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ものごとをそれ自体のために愛することが自由の始まりである



自由とは何ですか?

お嬢さん、自由とは何かを本当に知りたいのですね?
自由とは何か、知っている人はいますか?

私たちが知っていることはせいぜい、自分たちが何かをするように促されるということ、
境遇によって、あるいは自分自身の恐怖によって、何かをするように強いられ、
そして今度はそれらのものから離れ去りたいと思うようになるということです。

その制約、強制、恐怖等々から離れ去ることが、私たちのいわゆる自由なのです。
どうかお聞きなさい。
制約を免れること、あるいは妨げ、何らかの強制を免れることは自由ではないのです。

自由とは、それ自体としてあるものであって、何かから離れることではないのです。

どうかこのことを理解してください。
何かの理由で投獄された囚人は、出獄して自由の身になりたいと願います。
彼の思いは出獄のことにしかありません。
もし自分が怒っていたら、自分が怒りを免れることができさえすれば自分は自由になれるだろうと感じます。
が、自分が妬んでいるとき、それを克服することが自由ではないのです。
免れよう、克服しよう、抑えようとすることは、同じことのたんに別の形での表現なのです。
それは自由ではないのです。

自由はそれ自体としてあるものであって、何かから離れることではないのです。
何かをそれ自体のために愛すること――それが自由です。

絵をかくことが自分に名声や地位を与えるからではなく、ただ好きだから絵をかくとき、そこに自由があるので
す。

学校で、好きだからこそ絵をかくとき、まさにその愛が自由なのであり、そしてそれは精神のあらゆる動きを徹
底的に理解することなのです。
また何かを、それが賞あるいは罰として自分にもたらすもののためにではなく、それ自体のためにすることは、
非常に単純な行為です。
ものごとをただそれ自体のために愛することが自由の始まりなのです。

それは君たちが偉くなったり、成功したり、有名になったりする助けにはならないかもしれません。
が、しかし君たちが生きていく上での助けになるでしょう。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

問題は義務ではなく愛と自由である


質問者:あなたは自由について話してこられましたが、自由には義務が求められるのではないでしょうか?
何が社会、自分自身に対する私の義務なのでしょう?

クリシュナムルティ:自由と義務は比べられるのでしょうか?
忠順な息子は自由でありうるでしようか?
私は、社会に忠順であり、にもかかわらず自由であることができるでしょうか?
私は、もし政治的あるいは宗教的制度に従えば、はたして自由でありうるでしょうか?
にもかかわらず正しい意味で111経済的な意味でではなく||革命的である私は、忠順であり、
ことができるでしょうか?
それとも私はたんに模倣、まねをしているだけでしょうか?
そもそも制度というものは、全部が模倣なのではないでしょうか?
従順な息子であること、父親の望みどおりのことをすること、社会に従って正しいことをすること――これらは、そもそもが模倣の気持ちを暗示しているのではないでしょうか?

私の父親が私に法律家になってほしいと望むとき、法律家になることが私の義務でしょうか?
お前はこれこれの宗教団体に加入しなければならないと父親が私に言うとき、そうするのが私の義務でしょうか?

義務と愛は相伴うでしょうか?
なんの愛もなく、なんの自由もないときにのみ、「義務」という言葉がとてつもなく重要になり、そしてそのとき義務が伝統に代わるのです。
その状態で私たちは生きるのです。
忠順でなければならない――それが私たちの実情なのではないでしょうか?

何が社会への私の義務なのでしょう?
何が自分自身への私の義務なのでしょう?
さて、社会は実に多くのことをあなたに要求してきます。
あなたは社会に服従し、従い、一定の儀式をおこない、一定のことを信じなければなりません。
社会はあなたを一定の考え方、一定の信念へと条件づけます。

もしあなたが、何が社会に対する義務かをではなく、何が真実かを見い出そうとしているのなら――ある特定のパターンに適合しようと努力しているのでなければ――もしあなたが、何が真理かを見い出そうとしているのなら、あなたは自由でなければならないのではないでしょうか?

自由であることは、あなたが何かを捨て去らねばならないこと、あらゆるものに対立しなければならないことを意味しているのではありません。
それは自由ではないのです。
自由の意味には、絶えず思考に気づくことが含まれています。
それは、義務の合意を明かしていくことを意味し、そしてそのような解明から――しかし、たんにある特定の自由を捨てることによってではなく――自由が生まれるのです。

もしあなたが非難したり、正当化したり、あるいは自分をある特定の思想や観念と同一化させれば、伝統というものを全体として理解し、その意義を充分に把握することはできません。

何が自分自身あるいは社会に対する義務かと問いはじめるとき、どのようにしてそれを見い出したらいいのでしょう?
何が基準でしょう?
何を判断基準にすればいいのでしょう?

あるいは、なぜ私たちが義務とかいった言葉に依存するのかを見い出してみるべきでしょうか?
捜し求め、探究し、調べている精神が、なんとすぐに「義務」という言葉に捕まってしまうことか!

年をとってきた父親は息子に、「私を扶養するのがお前の義務だ」と言い聞かせ、そして息子は父を養うのが自分の義務だと感じます。
で、息子は絵をかくなど、何か他のことをしたいと思っているかもしれません、が、しかしそれは父や自分を養うための生計の糧を与えないでしょうから、彼は自分が本当にしたいことをあきらめて、働いて稼ぐことが自分の義務だと言い、そして余生をずっとその義務のために過ごすのです。
死ぬまで、にがい思いを味わい続けるのです。
心中に、にがさをいだきながら、彼は父母にお金を与え続けるのです。
にがさのうちに生き、そしてにがさと共に死ぬ――それが私たちの人生です。

私たちは本当はなんの愛も、またなんの自由も持っておらず、それゆえ私たちは自分の思考を制御し、自分の心と感情を形作るために言葉を用い、そしてそれで満足してしまうのです。

が、愛こそは革命の唯一の道かもしれないのです――そして事実それが唯一の道なのです。
が、私たちのほとんどは革命に――表面的な、経済的革命にだけでなく、より本質的な、より深い、重要な思考の革命、創造の革命にも――反対します。
で、革命には反対なので、私たちは常に次々に改革をおこない、言葉、脅迫、野心でもってあちこちにつぎを当てていくのです。

あなたは言うでしょう。
結局、あなたの「何が社会、自分の父親、そして自分自身への私の義務なのでしょう?」
という質問に私が答えなかったと。

それは間違った質問だ、と私は申し上げます。
それは、自由ではない精神、反逆していない精神、従順で御しやすい精神、愛を持たない精神によって出された質問なのです。

従順で御しやすい精神、なんの愛もなく、にがさが影のように付きまとっている精神、そのような精神がいかにして社会または自分自身に対する義務を果たしうるでしょう?
そのような精神が新しい世界、新しい社会構造を創出することができるでしようか?

どうか首を縦に振らないでください。
あなたは自分が何を望んでいるかご存じですか?
あなたが望んでいるのは、反逆、精神の革命ではなく、あなたが育てられたのと同じように自分の子供たちを育てることなのです。
あなたは、かれらがあなたと同じように生き、同じように考え、宗教的儀式に加わり、あなたが信じているのと同じことを信じるようにかれらを条件づけることを望んでいるのです。

ですからあなたはけっして、何が本当かをかれらが見い出すよう励ましません。
あなたが自分の条件づけにおいて自分自身を損なっているように、あなたは他人をも損なっているのです。

ですから問題は「何が社会に対する私の義務か?」ではなく、
「どのようにしてこの愛、この自由を見つけ、あるいは目覚ましたらいいのか?」なのです。

ひとたびその愛が生まれれば、あなたは少しも忠順ではなくなるかもしれません。
愛こそはもっとも革命的なものなのです。

が、精神はその愛を思い描くことはできません。
それは養成できないのです。
それは、おのずから現われねばならないのです。
それは、あなたの裏庭で育てられるべきものではありません。
それは、あなたがけっして権威に服従しないとき、恐怖にとらわれていないとき、すなわち、誤りを犯しても、その誤りから答えを見つける力をあなたが持っているとき、たゆみない探究、絶えず燃え上がる不満と反逆心と共に生まれ出るものなのです。

恐怖にとらわれていない精神は少しも卑小ではなく、ゆえに真の深さを持つことができるのです。
するとそのような精神は、愛とは何か、自由とは何かを見い出すことでしょう。

『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

安定・永続を求めているかぎり自由はない


質問者:英国の支配が終わった後も、わが国の教育制度にはなんの根本的変化もありません。
あい変わらず専門化が強調され、求められており、技術・職業訓練が重視されています。
どうしたら教育は真の自由実現への最良の手段になることができるのでしょう?

