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混乱と確信

かれらは、子供のいない夫妻だった。
そして比較的若かった。
背は低かったが体格の良いかれらは、力強く、健康そうな夫婦だった。
彼女はまっすぐにあなたを見つめたが、しかし彼は、あなたが彼を見ていないときにのみあなたを見るようにしていた。
かれらは、以前一、二度やってきたことがあった。
そしてかれらには変化があった。
身体的にはかれらは以前とほぼ同じだったが、しかしかれらの表情、坐り方、そしてかれらの頭のかっこうには何か違ったものがあった。
かれらには、重要な人間になりつつあるか、あるいはすでにそうなっている者の様子があった。

いつもの本領を発揮する場にいなかったので、かれらはややきまり悪く、窮屈に感じ、そして自分たちがなぜきたのか、あるいは何を言うべきか少しも定かではないように見えた。
そこでかれらは、自分たちの旅行のこと、そして現在の環境の下ではかれらにとってさしたる関心事ではないようなその他のことがらについて話すことから始めた。

「もちろん」ととうとう夫は言った。
「私たちは確かに〈マスター〉を信じておりますが、しかし当座はそうしたすべてに重きを置いていません。
人々は無理解のゆえに、マスターを救い主、超グルに祭り上げてしまうのです――そしてあなたがグルについておっしゃっていることは全くごもっともです。
私たちにとって、マスターとはわれわれ自身のより高い自己です。
この方々は存在します。
それもただ単に信念の問題としてではなく、私たちの日常生活におけるごくありふれた出来事としてです。
かれらは私たちの生を教導してくれます。
かれらは私たちに道を教え、指し示してくれるのです」

何への道をだろうか、貴君、もしお尋ねさせていただくなら?

「進化的かつより気高い生の過程へのです。
私たちはマスターの方々の肖像画を持っていますが、しかしそれらは、われわれの取るに足りない生に何かより偉大なものをもたらすために精神が思いを凝らすべき、単なるシンボル、イメージにすぎません。
さもなければ生は安っぽくて、空しく、そしてひどく皮相なものになってしまいます。
政治や経済の分野に指導者がいるように、これらのシンボルは、より高い思想の領域でのガイドの役を果たしてくれるのです。
それらは、暗闇の中の光のように必要なのです。
私たちは、他のガイド、他のシンボルを受け入れないわけではありません。
私たちはそれらのすべてを歓迎します。
なぜならこの騒然とした現代において、人間は、彼が手に入れることのできるあらゆる助けを必要としているからです。
それですから、私たちは狭量ではありません。
しかしあなたは、教導者としてのマスターを否定し、さらに他のあらゆる種類の権威を否定なさるとき、狭量でもありかつまた少々独断的のようにお見受けするのですが。
なぜあなたは、人は権威から自由でなければならないと強調なさるのですか?
結局は権威にもとづいているある種の法や秩序がもしもなければ、いかにしてわれわれはこの世界で生きていけるでしょうか?
人間ははなはだしい試練にあっています。
ですから彼は、彼を助け、そして深く慰めることができる人々を必要としているのです」

その人間とは?

「人間一般です。
例外はあるかもしれませんが、しかし普通の人間はある種の権威、彼をして感覚的な生から霊魂の生へと導いてくれる教導者を必要としています。
なぜあなたは権威に反対なさるのですか?」

多種多様な権威があるのではないだろうか?
いわゆる万民の幸福のための国家の権威がある。
人間を悪から救い、彼が教化されるのを助ける――宗教と呼ばれる――教会、ドグマおよび信念の権威がある。
社会の権威、すなわち伝統の、貪欲、羨望、野心の権威がある。
そしてわれわれの条件づけ、われわれの教育の結果である、個人的知識あるいは経験の権威がある。
さらにはまた専門家の権威、才能の権威、そして政府のであれ、個人のであれ、暴力の権威がある。
なぜわれわれは権威を追求するのだろうか?

「それはかなり明白だと思われますが?
さっき申し上げたように、人間は、それによって彼自身を導くための何かを必要とします。
混乱しているので、彼は、当然ながら自分の混乱から彼を連れ出してくれる権威を求めるのです」

貴君、あなたは人間のことを、まるで彼があなた自身とは別個の存在であるかのように語っておられるのではないだろうか?
あなたもまた権威を追求しておられるのではないだろうか?

「ええ、確かに」

なぜだろうか?

「物理学者は、物質の構造について私よりもずっと多く知っています。
ですからもし私がその分野の事実を教わりたいなら、私は彼の許を尋ねます。
もし歯が痛くなれば、私は歯医者にかかります。
もし私が内面的に混乱すれば――それはよく起こるのですが――私は、より高い自己、マスター等々の導きを求めます。
そうして何がいけないのですか?」

歯医者にかかること、あるいは道路の左右を守ったり納税したりすることは、それなりのことである。
しかし、これは、悲嘆を免れるために権威を受け入れることと同じだろうか?
両者は全く別物なのではあるまいか?
心理的苦痛は、他人の権威に従うことによって理解され、そして除かれるべきものだろうか?

