この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。
バーソロミュー
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内なる気づきへ導く瞑想
質問:
瞑想をするときに起きる不思議な現象について話してくださいませんか。
そうした現象は多岐にわたり、内容も複雑なので、話すのにいくらかのためらいが感じられます。
というのは、ここで話すような反応が自分に起きていなかったら、求道者として自分は失格だ、と感じる人が出るだろうという不安があるからです。
まず断っておきたいのは、悟りや覚醒の兆候は、これから私が話すような現象として現れる必要はないということです。
また、肉体そのものが深い瞑想に反応しやすい人もいる、という事実を認める必要があります。
精神的に大きな悩みにぶつかり、一瞬一瞬、自己をつきつめる努力をしていくなかで、何らかの現象が起きるということもあります。
ですから、ここではこれらの現象をいかに自分に役立てるかという方向で話しましょう。
肉体は、入ってくるエネルギーに反応を示すことがよくあります。
自己の内なる真理を追究している人は、ほとんど感じられないほどですが、体が変化しはじめます。
深い瞑想を実践している人は、その副産物として、病気や体の不調が改善されていくのに気づきます。
たとえ言葉の上だけでも、人間は流れ動くエネルギーだということを認めると、波のようにうねるさまざまなエネルギーに、自分が囲まれていることを理解できるようになります。
ほとんどの場合、これを自分の目で見たり、耳で聞いたりすることはできませんが、たまに自分の体で感じることができます。
瞑想は多くの人にとって実に退屈なものですが、なぜする必要があるのでしょうか。
もし瞑想がとても退屈だと思うのでしたら、しなくてもかまいません。
ただし、それらのエネルギーが動きだすことができるような、ほかの方法を見つけてください。
これにはたくさんのやり方があります。
スピリチュアル・ダンスもそのひとつです。
体の動きや音の洪水のなかに自分をゆだねることにより、たとえ短い時間であっても、自分の古いものの見方を捨てる可能性が生まれるからです。
ほとんどの場合、人は自分の目ではなく、頭でものを見ています。
頭で見ることが問題なのは、いつも同じ概念を通してものを見、そこから抜けでられないからです。
自分を女として、母として、妻として、キャリアウーマンなどとして見るからです。
自分をそういうものだと思っています。
たとえば、子供に死なれるとか、夫や妻に去られるとかの人生の破局に直面すると、人は不安におそわれます。
怖れがやってくるのは、自分の定義のひとつがなくなったからです。
もう妻ではないわけです。
妻でないとしたら、あなたは誰なのでしょうか。
頭とエゴはそのすき間をできるだけ早く埋めようとします。
自分が誰か、自分でわからないと思わずにすむように、別の定義を与えてくれます。
人生に問題が起きるたびに、人は自分に対する古い見方を捨てるチャンスを与えられます。
けれども、あなたのエネルギーは、自分とは誰なのかという見方を変えようとしません。
人は自分のことを、「過去から連続した変わらぬ」人間だと思っています。
しかし、それはちがいます。
注意深く見てみると、そのことが見えてきます。
あなたは、さまざまな役割をのりでつなぎあわせた総合体のようなものではないのです。
でも、他人に、特に自分が気にかけている人に、自分をよく見せようと思って、自分をのりでつなぎ合わせようとします。
自分の一部が破壊されたとき、たとえば、もう妻ではなくなったとき、あなたは何なのでしょうか。