クリシュナムルティ:「真の自由」によって私たちは何を意味しているのでしょう?
政治的自由をですか?
それとも好き勝手なことを考える自由のことをですか?
あなたは自分が好きなことを考えることができますか?
で、思考は自由をもたらすでしょうか?
すべての思考は条件づけられた思考なのではないでしょうか?

では、真の自由とは何を意味するのでしょう?
私たちが知るかぎり、教育とは条件づけられた思考なのではないでしょうか?
私たちの関心はもっぱら職を得ること、あるいは身につけた知識を自己実現のため、自己権力の拡大、出世のために利用することにあります。
ですから、まず真の自由によって何を意味するかを見ることが肝要なのです。

たぶん、もし私たちがそれを理解すれば、そのときには職業的専門化のための技術訓練はその価値を持つかもしれません。
が、真の自由とは何かを理解せずに、ただ技術的能力を養うなら、行き着く先は破壊であり、より大きな戦争であって、そしてそれがいま世界で実際に起こっているのです。
ですから、真の自由とはどういう意味かを見い出してみましょう。

明らかに、自由にとってまず第一に必要なのは、いかなる恐怖も――社会によって押しつけられる恐怖だけではなく、不安定への心理的恐怖も――あってはならないということです。
あなたはとても良い職に就いていて、出世の梯子を着々と登っているかもしれませんが、しかしもし野心があり、ひとかどの者になろうとする努力があれば、それは必然的に恐怖を伴うのではないでしようか?
それはまた、非常に成功した人は真に自由ではないということを含蓄しているのではないでしょうか?

そのように、伝統によって、またいわゆる社会の命令に従う責任によって押しつけられた恐怖、自分自身の死、不安定、病気への恐怖――このすべてが、存在の真の自由を妨げるのではないでしょうか?

そのように、もし何らかの外面的または内面的強制があれば、自由はありえません。
強制は、社会のパターンあるいは自分自身の善し悪しの判断に従って立てたパターンに適合しようとする衝動があるときに生じます。
パターンは、過去の結果である思考、あなたの伝統、あなたの教育、過去に基づいたあなたの全経験の結果である思考によって生み出されるのです。

何らかの強制――政治的、宗教的強制、あるいは達成・実現したい、偉くなりたいというあなた自身の願望によってあなた自身が作り上げたあなた自身のパターンへの適合――があるかぎり、真の自由は少しもないでしょう。
真の自由を実現することは容易なことではなく、また真の自由とはどういう意味かを理解することも容易ではありません。
が、私たちは、どんな種類のであれ、恐怖があるかぎり真の自由とはどういうものかを知ることはできないということを見ることができます。

個人的または集団的に、もし恐怖、強制があれば、なんの自由もありえません。
私たちは真の自由について推測するかもしれませんが、しかし実際の自由は自由についての思弁的観念とは違います。

精神が何らかの安定を追求しているかぎり――で、これこそは私たちのほとんどが望んでいることなのですが――また精神が何らかの形の永続を追い求めているかぎり、自由はありえません。

個人的、集団的に私たちが安定を求めているかぎり、戦争が起こらざるをえないのです。
これは明らかな事実であり、そしてそれこそはいま現に世界で起こっていることなのです。
ですから、この安定、永続への願望の全過程を精神が理解するときにのみ、真の自由がありうるのです。

結局、安定、永続こそは、あなたの神々、あなたのグルにあなたが求めているものなのです。
あなたの社会関係、あなたの政府に、あなたは安定を求めるのです。
そのようにしてあなたは、あなたを超越したあなたの神に究極の安定を授けるのです。
あなたはそのイメージに、一個人としてのあなたはかくもはかない存在だが、しかし少なくとも神と共にあるときは、永続性を持つのだという観念の衣をまとわせるのです。
そのように、あなたは宗教的に永続したいという願望から始めるのです。

あなたの政治的、宗教的および社会的活動はすべて、内容のいかんを問わずすべてその永続への願望――確実でありたい、家族、息子あるいは国家、観念によって自分自身を永らえさせたいという願望――に基づいているのです。

意識的、無意識的にたえず永続、安定を追い求めているそのような精神が、いかにして自由を持つことができるでしょう?

私たちは、本当は真の自由を求めていないのです。
私たちは、自由とは違うものを求めているのです。
すなわち、より良い境遇、より良い状態を求めているのです。
自由を望んでいるのではなく、より良い、より優れた、よりりっぱな境遇を求めているのであり、そしてそれを助長することを教育と呼んでいるのです。

そのような教育が世界に平和をもたらすことができるでしょうか?
明らかに「否」です。
それどころか、それはより大きな戦争と不幸を生み出しつつあるのです。
あなたがヒンドゥー教徒、イスラム教徒等々であるかぎり、あなたは自分自身にも、隣人にも、国にも、不和を招き続けていくのです。

このことを私たちはわかっているでしょうか?
何が起こっているか見てごらんなさい!
あなたはすでにご存じでしょうから、私から言う必要はないでしょう。

統合した人間である代わりに、あなたは分離的に考えていくのです。
あなたの活動は断片化し、ばらばらで、分裂しており、ゆえに皆さんは全員争いあっているのです。
それが、このいわゆる自由、いわゆる教育の結果です。

自分たちは宗教的に団結していると皆さんは言いますが、しかし実際にはお互いに争いあい、滅ぼしあっているのです。
なぜなら、生の全過程を見ず、ただ明日のこと、より良い職に就くことにしか関心がないからです。
皆さんはここで話を聞いた後、家に戻り、これまでとまったく同じことをし続けていくことでしょう。
そして、世界のことは忘れて、あい変わらず党派心が強く、狭量なままであることでしょう。
そのような見地で考えているかぎり、皆さんは戦争、不幸、破壊を招き続けていくのです。
ですから、自分だけ安全に暮らしたいと望み、それゆえこの狭い、地域的な見地で考えているかぎり、皆さん自身も、皆さんの子供たちも、けっして安全でいられないのです。
そのような生き方をしているかぎり、皆さんは戦争を招かざるをえないのです。

皆さんの現在の生き方は、皆さんが本当は自由を持つことを望んでいないこと、皆さんの望みがたんにより良い暮らし、より多くの安全、より多くの満足を得、自分の職を確保し、宗教的、政治的に自分の地位を固めることにしかないことを示しているのです。
そのような人々が新しい世界を創造することなど不可能です。
かれらは宗教的な人々ではなく、英知の持主ではないのです。
かれらは、すべての政治家と同様、即座の結果の見地で考えているのです。
で、ご存じのように、皆さんが世界を政治家たちに任せているかぎり、破壊、戦争、不幸に行き着くのです。
皆さん、どうか笑わないでください。
それは皆さんの指導者たちの責任ではなく、皆さん自身の責任です。
皆さん一人ひとりの責任なのです。

自由とは、そうしたこととはまったく違う何かです。
自由はおのずから起こるものであって、捜し求めて得られるものではありません。
それは、恐怖がないとき、皆さんの心に愛があるときに生まれ出るのです。
が、ヒンドゥー、キリスト、イスラム、拝火教徒の見地で考え、しかも愛を持つことはできません。
精神が伝統や知識のなかにもはや自分自身のための安定を求めていないときにのみ、自由が生まれ出るのです。

