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人生の意味や価値はカラダでこそ感じ取るもの

――人生の意味や価値というものはアタマで考えるものではなく、カラダで感じるものである。
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではない。―

老師いわく
「『人間は何のために生まれてきたのか?
でそれは結局、アタマではわからない。
それなのに、アタマで理解しようとすることが間違いなんだよ。

たとえば『人間は何のために子育てするのか?』を考えてみるといい。
自分の子孫を残すため、老後の世話をしてもらうため、なんて身勝手な理由も思いつくかもしれないが、そんなことは、ほとんどの親にとって、どうだっていいことだ。

ただただ『幸せになってほしい』『かわいい』と思うのが親心だろう。

つまり、子育てにはアタマで理解できるような意味や価値がないのだよ。
だからこそ『幸せになってほしい』『かわいい』という親の思いは本物なんだ。

それでは、そもそも子育てには意味や価値なんて存在しないのか?
いや、そうではなく、それをアタマで理解しようとするから見失ってしまう。

遠くから母親を見つけた子どもが、顔いっぱいに笑顔を浮かべながら
『ママー!』と母親の胸に飛びこんでくるその瞬間、母親がカラダ全体で感じているものがある。
全身にこみあげてくる何かがある。
その何かこそ、子育ての意味や価値ではないだろうか。
すでに子育ての意味や価値をカラダは知っているのだよ。

それと同じように、人生の意味や価値というものもアタマで考えるものではなく、カラダで感じるものなんだよ。
アタマで考えられるほど、ちっちゃなものではないんだ。
カラダで感じることしかできないものなのだよ。

しかし、不安や心配で緊張したカラダ、境界線上での戦いに疲れ果てたカラダでは、不感症になって、しっかり感じることができなくなるんだ。
だから何よりもまず、今までカラダにためこんできた緊張を解放し、イマ、ココにどっしりと落ち着けるカラダになることが大切なんだよ」

人生の意味や価値とは、アタマで理解するものなんかではなく、カラダで感じることしかできないものだという老師の言葉に、僕は本当に驚かされました。

これまで、死にたくなるほど悩み考えても、その答えが得られなかったのは、知識や経験が足りないからではなく、とらえ方がまったく違っていたことに気づかされたのです。


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

個性という枠におさまるほど人間は小さくない

――自分らしさという枠があるために、ひとつのお面しかつけることができない。
これでは生きづらくでしょうがない。――

あるとき老師が、中国の古典『荘子』の中におもしろい物語があると言われ、「コントンさん」の話を始めました。
「南の海にオッチョコチョイさん、北の海にハヤガテンさん、中央の海にコントンさんが住んでいた。
あるとき、オッチョコチョイさんとハヤガテンさんは、コントンさんに手厚いもてなしを受けた。

二人は、コントンさんに恩返しをするために、何がいいか相談した。
人間には目、鼻、口、耳の七つの穴があるけど、コントンさんはのっペらぼう。
それでは困るだろうからと、七つの穴を開けてあげることにしたんだよ。

そして、毎日ひとつずつ穴を開けていくと、とうとう七日目にコントンさんは死んでしまった・・・。
じつは、コントンさんは境界線のない自分のことなんだよ。

でも、のっペらぼうってナゾだらけだろう。
いったいどこで見たり、聞いたり、味わったりするのか、まったく理解できないからね。
その分、未知の可能性がいっぱいの自分のことなんだ。

ところが
『グズグズしないでさっさと決めなさい』
『いつまでもメソメソしないでさっさと気持ちを入れ替えなさい』
『モジモジしないで言いたいことがあるならさっさと言いなさい』
なんて怒られながら成長していくうちに、決断力のある自分は善くて、グズグズする自分は悪いという境界線を作ってしまう。
そして、グズグズする自分を捨ててしまっんだ。

本当はグズグズする自分こそ、想像力豊かな自分なのに。
ただ、いっぱいイメージが浮かんでグズグズしてるように見えるだけなのに。
そのグズグズする自分を捨ててしまったら、想像力豊かな自分も失ってしまうんだよ。

その結果、自分をどんどん小さくしてしまい、身動きとれなくなってしまう。
まさに、コントンさんに穴をあけ、死なせてしまうようなことをしているんだ。

ということは、神さまに文句を言ったヨブも、清く正しい自分は善くて、そうじゃない自分は悪いという境界線を作っていたのではないだろうか。
ヨブの文句に逆ギレして、ワガママな子供のようなことを言った神さまとは、じつはヨブに捨てられたヨブ自身かもしれないね。

ところで、『論語』に『君子は器ならず』という言葉があるのを知っているかい?
器というのは枠があるだろう。
だから役割も限られてくるんだ。
つまり、自分らしさという枠があるために、ひとつのお面しかつけることができないのだよ。
これでは生きづらくでしょうがない。

しかし、その枠がなくなれば何にでもなれる。
コントンさんのようにのっペらぼうなら、どんなお面でも自由自在につけることができるんだ。
のっペらぼうというのは個性がないということではなく、個性という枠におさまるほど自分は小さくないということだからね。

観音さまも器ではないから何にでも変身できるんだよ。
観音さまはその場、その場に合わせて、あるときは母親、あるときは妻、上司、部下、同僚、先生、生徒・・・と次々にふさわしい役割になりきって、見事な演技をこなしていく。

その変わりっぷりや演技が、まるでたくさんのお面を次々とつけかえているかのよう、だから、十一面観音という観音さまもいらっしゃるのだよ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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泣き尽くしたとき本当の明るさ、勇気が出てくる

――とにかく、どんどん泣いて、どんどん笑うことだ。
泣けば不安や恐れも癒されるし、笑えば元気も出てくる。――

「とにかく、どんどん泣いて、どんどん笑うことだ。
泣けば不安や恐れも癒されるし、笑えば元気も出てくる」
という老師の言葉を聞いていると、思い切り泣く、思い切り笑うことから、ずいぶん遠ざかっていたような気がします。

僕は映画好きなので、まずは、思い切り泣ける映画、思い切り笑える映画をどんどん観ることからはじめてみよう、そうして、カラカラに干からびてしまった感性を、あの少年時代のようにみずみずしい感性に蘇らせたい。
そんなことを考えていると、
「良寛さんを知っているかな?」と老師が聞かれるので、
良寛さんが大好きな僕は、こんな話をしました。

あるとき、良寛さんは子どもたちとかくれんぼをしていたそうです。
そして、良寛さんが隠れる番になって、良寛さんは田んぼの中にうまく隠れることができた。
しかし、日が暮れて暗くなったため、子どもたちは良寛さんだけ見つけられないまま、家に帰ってしまいました。

翌朝、田んぼに来たお百姓さんは、良寛さんが居たので、びっくりして思わず大声で叫んでしまった。
それを聞いた良寛さんの言葉が笑えます。
「静かに!
そんなに大きな声を出したら、子どもたちに見つかってしまうよ」
なのですから。

そのあと老師は良寛さんについて、こんなエピソードがあると話してくれました。
涙がいかに人の心に癒しや元気を与える力をもっているか、話を聞いているだけで涙が流れそうでした。

「ある寒い冬の日、雪の降る中をわざわざ弟の妻がたずねてきた。
良寛さんが訳を聞くと
『息子の馬之助は年ごろになっても遊びや酒に夢中で、まったく仕事をしようとしません。
親の言うことも聞かないし、このままでは将来が心配で心配で。
何とか馬之助に言い聞かせていただけないでしょうか』
と言う。

良寛さんはその頼みを聞き入れ、あくる日、さっそく弟の家をたずねた。
ところが、久しぶりに馬之助と会った良寛さんはうれしくでしょうがない。
少しも説教をはじめる様子はなく、時のたつのも忘れて二人で楽しそうに話しこんでいる。
とうとう二晩も泊まってしまった良寛さんは、結局、説教らしいことはひと言も言わないまま、別れのあいさつをし、ワラジを履きはじめた。

そのとき良寛さんは
『馬之助、すまんがワラジのひもを結んでくれないか』
と頼んだんだ。
馬之助は良寛さんの足元にしゃがんで、ワラジのひもを結びはじめた。
すると、馬之助の首すじに何やらポタリと冷たいものが落ちた。
『何だろう?』と思って顔を見上げると、馬之助を見つめる良寛さんの目には、涙がいっぱいあふれていたのだよ。

そのまま良寛さんは何も言わずに帰っていった。
このことがあってから、馬之助は生まれ変わったように仕事に精を出すようになったということだ。

良寛さんには、馬之助の気持ちが自分のことのようにわかっていたから、何も言えなかったんだ。
すると涙がポタポタ落ちてきた。
それは、いのちからあふれ出てきた清めの涙だった。
その涙に馬之助の不安や悩みの雲も払われたんだよ。

『涙』は『水』と『戻』が組み合わさった漢字だが、ココロに潤いを与え、いのちの世界へとワシらをふたたび戻してくれるものなんだ」

ここまで話してから、老師は、じつは、あの秀吉にだって涙が枯れるまで泣き尽くした少年時代があったはずだとおっしゃいました。
「秀吉ほど陽気で話好きな男、若いころの自慢話、苦労話なら誇らしげにペラペラしゃべる男が、少年時代の話だけは
『尾張の名も無き百姓の子に生まれ、寺に入れられたが、途中で飛び出して、その後は各地を放浪した』と語るのみだ。
具体的なことは、一切、自分で語らなかったのだよ。

きっと、語るにはあまりにつらく、悲しいことが多すぎたんだろうね。
だから、きっと、泣いて、泣いて、泣き尽したんだ。
そして、あきらめたのだよ。

秀吉のお日さまのような明るさや勇気、行動力、ユーモア、慈しみとは、そこから全部、出てきたものなんだ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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受身の人生+あきらめ=主体的な人生

――イヤイヤならば受身の人生だろうが、そのイマに思い切って飛び込めば、受身の人生は主体的な人生へと逆転する。――

あるとき老師は、
「ワシらの面前で、次から次へと展開していくイマ、それはまさに、すでに放たれてしまった矢のようなものではないだろうか。
その矢に、不平、不満を言ってもしかたがない。
どうすることもできないんだ。

そうではなく、そのイマの真っ只中に身を入れる、飛び込むんだ。
どんなに受け入れがたいイマであっても、悲しくて虚しくなるようなイマであっても、そこに飛び込むんだ。
そうすれば、カラダの中心から、どんなイマ、ココであっても乗り越えさせる、摩訶不思議な働きが出てくるのだよ。

イヤイヤならば受身の人生だろうが、そのイマに思い切って飛び込めば、受身の人生は主体的な人生へと逆転するんだ。
そのときの気持ちは、何だかニヤニヤしてしまうような心地よいものだ。

お茶の掛け軸によく使われる言葉で「随所作主」(ずいしょさしゅ)という言葉があるが、それも、このことを言っているんだ。
どんなイマ、ココであっても、ブツブツ屁理屈言わず、その中に飛び込めば、自分が主人公となって楽しむことができる、という意味だよ」
と言われました。

それを聞いて僕が
「それには、何よりあきらめる勇気が大切なんですね。
それでも僕は、なかなかあきらめきれない、溺れるものはワラをもつかむタイプなんです。
そんな僕に本当にあきらめる勇気があるのかどうか・・・」
と言ったとき、老師はわずかに間を置いてから、こんなふうに話されたのです。

「あきらめてワラを手放せば、自然とカラダは浮くのだよ。
助かろう、助かろうとするから、ありのままの事実も見えなくなる。
これでは絶体絶命の大ピンチを切り抜けるアイデアも出るわけがない。
そもそも絶体絶命の大ピンチとは、自分ではどうすることもできないから絶体絶命の大ピンチなんだ。

おまけに、その自分は、つねに生きていくことの不安をもち、その不安から逃げるために作りだしてきた境界線で、がんじがらめとなっている。
それほど頼りにならない自分はないし、そんな自分が生きる人生は受け身の人生だよ。
でも、積極的にあきらめることができれば、そこから主体的な人生に変わるんだよ」


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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いのちには勝ち負けを超えるパワーがある

――つねに強い者が勝ち、弱い者が負ける世界にいるかぎり、決して不安から逃れることはできない。
強さ、弱さを超えた世界には恐れも心配もない。――

あるとき、老師は、剣の達人、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と、その禅の師匠、沢庵禅師が虎に対峠したときの話をされました。

「こんな話がある。
3代将軍、徳川家光の時代に、日本に初めて虎が来たんだ。
家光は家来200人を引き連れて虎を見物した。
その場所が現在の虎ノ門だよ。

虎を見ているうちに、家光には、この凶暴な虎と剣の達人である柳生宗矩を対決させたらどうなるか、という興味がわいてきた。
そして、宗矩は虎のオリの中に入ることになったんだ。

ところが、虎のオリの中に入った宗矩は怯える様子もなく、逆にギョロリと虎をにらみつけた。
すると、虎はおびえてしまい、宗矩に近づくこともできなかったんだよ。

これには、家光をはじめ一同全員、感嘆の声をあげた。

ところが『宗矩は、まだまだじゃ』と言う老人が現われた。
その人は宗矩の禅の師匠である沢庵禅師だった。
この人がトコトコ、虎のオリの中に入って行ったと思ったら、なんと凶暴な虎は猫のようにおとなしくなり、沢庵禅師になついてしまった!

