしてあえて考えないようにしました。
私がゆっくりと家に歩いて戻る間中も、その体験の全部が私とともにありました。
それは二日間続きましたが、訪れたときと同様、突然消え去っていったのです。
それから私の苦悶が始まりました。
私は、一週間、私の事務所に近づきませんでした。
私は、その不思議な体験が再び戻ってくることを望みました。
もう一度そして、氷久にその幸福に輝いた世界に生きることを望んだのです。
このすべては、二年前の出来事でした。
私は、真剣に、すべてを放棄して、世界のどこか人里離れた場所に引っこもうと考えましたが、しかし私は、心の中では、自分はそれをそのようにして取り戻すことはできないと知っているのです。
どんな僧院も私にその体験を与えることはできないですし、ろうそくを点したどのような教会にもできないのです、そこでは死と暗黒、が扱われているだけですから。
私は、インドに行くことも考慮してみましたが、しかしそれをもまた捨てました。
それから私は、ある種の薬物を試みました。
それはものごとをより生き生きとさせたりはしましたが、しかし阿片剤は私の望むものではありません。
それは、安価な体験方法です、それはごまかしでこそあれ、本物ではありません」

「そうしてここに私はおります」と彼は結んだ。
「その世界に再び生きるためなら、私は何もかも、私の命もすべての所有物も投げ出すことでしょう。
どうしたらよいのでしょうか?」

それは、招かれずしてあなたにやってきた。
あなたは決してそれを捜し求めなかった。
あなたがそれを追求しているかぎり、あなたは決してそれを持つことはないだろう。
その恍惚状態に再び生きようとする、まさにその願望が、新たなるもの、至福の新鮮な体験を妨げているのだ。
あなたは、何が起こったかを御存知だ。
あなたはその体験を持たれた。
そして今、あなたは昨日の死んだ夢の記憶とともに生きておられるのだ。
あったものが、新たなるものを妨げているのである。

「あなたはこうおっしゃりたいのですか、私はあったところのすべてを捨て、忘れ去って、内面的に日々飢えながら、私のちっぽけな生を生き続けねばならないと?」

もしあなたが振り返り、そしてもっと多くを求めなければ――それはかなり大仕事だが――そのときにはたぶん、あなたの手の及ばないその当のものが、その欲するがままに働くかもしれない。
貪欲は、崇高なものに対するものであっても、悲嘆のもとになる。
より多くへの衝動は、時間へのドアを開く。
その至福は、いかなる犠牲、いかなる美徳、いかなる薬物をもってしても買い入れることはできない。
それは、報い、結果ではない。
それは、その欲するときにやってくる。
それを追求してはならない。

「しかし、その体験は真実だったのでしょうか、それは至高のものだったのでしょうか?」

われわれは、あったことを他人が確認すること、われわれに確信させてくれることを望み、そしてそれゆえわれわれは、それに隠れ場を見出す。
あったことにおいて確信または安心させられることは、たとえそれが真実であっても、非現実のものを強固にし、そして幻想を生み出すことである。
過去のもの、満足なもの、または苦痛なものを現在へと引きこむことは、真実なるものを妨げることである。
真実は連続性を持たない。
それは刻々であり、永遠にして、測り知れない。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・至福の体験
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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