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自己防衛

自己防衛

言葉によってであれ、あるいは身振りで、またはもっと深く危害を加え、他人を傷つけようとする願望は、われわれのほとんどにおいて強固である。
それは普通のことであり、そしてはなはだしく気持の良いことなのだ。

傷つけられまいとする願望それ自体が、他人への危害を助長する。
他人を傷つけることは、自分自身を防衛する一つのやり方なのである。

この自己防衛は、周囲の状況や傾向に応じて独特の形をとる。
他人を傷つけることは、何とたやすいことか、そして傷つけないためには、何という親切が必要とされることか!

われわれは、自分たち自身が傷つけられており、われわれ自身の葛藤や悲嘆によってひどく傷つけられているがゆえに、他人を傷つけるのである。
われわれが内面的に苦しめられていればいるほど、それだけ外部的に暴力を振るおうとする衝動は大きい。

内面的混乱は、われわれを駆り立てて、外面的保護を求めさせる。
そして人が自分自身を防衛すればするほど、それだけ他人への攻撃は大きくなる。

われわれが防御しているもの、われわれがそれほど守っているものは何なのか?

然り、それは、われわれ自身についての観念である。
もしもわれわれが、観念、蓄積の中心をどのレベルでであれ、守らなかったら、「私を」および「私のもの」はないだろう。
われわれはそのときには、意識的ならびに隠れたわれわれ自身の存在の状態に対して、全く敏感で、繊細になることだろう。

しかしわれわれのほとんどは、「私を」の過程を発見することを望まないので、われわれは、われわれ自身についての観念に対するいかなる侵害にも抵抗するのである。

われわれ自身についての観念は、全く表面的である。
しかしわれわれのほとんどは表面で生きることを好むので、われわれは幻想に甘んずるのだ。

他人に危害を加えようとする願望は、根深い本能である。
われわれは怨恨を蓄積するのだが、それは独特の活力、行動している、生きているという気持を与える。
そして蓄積されたものは、怒り、侮辱、軽視、頑固、およびそれらの反対物を通じて消費されねばならないのだ。
許しを必要とするのは、この怨恨の蓄積なのであるが、傷の蓄積がなければそれは不必要である。

なぜわれわれは、へつらいや侮辱、精神的な傷や愛着といったものを蓄積するのだろうか?
諸々の経験とそれらの反応のこうした蓄積なしには、われわれはない。
もしもわれわれが名前、付属物、信念を持っていなければ、われわれは無である。

われわれを蓄積へと駆り立てるのは、無であることへの恐怖である。
われわれの蓄積的活動にもかかわらず、われわれの崩解や破滅をもたらすのは、意識的、無意識的の別を問わず、まさにこの恐怖なのである。

もしもわれわれが、この恐怖の真理に気づくことができれば、そのときには、われわれをそれから解放するのは真理であって、それはわれわれの、自由であろうとする故意の決心ではない。

あなたは無なのだ。
あなたは、あなたの名前や肩書き、あなたの財産や銀行預金を持っており、あるいは権力を持っており、そして有名であるかもしれない。
しかし、こうしたすべての保護物にもかかわらず、あなたは無に等しいのだ。
あなたは、この空虚、この無に全く気づかないかもしれないし、あるいはあなたは、単にそれに気づくことを欲しないかもしれない。
しかし、それを避けるためにあなたがどうあがこうと、それはそこにある。

あなたは、遠回りのさまざまなやり方でそれから逃避しようと努めるかもしれない――信人的または集団的暴力、個人的または集団的崇拝、知識あるいは娯楽によって。

しかし、あなたが眠っていようが覚めていようが、それは常にそこにある。
あなたは、諸々の逃避に無選択に気づくことによってのみ、この無とその恐怖へのあなたの関係に、不意に気づくことができるのである。
あなたは、それに、分離的な、別個の実体として関係しているのではない。

あなたは、それを見つめている観察者ではない。
あなた、思考者、観察者がいなければ、それはないのだ。
あなたと無は、一つである。
あなたと無は一体の現象であって、二つの別々の過程ではない。

もしもあなた、思考者が、それを恐れ、そしてそれについて、何かあなたと相容れず、そして対立するものとして近づくならば、そのときには、あなたがそれに対してとるかもしれないいかなる行為も、不可避的に幻想と、そしてよりいっそうの葛藤や不幸に行き着くのである。

その無があなたであることの発見、刻々の体験があるとき、そのときには恐怖――それは、思考者が彼の思考から離れており、そしてそれゆえ自分の思考との関係を確立しようと試みているときにのみ存在する――は完全に脱落する。
そのときにのみ、精神は静謐あることができる。
そしてこの静謐の中に、真理が現われる。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・自己防衛
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

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究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

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押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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