その光景を見た宗矩は、深く悟るところがあったそうだ」

なぜ、虎は沢庵禅師になついてしまったのでしょうか。
そして、宗矩はいったい何を悟ったのでしょうか。

そこのところを老師にたずねると
「宗矩は1+1=2の世界に、沢庵禅師は1+1=1の世界にいたんだ。

虎を震え上がらせるばかりの闘気をもつ宗矩も、もし自分よりも強い闘気をもつ者と出会ったならば、自分のほうが震え上がってしまい、勝つことはできないだろう。
それは、つねに強い者が勝ち、弱い者が負ける世界なんだ。

その世界にいるかぎり、決して不安から逃れることはできない。
いつ、自分より強い者が現われるともかぎらないからね。
しかし、沢庵禅師のいる1+1=1の世界は、強さ、弱さを超えた世界なのだよ」
と言います。

強さ、弱さを超えた世界といわれても、ちょっと想像がつきませんが、老師が僕に
「たとえば、愛しい恋人との甘い会話を楽しんでいるとき、君のココロは自分から飛び出して、彼女とひとつになっているのではないかな?」
と聞かれるので

「はい。
きっと身も心もフニャフニャに、とろかされていることでしょう」
と、ちょっと照れながら答えました。

老師も笑みを浮かべて
「それこそ、まさに大恋愛の真っ最中ってところだ」
とおっしゃりながら、さらに

「そのとき、君は1+1=1の世界に飛び込んでいるのだよ。
自他に分かれる前の世界、あらゆるものを育む、いのちの世界に飛び込んでいるんだ。

植芝盛平は『合気とは愛気だ』とおっしゃっていたと思うが、それはまさに、自他が融合する世界、
1+1=1の世界、いのちの世界のことを語っているのだよ。

太極拳の世界もいっしょなんだ。
太極拳の太極とは、陰陽と分かれ、1+1=2となる前の世界、1+1=1の世界のことだからね。

相手とひとつになる。
相手に飛び込んでいくんだ。
もし、相手に不信感があったり恐れや心配があったりすれば、自分の殻から飛び出ることはできない。
恋人を愛するような気持ちで相手と接するんだよ」
と、1+1=1の世界について話を続けられます。

しかし、僕のような人間にとっては、それはとてつもなく困難なことです。
武道とは生きるか死ぬかの戦い、まさに食うか食われるかの戦いです。
その状況で、恋人を愛するような気持ちになるというのは、想像することすらむずかしい気がします。

それでも老師は、
「しかし、沢庵禅師は恋人を愛するような気持ちで、虎と接することができたんだ。
すると、虎も気持ちよくなって、沢庵禅師とイチャつくなんて摩詞不思議な事態も発生したわけだ」
と笑っておられます。

それにもかかわらず、虎が立ち向かってきたなら、どうなりますかとたずねると、
「そのとき、沢庵禅師は、いのちの世界とひとつなんだ。
それに立ち向かう虎は、虎自身を生かし続けるいのちに刃向かうことになる。
自分で自分を傷つけることになるのだよ」
と。

そういえば、馬庭念流(まにわねんりゅう)という剣術の流派があって、演武会では15メートル先から放たれて飛んできた矢を、剣で打ち払う術を見せるそうです。
老師の話を聞いていて、その極意を家元が語った本のなかに、こんな言葉があるのを思い出しました。
「相手の矢が弓を離れて飛び出すときに、矢先から目を離さず、その矢の中心に身を入れていく。
絶対に逃げてはならない。
すると即座に、剣で矢を払う動きが正確に身体の中心から出てくる」

そのことを老師に話すと、
「何とも味わい深い言葉じゃないか。
その家元には、いのちに対する絶対なる信頼があるんだね」
とおっしゃいます。


『願わなければ叶う5つの真実』(有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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あきらめることが逃げないこと

――自分から積極的にあきらめることは、真っ正面から不安に立ち向かうことなのだ。
もっとも勇気のいることなのだ。――

かんじんなことは何もわからないまま生きていく不安を抱え、そこから逃げるために境界線を作りだしてがんじがらめになっているのが僕らだとしたら、そんなにっちもさっちもいかない状況で、何か打つ手はあるのでしょうか?
僕らにできることは、もう何も残されてない気がしてきます、と言いますと

「いや、ひとつだけある。
それは、あきらめることだ。
自分から積極的にあきらめるということだ」
と老師は言われます。
そして、こんなやり取りが続きました。

「でも、あきらめるなんて弱い奴のすることじゃないんですか?
それこそ、まさに生きていくことの不安から逃げることなんじゃないですか?」

「いや違う!
あきらめることは逃げないことなのだ。
真正面から不安に立ち向かうことなのだ。
本当のあきらめは、もっとも勇気のいることなのだ。
君が言っているような無気力なあきらめではない。
この悲しくて虚しくなるような現実をしっかり受け入れて、それでもなお積極的に生きていこうという、気合の入ったあきらめだ。
いわば究極の開き直りだ」

「無気力なあきらめと積極的なあきらめ、その違いは何となくわかるのですが・・・。
それでは、なぜ、人は無気力なあきらめなんかをもってしまうのでしょうか?」

「それは、まだ本当にあきらめていないからだよ。
もし、夢や目標をもって生きている人間が、それらを打ち砕かれてしまったらどうなるだろうか?」

「僕のように、目の前が真っ暗になって『もう生きていてもしょうがない』って気分になってしまうでしょうね」

「そのとき、夢や目標は無気力なあきらめに変わってしまうのだよ。
それこそ、あきらめてない証拠なんだ。
自分の人生に意味があるのかわからない、自分が生まれてきた価値があるのかわからない・・・そんな不安から逃げるために、夢や目標を作りだしてまで生きていたいんだ。
それが、人間の生存本能を弱く、歪んだものに変えてしまうものだよ」

「だから、夢や目標が打ち砕かれただけで、すぐペチャンコになってしまうんですね」

そして最後に、老師はこうおっしゃいました。
「あきらめることとあきらめないこと、どちらが本当に勇気のいることだろうか?
夢や目標という価値を生きがいにして生きることは、そんなに尊いことなのだろうか?」

価値があるからするのではなく、価値があるかどうかわからない、たとえ、まったくのムダであってもしてしまう、そんなところにこそ本当の価値が出てくるのではないだろうか?

感謝に価値があるからするのではなく、価値があってもなくても、そんなことおかまいなく自然と出てくる思いや言葉が本物の感謝なのではないだろうか。

愛に価値があるなんていうから、奪ったり奪われたりということが起こる。
それでは、まるで愛が商品のようなものとなってしまう。

君の好きなミスチルの歌のように、気がつけばそこにあるようなものこそ、本物の愛といえるのではないだろうか?

遊びや趣味にワシらが真剣になれるのも、それ自体には目的がないからだ。
行為そのものを楽しんでいるだけなんだ。
そこでは目的と行為(手段)はひとつになっているんだよ。
だからイマ、ココを離れることもない。
夢中で遊ぶ子どもたちが、食べることも寝ることも忘れて遊ぶほどのバイタリティーにあふれでいるのもそのためだ。

こう考えると、ワシらが何もわからないまま生きているのは、じつは、不安に思うようなことではなく、本当は素晴らしいことではないかな。

もし人生に決められた価値や目的のようなものがあれば、ワシらはただのロボットになってしまう。
何もわからないからこそ本当の価値が出てくるのだし、自分らしい人生を生きることができるんだ」


『願わなければ叶う5つの真実』  (有野真麻(ありのまあさ) 著)
   ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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「ゾルバのシエスタ」で驚いた

ちょっと驚いたことなので、載せます。

以前にアップした記事――「ゾルバのシエスタ(再び)」をプリントして、友人に渡したところ・・・

その友人は、こう言ったのです。
「メキシコの漁師もイイけど、
アメリカ人の生き方かな~~」

私は我が耳を疑いました。

世間一般の方の意識はそうなんでしょうか???

↓↓以下、「ゾルバのシエスタ(再び)」(一部を改編)です。↓↓


メキシコ湾を望む小さな田舎町、海岸に小さなボートが停泊している。

人の良さそうなメキシコ人の漁師が、楽しそうに小さな網に魚をとっている。
男は、年のころなら30代の半ば、働き盛りに見える。

採れた魚はなんとも生きがいい。

それを見ていたアメリカ人の旅行者が声を掛ける。
「美味しそうな魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの?」

漁師は手を止め、海岸の砂場に腰を下ろして答える。
「なぁに、ほんのちょっとの時間だよ」

旅行者
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れただろうに。おしいなあ。」

「いや、これでいいんだよ。自分と自分の家族が食べるにはこれで十分さ」

「それじゃあ、あまった時間はいったい何をしているの?」
アメリカ人旅行者が尋ねると、漁師は答える。

「日が高くなるまでゆっくり寝て、それからわずかの時間だけ漁に出るんだ。
食べる分だけ獲ったら、すぐに漁は止めるよ。
戻ってきたら子どもたちと遊んで、女房とシエスタ(昼寝・午睡)して・・・

夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって、
ダンスもするよ。
たまにはエッチもね。
もちろん女房とだよ。

これが楽しみなんだ! エヘ、エヘ、エヘ。
あぁ、これでもう一日は終わりだね。」

すると旅行者は急にまじめな顔になり、漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBA経営管理学修士を取得した人間として、きみに素晴らしいアドバイスを贈ろう。

いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。
家族で食べる量はできるだけ少なくして、遊びも睡眠も我慢する。
たくさん獲るんだ!もっと、もっと、たくさんだ!
そして魚は売るんだ!

お金が貯まったら大きな漁船を買う。
そいつで根こそぎ魚を獲るんだ!
漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けでまた漁船を2隻、3隻と増やしていくんだよ。
やがて大漁船団ができるまで頑張るんだ。
いいかい、家族で食べる量はできるだけ少なくするんだよ。
遊びも睡眠も我慢する。  我慢するんだ。
そこで仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。

その頃、きみはメキシコ湾のこのチンケな村を出てメキシコシティに引っ越し・・・
そして遂にロス、ニューヨークへと進出していくんだよ。

そうさ、きみはマンハッタンの摩天楼のオフィスビルから多国籍大企業の指揮をとるんだ。」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどのくらい時間がかかるのかね?」

「おそらく25年でそこまでいくね。
それまでは何事も辛抱だよ。」

「それからどうなるの?」

「それから?
きみ~、そのときは本当にすごいことになるよ!」

旅行者はにんまりと笑う。
「自社株を売却して、きみは億万長者になるのさ!」

漁師は不思議そうに尋ねた。
「それで何をするの?」

アメリカ人旅行者は我が事のように興奮して答えた・・・

「そうしたら引退して・・・・うん!

