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何が虚偽かを見ることこそ創造的行為である



集団的行動がこれほど多く必要である一方、私たちのほとんどは個人的行動を取るに足らないと見なしていると私は思います。
私たちのほとんどにとって、個人的行動は一般に集団的行動と対立しています。
私たちのほとんどは、個人的行動より集団的行動のほうがはるかに重要であり、また社会にとってより大きな意義を持っていると見なしています。

私たちにとって、個人的行動は何の効果もなく、それは既成秩序の確かな変化、社会における確かな革命をもたらすほど充分に有意義でもなく、充分に創造的でもないのです。
そこで私たちは集団的行動のほうが個人的行動よりもはるかに印象的で、はるかに急務だと見なすのです。
とりわけ、ますます技術的傾向を強め、ますます機械的なものへの関心を高めつつある世界では、個人的行動の余地はほとんどなく、かくして次第次第に個人の重要性は減じ、そして集団がきわめて重要になるのです。

個々の人間の精神が集団によって引き継がれ、集団化――もし私がこの言葉を使ってよければ――され、かつてなく適合することを強いられつつあるいま、上述のことが起こっていることを人は見ることができます。
精神はもはや自由ではないのです。
それは政治によって、教育によって、組織化された宗教的信念や教義によって形作られつつあるのです。

世界中いたるところで、自由はますます少なくなり、また個人はますます無意味になりつつあります。
皆さんはこのことを自分自身の人生においてだけでなく、一般的に観察してきたにちがいありません。
自由――自主的に考える自由、自分が正しいと思う何かを擁護するための自由、既成秩序に対して「ノー」と言う自由、自分自身で発見し、向い、見い出すための自由――が萎縮してしまったのです。
ますます指導が重要になりつつあります。

なぜなら、私たちは教えられること、導かれることを望むからです。
そして不幸にして、これが起こるとき、腐敗は避けられず、精神の退歩――技術的精神、橋や原子炉などを建設する能力の退歩ではなく、創造的な精神の性質の退歩――が起こるのです。

私はその「創造的」という言葉を、通常とはまったく違う意味で用いています。
私が「創造的」と言うとき、その意味は詩を書いたり、橋を建てたり、あるいはとらえられつつ光景を大理石や石のなかに記すということではありません。
それらは、人が感じたり、あるいは考えたりしたことのたんなる表現なのです。
が、ここでは創造的精神について、それとはまったく違う意味のものとして話しています。

すなわち、自由な精神が創造的なのです。
教義、信念によって束縛されていない精神、経験の範囲内に隠れていない精神、伝統、権威、野心の壁を打破する精神、もはや羨望の網にかかっていない精神――そのような精神こそが創造的な精神なのです。

そして、思うに、戦争の脅威があり、また技術的にではなく他のあらゆる面で全般的退歩がある世界では、そのような創造的で自由な精神が必要なのです。

人間の精神がますます機械的になりつつあるので、人間の思考、人間存在の成り行き全体を変えることが絶対的、緊急に必要です。
で、私には、この完全なる革命がいかにして個人において以外、他のどこで起こりうるのかわかりません。
集団は革命的ではありえません。
集団はたんに従い、自己調整し、模倣し、適合することができるだけです。
これに対して、これらすべての条件づけを打破し、粉砕することができるのは、個人、「あなた」だけなのです。

この精神、この新しい精神を求めているのは、意識における危機です。
そして見たところ、観察するかぎり、人はけっしてこの線に沿って考えることはなく、常により多くの改善――技術的、機械的改善――が、なにか奇跡的なしかたで創造的精神、恐怖から自由な精神を生み出すだろうと考えているのです。

然るに私たちは、機械的行動の集団的世界で必要な技術的過程の改善にではなく、むしろこの創造的精神、この新しい精神をどのようにしてもたらしたらいいのかに関心を向けているのです。
なぜならこの国では、見たところ、より多くの金儲け、鉄道建設、運河や川底の浚渫(しゅんせつ)、鉄工、より多くの製品の製造といった産業的活動以外では、たぶん全般的な衰弱が起こっているからです。
これらの活動はどれも必要ですが、しかしそれらは新しい文明をもたらさないでしょう。
それらは進歩をもたらすでしょうが、しかし進歩は、観察するかぎり、人間に自由をもたらしません。
物は必要です。商品は必要です。より多くの衣食住は絶対に必要です。
が、他のものもあるのです――すなわち、「ノー」と言う個人です。

それに劣らず必要な「ノー」と言うことのほうが、「イエス」と言うことよりはるかに重要です。
私たちは皆「イエス」と言いますが、けっして「ノー」と言い、「ノー」の味方をしません。
否定することは非常に困難であり、適合することは非常に容易です。
そして私たちのほとんどが適合してしまうのは、恐怖や安定願望によって適合へとすべり込むことのほうがずっと容易だからですが、それによって私たちのほとんどは次第次第に沈滞し、崩壊していくのです。が、「ノー」と言うためには最高の思考が必要です。
なぜなら、「ノー」という発言には否定的思考――すなわち、何が虚偽かを見ること――が含まれているからです。

まさに何が虚偽かについての知覚そのもの、何が虚偽かを見る際の明晰さ、まさにその知覚が創造的行為なのです。
何かを否定すること、何かに疑義を呈すること――いかに神聖で、いかに強力で、いかによく確立していようと――は、深い洞察を必要とし、自分自身の観念、伝統の粉砕を必要とします。
そして、プロパガンダ、組織宗教、偽りが行き渡っている現代世界では、そのような個人が絶対に必要なのです。
皆さんもまたこのことの重要性を――言葉の上ででも、理論的にでもなく、実際に――見ているでしょうか?

さて、ものの見方というものがあります。
私たちはそれを直接見つめ、見ているものを体験するか、あるいは見ているものを言葉で、知的に吟味し、「あるがまま」についての理論を紡ぎ出し、「あるがまま」についての説明を見つけるのです。
が、説明を見つけることなしに、たんなる判断なしに(それについては後で触れるでしょう)、何かを虚偽として直接知覚するには、注意が必要であり、皆さんの全能力が必要です。
そして見たところ、とくにこの不幸な国――伝統、権威、そしていわゆる古代の知恵が支配している――では、何が虚偽かを見抜き、それを否定し、そしてその否定を支援するあのエネルギッシュな性質がまったく欠如しているように思われます。

が、何が虚偽かを探究するには自由な精神が必要です。
もし皆さんが自分のことをある特定の種類の信念、経験、一定の行動方針に掛かりあわせていたら、疑義を呈することはできません。
もし皆さんが特定の政府に掛かりあっていたら、皆さんは疑義を呈することはできず、あえて問いただしません。
なぜなら、そうすれば皆さんは自分の地位、影響力、あるいは皆さんが失うことを恐れているその他のものを失うからです。
さらにまた、もし皆さんがヒンドゥー教徒、仏教徒等々としてある特定の宗教に掛かりあっていれば、皆さんはあえて問いただしません――見い出すためにあらゆるものをあえて解体し、破壊しようとはしないのです。

が、あいにく私たちのほとんどは政治的、経済的、社会的、あるいは宗教的に掛かりあっており、そしてそこから、掛かりあいゆえに、私たちはまさに中心、私たちが掛かりあっているまさに当のものにけっして疑義を呈しないのです。
それゆえ、私たちは常に観念、書物、多くの言葉のなかに自由を求めるのです。

ですから私としては、皆さんが聞いている間に、たんなる意思疎通の手段であり、各人によって解釈される必要があるシンボルである言葉を聞くだけでなく、言葉を通じて皆さんが自分自身の精神状態を発見し、皆さんが掛かりあっているものを発見し、皆さんが手も足も、精神も心も縛りつけれられているものを自分自身で発見するように――実際にそれを発見し、そして皆さんが掛かりあっているものを打破することが可能かどうかを確かめ、何が本当かを見い出すように――していただきたいと思います。
それ以外のしかたでいかにして世界に再生が起こるべきか、私には見通せないからです。

社会的動乱があるでしょう――共産主義のそれであれ、より多くの繁栄、より多くの食べ物、その他のそれであれ。
そして、より多くの工場、より多くの肥料、より多くのエンジン等々が生み出されるでしょう。
が、明らかにそれが人生のすべてではありません。
それは人生のほんの一部なのです。
で、断片を崇拝し、断片に生きることは、私たち人間の問題を解決しません。
依然として悲しみがあり、依然として死があり、依然として不安、罪悪感があり、ぶつかりあう多くの観念の苦悶、希望と絶望があります。
そういったすべてがなおそこにあるのです。

ですから、お聞きになるとき、私としてはそれがむしろ自己検証しつつある精神――つまり、言葉を聞いてそれに同意したり反対したりするという、ほとんど無意味なことをするよりはむしろ、それ自身の過程を検証しつつある精神――による傾聴であってほしいと思います。
なぜなら、私たちはひたすら事実のみを扱っているからです。
すなわち、人間存在がますます機械的になりつつあるという事実。
ますます自由が少なくなっているという事実。
混乱があるとき、権威が頼みの綱にされるという事実。
さらに、外面的に戦争としての葛藤があり、また内面的に不幸、絶望、恐怖としての葛藤があるという事実。
これらはすべて、理論的にではなく実際に対処すべき事実です。

そこで私たちの関心は、傾聴者の内部にいかにして変化――個人における根源的革命――をもたらしたらいいかということです。
なぜなら、傾聴者こそは、創造的になりうる唯一の人だからです。
政治家でも、指導者でも、要人でもなく。
かれらはすでに掛かりあいを固め、特定の場所にどっかりと腰を据えています。
そしてかれらは名声を望み、権勢や地位を切望しているのです。
皆さんもまたそれらを望んでいるかもしれませんが、しかし皆さんはまだそれらへの途上にあると感じており、ですからなお一種の希望があるのです。

なぜなら、皆さんはまだ完全に掛かりあいを固めておらず、土地の要人ではないからです。
皆さんはまだ小者であって、指導者ではなく、自分がボスとして幅をきかせる大組織を持っているわけではなく、ごく月並みな人間です。
で、まだかなり掛かりあっていないので、皆さんにはなお一縷の希望があるのです。

それゆえ、土壇場ででかもしれませんが、私たち自身の内部にこの変化を引き起こすことができるかもしれないのです。
だからこそ、私たちが関心がある唯一のことは、いかにしてこの大革命を私たち自身の内部に引き起こすかなのです。

私たちのほとんどは強制によって、何らかの外部的影響によって、恐怖、罰あるいは報い――それが私たちを変わらせるであろう唯一のものです――によって変わるのです。
皆さん、どうかこれについてきて、このすべてを観察してください。
私たちはけっして自発的に変わることはなく、常に何らかの動機でもって変わるのです。
が、動機による変化は少しも変化ではありません。

で、私たちを強いて変わらせる動機、影響、強制に気づくこと、それらに気づき、そしてそれらを否定することが、変化を引き起こすことなのです。
また、環境が私たちを変化させます。
家族、法律、自分の野心、恐怖が変化を引き起こすのです。
が、そのような変化は反応であり、それゆえそれは実は抵抗、強制に対する抵抗なのです。
その抵抗はそれ自体の修正、変化を生み出し、それゆえそれは少しも変化ではありません。
もし私が社会から何かを期待するがゆえに変わるなら、あるいは自分のことを社会に合わせるなら、それは変化でしょうか?
それとも変容は、私が強いて自分を変わらせようとしているものを見、そしてその虚偽性を見抜くときにのみ起こるのでしょうか?