「心理学者や精神分析医は、しばしば、狂った精神がその問題を解決するのを助けることができます。
このような場合の権威は、明らかに有益です」

しかし、なぜあなたは、あなたのいわゆるより高い白己、またはマスターの権威に頼られるのだろうか?

「それは私が混乱しているからです」

混乱した精神は、果たして真なるものを探し出すことができるだろうか?

「なぜできないのですか?」

どうあがいても、混乱した精神は、ただよりいっそうの混乱を見出しうるだけである。
より高い自己へのその探究、およびそれが受ける応答は、その混乱した状態に応じたものであることだろう。
明晰さがあるとき、権威の終焉がある。

「自分の精神が明晰な瞬間があります」

あなたは、要するにこう言っておられるのだ、自分は完全には混乱していない、自分には明晰な部分もある、と。
そしてこの、おそらくは明晰な部分が、あなたのいわゆるより高い自己、マスター等々なのである。
私はこれを、別段軽蔑のつもりで申し上げているのではない。
しかし、精神に混乱している部分がある一方、そうでないほかの部分もあるということがありうるだろうか?
それともこれは、単なる希望的観測にすぎないだろうか?

「私に分かることはただ、自分が混乱していない瞬間がある、ということだけです」

明晰さは、それ自身を非混乱であるとして知ることができるだろうか?
混乱は明断さを認知できるだろうか?
もし混乱が明断さを認知するなら、そのときには、認知されるものは、なお混乱の一部である。
もし明断さがそれ自身を非混乱の状態として知るなら、そのときにはそれは比較の結果である。
それはそれ自身を混乱と比較しており、そしてそれゆえ、それは混乱の一部なのである。

「あなたは私に、私は全面的に混乱しているのだと言っておられるのではありませんか?
しかし、それは、まさにその通りだというわけにはいきません」
と彼は言い張った。

あなたは、混乱か、それとも明断さのどちらにまず気づかれるだろうか?
「それは、にわとりと卵のどちらが先に現われたかを尋ねるようなものではないでしょうか?」

少しもそうではない。
あなたは、自分が幸福なときにはそれに気づかない。
あなたがそれを捜し求めるのは、幸福がすでにないときのみである。
自分が幸福だとあなたが気づくとき、まさにその瞬間に幸福はやむ。
自分の混乱を晴らすために、アートマン――超精神、マスター、その他呼び名は何であれそういったもの――に頼るとき、あなたは混乱から行為しておられるのだ。
あなたの行為は条件づけられた精神の結果である。
違うだろうか?

「たぶん」

混乱しているので、あなたはその混乱を晴らすために、権威を探し求めたり、またはそれを樹立なさるのだが、それはただいたずらに事態を悪化させるだけである。

「ええ」と彼は不承不承うなずいた。

もしあなたがこれの真理を見れば、そのときにはあなたの唯一の関心は、あなたの混乱を晴らすことにあり、そして権威の樹立という無意味なことにではない。

「しかし、いかにして私は自分の混乱を晴らしたらよいのですか?」

あなたの混乱に本当に正直であることによって、自分が完全に混乱しているということを白状することは、理解の始まりである。

「しかし私には、守るべき地位があります」と彼は衝動的に言った。

まさにその通り。
あなたは指導者の地位をお持ちだ――そして指導者は、指導される者と同様混乱している。
それは、世界中同じである。
自分の混乱から、信奉者、あるいは弟子は、指導者、教師、グルを選ぶ。
それゆえ混乱はますます広まっていくのである。
もしあなたが本当に混乱から自由であろうと欲するのなら、そのときにはそれがあなたの主要関心事であって、地位の維持はもはや重要性を持たない。
しかし、貴君、あなたはこの、自分自身との隠れん坊のゲームをしばらくの間してこられたのではないだろうか?

