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動機なき注意

かれらは皆、明らかに有能で精力的な、活動的な人間だった。
かれらの職業は、それぞれ法律家、官吏、技師そして社会事業家だった。
そして最後の一人のそれを除き、生計の資を得る手段にすぎなかった。
かれらの本当の関心はどこかほかにあった。
そしてかれらはいずれも、幾世代もの文化を反映していた。

「私は自分自身のことにしか関心がありません」と法律家は言った。
「しかしながらそれは、狭い、個人的な自己改善の意味でではありません。
要点は、ひとり私のみが幾世紀もの障壁を打破して、私の精神を解放させうるということです。
私は進んで耳を傾け、推論し、討論しますが、しかし私は、どんな影響も大きらいです。
影響は、結局プロパガンダであり、そしてプロパガンダは最も愚劣な種類の強制です。
私はとても多くの本を読みますが、しかし自分が著者の思想の感化を受けないように、絶えず自分自身を注意深く見守っています。
私は、あなたの講話や討論の多くに出席しました。
そしていかなる種類の強制も理解の妨げになるというあなたの御指摘に私も同感です。
いかに一見して有益でも、ある特定の方向に沿って考えるよう、意識的無意識的に説き伏せられる者は誰でも、きっと最後にはある種の欲求不満に陥るのです。
なぜなら彼の達成は他人のやり方に従ったものであって、それゆえ彼は、決して、本当は少しも自己達成を果たせないからです」

われわれは、ほとんど四六時中、あれこれのものによって影響されているのではないだろうか?
人は影響に気づかないかもしれないが、しかしそれは多くの微妙な形で常にあるのではないだろうか?
思考そのものが影響の産物なのではないだろうか?

「われわれ四人は、しばしばその問題について話し合いました」と官吏は答えた。
「しかしわれわれは、それについてまだはっきり分からないのです。
さもなければここにこうして伺ったりはしないでしょう。
自分としては、私は、国中のアシュラムに多数の教師を尋ね回りました。
しかし導師に会う前に、私はまずその弟子たちに会って、より良き人生へとどの程度単に影響されてきているだけかを見るようにしています。
弟子たちの一部はこのような取組み方にあきれて、私がなぜまずグルに会おうとしないかを理解できません。
かれらはほとんど完全に権威に踏みにじられているのです。
そしてアシュラムは、特により大きなものは、往々にして、事務所か工場のように、大変能率的に運営されています。
人々はそのすべての財産と所有物を中央の権威に譲渡し、それからの余生を、教導を受けつつずっとアシュラムに留まるのです。
あなたは、そこで見出す人々の種類に一驚を喫することでしょう。
そこには、引退した行政官や、巨富を築き上げた実業家、大学教授等々、社会全体の代表的な面々がいるのです。
そしてかれらはいずれも、グルのいわゆる霊的感化によって支配されています。
それは哀れを誘いますが、しかし事実そうなのです!」

影響または強制は、アシュラムに限られたものだろうか?
英雄、理想、政治的ユートピア、何かを達成し、あるいは何かになることのシンボルとしての未来――これらのものは、われわれの各人にその微妙な感化を及ぼすのではないだろうか?
そして精神はまた、この種の強制からも自由でなければならないのではないだろうか?

「私たちはそこまでは行きません」と社会事業家は言った。
「われわれはある一定の範囲内に賢明に留まります。
さもなければ全くの混乱が起こりかねませんから」

ある種の強制を捨て、結局またそれをより微妙な形で受け入れるだけなのは、無駄な努力のように思われるが、いかがだろうか?

「私たちは、ある種の強制を体系的かつ徹底的に理解してから次に移るようにして、一歩一歩進みたいのです」と技師は言った。

そのようなことが果たして可能だろうか?
強制や影響は、少しずつではなく、全体として取り組まれねばならないのではないだろうか?
ある圧力を捨ててから次のに立ち向かうように努めるときには、まさにこの過程そのものの中に、あなたが捨てようと努めておられるものの維持が、多分異なったレベルで、あるのではないだろうか?
欲望を、少しずつ取り除くことができるだろうか?
まさに努力それ自体が、羨望を維持するのではないだろうか?

