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ある晴れた朝に

私はあなたの人生の日々を通して、つねにあなたとともにある。
あなたの大切な魂が、叡智、慈しみ、そしてすべての生命を抱く愛の華麗なる花へと開いていく中で。

私たちが分かち合ってきたときはすばらしいものだった。
あなたの人生を訪れ、その片鱗にでも触れることは、私にとって大変なよろこびだ。
皆と分かち合ってきたことは、すべて私自身もしてきたことだ。
皆の一人ひとりは私自身、つまり私が深く愛し、これからも愛する父なる存在であるからだ。
皆という貴重な存在の進化に貢献できることは、すべて「われ在るもの」の王国である父に栄光を与え、その力を拡大するのである。

私は自分がかつてその熱烈なる一員であった人類の兄弟としてやってきた。
ここに人間として生き、あなたが体験していることすべてを体験した。
あなたと同じ絶望に生き、同じ哀しみの涙を流した。
あなたと同じ夢を見て、同じよろこびを知っていた。
私はあらゆる次元を訪れたが、すべての体験の中で最も深遠だったのは、皆の中に人間として、神なる人間として自分がここ地上界にいたときであり、恐怖や絶望や、誰もが知っている栄光の刹那を体験しているときであった。
私がここに戻ってくることを選んだのは、あなたたちのことをよく理解しているからだ。
そして、理解することとは、愛することなのである。

私は、あなたを救うために来たのではない。
もともと何から救えばいいのかという、その対象が存在しないからだ。
私がやってきたのは、遠い昔にあなたが忘れ去ってしまった、自分のすばらしい血筋のことをあらためて思い出してもらうためであり、これからすぐに目にするであろう栄光あふれる未来について語るためだ。

私がやってきたのは、あなたが人生で自己を表現していく選択肢はもっともっとたくさんあることに気づき、もしそれがあなたの意志であるなら、そういう選択を実現させてくれる知識をもたらすのを手助けするためなのだ。
私があなたに願いたいのは、調和のとれたよろこびあふれる人生への進化のために役立つ叡智を、自分が決めたときに、自分のやり方で、人生の中で実践していくということだけだ。

この次元での私の人生の道は、未知の神になること(結局それは自分自身であることをのちに発見するのだが・・・)、そして次元を超えて永遠の冒険の中に戯れることだった。
それは実現し、いまもそれは続いている。

私がしたように、この生にあるすべてを抱き、受け容れるとき、そういう冒険があなたのことも待ち受けていることを伝えるために私はここに来ている。

私が与えた叡智を生きるとよい。
それを自分の存在の内に持つのだ。
そうしたとき、望むことができるより、あるいは考えられるよりはるかに偉大な宝を自分は与えられたことにすぐ気づくことだろう。

学んだこと、聞いたこと、読んだことを、単純明快に実践しよう。
単純であればあるほど、あなたはもっと強力になる。
何かが欲しいなら、それを求めるのだ!
それをあなたにあげられる力を与えられた人間はこの地上界に誰もいない。
父なる存在がそれをあなたに与えてくれるよう、自分の主=神のレベルから求めるのだ。
そして、それが何であろうとも、父はそれを持っているのを知ることだ。

では、どこに行ってそれを求めればいいのか?
内なる寺院だ。
自分自身の思考の静寂の中で願うのである。
その声は必ず聞かれることだろう。

あなたが誰だか私は知っている。
何をしているか、何を夢見ているかも知っている。
誰も見ていないと思うなら、実はあなたは真夜中の天界にちりばめられた星と同じだということを知らなければならない。
つまりあなたは誰もが見える場所にいるのだ。
すべてのものは、あなたが誰で、何をしているか知っている。
特に私たちのような目に見えない世界の者はなおさらだ。

あなたが誰であるかが重要なのは、あなた自身にとってだけである。
すべてが語り尽くされ、し尽くされたとき、結局頼れるのは、自分と、全能なる神という、自分の内にある大切な光だけなのである。

自らを平静に保つことだ。
そして独自性のある人間であれ。
あなたの光、そしてほかが見るあなたが、ちょうど真夜中の星のように明るく、美しくなるように、自分を在るがままで愛するのだ。

私はわが臣民によって、覚醒した者ラムサと呼ばれた。
そしてその名をこの瞬間まで使ってきた。
だが、覚醒した者と言われるのはどうかと思ってしまう。
私は、他の誰もが日々のことで忙しくしている間、ひとり平原にすわっていた人間だった。
だが、その日常生活から孤立した自然の中で、私は「未知の神」を見つけた。

わが愛する兄弟たちよ、世界は都にあるわけではない。
そこは確かに生命のあふれる場所だ。
しかし、偉大なる生とは、都から離れた場所、巨木の根もとや、空気は澄みきって、風は冷たくすがすがしい、雪をいただく山の頂上、あるいは広大な砂漠、無限の海などに見いだされるものだ。
この地上界には、皆のほとんどが知っている以上にはるかに奥深いものがある。

そのような場所でひとりとなり、真夜中の空や、夜明けの暁光のときまで昇っては沈んでいく月とともにあることに平穏を感じるまでは、あなたは真の意味で生を知ったことにはならない。
そしてあなたのもとにやってくるすべての知識、すべての夢を通して、あなたもまた覚醒した者となる。

なぜなら、大事なことは何かという問いの答えは、そこでは見事に変わってしまうからだ。
自然の意識は、あなたを受け容れる。
受け容れるのである!
そして、あなたも自然自体のようにときのない存在となることを期待してくるのだ。
そのような状況でこそ、あなたはこの神となり、人生の一日一日をしっかりと地に足をつけて生きるようになるのである。

「未知の神」とは沈黙、偉大なる沈黙だ。
が、語ることを許すなら、それはあなたに語りかけてくる。
殻を飛び出し、この大地の一部となるのだ。
その場所をすべて訪れることだ。
その場所と一体となるのだ。
身につけた絹や宝石をはずし、靴を脱ぐ。
いまどき流行おくれの簡素な格好に身を固め、あなたがつくり出したこの天国で、神を体験しに出かけるのだ。
これはあなたにぜひしてもらいたいことだ。
このような場所に行き、その途切れなき、永遠の意識の一部となるまでは、あなたは真の意味で生きたことにはならないし、あなた自身の姿であるこの神を理解できるようにもなれないだろう。

自分のすべてをかけ、わが内面に燃える父なるもののレベルから、あなたがどんなに大事な存在か、そしてどれほどあなたが愛され、また必要とされているかを知ってほしいと私は願っている。

自分が死のうが生きようが誰ひとりとして気にする者などいないと思うとき、私はあなたを思っていることを知ってほしい。
自分の存在の大切さが見失われ始め、誰か仲間が必要だと感じたとき、私の名を呼ぶことだ。
私はそこにいることだろう。
この地上界のあなたの人生の日々を通じて、愛と希望とよろこびをはらんだあなたの大切な魂が、叡智、慈しみ、そして見えるもの見えぬものすべての生命を抱く愛の華麗なる花へと開いていく中で、私はつねにあなたとともにある。
その開花にともなう感情の嵐の中で、ラムサという名前など聞かなかったらよかったと思う瞬間もあることだろう。
しかし、それよりもはるかに偉大なる瞬間は、あなたの内面で神が見え、実感され、それを知ることができたときなのである。

さあ、これまで私は、考えられるあらゆる言い方で、何度も何度も何度も、あなたが知ることのできる最も重要な真実を語ってきた。
それは、あなたは神である、ということだ。
そしてあなたは、ひょっとしたらそれはまさに真実なのかもしれないと気づき始めている。
愛すべき主たちよ、それをはっきりと知るということは、一瞬一瞬あなたの人生が開花していく過程を通じてのみ可能になるのだ。

だが、あなたには次のことも知ってほしいと私は願っている。
ある晴れた朝、夜明け前の時間、あまりの静寂の深さに、静寂そのものが聞こえるようにさえ感じられる中でベッドに横たわりながら、あなたは夢でない夢から目覚めることだろう。
部屋を包む闇の中で目を開いたあなたは、寝床から起き上がり、そこからしか光が見えない窓のところに歩いていく。

朝露で霞んだ窓を通して朝の暗い灰色の世界を見つめ、壮麗なる輝きを放つ光をもたらす前触れをはらんだ天界をながめる。
暗闇にちりばめられてまたたく小さな宝石のような輝きの美を見つめていると、月がすでに昇っては沈んでいき、いまは地平線に静かにとどまりながら、自分よりも偉大なる光を待っているのがわかる。

たったひとりで、どんな言葉も超えた感情にふるえながら、あなたはそこにすわり、いま目覚めようとしている生の静寂をじっと見つめている。
やがて、林の中から鳥が一羽、羽ばたく音が聞こえる。
あなたと同じように、その鳥も寝床から起き上がり、朝に敬意を表する準備をしているのだ。

希望とよろこびにあふれた、その甘いやわらかな歌に耳を傾けながら、あなたは自分の視界を東に向け、遠い地平線に目をやる。
そこには紫色に包まれた寂しそうな山々が、まるで生命を守る歩哨のように力強く、高くそびえ立ち、薄いバラの色を背景にそのシルエットを浮かび上がらせている。

そして、地平線へと沈黙の旅をしてきた雲は、来たるべき夜明けの黄金にふちどられている。
この壮麗なる風景とその存在の純粋さとひとつとなったあなたは、何ひとつ物音を聞かない。
まもなく見られる地平線上に輝く栄光という、壮大なる出来事への期待にふるえる自分自身の心臓の鼓動だけがその例外だ。
夜のカーテンが朝に光の中にゆっくりと消えていくにしたがって、星は徐々にその光を失い、神秘の月は、これから始まる夜明けへと自分の美を明け渡していく。

この瞬間の美と歓喜にとらわれる中で、あなたのもとにある気づきが訪れる。
この朝の途切れなき継続性なしには、あなたのすべての恐れ、心配、夢あるいは幻像も、何の存在もないものとなってしまうのだ。
まさにその瞬間、金色に輝く山々のうしろから、黄金の槍をまるで輝ける希望の光のごとく、霧むせぶ渓谷へと突き刺しながら、火の玉のような宝石がその姿を現す。
偉大なる太陽神がだんだんと昇ってくるにつれて、空は青や紫やバラ色、オレンジや深い赤の色で燃え上がる。
鳥たちはそのさえずりの声を上げ、飛び回り始めるなか、世界は朝のすばらしき呼吸と期待に目覚めていく。

この壮麗なる風景、時代を超えてあらゆる瞬間を目撃してきたこの風景に見とれ、この神秘の感情があなたの存在すべてを包み込んだとき、あなたはまさに自分が太陽神(ラー)の生命そのものであることを悟り、天に舞い上がるほどの気持ちとなる。
あなたはまさに遠い地平線に強く静かにそびえ立つ、生命を守る歩哨そのものなのだ。
あなたはまさに、目覚める夜明けの色であり、林の中にある木々の枝の動きであり、窓辺に落ちる朝露の一滴であり、そして朝鳥の甘くやわらかなよろこびの歌そのものなのだ。

そして、次に見る夜明けは「私そのものである神を見よ」という視点から見るものとなる。
そしてあなたは、在りて在るものすべての壮麗さ、美しさにとらわれるようになる。
なぜなら、いまやあなたは光と、そして力(パワー)と一体であり、言葉を語らぬこの力の途切れなき継続性とひとつになった存在だからである。

真実を学ぶのと、その真実になるのはまったく別のことだ。
しかし、そんなことをまったく思ってもいないとき、あなたは起き上がり、このような壮麗な風景を空に見る。
そして、あなたの存在そのものの平穏を通じ、この真実を「知っている状態」が現実となるのだ。

ある晴れた朝に・・・。
すると、あらゆる言葉、あらゆる混乱、怒り、自己の拒絶、神を理解することの複雑さ、探求、本や教師たち、それらはすべて終わりを告げる。
静かに、それを表す言葉もない、深遠なる気づきを通して・・・。

あなたの朝はもうすぐやってくる・・・私の朝がやってきたように。


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

体験のすばらしさ

あなたは愛されている。
愛についてあなたが持つ理解を超えるほど愛されているのだ。
それは、あなたが神、自分が誰か、何者なのかを理解しようと苦心している神として以外見られたことがないからだ。

思考の探索という冒険の中で、あなたは人間という細胞体を通して自己を表現することを選んだ。
それは、人間の体験、つまり物質という限りある形体に生きる神の体験について、学ぶべきことをすべて学ぶためだった。
この体験は、神について完全に理解するために必要なことだ。
なぜなら、限りある状態を理解する前に、いったいどうして限りないという状態が理解できるだろう。
純粋な思考の膨大な広がりから物質という制限まで、神のすべてを理解する前に、神である自分のすべてを理解することがどうしてできるだろう。
悲しみ、限界、そして死という幻を体験する以前に、よろこび、自由、そして永遠をどうして理解できるだろうか。

この次元でのゲームや幻をあなたは大げさに、ひどく真剣に演じているが、その単なる目的とは、教え、成長させ、覚醒させること、言い換えればあなたを理解するのを助けるだけのことである。
この人生とは、叡智という、人生で得られる最高のもののために自分がさまざまなゲームを演じ、幻を体験する舞台にすぎないのだ。

では叡智とは何か。
それは人間の内にある神にすべて属し、人間の魂の中に集められるすばらしき宝だ。
叡智とは、あなたが思考(つまり神)の領域への冒険すべてから得てきた感情の蓄積であり、この次元を去るときにあなたが持っていく、ただひとつのものなのである。
あなたのすばらしい衣服や、邸宅、すごいスピードで走る自動車などを持っていくとでも思うのだろうか。
いったい何を持っていくと思うのか?
自分そのものを持っていくのだ。
つまり、生という本質の内部への旅で得られた感情すべてなのだ。
感情こそが、人生の真髄なのである。

圧政や宗教、政府の支配などの圧力、人種間の分断と迫害、あるいは男女、兄弟同士の分断など
を通じて人類が学んできたものは、そのすべてが、神の地位をおそらく最も衰退したところにまでおとしめることを通じて実感されたものと言えるだろう。
だがそれでも、戦いで他者を征服したり、ほかの人間の自由を拒んだり、女性をおとしめて、男よりも劣る存在にすることは、どれも実際に体験してみなければ、それがどんな感じかわからないものばかりなのだ。
自分でそういうものを夢見てはそれを現実化し、その夢を意図的に体験する創造主にならなければ、それを感情として知ることはけっしてできなかったのである。
しかし、幾度もの生を通じ、一瞬一瞬を生きることによって、それはあまりに確立された現実となってしまい、ほとんどの人間は精神に異常をきたし、不安となり、この夢の中に埋没しまったのである。

人類が自分たちにこれほど野蛮な行ないをするのを許すこの神はどこにいるのか、とあなたは訊くことだろう。
そして、こんな残虐行為が起こるのを許してきたなら、その神の愛なるものとはいったいどこにあるというのか?
それは、まず神はいつもそこにいたのだ。
神はあなたのゲームや幻像のすべてとなってきたからである。
そして、神は間違いなくあなたのことをずっと愛してきた。

なぜなら、あなたの夢をあなた自身がつくり出したそのままに体験することを許してきているのだからだ。
あなたは、もともと自分でこの夢をつくり出したことを忘れてしまったにすぎない。
そして、いつでも自分の好きなときにそれを変える選択があることも。

あなたは自分の幻像を大いなる苦難と哀しみへと織りなしてきた。
自分の身体をこわすような生き方もしている。
心はどこかにやってしまった。
偶像を崇拝している。
他者に対して批判の目を向ける。
やたらと価値判断を下し、憎しみにあふれ、所有欲が強く、つねに怖がっていて、そして間違いなく倣慢だ。
この目的は何なのか。
それは、そういう人生を生きることがどういうことかを理解することだ。

では、求める最終的な結果とは何か。
けっして死なず、永遠に生きること。
天の王国と呼ばれるものを理解し、心に抱くこと。
そして、神の顔を見ること。
それが自分自身であるのに目覚めることなのだ。

ここにいる高貴な存在たち、自分の不安や、取るに足らない思考の罠にはまっている者たちよ、あなたは自分が演じてきたゲームなどとは比べものにならないほど偉大な存在なのだ。
そのゲームが、幻像の影の奥深いところに、あなたの真の姿である崇高な美を隠してきてしまったのだ。
自分がどれほど強力で華麗な存在であるかを知っていたなら、あなたはいまのように自分を罵ったり価値判断を下したり、あるいは変質させてしまったりはしないことだろう。

そのあなたのところに私はやってきた。
私はこれまでの、そしてこれからの皆の姿すべてである。
私がきたのは、すでにあなたが自分の内に持っている「知っている状態」を再び呼び覚ますためであり、自分を見失い、罪悪感や恐れ、そして自己否定に苦しむことをなくすためなのだ。

私はなぜ皆をそれほど深く愛するのか。
それは、あなたは、私でもあるからだ。
あなたがそうであるものはすべて、あなたという存在の広がりすべてが、私にもなる。
なぜなら、私は、あなたがもともと自分の幻像をつくり出す根本となる広がりそのものだからだ。
「在るもの」である私は、ここでのふつうの言葉では表現できない愛だ。
なぜなら、そこには何の条件もないからである。
在るがままでいる皆を私は愛しているのだ。
どういう形で表現をしていても、あなたはそのままで、私が深く愛する父なる存在そのものだからである。

さて、今度は皆が自分の過ち、欠点と考えるものについて語りたいと思う。
人間が創造した正しい―誤り、あるいは完全―不完全という概念は、同時に罪悪感、後悔の念という落とし穴をつくり出し、それが人生において成長していくのをきわめて困難なことにしている。

しかし、皆に言いたいのは、この次元での数多くの生を生きたということだけをとっても、これまで皆がしてきたことで、何ひとつ悪いものはないということだ。
そして、いいものも何ひとつないのである。
それは単に、いまの自分をつくるのに役立つ生の体験であったにすぎない。
そしてそれこそが、いちばん大切ですばらしいことなのである。
なぜなら、このいまという瞬間のあなたは、この驚くべき旅を始めて以来、これまでで最も偉大な存在だからだ。
それは、あなたの叡智が過去よりも偉大だからなのである。

皆がしてきたことはすべて、私も同じことをしてきている。
皆の間違いと同じ数だけ私も間違いを犯してきた。
自分の内に強さと美徳が欠けると皆が価値判断を下している面についても、私もやはりそう思っていたことがある。
しかし、自分の弱さを知るまでは、強さがわかることはけっしてなかっただろう。
自分から生命の潮が引いていくのを見るまでは、それを愛することはなかっただろう。
そして、人間の残虐さをさげすむまでは、皆をひとり残らず心に抱き、受け容れることもけっしてできなかっただろう。

これまで皆がしてきたことはすべて、それがどんなに下劣で卑しいことであろうとも、それは単に自分のために学びの機会をつくる目的でしたことなのだ。
その学びを通して、皆は傷つき、苦痛を味わい、悲しみ、そして自分をおとしめてきたのに、そこから再び立ち上がってきた。
なぜなら、自分の真の姿である美を知り、心に抱く準備ができているあなたが、いまここにいるからなのだ。

自分が失格だ、あるいは何か過ちを犯してきたと考える人には次のことを思いめぐらせてほしい。
生まれた瞬間から、あなたも、そしてあなたの愛すべき兄弟たちも、すべての想念を一つひとつ感情面で理解していくという壮大なる旅に出発した。
あなたの魂は、あなたが自分の存在の神、あるいは精神を通して受け容れる想念〈つまり神の個々の側面〉の一つひとつの感情を蓄積するようつくられている。
自分の魂の内に受け容れ、感じてはいるが、まだ完全に理解していない想念については、魂はそれを直接体験するようあなたをつき上げる。
なぜか?
その想念のすべての側面について、体験を通してはじめて見える感情面での完全な理解を得るためだ。
その体験が、生というものである。

永遠というときを通じて、あなたは進化し、生を創造的なものへと広げ、その創造性が現実化したものをすべて体験していくようつき動かされてきた。
思考から光、物質、形あるものへ、そこから再び思考へ、そして愛とよろこびから羨み、憎しみと哀しみへ、そして再びよろこびへと戻るプロセスだ。
あらゆる形の思考、価値観、すべての感情を理解するというその命を満たすため、あなたの魂は体験から体験へ、冒険から冒険へとあなたを動かしてきた。
あなたが思考のすべてを知り、理解できるようにである。
そして、思考のすべてとは、神のすべて、そして自己のすべてのことなのだ。

魂は、まだ経験したことがないものを渇望する。
魂がある体験を渇望しているとき、それはその体験からの感情のデータを必要としていることを意味する。
そのため、魂は欲求というフィーリングをつくり出し、それがあなたの存在すべてをとらえ、冒険、体験へと駆り立てていく。
そして、その体験が終わり、そこからくる感情が収まるとき、この地上界にあるすべての黄金よりも高価な宝をあなたに与えたことになるのだ。
あなたを叡智の中へと一歩進めたのである。
それは、もうこれは体験する必要はない、そこから得られる理解はすべて得た、とあなたの魂が言っていることを示している。
あなたの魂は、また別のことを求め、あなたは何かほかのことをするようつき動かされていく。
それは必要だからであり、そうしたいからだ。
あなたの内にある炎が、すべての生を体験するよう迫るからなのである。

自分が何かを体験しようとその第一歩を踏み出したとき、それが自分にとって間違っているとか、失敗するとか知りながら、なおかつそうしたのだとでも思うだろうか。
そんなことはない。
あなたは大いなる好奇心、関心、それによろこびをもってすべての冒険に脚を踏み入れたのである。
当初はその結果がどうなるかあまりわかっていなくても、まだその体験がないという理由だけで、先に進んでいったのだ。
それは新しい、わくわくするような体験で、あなたはそこから何かを学びたかったのだ。
その冒険では確かに痛みを体験したかもしれないが、それはあなたが「痛み」という感情を理解するのに役立ち、生というもの全体への理解をさらに豊かにしたのである。
したがって、その体験はあなたの人生で、ある明確な目的を持っていたのだ。
そして、魂があなたに体験するよう熱望した、別の感情と叡智の冒険へと向かっていったのだ。
それは、あなたの魂の内に、幸せと満たされた感覚とをもたらしてくれたのである。

すべてあなたがすることは、その瞬間、自分にとって正しいことをあなたは自分の魂の内で知っているのだ。
その冒険を体験し、そこから生じたフィーリングが落ち着いて、ひとつの智慧となったあとにはじめて、ひょっとしたらもっといいやり方、あるいは違うやり方ができたかもしれないと確かめられるのである。
しかし、まず実際にその体験に一歩を踏み出し、そこから智慧という宝を手に入れるまでは、もっと良い方法があったことはわからなかったはずだ。
そんなことで断罪されるべきなのだろうか。
そんなことはない。
それは純真さであり、これこそ学びというものだからだ。

失敗というのも、何かを失敗だと信じる者たちだけの現実だ。
だが、本当の意味で、生きることに失敗する人はいない。
ひとりたりともいないのだ。
あなたがしてきたすべての行為にもかかわらず、それがどんなに卑しく、軽蔑に値するような秘密であっても(実はそんなことはないのだが)、あなたはいまでも生きており、それこそが奇跡的な出来事なのである。
失敗とは、生きるプロセスが止まることだが、何も止まってはない。
なぜなら、生は途切れなく続くものであり、一瞬一瞬、前進しているものだからだ。
だから生きるという過程では立ち止まったり、逆戻りすることはできない。
生が途切れなく広がっていく中で、一つひとつの瞬間は、さらに偉大な、そしてそれよりもっと偉大な叡智をもたらし続けていくからである。

あなたは失敗したことなどない。
いつも学んできたのだ。
不幸にならずして幸せというものをどうして知ることができるのか。
自分の目標に近づいてみて、それが自分で思い描いていたものと違う色合いのものだったとわかる前に、どうしてその目標が何かを知ることができるのか。

あなたは過ちを犯したこともない。
一度たりともないのだ。
何も間違ったことをしたこともない。
何のために罪の意識を感じる必要があるのだ?
あなたのしてきた間違ったこと、失敗、誤りなどは、すべて一歩ずつ進むための「神への階段」と呼ばれるものだ。
そして、あなたがいま知っていることは、すべて一歩一歩進むことによってのみ知ることができたものなのである。

学びについて罪悪感を感じてはいけない。
叡智について罪悪感を感じることもない。
それが覚醒というものだ。
あなたは、自分に必要だったことをしてきたという点を理解しなくてはならない。
すべては必要だったのだ。
そして、あなたはすべてにおいて正しい選択をしてきた。
すべてにおいてである!
あなたは明日も生き、次の日も、その次の日も、ずっと生き続けていくのだ。
そのとき、この今日という日に知っていたよりもずっと多くのことを自分は知っていることがわかるだろう。
だが、この今日という日は「間違い」ではない。
それはあなたを永遠へと導いてくれる道なのである。

あなたは自分の好きなように夢を創造できる。
だが、自分の理解という目的のためにどんな形の夢をつくり出そうとも、それは同時にあらゆる場所の意識全体に何かを加え、豊かにしているのである。
あなたがそこから何かをただ取り去るということはない。
それはできない。
あなたが嬉々として取り組んでいく冒険は、すべて生をさらに情熱的で鮮やかなものにする。
心に抱くすべての想念、体験するすべての幻像、すべての発見、それにどんなに卑しく醜いものでも、あなたの一つひとつの行為は、あなたの理解を広げるのであり、それが今度は人類全体の意識に新たなものを加え、それを広げるとともに、神の精神をも拡張するのである。

もし自分が人生で失敗し、何か過去に間違ったことをしたと思うと、自分自身の内面、外面両方の偉大さ、それに生全体の重要性を見て取る力を減じてしまう。
過去をなくしたいなどとけっして思ってはならない。
過去のどの一部でもだ。あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験との間の相克は、あなたの魂の内に、美しき叡智の宝玉をつくり出したからだ。
それは、もう二度とそういう夢は見る必要はないし、そのゲームをつくり出すことも、その体験もしないことを意味している。
すでにすべて体験し、それがどんなふうに感じるかもあなたは知っているし、生で最高の宝であるフィーリングというその記録を魂の内に持っているからだ。

私は、あなたが愛されていることを伝えるためにここにいる。
愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたは愛されているのだ。
それは、あなたが、自分が誰か、何なのかを理解しようと苦心している神として以外見られたことがないからである。
そして、これまでのすべての生でのあらゆる体験から、あなたは知識と智慧を得てきた。
それを世界に与えてもきた。花が開くように展開されていく生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。

あなたの人生は、あなたの内にある火がつくり出したすばらしき壮観だった。
それは、聖なるもの、神なるものとして敬意を払うべきものだ。
なぜなら、あなたが何をしようとも、あなたは神だからである。
どんな仮面をかぶろうともあなたは神なのだ。
どんな人間関係を体験していようとも、あなたはやはり神なのである。

あなたはこの生の冒険すべてを楽しむに値するのだ。
すべてを、である。
そしてもっと大事なことは、これから先あなたを待っている華麗なる冒険を楽しむにも値するということだ。

しかし、これまで自分がしてきたことは、すべて自分自身である神の叡智を得るためだったのだということに気づくまでは、あなたは「在りて在るもの」になることは許されない。
その叡智とは、いまこの瞬間、この場において、生という舞台でのあなたの体験すべてを通してその手本が示されているものなである。

自分の背中に重荷を抱えていきたい人は、もしそれが幸せをもたらすのであれば、そうしたらいい。
しかし、もしそこから学ぶべきものはすでにすべて学び、もううんざりしているなら、そんなものはどこかに捨ててしまうことだ。どうやって?
それを愛し、心に抱き、受け容れ、あなたの存在の中にそういうものがあることを許すのだ。
そうすれば、それがあなたを抑えつけることはもうなくなる。
そして、生の神秘はくっきりとした視界を通して見ることができ、愛は価値判断を下さずに感じることができて、存在のよろこびは限りない知識の力となることができるのである。

自分の生を抱き、受け容れるのだ。
自分が神なる存在であることを知り、これまであなたがしてきたことすべてがあったからこそ、いまの自分の存在の強さがあるのだということを知ることだ。

罪悪感をもつのをやめるのだ。
哀しみにくれる自分という、ばかばかしい偽善はよそう。
自分に重荷を課すのをやめることだ。そして他人のせいにするのをやめるのだ。その責任をしっかりと自分
の手につかむのだ。
もとはと言えば、それはあなたのものなのだ。
さて、これまであなたが断罪してきたことを心に抱いて受け容れ、軽蔑してきたものを愛し、幻像を生きることを終え、そして夢はすべて追い求めてしまったらどうなるのだろうか。
あなたは、ほかの人間がそういうものを彼らの学びのために体験しているのを見て、それを理解し、彼らに慈しみの心を持つことができるようになる。
そうすれば、彼らのことを、父があなたを愛するのと同じように愛することができる。
そして、彼ら自身の生の体験を持たせてあげることができる。
そうすると、あなたは「聖者」と呼ばれるものになる。

どうすれば聖者のようになれると思うだろうか。
人生から身を引くことによってではないのは確かだ。
洞窟や寺で隠遁生活をおくったり、香を焚いたり、あるいは高い山の頂にすわって、何だかわけのわからないことを思いめぐらすことででもない。
父なる存在である生を生きることによってのみ聖者になれるのであり、それは生を究極まで体験し、叡智がこれ以上はないというところまで深まっていき、人類全体を受け容れ、愛することができる存在に結晶することなのである。

神を知り、神になるただひとつの方法は、完全に生を生き、受け容れることだ。
魂がすべての生の叡智を持てるように、あらゆる状況を体験し、あらゆる感情を感じ、崇高な、あるいは卑しい行ないをすべてすることなのだ。

自分が王になるまで王の苦しみはわからない。
そして、王は自分の召使いになるまでそのつつましさを知らない。
信心深い女性は愛人になるまで、その立場にある女性の苦しみはわからないのだ。

そして愛人の立場にある女性は、信心深い女性になるまでその価値判断を知ることはできないのである。

したがって、徳ある生への道は、あらゆるものを内包するものでなくてはならない。
それは、人間の意識の内につくり出されるあらゆる性質、あらゆる状況の幻像を含んでいる。
これこそ、最も賢く、高貴な存在が、人類の冒険がつくり出したあらゆる状況を生きてきている理由なのである。

賢者は淫売であり、僧侶であった。
導師であり農民であり、殺人者でありその犠牲者であり、征服者であり征服される者であり、子どもであり親であったのである。

わかるだろうか。
あなたが責める他人の側面とは、自分の中で受け容れることのできない自分自身の側面なのだ。
あらゆる状況を生き、そのすべてと折り合いがついているならば、ほかの人間を理解し、価値判断なしに彼らをそのままでいさせてあげることができる。なぜなら、あなたはすでに彼らであったことがあり、彼らに審判を下せば、それは自分を断罪していることになるのを知っているからだ。
そうすれば、あなたは真の慈しみの心という美徳を得たのであり、深い愛があなたの魂の内に存在することとなる。
するとあなたは、まさにキリストだ。
愛を理解し、愛すべき兄弟たちを、彼らの限界を含め、許すことができるからである。