「そのようです」

誰もがひとかどの者になることを欲している。
そしてそれゆえわれわれは、自分自身にも、また他人にもより多くの混乱と悲嘆をもたらすのである。
そしてそれにもかかわらず、われわれは世界の救済について語るのだ!
人はまずもって、自分自身の精神を明らかにしなければならない。
他人の混乱に関心を持ったりせずに。

長い間があった。
それから、ずっと黙って聞いていた細君が、やや傷ついた声で話した。
「しかし私たちは他の人々を助けたいのです。
そして私たちはそれに生涯を捧げてきたのです。
あなたは、私たちからこの願いを持ち去ることはできません。
私たちがしてきたすべての善行の後に。
あなたはあまりにも破壊的で、あまりにも否定的すぎます。
あなたは持ち去ってしまわれますが、何をくださるというのですか?
あなたは真理を見出されたかもしれませんが、しかし私たちはそうではないのです。
私たちは求道者です。
そして自分たちの確信を持つ権利があります」

彼女の夫は、この先どういう結果になるかわからず、やや心配そうに彼女を見つめていたが、しかし彼女はどんどん進んだ。
「これまでの年月をずっと奉仕してきたあと、私たちは自分たちの団体内での地位を自分で築き上げたのです。
初めて私たちは、指導者になる機会を得ているのです。
そしてそれを引き受けるのは私たちの義務なのです」

そう思われるだろうか?

「もちろん、はっきりそう思います」

では何の問題もない。
私は、あなたに何かを納得させようとしているのでも、あるいはあなたを特定の見解に転向させようとしているのでもない。
結論や確信から考えることは、少しも考えないことである。
そして生きることは、そのときには一種の死なのではないだろうか?

「自分なりの確信なしには、私たちにとって生は空しいことでしょう。
自分の確信が、私たちを私たちたらしめているのです。
私たちはある一定のことを信じています。
そしてそれらは、私たちのまさに性質そのものの一部になったのです」

それらが妥当性を持とうと持つまいと?
信念は、何らかの妥当性を持っているだろうか?

「私たちは自分たちの信念に多大の考慮を払い、そしてそれらが、奥に真理を持っていることを見出したのです」

いかにしてあなたは、ある信念の真理を見出されるのだろうか?

「私たちには、ある信念に隠された真理があるかどうかが分かるのです」
と彼女は激しく答えた。

しかし、いかにしてあなたにお分かりになるのだろうか?

「自分の知性、自分の経験、そしてもちろん私たちの日常生活の試練によってです」

あなたの信念はあなたの教育、あなたの教養にもとづいている。
それらはあなたの背景の、社会の、親の、宗教のまたは伝統の感化の結果である。
違うだろうか?

「それのどこが悪いのですか?」

精神が一組の信念によってすでに条件づけられているとき、一体いかにしてそれは、信念についての真理を見出すことができようか?
然り、精神はまず、その信念からそれ自身を自由にしなければならない。
しかる後に初めて、それに関する真理が知覚されうるのである。
キリスト教徒がヒンドゥー教の信念や教義を物笑いの種にすることは、ヒンドゥー教徒が、一定の信念によってのみ人は救われうると主張するキリスト教の教義を嘲笑うのと同じく馬鹿げている。
なぜならかれらは境遇を共にしているからだ。
信念、確信、教義に関する真理を理解するには、まず、キリスト教徒、共産主義者、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、あるいはその他何であれそういった者としての一切の条件づけからの自由がなければならない。
さもなければ、あなたは、自分が教えこまれたことを単に反唱しているにすぎない。

「しかし、経験にもとづいた信念は別問題です」
と彼女は主張した。

そうだろうか?
信念は経験を投影する。
そしてそのような経験は、次に信念を強める。
われわれの幻想は、宗教的ならびに非宗教的なわれわれの条件づけの結果である。
これが本当のところなのではないだろうか?

「先生、あなたのおっしゃることは、あまりにも辛辣すぎます」
と彼女は抗議した。
「私たちは弱いのです。
私たちは自立できないのです。
ですから私たちには、自分の信念の支えが必要なのです」

自分は自立できないと言い張ることによって、あなたは明らかに自分自身を弱くしている。
そしてそれから、あなたは、あなたが作り出した利用者にあなた自身を利用させてしまわれるのだ。

「しかし私たちには助けが必要です」

あなたがそれを追求なさらぬとき、助けはやってくる。
それは一枚の葉から、微笑から、子供の身振りから、あるいは何かの本からやってくるかもしれない。
しかしもしもあなたが本を、葉を、イメージを最も重要にしてしまえば、そのときにはあなたは途方にくれる。
なぜならあなたは、自家製の獄舎に囚われてしまうからである。

彼女は、今や、それまでより静かになったが、しかしなお何かを気にかけていた。
彼女の夫もまた口に出しかかっていたが、しかし自分自身を押えていた。
われわれは全員、無言のまま待った。
するとほどなく彼女は言った。

「あなたがおっしゃったあらゆることからみて、あなたは権力を邪悪とみなしていらっしゃるようですね。
なぜですか?
権力を振るうことのどこが悪いのですか?」

あなたは、権力によって何を意味しておられるのだろうか?
国家の、集団の、グルの、指導者の、イデオロギーの支配、利口な者および狡猾な者がそれによっていわゆる大衆に感化を及ぼすところの、プロパガンダの圧力――このすべてが、あなたが権力という言葉によって意味しておられるものだろうか?