メキシコ湾の海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、釣りに出る。

戻ってきたら孫と遊んで、奥さんとシエスタ(昼寝・午睡)して・・・
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって、ダンスもいいね。

残念だけど・・・もう出来ないだろうけれど、
たまにはエッチもね。もちろん奥さんとだよ。 エヘ、エヘ、エヘ。

ああ、こうして一日が過ぎていくんだ。

どうだ!
すばらしいだろう!!」


人の良さそうな漁師はニンマリと微笑んだ。
そして砂浜からゆっくりと立ち上がると何処へか歩き出した。


漁師の行き先は誰も知らない。


テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

慰めるもの、聖霊

慰めるもの、聖霊

これから向かうクリスマスは、喜びとジレンマという相反する感情をあなた方にもたらす季節のようです。
喜びはその期待感から来るもので、ジレンマはその期待が実らないことによります。
この期待とは、ある日、自分のなかにキリスト意識が生まれるだろうという期待です。

それを楽しみにし、それに向かってあなたはすすみます・・・。
そして、新しく生まれ変わるべきその日に、実は何の変化も起きません。

そこで今日は、贈り物としてずっと昔にあなた方に授けられたものが、何であったかを思いださせてあげたいと思います。
この贈り物が、あなた方の存在の美しさと不可思議のなかで、どのように体現されうるかを、これからお話します。
あなだは孤独ではないのだということ、あなたが求めている新生は、もうすでに起きたのだということを確信していだだくためです。
どうか、この贈り物のことを忘れないでください。

あなた方の古い友人で、イエスという名の人が二千年前に話したことを引用しましょう。
イエスが、自分が物質界をもうすぐ離れるのだと知って、親しい人々に語ったときのことです。
イエスはその偉大な愛ゆえに、何かを残していきたいと思いました。
彼は友人たちに語りかけます。
『そして、私は父なる神に祈ろう。
父なる神は、あなた方にもうひとつの慰めとなるもの、聖霊を与えられ、あなた方とともに永遠におられるだろう。
それは神理の霊であり、世の一般の人々は見ることがないので、受け取ることができず、また知ることもできない。
しかし、神理の霊はあなた方とともにおり、あなた方のなかにいるので、あなた方はそれを知るだろう。
私は、あなた方を慰めるものを残さずして去ることはしない。
しかし、この慰めるもの、聖霊は、私の名において父なる神が送りたもう。
聖霊は、あなた方にすべてを教え、すべてを思いださせてくれるだろう。
心をわずらわすなかれ。
怖れるなかれ。
私は常にあなた方とともにいるのであるから』

こうした言葉に対して、あなた方がとるべき態度には、ふたつの道があるように思えます。
これを語った者が誰であれ、その人は倣慢の極地にあり、自分が話していることを自分でわかっていないのだと思うか、または、その人はここで、父なる神と呼ばれているエネルギーと親密な関係を持っているのだ――そして、その人と神と呼ばれるエネルギーとのあいだで、何らかの交換がおこなわれることになっており、その交換を通して、何か永遠性のあるもの、何か完全に手に届くものが人間のために残されるのだ、ということを信じるかです。

そのとき以来、聖霊は常にあなた方とともにありました。
それを理解するのがむずかしいのは、たぶんあなた方が次のふたつの点で混乱しているからです。
ひとつは、聖霊の感覚であり、もうひとつは、日々の生活における悩みや苦しみやジレンマの存在です。
多くの人々が、「何のために私たちは生きているのか」という率直な質問をします。
聖霊のイメージにピッタリするものについて、それに対する答えはたくさんあります。
そのなかから、ここで話してみたいと思います。

誰かたったひとりの人間が、子供と死に別れるといったような悲劇を経験したあとで、その嘆きの深淵からはいあがって、再び生き生きと生きはじめるたびに、地球界における勇気の水準がそれまでよりも高められます。
ひとりの人間が、肉体的苦痛を人格の気高さとユーモアで耐えしのぶ、そのたびに、この地球界の総合的パワーとすばらしさが増加されます。
ひとりの人間が感情にまかせて怒る代わりに、相手を理解することを選ぶ、そのたびに、地球界が使えるパワーや勇気や知恵の総量を増やすことになります。

人は、人生の一日一日を、何らかのパワーを生みだすために生きており、そのパワーは決して小さなものではありません。
それは、その人自身の人生をはるかに超えたところにまで伸び、多次元宇宙全体に広がり、ほかの人間や存在が必要とするときに、勇気を与えます。
それは、あらゆる人間や存在に自分というものが、もっと大きな存在だと感じさせてくれます。

ある意味では、あなたの役目はできる限りの方法で、人間たちのパワーを高めることだと言えます。
あなた方が日々の生活でなしとげるこうした勇気ある行為――小さな規模であれ、大きな規模であれ――それこそが生きている理由です。
あなた方がここに生きているのは、何かよくわからない完壁さを達成するためではありません。

日々、あなたは人生のすばらしさとパワーを体現化し、気づきを高めるチャンスを与えられており、そうした努力の結果、地球界における総合的体験の波動を現在高めるだけでなく、未来の波動も高めることになります。
人生の一日一日に目的があります。
それは自分の家で、天使が舞い踊るなどというような奇跡的なことでは全くありません。
それは、自分はパワー発生器であり、パワーを発生することによって、ちがいを生みだすことができる、ということを知ることです。

自分が生みだしたちがいが、自分の基準に満たないときに、問題が起こります。
自分のなかにある怖れのために、真実を話せなかったり、自己憐憫を克服できなくて、悲しく思うような場合がそうなのです。
または、ある日のある瞬間、どうしても自分に課した高い精神的基準まで、のぼるだけのエネルギーがないということもあるでしょう。
このようなときにこそ、今お話した贈り物のことを心のそこから受け止めて、考えてほしいと思います。
多くの人にとって、聖霊とは知的概念にすぎません。
言葉を聞いても、自分には関係がないと思ってしまいます。
聖霊はそうした人になかなか達することができず、困っています。
私の定義では、聖霊とは、想像もつかないほどの巨大なエネルギー源で、人間のエネルギー域とつながる電磁域を持っているものです。
あなた方が肉体と呼ぶ物質機構のなかには、細胞のなかに存在する電磁的磁石があり、私たちが聖霊のパワーと呼ぶ電磁域と連結します。
この電磁域を誘発するのは、あなたの意思です。

テレビはたとえ故障していなくても、スイッチを入れない限り何も起きません。
人は自分とテレビとの関係を明確に理解していますから、何も起きなくて当然だと思っています。
そこで私があなた方に望むことは、テレビについてのすばらしい知恵のすべてを、もっと広い次元に応用し、「このすばらしい電磁流のスイッチを入れるのは、私の責任です」と宣言することです。
すでに多くの人がこれを実行しており、その人たちには感謝しています。
私が感謝するのは、あなた方に幸せであってほしいからだけでなく、誰かがそうするたびに、その人のまわりの人だけでなく、遠くにいる人々をも助けることになるからです。

世の中に尽くしたいと願っている人がいますが、その人たちは、自分が何か非常に高尚なことをしなければならない、というイメージを抱いています。
けれども、私が言う奉仕者とは、日々の生活のなかで意識的にスイッチを入れ、電磁流がとぎれないようにする人のことです。

そして、聖霊とは何を意味するかを思いだせば、聖霊とつながることができることを知っており、そうすることで、自分のまわりのエネルギー域が異なったパワーを帯びることを知っている人です。
そうなると、その人の人生は外側からではなく、内側から変化しはじめます。

あなた方のなかにはどうしょうもなく退屈している人がいます。
パワーを増し、エネルギーを増せば退屈は簡単に克服できます。
ほとんどの場合、人は外の世界に出かけていってエネルギーの関係を変えることでこれを達成します。
つまり、仕事を変えたり、恋人を変えたり、車を変えたりします。
それもけっこうです。
けれどもそれにはお金がかかったりするので、もっと身近なところでできる方法を提案しましょう。

退屈しているときに人が本当に望んでいるのは、人生を今までとちがうように感じたい、ダイナミックな意識を感じ、パワーの広がりを感じたい、生き生きと感じたいということです。
自分のなかで命のエネルギーが力強く流れ、動くのを感じており、自分がそのとき何をしているかに関係なく、その感覚だけで充足感を感じる――そうありたいということです。
それがつまり、聖霊を思いだすためのスイッチを入れるという意味です。

最初はなかなかむずかしく、何も起こらないので、人はすぐあきらめてしまって、二度とスイッチを入れようとしません。
キリストをはじめ多くの師は、「根気よく努力すれば、聖霊を感じるようになる」という点で同意見です。
考えるのではなく、感じるのです、知るのです。
聖霊が動きはじめ、あなたのなかに存在するようになります。
その選択はいつもあなたにあります。
ちがう次元の意識から来て、許可なくあなたの電磁域に押し入ることは、個人の尊厳の侵害であり、許されないことだからです。

ですから、聖霊をこれまでの型にはまった物体として考えるのをやめて、エネルギーとして考えれば、人々がそれに対して持っている先入観にじゃまされずにすみます。
形のあるものだと言ったら、そのとたん、問題が起きます。
人間はみな形を持っており、形について人間が知っていることのひとつは、形のあるものは自分を好きになったり、嫌いになったりするということです。
つまり、相手に気に入られたり、嫌われたりするということです。
自分を愛してくれたり、自分を捨てたりするということです。
人間にとって形のあるものは、予測不可能なものです。
ですから、「形」のあるものを考えるときに、一種の抵抗があなたのなかに生まれます。
ただし、意識的におこなわれるわけではありません。

あなたの意識に浮かび上がってくるのは、形のあるものに失望させられた数々の思い出です。
あなたの心は何度も何度も傷つけられたために、心に壁ができています。
ですから、私が聖霊について思いをめぐらせてくださいと言うときには、形を考えずに、ただその存在を認めてください。
山の上を流れ動く雲をながめるときのように、何かはわからないが、何かが雲を動かしていることを認め、その動きをただながめ、動きがあること、動かしていること、雲を引きちぎっていることを、そのまま認めるようにしてください。
まわりの世界の自然さを見つめてください。
自然はあなたの意識を最も直接的に反映する鏡として、あなたに語りかけています。

人間は、自然界のなかでゆったりくつろぐことから、ずいぶんかけ離れた生き方をしています。
魂を激しく燃えたたせるもののひとつに、自分のまわりの自然すべてとの関係を知り、それを感じることがあります。
毎日太陽が昇るのを見ることに、どんな意味があるのでしょうか。
雲をながめ、それを動かす力を感じるとき、風が自分を運び、何か新しい形に作り上げているのを感じるとき、あなたの深層心理のなかにひそむ心象風景が浮かび上がってきます。
このような出来事は、あなたの理性のとどかない、あなたのなかの深い意識に語りかけてきます。

休みに旅行に出かけて楽しいのは、お酒を飲んだり、スキーをしたりしたからだと信じている人がいます。
本当は、喜びがわき上がってくるのは、自分と風がともにあり、雪がそこにあり、自然がそこにあるからで、それらのすべてが、地球界での転生の旅を始めたとき以来、自分が意識の奥底に抱えてきた心の風景を、思いださせてくれるからです。
その瞬間を体中で感じることによって、「大いなるパワー」、「大いなる愛」。「大いなる命」――あなた方が神と呼ぶものを感じるからです。
こうした自然のシンボルは、あなたのなかに生きているので、それを思いださせてくれるものとともにあるときには、自分の内なるパワーを自覚できるのです。
海辺で太陽をあび、小麦色に肌を焼いたから、思いだすのではなく、自分の肌の下に広がる砂の感触、潮騒、太陽の不可思議で、絶大なるパワーなどを感じることにより、それらのすべてと自分とのつながりを思いだすのです。

あなた方は非常に文明化しました。
文明が発達する過程で生じる問題点のひとつは、自然の否定ということです。
文明と自然は分離されなくてもいいのです。
これらふたつのすばらしい結婚も可能です。
クリスマスの日の午後、もしも憂鬱な気分になったなら、テレビの前から腰をあげて外に出て、生きるとはどういうことかを感じてみてください。
心を開き、耳をすませ、においをかぎ、感覚をとぎすまし、元気いっぱいになり、他人のなかに入っていき、人と分かちあい、自分を与えてください。
自分には生きる目的があり、神は存在し、自分はこのままでよいのだ、と感じさせてくれるイメージ・・・心のなかにひそむ、そうしたイメージを燃え上がらせてください。
自分の心のなかのこうしたイメージを思いださせてくれる外界の刺激は、魂を目覚めさせ、その人の人生を変えてしまうことがあります。
テレビの前にただすわっているだけでは、そうした変化は起きません。
たとえ、あなたの応援するチームが勝ったとしてもです。

このように、あなたが自分の殻から抜けでて、宇宙の大きな腕のなかに飛びこんでいくことによって、あなたは聖霊のにおいをかぎ、その音を聴き、それを感じ、体験することができます。
あなたがしなければならないのは、自分の心を開き、すべてを感じるようにすることだけです。

苦しみで心がちぢこまっていると、感じることがなかなかできません。
けれども、宇宙の無限の広がりのなかに出ると、心の鎧をぬいで、安心して感じることができるようになります。

どこか出かける場所を選んでください。
ただ、その場合、
「ありのままの自分をさらけだしても、大丈夫なことを確かめたうえでこの場所を選んだ。
そのくらい私は自分を大切にしている」
と自分に言えるだけの心づかいをして、行き先を選んでください。
そうして、ありのままの自分でいるときに自分のなかを通りぬける感覚が、聖霊であることを自覚してください。

聖霊はエネルギーの渦で、あなたが感じたいと思った瞬間、現れます。
感じたいという気もちが、聖霊とあなたが合流するための一連の動きを作動させます。
寂しくなったり、不安になったり、元気づけてくれるものが欲しくなったら、聖霊のことを考えてください。
そうすると、電磁波であなたは聖霊と連結できます。

目には見えない、物質を超えた世界とつながるきっかけは、自分自身で創るのだということがわかると、人生の悩みや苦しみや悲しみから解放される糸口となります。
人間は、肉体の感覚によって生かされているのではないのに、あなた方は、それらの感覚器官から送られてくるデータによって生きていると思いこんでいます。
ほんの少しのあいだだけでも、どうか人間を新しい視点で見てください。
人間とは、すばらしく美しいパワーを持った宇宙意識のひとつであり、宇宙のあらゆるものを生んだ「大いなる源」を、二度も離れたことのない存在であるということをわかってください。

あなた方は、「大いなる源」とともに、人間意識として物質界に現れることを選んだのです。
そして、そのときの「大いなる源」との接点を、その後一度も離れたことはありません。
その接点は常にあなた方とともにあります。
その接点は失われてもいないし、隠れてもいません。
その接点は、意識の目覚めを通して、作動させられなければならないだけです。
それはつまり、自分の内奥に意識を向け、聖霊を感じることを意識的に選ぶということです。