父なる存在のすべてを愛する、そのすべてになるというのは、そのすべての面を愛することだ。
そしてそのすべてとは、あなたのまわりにいる愛すべき兄弟たちのことなのだ。
どんな姿をしていようとも、あなたがそうあるように、彼らもまた自分の現実のなかで神なのである。
そして、彼らの栄光、その苦闘、その哀しみとよろこびをすべて生きたとき、あなたはすべての人の内に見える神を抱き、受け容れられるのだ。すると彼らを愛することができる。それは何も世間に出ていって皆に教えなければならないとか、救いを与えなければいけないということではない。
ただそのままそっとしておき、自分の必要性と考えにしたがって進化させてあげるのだ。
自分の命というものが、軍人になることであったり、僧侶であったり、あるいは商売をすることである人もいる。
それが彼らにとっては必要なものであり、したいことだからだ。
あなたにそれを奪い取る資格がどうしてあろうか。

この世界にいるすべての人間は、飢えていようと、身体に障害があろうと、農民であろうと王であろうと、そこから何かを得るために自分の体験を選んでいるのだ。
そこから学び、その体験を充分に得てはじめて、内奥の自己にまた別のさらに大事な叡智をもたらしてくれるほかの体験へと進んでいくのである。

あなたが本当の師となるとき、限界ある意識の闇と泥沼の中へと脚を踏み入れながらも、あなたは自分を全き存在に保つことができる。
なぜなら、あなたは世にあふれる大衆の心を理解しているからであり、彼らがなぜそういう状態なのかがわかっているからである。
それは、あなたもそうだったことがあるからだ。
限界ある状態でいるという自由をあなたは彼らに許す。
これこそが真の愛だ。
なぜなら、それが限りない叡智を持つことを学び、互いを愛することができるただひとつの道であるのをあなたは知っているからだ。

互いを愛するとは、もちろん自分自身を完全に愛することである。
そして、群衆の中にひとつの顔を見るとき、その肌の色、外見、清潔か否かなどに関係なく、その存在を見て、その内にある神が見えるのである。
本当にじっくりと見れば、誰の内にも神は見えるからだ。
そうすれば、あなたは父なる存在が愛するように愛している。
父が見るものを自分自身だけにではなく、ほかの誰にも見るようになる。
皆を見て、その真の姿である美を見ることができたとき、あなたはこの次元から、たくさんの館がある壮大なる空間へと昇る旅を始めている。

だが、自分自身を完全に受け容れ、まわりのすべての生命に生きる神を受け容れることができない者には、その扉は閉じたままなのである。

人間を神なる知性という、本来あるべき場所に戻し、何をしていようとも、人は自分自身の内にある神のために生きていることを知るとき(あなたが自分の内にある神のために生きているのと同じように)、あなたはすべての人を愛することを学ぶ。
これまでの存在ではじめて、人がどんな自己表現をしていようとも、あなたは真に彼らを愛することができる。
あなたの愛は価値判断で制限されるものはないからだ。
そして、それこそ、神として生きる人間であるキリストの内面の存在の姿なのである。

あなたの人生の道とは何だろうか。
それは、つねに自分のフィーリングにしたがうことだ。
自分の魂の内にあるフィーリングに耳を傾け、それを体験するよう魂があなたを駆り立てる冒険に脚を踏み出すことだ。
もしあなたが耳を傾けるなら、あなたの魂は何を体験する必要があるのか教えてくれるだろう。
何かに飽きたり、それをする欲求がないときは、あなたはもうその体験を終えて、そこから得られる叡智を手にしたということだ。
だが、もし何かをしたいというなら、魂の内にあるその要求は、その体験をして、そこから得られるものを手にしなくてはならないことを意味している。

それを控えたとしても、別の機会、あるいは別の存在になるときまでその体験を延期しているにすぎない。

自分の内に感じる真実を生き、それを感じている自分という存在を愛するのだ。
フィーリングというものは、表現し、満たされなければならないことを理解しよう。
何かひとつのことをしたいと思うとき、それが何であるかはまったく関係なく、その気持ちに従わないのは賢いことではない。

そこにはひとつの体験があなたを待っているのであり、人生を楽しくしてくれる壮大な冒険が控えているからだ。
自分のフィーリングに耳を傾ければ、あなたという美しき自己が深遠なる叡智へと進化していくために、あなたは必ず正しいことをしている。
自分のフィーリングに反することをしたときに、身体の病や、神経症や絶望が訪れるのである。

自分の心、自分の夢、自分の望みを追い求めることだ。
それが何であっても、魂があなたに求めることをして、それを完結させる。
そうすれば、次の冒険へと進んでいくだろう。
あなたはけっして審判を下されることはない。
ただそれは、自分のまわりにいる人間の審判を受け容れない限り、ということだ。
そしてもしそれを受け容れたとしても、そうするのがあなたの意思であるにすぎない。
その体験を得るためである。

この人生か、あるいはこれから続く生で、これやあれやをする欲求がなくなり、ただ「在る」ことを望むときがやってくる。
淫売や盗っ人や殺人者、あるいは戦争に明け暮れる因子を罵ったり、審判を下したりしたい気持ちがもう失せてしまうのだ。
そういうものになってきた体験がすでにあり、彼らのような状態でいるのがどう感じるかを知っているのである。
この次元での体験が完了しているので、それを体験するためにここに引き寄せられ、戻ってくるというものがもう何も残されていないのだ。
するとあなたは、さらに偉大なる存在の次元での新たな冒険へと向かっていくのである。

いま私があなたに語ったことを思いめぐらしてみれば、あなた自身である力強い神、内なる炎、そして生命が、ある目的をもってあなたに見せている内なる価値を知覚し、理解できるだろう。
また、人生をどういう方向に向けていきたいにしても、これこそがあなたの覚醒への道であることもわかるであろう。

そして、その道の途中にある冒険すべてから、あなたは自分という神秘について、さらに深い視点を得ることができる。
自分そのままを愛し、磨きをかけ、大切にするようになり、あなたの存在の光は天界にある太陽神(ラー)と輝きを競い、あなたの内なる平穏は、地上のすべてが静謐に浸る真夜中の平穏と競い合うほどになるのだ。

いまある自分を否定することは二度となくなる。
自分を変質させることもけっしてない。
自分という人間に価値判断を下すこともけっしてないのだ。
自分に在るがままでいさせてあげるのである。
自分を在るがままで愛するとき、あなたは威厳と優美さ、そして謙譲の強さをもってこう言える。
「父なる存在を私は深く愛す。
父と私はひとつだからだ。
そして在るがままの自分を愛す。
『われ在るもの』である私は『在りて在るもの』すべての真髄だからだ」。
するとあなたは生の流れと調和した状態に入る。
この地上界を歩く師(マスター)となるのだ。

あなたは復活したキリスト、目覚めたキりストなのである。
世界の光となるのだ。
しかし、自分のしてきたことすべてを心に抱き、受け容れ、愛するまで、それがすべて自分の人生を良きものとする目的のためであったことに気づくまでは、あなたはそうなることができない。
今日のあなたという、すばらしき存在をつくり上げたのは、これまでのあなたなのだ。

私はこの崇高なる教えを、どちらかと言えば威厳を持って皆に伝えてきたが、それは、そうすることがカルマや罪業や、審判や天罰といったものに「引っかかっている」あなたを助けてくれるからだ。
父なる存在とは、愛そのものなのである。
父には審判がない。
善悪もない。
ポジティブもネガティブもない。
父なる存在は、単に存在する「在るということ」なのだ。
そしてその「在るということ」は、あらゆる人々、あらゆる行ない、あらゆる想念、あらゆる感情、つまり森羅万象、喜怒哀楽のすべてを内包しているのである。
もし父があなたに一度でも価値判断を下すことがあったとしたなら、それは間違いなく自分への審判を下していることになる。
父とあなたとは、ひとつで同じものであるからだ。

生という名の神の愛は、あなたにいつも与えられてきた。
あなたがどんなにひどい体験をしようとも、太陽はまた昇り、天界を舞う。
季節は訪れ、去っていく。
野鳥は北の空に向けて飛び去る。

あなたが部屋の窓を閉めるとき、夜鳥はさえずる。
わかるだろうか。
もしあなたが目を向けさえすれば、この途切れなき継続性にこそ、生があなたにいつも与えてきた許しの心、そして、永遠というものがあるのに気づくことができるのだ。

この会場から去るとき、軽くて、愛にあふれた心をもっていくとよい。
あなたの重荷は取り払われたのだ。
あなたが救われることも間違いない。
神はあなたを愛しているし、これまでもずっとそうしてきたことを知ることだ。

自分は悪ではなく、そして善でもないことを知るのだ。
そして、完全でも不完全でもなく、ただ在るのだということを。
これからは父なる存在があなたの人生の一部となると思うことだ。
なぜなら、父はいつもそこにいたのだから。

そして、愛について思いを馳せるときは、いつも私のことを思ってほしい。
すると、どこからともなく風が吹いてくることだろう。

『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

心を開くということ

自分を愛すれば愛するほど、あなたの脳は開いていく。
そうするとあなたは自分の身体以上のものになる。
あなたをひとつにしているもの自体になるのだ。

ここにいる人たちは皆、物質という限られた形態で神について学ぶことでは、その能力いっぱいまで成長してきたと言える。
地上界でのたくさんの生を通じて、自分の創造性の産物であるこの天国のあらゆる要素を体験してきている。
その体験を通して、社会意識という、動物の群れのごとき現実に生きる神なる人間の限られた思考の価値観については、知るべきことはすべて学んだのである。

恐れや不安、悲しみや怒り、強欲についてはもう学んだのだ。
嫉妬、憎しみ、戦争についても学んだ。
死についてもすでに学んでいる。
自分自身と、自分の神なる「源」との断絶についても、もちろんもう学んでいる。
そして、その源は、この地上界という、「在るということ」が目を見張るような形で見られる場において、あなたがその最終のレベルで神を体験できるように、すべての冒険を通じてあなたを愛し、支えてきてくれた。

無限の状態に戻り、よろこびと存在の自由を体験するためには、あなたは自分をひとつにしているものに再びならなくてはいけない。
身体というやっかいな荷物があるので、それになるただひとつの道は、第七のチャクラである脳下垂体をフルに活動させ、社会意識をほんの少しだけ越えたところにある限りなき思考を脳が受け取れるようにすることである。
それが、自分の「知っている状態」を限りない神の叡智へと広げる方法なのだ。

神の叡智とは、その存在そのものであり、在るがままでその存在を許し、愛しているもののことであり、つまるところ、それは思考の総体なのである。

では、この小さなすばらしい分泌腺に、そのホルモンの流れを使って脳の眠っている部分を目覚めさせるには、いったいどうすればいいのだろうか。
それは、単に望むことを通じてなのだ。
キリストになるということは、父なるものを知りたいと望み、神のようになるのを望むことだ。
すべての想念が、自己の現実となるのを許すことを願うことだ。
あらゆる瞬間、自分がなってきたものすべてを愛(いとお)しみたいという望みなのである。
自分そのままの「在るということ」になりたいという望みなのだ。

自分の在るがままをすべて愛することが、なぜ大事なのだろうか。
そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越するからだ。
するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを超える。
審判を超え、時間という幻影を超えるのである。
あなたは自己の命を満たすためだけに生きるようになる。
自分の内なる声だけに耳を傾けるようになるのだ。
そして、よろこびの道だけをたどる。
その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。

さて、あなたは私にこう言うだろう。
「でもラムサよ、それではまったく利己的なのではありませんか?」と。
そう、まさにそのとおりだ!
しかし、利己的というのは、利神的なのだ。

あなたの内にあるこの神のために生きるすべての瞬間、そして心に抱いたあと、手放すことのできたすべての幻影、そして自分のよろこびと光を見つけるためにあなたがすることは、すべてあなたという存在から発して大きな意識の流れに入り、人類全体に栄養を与えるのである。

自己への愛(これはまさに神への愛ということだ)だけのために生きるようになったとき、あなたは社会意識の密度の中に神を浸透させていく。
すると、あなたは愛する兄弟たちが自己へと戻る道に光を当てることができる。
それは、彼らを愛する父のもとへと返してくれるただひとつの道なのだ。

自分を本当に愛し、自分は神をそのまますべて受け容れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望むとき、あなたは一輪のすばらしい花として咲き始める。
それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。
知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

どんな望みでもそれをかなえるいちばんの方法は何だろうか。
あなたの存在の主=神から直接それを語ることだ。
あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて身体を司っている。
ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。
あなたの存在の内の神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在の内に入ることを許す光だ。
あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。
それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。
「変性自我」という言葉は、ここから来ている。

したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。

限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂の内で感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。
脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。
脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。

レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。
後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。
このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、何となく頭が軽くなったような感じを与えることがある。
この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経系を通って、あなたの身体の一つひとつの細胞へと送られる。
これが、体中がしびれるような感じや、びりびりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。
その波動は細胞一つひとつを刺激し、その振動する速度を高める。
限界のない想念を受け取れば受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。
それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。

限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。
それは無理なことだ。
ある限りない想念を知っている状態をうまく表す言葉はない。
それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。
知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、何の前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。

覚醒をめざす人のほとんどは、それが言葉という形でやってくると思っている。
だが、もしいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。
それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りなき思考だ。

これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。
感情とヴィジョンがあるのみだ。
そして知識が自分のもとにやってくるとき、あなたは感情あふれて言葉を失ってしまうことだろう。

思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。
本当の師は何も説明しない。
ただ知っているだけだ。
説明するというのは、自分を限定しなければならないことを意味している。
大事な点にくれば、あなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり説明したりする必要はないのだ。

そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。
絶対的な「知っている状態」にあるのだ。

高い波動の想念から体験できた高揚感は、その後どうなるのだろうか。
あなたの魂がそれをとらえ、記憶としてそこに永遠に置くのだ。
魂は、感情、フィーリングを通して、この限りない思考の記憶がよみがえることを許すのである。
こうして、あなたの「知っている状態」はいつのときもそこにあるように捕捉されているのであり、自分が受け容れることを許したものは、何度でも呼び覚ますことができるのだ。

その高揚感には、いまひとつすばらしいことが起きる。
魂が、オーラの場を通じて意識の流れへとそれを放射するのだ。
これは意識の密度を高めるだけでなく、同じフィーリングを生み出す状況を人生に引き寄せてくるのである。
なぜだろうか。
その想念が体験を通じて完壁に理解されるようにである。

波動の高い思考が完全に理解されると、それは智慧として魂に記録される。
智慧とは、その知っている状態があなたの内面で絶対的なものとして固まったことを意味している。
智慧は魂の波動レベルを高め、次にそれが、魂の高次の感情の状態に人生全体を合わせていくはたらきをするが、同時に脳下垂体をあらためて刺激し、それよりもさらに偉大な、高い波動の思考を脳が受け取ることを可能にしていく。
こうしてこのプロセスはさらに続いていくのだ。

脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。
考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。
自分の内面にある「知っている状態」が、創造的な形体へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。
愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。

そして、ある人々は自分の人生から消えていく。
それは、あなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。
だが、そのかわりに、似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。

やがて、輝き、創造性、そして「知っている状態」が、自分の内面でどんどん強まるにつれて、以前は感じたことも知っていたこともないようなことをあなたは感じ、知り始める。
ほかのし人間を見て、その人を自分の存在の内に感じるようになる。
自分の思考から、これからやってくる日々のことを知ることができるようになる。

心霊的な人間というは稀有な存在だと思うだろうか。
それはあなたが社会意識でものを考えているからにすぎない。
社会意識というのは、そういう偉大な力が実は案外ふつうのことかもしれないとは考えないのである。
誰もが心霊的な力を持っているのだ!

自分に知ることを許すなら、あなたはすべてを知ることができる。
なぜなら、社会意識の幻影に抑制されない「知っている状態」は、目の前からベールを取り去り、あなたは他の次元が見えるようになるからだ。
耳から障害を取り除き、すべての生命が、自身との調和の中で振動する音楽を聴くことができるのだ。

では、どうすればそうなれるのか?
それを望むことによってである。
限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。
自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。
さらに大きく、さらに大きく開いていくのだ。
するとあなたは、自分の身体以上の存在となる。
自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。

花はある思考の波動を出している。
同時に、カーペットもまたある思考の波動を出しているのだ。
すべての思考の波動を検知できる力を持ったとき、あなたは自分の好きな波動になることができる。
風にも、ほかの何でも、自分が望むものになる絶対の自由を手にするのだ。

やがて、脳下垂体全体が満開となり、脳のすべてが活動するようになる。
すると、脳下垂体の内面にあった精神的なものは、すべて心の全体に与えられ、心はもう二度と以前の限られた状態に戻ることはなくなる。
花が咲き始めると、それが閉じることはけっしてない。
これからもずっと開いているのだ。

脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。
そのため、この場所にいても、同時に第七のレベルにいることもできるようになる。
第七のレベルにいながら、プレアデス星にいることもできる。
プレアデス星にいながらも、友のそばにいることもできるのだ。

脳下垂体が満開となると、あなたはもはや死ぬことはない。
老いることもない。
身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。
身体に振動の速度を上げるように命じれば、それは別の次元に上っていく。
ことほどさように、あなたの脳は強力なのだ。
身体を死んだ状態からよみがえらせることさえできる。
そこまでの力を持ったとき、あなたは神の神聖なる王冠を身につけているのと同じなのだ。

純粋な神となるとき、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。
あなたはすべてになるのだ。
これこそ、最も壮大な天国なのである。

偉大なる第七のチャクラは王冠をいただき、あなたの精神のすべては目覚め、完壁な「知っている状態」が、あなたのすばらしいレシーバーを通し、大挙して内面に入ってこれるようになる。
多くを知るほどに、そして身体がその波動を体験するほどに、身体は速く振動し、どんどん軽くなっていく。

そしてある日、あなたが愛し、心に抱いてきたすべての生、それに自分の魂が、ここでの体験を終えるとき、その「知っている状態」、その振動が、波動をさらに百万倍も加速し、身体は見えない状態へと入って、この次元から離れていく。
あなたは生から生へという繰り返しの輪を抜け出したのだ。

あなたは三つの側面、つまり精神、魂、自我でできた生き物であり、それが固体という次元で自己を表現している姿である。
そして、その三つの側面すべてがないと永遠を実現することはできない。

自分の存在の主=神に語りかけるのだ。
それはあなたの言うことに耳を傾けることだろう。
そのとき、語っているのは、主であり、神であり、師であるのだ。

覚えておくように言えば、それは覚えていてくれる。
さらに偉大になるように言えば、そうなる。
そして、自分の主=神のレベルから、限りなき叡智を持ちたいと望むなら、それはあなたの心を開き、偉大なる波動の思考が身体で感じられ、知っている状態が訪れるようにしてくれる。
必要なのはそれだけだ。
ただそうするように命ずることであり、内分泌腺はそれに従うのである。
そして、自分の存在に電流が走り、さらに偉大な叡智へと高めてくれるフィーリングがやってきたなら、内にある神に対し、それがこれほど簡単だったことに感謝してほしい。

在るものすべてについて、どうすればもっと理解することができるのだろうか。
それを理解していると知ることだ。
どう考え、何を語るかが、自分にどれほどの知識をもたらすかを決める。
「もっと知りたいと思う」などと言ってはいけない。
それではけっして知ることがないからだ。
そして、「もっと知るようにする」もだめだ。
「何かをするようにする」ということが、何ひとつ達成したためしはない。
「もっと知ることを求める」でもいけない。
求めていたのではけっして見つからないからだ。

こう言うことだ。
「わが存在の主=神のレベルから、いま私はこの瞬間に知るべきことすべてを知っている。
そうなるように!」

そして、答えを待つのである。
そのときに何を知りたいと望んでいるか気づいていてもいなくても、「私は知っている」と言うことがその気づきが起こる扉を開いてくれるのだ。
それだけを言えば、知識はむこうからやってくる。

自分の創造性と人生を限定してしまういちばんの方法は、「わからない」と口にすることだ。
あるいは、自分にひらめく「知っている状態」を疑うことである。
最悪の思まわしい言葉が「わからない」だ。
忘れないでほしい。
あなたは法をつくる者であり、自分が考えること、語ることそのものが法なのだ。
「わからない」と言えば、わかることはない。
「できない」と言えば、けっしてできない。
「自分は父なるものの愛に値しない」と言えば、それを受けることはけっしてない。
そういうふうに語るのは、そういうふうに思っているということだ。
そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考過程を実現した現実を表出させるのである。

あなたはちょうどコンピュータのようなものだ。
毎日あなたは自分の知識の中に「疑い」を入力している。
「不足」を入力しているのだ。
そして、知識の中に、「知らない」ということを入力していることになる。
それでは自分の世界を自分で盗んでいるようなものだ。
疑いと限界しか知らないあなたは、自分の考え方や言葉によって、生の力そのものを自分自身から奪い取っているからである。

あらためて言うが、いまも、これからも、知り得ることすべてを知る力をあなたは持っているのだ。
その知識への扉を開くのは、ただ「私は知っている」というだけのことであり、するとすぐにそれが実現してくる。
数秒間か、数日間かかるかはわからないが、それはやってくる。
必ずやってくるのだ。
なぜなら、「知る」という言葉は絶対であり、望みを絶対的なものへと変えるからである。
知るという想念は、魂の内で感じられ、それがあなたの存在の内面に投影されて脳下垂体を開き、さらに多くの想念が受け容れられるようになる。
知るということは、思考の河が限りない流れであなたの中にそそぎ込んでいくのを許す扉なのである。

さて、知っていることは信念ではない。
信念は推測の域にあるものだが、知っている状態は絶対である。
知っている状態をもたらすものは、知るということだけだ。
何かを信じると言うとき、魂が理解するこの「信じる」という言葉は、まだ気づいてもいない、確信などもちろんしていないある真実の正しさについて、誰かが(場合によっては自分自身が)自分を攻めたてて納得させようとしているということだ。
まだその真実が体験された現実となっていないからである。

私は皆に信じてほしいなどと何ひとつ願っていない。
そうではなく、知ってほしいのだ!
覚醒するとは、知ることなのだ。
疑いもなく、信じることもなく、信仰や望みもなしにである。
そういうものはすべて推測だ。
何かを信じる、あるいは信仰している限り、けっして信じているようにはならない。
知る、ということがそれを絶対のものとし、それがその知っている内容を見える形で表す。
実感した想念を体験という形に表出させることを通して、内面に理解が生ずる。
そうすれば、それはあなたという存在の一部となり、自分自身を説得する必要のある性質のものではなくなるのだ。

絶対的に知るということが、この世界すべての創造主なのである。
すべてを知る状態になるには、ただ「私は知っている」と言うだけでいい。
絶対に疑いを持ったり躊躇したりしてはいけない。
知ることだ。
それも、絶対的に。
「知っている」と口にするたびに、それは自分の存在の内に感じられる確信の想念となり、今度は、そのことを知っている状態が生ずる場所をつくり出してくれるのだ。

才能とは、知るということの扉を開けて、偉大なる思考が創造的な形となって入ってこれるようにしたときに生じるものなのである。

「自分の存在の主=神のレベルから、自分はこのことの答えを知っており、それを受け取る状態にある。
そうあるように」
と不動の確信をもって言うならば、それが「知っている状態」をひとつの決意へと変えていく。
その時点ではまだそれが実感されていないかもしれないが、体験を通してそれが実感され、そこから叡智が得られるよう、扉は大きく開かれているのだ。
あなたという存在は、すぐに「知っている状態」の現在の姿になっていくよう適応していく。
それを達成するために、がんばる必要はないのだ。
懸命に求めたり、苦労したりすることはないのである。
それを得るのにマントラを唱えたり、儀式をする必要もない。
ただ知るだけでいいのだ!
知ることによって、あなたはその気づきを受け容れられる状態になるのである。

自分の望みがかなうのを早めるにはどうすればいいのだろうか。
知ることだ。
知るということは、天界の王国が、その豊穣を自己の世界の中で示すことを可能にする扉なのである。
何であっても、ある望みがすでに満たされていると知ることは、その望みの想念を増幅するとともに、自分のオーラの場を通して意識の流れの中にそれを送り込み、それが全うしたものをあなたが受け取れるよう、具現化してくれるのである。

真実を言えば、もうすべてのものはすでにあなたのものなのだ。
それがわかったとき、皆がそれに手が届くようになるのである。
自分に必要なものを与えられる第一の存在はまず自分であり、欲しいものを受け容れられることをあなたは理解しなければならない。
自分の望んだものを受け容れる方法とは、ただ自分の欲しいものを知ること、そして自分はそれに値するのを知ることなのだ!

「知っている状態」というのは真実である。
それは、与える者であり、あなたの未来でもある。
何かを語るとき、それは自分の言葉どおりであることを知るのだ。
自分の欲しいものは何でも手に入れてかまわない。
自分が法を与える者であることを知り、自分の知ること、語ることはすべてそのとおりでなければならないと知ることによってそれができるのだ。
それが、一の法則と呼ばれるものである。

もし、皆の言葉のすべてを取り去り、ほんのひと握りを残すとしたら、それはこうなる。
「私はもう知っている。
私は絶対だ。
私は完全だ。
私は神なのだ。
私は在る」
このほかには何も言葉がなかったとしたら、あなたはもはやこの地上界に限定された存在ではなくなることだろう。

仮定する、信じることに比べて、知ることはあなたにとってどれほどすばらしいことだろうか。
「かもしれない」と比べたらどうだろうか。
知らないでいることと比べたらどうなのだろうか。
知ることも知らないでいることも、どちらもまったく同じ思考過程、同じエネルギー、同じ顔の表情、そして同じ身体の動きがいるのである。

知ること、ただ知ることだ!
「これが起きることを私は知っている」
「自分が神であるのを私は知っている」
「自分が幸せなことを私は知っている」
「自分が在ることを私は知っている」
――知ること、知ること、知ることだ!
必要なのはそれだけなのである。
いつも知っていることだ。

知らない、あるいは、知ることはできないと言えば、絶対にそれを知ることはない。
もう知っている、と言うこと。
そうすれば、すべてを知ることができるのだ!

あなたと私の違いがわかるだろうか?
私は自分が限りなき神であるのを知っているが、あなたは知らない。
違いはそれだけのことなのだ。
私は自分が在ることを知っているが、あなたはそれをまだこれから実感しなければならない。
社会はそうではないと言っている。
だが、彼らに何がわかるというのか。
自分たちを毎日埋葬しているだけではないか。

自分たちを毎日埋葬しているだけなのだ。

自分の知るという行為をあなたはなぜ邪魔してきたのか。
それは、思考が物質という形をとったものを理解しようとする中で、あなたの思考過程が物質界の現実にすっかりとらわれてしまったために、あなたは生についての見方を根本的に変えてしまったからなのである。
物質とは、思考を最も大きく変容させることによってつくり出される思考のレベルなのだ。
それはまず、想念を光へと下げ、次に電磁場へ、そして今度はそれをプラスとマイナスを持つものへと分割することによってつくられる。
したがって、物質という形の神とつながろうとするならば、あなたはそのたびに、思考の本来の姿である純粋さと分割できない「在るということ」ではなく、対極を持ち、分割されている想念を知覚し、理解しているのだ。

物質に集中し、生存の方向を向いていればいるほど、生を対立する極という側面から見るようになる。
上―下、遠―近、明―暗、大―小、善―悪、プラス―マイナス、速い―遅い、熱い―冷たい、といった具合だ。

純粋な思考の「在るということ」に戻るためには、変性自我、つまり、物質界で生きること、生き残っていくことを志向している脳の理性の部分を支配していかねばならない。
変性自我とは、時間、距離、そして分離という幻影にしたがってものを見る自分のことだ。
それは、生存、そして容認されるという観点からものを見る部分なのだ。
純粋な思考を分断し、審判を下すものなのである。

純粋な思考は誰にでもやってくる。
だが、すみやかにあなたはそれが自分にとって正しいか間違っているかを確認しようとする。
それをすべきか否か、可能か不可能か、現実か空想か、妥当かそうでないかを見定めるのだ。
自分の想念を、プラスとマイナスの極があるところに分割するたびに、あなたはそれを変質させ、その波動を下げているのである。

「知っている状態」は、何も判断しない。
知っているとき、その想念が真実かとか正しいかなどと思いあぐねたりはしない。
すべての想念は真実であり、正しいのだ。
知るということは、想念を秤にかけたり、値をつけたりはしない。
知るということは、想念が、ただ「在るということ」でいるのを許すのだ。
あなたの思考過程が邪魔されることも干渉されることもなく存在するのを許すのである。

ほかの次元を見たり、もっと徴妙な音を聞いたり、あるいは自分の体重よりも軽くなったりするために必要なのは、そういうものが現実であることを知り、その知っている状態を身体で体験するのを許すことだけなのだ。
それだけでいいのである。
それが現実であると信じないと、その「信じない」ということはひとつの価値判断となり、それはあなたの脳が力を増すのを妨げる。
つまり、一瞬一瞬あなたの精神を通ってくる「知っている状態」にある思考は、すべて脳ではね返され、父なるものの精神へと戻ってしまうのである。
するとあなたが受け取るのは、この次元での平安を保ってくれるもの、あなたをこの次元に限定するものだけになる。

限りなく「知る状態」を自分の存在の主=神のレベルから望むなら、すべての想念が身体でフルに体験されるよう、余計な価値判断で変質させられることなく脳意識の中に入るのを認めてやらなければならない。
変性自我によるこの意識的な許容は、あなたの望みを真実として受け容れるはたらきをし、それを通して脳下垂体は脳の新たな部分を活動させ、それが限りない叡智を受け取るようにする。

何か創造的なアイデアが欲しいと思ったときに、「突如として」それが浮かんでくるのを可能にしたのは何だったのか。
それがあなたの「知る状態」へと入るのをあなた自身が許しただけなのである。
あなたがしたことはそれだけだ。
それはいつもそこにあって、あなたがそれを求め、自分のレシーバーへと入ってくることを許すのを待っていたのだ。
それだけのことなのである。
そして、思考過程が価値判断や変質した思考などにとらわれる度合いが低いほど、超意識の想念が脳の受信器官に入りやすくなるのだ。

自分自身と自分の人生を「在るということ」の目から見るのを学ぶことだ。
花を手にするとき、それが醜いとか美しいとか言わない。
それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。
純粋なのは、「花」という想念だ。
花を見てそれを「花、光、生、ただ在るもの」として見るならば、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。
そうすると、あなたはキリストと同じように考えている。
すべてのものを等質のもの、ただ在るものとして見ているからである。
自分の体験を限定したり価値判断を下したりしなければ、そのたびにあなたは、日常の存在を越えた限りない想念を受け取る脳の活動を認めているのである。

