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あなたの子供たちとかれらの成功

彼女は、白髪をした、初老の小柄な婦人だったが、しかし老いを見せなかった。
話し方は穏やかだったが、彼女の容姿、歩き方、身ぶり、そして人に対する構え方のすべてが、ある根深い攻撃性を示していた――彼女の声はそれを隠さなかった。
彼女は、大家族をかかえ、数人の息子や娘たちがいたが、しかし彼女の夫が死んでからしばらく経っており、そして彼女一人でかれらを育てねばならなかったのだ。
彼女の息子の一人は、彼女がいかにも誇らしげに言ったところによると、お得意の多い成功した医者で、それにまた良い外科医だった。
彼女の娘の一人は、利口で、そして成功した政治家で、あまり多くの困難なしに、思い通りに進んでいた。
彼女はこのことを、微笑を浮かべて言ったのだが、それは「女性は、何といってもやはり女性ですから」ということを含蓄していた。
彼女はさらに続けて、この政治的女性である娘は、霊的な大望を抱いている、と説明した。

あなたは、霊的な大望という言葉によって何を意味しておられるのか?

「彼女は、ある宗教的または哲学的グループの長になることを望んでいるのです」

組織によって他人を支配することは、確かに邪悪ではないだろうか?
それは、あらゆる政治家たちの流儀である。
かれらが政治の現場にいようといまいと。
あなたは、それを心地良くて欺瞞的な言葉の下に隠すかもしれないが、しかし権力への願望は、常に邪悪ではないだろうか?

彼女は傾聴していたが、しかし語られつつあったことは、彼女には何の意味も持たなかった。
彼女はあることを心配しており、そしてそれが何かはやがて明らかになることだろう、とそう彼女の顔の上に書かれていた。
彼女は自分の他の子供たちの活動のことを語り続けた。
そして彼女が真に愛している一人を除いて、いずれもしっかりと、そして申し分なく暮らしていた。

「悲しみとは何なのでしょうか?」
と彼女は突然尋ねた。
「心の裏のどこかに、私は一生それを持ってきたように思います。
私の子供たちのうちの一人以外は皆、順境にあり、そして満足しておりますが、悲嘆が常に私に付きまとってきました。
それを的確に指摘することはできませんが、でもそれは私に付きまとってきたのです。
そして私は、それは全体何なのだろうかと思いながら、夜、しばしば横になったまま目を覚ましているのです。
私はまた、一番末の息子のことが気がかりです。
残念ながら、あの子はできそこないです。
彼が触れるものは、何もかもめちゃめちゃになるのです。
あの子の結婚、兄弟姉妹たちや、友達との関係といった。
あの子は、ほとんど一度も職を持ったためしがなく、そして勤め口を見つけても、何かが起こって失業してしまうのです。
あの子は人の助けを借りることができないようなのです。
私はあの子のことが心配です。
そしてあの子は私の悲嘆を増しますが、私はあの子がそのもとだとは思いません。
悲しみとは何なのでしょう?
私は、いろいろな心配、失望、そして肉体的苦痛を味わってきましたが、でもこの広がりゆく悲嘆は、何かそのすべてを超越しているのです。
そして私はその原因を見出すことができませんでした。
それについてお話ししていただけますでしょうか?」

あなたは、自分のお子さんたち、そしてことにかれらの成功を大層誇りにしておられるのではないだろうか?

「どんな親もそうだろうと思います。
あの子たちは、末っ子以外は皆成功したのですから。
かれらは富裕で、そして幸福です。
でも、なぜあなたはその質問をなさったのですか?」

それは、あなたの悲嘆と何か関係があるかもしれない。
あなたは、あなたの悲嘆はかれらの成功と無関係だと確信しておられるのだろうか?

「もちろんです。
それどころか、私はそれを大変嬉しく思っています」

あなたは、何があなたの悲嘆のもとだとお思いだろうか?
お尋ねするなら、あなたの御主人の死は、非常に深くあなたに影響しただろうか?
あなたは、依然としてそれに影響されておられるだろうか?

「それは大きなショックでした。
そして私は、夫の死後とても孤独でしたが、でもすぐに自分の孤独と悲しみを忘れました。
世話をすべき子供たちがおり、自分自身のことを考えている時間がありませんでしたから」

あなたは、時間が孤独と悲嘆かを消し去るとお思いだろうか?
たとえあなたがそれらを忘れ去っても、それらは依然としてそこにあるのではないだろうか?
あなたの精神のより深い層の中に隠れたまま。
これらがあなたの意識的悲嘆の原因ということはないだろうか?

「申し上げましたように、夫の死はショックでしたが、しかしどういうわけかそれは予期すべきものでした。
そして涙とともに私はそれを受け入れたのです。
少女の頃、結婚する以前に、私は父の死を見ました。
それから数年後、さらに母の死をも見たのです。
しかし私には、一度も公の宗教への関心が生まれませんでした。
そして死と来世の説明をめぐるこのすべての騒がしい叫びは、決して私を悩ませませんでした。
死は避けられません。
ですからできるだけ騒ぎ立てずにそれを受け入れたいものです」

それがあなたの、死についてのみなし方かもしれない。
しかし孤独は、それほど容易に論じ片づけられるべきものだろうか?
死は、何か未来のものである、それが訪れるときに、たぶん直面されるべきところの。
しかし孤独は、常に現在ではないだろうか?
あなたは、それを意識的に締め出すかもしれないが、しかしそれは依然としてそこ、ドアの陰にある。
あなたは、孤独を招き寄せ、そしてそれを見つめてごらんになるべきではないだろうか?

