スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

問題と逃避

「私は、数多くの深刻な問題をかかえており、そしてそれらを解決しようと努力することによって、それらをよりいっそうこじらせ、そして苦痛の多いものにしているようです。
私は途方にくれており、そしてどうしたらよいか分からないのです。
その上さらに、私は耳が遠いので、私の聴力の補助具としてこのいまいましいものを使わねばならないのです。
私には子供が数人と、それに私を置きざりにした夫がおります。
私は、子供たちには私が味わってきたようなどんな不幸な目にもあわせたくないので、あの子たちのことが本当に気がかりです」

何としきりにわれわれは、われわれの諸問題への答えを見出したがることか!
われわれは答えを見出すことに熱心なあまり、問題を調べてみることができない。
それは、問題に対するわれわれの静かな観察を妨げるのである。

重要なのは問題であって、答えではない。

もしもわれわれが答えを捜し求めれば、われわれはそれを見出すことだろう。
しかし問題は存続するだろう。
なぜなら答えは問題に対して的はずれだからである。

われわれの追求は問題からの逃避を目指しており、そして解決は表面的な改善策であって、それゆえ問題についての理解は何もないのだ。

あらゆる問題は、一つの源から生じる。
そしてその源を理解せずには、問題解決のためのいかなる試みも、ただよりいっそうの混乱や不幸のもとになるだけである。

人はまず、問題を理解しようとする気組みが真剣であること、あらゆる問題から自由であることの必要性が分かっていることの二点が間違いないことを、極めてはっきりさせておかねばならない。
というのは、そのときにのみ問題の作り手に取り組むことができるからである。

問題からの自由なくしては、静謐はありえない。
そして静謐は、幸福にとって不可欠である。
幸福はそれ自体が目的であるわけではないが。風がやむと池が静かになるように、精神は、問題の終着とともに静かになる。

しかし、精神を静まらせることはできない。
もしそうであれば、それは死んでいる――それは淀んだ池なのだ。

観察は静かでなければならないのであって、快と苦にもとづいたいかなる予定計画に従って行なってもならない。

「しかしあなたは、不可能なことを求めておいでです!
わたしどもの教育は、精神を、区別し、比較し、判断し、選択するように訓練していますから、観察されるものを非難したり正当化したりしないことは非常に困難です。
どうしたら人は、この条件づけから自由になり、そして静かに観察することができるのでしょうか?」

もしもあなたが、静かな観察、受動的な気づきが理解に不可欠であると分かれば、そのときにはあなたの知覚の真理が、あなたを背景から解放する。
あなたが、受動的で、にもかかわらず機敏な気づきの即座の必要性を悟らないときにのみ、
「いかにして」という、背景を解消させるための手段の探究が生まれるのである。

解放させるものは真理であって、手段や方式ではない。
静かな観察のみが理解をもたらすという真理が、悟られねばならない。
そのときにのみあなたは、非難や正当化から自由なのである。

あなたが危険に出会ったとき、あなたは、いかにしてそれを避けるかを問いはしない。
あなたが「いかにして」と問うのは、受動的に気づくことの必要性を倍らないからである。
なぜあなたは、その必要性がお分かりにならないのだろうか?

「分かりたいのです。
でも私はこれまで、一度もこのような方向で考えたことがありませんでした。
私に言えることはただ、私にとって私のいろいろな問題は、正真正銘、苦痛以外の何者でもありませんので、それらを除きたいと願っているということです。
私は、人並みに幸福になりたいのです」

意識的または無意識的に、われわれは、受動的に気づくことの必須性を悟ることを拒む。
なぜなら本当は、われわれは自分たちの問題を手放したくないからである。
それらなくしては、われわれはどうなってしまうことかと案ずるのである。

どこに至るのか誰にも分からないようなものを危険を冒して追求するよりは、いかに苦痛でも、われわれが知っているものに固執している方がましだと思うのである。

問題には、少なくとも、われわれは通じている。
しかしそれらの作り手を、どんな結末になるのか分からないまま追求するという思いは、われわれの中に恐怖や重苦しさを醸し出すのだ。
精神は、問題への心配がないと、途方にくれてしまうことだろう。
それは、問題を食べて生きているのだ。

それが世界あるいは台所の問題であれ、政治的または個人的なものであれ、宗教またはイデオロギー上のものであれ。それゆえわれわれの問題は、われわれを卑小で偏狭にしてしまうのである。
世界の諸問題で燃えている精神は、自分が遂げつつある霊的進歩をくよくよと気にかけている精神と同様に卑小である。

