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真の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかでわかる




真の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかでわかる
――人間を孤独にし社会を殺伐とさせる〈我―それ〉の関係――

〈我―それ〉の病に冒された人間はどうなるか?

自分のために相手を利用する関係を、ブーバーは〈我―それ〉の関係と呼んだ。
こうした関係での相手とは、自分に従属させるモノである。
モノは「あなた(汝)」とは呼ばれない。
モノは「それ」と呼ばれる。
〈我―それ〉の関係とは、打算に基づく取引の関係である。

こうした関係では、誰かと出会ったとき、表面的には友好的な握手を交わしながらも、内心ではこんなことを(明確に、あるいは漠然と)考えている。
「この人は敵か味方か?
つき合うことで利益があるのか?
仕事は何か?
どんな会社に勤め、肩書は何で、学歴や財産や権力はどれほどなのか?
才能や特技はあるのか?
のプライドを満たしてくれるのか?
何であれ、この人とつき合って得があるのか?・・・」

そうして利用価値がないと判断すれば関係を結ぼうとせず、あると判断すればアプローチを始める。
自分の得にならない者、自分と意見を同じくしない者、自分より劣った者には軽蔑のまなざしを向け、あるいは威張り、あるいは無視をする。
自分の得になる者、自分より優秀な者には娼びを売り、卑屈になり、あるいは嫉妬の念を燃やす。

「その人の本当の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかを見ればわかる」

こんな箴言(しんげん)があるが、〈我―それ〉の病に冒されると、心の触れ合いや、両者だけに通じる合図などは失われ、真の対話や交流は麻痺してしまう。
打算と腹の探り合いと、偽りの友愛しか持ち得ず、真の意味で関係と呼べるものが、ことごとく死に絶えてしまうのだ。


取引の家庭で育てられた子供は、自分を愛せない人間に成長する

本来なら、取引や打算は、ビジネスの世界でのみ行われるべきものである。
その限りでは問題はない。
基本的にビジネスは取引の土壌で成長するのであり、誰もがそのことを納得して関わっているからだ。

ところが、取引や打算とは無縁であるはずの領域、その最たる聖域である家庭が、〈我―それ〉の関係に侵されつつあるところに、今日の社会をおおっている悲劇の病根がある。
病状が進行した家庭になると、愛情の交わりなどはなく、あるのはまさに「ビジネス」なのだ。

子育ては「投資」である。
子供は、老後の世話をさせるため、
家業を継がせるため、
体裁のいい学校に入れて自分の虚栄心を満たすための「道具」でしかない。

そもそも道具の価値とは、それがもつ「機能」にある。
ハサミに価値があるのは切れるからで、その機能が失われれば価値はなくなり、捨てられて別物に交換されてしまう。

同じように、〈我―それ〉が支配する家庭では、親が愛するのは子供ではなく、子供の所有する「機能」にすぎない。
機能こそが、自分に利益をもたらしてくれる唯一の価値なのだ。
親はイミテーションの愛を取引の材料にし、次のように言って「商談」をもちかける。
「優秀になりなさい。
その報酬として、愛をあげましょう」

子供はそんな「愛」を手に入れるために、必死になって「機能」を磨こうとする。
テストで満点を取って誉められようとする。
親の命令にひたすら服従する「よい子」になろうとする。
取引に必要な機能を養うために、緊張に満ちた苦しい努力を続けていくのだ。

そんなことが長く続けられると、子供はいつしか、機能こそが自分(人間)の本質なのだと思い込んでしまう。
そして、機能が優秀でない人間は、愛されるに値しないという信念のようなものが根を張っていく。
その結果、ありのままの自分に価値が感じられない人間に成長してしまうのだ。
ありのままの自分を愛せない人間になってしまうのである。

同じ理由で、ありのままの他者を愛することもできない。
自分を喜ばせる機能をもった人しか愛せない。
言い方をかえれば、機能さえ優秀なら、誰であろうとかまわない。
大切なのは道具としての機能であって、相手の存在そのものではないからだ。


〈我―それ〉の関係がもたらす現代社会の悲劇

しかし、人間は万能ではない。
いつも優秀でいることは無理である。
失敗や挫折をすることもある。
ところが、機能が人間の本質だと思っている子供にとって、失敗や挫折は「存在の否定」そのものに他ならない。
その結果、自分には生きる(存在する)価値も意味もないと絶望してしまうのだ。