あなた方が聖霊を生みだすことはできません。
それはもうすでに存在しています。
聖霊があなた方にすべてのことを教えてくれるだろう、とイエスは言いました。
その教えは常にさずけられています。
あなたの中でも外でも、それは常になされています。
残念ながら、ほとんどの場合、あなたはその教えを正しい周波数で聴いていません。
けれども、人間はテレビでもなく、ラジオでもないので、異なる周波数で流れる情報を受け取り、肉体のなかで同時に吸収する能力を持っています。

多くの人が肉体というものを軽蔑していますが、あなた方の肉体は、入ってくる情報を聴き、受け取り、混ぜ合わせるというすばらしい能力をそなえています。
本屋で本を選ぶときのように、あなたは自分が何を経験するのか選択しています。
本を選ぶときは、きちんと意識して選んでいるはずです。
それと同じように、はっきりと意識して、各瞬間ごとの内なる選択をおこなってください。
苦悩のさなかにあるときには、立ち止まってこう言うのです。
「聖霊の持つ信じられないほどの心の平安を、今、感じさせてください」
不安を感じたら、
「聖霊の持つ平和を、今、感じさせてください」
と静かに言うのです。
そう望むことが引き金となります。

多くの人が、人生のある時期、ひとりで生きることを選びます。
そうしたことがよかったと思って、それを最大限に生かすことを選ぶ人もいれば、なぜそうなったかと悔やみ、どうしたら孤独から抜けでられるかと悩み、不満をもらすことに多くの時間をついやす人もいます。
他人と深く変わらぬ愛情関係を持つのがあなたの運命ならば、いずれその相手は現れます。
たとえ、あなたが僧院の奥深くに隠れていようとも、誰かが、ドアをノックし、あなたはドアを開ける必要を感じ、その相手との関係が生まれます。
その反対に、あなたの人生における今の時期に学ぶべきことが、自分をはぐくみ、満足させ、力づける感覚を自分の肉体のなかに生みだす方法を発見することであったなら、ひとりで生きることになります。
自分の人生に起こることが、何らかの意味と目的を持っていることを信頼してください。
自分自身の人生のパワーを信頼しない人は、
「自分は運が悪い。
何かがまちがってしまった。
何かが狂ってしまった。
誰かがじゃました。
自分はこのみじめな人生から抜けだせない」
と感じてしまいます。
けれども、あなたの人生に起こることはすべて、あなた自身の書いた設計図通りにちゃんと起こっているのです。

前にも言ったように、あなたがこの地球界に転生してくるときには、自分の運命がどのように展開していくかという設計図を持って生まれてきています。
その設計図は膨大な内容を持ち、変更可能であり、直接知ることができるという性質を持っています。
たとえば、あなたが中国へ旅行しようと思ったら、少なくとも、どうやってそこへ行ったらいいか調べ、どこに行きたいか決め、旅行に必要な品物をもっていくでしょう。
それなら、地球界に転生して冒険旅行をしようというときに、同じように準備をするだけの知恵を、自分たちは持っていて当然だとは思いませんか。
自分には物質界で得られる知恵しかない、と心から信じているのですか。

叡智は時間や空間や肉体に関係なく作用しています。人間は自分がどこへ行くのか、どんな体験をするのかをあらかじめ知ることなく、四十年、五十年、あるいは八十年も地球界ですごすことを選んだりはしない、ということを信じてください。
宇宙に法則性があることを認めるのであれば、広大な意識と制約に満ちた肉体を持つ人間が、地球界での人生を、自分の全体性を取り戻すためだけではなく、地球という惑星の全体性を取り戻すために使うということも、当然認められるのではないでしょうか。

あなたの人生の本質的な部分では偶然はありません。
どんな車を買うかなどというたぐいのことではなく、地球界に転生する前に、自分でバランスと調和と優雅さをもってデザインした、あなたの人生を方向づけるような出来事のことを言っているのです。
あなたが自分で計画したのであれば、あなたの人生に役に立つはずだし、どんな意味であれ、あなたを強くしてくれるものであるはずです。
そうした可能性に心を開くことが、内なる理解を生みだします。
それが何であれ、あなたにとって意味のあるものが、あなたの心の目を開いてくれます。

心の目を通した理解は、あなたに勇気を与えてくれます。
自分の計画が賢明であったこと、計画したことが何であれ、それぞ実行することは意味がある、と認める勇気を与えてくれます。あなたの内なる目が、ほかの何よりもあなたを導いてくれます。自分の人生の毎日が、絶対的意味と目的を持っていることを確信させてくれます。
人生の一日一日が目的を持っているのだということを忘れると、絶望したり、憂欝になったりします。
自分にパワーを与えてくれ、真理の道へ向かわせるもの――愛、ユーモア、内なる目、すべてを受け入れること、勇気、自己規律、叡智などを自分の生活に生かせば生かすほど、自分のなかに強力なエネルギー域を築くことになり、翌日にはもっと勇気を持てるようになります。
そうすることによって、自分のまわりに電磁流が生まれ、その影響で、まわりの人も以前より大胆で、勇気ある行動をとりやすくなります。
そして、その人たちが、今度は、その人たちのまわりの人の人生に影響を与えるようになります。
こういう生き方を選ぶと、自分の人生のあらゆるものが変わりはじめます。
こうして、その人の意識がますます高められていきます。

これまで多くの師が、それぞれの理論や修行法を教えてきましたが、それは、自分の方法がほかの方法より神聖だからということではなく、何とかしてあなた方が真理を思いだすよう、あの手この手を使ったということにすぎません。
そんなにいろいろな方法があるというのはおかしいと思うでしょう?
でも、それら流派のちがいの下に横たわるのは、あなたとあなたの求めているものとのあいだに電流が流れるように、スイッチを入れることを思いだしてほしいという願いなのです。

あなたを支えてくれる愛に満ちたエネルギーは、いつもあなたのまわりに存在してきました。
あなたが深い絶望のさなかにあって泣き叫んでいるときでさえ、あなたが求めているものは、あなたを包みこんでくれています。
けれども、人はそれをつかむ代わりに、まさにその瞬間、すべての動きを止めてしまいます。
肉体も感情も、すべてが凍りついてしまいます。
これ以上の苦しみには耐えられないと怖れて、身動きしません。
もうよくなった、痛みがなくなったというときは、その人の心がリラックスしはじめたということです。
凍りついているときには、触れることのできなかった内なるイメージが、しだいにゆっくりととけて、姿を現してきます。
それらのイメージが心の奥深くて、「安心していいよ。人生を信頼してもいいんだよ」と語りかけます。
そうすると、少しずつ、日毎にときには年毎に、人生に対する信頼が甦ってきます。
人生の全過程を信頼してもいいのだ、と思わせてくれるイメージが、あなたの意識の奥深くに埋めこまれています。
ですから、大きな悩みにぶつかった人やこれからぶつかる人は、おぼえていてください。
あなたはまず凍りついたようになり、それから、少しずつゆっくりととけはじめます。
自分の内なるイメージを受け入れられるようになるにしたがって、それらが姿を現してきます。

愛する人が苦しんでいるときには、その人を自分の温かさと思いやりの気持ちのなかに包みこんであげてください。
そうすると解凍が早くなります。

言葉は何の助けにもなりません。
エネルギーだけが唯一の贈り物であり、誰でもが受け取ることのできる贈り物です。
苦しんでいる人にあなたのエネルギーを与え、その人が自分の凍った態度をとかすのに、使えるようにしてあげてください。
願望さえ強ければ、自分のまわりに常にある「大いなる命」つまり聖霊との深くて親密な関係を持てない人はいません。

なぜあなた方に聖霊のことを考えてほしいかというと、こういうことです。
聖霊は特定の任務を持っています。
あなたが人生に特定の目的を持っているのと同じように、このエネルギーの渦も特定のはっきりした目的を持っています。
ですから、あなたが聖霊の持つ任務を果たすように願えば、あなたと聖霊との共同作業が一瞬にして可能になります。
そして、人生のあらゆる意識された瞬間において、このエネルギーとつながる方法があり、それを達成した人が目覚めた者と呼ばれます。
彼らは光のスイッチを入れた者です。
目覚めた者とあなたとの唯一のちがいは、目覚めた者は、自分の人生を直接的に高めてくれるエネルギーの渦が、本当にあると信じたという点です。
そして、それに賭けたのです。

とにかくやってみないと、誰も悟りを開くことはできません。
証明されるまで待っていると、いつまでも、待つことになるでしょう。
とにかくやってみなければ、はじまりません。
リスクをおかしてください。

では、一年間、毎日できるだけ多くの時間、このことを「おぼえている」努力をしたら、何が起こるでしょうか。
これはまさに神をおもしろがらせるたぐいの質問です。
つまり、それが真実かどうかチャレンジする――というわけです。

私がウソを言っているとしたらどうしますか。
その可能性もあります。
聖霊の存在を証明するものが、あなたの人生に起こればいいと、私も思います。
あなたがリスクをおかして実行すれば、それが起きるのですが・・・。
あなたは、リスクをおかす勇気を得るために、本をたくさん読みます。
けれども、何百冊という本を読みながら、イザそれを実行に移すときが来ると、「大いなる光」への道があまりにもありすぎて、どうしていいかわからなくなってしまうのが実情です。

もっと簡単な方法を試してみてください。
自分の心の奥深くに静かに入っていき、自分は愛と平和とパワーを感じる用意ができた、リスクをおかす心の準備ができたと認めるのです。
何もないとしたらどうなるか・・・と考えると、リスクは大きいといえます。
そこにあるのは、ただエゴがエゴの反応のなかを動きまわっているだけだとしたら、原初から未来永劫までそれだけだとしたら、どうしましょう?
そして、最後に行きつくリスクは、現在のあなたが経験しているものよりすばらしいものは、何も存在しないという可能性に直面する勇気があるかどうか・・・ということです。

あなた方が神と呼ぶパワーが実際に存在し、それがあなたのところにやってきて、あなたを教え、あなたを導き、あなたを愛し、あなたを抱きしめてくれるというのは、全く疑いもない事実です。
そうしたパワーは実在するのです。
あなただって、それが本当だと知っているはずです。
そうでなければ、こんな話を聞くことに、みすみす貴重な時聞をついやしたりしないはずです。
あなた方は、飛びこみ台の端まで走ってきながら、そこでためらっている飛びこみ選手のようなものです。
飛びこみ選手は、水が確かに下にあり、自分が飛びこめることも知っているのですが、ただ、ちょうどよいタイミングを待っているのです。
それと同じように、あなた方は、日曜日にここに来て私の話を聞き、それぞれ家へ帰って、自分の日常生活に戻るということをくり返し、そして、ある日ある瞬間、ついに自分のなかの必要なエネルギーがすべて集まり、飛びこむのです。
ですから、あなた方が自分のときが来るのを待っているあいだ、私もみなさんと一緒にプラプラしていましょう。

そこで、今度は私の側から、「大いなる光」についての真実を語りたいと思いますので、どうかよく聞いてください。
あなた方は、「この地球界は宇宙でいえば、幼稚園のようなもので、人間は子供のようなものである。
そして人間は、宇宙のほかの存在ほど広大な力を持ったものではない」
と教えられてきました。
そこで、ここでは私自身の見解を話したいと思います。

人間は、創造された宇宙のなかで、最もむずかしい任務を引き受けました。
その任務とは、創造された宇宙のなかで、最も重くて、暗いエネルギーに満ちている惑星の上で、あなた方が神と呼ぶ最も軽くて、最もつかみどころのないエネルギーの渦を感じることです。
私から見ると、これはとても勇気のいることです。

神は、創造された宇宙のすべての部分で、神の存在が感じられるようにしなければならない、と感じています。
ですから、人間の姿を選び、地球の重くて、暗いエネルギーのなかにあって、勇敢に悟りの境地をめざし、つかみどころのない「大いなるパワー」を直接感じようとするあなた方の努力は、本当に賞賛に値するものです。

あなた方が地球界で試みているこのような実験に対して、言い訳をする必要はありません。
あなた方の任務ははっきりしています。
地球界に来たとき、あなた方にはそれがわかっていました。
この地球の暗くて、重いエネルギーのなかで、神なるエネルギーをあなたが感じると、あなたはそのまわりのパワーを高めることになります。
地球は進化の過程にあり、誰かが神とそのパワーを感じるたびに、そのぶんだけ、ほかの人間や存在が同じ経験をするつながり、可能性を増やすことになります。
真実のところこれは、この創造宇宙のなかでも最も勇気のいる実験で、あなた方はそれを実行しているのだ、ということを正しく評価してほしいと思います。

神なるものは、創造された宇宙のすべての部分で感じられなくてはならず、それを感じることが、あなた方のやるべきことです。
そして私は、あなた方の努力に感謝したいと思います。