すべての影響は、良いものであれ悪いものであれ、精神を条件づけ、そしてむやみにそのような条件づげを受け入れることは、内面的に何らかの変化、根源的変化に抵抗することです。
そのように、進歩が自由を拒んでおり、繁栄が精神をますます物で安定させ、それゆえますます自由が少なくなり、また宗教あるいはその他の団体がますます人間をして神または無神を信じさせる信念の公式を引き継いでいる、この国だけでなく世界中の情況を見て、また精神がますます機械的になりつつあるのを見て、さらに電子頭脳と現代の技術知識が人間にますます多くの余暇を与えつつある――まだあらゆるところでではありませんが、しかしやがてそうなるでしょう――のを見守って、私たちは自由とは何か、真実とは何かを、そのすべての観察の帰結として見い出さなければならないのです。

これらの問いは、機械的な精神によっては答えられません。
人は自分自身に対して、根本的に、深く、内面的に問いかけ、もし答えがあるなら、自分の力で答えを見つけなければなりません――そしてそれは、実はすべての権威に疑義を呈することなのです。

見たところでは、それは最も難しい行動の一つです。
私たちはけっして社会を敵と見なしません。
私たちは社会のことを、共に生きなければならない何かだと見なします。
私たちは自分のことをそれに適合させ、合わせます。
私たちはけっして、それが実は人間の敵、自由の敵、公正の敵だとは思わないのです。

どうかそれについて考え、それを見つめてください。
環境すなわち社会が、自由を損なっているのです。
それは自由な人間を望みません。
それは聖者、社会制度を修正し、支持し、是認する改革者を望むのです。
が、宗教は何かまったく違うものです。
宗教的な人は社会の敵です。
宗教的な人とは、教会や寺院に行き、(パガパッド)ギータを読み、毎日プージャ(ヒンドゥー教の礼拝)をおこなう人のことではありません。
そのような人は、実は少しも宗教的ではないのです。
真に宗教的な人は、すべての野心、羨望、貪欲、恐怖を免れており、それゆえ人間がこしらえ上げ、宗教と呼び習わしているすべてのものを超越したものを探究し、見い出すために、若々しく、新鮮で、新しい精神を持っているのです。

が、このすべては大いなる自己探究、自分自身の内面への探究、自己認識を必要とし、そしてその基礎なしには、皆さんはずっと先まで行けないのです。
ですから、必要なのは部分的な変化ではなく、変容、全的な革命、精神の全的な変容なのです。
いかにしてこれを起こすかが問題です。
私たちはそれが必要であることを見ます。
よく考えてきた人、世界の状態を観察してきた人、自分自身の内部および外部で何が起こっているかに敏感な人は、この変容を要求しなければなりません。

が、いかにして人はそれを引き起こしたらいいのでしょう?
さて、まず第一に、この場合「いかにして」――「いかにして」とは方法、方式、道、実践・修行のことです――はあるのでしょうか?
もし道があれば、あるいはもし方法、方式があり、そして変容を起こすためにそれを皆さんが実践・修行すれば、皆さんの精神はたんにその方式の奴隷になるだけです。
その方法、修行によって形作られ、それゆえけっして自由ではありえなくなるのです。
それは、「自由になるために、私は自分を規律に服させよう(鍛練しよう)と言うようなものです。
自由と規律は両立しません。
ただしそれは、皆さんが無節操になっていいという意味ではありません。
まさに「自由を探究する」という行為が、それ自体の規律をもたらすのです。
が、自分のことを方式、公式、信念、観念において鍛練してきた精神――そのような精神はけっして自由ではありえません。
ですから人は、まず初めから、「いかにして」、すなわち修行、規律、公式の遵奉は変容が起こるのを妨げるということを、見抜かなければなりません。
それが、まず人が見抜くべき第一のことです。
なぜなら、修行、方法、方式は、自由をそれゆえ変容を拒む権威になるからです。
人は本当にその事実を見、そしてそのことの真理を見なければなりません。

「見る」という言葉によって私は、知的にでも、言葉の上ででもなく、感情的にその事実に触れることを意味しているのです。
蛇を見るとき、私たちは感情的にその事実に触れます。
それについては疑問の余地はありません。
そこには直接の問いかけと応答があるだけです。

同様にして人は、いかなる方式も――誰によっていかによく考え抜かれたものでも――深く自由を損ない、創造をとめるという事実を見なければなりません。

なぜなら、方式は獲得、達成、どこかに至ること、報いを含意しており、それゆえまさに自由の否定に他ならないからです。
皆さんは獲得するための手段――ある種の修行など――を追い求めており、それゆえ誰かに従うのです。
が、人は精神が絶対的に自由でなければならない――それが可能かどうかはまったく別問題です――という事実、自由がなければならないという事実を見なければなりません。
さもなければ皆さんは、見事な機械のように、たんに機械的になるだけなのです。
自由が不可欠だという事実を、人は非常にはっきりと見なければなりません。
そして、自由があるとき初めて、皆さんは神がいるかどうか、人間の尺度を超えた計り知れないものがあるかどうかを発見することができるのです。

すると皆さんは、あらゆる方式、あらゆる権威、あらゆる社会構造に疑義を呈しはじめるでしょう。
で、危機がこのような精神を要求しているのです。
そう、そのような精神だけが、何が真理かを見い出すことができるのです。
そのような精神のみが、時間を超越したもの、人間が自分の思考において織り上げてきたものを超えた何かがあるかどうかを見い出すことができるのです。

このすべてはとてつもなく大きなエネルギーを必要とし、そしてエネルギーの本質は葛藤の否定です。
葛藤に陥っている精神はなんのエネルギーも持っていません。
葛藤が自分自身の内部においてであれ、外の世界との間でであれ。
このすべてはとてつもない探究と理解とを必要とします。

で、私は、私たちが事実に気づき、その事実を徹底的に追究し、そして精神、私たちの精神、皆さんの精神が本当に自由になれるかどうかを見ることができればいいと願うのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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遠くまで行くにはごく近くから始めなければならない



いかに多くの進歩をこの世界でなしとげようと、大空をいかに遠くまで行き、月、火星等々を訪ねようと、私たちのほとんどの人生は依然として非常に浅薄で、皮相です。
それは依然として外面的なのです。
そして内に向かうことのほうがはるかに困難です。
そのためのいかなる技法もなく、それを教えてくれるいかなる教授もいませんし、またそのなかで皆さんが内面への旅のしかたを学ぶことができるいかなる実験室もないのです。

皆さんを教導できるいかなる教師もなく、そして――どうか私を信じてほしいのですが――皆さんが精神と呼ばれるこの複雑なものを調べるのを助けることができる、いかなる種類の権威もありません。
皆さんは、何ものにも頼ることなく、完全に自分自身でそれをしなければならないのです。

そして現代文明がますます複雑になり、ますます外面的になり、進歩的になるにつれて、私たち全員がより一層浅薄に生きる傾向があるのではないでしょうか?
私たちはより多くの演奏会に出かけ、より才気走った本を読み、次々と果てしなく映画を見に行き、理知的に討論するために集まり、精神分析医の助けを借りて心理学的に自分自身に探りを入れたりするのです。

あるいは、いかにも浅薄な人生を生きているので、私たちは教会に頼り、かれらの不合理な、または合理的な教義や、そして自分の精神を、ほとんどばかげた信念で満たしたり、あるいはある種の神秘主義へと逃避するのです。
言い換えれば、自分の日常生活が浅薄であると悟って、私たちのほとんどはそれから逃げ去ろうとするのです。

私たちは自分の精神を思弁哲学や、一種の自己催眠であるいわゆる瞑想や黙想に集中させたり、あるいはもし私たちが理知的なら、私たちは自分自身の想念の世界を作り出し、そのなかで満足し、知的に充実して生きるのです。

この全過程を見ると、問題は何をなすべきかでも、いかに生きるべきかでも、あるいは私たちが世界で実際に起こっている戦争や破局に直面するときにどんな即座の行為がなされるべきかでもなく、
むしろどのようにして自由を探究したらいいかだと私には思われるのです。

なぜなら、自由なしには創造はないからです。
「自由」によって私は自分がしたいほうだいにする自由、車に乗って道を邁進したり、あるいは好きほうだいに考えたり、自分自身をある特定の活動に従事させる自由を意味しているのではありません。
そのような種類の自由は少しも真の自由ではないと私には思われます。

が、精神の自由というものがあるのではないでしょうか?
私たちのほとんどは創造的な状態に生きていないので、思慮深い真剣な人間がこの問題を非常に深く、非常に真摯に探究することが急務だと私は思うのです。

もし観察してみれば、皆さんは自由の余地がますます狭くなっていることがわかるでしょう。
政治的、宗教的、技術的に、私たちの精神は形作られつつあり、そして私たちの日常生活は、あの自由の性質を減じつつあるのです。
文明化すればするほど、それだけ自由は少なくなっていくのです。
文明がいかに人間を技術者にしつつあるか、また技術のまわりに築き上げられた精神は自由な精神ではないということに皆さんが気づいたかどうか私は知りません。
知識、教義、組織化された宗教によって形作られた精神は、自由な精神ではありません。
知識によって暗くされた精神は自由な精神ではありません。

もし私たちが自分自身のことを観察してみれば、私たちの精神が知識によって圧迫されるということが、すぐに明らかになります――私たちはそれほど多く知っているのです。
私たちの精神は、世界中の組織宗教が押しつけてきた信念や教義によって束縛されているのです。
私たちの教育はたいてい、より良い生計の糧を得るためにより多くの技術を身につける過程であり、そして私たちのまわりのあらゆるものが私たちの精神を形作っており、あらゆる種類の影響が私たちに指図し、私たちを管理しているのです。

かくして、自由の余地はますます狭くなりつつあるのです。
世間体のすさまじい重み、世論の受入れ、私たち自身の不安や恐怖――そう、これらすべてのものにもし人が気づけば、それらが自由の性質を減じつつあることがわかるでしょう。
そして、たぶん、次の問題を私たちは話し合い、そして理解することができるでしょう。

どうしたら人は精神を自由にし、にもかかわらずこの世界で、その技術、知識、経験と共に生きることができるのだろう?
思うに、これこそはこの国(アメリカ)だけではなく、インド、ヨーロッパなど、世界中の問題、中心的問題なのです。

私たちは創造的ではありません。
機械的になりつつあるのです。
私は「創造性」という言葉によってたんに詩を書いたり、絵を描いたり、あるいは何か新しいものを発明したりすることを意味しているのではありません。
これらはたんに才能に恵まれた精神の能力にすぎません。
私が言いたいのは、創造そのものである状態のことです。