知識で損なわれている精神、知識の重荷を背負った精神は自由な精神ではありません。
精神があらゆる瞬間に人生に出会うことができるとき、あらゆる出来事、あらゆる思考、あらゆる体験が開示する真実に出会うことができるときにのみ、それは自由なのです。
そしてその開示は、精神が過去によって損なわれているときは不可能です。

新しい人間、いまとは異なった人間、かれら自身の社会――恐怖、羨望、野心、腐敗に基づいた現在の私たちの社会とはまったく違う社会――を創造するであろう、恐怖から自由な、自立した人間を生み出すことは教育者の責任です。

真の自由は、英知が生まれ出るときにのみ――すなわち、全体性、存在の全過程が理解されるときにのみ――起こりうるのです。


『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

自由なしに人生の目的を見つけることはできない


私たちが討論し、見い出そうとしているのは、人生にははたして目的があるのかどうか、その目的は測ることができるのかどうかということです。

もしあれば、それは既知なるものの見地、過去の見地でのみ測ることができ、そして私が既知なるものの見地で人生の目的を測るとき、私はそれを自分の好悪に従って測ることでしょう。
それゆえその目的は自分の願望によって条件づけられ、ゆえにそれは目的ではなくなるのです。
そう、これは明らかなのではないでしょうか?

私は、人生の目的を自分自身の偏見、要求、願望のスクリーンを通してのみ理解することができるのです――さもなければ、判断できません。
ですから、物差し、巻尺、判断の基準は私の精神の条件づけであり、そして自分の条件づけの指図に従って私は何が目的かを決めるのです。

が、それが人生の目的と言えるでしょうか?
それは私の要求によって生み出されたのであり、それゆえ明らかにそれは人生の目的ではありえません。

人生の目的を見い出すためには、精神は測定から自由でなければなりません。
そのとき初めて、それは見い出すことができるのです。
さもなければ皆さんはたんに自分自身の要求を投影しているにすぎません。

これはたんなる知的説明ではなく、もし皆さんがそれを深くまで探ってみれば、皆さんはその意義を把握することでしょう。
結局私は、自分の偏見、自分の要求、願望、先入的愛好に従って人生の目的とは何かを決めるのです。
ですから、私の願望が目的を生み出すのです。
明らかに、そんなものは人生の目的ではありえないのです。

人生の目的を見い出すことと、精神がみずからをそれ自身の条件づけから自由にすることと、どちらがより重要でしょうか?
で、精神がそれ自身の条件づけから自由なとき、まさにその自由自体が目的なのです。
なぜなら、結局、自由においてのみ人は真理を発見することができるからです。

ですから、まず第一に必要なのは自由であって、人生の目的を探すことではないのです。
自由なしには、それを見つけることができないのです。
自分自身のちっぽけな要求、追求、野心、羨望、悪意から解放されないかぎり、これらのものからの自由なしに、いかにして人生の目的を探し、発見することができるでしょう?

ですから、人生の目的について探究している人はまずなによりも、探究の道具が人生の目的、自分自身という存在の心理的な複雑さを見抜くことができるかどうかを確かめることが重要なのではないでしょうか?
なぜなら、私たちが持っているのは、自分自身の要求に合うように形作られた心理的道具だけだからです。
そしてその道具は私たち自身のちっぽけな願望から作り出されるのであり、私たち自身の経験、心配、不安そして悪意の結果に他なりません。

ではいかにして、そのような道具が真理を見い出すことができるでしょう?
それゆえ、もし人生の目的を見い出すつもりなら、そもそもその探究者がそれを理解し、発見することができるかどうかをまず見い出すことが大切なのです。

私は皆さんに逆ねじを食わせようとしているのではなく、私たちが人生の目的について探究するときにはそういったすべてが含意されているのだということを指摘しているのです。
私たちがその問いを出すときは、はたして質問者、探究者が理解できるかどうかをまず見い出さなければならないのです。

(究魂 注:クリシュナムルティは言葉の使い方で、「私」と「あなた」をよく入れ替えて使います。)

『自由とは何か』
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

瞑想―努力―意識

彼は、サンニャーシ、修道士だったが、いかなる特定の修道会にも属していなかった。
そして彼は自分のことを三人称を使って語った。
まだ若い頃、彼は世俗とそのならわしとを放棄して、国中を放浪し、何人かの有名な宗教的導師の許に滞在して、かれらと談論し、そしてかれらの特定の規律と儀式に従った。
彼は、何日もの間断食し、山中にひとりで暮らし、そしてサンニャーシたちがすることになっていることがらのほとんどを実行した。
彼は、過度な苦行の実践によって彼自身を肉体的に傷つけたこともあり、それはずっと昔のことだったが、しかし彼の肉体は依然としてそれに苦しんでいた。
やがてある日、彼は、これらすべての修行、儀式および規律を、無駄で、あまり意義のないことであるとして、放棄することに決め、そしてある遠方の山村に隠退し、そこで彼は、深い黙想のうちに何年も過ごした。
おきまりのことが起こった、と彼は笑みを浮かべて言った。
そして彼は、今度は有名になり、たくさんの弟子を持った。
これらの弟子たちに、彼は簡単なことがらを教えた。
彼は古代サンスクリット文献を読んだ。
そして今はそれをもまた彼は放棄していた。
彼の生について簡単に述べることが必要なのだが、彼が訪れたのはそのことのためではないと彼は言い添えた。

「一切の美徳、犠牲および私心のない人助けの行為の上に、瞑想があります」と彼は言った。
「瞑想なしには、知識と行為は、ほとんど無意味に等しい退屈な重荷になります。
しかし、瞑想の何たるかを知っている者はごくわずかです。
もしあなたがよろしければ、われわれはこれについて話し合わねばなりません。
瞑想において、意識の異なった状態に達することが、話し手の体験でした。
彼は、高い望みを抱いているあらゆる人間が遅かれ早かれ経る体験、クリシュナ、キリスト、仏陀を具現している幻視を持ったのです。
それらは、自分自身の思考や教育、および自分の教養と呼びうるものの結果なのです。
異なった多くの種類の幻視、体験および力があります。
不幸にして、ほとんどの求道者たちは、かれら自身の思考や願望の網にかかっているのです、真理の最も偉大な解釈者たちのうちの何人かですらもが。
治療力と言葉の才のある者たちは、かれら自身の能力と体験の虜になるのです。
話し手彼自身は、これらの経験と危険を通り放けてきました、そして彼の力の及ぶかぎりそれらを理解し、そして超越してきました――少なくとも、そう望むことにしましょう。
では、瞑想とは何でしょうか?」

然り、瞑想を考察する際には、努力と努力の為し手が理解されねばならない。
良い努力はあるものに、そして悪い努力はほかのものに行き着くが、しかし両方とも束縛的ではないだろうか?

