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英知に生きることは単純であることだ

三人の子供の母親である彼女は、素朴で、物静かで、控え目のようだったが、しかしその目は生き生きし、注意深かった。
それは、多くのものを呑み込んできた目だった。
話し進むにつれて、彼女のやや神経質なはにかみは消え去ったが、しかし彼女は、なおじっと静かに注意深くしていた。
彼女の長男は外国に留学した後、今は電子技師として働いていた。
二男は、織物工場で良い職に就いていた、そして一番下の息子はちょうど大学を終えたところだった。
皆とても良い子たちです、と彼女は言った。
そして彼女がかれらをとても自慢にしているのが分かった。
かれらは数年前に父を失ったが、しかし、父親はかれらが良い教育を受け自活するように計らっておいた。
彼は、他になけなしのものを彼女に残しておいた。
そして彼女は何不自由もなかった。
なぜなら彼女の必要はわずかだったからである。
ここまで話してから、彼女は話をやめた。
そして明らかに、自分の頭に浮かんでいることを口に出すことに困難を感じていた。
彼女が何を話したがっているのかを感づいて、私は躊躇しつつこう尋ねた。

あなたはお子さんを愛しておられるだろうか?
「もちろんのことです」と彼女は、会話の切り出しを喜んですばやく答えた。
「誰がわが子を愛さないでしょうか?
私はあの子たちを情愛をこめて慎重に育て上げ、そして過ぐる年月をひたすらかれらの移り変わり、喜びや悲しみ、そして母親として気にかけるその他すべてのことに費してまいりました。
かれらはとても良い子たちでしたし、私にとても親切でした。
あの子たちは皆学業優秀でした。
そして出世していくことでしょう。
かれらは世界に足跡を残すことはないかもしれませんが、しかし結局、そうするのはごくわずかな方々なのです。
私たちは今、全員一緒に暮らしています。
そしていずれ結婚するときには、もし私が望まれれば、あの子たちの誰かと一緒に留まることになるでしょう。
もちろん、私は自分自身の住居も持っておりますし、それに経済的に子供たちに依存しておりません。
ですが、あなたがそんな質問をなさるとは、不思議です」

そうだろうか?

「ええ、私はこれまで自分のことを、誰にも、妹や、亡夫にすら一度も打ち明けたことはありませんでした。
そして突然その質問を向けられたことは、やや不思議に思えたのです――私は、確かにあなたとそれを話し合いたいのですが。
あなたに会いに伺うには大変な勇気がいりましたが、しかし今、私はお伺いしたこと、またあなたが、私が話すのをとても楽にして下さったことを喜んでいます。
私は常に聞き手でしたが、しかしその言葉のあなたのおっしゃる意味でではありません。
私はよく、夫の話や、あるいは夫の仕事上の同僚の方々が立ち寄ったときにはいつでもその方々の話を聞くのが常でした。
私は、自分の子供たちや、自分の友達の話も聞いてきました。
しかし誰一人として、これまで私の言うことを聞こうとする気はないように思われました。
そして大体は私は黙っておりました。
他人の言うことを聞くことによって人は学ぶものですが、しかし人が聞くほとんどのことは、人がすでに知っていないものではありません。
男の人たちも、職業やひどい給料についての不満だけでなく、女の人と同じ位ゴシップに花を咲かせておりました。
自分の望む昇進のことを話している人もいれば、社会改革や村落事業、あるいはグルが言ったことについて話している人もおりました。
私はそのすべてに耳を傾けてきましたが、しかし決して誰にも自分の心を打ち明けませんでした。
ある人は私より利口でした。
そして他の人は私より愚かでしたが、しかしほとんどのことがらにおいてかれらは私と五十歩百歩でした。
私は音楽を楽しみますが、しかしそれに別の耳で聞き入るのです。
私はほとんどの時間、誰かれの言うことに耳を傾けているように思うのですが、しかし私が耳を傾けている何かほかのもの、常に私の目をかすめる何かがあるのです。
それについてお話してよろしいでしょうか?」

あなたがここにおられるのは、そのためではないだろうか?

「ええ、そうだと存じます。
お聞き下さい、私はもうじき四十五歳になりますが、これまでの年月のほとんどを、他人のことでいっぱいにしてまいりました。
私は、年がら年中無数のことで忙しくしてきたのです。
私の夫は五年前に死にました。
そしてそのとき以来それまで以上に子供たちのことでいっぱいでした。
そして今、妙な具合に、私は四六時中自分自身と顔を見合わせているのです。
先日、義理の妹と一緒に、私はあなたの講話会に出席いたしました。
そして私の心の中で何かが、常々そこにあることを自分が知っている何かが動いたのです。
私はそれをあまりうまく表現できませんが、どうか私の言いたいことが何なのか御理解なさって下さい」

助力をお望みだろうか?

