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観念と事実

われわれにとって、観念の方が事実よりも重要である。
人がどうあるべきかの概念の方が、人のあるがままの状態よりも重要なのである。
未来の方が、現在よりも常に魅力的なのだ。
イメージやシンボルの方が、事実よりもずっと大きな価値がある。
そして事実としてあるものの上に、われわれは、観念、型を載せようと試みるのだ。

かくしてわれわれは、あるがままとあるべき姿との間に矛盾を作り上げてしまうのである。

あるべき状態は、観念であり、虚構であって、そしてそれゆえ事実と幻想との間の葛藤が――それら自身の中ではなく、われわれの中に――あるのだ。
われわれは、事実よりも幻想の方をはるかに好む――観念の方がより人の心に訴え、より満足がいく。
そしてそれゆえわれわれは、それに執着するのである。

かくして幻想が真実に、そして事実が虚偽になり、そしていわゆる真実といわゆる虚偽との間のこの葛藤に、われわれは陥ってしまうのだ。

なぜわれわれは、意識的または無意識的に観念に執着し、そして事実を協にやってしまうのだろうか?
観念、型は、自己投影される。
それは一種の自己崇拝であり、自己永続なのであって、そしてそれゆえ満足なものなのだ。

観念は、支配し、自己主張し、指導し、形作る力を与える。
そして自己投影される観念には、決して自我の否定、自我の解体はない。
それゆえ型または観念は自我を強固にするのだが、しかもこれがまた愛であるとみなされているのである。

私は自分の息子または夫を愛しており、それで私は、彼がこれまたはそれであって欲しい、私は、彼が現在そうである以外のものであって欲しい、というわけである。

もしもわれわれが、あるがままを理解するというのなら、型や観念を捨ててしまわねばならない。
あるがままの理解に切迫さがないときにのみ、観念の放棄が困難になるのだ。

自己投影された観念の方が、あるがままよりも大きな満足を与えるがゆえに、われわれの中で、観念とあるがままとの間の葛藤が存在するのである。

型が打破されるのは、あるがまま、事実が直面されねばならないときのみである。
それゆえそれは、いかにして観念から自由になるかではなく、いかにして事実に直面するかの問題なのである。
満足の過程、自我の動き方についての理解があるときにのみ、事実に直面することが可能である。

数多くの異なった仕方でではあるが、われわれはいずれも自己達成を求めている。
金銭や権力を通じて、子供や夫を通じて、国や観念を通じて、奉仕や犠牲的行為を通じて、支配や服従を通じて。
しかし果たして、自己達成はあるのだろうか?

達成の対象は、常に自己投影され、自己選択されたものであって、それゆえこの達成への切望は、一種の自己永続化なのである。
意識的にであれ、または無意識的であれ、自己達成の道は自己選択されたものであり、それは、永続的でなければならない満足への願望にもとづいている。

それゆえ自己達成の追求は、願望の、氷続性の追求なのである。
願望は常に一時的であり、それは何ら定まった居所を持っていない。
それは、その執着の対象物をしばらくの間は存続できるかもしれないが、しかし願望それ自身が永続性を持っていないのである。

われわれは直観的にこのことに気づいており、そしてそれゆえわれわれは、観念、信念、事物、関係を永続させようと試みるのである。
しかしこれもまた不可能なので、不変の実体としての経験者、願望とは別個で異なったものである「私」、自分の思考とは別個で異なったものである思考者の創造が行なわれるのだ。
この分離は明らかに虚偽であり、幻想に終わるのである。

永続性の追求は、自己達成の果てしない叫びである。
しかし自我は、決して達成できない。
自我は永続しないものであり、そして達成の対象自体もまた永続しないにちがいないのである。

自己継続は、腐敗である。
そこには何一つ変容の要素も、また新たなるものの息吹きもないのである。
新たなるものがあるためには、自我が終わらねばならない。
自我は、観念であり、型であり、記憶の束である。

そしてそれぞれの達成は、観念、経験のより一層の継続なのだ。
経験は、常に条件づける。
経験者は、彼自身を常に経験から分離させ、区別している。

それゆえ経験から、また経験しようとする願望からの自由がなければならない。
達成は、内なる貧困、空しさを隠蔽する道であり、そして達成には悲嘆や苦痛がある。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・観念と事実
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

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究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

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