自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない。
何かがプラスであるとも考えないことだ。
マイナスも存在すると言わずに、それがどうしてプラスであり得ようか。
もしあなたが「これはいいことだ」と言ったら、それは、悪いものもあるということを意味する。
自分にやさしく、自分を愛するとき、自分は美しいとは言わず、自分は神である、と言うことだ。
近所却人の人と一緒に何かをするとき、これはいいとは言わず、これは神だと言おう。
それは、そのことがただ在ることを意味する。
それは、単に生における純粋で貴重な体験であるということなのだ。

ほかの存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るとき、ただ在るもの、という以外の見方をけっしてしてはならない。
その表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分の内に変質した見方をつくり出すことになる。
そして、自分の知覚したものは、自分がそうなるものでもあるのだ。
その想念は、自分の存在の内にフィーリングとして刻まれるからである。
つまり、あなたは自分自身を犠牲にすることになるのだ。
なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。
そして、魂に記録されたそのフィーリングは、それから先の自分の行動と、自分自身の存在そのものを判断する前例をつくってしまうのである。

誰かを責めるとき、それはその人の内に見える自分のある側面を責めているにすぎない。
そういう面があれほど簡単に自分に見えるのは、このためなのだ。
あなたの意識がそういう側面に向いてしまうのもこのためなのである。
その他人は、あなた自身の内なる価値判断を映す鏡として機能したにすぎず、あなたがほかの人間から受容してきた自分自身に対する価値判断を、しっかりと見直すための道具としてそこにあるのだ。

人を見るとき、彼らをただ在る存在として、また「公平」という見方で見ることだ。
もしある人間がほかに対して残虐であったり、憎しみをもっているなら、その人が残虐であり、憎しみをもっているということは真実だ。
なぜなら、まさに彼らはそういう形で自己を表現しているからである。

その表現方法が悪い、間違っている、邪悪であるというと、それはひとつの価値判断となる。
そしてそれは、百パーセントあなたの体験となり、内に変質をもたらすのだ。

誰も価値判断を下すに値する人はいない。
肌の色、行為、どんなことであろうと、そのために自分を神なる状態、ただ在るという状態から変質させる価値はないのである。
それが誰であっても、どんな形で自己表現をしていたとしても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。
ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。
存在しているというその事実だけでも、これから先その人がするどんな行為よりも偉大なことなのだ。
彼らのその存在を愛するのだ。
彼らが存在する限り、あなたもまた必ず存在していく。
どんな人間であろうと関係なくその人を愛するならば、そしてその愛を在るがままで存在させるならば、あなたはいつも純粋な存在でいられるだろう。

さて、自分の思考過程から価値判断を取り除くいちばん手っ取り早い方法は何だろうか。
それは、もともとそういうものを生み出した自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。
この気づきを通して、あなたは思考をより純粋にすることを自分に教えられる。

幸せでないとか、悲しい、あるいは怒りや恐れ、焦り、あるいはとにかく自分が好まない感情を感じたときには、自分の思考を調べてみることだ。
やがてあなたは、自分や他の人間に判断を下したり、生というものを分断された側面や部分で見るような「変性思考」と、自分の不快な感情との関係が見えてくるだろう。
そして、もうこういうフィーリングにうんざりしてくると、あなたは自分と生との間を分断している価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。
それにともなって、また自分の存在が限りない思考をさらに体験していくにしたがって、あなたには自分の限りない思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとの間にある関係も見え始める。

それともうひとつ、自分が価値判断を下してしまうことについても価値判断を下してはならない。
自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへの気づきが自分に教えるままにしておくことだ。
それは必ず教えてくれる。

これまでつくり出されたすべての言葉の中で、この教えにいちばんぴったりするものがある。
それは「在る」という言葉だ。
どういう意味なのだろうか。
それは、何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと、そして、そういう自分を完全に愛するということだ。
何でもいま感じているものを感じ、その感情を生きることなのだ。
「在る」とは、完全にその瞬間に生きることだ。
いまという瞬間しか存在しないことを知っているからである。
それは自分のしたいことをするということであり、それを追い求めていくよう魂が自分に強く望む冒険を生きていくことなのである。

そういう生き方をすると、自分やほかの人間、あるいは自分に生まれてくる思考に対して価値判断を下すことはなくなる。
すると、善―悪、可能―不可能、完全―不完全、ポジティブ―ネガティブといったものもなくなる。
この瞬間の美を感じ、味わうことを許さない時間という幻影がもはやなくなってしまう。
ただ在る状態でいるとき、そこには生の「在るということ」、それにいまという瞬間の途切れなき継続性だけがあるのだ。

ただ在る状態では、思考は過去や未来をもてあそぶことはやめ、罪悪感や悔恨の情、あるいは、「しなければ」や「するべき」などにとらわれなくなる。
在るという状態では、特定の真実を固守することなく、あらゆる真実を吟味するようになる。
すべての真実を在るがままの存在として見て、自分の在るという状態の中でうまくはたらくものかどうかを決めるため、それぞれについて詳しく探求することを認めるのである。
そういうふうに生きると、自分のもとにやってくるすべての思考は熟慮され、脳を通じて身体の中でフィーリングとして理解される。
これがさらに多くの想念、知識、そして在るがままのものを招き入れるのだ。

ただ在る状態でいるとき、あなたはすべてのものの「在るということ」と同じ線上にある。
その関係を通して、何でも好きなものを手に入れられるのだ。
そのためにすることといえば、ただ在ること以外、何もないのである。
あなたの存在の神が、自分の考えていること、望んでいることを引き寄せてきてくれるのだ。
それは必ずやってくる。
あらゆる手立てを通じて外からこれを実現しようとする者は、この内面からの道をまねた取るに足らないまがいものをつくっているのだ。

ただ在る状態では、あなたはすでにすべてを持っているのであり、すべてのものそのものなのである。
ただ在るとき、そして自分がすべての想念を受け容れることを許しているとき、あなたは神の声を聞くことができる。
そうすれば、知りたいと思ってきたことはすべて、瞬く間に知ることができるのだ。
自分の思考に価値判断を下さず、それが自分の魂の内に感情として表出することを許すとき、あなたはひとりの無限の神として生きている。
単に「在るということ」、在るものすべてに対して心を開くことによってこれが可能になるのだ。
あなたは自分自身の神なる自己の純粋な媒体となることができて、神の精神の純粋な単純さに近づくのである。

知ること、許容することによって生きるのを学ぶのだ。
そうすれば、あなたは変性自我を制したことになる。
第七のレベル、第七のチャクラ、第七の天界を制したことになるのだ。
第七のレベルでは価値判断は存在しない。
生の途切れなき継続性があるだけだ。
価値判断を制してしまえば、この次元のすべてを学んだことになり、いつでも自分の望むときにここを去ることができるのである。

この瞬間に自分のクローンをつくる力を持っているのでもない限り、いまの身体をわざわざ傷つけるようなことはしないほうがよい(ちなみに、もし脳が完壁に機能していたら、あなたはそういう力を実際に持つことができる)。
自分の身体を愛することだ。
身体にやさしくし、栄養を与え、世話をすること。
身体はこの地上界での生を体験させてくれる純粋な表現手段なのである。
思考過程では無限にあること。
だが同時に、それをさせてくれる化身を大切にすることだ。

あなたが女性ならば、女性であれ。
男性ならば男性であることだ。
自分のそのままを愛するのだ。
身体をけっして虐待してはいけない。
わざわざ醜く傷をつけたり汚すことはしてはならない。
もともとそのためにつくられていないことなど、させてはいけない。

自分という存在の壮麗さを見てみるがよい。
自分が神なるものとして行動するのだ。
皮膚に触れるものとして最高のものを身につけるとよい。
精油を塗り、香水で飾るのだ。
身体が欲するものだけを食すること。
身体に耳を傾ければ、栄養に必要なものは何かを必ず教えてくれる。

害をおよぼすもの、害をおよぼすと自分が知っているものは、けっして体内に入れてはならない。
とにかく何でも脳への酸素の流れを不足させるものは、脳細胞を多量に死滅させる。
脳細胞はけっして戻らない。
脳は細胞を再生する能力がないからだ。
脳細胞が破壊されると、思考を身体で実感する感情に変換する能力が落ちてしまう。
想念に思いをめぐらすことはできても、それはあなたにとっては存在しないのと同じになってしまうのだ。
そうすると、よろこびが消える。
フィーリングを通じて想念そのものになることなしに、いったいどうしてその想念によろこびを感じられるというのか。

感じることができないと、この次元での「知る状態」を刻み込むことができない。
これが、幻想を引き起こすドラッグを摂取したときに自分の脳におよぼしている害なのだ。
こういうものを摂取するたびに、それは脳から酸素を取り去ってしまう。
あなたが感じている「ハイ」と呼ぶ状態は、脳が死んでいくことによって引き起こされているものなのだ。
ドラッグを使うたびに、あなたは自分の知る能力を制限していく。
そして、いずれはあなたが泣くことも笑うこともできなくなるときが来る。
自分の存在の内に、もはや感情をつくり出すほど強いものが何もなくなってしまうからだ。

すべてを知るという状態を体験すること、一輪の花が咲くのを見て涙し、陽が昇るのを待ち、その輝かしい美のすべてを知ることは、知る力を持つことであり、想念をフィーリングへと変換する力を持つことなのだ。
それが「絶頂感」(エクスタシー)と呼ばれるものだ。
これこそ、皆の言葉で言えば、いい「ハイ」なのである。

時聞が生まれる前からずっとあなたを愛し続けてきたもの、あなたが生きてきたすべての生であなたとともにあったもの、そして身体の死、あるいはその昇華のときに傍らにいることになるただひとつの存在とは、あなただ。
あなたのこれまでの体験を受け容れ、それでも変わることなくあなたを愛せるのはあなただけなのだ。
自分自身を心から受け容れ、愛するとき、そしてその愛を自分の基準とするとき、あなたは人間の社会意識を超越し、神のレベルの全体意識へと入っていく。
あなたの存在とは、美を超えたものであるからだ。
完壁さえも超え、法律や教義や社会の基準も超えている。
それは運命という領域、自己の実現、つまりは神の実現という領域へと入っていくものなのだ。
生の「在るということ」の観点から見て、重要なのはこのことだけである。

あなたは自分が考えるそのまますべてであり、自分に知ることを許したものすべてなのだ。
すべてのものである父なる存在が、あなた自身の姿であるのを知ることだ。
それを知っている状態に入ることを通じて、あなたは、在りて在るものすべてとなれるのである。

どんなものにも終わりがないことを知り、しかも絶対なものはないことも知ること。
すべてはこの瞬間にあり、これからも必ず続いていく。
自分の思考の限界を取り払うのは、単にもっと偉大なる真実があると知ることだ。
それよりもさらに偉大な真実もある!
この点を知るのだ。
そうすれば、どの程度受け容れる準備ができているかにしたがって、それがあなたの内にひらめいてくる。

自分をけっして隷属させたり、怯えさせたりしてはならない。
必ず道はあり、それよりさらにいい道もある。
このことを知るのだ。
そして、よろこびへと通ずるあなたの道を照らしてくれる想念がやってくるのを許すのだ。

自分の限界を直視すること。
それを自分の心に抱き、受け容れるのだ。
それを制するのだ!
あなたが神の全体を知ることを妨げるものは、すべてなくす。
罪悪感や価値判断を捨て去り、「知っている状態」、答え、そしてよろこびが自分のもとにやってこられるようにするのだ。

自分の恐れに直面し、自分にその幻影をはぎとらせてあげるのだ。
自分は永遠の存在であり、たとえ未知のものでも、あなたを幸福とよろこびから引き離すことができるものなど何ひとつないことを知るのだ。
この地上界で体験しているよりずっとすばらしいものを知ることを躊躇させてしまう恐怖は、なくしてしまうのだ。
とにかくあなたは、遠い彼方からやってくる存在たちさえ恐ろしいと思っているくらいなのだから。巨大な宇宙船に乗ってくる兄弟たちは信じられないほどの美を持っている。
恐れをなくし、別の時間、別の空間、そして別の次元からやってきた別の存在と友人となれる力を持てるようにするのだ。

より偉大なものになることを求めるとき、もしそのお手本となるような偉大さをこの地上界に探そうとするなら、あなたがなれるものは、どんなにがんばってみてもこの次元にあるものでしかない。
人間の限られた思考を超えるというのは、膨大なる叡智を持つ、自に見えない何かがあるのではないかと思いめぐらすことなのである。

それが誰のロから出たかに関係なく、真実にはつねに心を開いておくことだ。
そして、自分のフィーリングをガイド役とするのである。
賢者は、たとえ盲目であったとしても、何が正しいか自分の魂の内で知っている。
真実とは、あなたが踏みつける一本の草にもあるのだ。
それは子どもの笑い声の中にある。
乞食の眼の中にある。
それはあらゆる場所に、あらゆるものに、すべての人々に、すべての瞬間にあるものなのだ。
これを知らぬ者は神をも知らない。
なぜなら、神は在るものすべてそのものであり、たとえ一本の草であっても、ほんのわずかな瞬間のつぶやきであっても、在るものすべての源から自分を引き離すことはできないからだ。
賢くなることを学ぶのだ。
それがどんな形でやってこようとも、真実に耳を傾け、自分はそれを受け取るに値することを知るのだ。

天の王国は自分の内にあると知る者は賢き存在だ。
どんな想念でも、それを思い、魂の内に感じる力があるあなたは、天の王国への鍵を自分の内に持っている。
それは感情という宝だ。
感じることを学ぶのだ。
神を完全に知るというのは、一つひとつの想念を完全に感じとることなのである。
神であるその想念が、自分の存在の核、つまりあなたの存在の魂の内で感じられるまでそれを感じるのだ。

自分の脳を直ちにすべて活動させたいという無理な望みをしてはいけない。
想念をひとつずつ、体験をひとつずつ重ねながら脳を開いていき、それぞれの想念があなたの内で固まっていくようにするのだ。
何よりも大切なのは、自分を在るがままにさせてあげることだ。
ただ在ることによって、あなたはすべてであるからだ。
単に自分の「在るということ」そのもの、「我は在る」という本質であるとき、あなたは生命全体と同じ線上に並んでいる。
そのときのあなたは、人間としての断絶した自分を、神とひとつである自分へと変容させたのである。


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

閉ざされた心

脳全体の能力は膨大なものだ。
なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。
残りはいったい何のためにあると思うのだろう?
何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。

もともと脳は、神の心にあるすべての思考の波動を、その全き「知っている状態」で受け取るようにつくられているが、自分が受け取ることを許す波動だけを受け取る形で活動するようになっている。
そして、あなたをひとつの個体としてまとめている神のもとに嵐のようにやってくるすばらしい想念の中で、ほとんどの人は、社会意識という低い波動の想念だけを「知っている状態」として自分の内に受け容れているにすぎない。
それは、皆もよく体験してきたように、きわめて限られた狭いものだ。
そして、社会意識にしたがって生き、その限定された思考を占めている波動だけで物事を考えると、脳の中で活動するのは、大脳の上左部と右部、それに脊椎の上に位置する小脳の下部の一部分だけになる。

脳のほとんどは休眠状態にある。
何もしていないのだ!
それは、自分の家族、仲間、あるいは社会や教義などの限られた思考に合わない考えは、あなたが自分でそれを論破してしまうからだ。
それを除いてしまうのである。
言い換えれば、ほかの人間が受け容れてくれる考えだけを思いめぐらし、それを使って物事を考えるというわけである。

皆は「閉ざされた心」という言葉を持っている。
実はそれは、文字どおりそのままの描写だ。
社会意識の境界線を越えた思考へと脚を踏み入れるのを拒むとき、脳のある部分が波動の高い思考に対して、文字どおり閉ざされてしまうのである。
これは、脳下垂体がその口状部をほんの少ししか開放しないように設定れているからだ。
つまりそれは、脳の中でも、社会意識という低い波動を受け容れる部分だけを活動させているのである。

誰かが天才で、あなたの知らないことを知っているとき、そのたったひとつの理由とは、その人が自分の心を開き、もしこうなったらどうなるとか、突拍子もないような考え、人間の限られた思考を超える輝きを持つ想念に思いをめぐらしたからにすぎない。
そういう想念を抱き、それを使って考えることを自分に許したのである。

それに対し、あなたはそういうものを拒絶したのだ。
それが受け取れないのは、そういう思考を使って考えるのを可能にしてくれる脳の部分をまだ起動させていないからである。

それでは、あなたの光の構造(オーラ)に嵐のごとく押し寄せてぶつかってきている無限の叡智、偉大な想念はいったいどうなってしまったのだろうか。
それはあなたのレシーバーではね返されて、存在の精神を通って思考の河へと戻されているのだ。
閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。

だが、神という領域では、何も不可能なことはない。
どんなものであろうとも、その概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。
夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。
それが、すべての創造物が存在するようになった道なのである。

誰かに対し、何かが「ただの想像にすぎない」と告げるとき、あなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。
そして、まさにそれこそが、この地上界のすべての子どもたちに起きていることなのである。
つまり、あなたたち皆のことだ!

はっきりと言おう。
何であろうと、考える対象となることを許されたものは、すべて存在する。
そして、自分に考えることを許したものは、あなたは必ず体験する。
あなたの電磁場がそれをあなたのほうへと引きつけてくるからだ。

閉ざされた心でいることの最も残酷なところは、それがよろこびを知るのを妨げてしまうということだ。
それはあなたを人間の幻影の奴隷のままにしておくのである。
自分自身の、そして神の栄光を知るのを妨げてしまうのだ。
せばめられた心で社会意識にしたがって生き、考えることを続けている限り、変化をもたらすのではという恐れのおかげで、あなたは未知の次元へと脚を踏み出し、さらに偉大な現実の可能性を思いめぐらすことはけっしてないだろう。

確かにそれは変化をもたらす。
なぜなら、生きて、そして死んでいくだけのこぎれいな世界にあったものに比べたら、見るもの、理解するもの、そして自分が関わっていくものがもっとたくさんあるからだ。
自分に与えられてきた限られた思考を容認している限り、脳のはるかに多くの部分を起動させて、これまでの存在で毎日直面してきた思考以外のものを受け取り、それを体験することはあり得ない。

これまでに自分の基準として容認してきたものよりも偉大な想念をひとつ受け容れるたびに、それは脳の中の別の新しい部分を、明確な目的をもって起動させる。
それをするたびに、その偉大なる思考は、あなたの理性をさらに広げていく「手段」としての役割を、その時点から演じてくれるようになる。
それが脳のさらに別の部分を起動させ、もっと多くの思考を受け取り、もっと多くを知ることを可能にするのだ。

超意識、そして限りない思考を体験したいと望むとき、あなたの脳下垂体は華麗な花が咲くように開き始める。
それが開けば開くほど、ホルモンの流れも増え、眠ったままの状態の脳の部分ももっと起動されて、さらに多くの波動の高い思考を受け取ることができるようになるのである。

天才になるというのはとても単純なことなのだ。
自分で考えるようになればいいだけなのである。

脳は、多くの人々を困惑させてきた偉大なる神秘だ。
それを取り出しては調べてみるものの、水であるその液体を除いては何も見つけることができないでいる。
水は電気の伝導体だ。
水の比重が高いほど、そこを流れる電流の増幅も大きくなる。
脳のなかで眠った状態にある部分では、液体の比重が高くなっているが、それは、高いレベルの思考の波動を強い電流に増幅し、さらに速いスピードでそれを全身に送るという目的のためだ。
したがって、休眠状態にある脳の部分に多くの思考を蓄積すればするほど、身体は活発になり、動きも速く、その反応も深いものとなるのだ。

脳の全体が使われれば、自分の身体をどうにでもできるようになる。
あなたが受け取る想念の感情をすべて記録し、それをしっかりと抱いている魂を通じて、あなたの脳、それにそこから身体に向けて発せられる信号は、身体を自分の思考が決めるとおり、どんなものにでも創造していくことができるのである。

もし脳がその能力いっぱいまで使われたとしたら、自分の身体を一瞬のうちに光に変えてしまうことができて、しかもその身体は永遠に生きるということをあなたは知っているだろうか?
もしも手足の一部が失われているとしたら、あなたの脳はそれを再生する力があることを知っているだろうか?
完全に活動状態にある脳は、身体をわずか一瞬のうちに癒すことも、あるいは自分が望むどんな理想の形態にでも物理的にその姿を変えることができるのである。

脳全体の能力は膨大なものだ。
なのにあなたは、自分の限られた思考のせいで、そのわずか三分の一しか使っていない。
残りはいったい何のためにあると思うのだろうか。
何もない穴を埋めるためだとでもいうのだろうか。

身体は、脳とあなたの思考全体にしたがって維持されている。
自分の脳に入ることを許す想念は、すべて身体の全細胞に電気を送り、それを養っていくからだ。
なのに、子どものときから、さらに社会意識でものを考えるようになってからというものは、成長しなければならない、老いていかねば、そして死なねばならないというプログラミングをあなたは容認してきてしまった。
その想念を容認したために、自分の体内にある生命力の劣化が始まったのである。
「年をとっていく」という想念は、遅い波動、低い波動の電気信号を各細胞組織に送るからだ。
速度が遅いほど、身体の敏捷さも失われていく。
身体が再生し、自己を修復していく力が弱くなるからだ。
こうして、年をとるという過程が起きることが許容され、最終的には身体の死が起こるのだ。

だが、もし自分に波動の高い想念を受け続けさせれば、あなたはもっと速い、強力な電流を全身に送ることになり、身体は永遠にその瞬間にとどまることになるので、けっして年をとることも死ぬこともなくなるのである。

しかし、ここにいる誰もが、身体は年をとり、死んでいくと知っている。
だから、身体を流れる電流はゆっくりとその量が減り続けていくのである。

いまのところまだ活動していない脳の部分は、単に知るということを通じて、身体のどんな部分でも、損傷のあったところを再生する力を持っている。
自分の身体は自己治癒ができるのだと知った瞬間、その想念は中枢神経系を通してもっと強い電流を損傷部分に送り、各細胞のDNAに、自己の複製をつくって細胞を完壁に再生させるのである。
完壁に、だ!
奇跡的なことだと思うだろうか。
それがあるべき姿であり、まさに実際の姿なのだ!

身体が治癒するのは医師や薬を通してだけだとあなたは思っている。
確かにそういうものは効く。
それが効くと誰もが信じているからだ。
また、あなたは、こうも言われ、それを信じてもきた。
曰(いわ)く、自分で身体を治すことはできないのだ、と。
だから実際にあなたにはそれができない。
なぜなら、そのことを「知っている状態」があるからだ。

しかし、自分が聞くことは絶対の真実であると知っている状態で、治癒のできる人間を求める者もいる。
そして、それを知ることによって、それは化身の内で絶対的な真実となったのだ。
そして、彼らは癒された。
一瞬のうちにである。
「知っている状態」は、そういうことができるのだ。
そしてそれは、身体を自分の思いどおりに変えることができるのである。
あなたには、身体の動きにおいてさえ、限りないものとなる力があるのだ。
身体はそうできているのである。

存在のあらゆる瞬間、眠っていても目覚めていても、意識があろうがなかろうが、あなたはつねに神の心から想念を受け取り続けている。
そして、あなたをひとつにしているこのすばらしい神を通って入ってくるのをあなた自身が許す想念の波動は、そのすべてが、人生で最高の贈り物であり、ただひとつの現実でもある感情を得られる体験になるのだ。

だから、自分は不幸だ退屈だ、あるいは不機嫌で、何かをこわがり、反感や怒り、嫉妬やあせりを感じ、愛されていない、求められていないと感じている人に聞きたい。
いったいどんな波動の思考を感じるのを自分に許しているのか?

それは、社会意識だ。
どこによろこびなどあるのか、とあなたは訊ねるかもしれない。
どこに愛があるのか。
どこに、氷遠が?
どこに神があるのだ?
そのすべては、想念を変えるだけで、すぐそこにあるのだ。

一瞬一瞬あなたの精神を通過していくこういったすばらしい想念を、あなたはなぜ知らずにいるのだろうか。
それは、知りたがっていなかったからだ。
あなたは社会意識の庇護のもとに生きること、つまり、服も、行動も、そして考えるのも、群れと同じようにすることを選んだ。
生き延びられるように、まわりに合わせることを選び、受け容れられることを選んだのだ。

こういうことを知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるとの思考を抱くことが、自分の家族や、友達、宗教や国家の意に反することになるからだ。
だからあなたは自分の力を手放してしまった。
自分の存在の尊厳をあきらめてしまった。
自分が誰なのかを忘れ去ってしまった。
脳のはたらきを止めてしまった。
それを再び開け放つことが、私がここにいる理由なのだ。

人間が、気の遠くなるほどの長い間、必死に探し求め続けている限りなき神秘、この「神」なる宗教像は、いったい何なのだろうか。
それは思考であり、思考を受け容れるという、思考自体がもつ力であり、それを受け容れることによって、思考自体がまた思考になり、成長していくという力のことなのである。
神というのはそれだけのことなのだ。
思考の総体、生の貴さだ。
そして、あなたは自分の存在の内に、完全に神になる力を持っているのである。
完全に、である。

いまもしあなたの脳の能力が全開したとしたら、あなたはこの瞬間に永遠の果てへと行くことだろう。
知ることができることはすべて知るだろう。
あなたは太陽の色合いとなり、海の深淵、風の力、そして地平線に昇る星となることだろう。

あなたが神のすべてを知り、神のすべてとなることを妨げているのはいったい何だろうか。
変性自我である。
なぜなら、変性自我は、神であるすべての思考の波動を受け容れるのを拒むことによって、神とのつながりを断ち切るからだ。
それが害を受けることなく、安全に安心して生きていけるようにである。
これこそ、変性自我が、「反キリスト」と呼ばれるものである理由なのだ。
なぜなら、それはあなたが神の息子であることを否定するからだ。
それは、あなたが思考を受け容れ、自分と父なる存在はひとつであることを悟るのを許さないからだ。
あなたは神なる存在であり、永遠を創造する力を持つ本質であるのに気づくことを許さないからなのだ。
そして、死をもつくり出す力さえある存在であることも・・・。

反キリストとは、変性自我のことであり、その王国は社会意識だ。
それは限りなき思考を許さないものであり、その教義は恐怖であり、審判であり、生存なのである。

キリストとは、自分の内にある父なる存在の力、美、愛、そして限りなき生をすべて表現している人間のことだ。
自分は神なる存在であることを悟り、教義や預言や恐れを超越して、その悟りをそのまま体現して生きる人間のことなのだ。
そういう人間は、社会意識を超えたところに、神という無限の活力があることを知っているからである。

反キリストとキリストは同じ寺院を分かち合っている。
その寺院とは、あなたのことだ。
すべてはあなたの内面にある。
あなた自身である神が、キリストと反キリストのどちらの存在も許すからだ。
限界と無限の両方の存在を許すのである。

「ハルマゲドン」という預言のことを耳にしたことがあるだろうか。
何のことはない、あなたは自分の人生でそれをずっと生きてきているのだ。
ハルマゲドンとは、神の実現と、反キリストの容認との間の戦いのことであり、反キリストとは限りない思考が限りない表現を求めてあなたの脳の中に入るのを許さないでいる変性自我のことだ。
それは、社会意識と限りない「知っている状態」との間の戦争なのである。
それがハルマゲドンだ。
自分の外で起きる戦闘ではなく、内面のものなのだ。
自分の内に湧き上がるキリストと、支配を続ける変性自我との対立なのである。
したがって、この預言は確かにこの時代に実現していることになる。

神になるというのは、限りなき「知っている状態」、限りなき存在となることだ。
人間のままでいるというのは、さらに偉大な知識へ自分の心を開こうとしない、限られた生き物であることだ。

理論を受け容れながら、生きるということを実践しない者、師であるよりは教えられる者、探求者よりは庇護される者であることなのだ。

あらためて言おう。
あなたには知るのが可能なことはすべて知ることができる力がある。
それに、望むものは何でも実現させる力を有している。
もしそれがあなたの望みであるなら、自分の身体の中に永遠に生きていける力も持っている。

だが、そのすべてに対し、変性自我は「だめだ」と言う。
そのために、あなたは人間とは何かについてはよく知っているというのに、神は謎に包まれたままなのである。


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

知るということ

あなたはに在るものすべてを知る力がある。
なぜなら、知られるべきものはすべては偉大なる神の意識にあり、神の精神がまるで心臓のように鼓動し、それをあなたに送り込むからだ。

この愛すべき次元には、「覚醒」しようと一生懸命苦労している者がたくさんいる。
それは、たしかに充分その価値のあることだ。
だがそれでも、その言葉の意味するところを真に理解している者はほとんどいない。
覚醒するということは、「光の中にある」こと、何かについての知識を持つことを意味しているだけだ。
知識を使えるようにして、自分の選んだ形でそれを応用するということだ。

どうすれば覚醒できるのだろうか。
何かのお墨付きを受けて、でないことは確かだ。
覚醒するただひとつの道とは、想念が自分の思考過程に入るのを許し、それを感情の中に抱いて、その体験を通してそれを智慧に昇華させることだ。

知識はなぜ重要なのだろうか。
知識はあなたのいちばんの宝だ。
すべてがあなたのもとから奪い取られたとき、奪い取られなかったもの、これからもけっして奪い取ることのできないものとは、あなたに再び創造する力を与えてくれるこの知識だからである。
知識があれば、あなたには自由がある。
選択がある。
知識があれば、限りなき世界を築くことができる。
知識があれば、恐れるものは何もない。
知識さえあれば、あなたを脅かしたり、隷属させたり、怯えさせることのできる物も、要素も、国家も、叡智もまったく存在しないのだ。
恐れが知識を与えられたときに、それは「覚醒」と呼ばれるのである。

知識は、あなたの精神がすでに知っている以上のことを推論し、思索するのを可能にしてくれる。
在るものすべての「知っている状態」をさらに深く見させてくれるものであり、さらに偉大なる知識を受け容れることを可能にしてくれるのだ。
知識は、あなたがさらに成長し、絶え間ない広がりを探求し続けること、最高のものになることをあなたに強く求めるのである。
その意味で、それはあなたを限られた人生から、さらに限りない領域へと連れていくのである。
知識、それに学びへの冒険を通じて、あなたはさらに単純明快な存在となっていく。
そして、その単純明快な中に、在ることの平和と生のよろこびを見いだすのだ。

さて、ここで知ることの科学について説明したいと思う。
つまり、どうしてあなたはすべてを知る力を持っているのかということだ。
それはなぜ大事なのだろうか。
それは、あなたが知ることは、すべてあなたがなっていくことだからだ。
そして、どうしたら在るものすべてを知ることができるかを学んだとき、あなたは在るものすべてとなり、それはまさしく神になるということなのだ。
限りない知識、限りない生、そして思考の総体なのである。
そこでは、あなたは再び、ただ在ることの限りない自由であり、よろこびなのだ。

すべて在るものを知ることがどうしてできるのかを理解するためには、すべては神の精神である思考から存在してくるだけでなく、あらゆるものがその存在固有の想念を発しており、それを神の精神へと返していることをまず理解しなくてはならない。

