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気づくということ

何とわれわれは、われわれの問題を解決することに熱中することか!
何と執劫に、われわれは答えを、出口を、治療法を捜し求めることか!
われわれは決して問題そのものを考究せずに、不安や動揺とともに、常に自己投影されたものである答えを暗中模索するのだ。

問題は自己創出されたというのに、われわれはそれから離れて答えを見出そうと試みるのである。
答えを捜し求めることは、問題を避けることだ――それこそはまさに、われわれの大部分がなさんと欲していることなのである。

そのときは、問題ではなく答えが最も重要になる。
解決は、問題とは別個に離れてはいない――答えは問題の中にあるのであって、それから離れてはいないのである。

もしも答えが本題から離れて別にあるなら、そのときにはわれわれは別のいくつかの問題を作り出してしまう――いかにしてその答えを実現するかという問題、その成し遂げ方、その実行方法、等々。

答えの捜索は問題の回避なので、われわれは、理想、確信、経験という自己投影物に耽るようになるのだ。
われわれはこれらの自家製の偶像を崇拝し、かくしてよりいっそう混乱し、そして疲労してしまう。
結論に到達することは、比較的容易である。
しかし問題を理解することは、困難であり、それは全く異なった取組み方、答えへの潜在的願望のない、そういう取組み方を必要とする。

問題の理解には、答えを求める願望からの自由がどうしても必要である。
この自由は、十分な注意を働かせる気楽さを与える。
精神は、いかなる二義的なことがらにも気を散らされなくなるのだ。

問題との葛藤、あるいはそれへの抵抗があるかぎり、その理解はありえない。
なぜならこの葛藤は、気を散らすことだからである。
共感があるときにのみ、理解がある。
そして抵抗や争い、恐怖や認容があるかぎり、共感は不可能である。

人は、問題との正しい関係を打ち立てねばならない――それが理解の始まりなのだ。
しかしあなたが、問題を免れること、すなわちそれへの解答を見出すことにのみこだわっていたら、いかにしてそれとの正しい関係がありうるだろうか?
正しい関係とは共感のことであり、そしてもしも積極的または消極的な抵抗があれば、共感は存在しえない。

問題への取組み方の方が、問題そのものよりもいっそう重要である。
取組み方が問題を、目的を形作るのである。
手段と目的は、取組み方と違うものではない。
取組み方が、問題の運命を決めるのだ。

あなたが問題をどうみなすかが、最も重要なのだ。
なぜならあなたの態度や偏見、あなたの恐怖や希望が、それを染め上げるからである。
あなたの取組みの仕方に無選択に気づくことが、問題との正しい関係をもたらすことだろう。

問題は自己創出されたのだから、自己認識がなければならない。
あなたと問題とは一つであって、二つの別々の過程ではない。
あなたは、即問題なのである。

自我の諸々の活動は、驚くほど単調である。
自我は、退屈な代物なのだ。
それは本来的に無気力で、無意味で、空虚である。
その対立し、葛藤しあうさまざまな願望、その諸々の希望や挫折、そのさまざまな真実や幻想は、魅惑的ではあるが、にもかかわらず空しい。
その諸々の活動は、それ自身の疲労に行き着くのである。

自我は、常に上り、常に下降し、常に追い求め、そして常に挫折し、常に獲得し、そして常に失っている。
そしてこの愚行の退屈な繰り返しから、それは常に逃避しようと試みているのである。

それは、外部的な活動、あるいはまた満足のゆくさまざまな幻想、飲酒、セックス、ラジオ、書物、知識、娯楽等々を通じて逃避するのである。

幻想を生み出す自我の力は、複雑かつ巨大である。
これらの幻想は自家製であり、自己投影されたものである。
それらは、理想、偶像崇拝的なマスター、救い主の概念、自己拡張の手段としての未来、等々である。

それ自身の単調さから逃げようと努めて、自我は、内部的および外部的な諸々の感覚や興奮を追い求める。
これらは自己放棄の代用物であり、そして代用物の中に、それは何とか我を忘れようと試みる。
それはしばしばうまくいく。
しかし成功は、単にそれ自身の疲労や退屈を増すだけなのだ。
それは次から次へと代用物を追い求め、そのそれぞれがそれ自身の問題、それ自身の葛藤や苦痛を生み出す。

内部および外部で、自己忘却が捜し求められる。
ある者は宗教に、そして他の者は仕事や活動に頼る。
しかし、自我を忘れる手段はない。
内部的または外部的な騒音は、自我を抑圧することはできるが、しかしそれは、異なった形、異なった装いをして、すぐにまた頭をもたげてくる。
なぜなら、抑圧されるものは、はけ口を見出さねばならないからである。

飲酒またはセックス、崇拝または知識による自己忘却は、依存を助長する。
そしてあなたの依存の対象物は、問題を作り出すのである。

もしもあなたが、解放、自己忘却、幸福のために、飲酒や、あるいはマスターに頼れば、そのときには、それらはあなたの問題になる。
依存は、所有欲、羨望、恐怖を生み出す。
そしてそのときには、恐怖とその克服とは、あなたの気がかりな問題になる。
幸福を求めて、われわれは諸々の問題を作り出し、そしてそれらに、われわれは囚われてしまうのだ。
セックスの自己忘却の中にわれわれはある種の幸福を見出し、そしてそれゆえわれわれは、それをわれわれ、が欲していることを成し遂げる手段として利用するのである。

何かを通じての幸福は、常に葛藤を生み出さねばならない。
なぜならそのときには、手段の方が幸福それ自体よりもはるかに意義があり、そして重要になるからである。

もしも私があの椅子の美しさによって幸福を得れば、そのときには、私にとってその椅子が最も重要になり、そして私はそれを他人から守らねばならない。
この闘いの中で、私がその椅子の美しさにかつて感じた幸福は全く忘れ去られ、失われ、そして私は椅子とともにとり残される。
それ自体としては、椅子は取るに足りぬものである。
しかし私はそれに途方もない価値を与えてしまったのだ。

なぜならそれは私の幸福の手段だからである。
そのように、手段が幸福の代用物になってしまうのである。

私の幸福の手段が生きた人間であるときには、葛藤や混乱、反感や苦痛は、もっとはるかに大きい。
もしも関係が単なる利用にもとづいていれば、利用者と被利用者との間の最も皮相的なそれを除いて、果たして関係があるだろうか?
もしも私が私の幸福のためにあなたを利用すれば、私は真にあなたに関係しているだろうか?