あるいは、常に優秀であることは現実に不可能だと悟る子供もいる。
そうした子供は、優秀になるよりも、「優秀に見せかける」ことに力を注ぐようになる。
その結果、他者のすべてはライバルとなり敵となってしまう。
競争心を燃やし、少しでも優秀に見せかけるため、権力や名声、金やブランドに貧欲となっていくのだ。

けれども、そんな努力もいずれ疲れ果ててしまう。
そして結局は、終わりのない欠乏感と、優秀な人間への嫉妬や憎悪に心を蝕まれ、自己の空しさに直面せざるを得なくなるのだ。

こうした子供たちが育ち、大人になって、社会を担っていくのである。
そんな社会では、誰かと向き合っても、相手の瞳に映し出されるのは自分の姿ではない。
自分の肩書、自分のお金、自分のコネ、自分の機能にすぎない。
つき合って面白くないと思われたら一方的に関係は破棄される。
まるでチャンネルを切り替えるように。
他者は、自分を喜ばせる「番組」でしかないのだ。

あらゆる人間関係は疑似の体験でしかない。
恋も友情も芝居にすぎない。
真の触れ合いも交流もない。
集団の中に身をおいても、各々は心の中に引きこもり、隔絶された人生を生きていくのである。

要するに、孤独なのである。
この世界に生きる私たちは・・・。
〈我|それ〉の関係が作り出す世界とは、孤独の世界なのである。

そんな孤独の空しさが、過食や拒食といった心身症、鬱病や自殺などを招き、麻薬やアルコール、性犯罪や暴力へと駆り立て、さまざまな非行に走らせ、狂信的なカルト宗教に溺れさせてしまう大きな原因のひとつになっているのだ。
これが、現代社会の抱える病なのである。

人間が病んでしまうのは、結局のところ、孤独という「関係性の病」に冒されているからに他ならない。
私たちの人格は、他者との関係を通して築かれる。
関係性が適切でなければ、人は病み、社会も病んでしまうのだ。
現代社会の病は、それゆえ「症状」にすぎない。
真の病因は、私とあなたの間が、〈我―それ〉の関係性、すなわち孤独に病んでいることなのである。

しかも、この病巣は増殖する。
モノ扱いされた人は、他の人もモノ扱いする。
その連鎖は次々に拡大し、愛を持ち得ない孤独な人間が次々と世の中に生み出されていく。
世界はますます殺伐となり、人が死んでも「モノが壊れた」くらいの感覚しかなくなり、暴力と戦争が際限なく繰り返され、ついには個人も国家も、次のように叫ぶのだ。

「自分の得にならない者、自分と意見を同じくしない者、自分より劣った者なんか、滅ぼしてしまえばいい!」


どうすれば孤独から5解放されるのか?

こうした悲劇の連鎖に、終止符を打つ道はあるのだろうか?
あるとすれば、〈我―それ〉に対する解毒剤を、家庭はもちろんのこと、あらゆる人間関係の中に注ぎ込むしかない。
すなわち、〈我―汝〉の関係を取り戻すことである。

換言すれば、孤独の中に愛を復活させることである。
モノになりきったら、孤独さえも感じなくなる。
モノは病むことさえなく、〈我―それ〉の社会でそつなく生きていく。
真の触れ合いがもたらす喜びも知らず、ただ機械のように。

孤独を感じるのは、たとえいかに病んでいようと(病んでいるからこそ)、まだ人間であることの証ともいえる。
かすかでも、まだ愛の見える眼が、孤独をも見てしまうのだ。

けれども、闇を見るためにではなく、光を見るためにこそ眼は備わっている。
眼をもっ私たちは、光の中で生きるように創られた、ということなのだ。
それが人間の本来の姿なのである。
私たちは、〈我―汝〉の光の中で生きなければならない。
いったいどのよ、つにして?

ブーバーはいう。
私たち自身が光源となり、お互いを照らし合い、世界を照らすことによって・・・。


利害関係のない人や立場が下の人に対しても、誠実さを貫く本物の人格を磨くこと。
いくらごまかしても、虚実の人格はすぐに見抜かれ、幸せな出会いをもたらすことはない。

自分の利益を得るための道具として、相手を見てはならない。
ますは心を開き、相手の全存在をありのままに受け止められる大きな人間になること。


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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