が、私たちが中心的問題、すなわち私たちの精神がますます条件づけられつつあり、自由の余地がますます少なくなりつつあるという事実を理解するとき、私たちはそのすべてに立ち入ることになるでしょう。
私たちはアメリカ人、ロシア人、インド人、等々であり、それぞれの国旗の背後にそのすべての感情的、愛国的性質を潜ませています。
私たちは国境によって、教義によって、ぶつかりあう考え方によって、また様々な種類の組織化された宗教的思想によって引き離されています。
政治的、宗教的、経済的、文化的に分断されているのです。

で、もし皆さんが、私たちのまわりで起こっているこの全過程を子細に見てみれば、個々の人間存在として私たちがほとんど重要でないこと、私たちがほとんど無に等しい存在だということがわかるでしょう。

私たちは、個人的ならびに集団的に多くの問題をかかえています。
個人的に、たぶん、私たちはそれらのいくつかを解決することができ、また集団的に、自分たちができることをするでしょう。

が、これらすべての問題は明らかに要点ではありません。
要点は、思うに、精神を自由にすることであり、そして精神が自分自身を理解しないかぎり、精神はそれ自身を自由にすることはできません、
と言うか、人は自分の精神を自由にすることはできません。
それゆえ、自己認識、すなわち自分自身を刻々に知ることが不可欠なのです。
それには一定の気づきが必要です。
なぜなら、もし人が自分自身を知らなければ、推論、思考の基盤ができないからです。

が、刻々に知ることと知識とは二つの別々のことがらです。
刻々に知ることは不断の過程であり、これに反して知識は常に静的です。

その点が明らかでしょうか?
もし明らかでなければ、たぶん、先に進むにつれて私はそれを明らかにすることができるでしょう。
が、いま私がしたいことはただある一定のことを指摘することであり、私たちは後でそれらを吟味することができるでしょう。

私たちはまず手始めに、絵の全容を見なければなりません――どれか特定の点、特定の問題あるいは行為に集中するのではなく、いわば私たちの存在の全部を見つめなければならないのです。
いったん私たちがありのままの自分についてのこのとてつもない絵を見たら、私たちは自分自身という本を取り上げて、それを一章一章、一頁一頁吟味していくことができるのです。

そこで私にとって、中心的な問題は自由です。
自由は、何かからのそれではありません。
それはたんに反応です。
自由は、私が感じるところでは、何かまったく違うものです。

もし私が恐怖から自由でなければ、それは別のことがらです。
恐怖からの自由は一つの反応であって、それはただ一定の勇気を生み出すだけです。
が、私が話している自由は何かからのそれではなく、反応ではありません。

で、このことは大いなる理解を必要とします。
ここで私は、私たちがこれまで検討してきたことを熟考するため、傾聴している方々にしばらく時間をかけるようお願いしたいと思います。
私たちは何かに異議を唱えているのでも、何かを受け入れているのでもありません。
なぜなら、私は少しも皆さんにとっての権威ではないからです。

私は自分のことを教師と称しているのではありません。
私にとって、教師もなければ、信奉者もないのです。
で、どうか信じていただきたいのですが、私はこれをとても真摯な気持で申し上げているのです。
私は皆さんの教師ではなく、ですから皆さんは私の信奉者ではないのです。

皆さんが従うやいなや、皆さんは束縛され、自由ではなくなるのです。
もし皆さんが何らかの理論を受け入れれば、皆さんはその理論によって束縛されるのです。
もし皆さんが何らかの方式を実行すれば、いかにそれが複雑で、いかに古かろうとあるいは新しかろうと、皆さんはその方式の奴隷になるのです。

私たちがしようとしていることは、一緒に探究し、見い出すことです。
皆さんは、私が指摘することをただ聞いているだけでなく、聞くことによって自分自身で発見し、それによって自由になろうとしているのです。
語っている人は少しも重要ではなく、語られること、あばかれること、そして人が自分自身で発見することが最も重要なのです。

こうしたすべての個人崇拝や個人信奉、あるいは特定の個人を権威に祭り上げることは、このうえなく有害です。
重要なことは、皆さんがいかにして精神を自由にしたらいいかを自力で探究し、それによって何かを発見し、かくして一人の人間として創造的になることなのです。

結局、真実在、すなわちあの言葉で言い表わせないものは、ものが詰まっていて、身動きが取れない精神によっては発見できないのです。
いかなる聖者、いかなる求道者の経験でもない状態、あるいはそれを見い出そうと努力しているいかなる人の経験でもない状態がある、と私は思います。

なぜなら、すべての経験は実は過去を永らえさせることだからです。
経験はたんに過去を強めるだけです。
それゆえ経験は精神を自由にはしないのです。

自由をもたらす要素は、経験する主体なしに経験することができる精神の状態です。
これにもまた一定の説明が必要であり、そこでそれに立ち入ってみましょう。

いま私がぜひとも言いたいことは、個人的にだけでなく、また世界中でとてつもなく大きな混乱、動揺、不安があり、またこの混乱、不安のゆえにあらゆる種類の哲学が生まれたということです――絶望の哲学、実存哲学、あるいは存在をそのあるがままに受け入れる哲学といった。

伝統や容認から訣別し、反動の世界を構築したり、あるいはある宗教を去って他の宗教に移るのです。
すなわち、もしあなたがカトリック教徒なら、あなたはカトリック教を捨て、ヒンドゥー教徒になったり、あるいは何かその他の教団に加入するのです。
明らかに、これらの反応のどれも、精神が自由になるのを少しも助けないでしょう。

この自由をもたらすには、自己認識がなければなりません。
すなわち、自分がどのように考えるかを知り、そしてその過程で精神の全構造を発見しなけばならないのです。
ご存じのように、事実とシンボル(表象)とは二つの別のことがらです。
言葉と、言葉が表わしているものとは二つの別のことがらなのです。
私たちのほとんどにとって、シンボル――旗のシンボル、十字架のシンボル――がとてつもなく重要になってしまったので、私たちはシンボル、言葉を糧にして生きるようになったのです。
が、言葉、シンボルは少しも重要ではありません。

しかるに、言葉、シンボルを打破し、その背後にまわることは驚くほど困難な作業です。
精神を言葉――「あなたはアメリカ人だ、カトリック教徒だ、民主主義者だ、ロシア人だ、あるいはヒンドゥー教徒だ」という――から自由にすることは非常にやっかいな仕事なのです。
にもかかわらず、もし私たちが自由とは何かを探究するつもりなら、私たちはシンボル、言葉を打破しなければなりません。

精神の境界は私たちの教育、そのなかで私たちが育てられてきた文化の受容、私たちの遺伝の一部である技術によって敷かれるのです。
そして私たちの考え方を条件づけるこれらすべての層を貫通するには、非常に機敏で強烈な精神が必要です。

そこでまず初めに、この講話の目的は少しも皆さんの考え方を指示したり制御したり、あるいは皆さんの精神を形作ったりすることではないことを理解することが大切だと私は思います。
私たちの問題は、何らかの組織に属したり、どこかの話し手の言うことを聞いたり、東洋からの哲学を受け入れたり、禅仏教に没頭したり、新しい瞑想方式を見つけたり、あるいはメスカリンやその他のドラッグの服用によって新たなビジョンを持つことによって解決されるにはあまりにも大きすぎるのです。

私たちが必要としているのは非常に明断な精神――探究することを恐れない精神、ただひとり立つことができ、自分自身の孤独、自分自身の空虚に直面することができる精神、見い出すために自分自身を無にすることができる精神――です。

そこで私は皆さん全員に、真に真剣であることの大切さを指摘しておきたいと思います。
つまり、もし皆さんがここに娯楽のため、あるいは好奇心から来ているのなら、それはまったくの時間の無駄だということです。
私たちが自分で発見しなければならない、もっとはるかに深く、広い何かがあるのです。
すなわち、いかにして私たち自身の意識の限界を超越したらいいかです。
なぜなら、すべての意識は限定であり、そして意識内のすべての変化は少しも変化ではないからです。

で、私は、精神が敷いてきた境界を――神秘的にでも、幻想の状態においてでもなく、現実に――超えることが可能だと思います。
が、人が精神の性質を探究し、それによって本当に深く自分自身のことを知ったときに初めて、人はそうすることができるのです。
自分自身を知らないかぎり、皆さんは遠くへ行くことができません。
なぜなら、そのときには皆さんは幻想に陥り、空想的な観念や、ある種の新手の宗派へと逃避するだろうからです。

さて、私たちの人生のこれらすべての側面を考察した後、話し手の見るかぎり、主たる問題は自由の問題だと思います。
なぜなら、自由においてのみ私たちは発見することができ、自由においてのみ創造的な精神がありうるからであり、精神が自由なときにのみ無際限のエネルギーが湧き出るからです――そしてこのエネルギーこそは真実在の運動なのです。

結論として、私は皆さんが自分自身の精神の隷属状態についてよく考え、それを観察し、そしてそれに気づくようにしてほしいと思います。
これまで語られてきたことは、皆さん自身という本の中身のたんなる概要であって、もし皆さんが概要、見出し、若干の観念で満足してしまえば、おそらく皆さんは遠くまで行くことはできないでしょう。
それは受け入れるか拒むかの問題ではなく、むしろ皆さん自身の内部への探究の問題なのです――そしてそれはいかなる種類の権威も求めません。
それどころか、それは皆さんが誰にも従うべきではないこと、皆さんが自分自身に対する光になるべきことを求めるのです。

そしてもし皆さんがある特定の行動様式、社会的に立派である、宗教的であるとして定められてきた何らかの種類の活動に掛かりあっていれば、皆さんは自分自身に対する光であることはできないのです。
とても遠くまで行くには、人はごく近くから始めなければなりません。
で、もし人が自分自身のことを知らなければ、人はとても遠くまで行くことはできないのです。

自分自身について知るためには、精神分析医に頼る必要はありません。
人は、生きていくなかで、あらゆる種類の関係において自分自身を毎日観察することができます。
そしてその理解なしには、精神はけっして自由にはなれないのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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謙虚さなしに自由を学ぶことはできない


人は、新聞を読み、また世界で起こっている出来事を観察することによって、自由がますます少なくなっていること、自由の余地が狭まっていることに気づきます。
私が何を言いたいかおわかりでしょうか?

精神が自由である機会をほとんど持たないということです。
それは考え抜くこと、感じ抜くこと、発見することができないのです。
なぜなら、世界中の組織化された宗教が、その独断的信念でもって私たちの思考を損なってきたからです。
迷信と伝統とが精神を閉じ込め、条件づけてきたからです。
皆さんはヒンドゥー教徒、キリスト教徒またはイスラム教徒であり、あるいは幼いころから皆さんの上に押しつけられてきた何かその他の組織化された信念に属しており、そして皆さんは、狭いまたは広いその制限の円内で機能するのです。

自分はヒンドゥー教徒、イスラム教徒等々だと皆さんが言うとき、どうか自分自身の精神を観察してみてください。
皆さんはたんに、教え込まれてきたことを復唱しているだけなのではないでしょうか?