空っぽの空間ができ、それを「私は捨てられた女だ」という定義で埋めます。
私が勧めるのは、自己像にそのような穴があいたとき、自分とは「誰」かという別の定義で埋めるのではなく、その部分をそのままの状態――私が「わからない」と呼んでいる状態のままにしておくことです。
あなたの一部は「自分が誰だかわからない」ということを認めるのです。
あなたがこういう瞬間を生みだせば出すほど、このわからないという状態が増えることになります。
このように外界に現れる現象を、観察することが大切です。
瞑想を始めると、自分のなかの異なる部分がひっきりなしに出たり、消えたりするのを見る機会を得ます。
ある瞬間には自分をある見方で、次の瞬間にはちがうように見るというぐあいです。
よく気をつけていると、何人もの人が見えてきますが、それは全部あなたです。
あなたは自分をいろいろな見方で見ています。
それらの自己像のすべては、自分が死ぬまで存在しつづけるのではなく、自分でそれを変えることができるのだ、ということに気づくようになります。
こういう観察の初期には、あなたは自分が気に入っている自己像を捨てようとはしないで、嫌いなものだけ捨てるでしょう。
ですから、今いるところから出発してください。
嫌いな自分のイメージがあれば、それをどうか変えるようにしてください。
自分で創りだした自己像ですから、自分で変えられます。
自分のなかに大勢の人間を抱えこんで、人生を生きていく必要はありません。
そういう自己像のどれひとりとして、本当のあなたではないのやですから。
瞑想をして肉体がしだいに静かになっていくにつれ自分のオーラのなかに、ちがうタイプのエネルギーが入ってくるようになります。
このようなほかのタイプのエネルギーがその人の肉体構造に作用しはじめた瞬間からさまざまな体験をするようになります。
瞑想体験のひとつはイメージを見ることです。
イメージには二種類あり、ひとつはその人を幸せな気分にするものでもうひとつはこわがらせるものです。
美しいイメージであれ悪魔のイメージであれ、あらゆるイメージの裏にはその人の注意を引こうとしている何かがあります。
たいていの場合、それはその人の自己像のひとつで、まず自分の意識にのぼらせて、それからそれを捨てられるようにしているのです。
たとえば、悪夢のようなこわいイメージや夢を見た場合、怖れの感情がおそいかかってきます。
これは無意識下の悪夢で表層意識にのぼらせる必要があるのです。
このような場合それがイメージであれ夢であれほとんどの人は逃げだします。
どうかそのイメージから逃げださないでください。
目覚めへの道の一歩は、このような怖れを意識にのぼらせることで、それをよく見つめれば見つめるほど、自分に役立つものとなります。
本質的に「邪悪な」イメージとか、夢とか悪夢とかはありません。
何回もこわい夢をくり返し見るようでしたら、その人の「大いなる自己」が未解決の行動パターンに、その人の注意を向けようとしているのです。
あなたはすでにいくつもの悪夢を体験しています。
悪夢を見ても、ちゃんとそこから抜けでてきています。
悪夢をいつまでも怖れて、そこから逃げだそうとする必要はありません。
瞑想を始めると、肉体が反応しはじめ、耳鳴りがしたり、体がびくっと動いたり、体中にエネルギーが入りすぎて、まるで感電したように感じたりするかもしれません。
身の危険を感じて、やめたほうがいいのではないかと思うかもしれませんが、ここでやめるのではなくエネルギーがやっとあなたの肉体と密接につながることができるようになった印だ、と受け取ってください。
なるがままにしてください。
耳鳴りがするからって、どうだというんですか。
あなた方の聴く現代音楽とそんなにちがいはしないでしょう?