「そうして下さればいいのですが」

何につけ、その最後まで徹底的に単純であることは困難なのではないだろうか?
われわれは、本来は単純な何かを経験するのだが、しかしすぐにそれは複雑になる。
それを、その元々の単純さの範囲内に留めておくことはむずかしいことなのである。
そのようにお感じにはならないだろうか?

「多少はそう思います。
私の心の中には単純なものはありますが、しかしそのすべてが何を意味しているのかはよく分かりません」

あなたは、自分はわが子を愛しているとおっしゃった。
その「愛」という言葉の意味は何だろうか?

「その意味については、先ほどあなたに申しました。
わが子を愛することは、かれらの面倒を見ること、かれらが傷つかないよう、また失敗を犯しすぎないように気をつけることです。
それは、かれらが良い職につくのを助け、かれらが幸福に結婚するのを見届けること、等々です」

それだけだろうか?

「母親にほかに何ができますでしょうか?」

お尋ねさせていただくなら、あなたのお子さんたちへのあなたの愛は、あなたの生の全部を満たしているだろうか、その単に一部ではなく?

「いいえ」と彼女は認めた。
「あの子たちを愛してはおりますが、しかしそれは決して私の生の全部を満たしはしませんでした。
夫との関係は別でした。
彼は私の生を満たしていたかもしれませんが、しかし子供たちは違います。
そしてあの子たちが青年に育った今、かれらは自分たち自身の生を生きはじめています。
子供たちは私を愛してくれ、また私もあの子たちを愛しています。
ですが、男性と彼の妻との関係は別です。
そしてあの子たちは、ふさわしい女性との結婚の中に、それぞれの生の充実を見出していくことでしょう」

あなたは、お子さんたちが何かの観念のため、あるいはどこかの政治家の権勢への渇望を満たすために殺されないように、また戦争の防止にかれらが力を貸すように、かれらが正しく教育されるよう欲したことは一度もないだろうか?
あなたの愛は、あなたをしてお子さんたちが異なった種類の社会、その中では憎悪や敵意、羨望がなくなっているであろうような社会をもたらす助けになることを望ましめているだろうか?

「しかし、この私に、それについて何ができますでしょうか?
私自身が適切に教育されてはこなかったのですから、どうして私が、新しい社会秩序を作り上げる助けになれましょうか?」

それについてあなたは強く感じられないだろうか?

「どうもだめなようです。私たちは、何かについて強く感じるものでしょうか?」

では、愛は何か力強く、活力に満ち、切迫したものではないのだろうか?

「そうあるべきですが、しかし私たちのほとんどにとって、そうではないのです。
私は息子たちを愛しており、そしてかれらの身に何も悪いことが起こらないように祈ります。
万一起こったら、そのことで苦い涙を流すほかに私に何ができますでしょうか?」

もしあなたが愛をお持ちなら、それはあなたをして行為させるに足るほど強力なのではないだろうか?
嫉妬は、憎悪のように強力である。
そして確かに激しい、勢いのある行為を引き起こす。
しかし嫉妬は愛ではない。
では、われわれは、愛とは何かを本当に知っているだろうか?

「私は、自分は子供たちを愛していると常に思ってきました、それは私の人生の中で最大のものではありませんでしたが」

では、お子さんたちへのあなたの愛以上に大きな愛があなたの生の中にあるということだろうか?

この点に至ることは容易ではなかった、そしてわれわれがそれに至るにつれて、彼女はきまり悪がり、そして当惑した。
しばらくの間彼女は話そうとせず、そこでわれわれは、一言もしゃべらずにその場に坐っていた。

「私は、一度も本当に愛したことはございません」
と彼女は静かに話しはじめた。
「私は、何事についても決して非常に深く感じたことはありませんでした。
私はよく非常に嫉妬したものです。
そしてそれはとても強い感情でした。
それは私の心を腐食して、私を激情的にさせました。
私は泣き、騒ぎ立て、そして一度などは、なんとしたことか、ぶったりもしました。
しかし、それはすべて終わり、過ぎたこととなりました。
性的欲望もまたとても強烈でしたが、しかし赤ん坊が生まれるごとにそれは減っていき、そして今は全く消え去りました。
わが子たちへの私の気持は、本来あるべきそれとは違います。
私は、嫉妬とセックス以外は、何事にも強く感じたことは決してございませんでした。
そしてそれは、あまり先まで進まないのではありませんか?」
そう遠くまでは。
「では、何が愛なのですか?
愛着、嫉妬、それに憎しみすらもが、私が愛だとみなすのを常としていたものです。
そしてもちろん、性的関係もです。
でも今は、私は、性的関係はより大きなもののごく小さな一部分にすぎないことが分かります。
より大きなものを私は一度も知りませんでした。そ
してそれゆえにセックスが、少なくとも一時期、焼き尽すほどに重要になったのです。
それが消え去ったとき、私は、自分は息子たちを愛していると思ったのです。
しかし事実は、私はあの子たちを、ごくごくわずかに愛――この言葉を使ってよければですが――していただけなのです。
そしてかれらは良い子たちではありますが、他の凡百の子供たちと似たり寄ったりです。
私の思いますに、私たちは皆凡庸で、些細なことで満足しているのです、野心、財産、羨望といった。
私たちの生は、自分が宮殿で暮らそうが、小屋で暮らそうが、ちっぽけなのです。
このすべては、今、私にはとても明白です、以前は決してそうではありませんでしたが。
ですが、知っていただかねばならないことですが、私は教育を愛けた人間ではありません」