知らないまま、たんに受け入れているのです――で、皆さんが受け入れるのは、それが好都合だからです。
社会的、経済的に、受け入れ、そしてあの円内で生きることは、皆さんに安心・安定を与えるのです。
かくして自由が拒まれるのです――ヒンドゥー教徒、イスラム教徒にキリスト教徒にだけでなく、組織宗教の囲い内に閉じ込められているすべての人に。

で、もし皆さんが観察してみれば、自分がどんな職業に属していようと、それもまた皆さんを隷属させつつあることがわかるでしょう。
特定の職業で四十年間も過ごした人がいかにして自由でありうるでしょう?
医師がどうなるか見てごらんなさい。
大学で七年余り過ごした後、余生をずっと開業医あるいは専門医として働き、こうして彼は職業の奴隷になるのです。
明らかに、彼の自由の余地は非常に狭いのです。
それと同じことが政治家や社会改革家、理想家、目的の持主にも言えるのです。

そのように、もし観察してみれば、皆さんは世界中いたるところで自由と人間の尊厳の余地がますます少なくなっていることを見るでしょう。
私たちの精神はたんなる機械です。
で、思うに、精神と社会が私たち一人ひとりのまわりに作り上げたこの円を打破するためには、とてつもなく大いなる理解、真の知覚、洞察が必要です。
これらの奴隷状態に改めて迫り、根本的に、深く、根源的に取り組むには、人は革命的でなければならないと思います。
すなわち、ものごとをたんに外部から見るだけではなく、全的に考え、感じることが必要だということです。

そしてそのためには、人は謙虚の念を持たなければならないのではないでしょうか?
謙虚さは培われた美徳ではないと私は思います。
美徳を培うやいなや、それは美徳ではなくなるのです。

ですから、培われた美徳は忌むべきものなのです。
美徳は自発的で、無時間的なものであって、それは常に現在の瞬間に働いているものなのです。
たんに謙虚さを培う精神は、真に謙虚であることの無量の豊かさ、深さ、美しさをけっして知ることはできません。
で、もし精神がその状態になければ、それは学ぶことができないと私は思うのです。
機械的に働くことはできますが、しかし学ぶことは明らかに知識を機械的に蓄積することではありません。
学びの運動は、何かそれとはまったく違うものであり、そして学ぶためには、精神は大いなる謙虚の念を持たなければなりません。

私は自由とは何かを知りたい。
ただし、何かへの反応として自己投影された、純理論的な自由ではない、真の自由を。
が、真の自由などというものがあるのでしょうか?
あるとすればそれは、精神が幾世紀にもわたってそれ自身の上に押しつけてきたすべての伝統とパターンから実際にそれ自身を自由にしている状態です。

私は、人々が幾時代にもわたって必死に追い求めてきたこのとてつもないものが何なのか知りたい。
私はそれを見い出し、そのすべてについて学びたい。
が、もし私が謙虚の念を持たなければ、いかにしてそうできるでしょうか?
謙虚さは、精神がそれ自身の上に押しつける、自己防衛的な卑下とは無関係です。
それは醜悪なしろものです。
謙虚さを培うことはできず、そしてそれは明らかに経験することが最も困難なことがらの一つです。

なぜなら、私たちはすでに一定の地位についているからです。
私たちは一定の観念、価値観を持ち、一定量の経験、知識を備えており、そしてこの背景が私たちの活動、私たちの思考に命令するのです。

自分自身および他人の経験によって知識を蓄え、そして重要になろうとする衝動、自分自身のために権勢、威信の地位を確立しようとする衝動によって駆り立てられている老人――いかにしてそのような人が謙虚さの状態に入り、それによって自分自身のつまらない考え、小事への執着について学ぶことができるでしょう?
ですから、私たちは大いに注意深くして、この謙虚の念に深く気づかなければならないと私には思われるのです。

『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

自由は自由が不可欠だという知覚から生まれる


自分自身の内面に深く、充分に探りを入れるためには、自由の感覚が必要です――終わりにではなく、まず初めに。

が、いかにしてその自由に達したらいいかと尋ねないでください。
いかなる瞑想方式、いかなる書物、いかなる薬物、皆さんが自分自身にしかけることができるいかなる心理的トリックも皆さんに自由を与えないでしょう。
自由は、自由が不可欠だという知覚から生まれるのです。

自由が不可欠だということを皆さんが知覚するやいなや、皆さんは反抗――この醜悪な世界、いっさいの正統派的慣行、伝統への反抗、そして政治的、宗教的指導者たちへの反抗――の状態に入ります。
精神の枠内での反抗はすぐに萎縮してしまいますが、しかし自由が不可欠であることを皆さんが自分自身で知覚するときに生まれ出る永続的な反抗があるのです。

あいにく、私たちのほとんどは自分自身に気づいていません。
私たちは、自分の技能や仕事を一考したのと同様に、自分の精神の状態を一考したことがけっしてないのです。
私たちはけっして、本当に自分自身を見つめたことがありません。
私たちはけっして、自分自身の深みへと、打算なしに、事前の計画なしに、それらの深みから何かを捜し求めることなしに、さまよい入ったことがありません。
私たちはけっして、目的なしに自分自身の内部への旅に乗り出したことはないのです。

人が動機、目的を持つやいなや、人はその奴隷になり、自由に自分自身の内部をさまようことができなくなります。
なぜなら、そのとき人は常に変化、自己改善の見地で考えているからです。
人は、自分自身の狭い、ちっぽけな精神の投影物である自己改善の柱に縛りつけられてしまうのです。

どうか私が言っていることをたんに言葉の上でではなしに熟考し、皆さん自身の精神、皆さんの内面の実状を観察してみてください。
皆さんが奴隷であるかぎり、神について、真理について、皆さんが聖典から学んだことについての皆さんのつぶやきは無意味です。
それはたんに皆さんの隷属を永らえさせるにすぎないのです。

が、もし皆さんの精神が自由の必要を知覚しはじめれば、それはそれ自身のエネルギーを生み出すでしょう。
するとそのエネルギーが、隷属から自由になろうとする皆さんの打算的努力なしに働くことでしょう。

そのように、私たちは個人の自由に関心があるのです。
が、(全体から不可分の存在としての真の)個人を発見することは非常に困難です。
なぜなら、私たちは現在のところそのような真の個人ではないからです。
私たちは自分の環境、文化の産物です。
私たちは自分が食べる物、自分を取り巻いている気候、習慣、伝統の産物だからです。
明らかにそれは個性ではありません。
思うに、精神を奴隷にする環境と伝統のこの侵食的な運動に人が充分に気づくときにのみ、個性が生まれ出るのです。

私が伝統、ある特定の文化の命令を受け入れているかぎり、私が自分の記憶、自分の経験――それらは結局、すべて自分の条件づけの結果なのですが――の重みを荷なっているかぎり、私は個人ではなく、たんなる産物にすぎないのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

所属は愚行であることの即座の自覚が自由をもたらす




皆さんは、何かに属そうとするこのとてつもない、抑えがたい衝動に気づいたことはありませんか?
きっと皆さんはどこかの政党、ある種のグループ、または宗教団体に属していることでしょう。
皆さんはある特定の考え方あるいは生き方に傾倒し、あるいは掛かりあっており、そしてそれは間違いなく自由を拒むのです。
皆さんは、国、体制、グループ、あるいは一定の政治的または宗教的信念に属し、それらと自分自身とを一体化させようとするこの衝動を吟味してみたことがありませんか?

で、明らかに、この所属衝動を理解せずに、たんにある党またはグループを離脱することは無意味です。
なぜなら、その後すぐに他の党やグループに傾倒してしまうからです。
皆さんは、まさにそのようにしてきたのではないでしょうか?

ある「主義」を離れて、何か他のイズム――カトリシズム、コミュニズム、道徳再武装運動、等々――に移り、加わるのです。
何かに所属しようとする衝動にかられて、皆さんはある掛かりあいから他の掛かりあいへと移っていくのです。
なぜでしょう?
これは自問してみるべき重要な問いだと思います。
なぜ皆さんは所属したがるのでしょう?

明らかに精神は、何らかの党や信念に傾倒しているときではなく、完全にただひとりあるときにのみ真なるものを受け入れることができるのです。
どうかこの問題について熟考し、皆さんの心のなかでそれと親密に接してみてください。
なぜ皆さんは属するのですか?
なぜ国や党派、なぜイデオロギー、信念、家族、民族に傾倒してきたのですか?
なぜ自分自身を何かと一体化させようとするこの願望があるのでしょう?

で、この傾倒は何を含蓄しているのでしょう?
理解することができるのは、完全に外に立つ人だけであり、特定のグループに加入している人でも、あるいはあるグループから他のグループである掛かりあいから他の掛かりあいへと果てしなく移っていく人でもないのです。

そう、皆さんが何かに属することを望むのは、それが皆さんに安心・安定感を――社会的安定だけでなく、内面的安定をも――与えるからです。
皆さんが何かに属するとき、皆さんは安心感を覚えるのです。
この、ヒンドゥーイズム(ヒンドゥー教)と呼ばれるものに属することによって、皆さんは社会的に体裁よく感じ、また内面的に安全、安定感を覚えるのです。
そのように皆さんは、安全になり、安心感を得るために自分自身を何かに傾倒させてきたのです――が、これは明らかに自由の余地を狭めるのではないでしょうか?

私たちのほとんどは自由ではありません。
私たちはヒンドゥーイズム、コミュニズム、あの社会またはこの社会、指導者、政党、組織宗教、導師の奴隷であり、それゆえ私たちは人間としての尊厳をなくしてしまったのです。
人が、自由と呼ばれるこのとてつもないものを味わい、香りをかぎ、そしてそれを知ったときにのみ、人間としての尊厳があるのです。
自由の開花から人間の尊厳が現われるのです。

が、もし私たちがこの自由を知らなければ、私たちは隷従に陥るのです。
まさにそれが世界中で起こっているのではないでしょうか?