「何かを建てるには時間がいります。
人は、たちまちのうちに橋を築くことはできません。
種子が実を結ぶのに、また人が成熟するのに――あらゆることに時間がいるのです」

ある種のものごとには、時間は明らかに必要である。
一連の行動を成し遂げたり、あるいは空間をここからそこまで移るには、時間がいる。
しかし、時計の上の時間を別にすれば、時間は精神の慰み物なのではないだろうか?
時間は、積極的または消極的に何かを達成し、何かになるための手段として用いられる。
時間は、比較において存在するのだ。
「私はこれだ。そして私はそれになりたい」
という考えが、時間の道である。

未来は手直しされた過去である。
そして現在は、過去から未来への単なる運動、または通路にすぎなくなり、そしてそれゆえほとんど重要性のないものとなる。
達成の手段としての時間はとてつもない影響を及ぼし、それは幾世紀もの伝統の圧迫を加える。
消極的かつまた積極的なこの誘引と強制の過程は、徐々に理解されるべきものだろうか、それともそれは全体として見られなければならないのだろうか?

「お話の途中で悪いのですが、私が初めに申し上げたことを続けたいのですが」と法律家は申し立てた。
「影響されることは、少しも考えないことです。
そしてそれだからこそ私は自分自身にのみ――ただし自己本位にではなしに――関心があるのです。
私事に立ち入らせていただくなら、私は、権威についてあなたが言われたことのいくつかを読みました。
そして私は同じ方に動いています。
私がもはや、さまざまな教師の許に決して近寄らないのは、このためです。
権威――民事的、または法的な意味でのではなく――は、理性的な人間なら、避けるべきものです」

あなたは単に、外面的な権威から、新聞や書物、教師等々からの自由にのみ関心があるのではないだろうか?

「それは、私があなたと話し合いたいと思っていたことの一つです。
もし人が気づいていれば、外からの束の間の影響や圧迫によって意識的精神の上につけられる刻印を観察し、それから自由になることは、比較的容易です。
しかし、無意識なるものの条件づけと影響は、何とも理解しにくい問題です」

無意識は、自ら課した、また社会によって課された無数の影響と強制の結果である――違うだろうか?

「それは、その中で自分が育て上げられてきた文化あるいは社会によって、確かに明白に影響されています。
しかし、この条件づけが全的か、または単に部分的かどうか、私には一向に定かではありません」

あなたは、それを見出したいだろうか?

「もちろんのことです。
ここにこうしておりますのはそのためです」

いかにして人は、見出したらよいのだろうか?
但しこの場合の「いかにして」は、探究の過程であって、それは方法の追求ではない。
もし人が方法を追求しているなら、そのときには探究はすでにやんでいる。
精神が現在の文化によってだけでなく、幾世紀もの文化によっても影響され、教育され、形作られていることは、かなり明白である。
われわれが見出そうと試みていることは、精神のごく一部、それとも意識の全部がそのように影響され、条件づけられているのかどうかである。

「ええ、それが問題です」

われわれは、意識によって何を意味しているのだろうか?
動機と行為。
願望、達成および欲求不満。
恐怖と羨望。
伝統、人種的遺伝、および集合的過去にもとづいた個々人の経験。
過去と未来としての時間――このすべてが意識の本質であり、まさにその核心なのではないだろうか?

「そうですね。
そして私は、その途方もない複雑さにごくはっきりと気づきます」

人は、意識の性質を自分で感じているだろうか、それとも人は、それについての他人の叙述によって影響されているだろうか?

「ごく正直に申せば、その両方です。
私は自分自身の意識の性質を感じますが、しかしそれは、それを思い描く助けになります」

影響から自由であることは、いかに骨の折れることか!
叙述を片づけて、人は意識の性質を単に理論づけたり、または説明に耽ったりせずに、それを実地に感得することができるだろうか?
こうすることが肝要なのではないだろうか?

「そのように思われます」と官吏はためらいがちに差しはさんだ。
法律家は、彼自身の思考に耽っていた。

意識の性質を自分自身で実地に感得することは、叙述によってその性質を認知することとは全く別個の経験である。

「もちろんそうです」と法律家は、再登場して答えた。
「一方は言葉の影響であり、そして他方は、現に起こりつつあることの直接、刻々の体験です」

直接、刻々の体験の状態は、動機なしの注意である。
結果を達成しようとする願望があるとき、動機のある体験があり、それは単に精神のよりいっそうの条件づけに行き着くにすぎない。
学ぶことと、動機をもって学ぶこととは、矛盾した過程なのではなかろうか?
学ぶための動機があるとき、人は学んでいるだろうか?
知識の蓄積、または技術の習得は、刻々の学びの運動ではない。
刻々の学びは、何かから離れる、または何かに向かっての、運動ではない。
獲得し、達成し、到達するための知識の蓄積があるとき、それはやむ。
意識の性質を実地に感じ取ること、それについて刻々に学ぶことは、動機なしにあることである。
何かであるため、またはないための刻々の体験、または教えられる状態はない。
動機、原因を持つことは、常に圧迫、強制をもたらすことである。