なぜなら私は、自分の意識のおよぶ範囲内でいろいろな世界に旅をしていて、ほかのさまざまな世界で、それぞれの存在が努力をしているのを見る機会があるのですが、地球界ほど勇気を必要とする世界を、私はほかに知りません。
地球界において、神なるパワーがこういう形で表現されていることは、創造された宇宙のすべてで高く評価されています。

ですから、地球界での任務はとてもむずかしく、それに挑戦しているあなた方の努力は評価されているのだ、ということを忘れないでください。
あなた方が安易な任務を選ばなかったことに、心から敬意を表します。
あなた方の努力は実っています。
うまくいっています。
それを知っておいてください。
あなた方に感謝します。
どうもありがとう。


『バーソロミュー
  ―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
    (バーソロミュー 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

内なる気づきへ導く瞑想

この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。

         バーソロミュー

―――――

内なる気づきへ導く瞑想

質問:
瞑想をするときに起きる不思議な現象について話してくださいませんか。

そうした現象は多岐にわたり、内容も複雑なので、話すのにいくらかのためらいが感じられます。
というのは、ここで話すような反応が自分に起きていなかったら、求道者として自分は失格だ、と感じる人が出るだろうという不安があるからです。

まず断っておきたいのは、悟りや覚醒の兆候は、これから私が話すような現象として現れる必要はないということです。
また、肉体そのものが深い瞑想に反応しやすい人もいる、という事実を認める必要があります。
精神的に大きな悩みにぶつかり、一瞬一瞬、自己をつきつめる努力をしていくなかで、何らかの現象が起きるということもあります。
ですから、ここではこれらの現象をいかに自分に役立てるかという方向で話しましょう。

肉体は、入ってくるエネルギーに反応を示すことがよくあります。
自己の内なる真理を追究している人は、ほとんど感じられないほどですが、体が変化しはじめます。
深い瞑想を実践している人は、その副産物として、病気や体の不調が改善されていくのに気づきます。
たとえ言葉の上だけでも、人間は流れ動くエネルギーだということを認めると、波のようにうねるさまざまなエネルギーに、自分が囲まれていることを理解できるようになります。
ほとんどの場合、これを自分の目で見たり、耳で聞いたりすることはできませんが、たまに自分の体で感じることができます。

瞑想は多くの人にとって実に退屈なものですが、なぜする必要があるのでしょうか。
もし瞑想がとても退屈だと思うのでしたら、しなくてもかまいません。
ただし、それらのエネルギーが動きだすことができるような、ほかの方法を見つけてください。
これにはたくさんのやり方があります。
スピリチュアル・ダンスもそのひとつです。
体の動きや音の洪水のなかに自分をゆだねることにより、たとえ短い時間であっても、自分の古いものの見方を捨てる可能性が生まれるからです。

ほとんどの場合、人は自分の目ではなく、頭でものを見ています。
頭で見ることが問題なのは、いつも同じ概念を通してものを見、そこから抜けでられないからです。
自分を女として、母として、妻として、キャリアウーマンなどとして見るからです。
自分をそういうものだと思っています。

たとえば、子供に死なれるとか、夫や妻に去られるとかの人生の破局に直面すると、人は不安におそわれます。
怖れがやってくるのは、自分の定義のひとつがなくなったからです。

もう妻ではないわけです。
妻でないとしたら、あなたは誰なのでしょうか。
頭とエゴはそのすき間をできるだけ早く埋めようとします。
自分が誰か、自分でわからないと思わずにすむように、別の定義を与えてくれます。

人生に問題が起きるたびに、人は自分に対する古い見方を捨てるチャンスを与えられます。
けれども、あなたのエネルギーは、自分とは誰なのかという見方を変えようとしません。
人は自分のことを、「過去から連続した変わらぬ」人間だと思っています。
しかし、それはちがいます。
注意深く見てみると、そのことが見えてきます。
あなたは、さまざまな役割をのりでつなぎあわせた総合体のようなものではないのです。
でも、他人に、特に自分が気にかけている人に、自分をよく見せようと思って、自分をのりでつなぎ合わせようとします。

自分の一部が破壊されたとき、たとえば、もう妻ではなくなったとき、あなたは何なのでしょうか。
空っぽの空間ができ、それを「私は捨てられた女だ」という定義で埋めます。
私が勧めるのは、自己像にそのような穴があいたとき、自分とは「誰」かという別の定義で埋めるのではなく、その部分をそのままの状態――私が「わからない」と呼んでいる状態のままにしておくことです。

あなたの一部は「自分が誰だかわからない」ということを認めるのです。
あなたがこういう瞬間を生みだせば出すほど、このわからないという状態が増えることになります。
このように外界に現れる現象を、観察することが大切です。

瞑想を始めると、自分のなかの異なる部分がひっきりなしに出たり、消えたりするのを見る機会を得ます。
ある瞬間には自分をある見方で、次の瞬間にはちがうように見るというぐあいです。
よく気をつけていると、何人もの人が見えてきますが、それは全部あなたです。
あなたは自分をいろいろな見方で見ています。
それらの自己像のすべては、自分が死ぬまで存在しつづけるのではなく、自分でそれを変えることができるのだ、ということに気づくようになります。

こういう観察の初期には、あなたは自分が気に入っている自己像を捨てようとはしないで、嫌いなものだけ捨てるでしょう。
ですから、今いるところから出発してください。
嫌いな自分のイメージがあれば、それをどうか変えるようにしてください。
自分で創りだした自己像ですから、自分で変えられます。

自分のなかに大勢の人間を抱えこんで、人生を生きていく必要はありません。
そういう自己像のどれひとりとして、本当のあなたではないのやですから。

瞑想をして肉体がしだいに静かになっていくにつれ自分のオーラのなかに、ちがうタイプのエネルギーが入ってくるようになります。
このようなほかのタイプのエネルギーがその人の肉体構造に作用しはじめた瞬間からさまざまな体験をするようになります。
瞑想体験のひとつはイメージを見ることです。
イメージには二種類あり、ひとつはその人を幸せな気分にするものでもうひとつはこわがらせるものです。
美しいイメージであれ悪魔のイメージであれ、あらゆるイメージの裏にはその人の注意を引こうとしている何かがあります。
たいていの場合、それはその人の自己像のひとつで、まず自分の意識にのぼらせて、それからそれを捨てられるようにしているのです。

たとえば、悪夢のようなこわいイメージや夢を見た場合、怖れの感情がおそいかかってきます。
これは無意識下の悪夢で表層意識にのぼらせる必要があるのです。
このような場合それがイメージであれ夢であれほとんどの人は逃げだします。

どうかそのイメージから逃げださないでください。
目覚めへの道の一歩は、このような怖れを意識にのぼらせることで、それをよく見つめれば見つめるほど、自分に役立つものとなります。
本質的に「邪悪な」イメージとか、夢とか悪夢とかはありません。
何回もこわい夢をくり返し見るようでしたら、その人の「大いなる自己」が未解決の行動パターンに、その人の注意を向けようとしているのです。

あなたはすでにいくつもの悪夢を体験しています。
悪夢を見ても、ちゃんとそこから抜けでてきています。
悪夢をいつまでも怖れて、そこから逃げだそうとする必要はありません。

瞑想を始めると、肉体が反応しはじめ、耳鳴りがしたり、体がびくっと動いたり、体中にエネルギーが入りすぎて、まるで感電したように感じたりするかもしれません。
身の危険を感じて、やめたほうがいいのではないかと思うかもしれませんが、ここでやめるのではなくエネルギーがやっとあなたの肉体と密接につながることができるようになった印だ、と受け取ってください。
なるがままにしてください。
耳鳴りがするからって、どうだというんですか。
あなた方の聴く現代音楽とそんなにちがいはしないでしょう?
物事がちがって見えたり、まわりが少しぼんやりしてきて、視界が前より広がったからといって、どうだというのでしょう。

ちょっとこれを試してみてください。
自分の近くにいる人の顔を見つめてください。
両目のあいだ、少し上の部分をぼんやり見つめるのです。
そうするとすべてが動きはじめます。
視界が変わり、相手の顔が変わりはじめます。
美しくなったり、醜くなったり、男になったり、女になったり、若くなったり、年寄りになったりします。
さま、ざまな顔が現れては消えます。

このような意識を誰かほかの人に固定させて見つめると、「第三の目(透視眼)」のエネルギーが発揮され、自分と相手のエネルギーを混ぜることになると言われており、それはたしかに事実です。
そして、今までとはちがった体験が生まれます。
相手と自分は過去世でどんな関係があったのだろうと考える代わりに、今世での関係のすばらしい面に今、ダイヤルをあわせているのだとわかります。
長いあいだ一緒にすごしてきた相手とは、それだけの年月を重ねているのですから、もっと固定したイメージを相手に抱いています。
それもこわすことができます。

このエネルギーを使いはじめると、相手の「ちがう面」が見えるようになります。
顔や体というものに対して、確固として抱いていたイメージの向こうに存在するものを感じはじめます。
広大無辺なものを感じはじめます。
「自分という存在は不可思議である。
他人という存在も不可思議である。
人間同士のあいだには、何か不可思議なものが始終作用している」
と言われる意味、がどういうことなのか、わかってきます。

真性の精神異常と、霊性の成長やエネルギーによってもたらされた気づきの状態とのちがいは何なのでしょうか。
ふつうでない精神状態を経験したあとで、それをふり返り、その体験のさなかにエネルギーが増し、精神が高揚し、もっと真理を追究したいという興味と意欲が出てきたと思うのなら、すべては正しい方向に向かっていると信じていいのです。
その反対に不安におしつぶされそうになったり、まったく頭が混乱してしまったり、もうもとに戻れないという感じがしたりするなら、たぶん深い瞑想をするのはやめるべきです。

しかし、おぼえておいてください。
真理への道をあゆむとき、いつかは常識を超えた体験をすることになるということを・・・。
それに、結局はそれが目的なのです。
そうでなかったら、なぜこんなことをわざわざやる必要があるのでしょうか。

自分の世界が常に同じ状態で、同じように見え、同じようなにおいがし、同じように感じることを望むのなら、いったいなぜこの世に生きているのですか。
あなたは途方もなくすばらしい何かを探していますが、実際にそれがやってくると、怖れも一緒にやってきます。
世の常識が、物事を一定の状態で経験しない人は、気が狂っていると教えるからです。

私は、むしろ物事を一定の状態で見るほうが、「狂っている」とあえて主張します。
本当に注意深く観察すると、人はある瞬間幸せで、次の瞬間は怒っていて、その次には罪悪感を感じ、その次の瞬間には官能的で、その次にはお腹がすき、次には眠くなるというふうだということがわかります。
それでも、あなたはいつも同じだというのですか。
幸せだったり、悲しかったり、気分がよかったり、沈んでいたり不安におびえたり、喜んだり・・・
このさま、ざまに変化する不可思議な自分の世界を見て、常に同じだとあなたは本気で主張するのですか。

ちょっと変わったことをお勧めします。
常識を無視して、自分はこのように変化するものでは全くないと信じるのです。
自分とは、限りなく変化に富む感覚や、想念や感情を観察するものだとみなすのです。
自分というもののスクリーンのうえに、これらのものすべてが現れては、消えるにまかせるのです。
怖れが存在すれば、怖れが存在するのであるし、喜びが存在すれば、喜びが存在する。
怒りがあれば、怒りがある。
こうした仕掛けのなかに取りこまれてしまうのをやめられれば、大きな自由が得られます。
これらの顔のどれもあなたではないのです。

あなたは、自分にとって一番大事なことは、自分自身をのりでピッタリ貼りつけて、バラバラにならないようにすることだと思っています。
自分のさまざまなイメージを組み合わせて、のりづけしているときに、そのうちのひとつが落ちこぼれたり、ひとつのイメージが自分を裏切ったりすると、どうなりますか。
自己の全体像が自分を攻撃する敵になってしまいます。
自分のイメージは自分で創り上げたのであって、それは自分で変えることができると気がついたなら、そのとき、あなたは自由への道をあゆみだします。

今晩家に帰ったら、自分で決めつけている自分のイメージを紙に書きならべてみてください。
自分とはどんな人間であると思うか、書きつけてください。
「自分」と呼ぶものは、多面的な存在であることがわかります。
そのリストをながめると、自分という人間の完全なイメージを維持するために、さまざまな顔を維持する必要を感じていることが理解できます。

離婚経験者を例にとりましょう。
その人の自己像は、自分は「失敗者」だというものです。
そして再婚した今、既婚者としての自分のイメージが、自分に敵対しつつあるのを発見します。

今度は、その人が仕事を持っていて、解雇されたとしましょう。
ますます失敗者だと感じます。
ここでその人を攻撃しているのは、生活費がないことに対する不安ではなく、自分をはつらつと生きている成功者だとみなせないことです。
自分がか弱く、傷つきやすい存在に思えます。