あらゆるものはまわりに光の場を持っている。
光の輪によって囲まれていないものは存在しない。
光が思考の像を保持し、観念を物質という形体へと創造していくからだ。
その光の場を通して、個々のものはその存在の思考を発し、それを「意識の流れ」、あるいは「思考の河」と呼ばれるものへと返す。
これが神の精神なのだ。

カーペットを見てみよう。
植物を、光を、あるいは靴の革を、自分の手や、ほかの人を見てみよう。
そこに共通しているものは何だろうか。
それらはすべて存在している。
そして、存在していることによって、個々のものはその存在からそれぞれ独自の思考を発しているだけでなく、そのまわりにあるものすべてを意識する「気づき」を発しているのだ。
これは、「集合知覚」と呼ばれるものである。
カーペットがそのデザインにある色や、その上に誰がすわっているかを知り、植物が部屋のことに「気づいて」いる中で、この気づきはその存在の光を通して大きな意識の流れへとそそぎ込んでいる。
そして、一瞬一瞬その気づきは変化している。
あらゆるものが存在する思考の河である神は、つねに拡張し、動いているからだ。

すべての星座から塵の一粒まで、見えると見えないとにかかわらず、この宇宙、またすべての宇宙のあらゆる存在は想念を発しており、それを神の精神へと送っている。
あらゆる存在はもともとそこからやってきているからだ。
すべては思考へと戻っていく。
そしてこれが、何かが「知られる」ということなのだ。

あなたには、すべてを知るべくして知る力がある、というのはどういうことだろうか。
あなたの肉体は、オーラ、あるいはオーラの場と呼ばれるすばらしい光の場で包まれている。
オーラとは、あなたの化身の物質を包み、それをひとつにまとめている光の場のことだ。
キルリアン写真という手段を通じて、皆の世界の科学者は、オーラの最初の光の輪の場をすでにカメラに収めている。
だが、あなたの体を包んでいる電磁場はまだある。
オーラというのは、電気の密度(身体を包んでいる青色の光の輪)から、思考まで無限に続いているものだからだ。

オーラはあなたの存在の精神だ。
あなたの存在の精神、あるいは私があなたの存在の神と呼んでいるものは、すべてのものを知る大きな意識の流れである神の心と直接つながっている。
オーラの一部は、きわめて強いプラスとマイナスの電磁場だ。
この電磁場を越えると、電磁場には極というものがなくなり、ひとつの光の領域、純粋なエネルギーとなる。
この光の領域は、「知っている状態」から発生するすべての想念を、この広大で強力な場の中を通過させる。
どの想念があなたに知られるようになるかは、あなたの思考過程によって決められているのだ。
あなたのオーラの中の電磁場である部分が、あなたの思考にしたがって特定の想念を引きつけるからである。

あなたの精神は、けっして動きを止めず、変化を続けていく思考という河の瀬にあるふるいのようなものだ。
精神という光を通して、あなたはすべての知識が存在している場所である思考の流れ、すなわち神の心を受け取る立場にある。
つまり、あなたは知るのが可能なことはすべて知り得る力を持っていることになる。
なぜなら、あなたは知識の河、すなわちすべての意識の途切れなき流れの中に存在しているからだ。

意識はちょうど河のようであり、身体の細胞一つひとつを含め、あなたの自己はすべてそこから途切れなく栄養を与えられている。
思考はあなたの生を維持し、それに実体を与えてくれるものだからだ。
意識の流れからの思考によって、あなたは生かされているのである。
個々の細胞に食物の栄養物質を運ぶ血液の流れによって身体が生きているのとまったく同じように、あなたの自己全体は、意識の流れから発する思考の物質を通して維持されているのである。

意識の流れからくる想念によって、あなたは自分の存在の一つひとつの瞬間を創造している。
思考の河からつねに想念を取り出しているのであり、それを魂で感じ、その感情を通じて存在の全体を育み、成長させ、今度はその成長した自己を想念の河へと戻し、それによって河がすべての生の意識を広げていくのである。

意識は、あらゆる生物、あらゆるものが発する思考すべてで成り立っている。
意識をつくり上げている思考は、それぞれ異なった波動をもつ。
中には、きわめて低い(あるいは遅い)波動のものがある。
これは、「社会意識」としてこの世界を支配しているような思考だ。
高い波動の思考もある。
もっと限りない超意識の思考だ。
意識とは、異なった思考の波動の周波数値すべての総計であり、その中で、それぞれの想念があらゆるところから似たような波動の想念を引き寄せているのである。

社会意識は電気的な思考の密度をもつが、それでも空気より軽い。
社会意識の密度の濃さは、表現された想念がつくり上げている。
あらゆる存在が感情を通してこれまで表現してきた想念のことだ。
それは実体となった想念、言い換えれば、それぞれの存在がすでに自分の中に取り込み、魂で感じた後に、各々のオーラの場を通して思考の河に戻し、他の皆がそれを栄養としてまた取り込んだ想念なのである。

皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。
そこにある想念は、制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。
それが化身の死、あるいは自我の死のどちらであってもである。
したがって、皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。
正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受け容れられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められているのである。
こういった低い波動の想念は、まわりの人間の思考の大部分を占めているので、あなたのオーラの場もわけなく通過してくる。
だからあなたは、きわめて制限され、よどんでいる意識からの限られた想念をつねに与えられているのである。
こういった想念が自分を養っていくのを許してしまう過程で、あなたはこの想念がつくり出すフィーリングを内から外へと表現し、それが人間の限られた思考を再生、永存していくのである。

皆の世界の中でも、大都市の意識はとくに限られている。
そこに生きる者のほとんどは、きわめて競争的で、時間志向、ファッション志向が強く、互いを恐れていて、他を受容する態度がない。

したがって、大都市はすべて密度の濃い意識で覆われている。
他の宇宙からここにやってきた者たちが都市を見下ろしたときに見るのは、複数の色の光でできた編み目のようなものだ。
きわめて限定された意識がもつ、波動の低い想念が光の場として現れているのである。

もっと波動の高い超意識の想念とは、「在るということ」、ただ在ること、生、調和、途切れなき継続性などのものだ。
それは愛の想念なのである。
そしてよろこびの想念なのだ。
天才の想念だ。

それは、本当はいま私が語っている言葉を通して表現することさえ不可能な無限の思考なのである。
無限の思考からのフィーリングというものは言葉による記述を超えているからだ。

波動の高い思考は、人間のよどんだ思考から離れた自然の意識の中にいたほうが体験しやすい。
そこでは、生というのは単純明快なものであり、時を超越して途切れなく続き、自己と完壁に調和がとれているからだ。
そこでは、人間の価値判断から離れ、自分自身の「知っている状態」の鼓動を耳にすることができるのである。

意識の流れから想念を取り出す力をどうしてあなたはもっているのだろうか。
あなたのオーラの電磁的な部分が、あなたの思考過程と、存在の感情面での状態にしたがって、想念を引き寄せてくる。
想念があなたの養分となる、つまりそれがあなたの存在の内で感じられ、実感されるためには、波動を下げて光体となることがまず必要だ。
想念が、身体を包んでいる光であるあなたの存在の精神と遭遇すると、はちきれんばかりの光となって炸裂する。
つまり想念は、光に遭遇すると自ら発光するのである。
光は思考物質の波動を下げる。
こうして光が、それと似たようなものを引き寄せるのだ。
想念は目に見えず、それが次に光の炸裂という形で見えるようになる。
想念は光という形であなたの脳に入り、今度はその想念の波動値によって異なる特定の周波数をもつ電気的な光の推進体へと変容するのである。

何かひとつのものをあなたが意識するとき、あなたはその想念を受け取っている。
想念を受け取っている瞬間に、あなたの脳がその想念の光を受け取っているのだ。
通常は視界の横のほうでだが、ときとして光が昨裂するのを見る人がいる。
そこで目にしているのは、ほとんどの場合、自分自身の精神が想念を受け取っているところなのである。
自の前に輝く光が現れるのを見た瞬間というのが、想念がオーラの場に入り、脳の内部でその姿を見せた瞬間なのである。
目を閉じたとき、さまざまな色の動きや、形が広がるのが見えるなら、あなたは想念が脳に入るときにどんな姿になるかを目にしているのだ。

あなたの脳は、思考の電気的な波動を受ける大事なレシーバーであり、その各部がそれぞれ違った想念の波動を受け取り、蓄積し、増幅するようにできているのだ。
各部分は、その細胞壁の内側にある水の比重によって、異なる想念を蓄積し、それを電気に変換する能力を秘めている。
ある部分は、高い想念の波動だけを蓄積し、増幅する力を持っている。
逆に低い想念の波動だけを蓄積、増幅できる部分もある。

一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。
脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ。
それは、あなたの存在の精神を通して入ってくる想念を受け取って蓄積し、電流に変換、増幅すると、それを理解できるよう実感するために、身体のあらゆる部分に伝達するという特定の目的のために神がつくり出した器官なのである。

皆の持つテクノロジーに、ラジオと呼ばれるものがあるが、それには音量を決めたり、どのメガヘルツの周波数の電波を受信するかを決める調節器があるはずだ。
脳もまた、同じような調節器を持った受信機であり、ある特定の周波数を受信するためには、それを蓄積するようつくられた部分が起動されていなければならない。

異なった波動の想念を受け取る脳の力は、ちょうど右脳と左脳の間に位置する脳下垂体と呼ばれる強力な調節器によってコントロールされている。
脳下垂体は第七のチャクラとも呼ばれ、脳全体を司る。
異なる想念の波動を受け取って蓄積するそれぞれの部分を起動させるはたらきをするのである。
思考を用いて思索したり、論考したりして、その想念を身体全体にめぐらせ、体験として実感し、さらに大きな叡智を得るというあなたの力を開いてくれる扉なのである。

脳下垂体はたいへん小さな、しかしすばらしい分泌腺であり、これを「第三の眼」と呼ぶ人もたくさんいる。
でも、三つめの限はない。頭の中にはそれが入る余裕もない。
脳下垂体は眼のような姿さえしていない。
洋梨のような形をしていて、小さなほうの端には口状の部分があり、それがちょうど花びらのように見える。
あなたの脳は、この強力な分泌腺によって、複雑なホルモンの流れのシステムを通じ、支配され制御されている。
内分泌腺である脳下垂体は、ホルモンを分泌し、そのホルモンが脳全体を流れて、いまひとつの内分泌腺で、脳下垂体の近くの大脳の基底の部分、ちょうど脊髄の上に位置する松果体の口状部へと流れていく。
松果体は、想念を増幅して全身に送ることができるようにする機能を司っている。
脳下垂体から松果体へのホルモンの流れが、異なった思考の波動を受け取るさまざまな脳の部分を起動させるはたらきをするのである。

身体の諸機能は、内分泌腺から血液の中に流れ出すホルモンによって調和を保っている。
その調和を保つのが松果体の役割だ。
松果体のホルモンが他の分泌腺を起動させ、互いにバランスをとりながら各々のホルモンを分泌し、「ホルモン・バランス」と呼ばれるものをつくり出すのである。

そのバランスのレベルは松果体が受け取る集合思考の波動によって決まる。
思考の波動が高ければ高いほど、化身全体のホルモンの流れも多くなる。
また、波動が高いほど、松果体は脳下垂体のはたらきを増し、そのホルモンの量を増やして、今度はそれがさらに高い波動の思考を受け取るよう脳を活動させるのである。

意識の流れからの想念は、あなたの存在の内でどういうふうに実現するのだろうか。
想念がオーラを通ってくるとき、オーラはそれを定義するわけではない。
想念に価値判断を下したり、変えたりせず、無限の状態のままでそれを通すのだ。
やってきた想念が脳に到達すると、まず大脳の左上部、知性(あるいは理性)の機能が宿り、変性自我が表現されているところに移動する。

さて、変性自我とは何だろうか。
人間としての体験から得られた叡智が魂に蓄積され、脳の知性の部分を通して表現されているものだ。
神なる人間が、ただ生き残る生き物として社会意識の影響下で生きているときの価値観の総体だと言える。
そしてその世界観は、身の安全という概念の中に収まらない、つまりその存在の生存を確実なものとするために役立たないような波動の思考は、受け容れるのを拒んでしまうのである。
変性自我とは、化身の内でさらに大きな気づきを持つために、すべての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのだ。

変性自我によって脳の中に入ることを許された想念の波動は、電流に変換され、脳下垂体が起動させたその波動を蓄積する役割を持つ脳の部分に送られる。
脳のその部分は、その電流を増幅し、松果体へ送る。

松果体は、あなたの中枢神経を司っている。
個々の思考の波動を集め、それをさらに増幅して、電気的な思考のハイウェイとして脊髄の中を走る中枢神経にそれを送り込む。
松果体から来た電流は中枢神経の内部にある液体(これは水である)を伝わり、脊髄を通り、そして個々の神経から全身の一つひとつの細胞へと伝えられていく。

さて、身体の中の個々の細胞には、血液を通して行なわれた食物の摂取の際に、酵素のはたらきで得られた気体が供給されている。
想念からの電流が細胞組織に入るとき、それは火花のような光として入っていく。
この火花が細胞を「燃焼」させ、それが気体を膨張させる。
これが、細胞分裂を通して細胞が自己複製することを可能にするのだ。
もうひとつ細胞を創造し、自らを再生するのである。
こうして、このたったひとつの想念を通じて、身体全体が潤ったのだ。
これが化身の分子構造の内部で生が実感される過程である。
それは、あなたが存在する一瞬一瞬に受け容れているすべての想念がもたらす結果を通じてのプロセスなのだ。

想念は身体中のあらゆる細胞にいきわたるので、その電気信号に対しては全身が反応する。
全身がである!
こうして、あらゆる細胞を通して体験される想念の結果、あるフィーリング、感触、感情、あるいは「体中を走る感じ」というようなものをつくり出す。
そして、そのフィーリングは魂に送られ、そこで記録される。

あなたの魂はすばらしい記録器であり、あなたの化身の内で感じられたすべての感情をきわめて科学的に記録する、まったくバイアスのないコンピュータなのだ。
何か感情を感じるとき、あなたが感じているのは、想念があなたの存在のオーラに衝突し、脳を通して受け容れられて、中枢神経系を通って全身に送られ、それが身体中の細胞にある「感じ」を発生させたものなのである。
すると魂は、将来の参考にする目的で、その感じを感情として記録する。
これが記憶と呼ばれるものだ。

記憶には大きさというものがない。
それはひとつの実体であると言える。
記憶は視覚的な記録ではない。
それは感情の記録なのだ。
視覚的なイメージをつくり出すのは感情なのである。
魂は、記憶の目的で画像や言葉を記録するのではなく、その画像や言葉のもたらす感情を記録するのだ。

魂は、全身で感じられた思考によってつくり出された感情を受けて、記憶の中からそれと似たものを探す。
脳の理性の部分、皆が知性と呼んでいるものが、そのフィーリングを描写する言葉を選ぶのに使えるものを探すのだ。
記述できることは、すべて体験にもとづいたある特定のフィーリングと結びついている。
皆が花を花として知っているのは、花についての感情面の体験があるおかげだ。
皆は花という構造物を見て、それに触れ、香りを嗅いだり、身につけたりした体験がある。
だから花はある特定の感じをもたらしてくれるのだ。
絹を絹として知っているのは、特定の感覚や感情的体験をそれと結びつけているからであり、それが「絹」という理解を生じさせる。
魂は、そういった感情の体験からの情報をすべて記録している。
想念からのフィーリングが感じられると、魂はそれを記録し、そして記憶にあるこれまで体験した思考の中から、それと似たフィーリングを探す。
そして、その情報を脳に送り返し、その想念は実感された、つまり化身全体を通して、そのすべてが理解されたことを伝えるのである。
思考はただ脳だけで実感されるのではない。
それは全身で実感されるのだ。
脳の理性の部分が、その後でそのフィーリングを描写する言葉を作成させてくれるのである。

想念はどのように実感され、知られるようになるのだろう。
それは感情を通してだ。
「知っている状態」というのは、まさにひとつのフィーリングにほかならない。
どんなものについての思考であっても、まず感じられるまでそれが知られることはない。
感じられて、はじめてそれはひとつのアイデンティティを持つのだ。
ある想念を知ることは、まずそれを脳の中に受け容れ、感じるのを自分に許す、つまり全身でそれを体験することなのである。
知識とは、あることを証明するのではなく、それを感情で確かめることなのだ。
一度そのフィーリングを自分の内に持てば、あなたは「それは知っている。その感じがある。知っている」と言えるのだ。

わが愛する兄弟たちよ、あなたたちの内にこそ、すべての知識への扉があるのだ。
あなたの内面で燃える炎は、あらゆる微少な原子、あらゆる巨大な星、あらゆる細胞形態を持つ生き物、つまり在るものすべての内にちらちらと燃える炎と同じものなのだ。
まったく同一の火なのである。
すべての生命とひとつであるというあなたの状態は、光の原理を通じて実感される。
魂にある感情に信を与える光とは、花々や、星や、その他在るものすべてに信を与えるのと同じ光だからだ。
だからこそ、あなたは自分の内にすべてのことを知る力を有しているのである。
何であろうとも、それを知るということは、意味もない難解な言葉に包まれた知性の美辞麗句を通して理解することではない。
花を知っている状態というのは、内面の存在が、フィーリングを通して到達するものなのである。
何かがどう考えているかは、それが発する波動、すなわち感情を通して必ずわかるものだ。
何かを知りたいならば、必要なのは感じることだけである。
そうすれば、あなたはいつも絶対に正しいだろう。

思考は人生の体験をどうやってつくり出していくのだろうか。
松果体は「知識を具現化させる」チャクラである。
受け容れることを自分に許す知識は、すべて現実となる。
まずそれは身体のレベルで起きる。
松果体が、まず最初にその想念が感情として記録されるよう、電流として全身に送る役割を持つからだ。
想念が限りなきものであればあるほど、体中を走る波動の周波数は高く、そして速くなる。
つまり、体験する「ハイの状態」、あるいは体中を走る感覚がより強くなるわけである。
そのフィーリングは、ある特定の波動として魂に記録される。
魂に記録されたすべての想念のフィーリングが、今度はひとつの期待感として、オーラに向けて放出される。
その期待感が、光の場の電磁部分を起動させ、ちょうど磁石のように、あなたの価値観や思考全体と似かよったものを何でも引き寄せてくるのである。
それは、あなたの想念すべてから得られ、体験されたのと同じフィーリングをつくり出す状況であり、物であり、人であるのだ。

なぜだろうか?
あなたが自分の想念を三次元的な現実として体験し、その過程で得られる最高の宝でもある叡智を手にするためにである。

では、望みというのはどう具現化するのだろうか。
望みとは、それが満たされるという想念を、物、人、あるいは体験を通して見たものにすぎない。
あなたが自分に感じることを許した「満たされるという想念」は、すべて電磁場を通ってあなたの身体を離れ、意識の流れに入っていって、あなたが身体で体験した欲求と同じフィーリングを生み出すものを引き寄せてくる。
その欲求が身体の内で完全に、そして強く感じられたものであればあるほど、それが満たされる形も完全なものとなる。
そして、望みが満たされると絶対的な確信をもって知っていればいるほど、それが現れるのも早くなる。
絶対的な「知っている状態」というのは、オーラの場を通して期待感を発する高い波動の想念であるため、自分の欲求を実現するあなたの力を増幅してくれるからである。

あなたにはあるものすべてを知る力がある。
それがもともとあなたの脳がつくり出された目的なのだ。
物質次元で物質的な身体の中に生きる神が、自分で体験し、理解したいと望んだ神の側面については、すべて三次元に形あるものを通してそれができるようにするためなのである。
あなたのすばらしいレシーバーを通して自分に知ることを許した想念は、すべて体験する現実となる。
はじめは自分の化身の内に見えるものとして、次にはあなたの人生の状況として。
そして、望んだことは、それがどんなことであろうと、知ることを通じてこれを一瞬のうちに自分の人生で具象化する力があなたにはあるのだ。
そうやって、この地球上に天上の王国がつくられていくのである。

それは実に簡単な科学だ。
忘れないでほしい。
思考はただ存在する。
そして、光は見える。
光の波動が下げられ、電気信号となる。
電気信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて固体となる。
そして、固体の波動が下げられて、想念・観念を表すものとなるのである。

同じ真実が身体にもはたらく。
それはやはり、思考、光、受信機であり、受信するものから電気を受けて、固体の全身に送り、その固体がフィーリングを通じて理解できるようにするのである。
望みを現実のものとするには、何でも自分の望んでいることを感じるだけでいいのだ。
するとその感情が父なるものに送り返され、それが満たされるのである。
ただそれだけのことなのだ。
単純すぎるだろうか。
それとも、もっと複雑なことをお望みなのだろうか?

『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

生まれ変わり

あなたがここに戻ってきたのは神を体験し、自己について理解し、「在りて在るもの」の本質を生きるためだ。
そして、「在りて在るもの」の本質は、思考の領域でつくり出されるあらゆる感情を網羅しているのである。

主:特に具体的な質問を持ってやってきたわけではありません。
あなたが誰に対して言ったことでも、私たち皆に当てはまると思いました。

ラムサ:そうです。つねにそうでした。

主:でも、二つ一般的な質問をしたいと思います。
この次元を去るとき、私たちは必ずもっといいところに行くとあなたは言いました。

ラムサ:そのとおりです。
この会場を去るとき、あなたはすでに、より偉大な存在へと進みます。
あなたの生は、あらゆる瞬間に、その前よりもすばらしくなっていくからです。

主:ええ、では生まれ変わりのはたらきについて何か教えてくださいませんか。
つまり、ここを去ってもっといい場所に行くのに、なぜまたこの次元に戻ってくるのでしょうか。
何かを学ぶために帰されるのですか?

ラムサ:主よ、まずはじめに訊きますが、この場所で将来あなたを待ち受けているもっといいものはないと、どうしてわかるのですか?

主:それはここに生きることが辛苦であるように思えるからです。
対処していかねばならない苦痛や哀しみがたくさんあります。
自分自身で多くの苦痛を体験しているのではなくても、そこらじゅうにそれが見えます。
ですから、ここには明らかに多くの苦痛があり、これが近い将来ずっと良くなるとは想像しがたいのです。

ラムサ:ここ地上界にあった最後の「苦痛」は飢餓でした。
皆、いつも空腹だったのです。
その頃の生活と言えば、一生懸命働いて、ペニーでもルビーでもシェケルでも、とにかく空腹を満たすためのパンの一斤やチーズの一かけ、あるいはまずいワインなどを買うお金を稼ぐことでした。
いまの自分たちを見てごらんなさい。
皆、脂肪を落とそうと必死になっているではありまぜんか!
皆が充分に食べられるようになり、小太りになってきたと思ったら、誰かがやってきて「だめだめ、そりゃ美しくないよ」と言うのです。
だから今度は、皆、一生懸命飢えようと努力しているというわけです。
人生というのはまったく冒険の連続としか言いようがありませんね。

主よ、この場所での「苦痛」とは、つまり自我というもののことです。

主:ええ、でもあなたの言いたいことがよくわかりません。
人生というのは繰り返しなのだと言っているように聞こえます。
その繰り返しに終わりはないのでしょうか。

ラムサ:人生というのは循環ではないし、それが繰り返されることもありません。
それはつねに変化していますが、同時にそれは不変となるべく一瞬一瞬、進化しているのです。
生はすべてを包括し、それが存在するという事実、その「在るということ」だけで、次の瞬間をつくり出しているのです。

それは一瞬一瞬、各々の存在の手で、各人の価値観にしたがって創造されています。
変化のサイクルが繰り返しに思えるのは、生に対する見方のためなのです。

生まれ変わりは確かに真実です。
でもそれは単に、生に対する見方が身体が死ぬことを許したために、ひとつの身体を置いて、ここかあるいはこの物質次元のどこかほかの場所で、別の身体を取り上げるだけのことです。

なぜここに戻ってくるのでしょうか。
それは、戻ってきたいからです。
あなたは自分がここに戻ってこさせられる、自分がどの次元にいようとも、そこから追い出されて化身に戻り、産道を通る苦労やまわりの自我に完全に依存するという苦労をただ繰り返すだけだと思うのですか?

ここにあなたを送り出した宣告などありませんでした。
あなたに自分の意志に反することをさせられる人は誰ひとりいないからです。
ここに戻ろうと決意したのは、あなたです。
あなたが再びこの次元で自分を表現したいと望んだのです。
ですから、もしあなたが自分のみじめな状況を誰かのせいにしようとするのなら、自分の目をしっかりと見据えなくてはなりません。

自分のよろこびも、自分の存在も、自分の悲しみも、あるいはすばらしき人生も、すべてはあなた自身にその責任があるのです。
本当に、そろそろこれを皆が知るべき時期にきています。

この地上界に生まれ変わることを強いられる人は誰もいません。
しかし、気の遠くなるほど長い間ここに生きていると、人間はこれが存在のすべてだと思い始めてしまうのです。
そして自分の身体を失い、感情的な執着から離れ、いろいろあったおもちゃがなくなってしまうと、もうすぐに大急ぎでここに戻ってきたくなります。
ここがただひとつの天国だと思ってしまうからです。
だからこそ、その人にとっては実際にそうなるのです。

あなたがここにいるただひとつの理由とは、あなたが、ここにいたいからです。
あなたの存在の内に、ここで満たすべき何かがあるからです。
その何かとは、よろこびや悲しみ、憐れみや怒り、あるいは苦痛など、自分がこの幻影の次元で体験したいと思うものを何でも表現する必要性のことです。
それを自分の好きなだけ体験するためなのです。
それに飽きたりつまらなくなったりしたら、自分の見方を変えて、何かほかの感情を体験するのです。
事実はそれほど単純なものなのです。

ユートピアが、苦痛や悲しみや、地獄のような状況と並んで存在することはあるのでしょうか。
もちろんあります。
わずかな考え方の違いがそれを隔てているだけなのです。

あなたがここに戻ってきたのは、神を体験し、自己について理解し、「在りて在るもの」の本質を生きるためです。
そして、その「在りて在るもの」の本質は、あらゆる人のすべてを内包しています。
あらゆる見方、考え方、感情、性格、それにあらゆる状況を網羅しているのです。
それは神という思考の領域で創造されるものであり、すべて幻影なのです。

あなたは自分がなぜいまの自分なのかわかりますか?
それはほかの役割はもうほとんど体験してきていて、今回はいまの自分を体験しているからです。
なぜ飢えた子どもではなく、いまのような裕福な人間に生まれてきたのでしょうか。
それはあなたが裕福な人間になりたがっていた、飢えた子どもだったことがあるからです。
だからいまはそうなったのです。
なぜあなたは家族を養うためにパンを焼くパン職人ではないのでしょうか。
それはあなたがパンを焼いて家族を養っていたパン職人だったことがあるからです。
そして今度は、パンを彼から買うほうの存在になっているのです。

この世界のすばらしいところは、それが途切れなく続いていて、変えることもできるし、何でも自分の好きな役になれることです。
そして、生命の場で進化していくにつれて、自分の内面にとって最も重要な学びを与えてくれる幻を演ずるための舞台を提供してくれる局面へと、あなたは進んでいくのです。
そしてその舞台では、王様にも乞食にも、愛する者にも愛される者にも、奴隷にも自由な人間にもなれる自由があなたにはあるのです。
そこでは、自分の魂がその命を満たすために必要な叡智を提供してくれる幻なら何でも可能なのです。

主よ、あなたがまだしていない体験はたくさんあります。
まだしていないこと、会ったことのない存在がたくさんいるからです。
この世界には、必要とするものもきわめて清楚で、崇高で平和な生き方をしている存在がいます。
必要なもの、欲しいものは、ただ単に出現させてしまう人たちです。
彼らは幸福でよろこびにあふれた生活を送っています。
その生き方は、あなたが自分の体験として、まだこれから選んでいくべき思考レベルでの見方であり冒険なのです。

あなたがまだこれから体現していかなくてはならない叡智はたくさんあります。
その中で、最も大事なものは何だと思いますか?
ただ生きるという、単純な理由のために生きることなのです。

生きることだけのために生きるのは、生について得られる叡智の中で最も偉大なものです。
それが平和を知ることができるときだからです。
よろこびを知ることができるときなのです。
そして主よ、あなたが再び全身全霊で神になることができるときであるのです。

生についてのこの叡智は、まだあなたがこれから体験すべきものです。
それはあなたが、自分がおどかされ、怯えさせられることを許してしまい、人を支える役割、労苦を耐える役割、競争する役割、理想主義的な役割、苦しむ役割、神経症的な役割へと自分を追い込んでしまってきたからです。
それを自分の運命と受け容れてきたので、そのとおりになったのです。
でも、もし生というものの他の部分を見に行くことを自分に許すならば、こういった役割は、生きる上であなたが持っている選択のわずか一部分にしかすぎないことがわかるでしょう。

この場所での生は、人類の歴史でいろいろなことがあったにせよ、本当はやはり相当優れたものです。
残念なことに、都市に住み、社会意識のどろりとしたよどみの中に生きる者たちは、この場所がみじめでひどいところだと思っています。
でも、もしも勇気を出して観念や脅しや人間の限られた意識から離れ、自然の中で自分の内にある神とひとつになって生活することができたならば、生きることはとてもすばらしいのだとわかるでしょう。
それは途切れなく続く、無限で美しいものであることがわかるのです。

主よ、あなたがここに戻ってきた理由は、生きるためです。
しかし、あなたはまだ自分をこの次元に拘束するものから自分を切り離していないので、神と生というものの壮大さを体験していないのです。
氷河の上を歩いたり、橋のような形をした岩の下に隠れたり、あるいは冬の窓の外をじっと見つめ、そこに紅冠鳥がとまっているのを見た体験もなければ、砂漠を歩き、食物を求める蛇を見つめたりしたこともないのです。
巨大なピラミッドの中でひとり眠ったり、誰も脚を踏み入れたことのないような場所を探検したこともありません。
そのような場所はまだたくさんあります。
大洋を航海し、大きな魚が飛び跳ねるのを見てもいないし、鹿の後をつけて木漏れ陽のさす森に脚を踏み入れた体験もないことでしょう。

自分の存在にとって、しびれるような、ぞくぞくするすばらしいことを、あなたはまだあまりしていないのです。
そして、そのどれひとつをとってみても、それに比べれば、あなたの仕事や学歴や地位や自動車の年式などどうでもいいことなのです。

これらはあなたがまだこれから体験していく生の側面です。
しかし、実際に体験すれば、それはあなたの神経症や恐れや策略や疑問に思う気持ちなどを、一気に消滅させてしまうことでしょう。
そして、よろこびで爆発したいくらいだと思う瞬間が訪れます。

さて、もしここに戻ってきたくないのなら、戻ってきてはいけません。
そうしなくてはならない理由など、絶対にないのです。
私は二度と戻ってきませんでした。
それは、風とともに昇華し、自分であるものすべてを持っていったからです。
そうすることで、私は自由な存在になりました。
自由な存在なのです!