で、私は、所属し、何かに傾倒しようとする願望が、この自由の狭隘(きょうあい)化の一因だと思うのです。
所属しようとするこの衝動を片づけ、傾倒しようとする願望から自由になるためには、人は自分自身の考え方を調べ、自分自身、自分自身の心、そして自分自身の願望と親密に触れ合わなければなりません。
これは非常に困難なことがらです。
それは忍耐、取り組みにおける一定の愛情、非難や容認を交えない、不断のたゆみない自己探究を要するのです。
それが真の瞑想なのですが、しかし皆さんはそれが容易ではないことを見い出すでしょう。
そして、私たちのうちのごくわずかしかあえてそれに乗り出そうとはしません。

私たちのほとんどは、案内され、指導されるという安易な道を選びます。
ゆえに私たちは何かに所属し、それによって自分の人間としての尊厳を失うのです。
たぶん皆さんは「ああ、これは前に聞いたことがある。彼のお気に入りのテーマだ」とつぶやき、そして立ち去るのです。
願わくば、皆さんがいま、あたかも初めて聞いているかのように聞くことができればいいのですが――日没の光景や、皆さんの友人の顔を初めて見つめるように。

すると皆さんは学び、そして学ぶことによって皆さんは――いわゆる、他の誰かによって与えられる自由ではない――真の自由を、自分自身で発見することでしょう。
ですから、この自由とは何かという問題に忍耐強く、ねばり強く迫ってみましょう。
明らかに、自由な人だけが真理を把握すること、すなわち精神の尺度を超越した永遠なる何かがあるかどうかを見い出すことができるのです。

これに反して、自分自身の経験や知識を重く背負った精神は、けっして自由ではありません。
なぜなら、知識は刻々の学びを妨げるからです。
私たちはいまお互いに親しく触れ合いつつ、この自由とは何かという問題を共に探究し、そしてどのようにしてその自由に出会ったらいいかを模索しているのです。
で、そのように探究するためには、明らかに、まず初めから自由がなければなりません。
さもなければ探究を進められないのではないでしょうか?

皆さんはきっぱりと所属することをやめなければなりません。
なぜなら、そのとき初めて皆さんの精神は探究できるようになるからです。
が、もし皆さんの精神が束縛されており、政治的、宗教的、社会的あるいは経済的な何らかの掛かりあいによって押さえつけられていれば、そのときには皆さんには何の自由もないので、まさにその掛かりあいが皆さんの探究を妨げるでしょう。

どうか語られつつあることをお聞きになり、まさに最初の探究の運動が自由から生まれなければならないという事実を自分自身の目で見てください。
ちょうど木につながれた動物が遠くまで行けないように、何らかの掛かりあいを持っていれば、そこからは探究を進められないのです。

皆さんの精神は、それがヒンドゥー教、仏教、イスラム教、キリスト教、共産主義、あるいは自分が考え出した何かその他のものに掛かりあい、傾倒しているかぎり、奴隷なのです。
ですから、探究するためには自由がなければならないということをまず初めから、いまから把握しないかぎり、私たちは一緒に先へと進めないのです。

先に進むには、過去が放棄されなければなりません――いやいやながら、不承不承にではなく、きっぱりと手放されなければならないのです。
結局、月に行くという問題に一緒に取り組んだ科学者たちは、たとえかれらがいかに自分たちの国やその他の奴隷だったかもしれなくても、探究すべく自由だったのです。
私はただ単に、研究所での科学者のあの特有の自由に言及しているだけです。
少なくともさしあたり、自分の実験室では彼は探究すべく自由だということです。
が、私たちの実験室は私たちの生の現場であり、それは毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年のこととして、私たちの一生にわたるのであり、ですから私たちの探究の自由は全面的でなければならず、専門家たちにとってのように断片的であってはならないのです。

ゆえに、もし私たちが自由とは何かを学びそして理解するつもりなら、またその底知れない次元へと深く探りを入れるつもりなら、私たちはまず初めから自分の一切の掛かりあいを放棄して、ただひとり立たなければなりません。
そしてそれはきわめて困難なことがらです。

先日カシミールで、数人のサンニャーシが私に言いました。
「私たちは万年雪の地帯で、人里離れて生きています。
私たちはけっして誰にも会いません。
誰一人、私たちを訪ねて来ることはありません」

で、私はかれらに言いました。
「皆さんは本当にひとりでしょうか、それともたんに他の人間から身体的に離れているだけでしょうか?」

するとかれらは答えました。
「ええ、そうです。私たちは単独なのです」。

が、かれらは自分たちのヴェーダやウパニシャツド、経験や蓄えられた知識と共に、またかれらの瞑想や修行と共にいたのです。
かれらはなお、かれらなりの条件づけの重荷を背負っていたのです。
それは、ただひとり、単独であることではありません。
そのような人々は、黄衣をまとい、「われわれは世俗を放棄した」と自分に言いますが、事実はそうではなかったのです。

皆さんはけっして世俗を放棄できません。
なぜなら、世俗は皆さんの一部だからです。
皆さんは数頭の牛や家や財産を放棄するかもしれませんが、しかし自分の遺伝、伝統、蓄積されてきた民族的経験、自分の条件づけの重荷の全部を放棄するためには、とてつもない探究、徹底的な調査――それは学びの運動に他ならないのですが――が必要です。
その他の道――修道士や隠者になるという――は非常に容易なのです。

そこで、どうかよく考え、よく見つめていただきたいのですが、皆さんの仕事、毎日自宅から事務所に通い、三十年、四十年あるいは五十年間勤め続け、技師、数学者、講師としての一定の知識を蓄えていくといった生き方――こういったすべてがいかに皆さんを奴隷にするかおわかりでしょうか?

もちろん、この世界では、人はなんらかの技術を身につけて、仕事を得なければなりませんが、しかしこのすべてがいかに精神のゆとりを狭めているか、よく考えてみてください。
富、進歩、安定、成功――こういったすべてが精神を狭隘(きょうあい)化しており、あげくの果てに精神は機械的になり、自分が学んだ一定のことをたんに繰り返しつつやり過ごすだけになり、現に今すでにそうなのです。

自由を探究し、その美、その広大さ、その活力、その不思議な性質――その言葉の世間的な意味では無益だという――を発見することを欲する精神は、まず初めからその掛かりあい、所属願望を片づけ、そしてその自由をもって探究に乗り出さなければなりません。

これには多くの問いが含まれています。
探究すべく自由な精神の状態とはどういうものか?
掛かりあいから自由であるとは何を意味するのか?
結婚している人は、義務的掛かり合いから自分自身を自由にすべきかっ?

そう、愛があるところ、そこには義務的掛かりあいはありません。
そのときには、皆さんは自分の妻に属さず、そして皆さんの妻は皆さんに属しません。
が、私たちは愛と呼ばれるこのとてつもないものをけっして感じたことがないので、お互いに属しあうのであり、そしてそれが私たちの困難なのです。
私たちは、ちょうど技術の修得に掛かりあってきたように、結婚に掛かりあってきたのです。
愛は掛かりあいではありません。
が、これもまた理解することが非常に困難なことがらです。
なぜなら、言葉は当のものではないからです。
他の人に対して繊細であること、理知によって汚きれない、あの純粋な感情を持つこと――そう、それこそが愛です。

皆さんは理知の性質について考えたことはありませんか?
理知とその働きは、一定のレベルではけっこうですが、しかし理知があの純粋な感情に干渉するとき、凡庸が始まるのです。
理知の働きを知り、かつあの純粋な感情に気づき、しかも両者をまぜこぜにして、互いに他方を損なわせないようにするには、非常に明晰で、鋭敏な気づきが必要なのです。

さて、私たちが何かを探究しなければならないと言うとき、実際になされなければならない探究行為というものがあるのでしょうか、それともあるのはただ直接の知覚だけでしょうか?
おわかりですか?
どうか、私が言わんとしていることを理解してください。

探究とは一般に、分析し、結論に至る過程のことです。
それが、精神、理知の働きなのではないでしょうか?
理知は言います、「私は分析した、そしてこれが私が達した結論だ」と。
その結論から理知は他の結論に達し、そのようにしてそれは進んでいくのです。

思考が結論から生じるとき、それはもやは刻々に考えてはいません。
なぜなら精神がすでに結論に達しているからです。
いかなる結論もないときにのみ、刻々の思考の運動があるのです。
これについてもまた、皆さんはそれを受け入れることも、拒むこともなしに、沈思黙考してみなければなりません。

もし私が、共産主義、カトリック主義あるいは何かその他の「主義」とはこういうものだと結論づければ、私は考えることをやめたのです。
もし私が、神がいる、あるいは神はいないと結論づければ、私は探究することをやめたのです。
結論は信念となって現われます。
もし私が、神がいるかどうか、あるいは個人との関係における国家の真の役割とは何かを見い出すつもりなら、私はけっして結論から出発することはできません。
なぜなら、結論は一種の掛かりあい、傾倒だからです。

そのように、理知の役割は常に探求し、分析し、探り出すことなのです。
が、私たちは内面的、心理的に安心・安定したいので、また私たちは人生について恐れ、心配しているので、何らかの結論に達して、それに掛かりあってしまうのです。
そしてある掛かりあいから他のそれへと私たちは移っていくのですが、私に言わせれば、そのような精神、そのような知性は結論の奴隷なので、考えること、探究することをやめたのです。

知性というものが人生においていかにとてつもなく大きな役割を果たしているか、皆さんは観察したことがありませんか?
新聞や雑誌など、私たちのまわりのあらゆるものが理性をもてはやしています。
だからと言って、私は理性に反対しているのではありません。
それどころか、人は非常に明晰に、鋭利に理性を働かせなければなりません。
が、もし観察してみればわかると思うのですが、なぜ自分が何かに属するのか、あるいは属しないのか、真理を見い出すためにはなぜアウトサイダーでなければならないか、等々について、理知は果てしなく分析し続けるのです。

私たちは、自己分析の過程について学んできました。
一方には、探求し、分析し、論理的に考え、そして結論に達する力を備えた理知があり、他方には理知によって常に干渉され、影響される感情、純粋な感情があります。
そして理知が純粋な感情に干渉するとき、この干渉から凡庸な精神が育つのです。
一方で私たちは、自分の好き嫌い、条件づけ、経験、知識、等々に基づいて論理的に考え、推論し、判断を下す理知を持ち、他方で私たちは、社会によって、恐怖によって腐敗させられる感情を持っているのです。

では、この両者は何が真理かをあばくでしょうか?
それとも、そのためにはただ知覚があるのみで、それ以外のものはないのではないでしょうか?
何を言おうとしているかおわかりでしょうか?
では、説明させてください。
私にとって、あるのはただ知覚だけです――つまり、何かが虚偽かあるいは真実かを即座に見抜くことです。
何が虚偽で、何が真実かへのこの即座の知覚が不可欠の要素なのです――その抜け目なさ、知識、掛かりあいに基づいて推論する知性ではなく。あることについての真理――例えば、自分が何かに属してはならないという真理――をたちどころに見抜くということが、ときどき皆さんに起こったにちがいありません。
それが知覚です。
つまり、あることの真理を即座に見ること、分析、推論なしに、即座の知覚を延期させるために知性が生み出すいっさいのものなしに見ることです。
それは、私たちがぺらぺらと安易に口にする「直観」とはまったく別物です。

また、知覚は経験とは無関係です。
経験は皆さんに告げます。
君は何かに属さなければならない、さもなければ破滅し、仕事や家族、あるいは財産、地位、威信を失ってしまうぞ、と。
そのように知性は、そのすべての推論、抜け目ない評価、条件づけられた思考でもって、君たちは何かに属さなければならない、存続するためには掛かりあいを持たなければならないと皆さんに言い聞かせるのです。

が、もし皆さんが自分が個人として完全にただひとり立たなければならないという真理を知覚すれば、そのときにはまさにその知覚が解放させる要因となり、ゆえに皆さんの側でただひとり立つベく努力する必要はないのです。