「私は、それについては分かりません。
孤独はとても不快です。
そしてその恐ろしい感情を招き寄せることまでも私にできるかどうかは疑問です。
それは本当に、とてもぎょっとさせることです」

あなたは、それを十分に理解しなければならないのではないだろうか?
それがあなたの悲嘆の原因かもしれないのだから。

「でも、それが私に苦痛を与える当のものであるとき、どのようにしてそれを理解したらよいのですか?」

孤独はあなたに苦痛を与えないが、しかし孤独の観念は恐怖を引き起こす。
あなたは、一度も孤独の状態を体験なさったことはない。
あなたは常に、懸念、不安、それから離れ去ろう、またはそれを克服する方法を見出そうとする衝動をもって、それに取り組んでこられた。
それゆえあなたは、それを避けてこられたのではないだろうか?
あなたは、本当は、決してそれに直接触れたことはないのである。
孤独をあなたから片づけるため、あなたは、自分の子供たちとかれらの成功の中に逃げこんでしまわれたのだ。
かれらの成功はあなたのそれになった。
しかしこの、成功の崇拝の陰には、何か深い心配があるのではないだろうか?

「どうしてあなたにお分かりになるのですか?」

あなたが逃げ込む当のものごと――ラジオ、社会活動、特定のドグマ、いわゆる愛、等々――が最も重要になり、酔漢にとって飲酒が必要であるように、そのようにそれらはあなたにとっての必要物になってしまうのだ。
人は、成功の崇拝、あるいはイメージ、または何らかの理想の崇拝に耽るかもしれない。
しかしあらゆる理想は人を迷わす。
そして耽ることそれ自体の中に、不安があるのだ。
指摘させていただくなら、あなたのお子さんたちの成功が、実はあなたにとって苦痛の種だったのである。
なぜならあなたは、かれらについて、そしてあなた自身について、より深い関心をお持ちだからだ。
お子さんたちの成功に対するあなたの賛美、およびかれらが世間から受けた賞賛にもかかわらず、その背後には、恥辱感、嫌悪感、あるいは失望感があるのではないだろうか?
どうかお尋ねするのをお許しいただきたいのであるが、あなたはかれらの成功に深く心を痛めておられるのではないだろうか?

「どうかお聞き下さい。
私はこれまで一度も、自分自身に対しても、この悲嘆の性質をあえて認めませんでしたが、しかしそれは、あなたがおっしゃる通りです」

あなたは、それを調べてみることをお望みなのではないだろうか?

「今は、もちろん、私はそれを調べてみたいです。
どうかお聞き下さい。
私は、どの宗教に属することもありませんでしたが、常に宗教的でした。
ここかしこで、私は宗教的なことがらについて読みましたが、でも私は、どのようないわゆる宗教団体にも、決して囚われませんでした。
組織化された宗教は、あまりにも隔てがあり、そして馴染むに足るほどのものとは思えませんでした。
しかし私の世間的な生の底には、常に漠然とした宗教的暗中模索がありました。
そして私が子供を設け始めたとき、この暗中模索は、私の子供たちの一人が宗教的傾向を持って欲しいという深い希望の形を取ったのです。
そして誰一人そうではないのです。
かれらは皆、豊かで、世俗的になってしまったのです、
あらゆるものの混合物である最後の子を除いて。
あの子たちのすべては、本当に凡庸です。
そしてそれが傷つけることなのです。
かれらは俗臭にまみれています。
それはすべて、とても浅薄で、そして愚かしいことですが、しかし私は、あの子たちの誰ともそれを討論したことがありません。
そしてたとえ私がそうしたとしても、かれらは、私が話していることを理解しないことでしょう。
私は、少なくともかれらの一人は違うことだろうと思ったのです。
そして私はかれらの凡庸性と、そして私自身のそれにぞっとするのです。
思うに、私の悲しみのもとになっているのは、これなのです。
この愚かしい状態を打破するため、人は何をすることができるのでしょうか?」

自分自身の中、または他人の中の自分は、自分自身の中の凡庸性を打破できるだけである。
そしてそれから、おそらく、他人との異なった関係が生まれるかもしれないのである。
自分が凡庸であることを知ることは、すでに変化の始まりではないだろうか?
しかしちっぽけな精神は、それ自身に気づいて、半狂乱になって変わろう、向上しようと試みる。
そしてまさにこの衝動自体が凡庸なのである。
自己改善へのいかなる願望も卑小である。
精神が、それが凡庸であることを知り、そしてそれ自身に働きかけないとき、そのときに凡庸性の打破がある。

「あなたは、『それ自身に働きかける』という言葉で、何を意味していらっしゃるのですか?」

もしちっぽけな精神が、それが卑小であることを悟り、それ自身を変えようと努力するなら、それは依然として卑小なのではないだろうか?
変わろうとする努力は、卑小な精神から生まれ、それゆえその努力それ自体が卑小なのである。

「ええ、それは分かりますが、でも人は何ができるのですか?」

精神のいかなる行為も、小さくて限られている。
精神は行為することをやめねばならない。
そしてそのときにのみ、凡庸性の終焉がある。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・あなたの子供たちとかれらの成功
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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