それは、この場での自分の人生でしたことすべてを超越したからです。
自分を許し、この生を受け容れて心に抱き、神になるという、いますべきことへと進んでいったのです。
そして、もしこの無知でみじめな蛮人にそれができたのなら、主よ、あなたにもできることは火を見るよりも明らかです。

この次元での生を終える形というのは、まずそれを生き、愛し、そこにある単純なものの一部となります。
次に、生の自由を制限したり、限定したり、あるいは怯えて縮こまらせてしまうような観念を自分の中からなくしていくのです。
そして、自分自身の自由の中に生き、自分を愛し、そして自分を他と比べるのをやめるのです。

社会的なイメージのために生きるのをやめ、自分の内でそれがどんなものであろうとも、自分自身の理想と真実のために生きるようになり、自分という永遠の存在を愛するようになったとき、あなたは草花や魚たちや、まさに生命すべてとひとつになるのです。
そうすればあなたはこう言えます。
「この体験はもう終わりだ。
私はここにあるすべての生命を愛した。
だから新たな冒険に進む準備ができたのだ。
遠い国々、新しい叡智、そしてこれまでとまったく違う存在の形へと」。

こういったことをしたならば、あなたはこの次元を輝く栄光のもとに去ることができるのです。
私はそうやってここを去りました。

私はこの次元を愛する者です。
ここにある渓谷をよく歩きます。
木々の間をそよぎ、子どもたちの笑い声の一部となるのです。
ここで生きることがどんなものか、私は知っています。
ここで価値あるものを見逃してはいないからです。

しかし、それよりもっと大事なのは、何よりも私が愛する者たち、わが愛する兄弟たちの苦難を知っていることです。
そして私には答えがありますが、それは実践されなければほとんど役に立ちません。
あなたと、そしてほかのすべての人がここで自己を表現している理由は、それをしたいからなのです。
それが生まれ変わりです。

主:ありがとうございました。
いま言われたことをよく考えてみなくてはならないと思います。

ラムサ:そうしなさい。
なぜなら、そうすれば、あなたは自分という存在にもっとやさしくなり、自分がもうすこし楽に息ができるようにさせてあげるかもしれませんから・・・。

主:それから、もしできたら、この次元に押し込まれていないときにあなたは何をしているのか話してもらえないでしょうか。

ラムサ:皆さんがしているのと同じこと、つまり自分を表現しているのです。
ただひとつの違いは、皆の表現には制限がありますが、私のにはないということです。
私は永遠に手が届くのです。
自分の終わりについてはけっして思いめぐらすことはありません。
そんなものはないのですから。
そして、本当に私は風とともに行きます。
それが私の究極の望みでした。

私は幸せでいます。
あなたの人生を見つめ、あの人のも、この人のも見つめています。
そしてここでの皆の幻を見て、それは皆にとっては確かに深刻なことばかりで、いわば気持ち悪い色の水でいっぱいですが、私はおかしくて笑ってしまいます。
なぜなら、ただもっと見ようとすればいいだけのことで、そうすればもっと豊かなものがあるからです。

私は自己を表現していて、自分の在るがままで幸せでいます。
いま皆が見ている姿ではないとき、私は「在りて在るもの」なのです。
すべてのものが生まれてくる場です。
第七のレベルとは思考の総体で、それは膨大な「空」であり、惑星を軌道に保ち、細胞の間をつなぎ、永遠に近づくところまで存在しているすべてのものを内包しています。
そして、第七のレベルの存在になると、もはやレベルというものさえありません。
ただ存在するだけなのです。
そういう意味で、すべてのもの、すべての「知っている状態」、そしてあらゆる思考を体現する感情すべてとなるのです。

思考そのものになるのがどんなことか思いめぐらしてみてください。
思考はどれほど遠くまで移動することができるでしょうか。
太陽の表面に思考を置いてみることはできますか。
月の裏面はどうでしょうか。
あるいはあなたから見える天界の大小の星には?
どこかほかの次元にいる別の存在に想念を送ることはできるでしょうか。
これはみな、ほんの一瞬もかからずにできることです。

そうなれるものを、あなたは自分の内面に持っています。
そういう表現をしたがらないのは、あなた自身なのです。
いまある状態の表現をしたがっていますから、それはそのとおりになっているのです。

主:自分がなぜ繰り返し戻ってくるのかわかる時点が、必ずあるはずだと思うのですが・・・。

ラムサ:あります。それは、幸福と呼ばれるものです。
そしてその時点とは、いまの自分よりもなりたい存在などない、いまいるこの場所よりもいたいところはないというときのことです。
それが、わかる時点です。

もうひとつ、あなたにとっての悲しみや苦痛が、他の存在の幸福であることがよくあります。
ここにいる人は誰でも自分の人生は幸せなのです。
皆そのことに気づいていないのですが、それは彼らの幸せの理想像というのが、ピーターパンのおとぎ話に出てくる妖精ティンカーベルよろしく、あちこち忙しく動きまわっては、すこしでも状況をよくしようと、あれを青に、これを紫にピンクにという具合に色を変えているピエロのような存在だからです。

ここにいる誰もが幸福です。
なぜなら、誰もが自分の意志にしたがって自分のしたいことをしているからです。
もし病気になりたければ、病気になっています。
もし不幸になりたければ不幸になっているのです。
それは、そうなりたいからで、そうなることが彼らを幸せにしてくれるからなのです。
無理に笑わせようとすると、突如として涙を流して泣き崩れてしまう人もいるくらいですから、ここにいる誰もが自己を表現し、生を楽しんでいます。
もしそうしていなかったら、一瞬のうちにその人は死んでしまうことでしょう。

そして、ときが来れば、皆、確かに死にますが、それは自分はそうしなければならないと思っているからです。
主よ、ある日あなたもまわりにいる皆を見ているだけで気づくことでしょう。
どんな形で自己を表現しているにしても、皆、限りなく幸せだな、と。

主:もうひとつ質問をしてもいいですか?
ほかの生で私がいろいろな人間だったと言われましたが、過去世で私がどんな人間だったかを教えてもらえるでしょうか。

ラムサ:主よ、もしあなたの「記録」と呼ばれているものをすべて詳細にわたって取り出し、それを話そうとしたら、あなたの次の生までここにいることになってしまうでしょう。
あなたの生の数は、二万三百四十六・・・と半分です。
ですから、あなたの過去について語るなら、どの時代の、どの国で、どの幻像についてなのかを決めてもらわなくてはなりません。
そうすればそれを取り出してくることができます。

しかし、主よ、自分の人生が凡庸で感情に欠けていると思っている人たちの多くが、過去に凝った想像を働かせていることに私は気がつきました。
過去には、彼らが今の生にないと感じている人生の躍動感、あるいは自愛の念があると見ているからです。
そして、過去についてこれ以上はないと思えるほどロマンチックで英雄的な空想をします。
ここでの人生が退屈でつまらないものであるとき、自分は戦で勇敢に戦い、自分のために泣いた女をたくさん残してきたのだといつでも結論づけることができるからです。
そして自分が凱旋してきたときには、町中がこれを祝い、そのお祝いは長い長い時間続いたというわけです。
あるいは、その時代、自分は世界中のどんな女性よりも美しく、あらゆる男性は自分の恋人だったというのかもしれません。

さて、これは皆に理解してほしいことです。
皆はそれぞれ数多くの生を生きてきました。
その生は、華々しくてロマンチックなものであり、みじめで野蛮なものであり、有名人であり、悪名高い人間でもありました。
しかし、過去のすべての自分も、いまのあなたほど偉大ではなかったのです。

このいまという瞬間、主よ、あなたはこれまでで最も偉大な存在なのです。
なぜなら、いまのあなたは、これまで生きてきたすべての生の知識と体験の集大成であるからです。
主よ、いまというのが、これまであったすべての目的だったのです。

いまの自分の仮面や幻像や体験にかかわらず、あなたが現在のあなたほど優れた存在であったことはこれまでないのです。
あなたがいま、有している智慧、知識、そして愛は、これまでよりもずっと大きなものだからです。
もし私があなたを、五つ前の過去世まで「後退」させたとしたら、あなたは自分が誰だかわからないでしょう。
なぜなら、あなたは自己という要素を、過去の自己では認識できないところまで進化させてきたからです。
これまでに生きた生で自分だった人間が今日のあなたを見たとしたら、あなたのことを勇敢な人間、天才、異端者と呼ぶことでしょう。
あなたを「取り憑かれた」人間と呼ぶでしょう。
あなたの叡智が自分の時代のものよりもはるかに偉大だからです。

過去に自分がどんな人間だったかを見るのは賢いことではありません。
過去に答えを求めると、あなたは生のこの瞬間をけっして体験することはなく、いまが持っている未来についての答えも体験することはできません。
自分がうしろを向いているために、それがやってきても見ることができないからです。

主よ、あなたは過去に自分が誰だったのか知りたがっているというのに、いまの自分が誰かさえ知らないのです。
過去に自分が生きてきたことを知るのはいいことです。
それはこれからやってくる明日に希望を
持たせてくれるからです。
しかし、そういうすべての体験に生きていた根本的な美は、あなたの内面でいまでもまだ静かに考えながら、ある悟りへと目覚めるのを待っています。
自分は、好きなように生を創造し、自分の命を満たしていく力と選択を持つ偉大なる神なのだという悟りなのです。

このいまという瞬間に生きることを学ぶことです。
いまというときは、いわば処女領域なのです。
何でも許される瞬間なのです。
あなたが自分の態度を通して、その処女領域である時間を、自分がこうだと決めたものにするのです。
不愉快になったり、苦痛や悲しみを感じたり、みじめになったりすることもできます。
それはすべてほんの一瞬でできることなのです。

あるいは、次の瞬間に自分の態度を変え、美しく、自由で魅惑的、幸せでよろこびと歓喜にあふれる自分になることもできます。
すべてはその瞬間に起きることです。さらに次の瞬間には、前の二つにはまったく影響されず、厳粛、聡明で、何にでも一生懸命取り組み、良心の阿責の意識を持つ人間になるなど、とにかく何でも自分が望むものになれるのです。

大事なことは、いまの自分が誰なのかを知り、この人生で幸せになるよう何か行動を起こすことです。
もし将来の生で、今回の生を覚えていてほしいと思うなら、一つひとつの瞬間を感慨深いものにして、魂の内でそれがいつもあざやかなままで残るようにするのです。
無限へと生きていくことを願うなら、まずこの瞬間の一つひとつをフルに生きることを学ばなくてはなりません。

主:私の未来には何が見えるか教えてもらうことはできるでしょうか。

ラムサ:あなたが未来に誰になるかですか?
あなたはいつもあなたのままです。
目や皮膚の色、それに顔となる仮面は変わりますが、あなたはいつもあなたなのです。
いつも同じ魂、存在の中に同じ神、同じ精神を持っています。
次の生では、それが何であろうと、あなたが自分で演じようと決めた幻像の人物となります。
そしてもしそれがこの地上界であれば、あなたは出生の過程を通り、自分独自の計画にもとづいて子宮の果実を創造して、その存在の中であなたが自分のために設定したゲームや幻影をすべて満たすようにしていくのです。

あるいは、単に幻はなしで、さらに偉大なる叡智へと進んでいくこともできます。
主よ、いまという瞬間に生きることを学びなさい。
この人生で堂々たる存在となり、あなたを体験するのです。
風に乗り、想念で月へと航海しなさい。
あなたのすばらしき想念を太陽のもとに置き、あなたが誰かを知らしめるのです。
星の上に腰かけなさい。
水に語りかけるのです。
それがすべてあなたであり、すべて神であり、すべて生というものなのです。

主:ありがとうございます。
最後の質問がひとつあります。
私がどの次元に進もうとしているのか教えてもらえるでしょうか。

ラムサ:神へ、です。
自分の「神なる状態」へと進んでいるのです。
神であることに向かって進んでいるのです。
自分の神なる状態を進化させているのです。
あなたはこの場所に神としてやってきて、飢えや暑さや寒さ、それに領土の境界線など、肉体界のもろもろに巻き込まれてしまいました。
そして、自分の神性、力、それにすべてを内包し、すべてよりも賢い知性である自分の姿を忘れ去ってしまったのです。
それがあなたとこの次元とのつながりをつくり出しましたが、この次元もまた第七のレベルに向かって進化しているのです。

あなたは第七の叡智、つまりすべての内にある神を知るという次元に向かって進んでいます。
そして、その知識の頂点にあるのが、それを与える者、つまりあなたなのです。
完壁にそうなのです。

主:そうでありますように!

ラムサ:そうなるべくして、なるのです。

『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

忘れ去られた神性

人は自分が神なるものなどではないと繰り返し言われ続ければ、それが固い信念となる。
人間という、真理を求めるこのか弱き存在は、何よりもまず受け容れてもらうことを願い、そのためにはどんなにばかげたことにでも耳を傾けてしまうのだ。

かつて人間は自分の血筋と血統を知っていた。
かつて人間は、神を自分とは別の存在としてではなく、途切れなく続く生の荘厳なる「在るということ」として、また神なる永遠の自己の生の流れそのものである、思考の「在るということ」として知っていたのである。
人間はかつて、それを知っていたのだ。
人間は、自分たち人類のために、「内なる炎」、つまり人間の内にある神のことをいつも忘れないようにと、時代を超えて存在する数々の巨大なピラミッドをつくった。
皆の歴史を通じて起きたさまざまな出来事にもかかわらず、それらのピラミッドは、いまでも人間の偉大さと神性の象徴として建っているのだ。

この地上界で人間が存在しはじめた頃、まだ自分が神であることを知っていた頃、人は同じ化身に何千年もの間生き続けたが、身体に不滅の力を与えたのは、人間が在るがままの状態で表現していた無限の思考の純粋性であった。
人間、神なる人間は、この次元での最初の生の体験の最中にも、すでに自分が神であることを忘れ始めていた。
なぜか。
それは、この物資界というすばらしい遊び場を心から愛したからであり、この次元を体験し、ここで創造していくことだけが大事なことになってきたからだ。
そして、この場所で自分の創造性を表現することを探求する課程で、(また、それを可能にしてくれた手段である媒体を維持していくために)限りなき思考過程を体現する華麗な生き物である人間は、生存や、嫉妬、そして所有欲という限りある想念の体験を始めたのである。

人間の存在、そしてその魂と精神は永遠の存在だ。
それはけっして変えられない。
だが、神々が自分のために大地の土から創造した化身は、そこに宿る有限の存在の想念に影響されやすい。
人間が受け容れ、自分が感じることを許す想念は、すべて身体に表出する。
この化身は人間の世界の最終の部分であり、そこに宿る神の思考過程によって維持されているからだ。

神なる人間が生存という価値観を体験し始めたとき、それは身体の中にある永遠の生命の流れに点火する思考の力を少し弱め始めたのだ。
こうして、身体がうまく機能しなくなってきた。
身体がうまく機能しなくなってくるにつれ、それは人間が自分の脳で理性的に考える能力をも衰えさせた。
理性的に考える力を失うにつれて、人間の意識を恐怖が支配し始めたのである。
恐れという要素が人間の思考過程の中でひとつの価値観となるにつれて、化身のほうは、恐怖の力とその影響をこうむり始めた。
それが病気であり、死なのだ。

皆のいる次元の初期の文明は、偉大なる覚醒に恵まれていたが、やがてその思考過程の無限性が徐々にかげりを見せ始め、死の予感と生存という価値観を通して限界あるものへと変質していった。

死の恐怖からくるこの生存という価値観は、俗に「生存本能」と呼ばれるものを通じて未来の世代へと伝えられていく。
人間が考えることは、すべてその細胞と遺伝子の構造にパターンとして記録されるからである。

神々は、身体という形を通して自分の創造性を体験してみたいという願いから、物質という制限ある世界へと入っていった。
しかし、神々がこの次元で、人間として、限界という新しい世界観を体験したとき、知らないうちにこの肉体の体験から抜けられなくなっていたのである。

最初の化身の死を体験したそれぞれの神は、空と呼ばれるものに入っていった。
この空は、実際にある場所で、光のひとつの次元だが、「すべてを知る神」の意識、叡智のレベルでもなければ、物質の次元に戻ったわけでもなかった。
神はもはや無限の思考という次元に戻ることはできなかった。
限界という価値観を、自分の思考過程の中にあるひとつの変容として持つようになってしまったからである。

自分が生の過程で進化し続けるために、またこの物質界という遊び場がすばらしい体験だったこともあって、神は早くここに戻りたくてしかたがなかった。
そのため、自分自身の子どもの種を通して、神は別の化身の中に戻ってきたのである。
物質次元で自己表現を続けるため、また、前の生で自分の思考過程を変えるのを許してしまった限りある想念をすべて融和させるためであった。

しかし、この次元の物質的な面をもっと多く体験し始めるにつれて、神はさらなる変容を体験し、限界の中にどんどん深入りしていった。
こうして、この「見る次元」での転生のサイクルが始まったのである。
神々が生の冒険を続けるために、人間として何度も何度もこの地上界に戻るにつれて、この次元が徐々に彼らの生の概念すべてとなっていき、自分の血統と神性を忘れ去ってしまったのだった。

もはや彼らは神を「すべてであるということ」、「すべての思考」とは考えなかった。
もはや彼らには、もし望むなら、純粋な思考の次元に、存在のはじめから自己を表現していた意識の次元である限りなき存在に戻れるのを「知っている状態」が維持できなかったのである。
限られた領域、限られた思考しか体験できないと考えるようになってしまったのだ。
こうして、意識が表出する別の次元が「限られた天国」、限られた領域として新たに出現した。
そこでは、あらゆる次元の中で最も偉大でしかも単純な次元を忘れ去ってしまった存在たちが、自分の化身の死を迎えたときに、自分の幸福観と集合的な価値観、思考にしたがって、生を体験できるのである。

人間としての神々が、もはや自分が神なるもの、不滅なものであること、そしてすべての力、すべての知識は自分の内にあるということを知らない状態となったとき、彼らはまわりの存在の自我に対して脆弱になった。
ほどなくして、神秘的な力と計り知れない知識の源を通じて、自分たちだけが神について理解していると語り、自分たちをほかの人間よりも高い位置に置こうとする存在が現れてきた。
人間はもうすでに恐れおののく動物の群れのような存在となっていたため、これらの預言者や霊能者、そしてその託宣は、来たるべき滅亡と恐怖の預言を流布し、そうすることによって彼らは自分たちの権力を強めようとしたのである。
そして預言者の語ることに人々が特に注意を払わなければ、彼らは罵りと永却の罰という脅迫を用いたのだった。

こうして地上界には宗教が生まれ、人間をその内なる美と、その永遠の神性からさらに遠くへと離してしまったのである。
宗教は大変賢かった。
剣をもって人々を治め、支配する必要などなかったのだ。
神は自分の手の届くところにはなく、すべての知識、すべての力も自分の内にはないのだという教えを永遠のものとして固めてしまうだけでよかったのである。

魂は、永遠の記憶を持っている。
それは、すべての生のすべての体験を記憶しているのだ。
人間が繰り返し言われることは、それがどんなに偏向した考え方であっても、最後には確固とした現実となる。
人間という、真理を求めるこのか弱き存在は、何よりもまず受け容れてもらうことを願い、そのためにはどんなにばかげたことにでも耳を傾けてしまうものなのだ。
もしある人間に、神は自分以外のところにあり、おまえは魂が卑しく邪悪なのだと繰り返し言えば、この想念はその人間の魂の記憶に確固たる概念として刻み込まれ、これを変えるのはきわめてむずかしくなる。
まさにこれこそが、この地上界で何千年にもわたって起きてきたことなのだ。

多くの単純な存在たちが、ひとつの生から別の生へと戻ってきては、またもこういった教えのもとに集ってきたのである。
そして、彼らは自分たちが邪悪であり、神は自分の存在以外のところにあると信じるよう、あまりに強く条件づけられてしまったために、自分は神なるものなどではないと絶対的な知識として知るようになり、神を知るたったひとつの道、神のところへ戻るたったひとつの道は、預言者や僧侶や、宗教団体を通じてのものだと信じてしまっているのだ。

自分が真実の本質であるという知識をもはや受け容れなくなったとき、人間は自分の独立性と力を投げ出し、烏合の衆の一部となった。
これは、さまざまな時代を通じて、宗教や政府が人々をまるでひとつの存在であるかのごとくに支配することを許してきた。
だが、人々はひとつの存在ではない。
皆それぞれ満たすべき独自の命と、体験すべき冒険がある個々の神々なのだ。
人間には、自分の冒険をする権利があるのだ。

自分は卑しい罪人であり、父なるものは自分以外のところにあるという教えを受け容れたとき、人間は自分を神から完全に切り離してしまった。
この考え、この信念の受容が、人間を何度も何度も化身に戻らせているもとなのだ。
自分は神ではなく、父は自分の内にはないという考えを持っている限り、自分の神性に気づき、再びただ在る状態に生きるようになるまで、その人間は百万回でもこの次元に生まれてくるという、いわば恐ろしい運命にあると言える。

この世に生まれることは、人を陥れる罠としてつくられたわけではない。
永久に続くものとしてつくられたわけでもない。
参加するための単なるゲームであり、創造性と生の探求の中の新しい冒険にすぎなかった。
しかし、皆はすぐさま化身の五感に埋没して我を失い、身体があなたという人間すべてとなってしまったのだ。

この次元での物質界にあまりにどっぷりと浸ってしまったために、あなたは不安に駆られた人間、恐れる人間、か弱き人間、ひとつの死ぬ要素でしかない人間となった。
すべてはあなたが自分の内にある強力な本質を忘れてしまったからなのだ。
そうして、あなたは死のことは学んだが、生については忘れてしまった。
哀しみは学んだが、よろこびを忘れてしまった。
人間のことは学んだが、神のことは忘れてしまったのだ。
自分の好きなように幻をつくり出すことを可能にしてくれる荘厳なる知性のことを・・・。

皆、誰もがこの地上界では多くの生を体験している。
三万回の人もいる。
一万回の人もいる。
あるいは二回だけの人もいる。
それだけ生き、死んでいるのだ。
そして、この次元での生は夢であり、ゲームであり、生の冒険での幻にしかすぎないのに、それはあなたをひどく汚してしまった。
数多くの生を生きている間に、家族から、社会から、宗教から、あるいは政府の権力から、自分は卑しい存在であり、神は自分の手の届くところにはないと繰り返し言われたために、思考過程の中でそれが確固たる現実となってしまっているのだ。

今日でも、皆のほとんどは自分が神であることをいまだ知らないでいる。
自分の内に、すべてを知り、すべてになる力があることを知らずにいるのである。
だからこそ、教師や宗教や他の誰にでも自分の人生を支配させ、真実を解釈してもらっているのだ。
地上の時間で、もうすでに長い間繰り返し語られてきた単純な真理を、他人の考えがわざわざややこしくし、混乱させるのを許してしまってきたのである。
それは、父なる存在、天の王国はあなたの内にあるという真理のことだ。
これより偉大なる真理がどうしてあり得ようか。

しかし、これを知らない皆の多くは、神とつながり、覚醒するためには、教義や、いわば「機構」的なもの、儀式や祈りやお経や断食や瞑想が必要だとまだ思っているのだ。
が、こういうことをすればするほど、あなたは自分の魂に、まだ自分は自分がなろうとしているものになれてはおらず、神の愛、そして自分が求めている叡智からは遠いことを確信させてしまうことになる。
なぜなら、それを達成するために、こんな苦労をしなければならない状態にあるからだ。

もちろん宗教が間違っているわけではない。
宗教の教えを確立し、それを広めてきた者たちは、自分自身の神性、自分の価値、そして力というものを理解しようと求める過程で、自分の兄弟たちを隷属させ、その結果自分自身を隷属させてしまった愛すべき兄弟なのだ。
彼らがしてきたことは、それ相当の害があったにしても、彼ら自身の体験、理解としてひとつの真実だった。

私はすべての人々を愛するものであり、それは僧侶たち、預言者たちも例外ではない。
彼らもまた神なのだ。

儀式を行ない、教義を奉ずることは誤ってはいない。
だが同時に、それは完全にぴったりとくるように感じられることもけっしてない。
なぜなら、あなたの内なる声(それが神そのものだ)が、自分が到達しようと一生懸命がんばっているものにあなたはすでになっているではないか、と語りかけてくるからだ。

私がここに戻ってきたのは、それよりも良い道があることを伝えるだけのためだ。
また、あなたはすでに神なのだと伝えるためだ。
そして、あなたはけっして失敗などしていないことを。
間違ったことなど何ひとつしていないことを。
あなたはみじめな卑しい存在ではないということを。
あなたは罪人ではないということを。
そして、悪魔というすばらしくもばかげた存在もないのだということを。

こういったことがわかれば、こんどは幸せでいることに集中できる。
それこそ神の姿なのだ。
父なるものは、怒りと哀しみにあふれた、瞑想的で信心深い存在ではない。
完壁なよろこび、限りないよろこびがその本質なのである。

あらためて言うが、神はあなたの内にあるのだ。
数多くの生を通じていつもそこに存在していた。
あなたはすでに神であり、それがあなたの存在の内にあるくぼみに棲む、創造性あふれる神なる知性なのだ。
その愛であなたに限界ある存在というものを体験させてくれたもの、そして今度は再びその愛であなたを限りない存在へと誘ってくれるものなのである。

限界ある存在というのはひとつの冒険、体験となってきた。
この次元にいる者たちはほとんどがそれを充分に体験している。
しかし残念ながら、さらに良いものがあることを忘れ、皆は限界ある存在を生き方のすべてにしてしまっている。
限りない思考を使えば、化身や、すべての場所、すべての宇宙を超越できるのだともし知っていたら、あなたは二度と限定されることを選びはしないだろう。
それを本当に知って、すべての思考を受け容れ、それを心に抱くことを自分に許すならば、あなたはどんな最高の夢でも、かなわぬような人生のよろこびと平和を手にすることだろう。

思考が究極の創造主だ。
あなたが思うこと、そして自分に感じるのを許すことは何でも人生の現実となる。
皆が抱く想念の中で、限りある思考の幅を超えるものは、すべて皆の人生を広げる形で具現化する。
必要なのは、自分の思考過程を開放し、限られた人間を超えて無限の神になるために、さらに多くの限りない想念を受け容れることだけなのである。

存在の内面では自分が卑しい存在だと「知っている状態」になったのとまったく同じように、いま、自分は内面では神なのだということを知れば、あなたのすべては神となる。
ここで純粋思考の第七のレベルの叡智と呼んでいるもの、つまり存在の究極の状態、あなた自身がすべてのものの究極の力である状態に戻るためには、父なる存在が自分の内面にあるということをただ知るだけでいいのだ。

なぜなら、自分が神であるという記憶は、あなたの存在の魂の内に宿っているからである。
それはあなたの魂の内で眠った状態にあり、その存在を認められ、いつでも現実の体験となれるよう待ちかまえている。
そうなるのは、知ることを通じてだ。
自分が神であると知るとき、それを確信したフィーリングは、この「知っている状態」が真実であることを教えてくれる体験と叡智をつくり出す。
その「知っている状態」を与えることのできる人は、ほかに誰もいないのだ。
あなただけが、自分の思考過程と感情という存在を通して、その叡智を得られるのである。

神と自分がひとつであることを知ると、思考過程から分離という価値観を取り除き、神である自分の頭と再び連結することができる。
何よりも賢く、すべてを知る父なるものの知性とは、あらゆる存在の基盤であり、あなたがすべての思考そのものになるのを許している「思考の総体」であると気づくとき、あなたは神であるすべて、つまりはすべてのものになる。
そうすれば、あなたは自分の自由へ、偉大さへ、そして栄光へと戻ることができる。
もうこの天国に何度も何度も戻ってくる必要はなく、さらに偉大な天界へ、あなたを待ち受けるさらに壮大な冒険へと進んでいけるのだ。

とにかく、在るがままでいる以外、この次元であなたが成し遂げなければならないことは何もない。
自分が神であると知るのは、ただ在る状態ではじめて可能になることだ。
なぜなら、神とは存在そのものであり、すべての生命の「在るということ」だからだ。
ただ在る状態、どういう形でそれを表現しようとも、自分にただ在るがままにさせる状態でいるというのは、父なる存在とまったく同じになるということだ。
そしてそれは、ほんの一瞬にできることなのである。
わずか一瞬の間に実現することなのだ。

神とは、たったいまのこの瞬間のことだ。
無限とは、いまのこの瞬間なのである。
永遠に神となるというのは、このいまの瞬間にある永遠に完全に生きることだ。
神はそうして生きているのである。
ただ在ることだ。
そうすれば、すべての生命の「在ること」、その途切れなき継続性とひとつになることができて、身体もその継続性そのものへと進化していく。
そうすればもう死ぬ必要もなくなる。
すべての次元を超越して、第七の次元、つまりすべてのものの最終的な姿となっていく。

それは思考だ。
これは真理である。
人間は限界の中から飛び出し始めているが、それは、自分の人生に疑問を投げかけ、なぜ自分が政府や、教義や、社会の偽善に隷属しているのか問いかけている者が皆の次元にたくさんいるからだ。
彼らは自分やほかの人を愛し始めており、その愛を通じ、限られた意識のベールの向こう側を見て、それを超えていくことができるようになってきているのだ。
自分たち、そしてすべての人々の内面には、やさしく、愛にあふれ、しかも賢い本質があるという考えに目覚めてきているのである。

長い間、人類を支配してきた預言や寓話や恐れは、何ひとつとして実際に起きていないことに気づき始めているのだ。
そういうものよりも自分たちのほうが長生きしているのである。
自分が誰なのか、神を愛するのに、いったいなぜ神を恐れなければいけないのかを問いかけているのだ。

この次元での意識は変わりつつある。人間を何世代にも何世代にもわたって、獣のような生き物にする原因となってきた考え方の限界が取り除かれ、本来の崇高なる神の本質という姿になることが可能になったのである。

新しい学びが起きる時期がきている。
でも実はそこに何も新しいことはない。
魂の奥深くで、あなたは真実とは何かを知ることだろう。
それは、真実というものが、教義的な信念のよどみを超え、いつもそこにあった思考と叡智の天国へとあなたの視線を誘うからだ。
首のまわりから縄がほどかれ、よろこびの気持ちが顔を出し、魂の内面でそれが顕著になるにつれて、あなたは在るだけの状態の自分である華麗なる神になっていく。

あなたのこの時代は終わりつつある。
これは「肉体の時代」であった。
新しい時代はすでに地平線にその姿を見せており、それは「光の時代」、「純粋なる精神の時代」、「神の時代」と呼ばれるものだ。
すべては真に同等のものであり、天の王国はいつも自分の内にあったのだということを人間が知っている時代なのである。
光の時代は、人間を限りなき思考へと連れ戻してくれるであろう。

愛とよろこびの世界、存在の自由へと戻るのだ。
この新しき世界を担う者たちは、人類の中でも軍官や暴君ではなく、平和を宣告し、限界というよどみを超えて、こう高らかに謳い上げる者たちとなるのだ。
「私は神である。
すべてこの目で見るものを私は愛する。
なぜならば、私はすべてこの目で見るもの、そのものであり、その自分を私は愛しているからだ」。
この叡智に到達する者は、ただひとりの光といえども、意識全体を進化させることだろう。
そして、永遠という時間の中で、これまでよりもずっと賢くすべてを創造していくための智慧があふれる、限りない存在の状態へと、皆はひとり、またひとりと戻っていくのである。

この地上界での皆の人生は、壮大なる幻だった。
偉大な夢だった。
だが、これから皆は、何ら皆は、何かを学んだ状態でその夢から目覚めてくる。
神のことを理解して目覚めるのだ。
ひとり残らず目覚めてくるのである。
ある日、あなたは厚い雲がかかってきた空を見上げることだろう。
天界をじっと見つめていると、まわりにきらめくまぶしいばかりの光が見えてきて、あなたは雲の中に星がやってきたとでも思うかもしれない。
あなたが見るものは、これからすべての人類が目にするものだ。
あなたを眠りから覚まし、私が教えていることはすべて壮大なる真理であり、すばらしき現実であることをあなたに気づかせてくれるのだ。


主:私たちはどうして神から離れてしまったのか、すべての始まりの頃には私たちをひとつにまとめていたものと、どうして離れたのかが知りたいのです。

ラムサ:皆が存在し始めたいちばん最初の項、皆が父なるものと自分がひとつであることを知っていた頃、あなたの自我、つまりアイデンティティは、「ひとつの独自性を持つ神」というもので、生きるということは、すべての思考を体験する感情の冒険でした。
神は、すべての思考だからです。

あなたの自我は純粋で、何の変容もきたしていませんでした。
あなたの存在の内に、思考(あるいは神とも言えます)を受け容れるのを制限するような価値観は何もなかったからです。
自分がいまという瞬間の中で永遠の存在であることも知っていて、父なるものから思考を受け取り、それを感情に変え、今度は感情を創造性に具現化するという、無限の力を持ってもいたのです。

あなたたちは皆、子どものような存在でした。
自分の純粋な存在を変容させたり、自己表現を制限するような価値観を持ってはいなかったからです。
恐れというものも知りませんでした。
「これのほうが」「あれのほうが」という判断も知らなかったのです。
競争や嫉妬、あるいは所有欲も知りませんでした。
死のことも知らなかったのです。
小さな子どものように、これらの価値観は何も体験したことがありませんでした。

さて、あなたたち神々には、いちばんはじめから、創造したい、思考の感情を創造的な形に表現したいという強い欲求がありました。
そして、これをする力は、あるひとりに多く、ほかのひとりには少なくというふうに与えられてはいませんでした。
すべては同等だったのです。
しかし、実際に創造を始めるやいなや、あなたの内に競争精神が生まれてきたのです。
誰かの創造性の想念を広げ、さらに偉大なものをつくり出す、もっと多くを創造する、思考による思考で、さらに思考をつくる、という欲求です。
この地上界になぜこれほど多くの種類の花があると思いますか?
バラがひとつあれば充分なはずでしょう。
それに、これほど多くの種類の蝶がいるのは驚きではありませんか?