「あなたは、ウパニシャッドやどのような聖典も読んだことがないと言われていますが、しかしあなたは読んだことがあり、そして知っている人間のように聞こえます」

私がそれらのもののどれも読んでいないというのは本当であるが、しかしそれは重要ではない。
正しい努力も間違った努力も、ともに束縛的である。
そして理解され、打破されねばならないのは、この束縛である。
瞑想は、一切の束縛の打破である。

それは自由の状態であるが、しかし何かからのではない。
何かからの自由は、単に抵抗の養成にすぎない。
自由であることに気づくことは、自由ではない。
意識は、自由あるいは束縛の体験状態であり、そしてその意識は経験者、努力の為し手である。
瞑想は経験者の打破であり、それは意識的に行なわれることはできない。
もし経験者が意識的に打破されるなら、そのときには、これまた意識の一部である、意志の強化がある。
われわれの問題は、そのときには、意識の全過程にかかわり、そしてその一部――大きなまたは小さな、支配的または屈従的な――にではない。

「あなたのおっしゃることは真実のようです。
意識の動き方は深遠で、欺瞞的で、そして矛盾撞着的です。
このもつれをほぐし、そして秩序が勝りうるのは、私心のない観察と、慎重な討究によってのみです」

しかし、ほぐし手がなおそこにいる。
人は彼を、より高い自己、アートマン、等々と呼ぶかもしれないが、しかし彼はなお、意識の一部であり、絶えず成功しようと努めている努力の為し手なのだ。

努力は願望である。
ある願望は、より大きな願望によって克服され、そしてその願望はさらに別のによって、という具合に果てしなく克服され続ける。
願望は欺瞞、幻想、矛盾、および希望の夢想を生むもとである。
究極なるものへの最も圧倒的な願望、あるいは名なきものに達せんとする意志は、なお意識の動き、善悪の経験者、待ち、見守り、希望している経験者の動きである。
意識は、ある特定のレベルのものではなく、それはわれわれの存在の全体である。

「これまで語られてきたことは、すばらしく、そして真実です。
しかし、お尋ねするなら、この意識に平和を、静謐をもたらすものは何でしょうか?」

何もない。
然り、精神は常に、結果、達成への道を追求している。
精神は、組み立てられた道具であり、それは時間の織物であり、そしてそれは、単に結果、達成、獲得されたり、または避けられるべき何かによって考えることができるだけである。

「その通りです。
精神が働き、選び、追求し、経験しているかぎり、自分自身のイメージを創り上げて、それを異なった名前で呼ぶところの努力の為し手がいなければなりません。
そしてこれが、精神が囚われてしまう網なのです」

思考それ自体が、網の作り手である。
思考は網なのだ。
思考は束縛的である。
思考は、知識、行動、美徳が重要性を持つ領域、広大な時間へと行き着きうるだけなのだ。
いかに洗練され、または単純化されていようと、考えることによってすべての思考を打破することは所詮できない。
経験者、観察者、選択者、検問者、意志は終わらねばならない、自発的に、そして幸福に、報いへのいかなる望みもなしに。

求道者がやむ。
これが瞑想である。
精神の沈黙は、意志の行為によってもたらすことはできない。
意志がやむときに、沈黙がある。
これが瞑想である。
真実は捜し出せない。
追求者がいないときに、それはある。
精神は時間である、そして思考には、無量のものをあばくことはできない。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・瞑想―努力―意識
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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競争的な生き方

鈴を数個首のまわりにつけた若い雄牛が、木製のデッキを装着した一本の薄い銅製の棒で二つの大事輪を結んでいる、精巧な作りの軽快な荷車を引っぱっていた。
このデッキの上に男が一人腰かけて、早歩で駆けている雄牛と装備とを自慢していた。
頑強だがほっそりした雄牛は、その男に貫禄を与えていた。
今や、通りすがりの村人たちをはじめ、誰もが彼を見つめていた。
かれらは立ち止まり、感嘆の眼差しで見つめ、批評し、そして通り過ぎた。
その人物はいかに誇らしげに、背をまっすぐにして坐っていたことか、じっと前方を見つめながら!

自慢は、小さなことへのものであれ、あるいは偉大な業績へのものであれ、本質的には同じである。
自分がすること、および自分の持ち物が、当人に重みと威信の気持を与えるのだが、しかしその当人自体は、全体として見れば、ほとんど意義のない存在であるように思われる。

彼は、二人の友達と一緒にやってきた。
かれらはいずれも良い学位を持ち、そしてかれらの言うには、自分たちのさまざまな職業において順調に歩んでいた。
かれらは皆結婚し、子供がおり、人生に満足しているようだったが、しかしかれらはまた動揺してもいるようだった。

「よろしければ」彼は言った。
「問題を切り出すために、一つ質問をしたいのですが。
それは、いいかげんな質問ではありません。
それは、数娩前にあなたのお話を聞いて以来、かなり私を悩ませてきたものです。
なかんずく、あなたは、もし人間が平和な社会に生きようと思うなら、競争と野心は、破壊的な衝動ゆえ、理解することによって、取り払われねばならないと言われました。
しかし闘争と葛藤は、生存のまさに本性の一部ではないでしょうか?」

現在構成されているものとしての社会は、野心や葛藤にもとづいている。
そしてほとんど誰もがこの事実を、避けえないものとして認めている。
個人は、その不可避性へと条件づけられている。
教育によって、さまざまな種類の外面的、内面的強制によって、彼は競争心を煽られる。
もし彼が、いやしくもこの社会に適合すべきだとすれば、彼はそれが立てる諸条件を受け入れねばならない。
さもなければ彼は、とてもひどい目にあうことになるというわけである。

われわれは、この社会に適合しなければならないと考えているようだ。
しかし、なぜそうすべきなのか?

「もしそうしなければ、われわれはただ零落してしまうだけのことでしょう」

もしわれわれが問題のすべての意義を見た暁には、果たしてそうなるだろうか?
われわれは、通常のパターンに従って生きなくなるかもしれないが、しかし創造的かつ幸福に、全く異なった見解をもって生きることだろう。
そのような状態は、もしわれわれが現在の社会的パターンを避けえないものとして認容していれば、引き起こすことはできない。
しかしあなたの問題点に戻るとして、野心、競争、および葛藤は、予定された、避けがたい生き方の構成要素をなすものだろうか?
あなた方は、明らかにそうだと思っておいでだ。
さて、そこから始めよう。
なぜあなた方は、この競争的な生き方を、生存の唯一の過程だと思いこんでおられるのだろうか?

「私は、自分のまわりのすべての人間たち同様、競争心を持ち、野心的です。
それは、しばしば私に満足を与え、そして時々苦痛を与える一個の事実ですが、しかし私は、ただそれを、くよくよせずに認めているだけです。
なぜなら私は、ほかのどのような生き方も知らないからです。
そしてたとえ私がそれを知ったとしても、思うに、それを試みることを私は恐れるでしょう。
私は多くの責任を抱えています。
そしてもし私が生の通常の思考や習慣をやめたら、子供たちの将来を本気で心配しなければならなくなるでしょう」

あなたは他人に対する責任がおありかもしれないが、しかしあなたにはまた、平和な世界をもたらす責任もあるのではないだろうか?
われわれ――個人、集団および国家――が、この競争的生存を避けられないものとして認容しているかぎり、人間にとって平和、永続的幸福はありえない。
競争心、野心は、内面および外面の葛藤を含蓄しているのではないだろうか?
野心的な人間は平和な人間ではない、平和や同朋愛を口にするかもしれないが。政治家は決して世界に平和をもたらすことはできない。
また組織化された信念に属している者たちにもそれはできない。
なぜならかれらはいずれも、指導者たち、救い主、教導者および模範の世界に条件づけられてきたからだ。
そしてあなたが他人に従うとき、あなたはそれによって自分自身の野心の達成を追求しておられるのだ、それがこの現実の世界でであれ、あるいは観念化の世界、いわゆる霊的な世界においてであれ。
競争心、野心には、葛藤が含蓄されているのではないだろうか?