失業するという形で自分の一部を失ったとき、一番つらいのはお金のことではありません。
お金が減ってもやりくりできます。
必ずできます。
では、なぜそんなにみじめに感じるのでしょうか。
それは、成功した人間であるという自己像が、失敗者の自己像に取って代わられたからです。
たとえ、よいものであれ悪いものであれ、このような自己像は、自分の人生のなかをさまよう人形にすぎず、やりたいことをやって、おもしろがっているのだと理解できると、そのうちのひとつが変わっても、それほどみじめに感じなくなります。

おもしろいことに、人間は自分がやっていることの九十九パーセントが成功していても、一パーセントが失敗すると、自分自身のすべてが、ダメであるかのように自分を責めます。
そして、気分が沈み不幸せに感じ不安におびえるのです。
他人から見れば、その人の人生はそれほど悪く見えません。
他人には多くのすばらしいことも見えます。けれども、その人は、否定的な自己像をすべてもちだし、自分が何たる失敗者か、他人に見えるように並べ立てるのです。

自分が常に人生の完全なる成功者でなければならない、というふうに人生ゲームを設定していると、その人は失敗します。
完全なる成功者には誰もなれません。
勝ったり負けたりするのが、人生なのですから。
自分のあゆむ道の一歩一歩が純粋で、正しくすばらしい黄金の道でなければならないと信じていると、その人は失敗します。
失敗するのは外側の世界ではなく、内なる世界で失敗します。
人形にすぎない自己像のひとつが、ちょっとでもグラグラしはじめると、その人は不安におちいります。

そういうときの自分のパターンを観察してください。
失敗するにはまず、自分の人生のうまくいっている部分を、すべて無視しなければなりません。
自分のなかのうまくいっていない部分に、いつも注意を向けるというパターンにおちいったときに、そうです、その人は失敗するのです。
自分のなかの否定的な部分を長いあいだ見つめていると、やがて自分が探していた結果が現れます。
このパターンから抜けだすには、一歩後ろに下がって、自分の心が、さまざまに変化する自己像を、くり返し創り上げるのをながめることです。
そうすると、このゲームの裏にあるトリックが見えてきます。

あなたは自分の心を使って、人生を創造しています。
人生を創造しているのは自分だと気づくと、ふたつのことが起こります。
ひとつは、一定の自己像の絶対支配から自由になることです。
ふたつめは、自分には選択の可能性があることを理解することです。
多くの人は自分自身に課した圧政のもとで人生を送っています。
このような圧政のもとで生きるのは、人生における否定的な体験というのは、自分の人生に起こる無数の出来事のうちの、たったひとつにすぎないということを、理解しようとしないからです。
みずから選んで、人は否定的な出来事を何度も何度も反芻し、それをますます大きくしています。
ある出来事がその人の人生をどれほど支配するかは、その人がどれほどのエネルギーをそれに注ぎこむかによります。

たとえば、街角にふたりの人が立っていたら、バスが通りすぎて、泥をはねかけたとします。
ふたりとも同じ出来事を体験したのですから、同じ反応をすべきです。
同じ反応をすると本当に思いますか。
ひとりはすぐ忘れてしまいますが、もうひとりはその後何日も、泥をはねたバスの運転手のことや、それがいかに頭にきたかということを友人にしゃべりまくります。
同じ出来事で、ちがった反応をするのです。

自分の自己観にがんじがらめになっている人のほとんどは、この腹を立てている人と同じことをしています。
そういう人は、自分に対する否定的な見方を再確認するために、エンジンをふかしているようなものです。
その人はほんの一滴の毒から、水さしいっぱいの毒を創りだし、しかも、それを自分で飲んでいるのです。
「泥」がふりかかった瞬間、選択の可能性が生まれます。
自分のなかの否定的要素を捨てることもできるし、それを拡大することもできます。

瞑想を通して、私が言っていることは単なる言葉ではなく、真実であるとわかったなら、その人は自由への道を歩きはじめたのです。
自分には選択の可能性がある、ということを理解するまで決して自由になれません。
深い瞑想に入ると、物事はやってきたり、去っていったりするものだということが、はっきりと理解できます。
しがみつくこともできれば、こだわらないこともできます。

毎瞬、毎瞬、自分の心のなかの反応を通して、あなたは自分を創造しています。
あなたは自分自身の世界、自分の現実を創造している、と言われています。
これはどういう意味でしょうか。
その意味は、あなたの心のなかをゆきすぎる何百万という想念のなかから、あなたは自分がしがみつく想念を選ぶ、ということです。

あなたが道を歩いていたとします。
三人の人があなたにほほえみかけ、二人がしかめっ面をします。
あなたはどちらに関心をはらいますか。
あなたがとても変わった服装をしているとします。
あなたの服をすばらしいと思う人もいれば、きちがいじみていると思う人もいます。
あなたはどちらに注意をはらいますか。

人は選択し、自分のイメージを築き、自分の世界を日々、想念ごとに、選択ごとに、創造しています。
自分の世界をどう見るかは、自分で選んでいるわけで、それはあなた方もわかっていることです。
仕事を首になっても、たいして気にしない人もいれば、ピストルをもちだして自殺する人もいます。
自分を解放するために最も大切なこの方法について、真剣に考えてほしいと思います。

自分のイメージを日々選択し、解釈し、創造しているのは、ほかならね自分であることを理解するだけで、自分をがんじがらめにしているものから、簡単に自由になることができます。
自分のイメージが気に入らなければ、変えたらいいのです。
人は自分のイメージをたえず変えています。
問題は、それを無意識にやっていることです。

ある意味で、覚醒とは、自己像および自分の人生の出来事を創造しているのは自分である、ということに気づくことです。
いったんそれがわかると、パワフルになります。
人を恨みたくなかったら、別の感情を選ぶことです。
恨みたかったら、そう選択すればいいでしょう。
何を選ぶかは問題ではありません。
大切なのは自分で選ぶことです。

これは精神世界の邪道かもしれませんが、ときには怒ることも愉快なことです。
怒りを「選択」すれば、楽しいし、必ずしも破壊的ではありません。
けれども、無意識に怒りのほうへ動いていき、やがて爆発すると、あとで罪悪感や後悔や恨みの感情におそわれます。
なぜなら、自分の半分は怒りたがっているのですが、あとの半分はそれを認めたがらないからです。
ですから、自分の怒りをおさえ、代わりにほほえむことが上手な人は、自分は「優しい人だ」という自己観を変えなくてすみます。
そうできると、いろんな面で得をします。

こういうことは、あなたが毎日やっていることだということを理解してください。
「きれいな」怒りと、「汚い」怒りとのあいだにはちがいがあります。
きれいな怒りとはきちんと言いたいことを言ってそれに全責任を負うことです。
汚い怒りとは、相手のせいにして相手の「欠点」を相手に投げつけることです。
あなたはいつも自分で操縦管を握っているのにそれを意識していません。

「気づき」とはすべての可能な想念に気づいており自分が選択肢を持っていることを知っていることです。
ですから自分をみじめにするものを選ぶ代わりにほかのものを選んだらどうでしょう。

人は毎日同じものを食べたりしません。
気に入らなかったら、人はもっと好きなもののほうへ移っていきます。
ところが、自分の気に入らない感情の問題となると、人は同じことをしません。
自分のガールフレンドがほかの男の子と話しているのを見ると、いやな気分になります。
けれども、ほかの反応のしかたがあり、ほかの選択があるのです。
どこかに偉大な神様がいて、そんなとき、人は怒ったり、嫉妬したり、自分をかわいそうに思ったりすべきだと言っているわけではありません。
その人は、自分自身を支配するパワーを放棄してしまっています。

自分自身の選択の中心に自分をしっかりと立て直してください。
そのために最も簡単で、最も早く、最もおもしろい方法は、自分が考えていることに注意を向けることです。
自分の心に浮かぶ顔、消えていく顔を観察してください。
あなたの選択のなかには、何年も前に自分が小さな子供だった頃になされたものもあります。
小さな子供にとって世の中はこわいところでした。
今もあなたは、そういう怖れに反応しつづけています。
今では身長百八十センチの大男で、大会社の社長であり、大きな力を持っていても、誰かがやってきて何かひどいことを言うと、怖れおののく小さな子供になってしまいます。
その必要はないのです。
過去に選んだことを、今も選ばなくていいのです。

文字通り自分で自分の世界を創造しているのだと理解できたら、自分の可能性にワクワクすることでしょう。
けれども、すすんでそのような可能性を見ようとしない限り、可能性は決して現実とはなりません。
ほかのことを選択するのは非常にむずかしい、とあなたは思っているでしょう。
でも、それは可能なのです。
ボーイフレンドが、自分よりもっと魅力的な女の子と話しているのを見たとします。
この場合の否定的な選択肢はすべてわかっているので、肯定的な選択肢について考えてみてください。
たしかにあります。
無限に広がる可能性のなかから、さらに別の選択をすることもできます。
あなたは、まだ相手を変えることができると信じているので、ほかの選択をしようとしないのです。
ボーイフレンドのところにいって、その魅力的な女の子と彼が話すと、自分はすごくいやな気分になるので、話さないでくれと言ったら、彼はあなたの言う通りにしてくれるだろうとまだ信じています。
彼はそうするかもしれません。
そうしたら、あなたは自分が勝ったと思うでしょう。
けれども、自分の責任を放棄することによって、あなたは自分のパワーを捨てたのです。
彼に変わることを求めたほかには、あなたは何もしなくてすみました。

自分の世界を外側から操作することで、自分を幸せにできるという考えにとらわれている限り、あなたは変わりません。
このように他人を自分の思い通りに動かそうとすることが、究極的にはふたりともを牢に閉じこめてしまいます。
今度は彼が、気に入らないことをあなたにやめるように言う権利を得ました。
借りがあるので、あなたは、その要求を受け入れざるをえません。
このように、人間関係であなたは常に取り引きをしています。

最終的には、こうやって毎日お互いに限界を設けあい、お互いを平等に閉じこめあっていることがわかります。
現世でたったひとつだけ学ぶとしたら、次のことを学んでください。
自分の幸せは自分の責任です。
自分の人生で起こる出来事に対する自分の反応を変えることで、これを達成できます。
瞑想をすればするほど、気づきが深まり、瞬間から瞬間に生きるという経験をするようになります。
自分を肉体的にも、精神的にも、心眼的にも変容させるパワーがやってくるようになります。
そのようなパワーを持つことで、自分で自分を変える能力にもっと自信が出てきます。

だから、私はあなた方に何度も何度も言うのです。
自分を愛しているのなら、とぎすました意識のなかにいる方法を何か見つけてください。
そのような意識の中心に自分をすえることで、人生の困難に出合ったときに頼りとなる力の基盤を育てることができるからです。
何もかもがうまくいかなくなり、ほかのことをやりたいと思ったときに、引きだせる貯金のようなものです。

弱い人間というのは、自分自身の人生をコントロールすることができない人です。
ですから、自分のパワーを築いてください。
外界に左右されない自己を築いてください。
内なる「自己」との調和を育ててください。

自分のなかにパワーを感じるようになると、自分の人生を変えることができるし、選択をすることができ、今までとはちがうことを選ぶことができます。
あなたの体と心が変化しはじめるにつれて、いろいろなことが起こります。
あなたはコンクリートのかたまりではありません。
常に動いているエネルギー域のすばらしい集合体があなたです。
これらが動き、変化するにつれ、あなたの世界観全体が変化し、人生の謎がだんだん解けてきます。
すべては黙ってすわることからはじまるのです!
そして、聴き、感じ、あるがままにし、経験すること――それだけです。

幸せへの最大の障害のひとつは、まわりが自分をみじめにするという思いこみです。
あなたをみじめにするのは、まわりの世界に対するあなたの反応です。
このことを理解してください。
自分で操縦席にすわってください。
人々があなたを惑わせるのは、あなたに罪悪感を感じさせたいからです。
あなたが大きな罪悪感を感じていると、彼らの望むことをするからです。
しかし、残念なことに、他人の行動を変えることでは、決して満足が得られません。
自分の幸せを生みだすのは、他人ではないのです。

質問:
悟りを開いだ人は意識的な選択をおこなっていますか。

完全に悟りを開いた人は、どんな選択もおこなってません。
どの道を選ぼうとも、何のちがいもないと知っているし、どれが好きかということも全くないからです。
悟りを開いた人は、自分と選択肢とすべての出来事はひとつであることを知っており、自分がどちらの側にいようが、どんな立場にいようが全く関心がありません。
そのレベルまで来ると、選択のない人生と言えます。

そこに行く前にもうひとつのレベルがあります。
地球界で完全なる悟りを開くことは必要ではありません。
多くの人が到達できるもうひとつのレベルがあり、それについてお話したいと思います。