なぜ神々は競争するようになってしまったのでしょうか。
それは、創造する欲求の中で、自分の創造性は他より劣るのではないかと思いめぐらし始めたからです。
こうして、自分たちのことを、存在の内面では劣っているものとして見始めたのです。
その劣っているという気持ちを補うために、神々は互いに他の上をいく創造物をつくろうとしたのです。
そして、思考過程を創造性の競合にどんどんのめり込ませていけばいくほど、自分たちを「在るということ」の完壁な姿としては見なくなり、すべてのものが同等であるという神の本質とは別のものとして自分を見るようになったのでした。

この生からの分離と、「不完全」という概念は、何かが「ほかのものより偉大である」と見たときにはじめて生まれるものです。
なのに、実際の現実では、ひとつのものはほかのものよりいいとか悪いとかいうことはありません。

すべてのものはただ在るだけで、「在るということ」において同等なのです。
したがって、すべては完壁な状態にある、あるいはさらに適切な言い方をすれば、「在るということ」の状態、存在という状態にあるのです。

何かをその本来の姿である「在るということ」の完壁な状態より劣るものにしてしまうのは、価値観であり、考え方の蓄積なのです。

さて、最も大きな分離は、皆が人間という化身に入ったときに起きました。
その時点までは、確かに自分をすべてのものから分離させ始めてはいたものの、まだあなたは自分の神性、そして存在の不滅性を知っていたのです。
でも、自分を化身のレベルまで下げ、細胞物質の現実を体験し始めたとき、「固体の機能」と呼ばれるものに自分を縛りつけてしまったのです。
それは、空腹、寒さ、生存であり、自分がなったものを維持していくための労苦です。
こうしてあなたは細胞物質と絡み合う存在となりましたが、細胞物質が創造されたとき、それは固体の生存を可能にするようプログラムされていました。

偉大なる不滅の存在と、それ自体の生存を志向する固体構造との結婚は、自我の存在状態を大きく変えました。
これが「知識の木」、つまり変性自我の誕生です。
そして、魂に記録され、細胞組織にプログラムされたこの次元での恐れや競争、嫉妬といった感情の体験が、この変性自我をさらに強化してしまい、自分は神なる存在であり、不滅であり、すべての生命とひとつであることを知っている状態を、さらに変質させてしまったのです。

主:自分が永遠の存在であることをつねに知っていた神々が、自分は死ぬのだとなぜ信じるようになってしまったのかが、まだ私にはわかりません。
もともと死という概念をどうして神々は受け容れるようになったのでしょうか。

ラムサ:神々が変化という過程、つまり皆が死と呼ぶものを受け容れるようになったのは、自分たちの創造物そのものからだったのです。
ここで創造されたものの多くは、互いに食物となるようつくられていました。
それぞれの創造物が自分を維持していくのに必要な物質は、自分自身と同じ物質であったからです。
それは皆が「食物連鎖」と呼ぶものです。
ですから、植物は、これもやはり神々がつくった動物の食物となりました。
動物が植物を食べてしまったとき、植物を創造した神々は、恐ろしいことに自分たちの創造物が自の前で溶解し、別の形のエネルギーに変容するところを見せつけられることになったのです。
その動物は、また別の神によって最初の動物よりも大きく創造された別の動物の食物となり、さらにそれが別の動物の、というように続いたのでした。
これが、神々が互いに競争する方法として選んだものだったのです。
おわかりでしょうが、自分の創造したものがほかの神の創造物によって食べられ、消化されるのはとても屈辱的な体験だったのです。

人間の化身をつくり、進化させる過程で死はさらによく理解されました。
人間という生き物を完全なものとするため、それまでここで創造したものすべての一部となってきたように、神々は人間の一部ともなったのです。
最初につくった人間はあまり動きが早いとは言えなかったので、動物がしょっちゅう人間の身体を食物にしていました。
人間はとてもおいしいとさえ思っていたのです!

ですから、このことを通して、神々は死という行為を体験し、理解したのです。
この理解が、化身をさらに改善し、これも自分たち自身の創造物そのものである肉食動物の攻撃による死に対して、人間がもっと強い力を発揮できるようにしたのです。

さて、人間が、自分の存在の内面以外のところにある偉大な神を恋する気持ちは、もともと神々がこの次元に恋したときに始まったものでした。
神々は、自分たちがここで創造したすべてのものを体験し、関わっていきたいという望むようになったのです。
神々は植物になっていました。
動物にもなっていましたし、昆虫にもなっていました。
あらゆるものになっていたのです。
でも、すべてに支配力を持った形体を持つこと、それが神々の究極的な愛であり創造だったのです。

神々が最終的に自分たちを男と女という形体へとつくりかえていったとき、そして、その際に他の創造物よりも人間を賢くして、肉食動物から逃れられるようにするべくすべての意識を集中したとき、神々はそれまでとは違う生の状態に入っていったのです。
皮肉だったのは、人間を餌食にしようとする動物から逃れられたとしても、意識のかなりの部分を占めるようになってきていた生存という価値観からは逃れられなかったことです。
神々の身体を結局だめにしてしまったのは、生存の価値観であり、死への恐怖でした。
人は、何でも自分が恐れるものになっていくからです。

神々が創造したあらゆるものの中で、恐れほど破壊的なものはありません。
なぜなら、恐怖の影に怯えながら生命を表現できるものなどひとつもないからです。

さて、神々が人間として死を体験したとき、そこにあったただひとつの現実、ただひとつの望みとは、この物質の天国を体験し続け、この世界でさらに多くの創造を成し遂げることでした。
神々の自我は膨大なものだったのです。
そうして神々は、よろこんでこの場所に戻ってきては、さらに良い存在へ、もっと良い存在へとなっていきました。
自分たちの内に感じた「劣っている」という気持ちを何とか解決し、この場所での創造性に「優れている」という資質を表現するためです。

しかし、さらに良いものになろうという価値観と欲求を通して、神々はこの次元の物質界にあまりにどっぷりと浸ったために、自分が神なるものであり不滅であることを忘れ、必ず死を迎える運命にある物体と化してしまったのです。
それに、創造を考える過程にあった、すべての生命とひとつであるという叡智は、神々がこの次元に恋してしまう以前でさえ、競争と「偉大さ」「優秀さ」などの想念を通じてすでに失われ始めていました。

主よ、これだけは言えます。
すべてとひとつである状態は、本当にわずか一瞬、ほんの一呼吸しか離れていないところにあるのです。
自分の存在の内奥で、どんなものとも別の存在でありたくないと願うとき、あなたはもはやそうではなくなります。
すべての思考から自分を分離してきたのは、あなたの価値観、限られた思考、そして変容をきたしてしまったアイデンティティなのです。
思考に対する価値判断を取り除くことによって、思考の全体性に戻ることができれば、二度と自分のいる場所を見失ったり、まわりと離れてしまうことはありません。
そうすれば、あなたは多くの人にとって、父なる存在と波動の合った状態に戻る道を見つけるための光となっていくのです。

主:ラムサ、私たちは皆、実は完全な存在で、神そのものであり、本当に永遠に生きるのだということはわかります。
それでも、自分がときとして感じるような、気をつけなくてはいけない、自分を守っていかなくてはならないという感じを消してはくれません。
自分の本当の姿を自由に表現するのを抑えてしまうような、この自分についての幻影、慎重にしなくてはというこの感じを克服するのにはどうしたらいいでしょうか?

ラムサ:主よ、動物たちは自己保存のためのすばらしい装置を与えられています。
彼らが生き、体験し、進化できるよう細胞組織にプログラムされた原初的な生存の本能です。
人類もまた、原初的な本能を与えられていて、それは種から種へと遺伝的に伝えられてきました。
人間の生存本能は、自分を守るように、身体の細胞組織の内部に埋め込まれましたが、それは人類が裸で生まれてくるからです。
牙も角もなければ、脚が速いわけでもなく、敏捷な手足があるわけでもないし、鋭い聴覚や強力な視覚を与えられてもいません。
人はきわめて高度に進化し、ひとつにまとまった驚くべき存在であり、その自己保存のための最大の本能はその慎重さであり、自己を他から隔離することにあるのです。
人間はこの本能を天賦のものとして持っています。
もしそれがなければ、人間は生存できず、その本来の姿、思考し進化する、創造性あふれる個体となることはなかったでしょう。

ここにいるほかの皆と同じように、物質界での運命を体験するために自分の自由をあきらめたとき、あなたはこの遺伝/本能パターンと融合したのです。
それが、この次元の物質を通して自己を表現するためのひとつの条件でした。
ですから、人間でいることは、恐れることであり、動物の群れのようになり、疑いを持ち、そしてきわめて注意深く行動することなのです。
これは重要な真実です。

慎重さは幻影ではありません。
人間としてこの場所に生きるための条件なのです。
その必要性は、自己の内面でそれを持つことが許されるべき、といった性質のものではなく、あなたの化身を保護するために必要な本能として受容すべきものです。
でも、せっかくなら、この理解をもう一歩進めましょう。
あなたそのものである小さくて神秘的な創造性の火花が、この場所で進化していくのを可能にするために、これまであなたの身体があなたを守ってくれたとわかったのですから、もう肉体を超越して、あなたの精神、魂という不滅の次元へと進むときがきています。
言ってみれば、あなたの存在の精神が身体を支配し、思考、叡智の無限性を通じてそれを守っていく番なのです。

主よ、自分の在るがままを愛すのです。
それを愛しなさい。
自分が永遠の存在であること、自分が神であることを知るのです。
ただそれを知ることです!
その想念を心に抱きなさい。
さまざまな時代を通じてあなたを守ってきてくれた本能という遺産が、自分は死ぬベき存在ではなく、まさに不滅であり、限界ある人間ではなく無限の神であるという想念に出会ったとき、あなたの魂は、この限りなき想念をあなたの化身の細胞体に伝え、そしてそれを聞いた細胞体は狂喜することでしょう。
そうすればあなたの身体は、そこに宿る偉大なる神の無限の思考によろこんでしたがってくれます。
そして、あなたの身体は、これまで本能にしたがって生きる存在に不安と慎重さをもって接していましたが、これからはその細胞の内に無限なる神を宿し、身体中の物質がすべて「在りて在る神」の総体と波長が合った状態へと統一されていくのです。

主よ、もっと本当の「あなた」になるというのは、自分の不安が定める境界を越えたところまで手を伸ばすだけのことなのです。
そして、これまで自分の化身によって守られていたあなたが、自分の理解の内にあるすべてに対して支配力を行使したとき、身体はよろこんでついてきます。

主よ、自分を愛しなさい。
それも完全に。
人生を愛しなさい。
そのすべてをです!
それができたとき、その価値観を通じて、わずか一瞬の間にあなたは再びひとつとなった状態に必ず戻ります。
それだけでいいのです。
ただ、知ることです。


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

人生の目的とは

神がたったひとつあなたに望むのは、よろこぴを知り、よろこびになるということだ。
それが父なるものを知り、父のごとくになるただひとつの道だからである。

この地上界での生において、あなたがここにいる目的とは何だろうか。
多くの人々は、あるタイプの人間になる、あるいは特定の職業につくことが絶対であると教えられ、必ずそうなるよう家族や社会からきちんと見守られて育つ。
何とひどいことだろう。
あるいは人類にとって自分が偉大なる師、救世主、あるいは治癒者としてここに送られたと想像する人たちがいる。
まあ何と高貴なことよ。
さらに、神に近づくという、詳細まで決まっている聖なる道、狭き道を一歩ずつ進むためにここにいると感じている人たちがいる。
何と退屈な。

この地上界にやってくるときには、まだ誰も目的は持っていない。
父なるものは、あなたにもほかの誰にも、人生はこうなるべきだという指示を与えてはいないのだ。
ただし、それにはひとつ例外がある。
それは父からあなたへのただひとつの望みであり、存在のあるべき姿の究極を教えている。
それは、よろこびあふれる存在になるということだ。
よろこびが、あなたにとって何を意味しようとも、である。

大切な神なる存在の内面にいるあなたが、幸せでよろこびにあふれていればいるほど、あなたは神に近い姿にあり、すべての生命と調和がとれているのだ。
幸せになること、よろこびにあふれることは、父のあなたに対するただひとつの望みである。
それはまさしく、感情の中で最も偉大な価値を持つものと言える。
よろこびを理解し、よろこびそのものになるのは、どの次元にいようと、どんな叡智を達成した者であろうと、すべての人類に神が与えたただひとつの運命の道なのである。
よろこびと幸せの状態に戻れば、それは神の状態に戻ることだからだ。
よろこびが、父そのものだからである。
父とは、いつのときもよろこびの中にある「在るということ」なのだ。

最も醜悪なものから最高の美まで、父はあなたに何でも好きなものを創造できる力を与えた。あなたがよろこびを理解することを求めていく過程で、父は何でもあなたが望む姿となるだろう。
では、父はあなたの行動や自分の欲求を満たすことについて審判を下すのだろうか。
いや、そんなことはけっしてない。
それが父から息子、ひとつの生命の流れから別の生命の流れへの愛なのだ。
父がただひとつだけあなたにしてほしいこととは、それが何であろうと、とにかく幸せになり、よろこびにあふれるために必要なことだ。
それが父を知り、父そのままの姿になれるただひとつの道だからだ。

よろこびとは何なのか。
よろこびとは、まったく邪魔の入らない動きの自由のことだ。
価値判断のない表現の自由だ。
恐れや罪悪感のない存在のことだ。
よろこびとは、自分が、自分自身の条件で人生を創造していることを知っている状態なのである。
在るがままでいることを許されている自己の荘厳な姿のことだ。
それがよろこびなのだ。

なぜ、よろこびがすべての存在の状態の中で最も偉大なのであろうか。
それは、人がよろこびの状態にあるとき、その人は神そのものである流れとともにあるからだ。
その流れの中では、嫉妬や怒りや反感、あるいは戦争などが存在する余地はない。
よろこびの状態にあるとき、人を憎んだり、囚われの身にしたり、あるいは傷つけたりするのはむずかしい。
幸せでよろこびあふれる状態にあるとき、あなたはすべてのものに見られる神を愛しているのである。

よろこびが嵩じた状態にあるとき、あなたはまわりのあらゆるものと平和を保つことができる。
生きることがよろこびであるときには、反感を持ったり、不安になったり、恐れや怒り、あるいは何かが足りないと感じることはない。
よろこびの状態にあるとき、人は満たされて全きものとなり、生命と叡智、そして創造性が、まるで激しい流れの川のように内面からあふれ出してくるのだ。
よろこびの状態にあるとき、人は内面からつき動かされ、最高の偉大さを示し、深い感情を感じる。
よろこびの状態では、空は最も美しいバラの色となり、雲は燃えるような赤で飾られ、鳥は木々に歌うという朝焼けのごとく、生きることが熱情にあふれ、強烈なものになる。

よろこびにあれば、人は年老いていくことをやめ、永遠に生きる。
人生はもはや重荷ではなく、いくら求めても求め足りない驚くべき冒険となるからだ。
よろこびが目に見えるとき、あなたは自己という自分の世界とひとつになっている。
そのような状態では、あなたはユートピアを見つけているのだ。

よろこびにあふれた状態には、どうしたらなれるのだろうか。
もし自分がそう望めば、人生のあらゆる瞬間が、よろこびを表現する機会と自由を与えてくれるのだと知ることによってである。

そして、幸せやよろこびや、あるいは神から自分を離してしまう価値のあるものなど、何ひとつないのを知ることによってなのである。
そんなものは何ひとつないのだ。

何があっても自分を完壁に愛することだ。
自分を愛するとき、それは神を愛しているのだから。
人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない。
それよりも偉大な愛はないのだ。
自己を抱き、受け容れるという、その場所から自由が存在していくからである。
そして、よろこびが生まれるのはその自由からなのだ。
よろこびが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、心に抱くことができるようになる。
最も偉大で深く、意味のある愛とは、肉体の中にあって、動き、思索し、創造し、許し、そしてただ在るこの偉大な生き物である純粋で無垢な自己に対するものだ。

どんな自分でもその在るがままを愛するとき、すべての顔、すべてのものの内にあるもの、つまり私が愛する偉大なる本質を、あなたも知ることができる。
あなたは神が愛するように愛するのだ。
すると、愛することがとても簡単になる。
許すことが簡単になる。
そしてすべての生命に神を見ることが簡単になるのである。

自分の在るがままを愛するとき、不可能なこと、手の届かないことは何もなくなる。
自分を本当に愛するとき、人は自分の笑いの光の中だけに生き、よろこびの道だけを歩むようになる。
自分に恋するとき、その光、そのまとまった力、幸福、底抜けの明るさ、その楽しそうな状態が全人類へと広がっていくのだ。

そしてあなたの驚くべき存在の内面に愛があふれるとき、いろいろ不快なことがあるこの世界が美しくなり、生きることは意味を持ち、よろこびにあふれた状態になり、そのよろこびは、あなたという存在のよろこびを通じて、すべての生命を高揚させ、その栄光をたたえ、あなたの存在が純粋であることを謳い上げるのである。

自己への愛のため、自己を満たすために生きること以上に偉大な人生の目的はない。
それを成し遂げるためには、人生に飛び込み、自分に幸せをもたらすことをすることだ。
それによってのみ可能になる。
たとえそれが何であってもである。
それはまちがっているとか、あなたのために良くないなどと、いったい誰が言えるのか?
神はそんなことは絶対に言わない。
神はあなたが向かっていくあらゆる方向そのものであり、あなたのすべての体験がもたらす結果でもあるからだ。

ほかの人間にどう思うか訊ねたりもしてはならない。
あなたの人生を悩ませてきたのと同じ制限を持っているというのに、他人がよろこびについていったい何を知っているというのだ。

父なる存在は、あなたがよろこびあふれる人間になるよう迫っているようなものだ。
あなたが心を開いてそれを受け容れるのを、いつもすぐそばで待っている。
「求めよ、さらば与えられん」というのは、そういう意味なのである。
いつのときにもよろこびを持つというのは、実は単純なことなのだ。
そして、あなたはそれに値することを知ってほしい。

よろこびは、よろこびを生む。
「迫られている」よろこびを受け容れるとき、それはこれから訪れるあなたの将来の日々のよろこびをさらに高め、あなたの心を開いてもっと多くを受け容れられるようにしてくれる。
だからこそ、いつのときも自分を愛するのが絶対に必要なことなのだ。
それができれば、これから先の自分の「ぺース」が決まるのである。
何が自分を幸せにするかを自分に訊ね、それが何であっても、自分のフィーリングが告げるままに実行することだ。
自己への愛、そしてそのよろこびのために生きるとき、その陶酔と高揚の瞬間はすべてあなたの存在の魂に記録される。
そして今度は、それがこれから先、さらに多くの幸福とよろこびの瞬間をつくり出していくのである。

幸せでよろこびにあふれたとき、自分を愛し、在るがままの自分でいるときを多く過ごせば過ごすほど、あなたはすべての生にある神の力に近いところにいる。
求めるものが、すべて自分を幸せにするため、という状態で人生を生きるなら、あなたは最も偉大な運命に向かって生きていることになる。
そして奇跡的なことを成し遂げるだろう。
自己と神に対する愛のすばらしい見本となるのである。
偉大なる美、すばらしき神秘である自分自身を体験し、理解することができるだろう。
最終的には、驚くなかれ、あなたは神の顔を見ていることになるだろう。
それが自分自身であることに気づくことによって、である。
するとあなたは、さらに偉大な新たなる叡智の中で、もうひとつ別の、氷遠の生という体験へと向かっていくのだ。

私の生きた時代、私たちはアトランティア人に「魂なき者」と呼ばれていた。
そのとき、私たちが何を探し求めたか、おわかりだろうか。
それは少なくとも「目的」ではなかった。
自分たちにはないと言われた魂を探し求めたのだ。
私はみじめな野蛮人で、人間を憎んでいた。
しかし、よろこびというものを知ってから、そして自分がそれに値するのだと知ってからは、すべての生命を維持し、育み、すべての生命そのものである本質となったのである。

父なるものへと導いてくれるたったひとつの道とは、とにかく何であっても、それが自分のよろこびであると自分で決めたことなのだ。
そこへ到達する道はそれだけなのである。
それがあなたを神という故郷へと帰してくれるのだ。


主:肉体に戻ってくると決めたのは、自分だというのは本当ですか。

ラムサ:ほかに誰がそれを決めてくれるというのでしょう。

主:それでは、なぜ私はこの時代、この場所を選んで帰ってきたのか教えてもらえますか?

ラムサ:この時代、この場所での生を体験するためです。

主:でも、ここに戻ってきて達成すべき何か特別な目的、ここに帰ってくる理由があったのでしょうか。

ラムサ:主よ、「特別な目的」というのが、人生を体験するという特権のことなのです。

主:ということは、それは何でもかまわないと言うのですか。

ラムサ:何でもかまいません。
でもそれは、特定の何かではありません。
あなたは、ただ人生を体験するために帰ってきたのです。
あなたが「あなた」を選んだのです。
あなたではいけませんか?
そんなことはないでしょう。
あなたはこの時期を選びました。
いけませんか?
いまはすばらしい時代です。
生は花開き、あなたも花開いている時代です。
生きるということがどうも見過ごされ、あまり感謝もされない体験となってしまっていて、皆、生きること以外の何かを探している状態になっているようです。
でも、あなたがここにいるまず第一の大切な理由は、単に生きることなのです!
この生で達成できる最も栄光に輝くことといえば、まずこの生を全うすることなのです。
これは真実ではありませんか?
どんな大王だろうと、まずはじめに王になるための人生がなかったらどうなるでしょうか。
王になるのは彼の目的ではなかったのです。
そうなったのは、これはなかなかおもしろそうじゃないかと彼が決めたからにすぎません。
いちばん大事なことは、王になれる時点まで彼が生きたということでしょう!
あなたがこの人生で達成できる最も偉大なことは、まずそれを全うするということです。
おそらくこれはあなたが聞きたいと思っていることではないかもしれませんが、死期が近づいたとき、この答えがよくわかります。

皆、存在するための理由が必要と思っています。
「おお主よ」と彼らは私に言います。
「私の運命は何でしょうか?
この人生での目的とは何でしょうか?」。
そこで私は答えます。
「生きることです!」。
すると皆、困ったような顔をして、あまりうれしそうには見えません。
何かとても込み入った計画――大いなる山の頂に立ち、まわりには鳥がさえずり、黄金の衣に包まれた自分が人類の救世主となるような、そんな答えを聞きたがっていたからです。

主よ、あなたの目的とは、単に生きることです。
それから先どうなるかは、この人生でのあなたの美と、生の広がり、成長への貢献の延長なのです。
生きることそのものが最も重要なのだと気づき、生きることを通じて言わば「点数を稼ぐ」のだとわかったとき、自分がここにいるのはそれを望み、そうしたいからだと気づいたとき、そしてさらに、ここが自分という存在にとって戻ってくるのに居心地の良い場所だと思っていることに気づいたとき、すべては何も言わずとも理解できるはずなのです。

皆この次元にやってくるのは、ここで生き、ここで自己を表現したいからです。
それがすべての人間にとっていちばん大切なことなのです。
それがあなたの内に棲む父なるものにとってもいちばん大切なことです。
存在が始まってから後に起きることは、何か特定のものにならなければいけないという性質のものではなく、人生のすべての瞬間に、自分がなれる最高のものになるということなのです。
それが「創造」です。
そして、あなたは必ず創造をしていきます。
あなたの内にある神が、そうするようあなたをつき動かすからです。

あなたがここにいるのは、何か特定の運命のためではなく、生きるためであり、生きている一瞬一瞬に、あなたの創造性あふれる自己が、そしてあなたの魂が強く求めることをしていくためなのです。
それがわかれば、創造という領域ではあらゆることすべてが可能になります。
言葉では言いつくせぬような世界や人生を創造することができます。
自分の命を満たすことができるのです。
この明白な自由を持つのを許したとき、あなたは何でも自分が好きなものになることができるのです。

そして、自分がそれをすべて体験するのに値するのだとわかったとき、あなたは光り輝き、いつでも好きなときに、何でも好きな望みを満たすのにその光を使うことができるのです。

皆の次元において最も覚醒した人々の中に、なぜ、ただ施しを受けて生きる放浪者として生きる人がいるのか知っていますか?
それは彼らがその瞬間だけに生き、そのとき生きるのに必要なことだけをして、次の場所へと移っていくからです。
彼らは数多くの場所に行き、多くのことを見たり、実際にやったり、さまざまな人々に会ったりしてきました。
こうして彼らは多大な知識を得るとともに、人間の心についてさまざまな角度からの理解を得てきたのです。
彼らはそのままの状態できわめて覚醒した状態にあり、そのままでとても幸せなのです。
思うままに生きる自由を自分に許したからなのです。

「主よ、でも彼らには何の目的もありません」
とあなたは言うかもしれません。
彼らの目的とはその瞬間に生きることであり、自分がしたいと思うときに何か新しいこと、冒険的なことに集中することなのです。

主よ、人生は牢獄となるようにつくられているのではありません。
色あざやかでチャレンジにあふれ、数多くのエピソードと冒険が体験できる創造性と自己表現の場となるようにつくられています。
そういう体験は、必ずよろこびをもたらすのです。

主:でもラムサ、私は小さいときから、いつもこの場所から離れたいという気持ちがあり、自分の故郷はここではなく、何かほかの場所にあるのではないかと思ってきたのですが。

ラムサ:それはそのとおりで、確かに別の場所があるのです。
生はさまざまなレベル、さまざまな場所で途切れなく続くものです。
それはひとつの真実です。

でも、いまひとつの真実を話します。
もし本当にここにいたくないのなら、あなたはここには戻らなかったことでしょう。
あなたの存在の内にある生命の力は、さまざまなことを学び、そこから幸福を得るために人生を体験すべくここにいるのです。
自分はここに来た何か「高次の存在」で、やってきてはじめてこれがひどい場所であるとわかったのだと思いますか?
「高次の存在」は、どこにいようとも幸福を見いだすものです。

この次元が困難な時代を迎えるとき、確かにここでの生を少しは耐えやすくしてくれるでしょうから、ほかの場所に行くことを思うのもいいのかもしれません。
でも最後は、どこにいようとも、それをどんなものにするかは、自分の選択なのだと私たちは気づくことでしょう。
良いも悪いも、幸福も不幸も、わくわくするのも凡庸にするのも、人生の体験を決定するのは私たちの態度であり、判断でしかないのです。

ここは存在するのにはすばらしい場所です。
主よ、そのことがわかれば、あなたは賢き女性になります。
別の場所があるのを知っている以上に偉大な美徳とは、この人生を自分の手にとって、それをできるだけすばらしいものにしていくことです。
そのあらゆる部分を体験し、それを最高に楽しむことなのです!
そうすれば、あなたの存在はこの人生で満たされるようになります。
この次元を去るというとき、わざわざここに戻ってこないと体験できないものはもう何もなくなるのです。

ひとつの方向しか向いていない生き方をし、社会的に受容されるという理由だけでその生き方を続けている人たちは、死に際して苦悩と後悔にさいなまれます。
あれをしておくべきだった、これをやるべきだった、あの人を愛しておけばよかった、この人と結婚すべきだった・・・。
こういったすべての「しておけばよかった」ことが、その人をこの場所に戻し、それがすべて満たされるまで「今回はできる」ことを体験させるのです。
すべて満たされると、もうここに戻ってくることはありません。

主:でもそうすると、私はその「しておけばよかった」があったから戻ってきたことになるわけで、それがいったい何だか、いまの私にはわからないのです!