「それは分かりますが、しかし、どうしたらよいのですか?
この競争の網に囚われていながら、どのようにしてそれから抜け出たらよいのですか?
そしてたとえ人がそれから抜け出たとしても、人と人との間に平和があるだろうというどんな保証があるのですか?
われわれのすべてが問題のすべてを同時に見ないかぎり、一人か二人によってその真理が知覚されただけでは、そこには少しの価値もないことでしょう」

あなたは、この、葛藤、達成、挫折の網からいかにして抜け出るかを知ろうとしておられる。
「いかにして」という質問それ自体が、あなたの努力が無駄に終わらないだろうという保証をあなたが得たがっていることを示唆している。
あなたは依然として、単に異なったレベルで成功することを欲しておられるだけなのだ。
あなたは、どのような方向へのいかなる野心も、また成功へのいかなる願望も、内面ならびに外面に葛藤を生み出すということがお分かりになっていない。
「いかにして」は、野心や葛藤の道であり、そしてまさにその質問そのものが、あなたが問題の真理を見ることを妨げるのである。

「いかにして?」は、よりいっそうの成功への梯子である。
しかしわれわれは、今、成功と失敗の見地から考えているのではなく、むしろ葛藤の除去という見地から考えている。
そして、葛藤なしには沈滞は避けられない、ということになるのだろうか?
然り、平和が生まれ出るのは、保護物、賞罰および保証によってではなく、あなた――諸々の野心や挫折を伴う葛藤の代理人であるあなた――がいないときなのだ。

あなたのもう一つの問題点である、万人がこの問題の真理を同時に見なければならないというのは、明白な不可能事である。
しかし、あなたがそれを見ることは可能である。
そしてあなたがそうするときには、あなたが御覧になった真理、そして自由をもたらすそれが、ほかの人々にも感化を及ぼすことだろう。
それはあなたから始まらねばならない。
なぜならあなたが世界だからだ、他人がそうであるように。

野心は、精神と心の凡庸性を生み出す。
野心は浅薄なものなのだ。
なぜならそれは、果てしなく結果を追い求めているからである。
聖人、あるいは成功した政治家、あるいはまた大支配人になりたがっているような人間は、個人的な達成にこだわっているのだ。
観念と一体化するのであれ、国家とであれ、あるいは宗教的、経済的システムと一体化するのであれ、成功しようとする衝動は、エゴ、自我――まさにその構造自体がもろく、表面的で、制限されたものであるところの――を強固にする。
このすべては、もし人がそれを調べてみさえすれば、しごく明らかなのではないだろうか?

「それは、あなたにとっては明らかかもしれませんが、しかしわれわれの大部分にとって葛藤は、存在感、自分たちは生きているのだという気持を与えてくれるのです。
野心と競争なしには、われわれの生は単調で、また無用であることでしょう」

あなた方がこの競争的な生き方を維持しているかぎり、あなた方の子供たちや、あなた方の子供たちのそのまた子供たちもまた、よりいっそうの敵意、羨望および戦争を生み出し続けることだろう。
あなた方もかれらも、平和を持つことはないだろう。
この伝統的な生存様式に条件づけられてきたので、あなた方は、順番に、あなた方の子供たちがそれを受け入れるように教育しておられるのだ。
それゆえ、世界は、この悲惨な状態のまま続いて行くことだろう。

「われわれは変わりたいとは思うのですが、しかし・・・」彼は、発言の空しさに気づいて、話しやめた。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・競争的な生き方
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

良いことをなさんと欲した政治家

彼は政治家だった、そして良いことをしようと欲していた。
彼は、自分自身が他の政治家たちに似ていないと感じている、と言った。
なぜなら彼は、人々の福祉、かれらの必要物、かれらの健康、そしてかれらの成長に、本当に関心があったからであると。
もちろん彼は野心的だったが、しかし誰がそうでなかったろうか?
野心は、彼をしてより活動的にさせるのを助けた。
そしてそれなしには、彼は怠惰になり、より多く他人のためになることはできないだろう。彼は閣僚の一人になることを望み、順調にそれに向かっていた。
そして彼がそうなった暁には、彼は自分の考えが実行されるよう計らうことだろう。
彼は世界中を旅し、さまざまな国を訪れて、いろいろな政府の計画を研究し、そして慎重な思索の後、彼は、真に自分の国のためになるであろうある計画を策定し終えていた。

「しかし今、私はそれをやり遂げられるかどうか分からないのです」と、はっきりとした苦痛を浮かべて言った。
「御覧の通り、私はこのところ、少しも元気がないのです。
医師たちは私に、くよくよしないようにと言うのですが、私は危険な手術を受けなければならないかもしれません。
しかし私は、この事態を受け入れることができないのです」

お尋ねするなら、何が、あなたがくよくよせずにいるのを妨げているのだろうか?

「私は、自分の残りの人生をずっと病弱者のままでいて、自分のしたいことができないという見込みを受け入れまいとしているのです。
私は、少なくとも言葉の上では、私がこれまで常としていたペースを保ち続けることはできないのだと、漠然と知っていますが、しかしもし私が床についていたら、私の計画は決して成就しないかもしれないのです。
当然ながら、ほかにも野心的な人々がおり、それは同族の殺し合いの問題なのです。
私は、あなたの集会に何度か出向いたことがあり、それで私は、お訪ねして、あなたといろいろ話し合いたいと思ったのです」

あなたの問題は、挫折のそれだろうか?
有用さと人気の凋落とともに、長い病気の可能性がある、そしてあなたは自分がこれを受け入れられないことを見出す。
なぜなら生は、あなたの計画の達成なしには全く不毛であるだろうからだ。
そういうことだろうか?

「すでに申しましたように、私は人並みに野心的ですが、しかし私はまた人のためになりたいのです。
これに反して、私は、実は、かなり具合が悪いのですが、しかし私には、この病気を認めることなどとてもできません。
ですから私の内部でつらい葛藤が進行しているのですが、そのことが、間違いなく私をよりいっそう具合悪くさせているのです。
また、別の不安があるのですが、それは、全員とも申し分なく扶養されている私の家族についてではなく、私が、自分自身に対してすら一度も言葉に出せずにきた何かへの恐怖なのです」

あなたは、死の恐怖を意味しておられるのだろうか?

「ええ、そうだと思います。
あるいはむしろ、自分が実行に乗り出したことを成就せずに終わることへの恐怖です。
たぶん、これが私の最大の恐怖なのです。
そして私には、それをどのようにして静めたらよいか分からないのです」

この病気は、あなたの政治的活動を全面的に妨げるだろうか?

「それがどんなだか、御存知のことと思うのですが。
私がものごとの中心にいないかぎり、私は忘れ去られ、そして私の計画は見込みがなくなることでしょう。
それは、事実上政治からの引退を意味することでしょうが、しかし私はそうするのがいやなのです」

それではあなたは、自分は引退しなければならないという事実を自発的かつ即座に認めるか、あるいは自分の病気の重さを知りつつ、これまで通り幸福にあなたの政治上の仕事を続けることができる。
いずれにせよ、病気はあなたの野心をはばむかもしれない。
生は非常に奇妙ではないだろうか?
示唆させていただくなら、なぜ、恨みなしに避けがたいものを認めようとなさらぬのか?
もし冷笑や恨みがあれば、あなたの精神は病気を悪化させてしまうことだろう。

「私は、このすべてに十分気づいているのですが、それにもかかわらず、自分の身体の状態を――あなたが示唆なさるように、幸福な気持ではとても――認めることはできません。
私は、たぶん、少しばかりの政治的仕事を続けていくことはできるでしょうが、しかしそれでは十分とはいえません」

あなたは、良いことをするというあなたの野心の達成があなたにとって唯一の生き方であり、そしてあなたとあなたの諸計画によってのみ、あなたの国が救われる、とそうお考えなのだろうか?
あなたが、この、おそらくは良い仕事の中心なのではないだろうか?
あなたは、本当は、人々の幸福に深く関心があるのではなく、あなたを通じて実現されるものとしての幸福に関心がおありなのだ。
あなたは、あなた自身をあなたの諸計画およびいわゆる民衆の幸福にあまりにも一体化なさったので、あなた自身の達成をかれらの幸福と思いこんでおられるのだ。
あなたの諸計画は優れているかもしれないし、たまたま運よく人々のためになるかもしれない。
しかしあなたは、あなたの名前をその良いことと一体化させることを欲する。
生は不思議なものである。
病気があなたを襲った。
そしてあなたは、自分の名前と重要性とを高めていく道をはばまれておられる。
これがあなたの内に葛藤を引き起こしているのだ、人々のためになれなくなるという心配がではなく。
そして単なる口先だけの好意に耽っているのでなければ、もしあなたが人々を愛しており、それは、意義深い助けになるであろうそれ自体の自らなる結果をもたらすことだろう。
しかしあなたはかれらを愛していない。
かれらは単に、あなたの野心と虚栄心の道具にすぎないのだ。
ためになることは、あなた自身の栄光へと向かっている。
どうか、これらすべての私の発言を気になさらぬように。