私には、推論でも、打算でも、分析でもなく、ただこの直接の知覚しかありません。
皆さんは分析する能力を持ち、推論するための良い、鋭い頭脳を持っているかもしれませんが、しかし理牲や分析に限定された精神は、何が真理かを知覚することができません。

いかなる宗教団体に属することも愚行だという真理を即座に知覚するためには、皆さんは自分の心の底の底まで覗き込み、知性によって生み出されたいっさいの障害物をはさませずに、完全にそれを知ることができなければなりません。

もし皆さんが自分自身と親密に交われば、皆さんはなぜ自分が所属するのか、なぜ何かに掛かりあったのかを知るでしょう。
そしてさらに前進すれば、皆さんはそこに隷属、自由の削減、掛かりあいに必然的に伴う人間の尊厳の欠如を見ることでしょう。
皆さんがこのすべてを即座に知覚すれば、皆さんは自由になるのです。
自由になるべく努力する必要はないのです。
知覚が不可欠なのはそのためなのです。
自由になるためのすべての努力は自己矛盾から起こります。
私たちが努力をするのは、自分自身の内面で矛盾の状態に陥っているからであり、そしてこの矛盾、この努力が、私たちに果てしなく隷属の踏み車を踏ませ続ける多くの逃げ道を生み出すのです。

ですから、人は非常に真剣でなければならないと思うのです。
が、それは何かに掛かりあい、傾倒するという意味ではありません。
何かに掛かりあっている人々は、少しも真剣ではないのです。
かれらは、自分自身の目的を達成し、自分自身の地位や威信を高めるために、自分自身を何かに委ねたのです。
私は、そのような人々のことを真剣とは呼びません。
真剣な人とは、自由とは何かを見い出すことを欲している人のことであり、そのためには彼は明らかに自分自身の隷属状態を調べてみなければなりません。

いや、自分は奴隷などではないと言い張らないでください。
皆さんは何かに属しており、そしてそれは隷属なのです。
皆さんの指導者たちは自由について話しますが。
そのようにヒットラーもしたし、フルシチョフもしたのです。
あらゆる圧政者、あらゆるグル、あらゆる社長・副社長が、また全宗教界・政界のあらゆる人が自由という言葉を口にします。

が、自由は何かまったく別物なのです。
それは貴重な果実であり、それなしには皆さんは人間の尊厳を失うのです。
それは愛であって、それなしには皆さんはけっして神、真理あるいはあの名なきものを見い出すことはないでしょう。
皆さんが何をしようと――美徳という美徳を養い、犠牲をささげ、奴隷のように働き、人に尽くすための方法を見つけ出そうと――自由なしには、そのどれも皆さん自身の心の内なるあの真実を明るみに出すことはないでしょう。
あの真実、あの計り知れない何かは、自由――皆さんが何かに掛かりあわずにきたとき、皆さんが何ものにも属さないとき、にがさも冷笑も、希望も絶望もなしに、完全にただひとり立つことができるときにのみ存在する全的な自由――があるときにのみ現われるのです。
そのような精神・心は、計り知れないものを受け入れることができるのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

思考が停止していなければ自己を学ぶことはできない


思考というものは、明らかに浅薄です。
それは、記憶――集められた経験、条件づけ――の応答であり、そして私たちの背景をなすその条件づけに従って、思考は問いかけに応じるのです。
思考は常にこの集められた経験に縛られており、そこで問題はこうです。
思考ははたして自由でありうるだろうか?

なぜなら、自由においてのみ人は観察することができ、自由においてのみ人は発見することができ、またいかなる強制、即座の要求、社会的影響の圧力もない自発性の状態においてのみ、真の発見が可能だからです。
そう、自分が何を考えているか、なぜ考えるのかを観察し、また自分の思考の源と動機を見抜くには、一定の自発性、自由がなければなりません。

なぜなら、他からのどんな影響も観察を歪めるからです。
どんな思考の場合も、もし何らかの強制や圧力を受ければ、それは歪められてしまうのです。
では、思考は人を自由にし、精神を自由にすることができるでしょうか、そして何が真理かを人が発見するためには、自由は必要不可欠でしょうか?

普通、二種類の自由があります。
何かからの自由と、達成・実現し、何かになるための自由です。
それからまた、自由それ自体、ただの自由というものがあります。

私たちのほとんどは、ただ何かから自由であること――時間から、親類等々からの自由――か、さもなければ達成・実現し、自分自身を表現するために自由であることを望みます。
自由に関する私たちのすべての観念は、これら二つ――何かからの自由または何かへの自由――に限られています。

さて、これらは共に反応なのではないでしょうか?
共に思考の反応であり、なんらかの種類の内面的または外面的強制の結果なのです。
思考はその過程に囚われているのです。
思考は専制からの自由、腐敗した政府、特定の関係からの自由、不安感からの自由を求めるか、あるいは自分自身を自由にさせ、何か他のものになることによって自己達成・実現をはかることを願うのです。

そのように私たちは常に、何かからの自由、あるいは何かへの自由、達成・実現の自由の見地で考えるのです。
が、これら二つの範疇の自由についてだけ考えることは非常に浅薄だと思われます。

では、たんに反応ではない自由、何かからの自由でも何かになることへの自由でもない、そういう自由の状態はあるでしょうか?
そしてそのような自由は、思考によって観念として把握され、生み出されうるでしょうか?
なぜなら、もし皆さんがたんに何かから自由であるだけなら、真に自由ではないからです。
また、達成・実現するという意味での自由は、常に不安、恐怖、欲求不満、悲しみに付きまとわれるのです。
思考は精神を自由にし、それによって悲しみと不安をすっかりなくするようにできるでしょうか?

そう、愛のように、真の善性は思考によって培うことはできません。
それは、それ自体としてある状態であって、「私は善良でなければならない」と自分に言い聞かせる精神によって生み出せるものではないのです。
では人は、思考の様々な経路をたどって捜すことによって自由とは何かを見い出すことができるでしょうか?
思考は人生の真の意義を発見し、真実在を明らかにすることができるでしょうか?
それとも、真実在が現われるには、思考が完全に停止しなければならないでしょうか?

別の言い方をしてみましょう。
皆さんは何かを求めているのではないでしょうか?
もし皆さんがいわゆる宗教家なら、皆さんはいわゆる神等々を求めるでしょう。
さもなければ、より多くのお金、より多くの幸福を求めるか、あるいは善良になることを望むでしょう。
すなわち、自分の野心の実現を求めているのです。
誰もが何かを求めているのです。

さて、「求める」という言葉によって私たちは何を意味しているのでしょう?
「求める」という言葉は、自分が求めているものを皆さんがすでに知っていることを含んでいます。
自分は精神の平和を求めていると皆さんが言うとき、それは皆さんがすでにそれを経験したことがあるか、あるいは実際のものではなく、思考によって作り上げられたものである観念を投影しているかのいずれかを意味しているにちがいありません。
そのように、探求という言葉の意味には、自分が探求しているものを皆さんがすでに知っているかあるいは経験したことがあるということが含まれているのです。

皆さんは、自分が知らない何かを探求することはできません。
自分は神を探求していると皆さんが言うとき、それは皆さんがすでに神とは何かを知っていることを意味しています。
さもなければ、皆さんの条件づけが、神がいるという観念を投影したのです。
そのように、思考の運動が皆さんを強いて、思考自体が投影したものを探求させるのです。

浅薄なものである思考、皆さんの背景をなす、集められてきた多くの経験の結果である思考――その思考から皆さんは観念を投影し、然る後にそれを追求するのです――そして神を捜していくうちに、皆さんは幻影を見たり、たんにその探求を強め、自分の背景からの投影物に従うことを皆さんに強いるだけの経験を持つようになるのです。

そのように、探求は依然として思考の運動なのです。
人は葛藤、混乱に陥り、そしてそれから逃避するために、思考は、平和がなければならない、永遠の祝福がなければならないという観念を投影し、然る後にそれを捜し始めるのです。
これが、実際に私たち各々の内部で起こっていることなのです。

人はこの不幸な人生、この果てしない混乱を理解しないまま、永遠なる祝福の状態へと逃避することを望むのです。

さて、その状態は精神によって投影されるのですが、それを投影してから、思考は「私はそれに至るための助けを見つけなければならない」と言い、かくして方法、方式に従い、修行に励むのです。

思考が問題を生み出し、然る後に様々な方式によって問題から逃避し、投影された観念である永遠の(至福の)状態に至ろうと試みるのです。
そのように、思考はそれ自身の投影物、それ自身の影を追いかけるのです。

ですから問題は、実は「精神が思考を停止させ、異質の状態から毎日の経験に直面することができるだろうか?」なのです。

これは、集められてきた記憶、集められてきた経験を忘れたり無視したりすることを意味するものではありません。
技術者、橋梁建設者、科学者、事務員等々はもちろん必要です。
が、思考は私たちの(心理的)問題を解決しないと悟って、思考を停止し、問題をただ観察することができるでしょうか?

皆さんが思考の動揺、混乱、ざわめきなしに問題を見つめるよう心がけたことが本当にあるかどうか、私は知りません。
思考は、一連のざわめきや不安の動き、解決を求める動きを引き起こします。
皆さんはこれまで、思考を鎮め、停止させて、問題をただ観察したことがありますか?
私が話している間に、ぜひ試してごらんなさい。

どうか、思考の動揺なしに問題を見つめることができるように、聞いてください。
皆さんは多くの問題――すぐ目の前にあろうと、差し迫っていようと、あるいはずっと先のことだろうと、関係、家族の問題、仕事、責任の問題、社会、環境、政治の問題など――をかかえています。
それらの問題のどれか一つを取り上げて、それを見つめてごらんなさい。

皆さんは常にそれを、「私はそれを解決しなければならない、どうしたらいいのだろう、これが正しいのだろうか、それともそれが正しいのだろうか、これは見苦しくないだろうか、これは不可能ではないだろうか?」
等々と言う思考の動揺と共に見つめてきたのではないでしょうか?
そしてこの落ち着かない思考でもって問題を吟味するわけですから、そのざわめきを通じて皆さんが見い出すいかなる解決も、明らかに本当の答えにはならず、かえってより多くの問題を生み出すだけです。
それが、私たち一人ひとりに実際に起こっていることなのです。

ですから、自分の思考を停止させて、問題を見つめることができないでしょうか?
思考は、集められた経験の結果であり、そしてそれらの記憶が問題に応えるのです。
そこで、さしあたり精神が無数の昨日の圧迫、重みを受けないように、思考を停止させることができないでしょうか?
それは、たんに「もう考えないようにしよう」と言えば果たせることではありません。
それは不可能です。
が、もし皆さんが、たんにその条件づけ、その背景、その蓄積された経験に従って応えている動揺した精神は、問題を解決あるいは理解することはできないという真理を見れば――もし皆さんがその事実の真理をすっかり見れば――そのとき皆さんは、思考は私たちの問題を解決するのに役立たない道具だということを理解することでしょう。