ラムサ:主よ、それは生きるということです!
もしそれではあまりに単純すぎるというのなら、何か生きる理由を自分でつくり出し、心からそれを追い求めなさい。
でも、それを満たしてしまったら、今度は何のために生きるのですか?
また別の理由、そしてまた別の、また別の、と永遠に続いてしまうわけです。

主:すると、このために戻ってきたという特定のものはないわけですね。
今回も私が成就できないかもしれないものとか・・・。

ラムサ:美しき主よ、叡智というのは蓄積された感情のことです。
この次元に来るそれぞれの存在が他と異なっているのはこのためなのです。
すでに体験し理解したことは、もう体験しません。
なぜなら、もうしたいとは望まないからです。

これからまだ理解すべきこと、あるいは自分の命を満たし、智慧を与えてくれると約束することには、あなたはいつも惹かれていきます。
それがあなたを誘い、わくわくさせ、神秘の心をくすぐり、そして惑わせるからです。
自分を在るがままにして、存在の内から湧き出る欲求、フィーリングに耳を傾ければ、すばらしき自己を、さらなる偉大な叡智と永遠のよろこびへと拡大していくのに必要なことは、あなたはいつも体験していることでしょう。

さて主よ、あなたの困惑について、ひょっとすると助けになるかもしれない知恵について、お話しましょう。
もし存在の理由を必要としているならば、それは永遠というときを通じて、あなたが「在るもの」としてその瞬間だけを生きるということです。
それは、「自己への愛」と呼ばれるものです。
自分への愛は永遠へと続いていきますが、これやあれになるといった目的は、この生の間に満たされ、次はただ別のものがそれにとって替わるだけのことです。
いつのときもあなたとともにあるのはこれしかない、というものは何でしょうか。
それは自分をもっと豊かにし、さらに偉大な叡智と自分への深き愛へと広げてくれるものです。
つまりそれは、最も厳しい目であるあなた自身の目から見て、自分を最も偉大な人間にしてくれることをしていく、ということなのです。
これは永遠に続くものです。
主よ、あなたこそが人生の目的なのです。

これやあれやをしなければならないとか、自分の運命はこうだああだなどと考えることを皆が超越して、その瞬間だけを生き、余計なものを取り払って、在るということに集中するようになれば、それまでとは比べものにならないほどの大いなる幸せと自由を発見します。
それは、生の真の状態への解放であり、本当に生きるとはどういうことかがわかることなのです。
それこそが、あなたの目的です。
在ることです!


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

生に法なし

人間が自分を限定する意識から自分を解放するとき、
その法律、計画、規則から自由になるとき、
人は存在するよろこぴと平穏を見つけ、自分とすべての人間を愛することができるようになるだろう。

主:ラムサ、あなた自身は神の計画の中でどういう位置を占めているのでしょうか。

ラムサ:神の計画ですか?
あなたはどうして神に計画があると思うのでしょうか。

主:それは、物事が今の状態なのは、何かそれなりのわけがあるに違いないからです。

ラムサ:父なるものが持っているたったひとつの計画とは、あらゆるものが父そのものである生を表現できるように、ただ在るということです。
もし何か計画なるものがあったとしたら、それはあなたの内面にある神を表現する自由を奪ってしまうことでしょう。
すると、あなたの独自性や、進化できる能力、それに神という生命の本質を広げていく能力まで奪うことになるのです。

神のたったひとつの計画とは、ただ在ることだけです。
それは、言わばすべてがひとつのものとして振動している状態で、まず最初は思考から始まり、次に思考から固体へと振動を続け、意識から何かを取り出したり加えたりして、さらに次なる生の瞬間を表現しながら、その瞬間を延長して瞬間へとつながっていきます。
もしこれを神が計画するのだとしたら、それはこれから起きるすべてを制限してしまうことになります。

いま、あなたがすわっているこの毛足の長いカーペットは、どういう理由でここにあるのでしょうか。
それは、ただここに在るからです。
それだけで神の計画の中にぴったりと、はまるわけです。
なぜなら、ほかのものもすべて、ただ在るのだからです。

では、いまこの質問をしたわが愛すべき主がここにいるのはなぜでしょうか。
それは、彼が在るからです。
このわが主は、どういうふうに神の計画に入っているのでしょうか。
ただ在ることによってです。
それは皆も同じなのです。
私はどうでしょうか。
私も在るのです。
この毛足の長いカーペットが在るのとまったく同じように、私も在るのです。

では、私の役割は何なのでしょうか。
私は皆を誰よりも愛していきます。
それができる力があるからです。
自分の愛が、何か人を迷わせるような神の計画なるものに合っているかどうかなど心配していないからなのです。

生命の存在そのものをどうやって豊かにしていくかというと、あなたが父なるものの真の姿を知り、なぜ父は、あなたがどうあろうとあなたを愛するのかがわかるようにするのです。
また、すべての生が組み合わさってひとつになっていることをもっとはっきり見えるようにして、あらゆるものが在る理由が、単にそれぞれが自己を表現するためであることをわかるようにするのです。
それも、何かの計画に沿ってではなく、あるいは隠された動機のためでもなく、ただそれぞれが生を持っているという理由からだけなのです。

これがなぜ大事なのでしょうか。
生命というものは、ただ在るのだとわかると、あなたは自分の能力を最大限に生かした生をつくり出す自由と力を得られます。
そして、これだけは間違いありません。
次の瞬間に何をしていようとも、あなたはすべての生命とともに振動しているでしょうし、その次の瞬間にも、その次にも、その先すべての瞬間にも振動し続けていくのです。

主よ、人生には特にひとつの計画があるわけではありません。
あるのは、在るということだけです。
「在るということ」の状態でいるのは、自己表現の形として最高のものです。
在るということ。
大事なことは、あなたが在る、ということです。
それだけなのです。

主:あなたが言っているのは、ある特定の生き方をする必要はない、何になっても何をしてもいいし、要するに「何でもOK」に聞こえます。

ラムサ:まったくそのとおりです!
あなたに対する父の愛というのはそういうものなのです。

主:それなら、生きる目的とは何なのですか。

ラムサ:生きる目的というのは、生という場に、自分の存在の内にある想念を何でも表現していくということです。
そして、それがどんな形で表れてこようとも、いつでも自分の望みどおりの瞬間にそれを変える選択があるのだと知っていてください。
生きる目的というのは、その一部となること、その中心にいること、そしてそれを輝かせることです。

生きていくこと、一瞬一瞬、人生が自分の内面で花開き展開していくにつれて、そのときに自分が望むものになること以外にあなたの運命はないのです。
その目的を満たしていく中で、自分の望むとおりのものになり、望むとおりのことをし、望むとおりのものでいられる限りなき自由があなたにはあるのを知ることです。

主:でも、何でもできるとすると、中には聖書にある神の法に反するものも出てくるのではないでしょうか。

ラムサ:わが美しき主よ、あなたの愛する父は法など何もつくっていないのです。
ただひとつを除いては。
その法とは、あなたの崇高なる意志にしたがって自分の生を表現すベし、というものです。

自分の意志を行使するという行為を通じてのみ、あなたは父そのものであるすべての生命の意識を拡張できるからです。

もし父なる神が法をつくる存在であったなら、生命の進化と、その存在が永続していくのを可能にする表現の自由を、あなたが(ということは神自身が)有するのを阻んでしまったことでしょう。
もしそうしたなら、神は限定された「源」、ひとつの終焉となってしまっていたはずです!

聖書に書かれ、あなたが「神の法」と呼んでいるものは、実は数多くの法律です。
預言者がそれぞれ法を加えていったからです。
確かにそれは、「神の法」によれば、こうだとかああだとか、これを制限しているとか、あれをしなければならないといったことを語る強力な言葉となってきました。
この、皆が「神の法」と呼ぶもののおかげで、人々は神に身を委ね、神を恐れるようになったのです。
子どもたちは親を恐れるのではなく、親のようになることを教えられました。

父なる神に法はないのです。
法をつくるのは人間であって、神ではありません。
父は人間に自由意志を与え、自分の世界で正当な法を与えることのできるただひとつの存在としました。
すべての生命についての理解が進化していく中で、自分の世界にふさわしい信念、真実、あるいは価値観は何でも思考からつくり出せるという自由を与えたのです。
人間はこの自由を用いて、社会に生きていくために必要と考えられた法律をつくり出しました。
しかし、残念ながらほとんどの法律は、人を恫喝し、隷属させる目的で情け容赦なくつくられていったものです。
自由を高めるためではなく、制限するためにつくられたのです。

人間が無法状態に自分を置くことを許さないのは、自分という存在を恐れるあまり、自分自身を治める法律がなければならないと考えているからです。
それは、自分の無限性と神性を理解していないだけなのです。

主:でもラムサ、もし法律がなかったら、誰かが自分の内にある悪を表現して悪いことをしてしまうのをどう防ぐのでしょうか。

ラムサ:よく聞きなさい。
すべてを包含する宇宙から見ると、悪というものはありません。
人間は魂が邪悪であると記されていますが、そうではありません。
人間の魂は神なるものです。
なぜなら、その魂、そして人間の存在そのものすべてが神だからです。
もしそれが神でないとしたら、それはいったいどこからやってきたというのでしょうか。

父なるもの、存在自体の管轄外にあるものはないのです。
ひとつとしてありません。
悪である、間違っていると誰かが判断した想念や行為は、意識の中では生きているものです。
そしてもし意識の中で生きているなら、それは間違いなく神の精神の一部なのです。
すべては神の一部ですから、もし何かひとつが悪であると言うなら、それは神もまた悪であると言っていることになります。
神は悪ではありません!
でも、神は善でもないのです。
なぜなら、善というものの境界を定めるためには、悪、あるいは邪悪なものという考えに対比して判断しなければならなくなるからです。

神は善でも悪でもありません。
神は悪でないのとまったく同じように善でもないのです。
そして神は完壁でもありません。
父なるものはただ在るのです。
すべての生命の「在るということ」であり、自身を知るためによろこびを得るということ自体のよろこびのために生きる「いまという瞬間の表現」なのです。
そしてこの生の本質には、その一部をいいとか悪いとか、邪悪とか神なるものとか、あるいは完全か不完全かとかを判断することによって、ただ在るという状態から脱して何か他のものに変容するということはできないのです。

神が世界を見下ろして、「これは邪悪だ」と言うことができたらどうなるかわかりますか?
意識というもの全体、つまり、表現する必要があるものを表現しているすべてが、生の流れから消滅してしまうのです。
もしこれが起きたら、生とその途切れない広がりが存在しなくなります。
もともと創造を可能にしている自由意志が存在しなくなるからです。
しかし、神は、完全に無限の「在るということ」、そしてその分かつことのできない全体性なのです。
ですから、神は、制限を課すような限られた見方で自分自身を見つめることはできないのです。
もしそれができたとしたなら、あなたはここにいることも、自分や自分の兄弟を判断するといったひとつの選択肢を体現していることもなかったでしょう。

主よ、善も悪もないのです。
あるのは「在るということ」だけです。
「在るということ」では、すべてのものは、その命を満たしたかどうかだけで見られます。
その魂が叡智の中で自己を満たしていくために必要な感情面の体験だけについて見るのです。
あなたがこれまでしてきたことはすべて、たとえそれをどんなに美しいもの、あるいは卑しいものとあなた自身が判断してきたとしても、それはただ知るということのためだけにしてきたことなのです。
何かを学ぶために、自分の魂と情熱に押されてしたことなのです。
それを実際にしてみることによって、はじめてあなたはそれをすることの価値に気づき、またその価値を確かめることができて、そこから何かを得られたのです。
それは邪悪でもないし、よこしまなことでもありまぜん。
それが神になるために必要なことなのです。

神ではなく、人間が人間に審判を下すのです。
人間は、その創造性を駆使して善悪のバランスを編み出し、自分の同胞たちから表現の自由を奪ってきました。
宗教的な教義や政府の定めた法律に従わない者に対する刑罰への恐れは、もう長い間、国家を支配し統率するための剣として使われてきました。
そして、もし皆の言葉で「邪悪」と呼んでいるものがあるとしたら、それは存在の内にある神を表現する自由を人から奪ってしまうことです。

そして、自分の同胞に対してこれをするたびに、実は、自分にも同じことをしているのです。
それもさらに深い影響を受ける形で同じことが起きます。
なぜなら、他の人間に対して下す審判や制限は、自分の意識の内面でもやはりひとつの法となるからです。
その法によって、あなた自身も自分に限界を設け、自分に審判を下すことになるからなのです。

人間は魂が邪悪なわけではありません。
悪の保護下に生きてはいますが、大きな枠組みのなかでは悪というものはないのです。
人間に自分の好きなものを思考から創造させるという選択を可能にしている生の場があるだけです。
それだけが存在する現実なのです。
この現実において神は、迷信、教義上の信念や、きわめて限定され、せばめられた人類の考え方を通して、悪という幻想の存在を許しているのです。
悪を長い間観察し、判断し、期待し続けたことによって、確かに悪は人の現実の中に存在していますが、それはその人の現実だけのことです。
その人が信じるようにその世界もなるのですから。
法で存在するのは、自分の人生においてあなた自身が創造し、効力を発するとしたものだけです。

もし善と悪があると信じることを選ぶのなら、それはあなたの真実であり、それはそれで間違ってなどいません。
でもひとつ覚えておいてほしいのは、それがあなたの現実であり、私のものでも誰のものでもないことです。
もしそれが確かにあなたのものならば、もともとあなたの意見の中で形づくられたのですから、そのすべてがあなたに属していることになります。
その意見を持っている限り、それは確実に現実のものであり続けます。
それを信じなくなれば、現実でもなくなるのです。
ただ単にそういうことです。

さて主よ、あなたが悪と思っているものは何か教えてください。
悪いものとは何だと理解していますか?

主:そうですね、それは善の反対だということでしょう。
でも、ふつうはやはりほかの人に危害を加えることが悪だと思っています。

ラムサ:そうですか?
それがなぜ悪なのでしょうか。

主:たとえば誰かが私の娘に危害を加えたとすると、それは悪です。
なぜかといえば・・・もし娘が死んだりしたら・・・。

ラムサ:それは悪についてのあなたの判断ですね。
でも、死ぬということがなぜ悪なのですか。

主:ということは、あなたは人を殺すことさえ悪ではないと思うわけですね。

ラムサ:そのとおりです。
それは、ひとつのものが終わるという考えで自分に限界をつくることはしないからです。
何ひとつとして、消滅するものはないのです。
ひとつもありません!
すると、もしある人が死ぬと、その死で失われたものは何でしょうか。
父なる存在は、その在るということ、それに途切れなき生の、氷続性において、すべてが存在できるという保証を危うくするような、自分より偉大な存在など何ひとつつくり出してはいません。
父が創造したものには、何ひとつとして消滅するものはないのです。
それはすべて永遠に生き続けます。
ですから、あなたの子どもも、消滅するのではありません。
神の生命を消滅させられるものは何もないからです。

主:あなたは、ほんとうに殺人でさえも間違ったことではない、悪ではないというのですか。

ラムサ:そのとおりです。
主よ、生は途切れなく続くものです。
それはずっとずっと続いていくものなのです。
そしてこの瞬間から次の瞬間へと生の場で自己を表現していく中で、私たちには人生の一つひとつの瞬間を幸福で満たす機会が無限にあります。
しかし、自分の生の時間をどう満たすことを選ぼうとも、それは必ず、その人の意志と望み、そして自分の存在にとっていいと見たことにしたがったものとなるのです。
もし、ある瞬間に、ひとりの存在が他の命を奪うことを選んだとしたら、次の瞬間、その人は強烈な罪悪感と自分に対する審判、そして、その行為が必ず自分のところにはね返ってくるという恐怖の念のもとで生きることになります。
ですから、その人間のこれから先の時間はけっして安寧なものではありません。
自分の行ないを許さない限りは・・・。
この命を奪った者を忌まわしく思い、審判を下し、罵る人もたくさんいることでしょう。
でも、私はこの他人を殺(あや)めた人間を愛します。
愛さない、ということがどうしてできるでしょうか?
この人間が、神の摂理、生、そして神の驚異の中には入っていないとでも言うのでしょうか。
いいえ、主よ、そんなことはありません。
命を奪われた者は、また何度も何度も戻ってくるのです。
生とは永遠だからです。
それは継続するのです。
それは、ただひとつ永遠であるものですが、また同時にすべてのものでもあります。
もし私がこの行ないを憎悪し、命を奪った者に審判を下したとしたら、それは自分に審判を下していることになるのです。
その人はすでに自分自身に対する審判をつくり出しています。
自分の行為については自分の価値判断のもとにあり、これから先、自分自身の思考と感情の世界で、それに直面し、対処していかなくてはならないからです。
私はその行ないを憎悪しません。
それを論証し、理解し、そして超越したのです。
命を奪う者の行為を断罪すれば、私はそれより偉大な存在ではなくなります。
これだけは確かです。
そして、私の人生はその審判によって影響されるようになるのです。
なぜかと言えば、「偉大なる在りて在るもの」である私が、自分の一部をわが存在から切り離してしまったことになるからです。
すると私はもはやひとつの全き存在ではなくなってしまうのです。
わかりますか?
このようなものを目にするとき、そこではひとつの命が満たされるという過程が起きているのです。
一瞬一瞬ごとに、私たちには、自分が何かに駆られるような形、あるいは目覚めさせられるような形で自分の命を満たすことができるという選択があります。
これは私たちが選ぶことなのです。
これだけが人間が持っている「共和国」なのです。
自分の内面奥深くにある共和国です。
政府は法律や規則にしたがって大衆を治めようとするでしょう。
しかし、ある存在の内面にある静謐な思考過程の中ではたらく意志を治めることは絶対にできないのです。
それができるのは、その存在自身だけです。
そしてその人間は、自分の感情の状態にしたがい、個々の瞬間のバランスをとって生きていくのです。

聴衆の皆さんに向かって、私はこう言います。
あなたより偉大な師はいません。
そして一人ひとりがそれぞれの人生に責任を持っているのです。
私たちは思考の中で物事をする存在なのではないのですか。
そして、私たちの思考がさらに進化するのは、それが実体をもったときではないのでしょうか。

人を牢獄に入れ、これ以上小さくて暗く、汚らしい穴ぐらはないという場所に押し込めることはできても、その心、その思考を閉じ込めることは絶対にできません。
身体はどんなに押さえつけられていても、思考はそのまま活動を続けるのです。
そしてその人間は、思索を通して自分を納得させ、自分に教え、そして、自分に審判を下すこともするのです。

私は善も悪も認めません。
認めるのは生だけです。
もしある存在が、いま、ひとりの存在を殺めんとするなら、あるいは単にそう思うことによって、自分の魂の内でその殺人行為をしようとするなら
(それはどちらも変わらぬことです。
なぜなら、考えたことはすでになされていることと同じなのです。
思考の中で他の存在を真っ二つに斬ったことのない人などひとりとしていません)、
どちらの場合も、何らかの目的で、ある理解を得るために、それを行なう必要があったのです。
ぜひわかってほしいのは、この命を奪われた側の者も、その犠牲者ではないということです。
彼もまた、もしかしたら、真っ二つに斬られるかもしれない、あるいは暴行されるかもしれない可能性に思いをめぐらしたのです。
そして、思いをめぐらしたために、またそれがひどく恐ろしいものであったために、相手の殺意を自分のところまで引き寄せてしまったのです。
こうして、暴行をはたらく必要があった者と、(それを理解するために)暴行される必要のあった者が、その体験のために同じところに引き寄せられてきたのです。

神という叡智では、悪であるものは何もありません。
あらゆるものは、智慧を与えるひとつの体験なのです。
これがあなたへの私の答えです。
そして、人間がもはや自分の同胞たちから非難されなくなり、自分の存在は悪ではなく、神そのものなのだと気づくとき、そして神という名の生の流れによって自分の存在はすべて愛され、支えられているとわかったとき、自分の価値、自分の大切さを理解するのに、わざわざ戦争や強姦や殺人、あるいはそれに類するようなことを体験する必要はなくなるのです。

人間が、法律だの計画だの規則だのといったものにあふれた、この限定された意識から自分を解き放つとき、そこに存在そのもののよろこびと平穏を見いだし、それが自分自身を、そして全人類を愛することを可能にしてくれるでしょう。
そしてすべてが、自分の意図を反映した流れを自由につくるようになるのです。
そうすれば、その人は神と同じ愛を体現するようになります。
そして、つまり、すべての生命を育み、支えていく基盤となるのです。
そうでありますように――


主:最近、私の人生に現れた二人の人がいるのですが、私の人生に関わった彼らの目的を知りたいのと、私たちはこれまでの生で一緒だったかどうかが知りたいのです。

ラムサ:彼らがあなたの人生に関わる理由は、あなたが彼らにそうしてほしいと望んでいるからであり、同時に彼らもそこにいたいからです。
それ以上に偉大なる目的があるでしょうか?

主:でも、私は彼らにいてほしいのかどうかわからないのです。
もしかすると、何か互いのカルマ的つながりのためにそこにいるのであって、お互いに何か学ぶべきことがあるためなのではないかと思ったりしているのですが。

ラムサ:主よ、もしもその関係に何か足りないと感じているなら、ひょっとして過去生で一緒だったかもしれないというロマンチックな考え方は、いまの状態よりもあなたたちの関係をずっと素敵なものにしてくれるのは確かでしょう。
でも、「カルマ的つながり」と呼ばれているものは、実はきわめて単純な「必要性」という言葉を、宗教的に説明しているにすぎないのです。
ずっと続いていくあなたの多くの生を通じて、あなたはたくさんの人々とともにいる必要があるし、それを望み、楽しみたいのも確かです。
でも、もし同じ友人が何度も何度も繰り返し現れたならば、それは実に凡庸で退屈、つまらないものとなってしまうことでしょう。
もし彼らがいまそこにいるのなら、ひょっとすると、これに関して学ぶことは、とにかくもう一度一緒になり、やがては別々の道を行く必要があるのだと気づく、ということだけなのかもしれません。

主:なるほど。
言わんとしていることはわかるような気がします。
でも、カルマについてはもうひとつ質問があります。
たとえば殺人とか強盗とか事故などがある人に起きるのは、過去生でした何かとのバランスをとるために、カルマを満たしているのだと教えられました。
カルマの法則について、どう考えているか聞きたいと思います。

ラムサ:あなたに知っておいてほしいこと、そして皆にもわかってほしいことがあります。
それは、皆が「カルマ」と呼ぶものは、神の法ではないということです。
それを信じる人たちの法なのです。
残念なことに、この理論を信じている人は山ほどいて、彼らは皆、完壁という幻想を得ようとして一生懸命骨を折っています。
そして、ひとつの生でしたことは、どんなことでも、次の生に戻ってきてその代償を払わなければならないと信じているのです。
自分に起きることはすべて、いつも「カルマを満たすため」になってしまうのです!
主よ、でもこれは人の生についての説明としては、あまりに拙劣です。
生には、もっといい説明をしてあげる価値があるのではないでしょうか。
カルマの法則は確かに現実ですが、それは信じる人たちにとってだけのことです。
法で存在するのは、あなた自身が自分の世界で有効だとしたものだけなのです。
真の意味で法を与えられる者は、個々の至高なる存在だけです。
それは一人ひとりが真実を受け容れる自我を持っているからであり、その人が真実と呼ぶもの、自分の存在における法としてつくり出すものは、何でもそのまま現実となるのです。
こうして、多くの人間が、信念や、このように屈折した考え方を通して、自分たちのために、バランスの法則、あるいは「完全なるもの」の法則をつくり出したのです。
カルマを信じることを選ぶなら、もちろんあなたは自分のつくった法に支配されることになるでしょう。
その信念に力を与えたからです。
そうすると、もちろんそれはあなたの人生で効力を発します。
そして、何度も何度も戻ってきては、この地上界での前生でした行為を取り消したり、それを称賛したりを繰り返すことになるのです。
私は、カルマ、あるいは完壁という概念を認めませんが、それは、私がそうしたものをひとつの限定要素として見ており、何かの結果得られるよろこびとは考えないからです。
カルマという制限された状況を通じ、完壁をめざして躍起となっている人たちは、その目標を得ることはけっしてないでしょう。
なぜなら、ひとつのカルマを満たしていても、それは同時に新たなカルマをつくり出すことになるからです。
そして、受け容れる側ではなく、つねに義理を負う側に身を置き、そこに安住することになるので、幾度の生を経たとしても、「在るということ」の状態、神の状態にはけっしてなれないのです。
完壁というものはありません。
あるのは、「在るということ」だけです。
生の「在るということ」では、一瞬ごとにあらゆるものが変化し、進化していきます。
ですから、完壁な状態というのは、けっして達成されはしないのです。

私が認めるのは「在るということ」だけです。
そこには、自己、つまりは神が進化していくのを抑えてしまう法律や理想は、まったく存在しないのです。
「在るということ」の叡智では、自分のしたいこと以外、人生でしなければならないことは何もありません。
カルマの教えを受け容れるならば、それは自分の経験のためにするあなた自身の選択であり、創造であるのです。
しかし主よ、あなたは同時に限られた力と仕返しという幻想をつくり出してしまったことも知るべきです。
カルマと呼ばれるものを受け容れるとそういう運命になり、自分自身の限定された考え方による囚われの身となるのです。

あなたは自由な魂であり精神なのです。
あなたはその瞬間、自分の好きな真実、現実、あるいは幻想を、自由に創造し体験できるのです。
そして、いつの瞬間にも、自分が望めばあなたはこの夢をあらためて創造し直すこともできます。
あなたにはそれをする限りない力があるからです。

カルマは存在しません。
欲求は存在します。
そして欲求はとても気まぐれです。
いつの瞬間にも、それが望むときに何でもできるし、何にでもなることができるのです。
そしてそれは、何かになっている真っ最中に心変わりをすることもあり得るのです。

殺人、事故や強盗などは、懲罰ではありません。
以前あなたがしたことへの「償い」ではないのです。
それは、思いをめぐらした思索の結果、あなたの手で創造されたものであり、思索された体験なのです。
それは、氷遠のものでも永遠の状況でもありません。
ですから、より大きな叡智の中では、それはひどいことではないのです。
振り返ってみると、すばらしい師でもあるのです。

あなたは、一万人もの無実な人々が殺されるのを見て、こう言うかもしれません。
「何とひどい惨状だ。この残虐行為に、なぜ天使たちは涙を流さないのか?
なぜ神の栄光を謳い上げたりできるのか?」と。

それは、天使たちは生命がいつか終わると信じて自分を限定することがないからです。
殺された者たちは、さらなる学びと体験、つまり私が冒険と呼ぶもののために、直ちに皆が「天国」と呼ぶ場所にとどめられます。
そして、あなたはその一万人の死体を埋葬し、その死に涙を流すかもしれませんが、神は泣くことはありません。
明日がいつも必ずやってくるのはこのおかげなのです。

誰があなたの運命をつくり出していると思いますか?
多くの人々は、ひとつの至高の存在が皆を操り、すべてのことを起こしていると信じています。
そう信じていれば、自分自身の人生の責任という肩の荷を降ろすことができるからです。
しかし、あなたが自分の運命を支配しているのです。

あなたが、この瞬間に考え感じることによって、あなた自身の人生のあらゆる瞬間を創造しているのです。
あなたが学ぶべきことはただひとつ、この瞬間、このいまこそが、まさに永遠そのものなのだということです。
それは途切れなく続いているのだということです。
そしてこのいまという瞬間の継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのです。
それは昨日にとらわれているわけではありません。
あなたが明日のことを夢見て現実化していくためにつくり出したのは、まさにこのいまなのです。
つまり、この瞬間、あなたは何でも好きなことができる自由があるのです。

それが父なる存在のあなたへの愛なのです。
それが、一瞬一瞬を新しく創造していく力と自由という、父が与えてくれたものなのです。

誰も過去に支配されている人はいません。
一瞬前だろうが、千年前だろうが、あなたがしたことについて償いをしなければいけないなどということはありません。
いつのことについてもです。
ある行為をした瞬間、あなたはひとつの理解を得たのであり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たのです。

過去は、そのときに体験されたいまという瞬間にすぎず、もうここにはないのです。
現在との関連と言えば、あなたがすでにそこから学べることをすべて学んだということだけです。
つまり、あなた自身の内奥の思考過程と、明確な目的を持った計画にしたがって自分の力を最大限に発揮してこの瞬間を創造する智慧を過去はあなたに与えてくれたのです。

主よ、でもその過去はもう終わっているのです。
それはもうここにはありません。
過去は、智慧としてのみ、このいまの瞬間あなたの内面に生きているのです。
過去のおかげで得られたのはそれなのです。
だからこそ、このいまという瞬間のあなたは、これまでの人生で最も偉大なのです。
なぜなら、このいまという瞬間、あなたは過去のいまよりも、「知っているという状態」にさらに深く進んでいるからです。
この瞬間のあなたは、あなたの知識の蓄積すべてなのです。
体験を通じて得られた知識、生という美徳を通じて得られた体験すべてであるのです。
そして、自己を表現するすべての瞬間を、あなたは新たにつくり出しているのです。
それは、感情の世界へ、そしてすべての体験の中で真珠のごとく光る智慧へと分け入っていく新しい冒険なのです。

実際に存在しているのはいまだけなのだと気づくと、あらゆる瞬間に、自分の魂の内にあるフィーリングが強く求める冒険を生き、偉大なる智慧にむかって自分を広げていくために、これまでないような体験をどんどんしていくという生き方をどうしても選ぶようになります。

あなたがこの地上界に戻ってきたのは、何か自分が思い出せないようなことを「解決する」ためでもないし、誰もそれが何だかわからないような、「自分がすべきこと」をするためでもありません。
それなのにあなたは完壁を求めるように言われているのです!
いつも混乱している状態にいたら、いったいどうして何かを達成できるというのでしょうか。

あなたがここに戻ってきたのは、自分でそれを選んだからであり、自分で選んだ身体を通してやってきたのです。
あなたの母親の卵子と父親の精子から、この「創造する幻」という次元で自己を表現するために自分の身体をつくり出したのです。
前にしたことの帳尻を合わせるためにここに戻って来たのではなく、固体という存在を通して進化し、この次元での体験から得られる感情の中で自分を完成させるためなのです。

あなたがここにいるのは、それがどんなところであろうと、自分がいたいからそこにいるのだ、ということを学ぶためです。
叡智を学び、生の場でそれを実践するために、あなたはここにいます。

この人生で(また、これから自分が望むだけ繰り返す幾度の人生でも)、あなたがここにいるのは、この幻を生き、魂が叡智という命を満たすのに必要なすべてを体験するためです。
そして、この次元での体験から豊かな感情を得たとき、あなたはもはやここに戻る必要もないし、そう望むこともなくなります。
そして、自分がいつここでの体験を全うしたのかを判断できるのはあなただけです。

ほかに誰もいません。
主よ、あなたは神になるためにここにいるのです。
そして神になるためには、自分の存在からすべての法律、すべての宗教的な教義、すべての儀式的な慣行を取り除き、思考過程を限りないものにしなければならないのです。
自己表現の無限の自由、けっして死ぬことのない身体、そして存在の平穏とよろこびを望めば、あなたがいま生きている生は完全に無限のものであることを知るでしょう。
それをあなたが知ったとき、生は無限になるのです。

なぜなら、自分の存在の中で真実として知ったこと、望むことはすべてそのとおりになるからです。
あなたが自分の世界で受け容れる必要のある法は、これだけです。
自分は、氷遠の存在であること、これまでも失敗は何ひとつないこと、そしてこれまであなたがおかしたたったひとつの間違いとは、何か間違いをしたと信じたことだということを知りなさい。

主よ、自分を愛しなさい。
自己が語ることに、そしてそれが何を感じる必要があるのかに耳を傾けるのです。
心をこめてそれを追い求めることです。
つまらなくなるまでそれを続けなさい。
つまらなくなるのは、その体験から学ぶべきことはすべて学んだという、魂からのサインであり、もう別の冒険に進む時期が来ているのです。

自分の内面にあるフィーリングだけに耳を傾けることができれば、この瞬間、あなたには自分がなりたいものになれる自由があるのです。
そして、どんな法律にも、どんな教えにも、どんな存在にも申し開きなどする必要がないことを知りなさい。
いまという瞬間、そしてそこから得られるフィーリングだけが、それだけがいまもこれからもたったひとつの大切なものなのです。

主よ、無法になりなさい。
それは、無軌道になるということではありません。
あなたの首のまわりに縄を回していた人間がその縄を解き、あなたは呼吸できるようになるということなのです。
法律や教義や、限定された信念などから自分を切り離せば、神そのものである自由と無限性になることも可能なのです。
あなたは自分本来の姿である力そのものになり、自分自身をそして生命を創造し、再生します。
そうすれば、あなたがここにいる理由は、誰かにした何かをとりつくろうためなどではなく、ただ生きたいから、になるのです。
そして、新たな冒険が一瞬ごとに展開していくのです。
幸せに生きなさい。
父なる存在があなたにたったひとつだけ求めているのはそのことです。


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

ただひとつの真実

ただひとつの真実とは何だか知っているだろうか。
そんなものはない、ということだ。
ただひとつの真実がないということは、すべてが真実だということだ。

主:私はこれまでずっと、生きるとは何か、神とは何かを理解しようとして、ひとつの宗教から別の宗教へと移り、ひとりの師から別の師のところへと行ってきたような気がします。
ラムサ、私は頭が混乱しています。
だって、皆がそれぞれ違うことを言っているではないですか。
同じことはたくさんあるのに、教えることはどれも違っています。
中には、まったく正反対のことを言っている場合もあるくらいです!