「私の心の奥深くに隠れているものごとをあなたがそれほど率直に表明なさったことは、私には本当にうれしいことです。
そしてそれは私のためになりました。
私は、どういうわけかこのすべてを感じてはいましたが、しかし一度も自分自身を直接それに面と向かわせようとしなかったのです。
それがそのようにはっきりと述べられるのを聞くことは、大きな救いです。
そして私は、自分が今や自分の葛藤を理解し、そして静めるだろうと思います。
事態がどのような結果になるか見てみますが、しかしすでに私は、白分の心配や希望に、わずかながら前よりとらわれていないのを感じます。
しかし、死についてはどうでしょうか?」

この問題は、より複雑であり、そしてそれは深い洞察を必要とするのではないだろうか?
あなたは死を合理的に説明することはできる――あらゆるものは死ぬ、春の新しい青葉は秋には吹き払われる、等々と言って。
あなたは死について論証し、そしてその説明を見出したり、意志によって死の恐怖を克服したり、あるいは恐怖の代用物としての信念を見出すことに努めることはできる。
しかしこのすべては、依然として精神の行為である。
そして、再生または死後の生の真理に関するいわゆる直覚は、単に存続への願望にすぎないかもしれない。
これらすべての推論、直覚、説明は、精神の領域内にあるのではないだろうか?
それらはいずれも、死の恐怖を克服するための思考の活動である。
しかし死の恐怖は、そうすなおに征服されるようなものではない。
国家、家族、名前や観念、あるいは信念によって存続しようとする個人の願望は、依然として彼自身の連続性への切望ではないだろうか?
自発的に、努力なしに、かつまた幸福に終わらねばならないのは、この切望と、その複雑な抵抗や希望なのである。

人は毎日、自分のすべての記憶、経験、知識および希望に対して死なねばならない。
満足や悔恨の蓄積、徳の集積は、刻々にやまねばならない。
これらは、単なる言葉ではなく、ありのままの事実の声明である。

連続するものは、決して未知なるものの至福を知ることはできない。
蓄積せず、毎日、毎秒死ぬことは、初めも終りもなくあることである。
達成への衝動と、その葛藤があるかぎり、そこには常に死の恐怖があることだろう。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・良いことをなさんと欲した政治家
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

至福の体験

想像は、あるがままのものの知覚を誤らせる。
それにもかかわらず、いかにわれわれは自分たちの想像力や思弁を自慢にすることか。
思弁的な精神は、そのこみ入った思考とともに、根源的変容を行なうことはできない。
それは革命的な精神ではないのだ。
それはそれ自身をあるべきものでおおってしまったのであり、そしてそれ自身の限られた、閉鎖的な投影物のパターンに従うのである。
幸福はあるべきものにはない。
それはあるがままのものの理解にある。
想像は、あるがままの知覚を妨げる、比較がそうであるように。
真実があるためには、精神は一切の想像と思弁を片づけなければならない。

彼はとても若かったが、しかし家族があり、それなりに信用のある実業家だった。
彼は、ひどく心配で、悲しそうな顔をしていた。
そしてしきりに何か言いたがった。
「しばらく以前、私は、ある非常に驚くべき体験をしました。
しかし私は、そのことをこれまで一度も、誰にも話したことがありませんので、あなたにそれをうまく説明できるかどうか定かではありません。
しかし私はそう望みます。
なぜなら私は他の誰のところにも行けませんので。
それは、私の心を完全に狂喜させる体験でした。
しかしそれは去りました。
そして今、私にはその空しい記憶しか残っていません。
たぶんあなたは、私がそれを取り戻すのを助けてくださるだろうと思います。
私は、できるだけ十分に、その祝福がどんなものだったかを、あなたにお話しします。
私はこれらのことについて読んだことはありましたが、しかしそれらは常に空しい言葉にすぎず、私の感覚に訴えただけでした。
しかし私に起こったことは、あらゆる思考を、想像や願望を超越していました。
そして今、私はそれを失ってしまったのです。
どうかお願いですから、私がそれに戻るのに手をお貸し下さい」

彼はしばらく間をおき、それから続けた。
「ある朝、私は、非常に早く目を覚ましました。
都会はまだ眠っていて、そのつぶやきはまだ始まっていませんでした。
私は、外に出なければならないと感じました。
それで私はすばやく身じたくをし、それから街路まで行きました。
牛乳配達車すら、まだ巡回していませんでした。
早春のことでした。
そして空は青白い色でした。
私は、一マイルかそこら先の公園に行くべきだ、と強く感じました。
正面玄関の入り口を出た瞬間から、私は不思議な軽快感を持ったのです。
まるで自分が空気の上を歩いているような。
向いの建物――くすんだ一棟のアパート――は、いつものすべての醜さを失っていました。
まさに煉瓦が生き生きとし、くっきりとしていたのです。
普通だったら決して気づかなかっただろうようなあらゆる小さな物が、それ自体の途方もない性質を持っているように思われました。

そして不思議にも、あらゆるものが私の一部であるように思われたのです。
何一つ私から別個ではありませんでした。
事実、観察者、知覚者としての『私』はいませんでした、もし私の意味することがお分かりいただけるなら。
あの木、あるいは溝の中のあの紙、あるいはお互いに鳴き交している鳥たちから別個に『私』はいませんでした。
それは、私が一度も知らなかった意識の状態でした。

「公園に行く途中に」彼は続けた。
「一軒の花屋があります。
私はそれを何百回となく通り過ぎました。
そして通りすがりによくそれを一瞥(いちべつ)したものです。
しかしこの特別の朝、私はその前に立ち止まりました。
板ガラスの窓は、内側からの熱と湿気で少し霜がついていましたが、しかしこれは、私が多くの種類の花を見る妨げにはなりませんでした。
立ったままそれらを見つめているうちに、私は自分が、これまで一度も味わったことのない喜びで微笑を浮かべ、そして笑っているのが分かりました。
私はそれらの中にいました、そしてそれらは私の一部でした。
こう言うと、私はあなたに、私がヒステリックで、少々気が狂っていたような印象を与えるかもしれませんが、しかしそうではありませんでした。
私は非常に慎重に身つくろいしました。
そして清潔なものを身に着け、自分の腕時計を見つめ、私の服屋の名前をはじめ、店々の名前を見、そして書店の飾り窓の中の木の題名を読んでいることに気づいていました。
あらゆるものが生き生きしていました。
そして私はあらゆるものを愛しました。
私は、これらの花々の香りでしたが、しかし花の臭いをかぐ『私』はいませんでした、もしあなたが私の意味することがお分かりでしたら。
それらと私との間には、何の分離もありませんでした。
その花屋は、異様なほど色彩で息づいていました。
そしてそのすべての美は、ぼーっとさせるものだったに違いありません。
なぜなら時間とその計測がやんでいたからです。
私はそこに、二十分余り立っていたに違いありませんが、しかし請け合って申しますが、そこには時間の感覚はありませんでした。
私はほとんど、これらの花々から私自身を引き離すことができないほどでした。
闘いと、苦痛と悲しみの世界はそこにありましたが、にもかかわらずそれはなかったのです。
つまり、その状態では、言葉は無意味です。
言葉は記述的で、分離的で、比較的ですが、しかしその状態では言葉がありませんでした。
『私』が経験しているのではありませんでした。
その状態、その体験のみがあったのです。
時間はやんでいました。
過去、現在または未来はありませんでした。
あったのはただ――おお、私はどのようにそれを言葉にしたらよいか分かりませんが、しかしそれは問題ではありません。「大いなる存在」があったのです――いや、その言葉ではありません。
それはまるで、大地が、その中そしてその上の一切とともに、祝福の状態にあったかのようでした。
そして私は、公園に向かって歩きながら、その一部でした。
公園に近づくにつれて、私はそれらの馴染みの木々の美によって、完全に魅せられてしまいました。
薄黄色からほとんど黒緑色まで、葉という葉は生き生きと踊っていました。
どの葉も目立っていて、別々でした。
そして大地全体の豊かさが、一枚の葉の中にありました。
私は、自分の心臓が早鐘のように鼓動しているのに気づいていました。
私は、非常に丈夫な心臓の持主ですが、しかし公園に入ったとき、私はほとんど呼吸できないほどでした。
そして私は、自分が気絶しつつつあるように思いました。
私はベンチに坐りました、すると涙が私の頬をころがり落ちました。
全く耐え難いような沈黙がありましたが、しかしその沈黙は、あらゆるものの苦痛と悲しみを洗い清めていました。
私がさらに公園を奥に進むと、空中に音楽がありました。
私は驚きました。
付近には家がありませんでしたので、そして朝のその時刻には、誰も公園にラジオを持ってきはしなかったでしょう。
音楽は、全部の物の一部でした。
一切の精髄、世界の一切の慈悲がその公園にありました、そして神がそこにいたのです。