物事がちがって見えたり、まわりが少しぼんやりしてきて、視界が前より広がったからといって、どうだというのでしょう。
ちょっとこれを試してみてください。
自分の近くにいる人の顔を見つめてください。
両目のあいだ、少し上の部分をぼんやり見つめるのです。
そうするとすべてが動きはじめます。
視界が変わり、相手の顔が変わりはじめます。
美しくなったり、醜くなったり、男になったり、女になったり、若くなったり、年寄りになったりします。
さま、ざまな顔が現れては消えます。
このような意識を誰かほかの人に固定させて見つめると、「第三の目(透視眼)」のエネルギーが発揮され、自分と相手のエネルギーを混ぜることになると言われており、それはたしかに事実です。
そして、今までとはちがった体験が生まれます。
相手と自分は過去世でどんな関係があったのだろうと考える代わりに、今世での関係のすばらしい面に今、ダイヤルをあわせているのだとわかります。
長いあいだ一緒にすごしてきた相手とは、それだけの年月を重ねているのですから、もっと固定したイメージを相手に抱いています。
それもこわすことができます。
このエネルギーを使いはじめると、相手の「ちがう面」が見えるようになります。
顔や体というものに対して、確固として抱いていたイメージの向こうに存在するものを感じはじめます。
広大無辺なものを感じはじめます。
「自分という存在は不可思議である。
他人という存在も不可思議である。
人間同士のあいだには、何か不可思議なものが始終作用している」
と言われる意味、がどういうことなのか、わかってきます。
真性の精神異常と、霊性の成長やエネルギーによってもたらされた気づきの状態とのちがいは何なのでしょうか。
ふつうでない精神状態を経験したあとで、それをふり返り、その体験のさなかにエネルギーが増し、精神が高揚し、もっと真理を追究したいという興味と意欲が出てきたと思うのなら、すべては正しい方向に向かっていると信じていいのです。
その反対に不安におしつぶされそうになったり、まったく頭が混乱してしまったり、もうもとに戻れないという感じがしたりするなら、たぶん深い瞑想をするのはやめるべきです。
しかし、おぼえておいてください。
真理への道をあゆむとき、いつかは常識を超えた体験をすることになるということを・・・。
それに、結局はそれが目的なのです。
そうでなかったら、なぜこんなことをわざわざやる必要があるのでしょうか。
自分の世界が常に同じ状態で、同じように見え、同じようなにおいがし、同じように感じることを望むのなら、いったいなぜこの世に生きているのですか。
あなたは途方もなくすばらしい何かを探していますが、実際にそれがやってくると、怖れも一緒にやってきます。
世の常識が、物事を一定の状態で経験しない人は、気が狂っていると教えるからです。
私は、むしろ物事を一定の状態で見るほうが、「狂っている」とあえて主張します。
本当に注意深く観察すると、人はある瞬間幸せで、次の瞬間は怒っていて、その次には罪悪感を感じ、その次の瞬間には官能的で、その次にはお腹がすき、次には眠くなるというふうだということがわかります。
それでも、あなたはいつも同じだというのですか。
幸せだったり、悲しかったり、気分がよかったり、沈んでいたり不安におびえたり、喜んだり・・・
このさま、ざまに変化する不可思議な自分の世界を見て、常に同じだとあなたは本気で主張するのですか。
ちょっと変わったことをお勧めします。
常識を無視して、自分はこのように変化するものでは全くないと信じるのです。
自分とは、限りなく変化に富む感覚や、想念や感情を観察するものだとみなすのです。
自分というもののスクリーンのうえに、これらのものすべてが現れては、消えるにまかせるのです。
怖れが存在すれば、怖れが存在するのであるし、喜びが存在すれば、喜びが存在する。
怒りがあれば、怒りがある。
こうした仕掛けのなかに取りこまれてしまうのをやめられれば、大きな自由が得られます。
これらの顔のどれもあなたではないのです。
あなたは、自分にとって一番大事なことは、自分自身をのりでピッタリ貼りつけて、バラバラにならないようにすることだと思っています。
自分のさまざまなイメージを組み合わせて、のりづけしているときに、そのうちのひとつが落ちこぼれたり、ひとつのイメージが自分を裏切ったりすると、どうなりますか。
自己の全体像が自分を攻撃する敵になってしまいます。