たとえば、あなたは、正しいも間違いもなく、私たちが何をしようとも神は私たちを愛してくれると言います。
ある意味ではあなたの教えが正しいとも思えるのですが、ほかの人の教えとはずいぶん違うことも事実です。
それと、あなたの教えていることの中には、私が今まで教えられてきたものとはあまりにもかけ離れていて、ある意味でいくぶん「飛びすぎ」のように思えるところもあります。

ラムサよ、私は混乱しています。
いったい誰を信じていいのかわかりません。
本当に正しいもの、これしかないという本当の真実は、どうしたらわかるのでしょうか。

ラムサ:主よ、まずはじめに訊きますが、「飛びすぎ」という言葉はどういう意味なのですか。

主:そうですね、あなたの言うことの中には、自分の思考を広げない限りわからないし、受け容れがたいものがあるということです。

ラムサ:たとえば「無限」とか「永遠」などは、「飛びすぎ」になるでしょうか?

主:ええ、ある意味ではね。

ラムサ:ならば私の教えは確かに「飛びすぎ」でしょう。
それはあなたをそれほど遠くまで、永遠の領域まで誘っていくでしょうから。
さて主よ、真実ではないものとは何でしょうか?

主:そうですね、たとえば想像とか、空想とか、現実とは一致しないもののことです。

ラムサ:そうですか。
では想像や空想とは、何なのでしょう?

主:心の中で抱く思考です。
思考の中で勝手につくり上げるものです。

ラムサ:そういう思考を抱いているとき、それらは現実ではないのですか?
あなたの意識の内面での現実ではないのでしょうか。
思考の中での真実ではありませんか。

主:ええ、そうですが、私の心の中だけで真実なのかもしれません。
必ずしも、現実の中で物事がどうなっているのかという真実とは合致しないかもしれないのです。

ラムサ:主よ、誰もが本当の真実を知りたいと願っています。
でも、もしその本当の真実があるとしたら、それ以外のものはどうなってしまうのですか?
意識の中に現実を持つものはどうなのでしようか。
本当の真実とは何だか知っていますか。
そんなものはない、ということです。
それがないということは、すべてが真実だということでもあります。
主よ、あらゆるものは真実なのです。
真実でないものなどありません。
なぜなら、すべてのものは思考から発生したのであり、思考とは神のことだからです。
そして神というのはつくり出されたひとつの思考ではありません。
すべての思考の現実なのです。
あらゆるものは現実です。
あらゆるものは思考を通じて存在理由を与えられたのであり、それぞれが存在の目的を持っているからです。
あなたが想像や空想と呼ぶものももちろん現実です。
それもまた、目的を持った思考によって構築されているからです。

主:それが外の現実の世界とは異なっていてもですか。

ラムサ:「外の」世界、あなたが「現実」と呼んでいる世界も幻にすぎず、最も偉大なる現実、つまり思考と感情という見えない現実の手になる創造物なのです。
いったいどうやって「外の」世界が存在するようになったというのですか?
想像と空想によって創造されたのです。
そして直ちにそれは物質という形での現実となり、それが今度はさらに多くの想像と空想を生みました。
それはどちらも互いを生み出すからで、その両方ともに確かに現実なのです。
思考で想像されたものは、それが物質界の現実という形で具象化しているか否かにかかわらず、すべては真実なのです。

主:それがどんなに異様なものであってもですか?

ラムサ:そのとおりです。
異様かどうかを決めるのは態度、見方だからです。
あなたの心に抱かれた思考は、どれも真実です。
意識の中で生きているのですから。
つまりそれは、すべての生命が生まれる基盤である神の精神という最も偉大な現実の一部だということです。
さて、主よ、あなたの混乱について何かできるか考えてみましょう。
父なる神は思考です。
すべての思考を含む真実なのです。
そして神がすばらしいのは、法というものがまったくないことです。
なぜなら、法を持つことは限界を設けてしまうことだからです。
しかしまた、父は何でもできる無限の存在なので、あえて無限の真実、無限の思考の中に選択肢の存在を許しているのです。
皆の一人ひとりが、思考を受け容れ、それをもとにして、自分の独自性をさらに高める自分自身の真実を何でも創造する意思を与えてくれたのです。
それは、自分の望みや、叡智を学ぶ旅の中で、それぞれがいる場所から真実が見られるようになるためにです。
そして、たとえそれが何であろうと、その真実を、そして神という思考のその一面をあなたが体験し理解することができるように、父なる存在、人生は、あなたが思考でつくり出した真実そのままになっていくのです。
真実とは、あくまである人にとって、真実と見えることの謂(いわ)れでしかありません。
真実とは意見であり、態度であり、何かについての信念が創造的思考の中で絶対的なものになった姿なのです。

でも、どんなことでもそれについての意見は皆違うし、場合によっては極端に異なることさえあるのです。
それは、一人ひとりがこの人生だけでなく、以前生きたことのある生すべてから自分の魂の中に得てきた独自の体験や理解、誤解などにもとづいて意見をつくり上げてきたからです。
ですから、ひとりの存在があることを真実と信じても、ほかはそう信じないこともあるわけです。
この二人が互いに理解し合えないのは、相手の人間になったことがないために同じ体験の蓄積がないからです。

では、どちらの真実が正しいのでしょうか。
どちらも正しいのです。
どちらも真実を表しているという意味において、正しいわけです。
二人とも、自分の体験と理解によって見えるようになった真実を表現しているのですから。
しかし、もしある人が、自分の真実だけが唯一正しいとするのなら、その人は限りある理解しか持っていないことになります。

この夢の中にいるそれぞれの存在は、自分が叡智に向かって進化していく中で体験したいと望むどんな真実でも受け容れ、創造していきます。
それは各々の体験と必要性にしたがって行なわれ、自己実現という目的のためのものです。
そして、この体験をするために、それぞれ自分が信じたいと思うものを正しいとする真実を語る源を探し求めていくのです。
ですから、この地上界に棲む神が、正確にはどれだけいるかわかりませんが、たとえば二十億とすれば、それと同じ数だけの独自の真実があることになります。
なぜなら、一人ひとりの存在には、真実を違った形で創造する意思と権利があり、そうする必要性があるからなのです。

つまり、あなたがある師の言うことを読んだり聞いたりするとき、それは知覚された真実です。
その人が真実をどう見ているか、どう学んだか、どう創造したか、どう体験しているかなのです。

ですから、あなたが十人の師のもとで勉強したのであれば、それぞれの真実が違いますから、当然かなりひどい混乱に陥ります。
その内のどれかひとつの見方が、そのときたまたま自分が必要としているものに、ぴたりと合うことも充分考えられます。
しかし、そのうちのどれかひとつしかない真実を語っているかを知ろうとして、それらをすべて比較して見てみると、すべてがすべて真実を語っていることに気がつくでしょう。

そこで決めなくてはならないのは、いったいどの程度まで自分がその特定の真実になりたいと望むかです。
というのは、あなたが真実として受け容れたものは、それが何であろうと、あなたが人生において現実として体験することなるからです。

主よ、この地上界には偉大な師が存在しますが、彼らはちょうど魔術師のようなものです。
すばらしい奇跡を行なったり、いろいろなことを実現させたりできるからです。
しかし、まだ死の存在を信じていますから、彼らはいずれ死にます。
確かに学びの過程で大きな進歩を遂げてはいるのですが、まだその理解が、死という限界を超えて、生の真の姿とは存在の継続性にあるというところまで至っていないのです。
ですから、もし彼らの真実をただひとつの真実として受け容れるならば、あなたも魔術師にはなれるかもしれません。
でも、あなたは死にます。
わかりますね?

あらゆるものに真実があるのです。
同時に、すべてのものには成長という過程があります。
一つひとつの瞬間に真実も成長するからです。
神は完壁な状態にあるのではなく、つねに成長し何かになりつつある過程にあるのはこのためなのです。

それぞれ人が持つ叡智は進化を続け、さらに限りない真実を内包していくようになります。
そして、一瞬一瞬のその叡智がどんなものであろうと、それがその人から見た真実、知る真実になるのです。

たとえば花を考えてみましょう。
花は咲く前につぼみであるというのは真実でしょうか。
確かにそうです。
では花が咲いてしまったら、それはもはやつぼみではないから、嘘をついていたということになるでしょうか。
そんなことはありません。
それは、進化を続ける真実という状態なのです。

それでは花びらが落ちてなくなってしまったら、花は嘘つきだということになるのでしょうか。
つぼみ、花、花びらが散った花、この状態の変化は何なのでしょう?
その真実がさらに進化した姿なのです。

あなたが聞いたり読んだりする教えの中で、法を教えるもの、人間を限定するもの、「在るということ」を善と悪に分けるもの、あるいは神が、存在するものすべての「在るということ」ではなく、ある単一の存在だと教えるものは、それを自分の真実として受け容れ、世界に与える必要性を感じている者たちから出てくるものです。
主よ、それは彼らの真実で、必ずしも間違ってはいないのです。
しかし、さらに偉大な、さらに進化した真実では、どんな形であっても、生というものが限られていると教える者は、ほかに比べて理解が進んでいるとは言えません。

神は限られた存在でしょうか。
もしそうだとしたら、生というものは途切れないものではなくなり、あなたには混乱するという選択さえなかったことでしょう。

私が教えていることはまさにひとつの驚くべき真実です。
なぜなら、神に法なしなどと言う者がどこにいるでしょうか。
そう言ってしまうと、もう誰も神を使って他者を支配し、隷属させることはできなくなるからです。

父なるもの、至高なる意識は、法や審判や終焉などの限界がまったくない存在なのです。
あなたが自分の真実の道を進み、この無限の叡智を受け容れれば、父なるものの真の姿である、愛やよろこび、途切れなき継続性というものを本当に理解し、体験できるのです。

誰でも、自分が望み、自分に許すだけの知識しか持てないのです。
そして、あなたの次元での知識のほとんどは、恐れや生存や、対立する見解などにもとづいたものです。
善悪の判断を下し、人々を分断するためにあるのです。
人間は「堕ちた」存在であり、そこに神性などはないという見方にもとづいています。
主よ、でも人間は神なのです。
ですから、人に審判を下すということは、神に審判を下すことです。
人間に制限を課するのは神に制限を課することなのです。
自分の神性から人間を引き離すことは、神から神性を奪ってしまうことになるのです。

もしある師の言うことを読んだり聞いたりして、それがあなたの思考過程を制限してしまうなら、それはまさに父なるものの思考過程をも制限しているのです。
何が語られるか、それがどう語られるかに耳を傾けなさい。
もしそれが制限を課し、分断するものであるならば、それはまだこれからもっと制限のない叡智へと進んで行かねばならない存在からの、限られた真実なのです。

これらの師たちから黙っていても学んでしまうのは、あなただけが自分の最も偉大なる師であるということです。
なぜなら、あなたはすべてのものの中で何が自分に最もいいかを知っているからです。
皆自分の生を生き、自分の観点から真実を評価するのに忙しいというのに、どうして他人のことがわかるでしょうか。
自分の道を満たしていくために、どんな体験が必要なのかを魂の内に知っているのは、あなただけなのです。
自分の真実を与えられるのはあなただけです。
なぜなら、真実というのは自分で確立し、自分でその正当性を決めるものだからです。
そして真実は、科学的、知的な理解の中に見いだすことはできません。
それよりも、感情という意味での理解を通してわかるものなのです。
真実は、ある種のフィーリングであり、知っているという状態なのです。
それは知的なものではありません。
何が真実かを知ることは、何が真実と感じるかを知ることなのです。

主:ラムサ、でも事実が私の真実を証明していないとき、あるいは科学が真実であると発見したものと私の真実が矛盾しているときに、いったいどうして何かを真実と感じられるのですか。

ラムサ:主よ、あなたが事実と呼ぶもので証明できるものは何ひとつありません。
なぜなら、事実というものは、人類の理解と叡智が進化し、変化するにつれて変わっていくからです。
あらゆるものは推測なのです。
現実は思考と感情を通してつねに進化し、創造されるからです。
事実なるものは、集合意識、つまり人類全体によって感情の内に抱かれた思考の集合体が、現在この瞬間において物質化した姿でしかありません。
証明とは、フィーリング、感情にあります。
それが、もともと事実というものを現実に存在させたのです。

最も偉大な現実、偉大なる真実とは何でしょうか。
それは、事実、ではありません。
事実を現実として、思考において真実として受け容れたときに感じるフィーリングなのです。
これが真の事実です。
最も偉大なる現実とは、感情なのです。
そこにすべての真実があるのです。

主よ、あなたが何を信じることを選ぼうとも、それはそうなります。
ですから、これからはあなたが自分にとって何が適切か、何を信じたいと願うのかを選んでいくのです。

主:ラムサ、でも私にはどうしてそうなるのかわかりません。
たとえば、ほとんどの人が地球は平らだと信じていたとき、もしある船の船員の半分は地球が丸いと信じ、半分は平らだと信じていたとして、その船が出帆したとしたら、船はいったいどうなるのでしょうか?


ラムサ:平らだと思っていた者は、船から身を投げてしまったのです(間違っていたとわかるよりも、死を選ぶとは!)。
丸いと思っていた者は旅を続けたのです。
わかりますか?
世界が平らだと固く信じていた者たちは、その端まで行って違う発見をしようとはけっしてしませんでした。
それは、平らだと確信していたからです。
丸いと信じていた者は、ぐるぐる回ったのです。
彼らは地球が丸いと確信していたのです。

しかし彼らはそれが完全な球体でないことは知りませんでした。
それはちょっと上下に押しつぶされたような形をしています。
両側にふくらんでいて、上と下が、比較的平らな形をしていて、中が空洞です。
しかし、中が詰まっていると固く信じている人たちは、そうではないとはけっして知ることがないでしょう。
なぜなら、内部に入っていってそれとは違うことを発見しようなどとは考えてもみないからです。
それは、彼らが限られた理解のレベルにあるからです。
けれども、それもまた真実なのです。

主よ、限界のない思考を持つことです。
あなたの世界は丸いことを知りなさい。
でも、自分の真実においてさらに限りなくありたいと願うなら、その上と下が平坦であることを知りなさい。
さらに限りなくありたいと願うなら、その内部が空洞であることを知りなさい。
そして、それよりもさらに限りなくあらんと願う者よ、地球の中心にはたくさん生き物が棲んでいることを知りなさい。

でも、それを科学者に言ってみたらどうなるでしょうか。
もしあなたの信じていることが限られた形のものであるなら、それがあなたの真実であり、あなたは正しく、正確でもあります。
もしあなたが限りない思考で何かを信じているなら、それはそれで正しく正確なのです。
しかし、もしあなたが何か信じるものを探し求めているのなら、そのどちらも信じないことです。
そうではなくて、自分を信じるのです!
あなたよりも偉大な存在も、物も現実もないのです。

あなたはすべての真実を与える者であり、すべての現実の創造主であり、あなたの世界の中にあるすべての法律を定める者だからです。

さて、私が誰にも言うのはこういうことです。
師や宗教から学べるだけ学びなさい。
その教えに飽きて、もう意味をなさなくなるまで学び続けるのです。
そうしたら、今度は自分の魂の内で正しいと感じる答えを求めるのです。
あなたの魂は何が真実かを知っています。
そして、自分が感じるフィーリングを通してあなたにそれを知らせてくれるのです。
真実が正しいと感じるとき、それはあなたの魂がよろこびにあるということです。
なぜなら、最大の真実とは無限の自由であり、自分が望むどんな真実でも体験させてくれるものだからです。

真実というのはひとつの制限なのです。
何かが真実だと言うとき、それは真実でないものの存在を示しています。
でも、さらに大きな叡智の中では、真実も真実でないものもなく、ただ途切れなく進化し続ける生の「在るということ」があるだけなのです。
生だけがただひとつの現実であり、そこからすべての真実が発生してくるのです。
真実は、あなたが抱くあらゆる思考によって、この一瞬一瞬ごとに進化し、創造されているからです。
ですから、いつでもあなたは考えを変えてほかのことを思えるし、それはそれでどちらも真実なのです。どちらも本質であり、感情という面での理解では、どちらもひとつの選択だからです。

生と選択肢、これ以外に現実はありません。
あらゆるものは真実であり、また同時に何も真実はないこと、そして、在るということだけがあることを理解すれば、自分が思ったとおりに真実を知覚できるのです。
そして、それはあなたが絶対的なものと認めている間だけ、真実としてとどまります。
その真実を認めなくなり、正当性を与えるのをやめれば、それはもはや現実ではなくなってしまうのです。
だからこそ、この地上界は、創造する現実の次元なのです。

あなたが人生でつくり出す現実、それが何であろうとも、あなた自身も変わることができるのを知ることです。
あなたを至高の存在にしているのは、自分の望みどおりに何でもできるし、何にでもなれるのを知ること、それにいつでも好きなときに自分の気持ちを変えてもかまわないのを知ることなのです。

幸せな気持ちになるのにどれくらいの時間がいるでしょうか。
あなたがよろこびのことを思うだけの時間です。
するとあなたはたちまち幸せに輝きはじめます。
絶望するのにはどうでしょうか。
絶望のことを思うだけで、あなたはすぐ絶望に沈んでしまいます。
ここには、どんな隠された真実があるのでしょう?
この二つの感情のどちらにもいつでもなり得るということであり、好きなときに自分を表現する道を変えられるということです。
父なる存在は、これだけの自由をもってあなたを愛してくれているのです。
自分の存在の内面でこの真実を知ることができれば、あなたは自分の限界を超えて神なるものになります。
ほかの者たちが法や道徳や理想などによって支配されているときに、あなたは自由な存在になれるのです。
なぜなら、あなたは自分自身の真実だけで自分を律するようになるからです。

在るがままの自分でいなさい。
ラムサや釈迦やイエシュアや、ほかのどんな師にも従うのでもなく、です。
誰もあなたに自分の神なる自己について教えることはできません。
彼らは自分の神を教えられるだけなのです。
天命を満たすためには、あなたの在るがままの姿、あなた独自の自分にならなくてはいけません。
誰かほかの人間の生き方にしたがって生きようとすると、あなたは絶対に自分にはなれないでしょう。
自分が誰なのか、そして自分の内にあるこの炎は何なのかを理解するただひとつの道は、感情で理解する真実を通してなのです。

在るがままの自分を深く愛しなさい。
そして自分の内にある神に耳を傾けるのです。
その神は、微妙な声で語りかけてきます。
それは、フィーリングと呼ばれるものなのです。
フィーリングは、もしそれに耳を傾けるならば、あなたの真実を語り、あなたの覚醒への道を教えてくれるでしょう。

自分の内に感じる真実を生きなさい。
その真実を生き、体現し、あなたの栄光を示すのです。
それができたとき、あなたは自分という観点から人生を評価し、生き、そして理解したことになるでしょう。
それがどんな視点を生もうとも、それはつねにすべて正しいものになります。
あなたが自分の師になることです。
自分自身の救世主に、主に、そして神になるのです。

このあまりに単純明快なことに思いをめぐらせば、すべてを理解できる自由へとあなたを解放してくれるでしょう。
そうすれば、何が真実で何が違うのかとか、何が現実で何が幻かなどを判断することに、もはやとらわれなくなるのです。
宗教的な教義や信念にまつわる法から離れ始め、ほかの人間の真実になろうとするのをやめるとき、あなたは自分に欠けている知識や叡智を満たすことができるよう自分自身を自由に表現し、自分の魂が求めることを自由に体験できるようになるのです。
すると、体験と感情を通して、あなたは自分自身のぺースで、一瞬一瞬、神になるのです。

では、あなたの時間はどこで終わるのでしょうか。
終わりません。
なぜなら、あなたは永遠に向かって途切れなく続く存在だからです。

もう長い間、人間は自分の選択肢を自らすべて取り上げ、そのかわりに法律をつくり出してきました。
しかし変化の風がこの地上界に降りてきています。
それは新しいものをもたらし、皆に根本からすべてを考え直すことを促すとともに、これまで絶対的と考えられてきたものをあらためて問い直すのです。

皆がその動きの一部となるためにこうして一歩を踏み出したことを、私はとてもうれしく思います。
なぜなら、この日から皆の人生はもっとよろこびあふれたものになるからです。

あなたはいったい誰に申し開きをする必要があるのでしょうか。
あなた自身に対してだけです。
そして、本当の真実とは何でしょうか。
自己がそうだとしたものです。
なぜなら、あなたが信じることはすべて現実となるからです。
あなたが信じることはすべて、あなた自身がこれからそうなっていくのです。
このことを知りなさい。
そうすれば、あなたの生き方だけで多くの人に教えることができるでしょう。

真実を探し求めてはいけません。
ただ在ることです。
在ることで、あなたは無限の宇宙とひとつになるのです。

主:思いめぐらすべきことは、たくさんあるようです。

ラムサ:まったくそのとおりです。在るということ!
そうありますように。

主:ここ数年間、私は占星術の仕事をしているのですが、私を訪ねてくる人たちのためにもっと役立つことができるように、何か教えていただけることはありますか。

ラムサ:まず主よ、なぜこの仕事が楽しいのかを教えてください。
主星や惑星が私たちの生活に影響を与えると信じているからです。
それを研究することで私たちは自分自身を、そして自分の運命をもっとよく知ることができると思うからです。

ラムサ:人間は自分のふるさとを探し求める中で、いつも天界にある星の静かなる神秘をじっと見つめてきました。
自分が生まれたこのひどい境遇よりも、ずっとすばらしい場所から自分はやって来たということを、内面の本能として知っているからです。
人間が夜空に散らばる光を調べ始めたとき、驚いたことに、それは動いていて、季節もその動きにともなって変わることに気づきました。
そして自分ではどうにもできない力をそこに見たとき、その動きは自分の世界に起きる吉凶もつくり出しているに違いないという結論を出したのです。

数多くの賢者、預言者、あるいは聖者が、星に関するこの強力な信念を用いて、国を治め、支配してきました。
もし恐ろしい出来事の預言が的中したとしたら、それはいったい誰のせいだったのでしょうか。
もちろん、それを言い当てた者ではありません。
その原因は「あの呪われた星」に違いないということになります。
でも、星は沈黙したまま自分を弁護し、無実を主張することもかないませんでした。

主よ、これだけは言えます。
ここにいる誰もが、自由な意志を与えられて創造された神なのです。
そして、始まりの頃、光の存在であった皆は、至高の存在として、意志の自由を用いて星や惑星や、見える宇宙、見えない宇宙をすべてつくり出したのです。
そして、いま有している化身をのちにつくり出した神々もあなたたちです。
その化身はどんな宇宙よりも偉大なものです。
この瞬間にも、あなたは、始まりの頃に持っていたのと同じ強力な創造性を有する同じ神々なのです。
そしてこの気の遠くなるような長い時間を通じて、自分を支配するものは何も創造したことはありませんでした。
ただし、それが自分を支配できると信じてしまった場合を除いての話です。

そういう意味では、あなたはいまでも自分の人生をコントロールする立場にあります。
なぜなら、あなたは自分の存在以外の何かによって自分が支配されているという考えを受け容れたのですから。
つまり、あなたがそうなることを許したのです。

占星術を信じる人はたくさんいます。
そして、確かにそこには真実があるのです。
それは、真実と信じられているからです。
でも、できればもう一歩踏み出して、この真実を与えたのは誰か、そして星や惑星の動きが、どうしてそれをもともと創造した神々よりも偉大であり得るのかを訊ねてみることです。

自分は誰なのかということが、天界の動きを通してわかることはけっしてないでしょう。
そして惑星や星の動きが人の運命を決めるというのも、正しくありません。
もしそうならば、私たちには夢や想像力、あるいは創造性のようなものや、生命さえもなかったことでしょう。

この地上界で生きてきた生で、皆は数多くの星のもとに生まれているし、その瞬間にはそのすべての星たちが輝いていたのです。
自分の運命が、その内のいくつかの星によって支配されたり、影響されたりしていると言うことは、理にかなわないだけでなく、あなた自身である生命と神そのものを表現する自由と純粋さを取り上げることになってしまいます。

神々はたくさんのゲームをつくり出しましたが、占星術はそのひとつなのです。
それがときとしてとても危険なものになり得るのは、人に自分の未来に対する恐怖を植えつけ、感情面での将来の状態をあらかじめ決めてしまうことがあるからです。
占星術師がすべてを知る知性を有すると考える人間は、自分の貴重な人生を文字どおり人の手に委ねているのであり、これは私には賛成できないことです。

占星術がゲームであるように、宗教の教義もそうだし、政治もそうだし、経済なるものも同じゲームなのです。
そして、生存のゲームをするために自分を隷属させているあらゆるものについてもまったく同じなのです。
占星術を業としている人たちは、他人のことを思い、助けたいという願いを持つ本当に美しい存在です。
そして、星を研究するのはすばらしいことです。
そこには、美しい動きと、心を動かす神秘があるからです。
しかし、それをもとに自分の人生を決めるということになると、あなたはその星をつくっている気体にも劣る存在となってしまいます。

占星術はひとつの道具にすぎません。
ゲームでしかないのです。
本当の真実は、「さあ、あなたの将来がどうなるかわかりました」と言っているその人自身から出ています。
なぜなら、その人は、対象となっている人間のまわりにある感情面での電磁場を感じとっているからです。
このゲームの部分を取り去って同じことを言ったとしても、聞いている人には、やはりそれは驚くべきことと感じられるでしょう。
でもそうすると、ある星が悪いとか、あなたは何か神の宇宙的計画の一部なのだというほどは神秘的でないのも確かなのです。
年老いた賢者が水晶の玉を見つめるのも、ワインや霊薬やいろいろなものを飲むのもまったく同じで、ある真実を受け容れやすくしているだけのことなのです。

人間はいつも自分以外のところに自分の運命の理由を見つけようとしてきました。
自分の内にある、無数の宇宙をつくった創造主に目を向けるよりは、沈黙する星や、王の支配や、あるいは「神の意志」のせいにするほうが安心だったのです。
僧侶や預言者や、千里眼の人間から啓示を受けるほうが、自分自身も充分に賢い存在であり、その啓示を与えられるのだと信じるよりはずっと楽だったのです。

自分以外のところに理由や答えを求めている限り、あなたは内なる声を聞くことはけっしてありません。
その内なる声こそが、すべての真実を与えるのであり、在るものすべての創造主の声なのです。
それに耳を傾けない限り、自分が持っている驚くべき力と無限の叡智を自分の目から隠してしまう迷信的な考えや、ばかばかしい論理に支配されることになるのです。

主よ、あなたはどんな真実でも自分の望むものを受け容れ、つくり出すことができる至高の存在なのです。
自分の世界の主となることも、奴隷となるのを許してしまうこともできます。
どちらでも望むものを体験できるのです。
それぞれの存在が真の創造主であり、自分の人生を決め、運命を描いていく者であると気づけば、その気づきをもとに、あなたは自分のために限界のない人生をつくり出していくことができるかもしれません。
それは、あなたという存在にとってとてもすばらしいことになるでしょう。

自分がこういうゲームをしているとき、それはもともと誰がつくり出したかを思い出すことです。
そして、自分がそう望んだものに対してはひ弱な存在でいることもできる創造主は、一瞬のうちに考えを変え、自分の人生を再び自分の手に取り戻せるのだということも覚えておくことです。

占星術というゲームについて、ひとつ言っておきたいと思います。
占星術師は、「宮」を十二宮と設定していますが、実際は十四あります。
恒星と考えられている惑星がひとつありますが、それはどちらかというと星雲です。
美しい光を放つ惑星で、そこにもう長い間存在しています。
それがもうひとつの宮です。
そして、太陽の軌道に、すでに形成されようとしている新しい惑星があります。
それは、数千年前、太陽の活動が活発だったときに生まれたものです。
それで十四になるのです。
二つも宮がはずれているのに、占星術師はいったいどうして的確な判断ができるでしょう。

主よ、占星術で人を読むとき、実行してほしいことがあります。
星座の位置を計算したり、それを星座表に描いたりする諸々の作業を終えて、その解釈を読み終えたとき、その人にこう言ってあげなさい。
宇宙はあなたがいなければ何もなかった、
あなたがいなければ星や惑星といったようなものは存在しなかったのです、と。
それだけでかまいません。その人はあなたの言ったことをけっして忘れないでしょう。
その言葉が気になってくるからです。
それで元気になり、自信をもつからです。

あなたがここに来てくれてとてもうれしく思います。
この聴衆からもとてもたくさんのことを学ぶことでしょう。
ここに来た人たちの中で、私の教える無限の真実を受け容れない人もたくさんいます。
誰もが自由を望むわけではないからです。
でもそれはそれでかまわないのです。
その人たちはそれでも愛される存在であり、しかも正しいのです。
そして、やはりすべての現実の創造主であり神であるのです。


『ラムサ―真・聖なる預言』
    (ラムサ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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