「私は神学者ではありませんし、またさして宗教的な人間でもありません」と彼は続けた。
「私は、何十回となく教会の中に入ったことがありますが、しかしそれは私にとって、一度も意味を持ったことがありませんでした。
私は、教会の中で進行するすべてのナシセンスを我慢できません。
しかしその公園の中には『存在者』がおりました、そのような言葉を用いてよろしければですが――その中にあらゆるものが生き、そしてその存在を持っているところの。
私の両脚は震えていました。
そして私は、再び坐ることを余儀なくされました、背中を一本の木の方に向けて。
幹は、私と同じように生きた物でした。
そして私は、その木の一部でした。
その『存在者』の一部、世界の一部でした。私は気絶したに違いありません。
それはすべて、私にはあんまりでした。
鮮明な、生き生きした色彩、葉、岩、花、あらゆるものの信じ難い美。
そして一切の上に、・・・の祝福があったのです。

「正気にかえったときには、すでに太陽が昇っていました。
通常、私が公園まで歩くのに約十分位かかりますが、しかしそのときは、家を出てから二時間近くも経っていました。
身体には、歩いて戻るだけの力もないように思われました。
それで私はそこに坐って、力を回復させ、そしてあえて考えないようにしました。
私がゆっくりと家に歩いて戻る間中も、その体験の全部が私とともにありました。
それは二日間続きましたが、訪れたときと同様、突然消え去っていったのです。
それから私の苦悶が始まりました。
私は、一週間、私の事務所に近づきませんでした。
私は、その不思議な体験が再び戻ってくることを望みました。
もう一度そして、氷久にその幸福に輝いた世界に生きることを望んだのです。
このすべては、二年前の出来事でした。
私は、真剣に、すべてを放棄して、世界のどこか人里離れた場所に引っこもうと考えましたが、しかし私は、心の中では、自分はそれをそのようにして取り戻すことはできないと知っているのです。
どんな僧院も私にその体験を与えることはできないですし、ろうそくを点したどのような教会にもできないのです、そこでは死と暗黒、が扱われているだけですから。
私は、インドに行くことも考慮してみましたが、しかしそれをもまた捨てました。
それから私は、ある種の薬物を試みました。
それはものごとをより生き生きとさせたりはしましたが、しかし阿片剤は私の望むものではありません。
それは、安価な体験方法です、それはごまかしでこそあれ、本物ではありません」

「そうしてここに私はおります」と彼は結んだ。
「その世界に再び生きるためなら、私は何もかも、私の命もすべての所有物も投げ出すことでしょう。
どうしたらよいのでしょうか?」

それは、招かれずしてあなたにやってきた。
あなたは決してそれを捜し求めなかった。
あなたがそれを追求しているかぎり、あなたは決してそれを持つことはないだろう。
その恍惚状態に再び生きようとする、まさにその願望が、新たなるもの、至福の新鮮な体験を妨げているのだ。
あなたは、何が起こったかを御存知だ。
あなたはその体験を持たれた。
そして今、あなたは昨日の死んだ夢の記憶とともに生きておられるのだ。
あったものが、新たなるものを妨げているのである。

「あなたはこうおっしゃりたいのですか、私はあったところのすべてを捨て、忘れ去って、内面的に日々飢えながら、私のちっぽけな生を生き続けねばならないと?」

もしあなたが振り返り、そしてもっと多くを求めなければ――それはかなり大仕事だが――そのときにはたぶん、あなたの手の及ばないその当のものが、その欲するがままに働くかもしれない。
貪欲は、崇高なものに対するものであっても、悲嘆のもとになる。
より多くへの衝動は、時間へのドアを開く。
その至福は、いかなる犠牲、いかなる美徳、いかなる薬物をもってしても買い入れることはできない。
それは、報い、結果ではない。
それは、その欲するときにやってくる。
それを追求してはならない。

「しかし、その体験は真実だったのでしょうか、それは至高のものだったのでしょうか?」

われわれは、あったことを他人が確認すること、われわれに確信させてくれることを望み、そしてそれゆえわれわれは、それに隠れ場を見出す。
あったことにおいて確信または安心させられることは、たとえそれが真実であっても、非現実のものを強固にし、そして幻想を生み出すことである。
過去のもの、満足なもの、または苦痛なものを現在へと引きこむことは、真実なるものを妨げることである。
真実は連続性を持たない。
それは刻々であり、永遠にして、測り知れない。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・至福の体験
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

不満の炎

不満の炎

「私は常に求道者でした」と彼女は言った。
「私は、多くの主題についての、多数の本を読み漁りました。
一時カトリック教徒でしたが、しかしその教会を去って別のに入りました。
さらにそれもまた離れて、私はある宗教結社に加わったのです。
私は最近、東洋哲学の本、仏陀の教えについて読んでいました。
さらに、その上、私は自分自身の精神分析をもしてもらいました。
でも、それすらも、私の探求をやめさせませんでした。
そして今、ここでこうしてあなたにお話ししているのです。
マスターを尋ねて、もう少しでインドに行くところでしたが、事情があって行きませんでした」

彼女はさらに続けて、次のように話した。
彼女は結婚していた。
そしてカレッジに通っている二人の利口な子供がいた。
彼女はかれらのことは心配していなかった。
二人とも自分自身の面倒を見ることはできたので。
社会的関心は、もはや何の意味もなかった。
彼女はまじめに瞑想しようと試みていたのだが、しかし無駄だった。
そして彼女の精神は、以前に変わらず気まぐれで、変わりやすかった。

「あなたが瞑想と祈りについておっしゃっていることは、私が読んだり考えたりしてきたこととひどく違うので、私をとても当惑させました」と彼女は付け加えた。
「でも、このすべてのうんざりするような混乱を通じて、私は、真理を見出し、その神秘を理解しようと本当に望んでいるのです」

あなたは、真理を探求することによって自分はそれを見出すだろう、というふうに思われるだろうか?
いわゆる求道者は決して真理を見出すことができないかもしれないのである。
違うだろうか?

あなたは一度も、この、探求しようとする衝動そのものに深く探りを入れたことはないのではないだろうか?
けれどもあなたは探求し続け、あなたが欲しておられるもの、自分で真理と呼んで秘密にしておられるものを見出すことを希求しつつ、あることから別のことへと移り行くのである。

「しかし、自分が望むものを追い求めて何がいけないのですか?
私は常に、自分が望むものを追い求めてきました。
そして大抵私はそれを手に入れてきたのです」

そうかもしれない。
しかしあなたは、お金や絵画を集めるような具合に、真理を集めることができるとお思いだろうか?
あなたは、それは自分の虚栄心の、もう一つの装飾品だと思われるだろうか?
それとも、ほかのものがあるためには、獲得的な精神が全的にやまねばならないのではないだろうか?