自分は選択することができるのだということを学んだあと、人がまず最初にすることは、自分の人生やものの見方やまわりの世界との、内なる関係を改善に導く選択をおこなうことです。
それは内なるパワーを築くことですから、すばらしいことです。
その次の段階では、他人の利益になることを優先します。
この段階は、精神世界の真に「偉大なる師」が達している領域で、弟子の「カルマ」や「病気」を自分で引き受けます。
自分が苦しむことになるかもしれないことを知りつつ、他人のためにみずからすすんで選択をおこなうときに達する奉仕の領域です。

エゴの視点から他人に得な選択をすることは、多くの人にとって奴隷的隷属を意味します。
しかし、結果を十分意識しつつ「大いなる自己」の視点から選択する場合、その選択は、神にすべてをゆだねることを意味します。
こうした意識レベルならば、多くの人が達成できます。

あなたが、神の権化であるアバターのレベルまで到達できるとは言いません。
けれども、自分で選択ができるのだと理解すれば、自分のための選択を始めることができます。
やがて、ついにはあなたは、他人のためになるような選択をおこなうようになります。

あなた自身についてはどうなのでしょうか。
自分をすべてゆだねてしまう意識の領域では、言葉では言いつくせない真の心の平安がおとずれます。
それは、あなたが「神々しい」からではなく、次の瞬間には自分のための選択をしてもよいことを知っているからです。
でも、あなたにとっては、そんなことはもうどちらでもいいのです。
あなた方の多くはこのレベルに達することができます。
このレベルの話をしたのはあなた方を励ますためです。
このようにして、真の奉仕者が生まれます。
奉仕をすると気分がいいからするのではありません。
奉仕者としての選択肢があることを知り、自分の内側からそれに対する反応が自然に生まれ、それを選択し、そして、それが実行されたという、それだけの話です。
くり返しますが、あなた方の多くはそうした反応をすることができるのです。
その方向にすすめるように、このことをよく考えてください。
その努力は必ず報われます。


『バーソロミュー
  ―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
    (バーソロミュー 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

瞬間に生きる

この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないでください。
宇宙はあなたの味方です。
自分の不調和に満ちた世界にとどまらず、宇宙の調和とともに生きることを決心した人には大宇宙のあらゆるエネルギーがその人を助けるために集まってきます。
宇宙は、あなたが孤独な殻に閉じこもっていることを望んではいません。
宇宙は、あなたが創造のパートナーとなることを望んでいます。

         バーソロミュー

―――――

瞬間に生きる

質問:
一見矛盾したふたつの考え方について、コメントしてくださいませんか。
「グル(導師)につくのは役に立つ」というものと、「自分のパワーを他人にわたしてはいけない」というものです。

これは当然出てくる質問ですね。
私は、自分の覚醒を助けてくれるような高度なパワーの必要を説いて、同時に、自分のパワーを人にわたしてはいけないとも言いました。
では、これらのふたつはお互いにどのように関係しているのでしょうか。

まず、「パワー」という言葉が何を意味するのかをはっきりさせましょう。
私が言っている意味は、強さや広がりを持った内なる感覚のことで、これは物質界では、他人に害を与えず、その人を最大限に生かす行動として現れます。
わかっておいていただきたいのは、この地球界での本物の、グルや師についている人からは、そんな質問は決して出ないだろうということです。

グルはあなたから何かを奪おう、などという気は全くないからです。
実際、グルは自分自身のすべてを、あなたと分けあいたいと思っています。
グルは、あなたに何かを与えたいというエゴの欲求もなければ、あなたから何かを奪いたいというエゴの欲求も全くない状態にいます。

他人に自分のパワーを与えないように、と私が言うときには、特定の状況をさして言っています。
あなたの師やグルが何らかの形であなたに何かを求めたり、日常的な小さな問題までを含むすぺてを、相談に来るようにと要求するようであれば、そのような関係はもう一度見直すべきだと言っているのです。

そのやり方は、自分は弱くて、問題を自分で処理できないという気にあなたをさせるだけです。
ところが実際は、その反対こそが真実です。
あなたは自分の問題を完全に処理できるし、そうできないと思うのは全くの錯覚です。
それこそが私が打ちやぶろうとしている幻影です。

ですから、師やグルやマスターについている人は、自分の関係をよく観察してください。
グルはあなたの日常生活上の質問などは、あなたにつき返してくるはずです。
本質的な問題は常に、「どうしたら目覚めることができるか」です。
それ以外は重要ではありません。

小さな問題に関する質問を師にするということは、その問題に重要性を与えることであり、それに答えることによって、師のほうも、その問題が重要であると同意していることになります。
これは、あなたを強めるどころか弱めてしまいます。
真の師は、あなたの幻影を打ち砕きたいと思うはずです。
あなたの幻影の世界のぐらついている橋を支えたりはしません。
狭い小さな質問に答えることは、そのような問題が重要だというあなたの考えを強化することになります。

本物の師は、あなたが自分の本当の姿に目覚めることだけを望みます。
自分が想像できる最高の意識に自分のすべてをゆだねることは、自分のパワーを捨てることではありません。
なぜなら、自分のすべてをゆだねるというのは、自分のパワーと「相手」のパワーとが混ざり合うことだからです。
本当は、別々に見えるこれらのパワーは常につながっているのです。

あらゆる神なるエネルギーは、すべてをゆだねる行為などがなくとも、はじめからひとつに結びついているのです。
私のつとめは、あなた方がこの真理に気づいて、それを活用できるようにすることです。
ですから、私が「自分をゆだねる」と言うときには、それは自分のパワーを誰かに手わたすことではなく、パワーを合わせるということなのです。
そうすると、自分が弱くなるのではなく、反対に自分のなかに、はかりしれないほどのパワーがみなぎってくるのが感じられます。
人が真の神なるエネルギーに触れた場合は、パワーが、ドーッとあふれでくることでわかります。

ここでいうパワーは、人を傲慢にするものではありません。
このパワーは、人の存在のなかをめぐり、気分を高揚させるものです。
それは大胆で、勇気に満ちたもので、「これていいのだ」と常に思える気持ちです。
これこそが、「神なる源」とつながっているあかしです。
自分は取るに足らない弱い人間だと感じているとしたら、その人がしていることは何であれ、「自分のすべてをゆだねる」ことではありません。
わかっていただけたでしょうか。
これは非常に大切な点です。

グルや師が、あなたを無力で非力な存在と感じさせているとしたら、その関係を見直してください。
地球界の師であれ、ほかの次元の師であれ、自分の師との関係を分析するのは弟子の責任です。
さらに、師との関係がどのように進展しているかに注意をはらうのも、弟子の責任です。
師との関係が、日常生活の細々したことや、精神生活のささいな点にまで指示をあおぐような関係になりつつあるとしたら、その師に対して疑問を抱くべきです。

それに反して、自分自身の内なる力を身につけるよう仕向けられ、覚醒とは何かを自分で発見するために自分自身に向かうよう仕向けられているのでしたら、その人は真の師のバイブレーションのなかにいると言えます。
自分自身を助けることを学んでいくと、あなたは自分が「非現実」を脱ぎ捨てつつあることを感じ、自分のなかの多くのものが生まれ変わり、新たな世界の前に立ち、新たな気づきを経験していることを知ります。

質問:
「ものにとらわれないこと」と、「すべてをゆだねること」とのちがいを説明してくださいませんか。

究極的には、どちらの道をあゆんでも、行きつくところは同じで、「ものにとらわれないこと」と、「すべてをゆだねること」は、はじめから大きなちがいはなかったことがわかります。
ちがいはむしろ、ものにとらわれないようにしようとか、すべてをゆだねようとしている人の性質のちがいにあります。
人によってどういう面が強いかというちがいがありますから、ある人にとっては、ものにとらわれないということが最も重要な点になるし、ほかの人にとっては自分を投げだし、ゆだねることがキーポイントになります。

愛というものが最も大事だと感じる人は、すべてをゆだねるという観点から話すでしょう。
ゆだねるというのは、何かに対してゆだねるのですから、そういう人は、自分の成長段階にしたがって、その時点で最もパワフルと思えるものに自分のすべてをゆだねます。
こういう人にとっては、グルやさま、ざまなアバター(神の化身)が最も役に立ちます。
グルやアバターには全く魅力を感じないという人は、「神」に自分をゆだねるということもできます。

しかし、忘れてはならないのは、このようなグルやアバターたちの基盤となっているものは「唯一存在するのは「大いなる一」である」という真理であり、これは体験することの可能な真理だということです。

もうひとつの方法は、ものにこだわらないという道です。
これは、いわゆるインテリと言われるタイプの人に適した方法です。
すべてをゆだねる方法では、「大いなる自由」へ向けて突きすすむときに使われるのは、その人の感情体(人間のなかで、感情を感じる部分)です。
ものにこだわらない方法で使われるのは、その人の精神体(人間のなかで、思考を扱う部分)です。
自分の感情に関心があり、感情にもとづいて行動しがちな人もいれば、どちらかというと知的判断にもとづいて行動する人もいます。

ものにこだわらないときには、人は自分の精神と感情が異なる役割を演じる様子を観察できます。
そして、それをつづけていくと、自分がこの地球界で演じる役割と、自分の本質とはちがうのだということが理解できるようになります。
ものにこだわらない態度を常にとるには、自分自身を観察しなければならないし、しかも、批判的にそれをしなければなりません。
ここでいう批判的にというのは、自分自身のなかで起きていることの何を自分は観察しているのかを明確に意識し、正直にごまかさずに観察するという意味です。
自分自身をほめあげたり、または、こきおろしたりせず、その状況の真実のみを見ることです。

そうすると多くの状況のなかで、あなたがどういう立場にあるかを、自分のまわりの人が知らせてくれることに気づくでしょう。
ほかの人があなたに言うことを注意して聴き、それに対する自分の反応を観察してごらんなさい。
自分のバランスがとれていない面が、はっきりとわかります。
これに対しては別に思い悩む必要はありません。
素直に自分の存在の内側を見つめ、自分の今の状況を理解し、大げさに喜んだり、心配したりすることなく、ただアンバランスな面をまっすぐにすればいいのです。

自分を一日だけ、批判的に観察すれば、どのようにすればいいかがわかります。
何もむずかしいことではありません。
細かく注意をはらいつつ、自分が学んだことを実行してください。

自分の知的機能を使いすぎていると感じたら、意識的にそれをやめ、それ以外のものを使うようにしてください。
自分の内部に入り、問題を感じるようにしてください。
いつも感情で動いている人は、感情的反応をわきにおいて、理性的機能を使って問題を処理してください。

ものにこだわらないという方法をとる場合、常に忘れてはならないのは、「愛」は絶対的になくてはならないものだということです。
そして、自分の心をあけわたすという方法を選んだ人は、理性という機能を常にたずさえておく必要を知っておいてください。
バランスを保つためには、愛と理性のふたつが一緒になくてはなりません。
そして、バランスと調和を保ちながら求道をつづけていくと、たゆまず、確実に覚醒への道が聞けてきます。

質問:
なぜバランスを保つことが大切なのですか。

エネルギーのアンバランスは人を苦しめつづけるので、ほとんどの人間が、エネルギーのバランスを取り戻すために転生をくり返します。
感情や精神や肉体上のアンバランスが頭をもたげ、人を混乱させ、単純な問題もその本質を見えなくします。

大きな愛の心を持つ人でも、すぐにしょげかえったり、怒りっぽかったりすることもあります。
このような人は、こういったエネルギーを「静める」ために、知性に根ざす論理的機能をもっと使うことが役に立つでしょう。

その反対に、多くのインテリと言われる人は知的活動に片寄っていて、直感的機能がおとろえています。そのような人は自分のなかの感情的側面に接して、バランスを取り戻す必要があります。

大きなアンバランスの問題がないときのほうが、「大いなる自由」へ向けて確実な前進をしやすくなります。
ほとんどいつも知的機能または感情的機能のどちらか一方だけを使い、もうひとつの機能をおろそかにしている場合、その人はバランスが欠けていると言えます。
現代ではこのようなアンバランスがむしろ助長されています。
男性は知的性格をもっており、女性は感情的性格を持っていると広く信じられているからです。
このような信念体系は、人がひとつの面から他の面へと自由に移行するのをさまたげます。

よくバランスのとれた人とは、これらの両方の側面を自由に使い、人の心がよくわかり、深い愛情をもって人を愛することができ、しかも、感情や知性におぼれることがない人のことです。

質問:
どうすれば、ものにとらわれないようになれますか。

今日の地球の生活でよく見られる状況を例にとってみましょう。
交通ラッシュのなかで車を運転するというのはどうでしょう。
一日中働いたあとで家路につきます。
まわりは車でいっぱいです。
とても疲れていますが、道路が混雑しているので、家につくまで長時間かかるだろうということが予想されます。
すると突然、あなたの前の車がひどい運転をしはじめました。(ひどいというのは、こうあるべきとあなたが考えるやり方以外のすべてです)
このときこそ、ものにとらわれないことを学ぶチャンスです!