関係とは、異なったさまざまなレベルでの、他人との共感を意味する。
そして他人が私の幸福の単なる道具、手段にすぎなければ、彼との共感があるだろうか?
このように他人を利用することによって、私は実際には、そこで自分は幸福になるだろうと私の考えている自己隔離を求めているのではないだろうか?

この自己隔離のことを、私は関係と呼ぶのである。
しかし実際には、この過程には何の共感もない。
共感は、恐怖がないときにのみ存在しうる。
そして利用、それゆえ依存があるところには、責めさいなまれるような恐怖と苦痛がある。
何ものも孤立の中では生きられないから、それ自身を孤立させようとする精神の企ては、それ自身の挫折と不幸に行き着く。

この不完全さの意識から逃れるために、われわれは、観念、人々、事物に完全さを求める。
そしてそれゆえわれわれはまたもや、出発点、代用品の追求へと戻ってしまうのだ。

自我の諸活動が支配的であるところには、問題が常に存在するだろう。
どれが自我の活動で、そしてどれがそうでないかに気づくには、不断の用心が必要である。
この用心は訓練された注意ではなく、一切の選択をはさまない広範囲の気づきである。
訓練による注意は、自我を強化する。
それは、代用物、そして頼みの綱になってしまうのだ。

気づきは、それに対して、自己誘導されたものでも、あるいはまた練習の結果でもない。
それは、隠れたものも表面のものも含めた、問題の全ての中味を理解することである。
隠れたものが現われるには、表面が理解されねばならない。
表面の精神が静かでないかぎり、隠れたものは暴露されえないのだ。
この全過程は言葉の上のものでもなく、また単なる経験の問題でもない。

言語化は、精神の鈍感の徴(しるし)である。
そして経験は蓄積的なものだから、反復性を助長する。
気づきは決心の問題ではない。
なぜなら意図的な指図は抵抗であり、それは排他性へと傾くからである。

気づきは、あるがままについての、沈黙のうちのかつ無選択の観察である。
この気づきの中で問題がおのずから明らかになり、かくしてそれは十分かつ完全に理解されるのである。

問題は、それ自身のレベルでは決して解決されない。
それは複雑だから、その全過程において理解されねばならないのだ。
問題を、肉体的または心理的なただ一つのレベルで解決しようと企てることは、よりいっそうの葛藤や混乱のもとである。
問題解決のためには、このような気づき、問題の全過程を開示する受動的な機敏さがなければならないのである。

愛は感覚ではない。
感覚は、言葉やシンボルによって思考を生み出す。
感覚と思考が、愛に取って代わる。
それらは、愛の代用物となるのだ。

感覚は精神のものである。
性欲がそうであるように。
精神は、記憶を通じて欲望、情欲を生み出し、それらから、それは心地よい感覚を引き出すのである。

精神は、閉鎖的な感覚を伴う、互いに異なり、葛藤しあうさまざまな関心からできている。
そしてそのうちのこの、または他の一つが優勢になりはじめると、それらは衝突しあい、かくして問題を作り出すのである。

感覚は、愉快でありまた不愉快であり、そして精神は快に固執する。
かくして、それらの奴隷になってしまうのだ。
この束縛が問題になってしまうのは、精神が、矛盾しあうさまざまな感覚の貯蔵所だからである。
苦痛の回避もまた、それ自身のさまざまな幻想や問題を持った束縛である。
精神は問題の作り手であり、そしてそれゆえそれらを解決することはできない。

愛は精神のものではない。
しかし精神が引き継ぐときには、感覚があり、そしてそのとき精神はそれを愛と呼ぶのである。
思い廻らされ、衣服をまとわされ、そして個別化されうるのは、この精神の愛なのである。
精神は、心地よい感覚を思い出したり、あるいは予期できる。
そしてこの過程が欲望なのだ。
どのレベルにそれが置かれていようと。精神の領域内には、愛はありえない。
精神は、恐怖や打算、羨望や支配、比較や拒否の領域であり、そしてそれゆえ愛はない。

嫉妬は、自尊心同様、精神のものである。
しかし、それは愛ではない。
愛と精神の諸々の過程との間には架橋できないし、両者を一つにはできない。
感覚が優勢であるときには、愛の余地はない。
それゆえ、精神のものごとが心をいっぱいにしてしまうのだ。

かくして愛は、追求され、そして崇拝されるべき未知なるものとなる。
それは、利用され、そして信じこまれるべき理想にされてしまい、そして理想は常に自己投影されるのである。

こうして精神が完全に引き継ぎ、そして愛は一つの言葉、感覚になる。
そのとき、愛は比較級にされるのだ――「私の方がより多く愛しており、そしてあなたの方はより少なく愛している」

しかし愛は、個人的でも非個人的でもない。
愛は、思考としての感覚が全くない、そういう存在のありようなのである。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・気づくということ
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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