「思うに、私はしきりにそれを見出したがりすぎているのです」

少しもそうではない。
あなたは、あなたが熱心に探求なさっているものを見出すことだろうが、しかしそれは真実ではないだろう。

「では、私はどうすることになるのでしょう。
ただ横になって、ぼんやりと暮らすことになるのでしようか?」

あなたは早合点しておられるのではないだろうか?
なぜあなたが探求しているのかを見出すことが重要なのではないだろうか?

「おお、私はなぜ自分が探求しているか知っています。
私は、あらゆるものに、私が見出してきたものにすら、徹底的に不満です。
不満の苦痛は、何度も何度も戻ってきます。
自分は何かをつかんだと思っていても、それはすぐに消え失せ、そしてもう一度不満の苦痛が私を圧倒するのです。
私は、およそ考えられるあらゆるやり方で、それを克服することに努めてきたのですが、しかしどういうわけか、それは私の内側であまりにも強すぎるのです。
ですから私は、私に平和と満足を与えてくれる何か――真理、またはそれが何であれ――を見出さねばならないのです」

あなたは、あなたがこの不満の炎をおおい消すことに成功しなかったことに、感謝すべきなのではないだろうか?
不満を克服することがあなたの問題だったのではないだろうか?
あなたは満足を追求してこられた。
しかし幸いなことに、あなたはそれを見出さなかった。
それを見出すことは、沈滞すること、無為に暮らすことである。

「思うに、このじりじりさせる不満からの逃避、それが真に私の追求しているものなのです」

ほとんどの人々は不満を抱いているのではないだろうか?
しかしかれらは、生の安易なものごとに満足を見出してしまう。
それが登山であれ、あるいは何らかの野心の達成であれ。
不満の落着かなさは、満足のいく成就へと、浅薄に転化されてしまう。
もしわれわれが、自分たちの満足に動揺をきたされると、われわれはすぐに、不満の苦痛を克服するための方法を見出し、それゆえわれわれは表面に生きるに留まり、決して不満の深さを測ることがない。

「不満の表面下まで降りていくには、どうしたらよいのですか?」

あなたの質問は、あなたが依然として不満から逃避することを願っていることを示しているのではないだろうか?
その苦痛から逃避したり、あるいはそれを変えようと努めることなしに、それとともに生きることによって、不満の深さが見抜かれるのである。
われわれが成功しよう、または何かであろうと試みているかぎり、葛藤の苦痛がなければならない。
そしてその苦痛を引き起こしてしまうと、われわれは次に、それから逃避することを欲する。
かくてわれわれは、あらゆる種類の活動へと逃げ込むのだ。
不満と一体であること、不満とともに留まり、そしてその一部であること――満足の常道にそれを押しこめたり、あるいはそれを避けえないものとして認容してしまう観察者なしに――は、反対物、二番目を持たぬものを生まれ出るがままにさせることである。

「あなたのおっしゃっていることについてはいけますが、でも私はあまりにも長年にわたって不満と闘ってきたので、今となっては、私がその一部であることは困難です」

あなたが習慣に対して闘えば闘うほど、それだけ多くの活力をあなたはそれに与えてしまうのである。
習慣は死物である、だからそれと闘ったり、それに逆らったりしないようにしなさい。
しかし、不満の真理の知覚とともに、過去はその意義を喪失することだろう。
知識や、伝統、希望や成就でもって不満の炎をおおい消すことなく、不満のままでいることは、苦痛ではあるが、すばらしいことである。
われわれは、人間の達成にまつわる神秘、教会やジェット機の神秘に夢中になる。
またもや、これは浅薄で、空虚であり、破壊や不幸のもとである。
精神の諸能力を超越した神秘がある。
あなたはそれを捜し出したり、あるいは招き寄せることはできない。
それは、あなたの求めなしにやってこなければならない。
そしてそれとともに、人間にとっての祝福が生まれる。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・不満の炎
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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聞くこと

「私は聞くことの重要性は分かりますが、しかし自分が果たして本当にあなたのおっしゃることを傾聴するかどうかは疑問です」と彼は言った。
「どういうものか、私は、聞くのに非常な努力をしなければならないのです」

あなたが聞く努力をなさるとき、あなたは聞いているだろうか?

まさにその努力自体が、傾聴を妨げる注意散漫なのではないだろうか?
あなたは、あなたに喜びを与えるところの何かを聞くときには、努力なさるだろうか?
然り、この、聞こうとする努力は、一種の強制である。
強制は抵抗ではないだろうか?
そして抵抗はいろいろな問題を生み出し、聞くこともその一つになる。
聞くことそれ自体は、決して問題ではない。

「しかし私にはそうなのです。
私は、あなたのおっしゃっていることは深い意義を持っていると感じるがゆえに、正しく聞きたいのですが、しかし私は、その言葉の上の意味から先には超越できないのです」

言わせていただくなら、あなたは、今、語られつつあることをお関きになっていない。
あなたは、聞くことを問題にしてしまった。
そしてこの問題は、あなたが聞くのを妨げている。
われわれが触れるあらゆるものは、問題になり、ある一つの事柄が他の多くの事柄を生み出すのだ。
これを知覚すれば、問題を少しも生み出さないことは可能なのではないだろうか?

「それはさぞすばらしいことでしょう。
が、しかしいかにして人は、その幸福な状態に至るべきなのでしょうか?」

またもや、「いかにして」という問い、ある一定の状態を達成する仕方、が別の問題になる。
われわれは、問題を生み出さないことについて話している。
指摘させていただくなら、あなたは、精神が問題を作り出していく様に気づかなければならない。
あなたは、完壁な傾聴の状態を達成することを望んでおられる。
言い換えれば、あなたはお聞きになっているのではなく、ある状態を達成することを望んでいるのであって、その、あるいはほかの何らかの状態を得るためには、時間と関心とを必要とする。
時間と関心への必要は、さまざまな問題を生み出す。
あなたは、あなたが聞いていないということを、単純に気づいておられない。
あなたがそれに気づくとき、あなたが聞いていないというまさにその事実が、それ自体の行為をもたらす。
その事実の真理が働くのである。
あなたがその事実に働きかけるのではなく。
しかしあなたはそれに働きかけること、それを変えること、その反対物を培うこと、所望の状態をもたらすこと、等々を欲しておられる。
その事実に働きかけようとするあなたの努力は、問題のもとになるのだが、これに反してその事実の真理は、それ自身の解放行為をもたらす。
あなたの精神が努力、比較、正当化、あるいは非難で、いずれにせよいっぱいであるかぎり、あなたは真理に気づくことはないし、また虚偽を虚偽として見ることはない。

「このすべてはなるほどその通りかもしれませんが、しかし自分自身の内側で進んでいるあらゆる矛盾葛藤のゆえに、私にはなお、聞くことはほとんど不可能であると思われるのです」

聞くことそれ自体が完全な行為である。
聞くというまさにその行為が、それ自身の自由をもたらすのである。
しかしあなたは、本当に聞くこと、または内なる混乱を改めることに関心がおありだろうか?
もしあなたが、あなたの矛盾葛藤に、それらをいかなる特定の思考パターンにも押しこめることなしに気づくという意味でお聞きになるなら、たぶん、それらはそっくりやむかもしれない。

われわれは常に、これまたはそれであろう、特定の状態を達成しよう、ある種の体験を捕え、そしてほかを避けようと努めており、それゆえ精神は、永久に何かでいっぱいになっているのだ。
それは決して、それ自身の苦闘や苦痛の騒音を聞くべく静かであることがない。
どうか単純でありなさい。
そして何かになろうとしたり、あるいは何かの体験を捕えようとしたりなさらぬことだ。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2』 ・・・聞くこと
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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