別の言い方をしてみましょう。
人間ができることは、どんなことであれ、適切な電子機器もまたやってのけることができるように思われます。
人間の精神ができることは、機械もまたやることができ、しかもきわめて効率的にできるということが発見されつつあり、また今後十年か二十年のうちに申し分なくこなせるようになるでしょう。
それはたぶん作曲し、詩を書き、書物を翻訳したりするようになるでしょう。
また、慰めや平安を与え、悩みを免れさせ、精神を安定させる薬物が化学的に作られつつあります。
こうした事態から何が起こるかおわかりですか?
機械が皆さんの仕事を引継ぎ、たぶんより効率的に片づけるようになり、また薬物が皆さんの精神に平安を与えるようになるのでしょうか?
かりに、皆さんが服用すれば皆さんの精神をとてつもなく鎮静させ、それによって皆さんが規律や制御、調息訓練などの諸々の芸当をしなくてすむようにさせられる薬物があるとします。
そうなれば、ちっぽけな精神、浅薄な精神、自分自身の思考の枠からほんのわずかしか出られない限られた精神は、もうこれ以上の悩みを持たなくなり、平安を得ることでしょう。

が、そのような精神はなおちっぽけなままであり、その境界は認識可能で、そのすべての思考は浅薄です。
丸薬を服用することによってとても静かになるかもしれませんが、思考はそれ自身の限界を打破しなかったのではないでしょうか?
神について思いめぐらし、ある深刻なイメージから他のそれへと移り、多くの言葉を口に出し、多くの祈りをつぶやくちっぽけな精神は、依然としてちっぽけなままです。
そしてそれが、私たちのほとんどの実情なのです。

では、常に浅薄で、常にちっぽけで、常に限られた思考をいかにして停止させ、なんの境界もなくするようにさせ、かくして自由――何かからの自由でも、何かへの自由でもない、ただ自由な状態――にさせることができるのでしょうか?
どうか質問の意味を理解してくださるよう望みます。

人は果てしなく自分自身を改善し続けることができます――やや多く考えることができるようになり、自己修養に専念し、より親切あるいは寛大になり、これまたはそれになることができるのです。
が、それは常に自己、「ミー」の領域内にあります。
達成し、何かになりつつあるのは「ミー」であり、そしてその「ミー」は常に経験、記憶の束として認識できます。
そこで問題は、いかにして「ミー」の領域を解消し、打破するかです。
私が「いかにして」と言うとき、私はそれによって方法ではなく探究を意味しているのです。
なぜなら、すべての方法は思考の働き、思考の制御、ある思考を他の思考に代えることを含んでいるからです。

ですから、皆さんがたんに方法、方式、規律を持つだけなら、そこには探究は起こらないのです。
このすべてを見れば、すなわち、思考は記憶、集められた経験の結果であって、非常に限られているということ、真理、神、完成、美の探求は実は思考の投影であること――現在と葛藤し、未来という観念へと向かう動きだということ――を見れば、また未来を追求することから時間が生み出されるということを見れば、思考が停止されなければならないことは明らかです。

そう、思考が捉え、記憶へと取り込めることができない何か、まったく新しい何か、思考によってまったく知られ、認識されることができない何かがあるにちがいありません。
然るに、皆さんは落着きのない思考でもって、いかにしてその状態を理解したらいいのでしょう?

理解は時間の問題でしょうか?
皆さんはこのことを明日、それについて思いめぐらすことによって理解するのでしょうか?
もし皆さんが問題を持っているなら、思考がどのようにそれを調べ、分析し、ばらばらにし、、ぎりぎりまで問い詰めるか、そしてそれでもなお答えを見い出さないかご存じだろうと思います。
なぜなら、それは常に問題の不安と共にあるからです。
するとそれは問題を放棄し、それを棚上げします。
こうして思考が問題との関係を断つと、問題がもはや意識的または無意識的に精神にのしかからなくなり、それからポンと答えが出てくるのです。

それが皆さんに起こったにちがいありません。
ですから私たちは、この思考というものの全貌を見抜くことができないでしょうか?
皆さんは自分がいかにインテリーー言葉と観念以外の何物でもない知識にあふれでいるが、しかしなお表面的なレベルで生きているインテリーーを崇めるか、ご存じでしょう。
「私は知っている」と言う人に、自分がいかに本能的に引きつけられるか、皆さんは観察したことがありませんか?

で、このすべてを見れば、「思考を停止させることができるだろうか?」がいやおうなしに問題になるのです。
もし皆さんがこの点を理解なさったなら、私がさらにそれを探究するのについてきていただけるでしょう。

死の問題、神、美徳、関係の問題があります。
私たちが陥っている葛藤の問題、仕事、そして貧窮の問題があります。
貧困、飢餓、そして絶望と希望の問題があります。
皆さんはこれらの問題を一つずつ解決することはできません。
それは不可能です。
皆さんはそれらを、少しずつではなく、全体として、まとめて解決しなければなりません。
さもなければ、けっしてそれらを解決することはないでしょう。
なぜなら、ある一つの問題を、それがあたかも他の問題から切り離されているかのようにして解くことによって、皆さんはたんに他の問題を生み出すだけだからです。

いかなる問題も、別個に孤立してあるわけではありません。
あらゆる問題は他の問題に、浅くあるいは深く関わっています。
ですから皆さんはそれを全体的に把握し、理解しなければならないのです。

が、思考は部分的で、断片的なので、けっしてそれを包括的に理解することができません。

では、精神はいかにして問題を解決したらいいのでしょう?
問題を、それがあたかも孤立しているかのようにして解くことはできません。
皆さんは、知的な抽象によってそれを見い出すことはできません。
それを蓄積された記憶によって見い出すこともできません。
寺院、アルコール、セックス等々へと逃避することによって解決することもできません。
それは全体的に把握され、全体的に理解されなければならないのです。

そしてこれは、思考の停止があるときにのみ起こりうるのです。
精神が不動で静謐であるとき、精神の上にまったく違うかたちで問題が映し出されます。
湖が静まり返っているとき、皆さんはその深さを見ることができ、そのなかのあらゆる魚、あらゆる藻、あらゆる揺らめきを見ることができます。

同様にして、精神が完全に不動なとき、人はとてもとても明晰に見ることができるのです。
これは、思考が停止しているときにのみ起こりうるのです。
問題を解決するためではなく、思考がそれ自体の意義、その断片的な性質を見るために停止しているとき、それはおのずから静まり、不動になるのです。
意識的なレベルにおいてだけでなく、より深いレベルにおいても。

ゆえに自己認識、自分自身を知ること、自分自身について学ぶことが不可欠なのです。
で、もし皆さんが虚心に見つめるのでなければ、言い換えれば、蓄積された知識でいっぱいの精神でもって見つめれば、皆さんは自分自身について学ぶことはできません。

学ぶためには、皆さんは自由でなければなりません。
すると、皆さんは問題を、たんに表面からではなく見ることができるようになります。
そのとき、あらゆる事柄、あらゆる問いかけに、思考には及びえない深みから応えが返ってくるのです。

不動の精神、静謐なる精神は朽ち衰えません。
薬物、調息、あるいは自己催眠的方式によって静められた精神と違って、それはけっして麻痺したり、腐敗したりしません。
それは溌剌として生気あふれた精神なのです。
それ自身のあらゆる未踏の部分が明るみに出され、そしてその光の中心からそれは応えるのです――そしてそれは影を生じないのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

真実を発見する方法などない


当然ながら、どんな形の意思疎通においても、言葉は非常に重要です。
皆さんが抽象的で、やや複雑な問題を扱っているときは、なおのことそうです。
なぜなら、各人があらゆる言葉を、それについての自分自身の理解に従って解釈していくからです。
ですから、人生というとてつもない問題を、そのすべての複雑さおよび微妙さと共に人が扱おうと望むとき、非常に厄介なことになるのです。

もし私たちが言葉の辞書的な意味から離れず、また自分自身をしてたんなる定義、言葉が伝えることができるたんなる結論を超越させることができれば、言葉は真に有意義なものとなるのです。

例えば、「自由」という言葉を取り上げてみましょう。
各人がそれを、自分自身の特定の必要、要求、圧力および恐怖に従って解釈するでしょう。
もしあなたが野心的な人なら、あなたはその言葉を、あなたの野心を実行し、あなたの願望を達成するために必要な何かとして解釈するでしょう。

一定の伝統に縛られている人にとっては、自由は恐れるべき言葉です。
諸々の気まぐれな好みや願望に耽溺している人にとっては、その言葉はより一層の耽溺の可能性を伝えるでしょう。

このように、言葉は私たちの人生においてとてつもない意義を持っているのですが、皆さんはいかに言葉の意味が深いか、根深いかに気づいたことがあるでしょうか?
「神」、「自由」、「共産主義」、「アメリカ人」「ヒンドゥー人」、「クリスチャン」等々の言葉が、私たちにたんに神経的に影響を及ぽすだけではなく、言葉自体が私たちの存在のなかで振動し、一定の反応を引き起こすのです。

こういったすべてに皆さんが気づいているかどうかわかりませんが、しかしもし皆さんがそれに気づけば、皆さんは精神を言葉から自由にすることがいかに困難かを知るでしょう。

私が皆さんと話し合いたいのはとても複雑な問題なので、言葉とその意義を理解するだけでなく、また言葉を超越することができる精神のためらいと明晰さとをもって、それに迫るべきだと思います。

人は、世界中で現在何が起こっているかを見ることができます。
専制があるところではどこでも、自由は拒まれます。
教会、宗教の強力な組織があるところでもまた自由は拒まれます。
彼らはこの「自由」という言葉を口にしますが、しかし宗教的組織も政治的組織も共にその自由を拒むのです。

人はまた、人口過剰のところでは自由が減らざるをえないということ、組織過剰なところ、マスコミ過剰なところでもまた自由が拒まれるということを見ることができます。

では、このすべてを見た上で、皆さんや私のような個人は、どのように自由を解釈したらいいのでしょう?
組織にがんじがらめになっており、専門家が幅をきかせている社会で生きていると――人はこの世界でそうせざるをえないのですが――精神は一定の種類の技術、方法、生き方に隷従するようになります。

では、私たちはどのレベル、どの深さでその「自由」という一言葉を解釈するでしょう?
たとえ皆さんが事務所からストライキに出かけても、それは自由ということにはならず、たんに失業を招くだけでしょう。
もし皆さんが道の間違った側を走行したら、警官が皆さんを追いかけ、皆さんの自由は減じられるでしょう。
もし皆さんが自分の好きほうだいにしたり、あるいは豊かになれば、国家が皆さんを監視するようになるでしょう。
私たちはすっぽりと制裁、法律、伝統、様々な形の強制や支配に取り固まれており、それらすべてが自由を妨げているのです。

そこで、もし皆さんが一人の人間として、この間題すなわち真の自由を理解したいと思っているなら、皆さんはどの深さからそれを探究しているでしょうか?
それとも、それに少しも関心がないでしょうか?
私たちのほとんどは、実はそれに無関心なのかもしれません。
私たちの関心は日々のパン、自分たちの家族、ちっぽけなトラブル、嫉妬、野心にあり、より広い、より大きな問題には関心がないのです。

で、たんなる問題解決への関心は、療法を生み出さないでしょう。
皆さんは応急療法を見い出すかもしれませんが、しかしそれは、よくご存じのように、たんに別の問題を生み出すだけでしょう。
では、どのレベルで、どの深さから皆さんは「自由」という言葉に応えますか?

