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瞑想

正しい瞑想は、精神の浄化に不可欠である。
なぜなら、精神を空しくせずしては、何の再生もありえないからである。
精神は、絶えざる反復、誤用による摩擦、それを鈍感にし、疲れさせるさまざまな感覚によって衰弱する。
精神の統制は、重要ではない。
大切なことは、精神の諸々の関心を見出すことである。
精神は、互いに葛藤しあう一束の関心であり、そして単にある関心を別のそれに対して強化することが、われわれのいわゆる精神集中、規律の過程である。

規律は抵抗を養うことであり、そして抵抗のあるところには何の理解もない。
規律正しい精神は自由な精神ではない、そして自由においてのみ何らかの発見ができるのだ。

どのようなレベルにあろうとも、自我の運動をあばくためには、自発性がなければならない。
不愉快な発見があるかもしれないが、自我の運動は白日のもとにさらされ、そして理解されねばならない。

しかし規律は、そこにおいて発見が行なわれる自発性を破壊する。
規律は、いかに厳格でも、精神をあるパターンに固定させる。
精神は、訓練された目的に順応するだろうが、しかしその順応の対象は真実ではない。
規律は、単に上からの押しつけ物にすぎず、そしてそれゆえ決して露出の手段ではありえない。

自己規律を通じて、精神はそれ自身を、その目的において強化できる。
しかし、この目的は自己投影されたものであり、そしてそれゆえ、それは真実ではない。
精神は、それ自身のイメージにおいて真実を作り上げ、そして規律は、単にそのイメージに活力を与えるにすぎない。

発見――自我の動きの刻々の発見――においてのみ、喜びがありうる。
自我は、それがどのレベルに置かれていようとも、依然として精神のものである。
精神が思い廻らすことのできるものは、どんなものであれ精神のものである。

精神は、それ自身のものでないものを思い廻らすことはできない。
それは、未知なるものを考えることはできないのだ。
いかなるレベルの自我も、既知なるものである。

そして、表面の精神が気づいていない自我の諸層があるかもしれないが、それらは依然として、既知なるものの領域にある。
自我の運動は、関係の行為において暴露される。
そして、関係があるパターン内に閉じ込められていないとき、それは自己暴露の機会を与えるのである。

関係は自我の行為であり、そしてこの関係を理解するためには、無選択に気づくことが必要である。
なぜなら選ぶことは、ある関心を別のそれに対して強調することだからである。
この気づきは、自我の行為の刻々の体験であり、そしてこの体験状態には、体験者も被体験物もない。
かくして精神は、その蓄積物から空しくされる――そこにはもはや、「私」、蓄積者がいない。

蓄積物、貯えられた諸々の記憶が、「私」にほかならない。
「私」は、蓄積物とは別個の実体ではないのだ。
「私」は、それ自身を保護し、一時性のさなかでそれ自身に永続性を与えるために、それ自身を観察者、番人、監督者として、その特性から分離させる。

完全な、一元的過程の刻々の体験が、精神をその二元性から解放する。
こうして、表面にあるものも揺れているものも合わせて、精神の全過程が体験され、そして理解される――一片ずつ、一つ一つの活動ごとにではなく、その全体において。
そのときには、夢と日々の活動は、常に空しくする過程である。

精神は、受け入れるために、完全に空しくなければならない。
しかし、受け入れるために空しくなろうと切望することは、根深い障害であり、そしてこれもまた、特定のレベルにおいてではなしに、完全に理解されねばならない。
体験への渇望は完全にやまねばならないが、それは、経験者が経験とその記憶でもって、彼自身を養っていないときにのみ起こる。

精神の浄化は、単にその上層のレベルにおいてだけでなく、その隠れた深部でも起こらねばならない。
そしてこれは、名づけ、命名化する過程が終焉するときにのみ起こりうる。
命名化は、単に経験者、永続への願望、詳述し列挙する記憶の特質を強固にし、そして連続性を与えるにすぎない。

命名化についての静かな気づき、そしてそれゆえその理解がなければならない。
われわれは、話し合うためだけでなく、ある体験に連続性と内容を与え、それを蘇生させ、そしてその感覚を反復するためにも命名する。
この命名過程は、精神の表層レベルにおいてだけでなく、その全構造にわたってやまねばならない。
これは、簡単に理解されたり、あるいは軽々しく経験されるものではない困難な課題である。

なぜなら、われわれの意識全体が、経験を命名したり、または名づけ、然る後にそれを貯え、または記録する過程だからである。
幻想の実体である、経験から別個に分離したものとしての経験者に滋養と力とを与えるのは、この過程である。

思考がなければ、思考者はいない。
思考が思考者を生み出し、思考者は、自分に永続性を与えるために、自己自身を分離させる。
なぜなら思考は、常に一時的なものだからである。

全存在―表面ならびに揺れた部分―が過去から浄化されるときに、自由がある。
意志は願望である。
そして、もしも意志の何らかの行為、自由になり、自己自身を裸にしようとする努力があれば、そのときには決して自由、全存在の完全な浄化はありえない。

意識の多数の層のすべてが静謐で、完全に静まりかえっているとき、そのときにのみ、不可測のもの、時間のものでない祝福、創造の再生がある。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・瞑想
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

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魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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