あなたはまず怒りの感情がわき起こってくるのを感じます。
あなたの肉体のなかには、はっきりとした怒りの動きがあります。
このプロセスの最初の段階では、怒りが最初に起こるのを防ぐことはできないでしょう。
それでもけっこうです。

しかし、その次にあなたがすることがとても大切になります。
怒りを感じた瞬間に、「これは怒りだ」と言うのです。
心のなかでその感情に名前をつけるのです。
「これは怒りだ」というように。

自分のなかではっきりさせなくてはならないのは、怒りというものが存在し、その怒りの状態にいる誰かが存在しているということです。
「私は怒っている」と言ってはいけません。
それでは、自分と怒りがひとつになってしまうからです。
「これは怒りだ」と言えば、存在はふたつあることになります。

次のステップは、自分が起こす反応を選択することです。
このような場合にも自分で選択することができる、ということがやがてわかります。
このことが、ものにとらわれない境地へと導いてくれます。

もしあなたの反応が、自分でコントロールできないようなエネルギーであったなら、自分の反応を選択することは全くできないでしょう。
あなたはそれにコントロールされ、どんな感情でも、そのときあなたの体のなかを流れる感情を、無意識に受け入れるだけになってしまいます。
けれども、自分と感情とは一体ではない、ということがすぐわかるようになります。
そして、ここで、あなたは選択するのです。
これまでと同じような怒りの劇を自分はまたくり返したいのだろうか、と自問してください。
それがどんな筋書きかはもうわかっています。
相手の車をやりこめようとして、クラクションを鳴らし、げんこつを振り回し、怒鳴ります。
これらはすべて筋書きのなかにあります。
仕返しをしようとします。
ときには復讐をするために、自分自身や自分の車を痛めることさえあります。

やがて、相手に怒るかどうかは関係ないのだ、問題の本質はそこにはないのだ、ということがわかるようになります。

「大いなる自由」を求めるのでしたら、自分のパワーは、選択することにあるということを理解しなくてはなりません。

それを理解した瞬間、あなたはほかの反応を選ぶことができます。

自分のなかで、エネルギーがわき上がってくるのに気づいてください。
そのエネルギーの存在を認め、その感情に名前をつけてください。
名前をつけることを通して、それから自由になれます。
というのは、それによって、すでに反応を自分から一歩離れたところにおくからです。

それから、その反応を変えたいと思わなければなりません。
そうすればできます。
まず、「たった今、私はちがうものを選ぶのだ」と言うことから始めます。
そして、選ぶのです。

こだわらないことを実行するのはむずかしくありません。
むずかしいのは、むしろ、ものにこだわらないようになりたいと決心することです。
なぜなら、自分に正直であれば、自分が攻撃されたときには、仕返しをしたくなるということを認めざるを得ないからです。
恨みを抱き、自分にされた仕打ちをいかにして相手に返すかと、あれこれ考えます。
誰もあなたを止める者はいないでしょうから、どうぞ思いのままに攻撃してごらんなさい。

けれども、そうやっていくと、結局傷つくのは自分であるということがわかるし、そんな生き方はとてもつまらない生き方だと気づきます。
怒りや復讐よりも、自分で選択するやり方のほうがずっと生き生きした生き方だということがわかります。

あなたは神の共同創造者なのですから、どうせなら、生き生きとした喜びにあふれ、永遠性を持つやり方で、神とともに創造する仕事を始めたほうがましです。
そして、敵対心に満ちた、ネガティブで他人を無力にするようなやり方は、やめたほうがよくはありませんか。

そのためには、完全に自己の内部にいることです。
その瞬間に起こっていることを、明確に意識することです。
車を運転しているときは、ハンドルにある自分の手、アクセルをふむ自分の足、自分の頭のまわりを吹く風の感覚、空気のにおいなどを意識することです。
これらのすべてを敏感に感じていなければなりません。
怒りや恨みがわき起こってきたときに、あなたがそこにちゃんといることができるようにです。
そうすれば、上司にこう言えばよかった、などという夢想から現実に戻ってくる必要もなくなります。
瞬間的に自分の感情を感じて、認めることができるので、それを変えるチャンスに恵まれます。
したがって、昔ながらの反応から自由になることもできます。

しかし、あなたの意識がそこになかったら、それが非常にむずかしくなります。
感情とそれに対する自分の反応はあっという間にやってくるので、つい以前どおりのやり方で反応してしまいます。
これらはすべて、あっという間に起こります。
ですから、あなたは一瞬にして自由になることもできるし、一瞬にしてとらわれることもできるのです。

そこで、自由になるチャンスを得るには、あなたの意識がどの瞬間においても、今自分のいるところにおかれていなければならないのです。

質問:
どうすれば、物や欲望などに対する執着から自由になれるでしょうか。

とてもよい質問ですね。
自分が持っている執着のうち、まず最も執着しているもの、最もはっきりしているものから始めてください。
それが何かわかったら、次に、なぜそれから自由になりたいのか自分に聞くのです。
欲望が何であれ、それから自由になることが自分にとって大事であり必要なのだ、とあなたが信じることが不可欠です。
人や物や主義などに執着することに何らかの価値を見いだしている限り、それから自由になりたいとは思わないはずです。
自分自身と戦うことはできません。
自分がまだ執着していたいものから、自分を引き離すことはできません。
そこで、まず最初に、自分が何かに執着しているという事実に直面することです。

強く執着しているものを選んでください。
夫や妻だったり、お金だったり、権力やセックス、または酒や麻薬などかもしれません。
いろんな可能性があります。
そこで、それらに執着することによって自分が得ているものは何か、リストを作ってください。
この執着しているものがなくなったら、どうなると思いますか。

たとえば、愛情関係をとってみましょう。
誰かに非常に強く執着していることはよい生き方だ、という錯覚を人々は抱いています。
それがよいことかどうかは、どんなふうにあなたが相手に執着しているかによります。
愛情にもとづいて執着しているのと、怖れにもとづいて執着しているのとではちがいます。
多くの愛情関係が、怖れ、相手を失う怖れに根ざしています。

自分の相手があなたの人生から去っていったらどうなるか、自分に聞いてごらんなさい。
こういう角度から自分の関係を見てみると、自分と相手との関係が、自分にとってどういう意味を持っているのか理解できます。
この相手がいなくなったら、あなたはもう愛されるに値しないのでしょうか。
あなたを愛してくれる人は、もう現れないのでしょうか。
あなたはひとりぼっちになるのでしょうか。

自分が非常に強い執着を持っていた相手を失った人は、自分はもう誰からも愛されない、という思いに打ちひしがれます。
そういう人は、自分の価値が何かという判断を他人の手にゆだねてしまったのです。
これはとても愚かなことですし、とても非現実的なことです。

自分の愛情関係を見て、自分がそれにいかに執着しているかがわかると、自分を非力なものにする関係に、自分を巻きこんでしまったことに気づきます。
そうすると、その関係が自分の人生のプラスではなく、マイナスの面であることが見えてきます。
そこで、その関係から自由になりたいという自分の気持ちに、全エネルギーをそそぐことができます。
執着から自由になって、無限の愛にもとづいた人生をあゆみつづけてください。
そのほうが、ずっと大きな満足感が得られます。
愛情関係はつづけても、所有欲は捨て去ってください。

今度は、物に執着している人、そうですね、車に執着している人について話しましょう。
こういうタイプの執着は、たいした問題ではないように思えるかもしれませんが、そうでもない場合があります。
その車とか物とかが、その人にとってどんな意味があるかによるのです。
非常に強い物質欲にとらわれている人にとっては、車は、自分の所有物に照らし合わせて、自分の価値を判断するということを意味します。
これがその人の価値の基準なのです。
執着しているものが車であろうと、人間であろうと問題ではありません。
自分以外のものに執着していると、それがなくなったら自分の価値は減ると感じます。

自分の執着が見えたからといって、自分の愛情関係から抜けだしたり、自分の所有物を全部売ったりしなさい、ということではありません。
するべきことは、その執着の後ろに空虚感、疎外感、空しさがあることを認めることです。
そのような空しさを埋めようとして、人や物にしがみつくのは、健康で自由な生き方ではありません。
このことを理解すると、ものにこだわらない境地への一歩をあゆみはじめたことになります。
自分の執着を捨てる必要を理解するのがその第一歩です。

現在あなたは、自分自身の最も深いところから来る真の望み、「大いなる自由」を得るという望みにそった生き方をしています。
海辺で砂の橋を作る子供のように、孤立の幻影を築きつづけるのもけっこうです。
それも楽しいでしょう。
しかし、あまり深刻にとらないことです。
自分の執着のすべてを見る場合、深刻にとらないというのはよいやり方です。
つまり、楽しいし、役に立つけれども、あまり深刻にとるべきではないということです。
ほかのすべてを忘れるほど、自分の愛情関係を深刻に考えないことです。
自分の所有物にあまりに大きな価値をおいて、それを失うことも考えられないほど、夢中になるべきではありません。

これらの物が、あなたの人生に自然に入ってきたり、出ていったりするのにまかせなさい。
そして、喜んで興味をもってそれらの動きに自分も参加するのです。
ものにこだわらなくなる必要が理解できると、あなたの意思は、「神なる意思」とむすばれたことになり、このプロセスはずっとやりやすくなります。

次のステップは、最も強力な道具として「気づき」を使うことです。
気づきは自分の本質を思いださせてくれます。
ものにこだわらないのも、それを思いだす方法のひとつであるし、すべてをゆだねるのも、思いだす方法のひとつです。
これらは、あなたが自分の真の姿でないものの幻影から、自分を解放することができるように、あなたに自分の本質を思いださせてくれる方法です。

物に対してそれを所有するに値すると考え、特定の人に対して関係を持つに値すると思い、人や物が自分の最大のエネルギーを使うに値すると信じている限り、こだわりを捨てることは決してできません。

人が最も望むことが現実となるのですから、「大いなる自由」を得たいという深い望みを自覚するまでは、「自分と神、自分とまわりの世界とは、切り離された別のものである」というエゴが創りだした世界観に、したがいつづけることになるでしょう。
ある人との関係がほかの人との関係より大事だというのは、すべては「大いなる一」であることを否定することです。

エゴは特別の愛情関係を生みだして、「あなたは他人とはつながっておらず、したがって特別である」と思わせようとします。
けれども事実は、あなた方はすべて同じなのです。
今までもずっとそうだったし、これからもずっとそうです。
最も高貴な人から最も堕落した人まで、すべての人は同じです。
そして、あなた方のあいだのちょっとしたちがいなどは幻影にすぎず、自分を自分でしばるために維持しているものです。
そんなものはさっさと忘れてしまってください。
無意味なものです。
そんなものは、無のなかに落としてしまってください。
どうせ無から生まれたものです。

今この瞬間にこそ、「大いなる一」の完全性が存在することを、かたく信じてください。
この完全性に触れることができるのは、今においてほかはありません。

質問:
欲望を取り除く週程は、基本的に自分の欲望に注意をはらうことにあるように思えます。
注意をはらうことは「ものにこだわらないこと」や「すべてをゆだねること」になりますか。

質問のなかに答えがあります。
人が注意をはらえるのは今この瞬間だけです。
実に単純なことです。
一瞬一瞬に意識があるときは、あなただけがそこにいて、それ以外のすべては存在しません。
そうした瞬間には、自分とまわりの世界が切り離されていると感じることはできません。
そこにあるのは、あなたと、あなたのまわりのものと、あなたのなかにあるものだけです。

注意をはらっていれば、それが何かはっきりとわかります。
ですから、やはり「注意」がキーポイントです。
それでは、すべてをゆだねるというのは、注意をはらうという観点からどう考えたらいいのでしょうか。
何に自分をゆだねているのかが焦点となります。
その瞬間にあなたが身をゆだねるのは「大いなる唯一神」です。
身をゆだねるというのは、一度やってもう忘れてしまうというものではありません。
すべてをゆだねるというのは、その人の「あり方」の問題であり、毎瞬、毎瞬、広大無辺なものにつながっているということです。
そして、「広大無辺なもの」につながるためには、「広大無辺なもの」の存在するところにいなくてはなりません。

それはどこだと思いますか。
それはここです。
「未来」とか「過去」などというものは存在しないのですから、ここしかありません。
「広大無辺なもの」に参画するには、ここにいなければならないのです。

人が、他人や出来事や自分の感情などをコントロールしようとするときには、過去の出来事や未来に対する願いに動機づけられています。
コントロールしようとしないでください。
あるがままにさせておくのです。
あるがままにさせることによって、その瞬間における心の平安や知恵や「大いなる自由」がやってきます。
今あなたの前にあるものこそが、あなたが本当に知ることのできる唯一のものだからです。
生があり、死があり、生と死のあいだのすべてのものがそこにあります。
「大いなる全体」のすべては、瞬間の連続にすぎません。
そして、それがすべてです。


『バーソロミュー
  ―大いなる叡智が語る愛と覚醒(めざめ)のメッセージ』
    (バーソロミュー 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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