人はまた、言葉は当のものではないということを悟らなければなりません。
「真理」という言葉は真理ではありません。
が、私たちのほとんどにとって、言葉だけで充分です。
私たちは言葉を超えて、さらに言葉の奥に何が横たわっているかを調べてはみないのです。
どうかこのことをよく考えてみてください。

まさに「モスレム」(イスラム教徒)という言葉が、その言葉を代表している人間を皆さんが見つめることを妨げるのです。
その言葉に対する神経的反応、心理的反応は非常に根深く、そしてそれは皆さんのなかにあらゆる種類の観念、信念、偏見を呼び覚ますのです。

が、もし人がとても深く考え抜くことができるなら、人は言葉を実際のものから分離しなければならないということが明らかになるでしょう。
私たちの関係における誤解の多くは、私たちが言葉に与える間違った意味によるのです。
それゆえ、皆さんと私が、二人の個人として、正しい意思疎通を確立し、それによってお互いに同じレベルで、同時に理解するようにすることがとても重要なのです。

皆さんが気づいたことがあるかどうか知りませんが、しかし皆さんが誰かを愛しているとき、二人の間の意思疎通は即座的です。
同様にして、もし私たちがそのような共感関係を築くことができれば、そのときにはおそらくこの非常に複雑な問題を探究することができるでしょう。
意思疎通をはかる際の大きな困難は言葉であり、ですから皆さんと私は言葉を突き抜け、それを超越し、それによってお互いに共感しあいながら、私たちが解明し、あばき、討論しつつある問題に与かり、それを共にしていかなければなりません。

私たちは、考える過程というのは、四六時中機械のように働いている記憶の応答であることを見ます。
そこで人は「自由とは何を意味するのだろう?」と尋ねます。
どうかこの質問を理解してください。
そして私が何を言いたいかはっきりわかっていただきたいと思います。

もし自分の精神全体が時間の結果、伝統、様々な文化、経験、条件づけ、自分の家族、種族、民族、信念という背景を持っていることの結果、常に既知なるものの領域内で機能していることの結果なら、そのときにはどこに自由があるのでしょう?

もし私が、時間の結果である精神、記憶でいっぱいの自分自身の精神の限界内で常に動いているなら――事実そうなのですが――いかにして精神はそれ自身を超越したらいいのでしょう?

「自由」という言葉は、そのような精神にとっては何も意味しないのではないでしょうか?
なぜならそのような精神は「私はどうしたら自由になれるのだろう?」と言って、自由をたんに他の要求に転じてしまうだけだからです。
どうかこれに注意深くついてきてください。
そうすればおわかりになるでしょう。

私は、意識的または無意識的に、自分の人生は非常に狭い人生であり、絶えず不安や心配、苦労、恐怖、不幸、悲しみ等々につきまとわれているということに気づき、それで私は、自由にならなればならないとつぶやくのです。
精神の平和を持たなければならない、この制限から脱出しなけばならない、と言うのです。
これが、私たちの各々が求めていることです。

外面的に、様々な専制的政府の下では何の自由もありません。
皆さんは何をすべきかを告げられ、そしてそれをおこなうのです。
そして内面的に、同じ問題が続いていくのです。
ここ、いわゆる民主主義国では、皆さんは多かれ少なかれ外面的に自由です――多かれ少なかれですが。
しかし内面的には皆さんは囚人であり、ですからこの自由とは何かという問いを尋ねているのです。

教会や社会の組織が大きくなればなるほど、またマスコミの効率と手段が肥大化すればするほど、それだけ葛藤や混乱が大きくなっていくのです。
ですから私たちは常に環境と闘い、また自分自身の内部で闘っているのです。
絶え間なく苦闘が続き、そして矛盾と不幸があるのです――「妻は私を愛していない」、「私は他の人を愛している」、「死ななければならない」、「私は信じる」、「私は信じない」そこには常に動揺があり、海のような、ざわめきがあるのです。

皆さんは海を見つめたことがありますか?
風がないでいて、そよともせず、海が星々を映している日があります。
静謐があり、そよとの風もなく、平和な気配が領しているのですが、しかしその下のほうには深い流れ、深い運動があるのです。
その水は広大な領域に及んでおり、そして実際にはけっして静穏ではなく、常にざわざわと動いているのです。
風がそよぐと、とたんに静けさが破られるのです。

精神もまたそうです。
私たちは絶えずざわついており、そしてそれに気づいて言うのです。
「私に平和を与えてください、神を見つけさせてください。私はこの不幸から逃げ去り、永続的平和、祝福があるかどうかを見い出したい」。
それが私たち全員の望みであり、ゆえに私たちはかくもぞっとさせる苦闘、かくもはりつめた矛盾に陥り、願望と願望とをぶつかりあわせているのです。

野心は欲求不満と空しさを生み出し、そしてそれからこの達成願望が再び欲求不満の影を落とすのです。
混乱、紛糾、不幸の状態から、束の間の喜びを感じる状態、ときどき空を見上げて「なんと美しいことか、なんとすばらしいことか!」と言い、またときどき愛の感情を知る状態まで、皆さんは私たちの状態に気づいているでしょうから、私がこれ以上述べる必要はないでしょう。
が、それらはすべて一時的で、束の間で、そして流動的です。

そこで精神は、「永続的な平和の状態はないだろうか?」と尋ね、かくして神あるいは真理という観念に永続性をまとわせるに至るのです。
そしてすべての宗教は、観念に永続性の衣をまとわせることを奨励するのです。
世界中のあらゆる宗教は、皆さんが追い求めなければならない永遠性、祝福があり、そしてそれに至る道があると言います。
かれらは、混乱から真実に至る道があると言うのです。
おわかりでしょうか?
永続的だとされる状態を皆さんが追求するやいなや、皆さんはそれに至る道を見つけなければなりません。
すなわち、信念、方法、方式、実践・修行です。

さて、私に言わせれば、永続性もなければ方法もありません。
真実を発見するための方法などないのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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何かからの自由は自由ではない

明らかに、いくつかの種類の自由があることは確かです。
政治的自由があります。
知識が与える自由、ものごとのおこない方、ノウハウを心得たときに得られる自由があります。
また、世界中を巡り歩くことができる金持の自由があり、そして能力の自由、書き、自己表現し、明晰に考えることができる自由があります。

それから、何かからの自由があります。
抑圧からの自由、羨望からの自由、伝統からの自由、野心等々からの自由があります。
そしてそれから、最後に――修行の果て、徳を積み重ねた果て、努力の果てに――得られると私たちが望む自由、一定のおこないを積み重ねることによって得ることを望む究極の自由があります。

このように、能力が与える自由、そして有徳な人生の果てに得られると見なされている自由があり、何かからの自由、これらが私たちが皆知っている類の自由です。

さて、これらの自由はたんに反応なのではないでしようか?
「私は怒りから自由になりたい」と言うとき、それはたんに一つの反応であって、怒りからの自由ではないのです。
また、有徳な生活の果てに、あるいは努力や修行によって最後に得られるだろうと皆さんが思っている自由もまた、過去のものに対する反応なのです。

どうかこのことに注意深くついてきてください。
なぜなら私は、皆さんが慣れていないという意味でややわかりにくいことを言おうとしているからです。

何かからのではない自由の感じ、原因を持たない自由、ただ自由である状態というものがあるのです。
私たちが知っている自由は常に意志によってもたらされるのではないでしょうか?

自由になろう。
技術を学ぼう。
専門家になろう。
勉強しよう――そうすればそれが自分に自由を与えてくれるだろう。
そのように、私たちは自由を達成する手段として意志を行使するのではないでしょうか?

貧乏になりたくない、だから豊かになるために自分の能力、意志、その他あらゆるものを行使するのです。
あるいは、もしうぬぼれが強ければ、私はうぬぼれが強くなくなるように意志を行使します。
そのように、私たちは意志の行使によって自由を得られると考えるのです。
が、これに反して、意志は自由をもたらさないのです。

私が指摘してきたように、何かからの自由は自由ではないのです。
皆さんは、怒りから自由になろうと努めます。
私は、皆さんが怒りから自由になってはいけないと言っているのではなく、それは自由ではないと言っているのです。
私は貪欲、狭量、羨望、あるいはその他いくつものものを免れるかもしれませんが、にもかかわらず自由ではないかもしれないのです。
自由とは、精神の一性質です。
が、その性質は、非常に慎重で立派な追求あるいは探求、非常に周到な分析によって、あるいはいろいろな観念を総合することによってもたらされるものではありません。

それゆえ、私たちが絶えず求めている自由は常に何かからの自由――例えば、悲しみからの自由――だという真理を見抜くことが重要なのです。
悲しみからの自由がないというのではなく、それから自由になるべきだとする要求はたんに一つの反応にすぎず、それゆえ皆さんを悲しみから自由にしないということです。
言わんとしていることがおわかりでしょうか?

私は様々な理由で悲しみにくれており、そしてそれから自由にならなければならないと言います。
悲しみから自由になろうとする衝動は、苦痛から生まれます。
私は、自分の夫ゆえ、息子ゆえ、あるいは何かその他の理由ゆえに苦しみます。
私は、自分が陥っている状態が厭わしく、そこでそれから逃げたいと思う。
そのような自由への願いは反応であって、自由ではないのです。
それはたんに、現在の状態に対するものとして私が望むところの、他の望ましい状態にすぎないのです。
たっぷりお金を持っており、それゆえ世界中を旅行できる人が必ずしも自由ではありませんし、利口あるいは有能な人もまた然りです。
なぜなら、彼の自由になろうという望みもまた反応にすぎないからです。

ですから私は、自由、解放はいかなる反応によって身につけ、獲得し、あるいは捜して得ることもできないということを見抜くことができないでしょうか?
それゆえ私は反応というものを理解し、また自由はいかなる意志の努力によっても起こらないということを理解しなければなりせん。

意志と自由は両立しません。
思考と自由が両立しないように。
思考は条件づけられており、それゆえ自由をもたらすことはできないのです。
経済的に皆さんはたぶん、人間がより安楽でいられるよう、より多くの衣食住にありつけるよう世界を整えることはできるでしょう。
そしてそれが自由だと考えることでしょう。
これらは必要不可欠ですが、しかしそれだけでは完全な自由とは言えないのです。

自由は精神のある状態、ある性質であり、そして私たちが探究しているのはその性質なのです。
その性質なしには、皆さんが何をしようと、世界中のすべての美徳を培おうと、皆さんはあの自由を持つことはないでしょう。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

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聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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