「先生、あなたは、真の自由は原因なしにあるということを示唆しておられるのですか?」

もちろんである。
自由は束縛への反発ではない。
そうであるときには、その自由はもう一つの束縛になる。
それゆえにこそ、自由であるためには、人が動機を持っているかどうかを見出すことが非常に重要なのである。
もし持っていれば、そのときには結果は自由ではなく、単にあるがままの反対物にすぎない。

「では、意識の性質を実地に感じ取ること、すなわち何の動機もなしにそれを刻々に体験することは、すでに精神を影響から自由にすることです。違いますか?」

そういうことではないだろうか?
あなたは、動機が影響、強制、順応を招くことを見出されなかっただろうか?
精神が、愉快または不愉快な圧迫から自由であるためには、一切の動機――いかにそれが微妙であれまたは気高かろうと――がしぼみ去らねばならない――しかし、いかなる種類の強制、規律または抑圧によってでもなしに。
なぜなら、それは単に別種の束縛をもたらすにすぎないだろうから。

「分かりました」と法律家は言った。
「意識は、相互に関連しあった動機の複合の全体です。
この複合体を理解するためには、人はいかなる動機もなしにそれを実地に感じ取り、それについて学ばなければなりません。
なぜなら、あらゆる動機は、必然的にある種の影響、圧迫を引き起こすからです。
どんな種類のであれ、何らかの動機があるときには、自由はありません。
私は、これをごくはっきりと分かりはじめました」

「しかし、動機なしに行為することは可能でしょうか?」
と社会事業家は尋ねた。
「私には、動機と行為は不可分であるように思われるのですが」

あなたは、行為によって何を意味しておられるのだろうか?

「村落は清掃を必要としています。
子供たちは教育されねばなりません。
法律が施行されねばなり主せんし、改革が実行されねばなりません、等々。
このすべてが行為です。
そしてその奥には、明らかにある種の動機があります。
もしも動機なしの行為が間違っているとするなら、一体何が正しい行為なのですか?」

共産主義者は、彼のが正しい生き方だと考える。
資本家も、あるいはいわゆる宗教的な人間もまた然りである。
どこの政府も五か年または十か年計画を持っており、そしてそれらを実行するために一定の法律を課す。
社会改革者はある生き方を思いつき、そして彼はそれを、正しい行為として主張する。
どの親も、どの教師も、伝統や注意を強いる。
無数の政治的、宗教的団体があり、それぞれが指導者を仰ぎ、そしてそれぞれのいわゆる正しい行為を実行するための、粗雑または微妙な権力を備えている。

「このすべてなしには、混沌が、無秩序があることでしょう」

われわれは、どの生き方、どの教師または指導者を非難または弁護しているのでもない。
われわれは、この迷路を通じて、何が正しい行為なのかを理解しようとしているところなのである。
これらすべての個人と団体は、かれらの提唱と反提唱とともに、思考をこの、またはその方向に動くよう感化を及ぼそうと試みており、そして誰かによって正しい行為と呼ばれているものは、他の誰かによって間違った行為とみなされる。
そういうことなのではあるまいか?

「ええ、ある程度までは」と社会事業家は同意した。
「しかし、それは明らかに不完全で、断片的ではありますが、誰も、例えば政治的行動のことを本質的に正しい、あるいは間違ったものとして考えはしません。
それは、単に必要物なのです。
では、何が正しい行為なのですか?」

これらすべての矛盾対立する観念をまとめ上げるように試みることは、正しい行為に資さないのではないだろうか?

「もちろんそうです」

世界が陥っている混乱を見て、個人は、多種多様な仕方でそれに反応する。
彼は、まず自分自身を理解しなければならない、自分自身の存在を浄化しなければならない、等々と主張する。
あるいは彼は、他人の精神をある特定のパターンに適合させるべく感化を及ぼそうとして、改革者、純理論家、政治家になる。
しかし、社会の混乱や無秩序にこのように対応する個人は、なおその一部なのである。

彼の行為は、実際には反応なので、単に別の形の混乱を引き起こしうるにすぎない。
このいずれも正しい行為ではない。
正しい行為は、然り、全的な行為であって、それは断片的でも、自家撞着的でもない。
そして、すべての政治的および社会的要求に適切に応答できるのは、ひとり全的な行為のみである。

「この全的な行為とは何なのですか?」

あなたは、自分でそれを見出さねばならないのではないだろうか?
もしあなたが、それが何かを教えられ、そしてそれに賛成または反対していれば、それは単に別の断片的行為に行き着くだけなのではあるまいか?
社会内での改革的活動、そして社会に反対またはそれとは別個のものとしての個人の側の活動は、不完全な行為である。
全的行為はこれら両者を超越してある。
そして全的行為とは愛のことである。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 4』 ・・・動機なき注意
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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