「多少はそうです。
しかし、悪をなす権力もあれば、為になる権力もあります」

他人への優勢、他人の支配、他人への強い感化の意味での権力は、常に邪悪である。
「良い」権力というものはないのである。

「しかし、祖国の幸福のため、あるいは神、平和または同胞愛の名において権力を追求する人々がいるのではないでしょうか?」

その通りである、不幸にして。
お尋ねさせていただくなら、あなたは権力を追求しておられるだろうか?

「二人とも、ええ」と彼女は挑戦的に答えた。
「しかしそれはただ、他人の役に立つためにです」

それこそはまさに、最も冷酷無比な暴君からいわゆる民主主義的政治家まで、グルから激昂した親までの誰もが言うことである。

「しかし私たちは別です。
自分自身ひどく苦しんできた私たちの願いは、私たちがなめた誘惑を他の人々が避けるのに手を貸すことです。
そしてかれらは、かれら自身の幸福のために助けてもらわなければならないのです。
私たちは、本当に役に立つつもりなのです」

あなたは、何が良いことなのか御存知だろうか?

「何が良いことか位は、私たちのほとんどが知っていると思います。
害しないこと、親切であること、寛大であること、殺生をやめること、
そして自分自身のことを心配しないことです」
言い換えれば、あなたは人々に、心と手において寛大であるように教えることを欲しておられるわけである。
しかしこれは、広大な地所持ちの団体を、あなた方の一人がその長になるかもしれない可能性とともに必要とすることだろうか?

「私たちがその長になるとしても、それはただ団体を正しい方針に沿って動かし続けるためであって、個人的な権勢のためではありません」

団体の中で権力を持つことは、個人的権勢を持つこととそれほど大きく違っているだろうか?
あなた方はお二人とも、その威信、それが与える旅行の機会、重要であるという気持、等々を享受することを望んでおられるのだ。
なぜそれについて単純になさらないのだろうか?
なぜ、このすべてに体面の衣をまとわせるのだろうか?
なぜ、成功とそれを認められること、すなわちほとんどの人間が欲していることへのあなた方の願望をおおい隠すために、立派な言葉をたくさんお使いになるのだろうか?

「私たちはただ、人々を助けてあげたいだけです」
と彼女は言い張った。

人がものごとをありのままに見ようとしないのは、奇妙なことではないだろうか?

「先生」と夫が相づちを打った。
「あなたは、私たちの立場を理解しておられないようです。
私たちは凡人です。
そして私たちはあえてそれ以外の何者であろうとも思いません。
私たちには、それなりの欠点がありますし、また野心があることを正直に認めます。
しかし、私たちが尊敬しており、また多くの点で賢明だった方々が、私たちにこの地位を引き受けるよう求めたのです。
そしてもし私たちがそれを引き受けなければ、もっとはるかに悪質な人々の掌中に――完全に私利私欲にとらわれた人々の掌中に――収まってしまうことでしょう。
ですから私たちは、本当はそれにふさわしくはないのですが、自分の責任を引き受けなければならないのです。
どうか御理解下さるよう、切に望みます」

というよりはむしろ、自分が何をしているのかをあなたが理解すべきなのではないだろうか?
あなたは、改革に関心があるのではないだろうか?

「そうでない人がいるでしょうか?
過去および現在の偉大な指導者や教師は、常に改革に関心がありました。
孤立した隠者やサンニャーシは、社会にとってはほとんど無用です」

改革は、必要ではあるが、人間の全体、が理解されないかぎり、さして意義がない。
もしも根が痛んでいれば、その木の枯れ枝を数本切り倒してもそれを健全にはしない。
単なる改革は、常によりいっそうの改革を必要とする。
必要なことは、われわれの思考そのものの全的革命である。

「しかしわれわれのほとんどは、そのような革命を起こせません。
そして根源的変化は、進化的過程によって、徐々に引き起こされねばならないのです。
この漸進的変化を手助けすることが、われわれの念願です。
そして私たちは、自分の生涯を人間への奉仕に捧げてきたのです。
あなたは、人間の弱さに対してもっと寛大になさるべきではないでしょうか?」

寛容は慈悲深さではない。
それは巧妙な精神によって作り上げられたものである。
寛容は狭量からの反動である。
しかし、寛容な者も狭量な者も、決して慈悲深くはないことだろう。
愛なしには、一切のいわゆる善行は、単によりいっそうの災いや不幸に行き着きうるだけである。
野心的で、権勢を追い求めている精神は愛を知らず、そしてそれは決して慈悲深くあることはないだろう。
愛は改革ではなく、全的な行為である。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 4』 ・・・混乱と確信
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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