自分のイメージは自分で創り上げたのであって、それは自分で変えることができると気がついたなら、そのとき、あなたは自由への道をあゆみだします。
今晩家に帰ったら、自分で決めつけている自分のイメージを紙に書きならべてみてください。
自分とはどんな人間であると思うか、書きつけてください。
「自分」と呼ぶものは、多面的な存在であることがわかります。
そのリストをながめると、自分という人間の完全なイメージを維持するために、さまざまな顔を維持する必要を感じていることが理解できます。
離婚経験者を例にとりましょう。
その人の自己像は、自分は「失敗者」だというものです。
そして再婚した今、既婚者としての自分のイメージが、自分に敵対しつつあるのを発見します。
今度は、その人が仕事を持っていて、解雇されたとしましょう。
ますます失敗者だと感じます。
ここでその人を攻撃しているのは、生活費がないことに対する不安ではなく、自分をはつらつと生きている成功者だとみなせないことです。
自分がか弱く、傷つきやすい存在に思えます。
失業するという形で自分の一部を失ったとき、一番つらいのはお金のことではありません。
お金が減ってもやりくりできます。
必ずできます。
では、なぜそんなにみじめに感じるのでしょうか。
それは、成功した人間であるという自己像が、失敗者の自己像に取って代わられたからです。
たとえ、よいものであれ悪いものであれ、このような自己像は、自分の人生のなかをさまよう人形にすぎず、やりたいことをやって、おもしろがっているのだと理解できると、そのうちのひとつが変わっても、それほどみじめに感じなくなります。
おもしろいことに、人間は自分がやっていることの九十九パーセントが成功していても、一パーセントが失敗すると、自分自身のすべてが、ダメであるかのように自分を責めます。
そして、気分が沈み不幸せに感じ不安におびえるのです。
他人から見れば、その人の人生はそれほど悪く見えません。
他人には多くのすばらしいことも見えます。けれども、その人は、否定的な自己像をすべてもちだし、自分が何たる失敗者か、他人に見えるように並べ立てるのです。
自分が常に人生の完全なる成功者でなければならない、というふうに人生ゲームを設定していると、その人は失敗します。
完全なる成功者には誰もなれません。
勝ったり負けたりするのが、人生なのですから。
自分のあゆむ道の一歩一歩が純粋で、正しくすばらしい黄金の道でなければならないと信じていると、その人は失敗します。
失敗するのは外側の世界ではなく、内なる世界で失敗します。
人形にすぎない自己像のひとつが、ちょっとでもグラグラしはじめると、その人は不安におちいります。
そういうときの自分のパターンを観察してください。
失敗するにはまず、自分の人生のうまくいっている部分を、すべて無視しなければなりません。
自分のなかのうまくいっていない部分に、いつも注意を向けるというパターンにおちいったときに、そうです、その人は失敗するのです。
自分のなかの否定的な部分を長いあいだ見つめていると、やがて自分が探していた結果が現れます。
このパターンから抜けだすには、一歩後ろに下がって、自分の心が、さまざまに変化する自己像を、くり返し創り上げるのをながめることです。
そうすると、このゲームの裏にあるトリックが見えてきます。
あなたは自分の心を使って、人生を創造しています。
人生を創造しているのは自分だと気づくと、ふたつのことが起こります。
ひとつは、一定の自己像の絶対支配から自由になることです。
ふたつめは、自分には選択の可能性があることを理解することです。
多くの人は自分自身に課した圧政のもとで人生を送っています。
このような圧政のもとで生きるのは、人生における否定的な体験というのは、自分の人生に起こる無数の出来事のうちの、たったひとつにすぎないということを、理解しようとしないからです。
みずから選んで、人は否定的な出来事を何度も何度も反芻し、それをますます大きくしています。
ある出来事がその人の人生をどれほど支配するかは、その人がどれほどのエネルギーをそれに注ぎこむかによります。
たとえば、街角にふたりの人が立っていたら、バスが通りすぎて、泥をはねかけたとします。
ふたりとも同じ出来事を体験したのですから、同じ反応をすべきです。
同じ反応をすると本当に思いますか。
ひとりはすぐ忘れてしまいますが、もうひとりはその後何日も、泥をはねたバスの運転手のことや、それがいかに頭にきたかということを友人にしゃべりまくります。