教育はそれとは無関係である。
凡庸さは、無学者の独占物ではないのである。
学者、科学者、大変に利口な者もまた凡庸かもしれない。
凡庸さ、卑小さからの自由は、授業や学習の問題ではない。

「しかし私は多く考え、多く感ぜずにきました。
私の生はみじめなものでした」

たとえわれわれが確かに強く感じるときでも、それは一般には、個人的および家族の安全無事、旗、あるいは何かの宗教的、政治的指導者といった取るに足りぬものについてである。
われわれの感情は、常に何かに賛成または反対している。
それは、煙を出さずに明るく燃える火のようではないのである。

「しかし誰がその火を与えてくださるのですか?」

他人に頼ること、グル、指導者をあてにすることは、単独性、火の純粋さを追い出すことである。
それは煙を強めるのである。

「では、もし私たちが助けを求めるべきでなければ、私たちはまず初めに火を持っていなければなりません」

少しもそうではない。
初めは、火はない。
それは養成されねばならない。
世話すること、火を消し炎の清澄さをそぐ諸々のものの理解とともに、それらを思膚深く片づけていくことが必要である。
そのときにのみ、何ものをもってしても消しえない火が生まれるのである。
英知に生きることは単純であることだ

「ですけれど、それには英知が必要ですが、私はそれを持たずにきたのです」

いや、あなたはお持ちなのだ。
いかにあなたの生が小さいか、いかにわずかしかあなたが愛しておられぬかを自分で見ることのうちに、嫉妬の性質を知覚することのうちに、日常の関係におけるあなた自身に気づきはじめることのうちに、すでに英知の運動がある。
英知は、精神の徴妙なごまかしをすばやく知覚し、事実に直面し、仮定や結論なしに明晰に考えるという、たゆみない精進の問題である。
英知の火をつけ、さらにそれを生かし続けるには、機敏さと大いなる単純さとが必要になる。

「あなたは、思いやりから、私が英知を持っているとおっしゃって下さいましたが、しかしそうでしょうか?」と彼女は言い張った。

探究することはためになるが、あなたが持っている、または持っていないと言い張ることは何のためにもならない。
正しく探究することは、本質的に英知の始まりである。
あなたは、あなた自身の確信、意見、主張および否認によって、あなた自身の中の英知を妨げておられるのだ。
単純さ――外面的なものごとや態度における単純さの単なるふりではなく、内面的な無の単純さ!――が英知の道である。

「私は知っている」とあなたがおっしゃるとき、あなたは非英知の道を辿る。
しかしあなたが「私は知らない」と言い、そして本当にそれを意味なさるとき、あなたはすでに英知の道を辿りはじめたのである。
人が知らないとき、彼は見つめ、聞き、尋究する。

「知ること」は蓄積することである。
そして蓄積する者は、決して知ることはないだろう。
彼は英知に生きてはいないのである。

「もし私が、単純で、多くを知らないがゆえに英知の道についているのでしたら・・・」
「多く」の見地で考えることは、英知に生きないことである。
比較は蓄積にもとづいている。

「ええ、それは分かります。
しかし、さっき申しましたように、もし人が、単純で、本当に何も知らないがゆえに英知の道にあるとしたら、そのときには英知は無知に等しいように思えるのですが」

無知と、知らずにある状態とは、二つの全然別々のことがらである。
両者は全く無関係なのである。

あなたはとても博識で、利口で、有能で、才能に恵まれてはいても、それにもかかわらず無知であるかもしれないのだ。
自己認識がないときに無知がある。
無知な人間とは、自分自身のことに気づかない者、自分自身の欺瞞、うぬぼれ、羨望等々を知らない者のことである。

自己認識が自由である。
あなたは天と地の一切の驚異について知りながら、それでもなお羨望や悲嘆から自由ではないかもしれないのである。
しかしあなたが「私は知らない」と言うとき、あなたは学びつつある。
学ぶことは、知識、事物あるいは関係を蓄積しないことである。
英知に生きることは単純であることだ。
しかし単純であることは、極めて骨の折れる仕事である。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 4』 ・・・英知に生きることは単純であることだ
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

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押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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