さまざまの問題は、精神に恐怖を背負わせる。
なぜなら問題は、自我、「私を」および「私のもの」を強化するからである。
問題がなければ、業績や挫折がなければ、自我はない。

「ですが自我なしには、一体どうして人は存在できるでしょうか?
それは、すべての行為の源泉です」

行為が願望の、記憶の、恐怖、快楽および苦痛の結果であるかぎり、それは必然的に葛藤、混乱および反感を生み出さざるをえない。

われわれの行為は、どのレベルでであれ、われわれの条件づけの結果である。
そして問いかけへのわれわれの応答は、不適切かつ不完全なので、必然的に、問題としての葛藤を生み出すのである。
葛藤は、自我の構造そのものである。
葛藤、食欲の、恐怖の、成功の葛藤なしに生きることは、全く可能である。

しかし直接刻々の体験によってそれが発見されないかぎり、この可能性は単に理論上にすぎず、現実のものではない。
貪欲を持たずに生きることは、自我の動きが理解されるときにのみ可能である。

「あなたは、私のつんぼは私の恐怖や抑圧のせいだとお思いになりますか?
医師の方達は私に、構造上は何も悪いところはないと請け合ってくれました。
ですから私の聴力を回復する見込みはないものでしょうか?
私は、生涯あれこれの仕方で抑圧されてきました。
私は、自分が本当にしたいと思ったことを何一つしませんでした」

内部的および外部的に、理解するよりは抑圧する方が容易である。
理解することは、ことに幼年時代からずっしりと条件づけられてきた者にとっては、骨の折れる仕事である。
奮闘的ではあるが、抑圧は習慣の問題になる。

理解は、決して習慣、決まりきった仕事にはできない。
それは、不断の用心深さ、機敏さを必要とする。
理解するためには、柔軟性や感受性が、それに感傷性とは全く無関係な思いやりがなければならない。
いかなる形の抑圧も、気づきの燃え上がりを何一つ必要としない。

それは、応答を処理するための最も安易かつ愚劣なやり方なのである。
抑圧は、観念や型への順応であり、そしてそれは表面的安全、結構な地位といったものを与える。
理解は解放させるが、抑圧は常に狭め、自己閉鎖させる。
権威への恐怖、不安定、意見への恐怖は、観念的な逃げ場と、それに伴う有形的な対応物を築き上げ、精神はそれらに頼るのだ。

この逃げ場は、どのレベルに置かれていようとも、常に恐怖を持続させる。
そして恐怖から置換、昇華または規律が生じるのだが、それらはいずれも一穫の抑圧なのである。
抑圧は、はけ口を見出さねばならない――それは、肉体の病気かもしれないし、あるいは何らかの種類の観念的幻想かもしれない。
代価は、当人の気質や個人的性癖に応じて支払われるのである。

「私が今までに気づいてきたことなのですが、
何らかの聞くと不愉快なことがあるときはいつでも、私はこの器具の後に避難し、それによって私が自分自身の世界に逃避する手助けをさせているのです。
ですがどうしたら人は、積年の抑圧から自由になれるのでしょうか?
それは長い時間がかかるのではありませんか?」

それは、時間の問題、過去のさらい上げや、あるいは念入りな分析の問題ではない。
それは、抑圧というものの真相の洞察の問題なのである。
いかなる選択もはさまずに、抑圧の全過程に受動的に気づくことによって、その真相は、たちどころに見抜かれる。
もしもわれわれが、昨日と明日の見地に立って考えれば、抑圧の真相は発見できない。
真理は、時間の経過によって理解されるようなものではない。
真理は、到達されるべきものではない。
それは、見抜かれるか、または見抜かれないかのいずれかであり、徐々に知覚するということはできないのである。

抑圧から自由になろうとする意志は、その真相の理解にとって障害である。
なぜなら意志は、積極的であれ消極的であれ、願望であって、そして願望によっては、受動的な気づきはありえないからだ。
抑圧をもたらしたのは、願望または切望である。
そしてこの同じ願望は、今や意志と呼ばれてはいるが、決してそれ自身の創造物から自らを解放することはできない。

さらに、意志の真相が、受動的だが機敏な気づきによって知覚されねばならない。
分析者は、分析されるものを彼自身から分離させるかもしれないが、彼は分析されるものの一部なのである。
そして彼は、彼が分析する対象物によって条件づけられるので、披は、彼自身をそれから自由にすることはできない。
さらに、このことの真理も見抜かれねばならない。
解放をもたらすのは真理であって、意志や努力ではない。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・問題と逃避
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。