同じ出来事で、ちがった反応をするのです。
自分の自己観にがんじがらめになっている人のほとんどは、この腹を立てている人と同じことをしています。
そういう人は、自分に対する否定的な見方を再確認するために、エンジンをふかしているようなものです。
その人はほんの一滴の毒から、水さしいっぱいの毒を創りだし、しかも、それを自分で飲んでいるのです。
「泥」がふりかかった瞬間、選択の可能性が生まれます。
自分のなかの否定的要素を捨てることもできるし、それを拡大することもできます。
瞑想を通して、私が言っていることは単なる言葉ではなく、真実であるとわかったなら、その人は自由への道を歩きはじめたのです。
自分には選択の可能性がある、ということを理解するまで決して自由になれません。
深い瞑想に入ると、物事はやってきたり、去っていったりするものだということが、はっきりと理解できます。
しがみつくこともできれば、こだわらないこともできます。
毎瞬、毎瞬、自分の心のなかの反応を通して、あなたは自分を創造しています。
あなたは自分自身の世界、自分の現実を創造している、と言われています。
これはどういう意味でしょうか。
その意味は、あなたの心のなかをゆきすぎる何百万という想念のなかから、あなたは自分がしがみつく想念を選ぶ、ということです。
あなたが道を歩いていたとします。
三人の人があなたにほほえみかけ、二人がしかめっ面をします。
あなたはどちらに関心をはらいますか。
あなたがとても変わった服装をしているとします。
あなたの服をすばらしいと思う人もいれば、きちがいじみていると思う人もいます。
あなたはどちらに注意をはらいますか。
人は選択し、自分のイメージを築き、自分の世界を日々、想念ごとに、選択ごとに、創造しています。
自分の世界をどう見るかは、自分で選んでいるわけで、それはあなた方もわかっていることです。
仕事を首になっても、たいして気にしない人もいれば、ピストルをもちだして自殺する人もいます。
自分を解放するために最も大切なこの方法について、真剣に考えてほしいと思います。
自分のイメージを日々選択し、解釈し、創造しているのは、ほかならね自分であることを理解するだけで、自分をがんじがらめにしているものから、簡単に自由になることができます。
自分のイメージが気に入らなければ、変えたらいいのです。
人は自分のイメージをたえず変えています。
問題は、それを無意識にやっていることです。
ある意味で、覚醒とは、自己像および自分の人生の出来事を創造しているのは自分である、ということに気づくことです。
いったんそれがわかると、パワフルになります。
人を恨みたくなかったら、別の感情を選ぶことです。
恨みたかったら、そう選択すればいいでしょう。
何を選ぶかは問題ではありません。
大切なのは自分で選ぶことです。
これは精神世界の邪道かもしれませんが、ときには怒ることも愉快なことです。
怒りを「選択」すれば、楽しいし、必ずしも破壊的ではありません。
けれども、無意識に怒りのほうへ動いていき、やがて爆発すると、あとで罪悪感や後悔や恨みの感情におそわれます。
なぜなら、自分の半分は怒りたがっているのですが、あとの半分はそれを認めたがらないからです。
ですから、自分の怒りをおさえ、代わりにほほえむことが上手な人は、自分は「優しい人だ」という自己観を変えなくてすみます。
そうできると、いろんな面で得をします。
こういうことは、あなたが毎日やっていることだということを理解してください。
「きれいな」怒りと、「汚い」怒りとのあいだにはちがいがあります。
きれいな怒りとはきちんと言いたいことを言ってそれに全責任を負うことです。
汚い怒りとは、相手のせいにして相手の「欠点」を相手に投げつけることです。
あなたはいつも自分で操縦管を握っているのにそれを意識していません。
「気づき」とはすべての可能な想念に気づいており自分が選択肢を持っていることを知っていることです。
ですから自分をみじめにするものを選ぶ代わりにほかのものを選んだらどうでしょう。
人は毎日同じものを食べたりしません。
気に入らなかったら、人はもっと好きなもののほうへ移っていきます。
ところが、自分の気に入らない感情の問題となると、人は同じことをしません。
自分のガールフレンドがほかの男の子と話しているのを見ると、いやな気分になります。
けれども、ほかの反応のしかたがあり、ほかの選択があるのです。
どこかに偉大な神様がいて、そんなとき、人は怒ったり、嫉妬したり、自分をかわいそうに思ったりすべきだと言っているわけではありません。
その人は、自分自身を支配するパワーを放棄してしまっています。
自分自身の選択の中心に自分をしっかりと立て直してください。
そのために最も簡単で、最も早く、最もおもしろい方法は、自分が考えていることに注意を向けることです。
自分の心に浮かぶ顔、消えていく顔を観察してください。
あなたの選択のなかには、何年も前に自分が小さな子供だった頃になされたものもあります。
小さな子供にとって世の中はこわいところでした。
今もあなたは、そういう怖れに反応しつづけています。
今では身長百八十センチの大男で、大会社の社長であり、大きな力を持っていても、誰かがやってきて何かひどいことを言うと、怖れおののく小さな子供になってしまいます。
その必要はないのです。
過去に選んだことを、今も選ばなくていいのです。
文字通り自分で自分の世界を創造しているのだと理解できたら、自分の可能性にワクワクすることでしょう。
けれども、すすんでそのような可能性を見ようとしない限り、可能性は決して現実とはなりません。
ほかのことを選択するのは非常にむずかしい、とあなたは思っているでしょう。
でも、それは可能なのです。
ボーイフレンドが、自分よりもっと魅力的な女の子と話しているのを見たとします。
この場合の否定的な選択肢はすべてわかっているので、肯定的な選択肢について考えてみてください。
たしかにあります。
無限に広がる可能性のなかから、さらに別の選択をすることもできます。
あなたは、まだ相手を変えることができると信じているので、ほかの選択をしようとしないのです。
ボーイフレンドのところにいって、その魅力的な女の子と彼が話すと、自分はすごくいやな気分になるので、話さないでくれと言ったら、彼はあなたの言う通りにしてくれるだろうとまだ信じています。
彼はそうするかもしれません。
そうしたら、あなたは自分が勝ったと思うでしょう。
けれども、自分の責任を放棄することによって、あなたは自分のパワーを捨てたのです。
彼に変わることを求めたほかには、あなたは何もしなくてすみました。
自分の世界を外側から操作することで、自分を幸せにできるという考えにとらわれている限り、あなたは変わりません。
このように他人を自分の思い通りに動かそうとすることが、究極的にはふたりともを牢に閉じこめてしまいます。
今度は彼が、気に入らないことをあなたにやめるように言う権利を得ました。
借りがあるので、あなたは、その要求を受け入れざるをえません。
このように、人間関係であなたは常に取り引きをしています。
最終的には、こうやって毎日お互いに限界を設けあい、お互いを平等に閉じこめあっていることがわかります。
現世でたったひとつだけ学ぶとしたら、次のことを学んでください。
自分の幸せは自分の責任です。
自分の人生で起こる出来事に対する自分の反応を変えることで、これを達成できます。
瞑想をすればするほど、気づきが深まり、瞬間から瞬間に生きるという経験をするようになります。
自分を肉体的にも、精神的にも、心眼的にも変容させるパワーがやってくるようになります。
そのようなパワーを持つことで、自分で自分を変える能力にもっと自信が出てきます。
だから、私はあなた方に何度も何度も言うのです。
自分を愛しているのなら、とぎすました意識のなかにいる方法を何か見つけてください。
そのような意識の中心に自分をすえることで、人生の困難に出合ったときに頼りとなる力の基盤を育てることができるからです。
何もかもがうまくいかなくなり、ほかのことをやりたいと思ったときに、引きだせる貯金のようなものです。
弱い人間というのは、自分自身の人生をコントロールすることができない人です。
ですから、自分のパワーを築いてください。
外界に左右されない自己を築いてください。
内なる「自己」との調和を育ててください。
自分のなかにパワーを感じるようになると、自分の人生を変えることができるし、選択をすることができ、今までとはちがうことを選ぶことができます。
あなたの体と心が変化しはじめるにつれて、いろいろなことが起こります。
あなたはコンクリートのかたまりではありません。
常に動いているエネルギー域のすばらしい集合体があなたです。
これらが動き、変化するにつれ、あなたの世界観全体が変化し、人生の謎がだんだん解けてきます。
すべては黙ってすわることからはじまるのです!
そして、聴き、感じ、あるがままにし、経験すること――それだけです。
幸せへの最大の障害のひとつは、まわりが自分をみじめにするという思いこみです。
あなたをみじめにするのは、まわりの世界に対するあなたの反応です。
このことを理解してください。
自分で操縦席にすわってください。
人々があなたを惑わせるのは、あなたに罪悪感を感じさせたいからです。
あなたが大きな罪悪感を感じていると、彼らの望むことをするからです。
しかし、残念なことに、他人の行動を変えることでは、決して満足が得られません。
自分の幸せを生みだすのは、他人ではないのです。
質問:
悟りを開いだ人は意識的な選択をおこなっていますか。
完全に悟りを開いた人は、どんな選択もおこなってません。
どの道を選ぼうとも、何のちがいもないと知っているし、どれが好きかということも全くないからです。
悟りを開いた人は、自分と選択肢とすべての出来事はひとつであることを知っており、自分がどちらの側にいようが、どんな立場にいようが全く関心がありません。
そのレベルまで来ると、選択のない人生と言えます。
そこに行く前にもうひとつのレベルがあります。
地球界で完全なる悟りを開くことは必要ではありません。
多くの人が到達できるもうひとつのレベルがあり、それについてお話したいと思います。
自分は選択することができるのだということを学んだあと、人がまず最初にすることは、自分の人生やものの見方やまわりの世界との、内なる関係を改善に導く選択をおこなうことです。
それは内なるパワーを築くことですから、すばらしいことです。
その次の段階では、他人の利益になることを優先します。
この段階は、精神世界の真に「偉大なる師」が達している領域で、弟子の「カルマ」や「病気」を自分で引き受けます。
自分が苦しむことになるかもしれないことを知りつつ、他人のためにみずからすすんで選択をおこなうときに達する奉仕の領域です。
エゴの視点から他人に得な選択をすることは、多くの人にとって奴隷的隷属を意味します。
しかし、結果を十分意識しつつ「大いなる自己」の視点から選択する場合、その選択は、神にすべてをゆだねることを意味します。
こうした意識レベルならば、多くの人が達成できます。
あなたが、神の権化であるアバターのレベルまで到達できるとは言いません。
けれども、自分で選択ができるのだと理解すれば、自分のための選択を始めることができます。
やがて、ついにはあなたは、他人のためになるような選択をおこなうようになります。
あなた自身についてはどうなのでしょうか。
自分をすべてゆだねてしまう意識の領域では、言葉では言いつくせない真の心の平安がおとずれます。
それは、あなたが「神々しい」からではなく、次の瞬間には自分のための選択をしてもよいことを知っているからです。
でも、あなたにとっては、そんなことはもうどちらでもいいのです。
あなた方の多くはこのレベルに達することができます。
このレベルの話をしたのはあなた方を励ますためです。
このようにして、真の奉仕者が生まれます。
奉仕をすると気分がいいからするのではありません。
奉仕者としての選択肢があることを知り、自分の内側からそれに対する反応が自然に生まれ、それを選択し、そして、それが実行されたという、それだけの話です。
くり返しますが、あなた方の多くはそうした反応をすることができるのです。
その方向にすすめるように、このことをよく考えてください。
その努力は必ず報われます。
『バーソロミュー
―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
(バーソロミュー 著)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体