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言葉

何と奇妙に、われわれは言葉の音に囚われてしまうことか、そしてわれわれにとって、何と言葉が重要になってしまったことか!

国、神、司祭、民主主義、革命。
われわれは、言葉とそれらが生み出す諸々の感覚の喜びをもとにして生きている。
そしてそれほど重要になってしまったのは、これらの感覚なのである。

言葉が満足を与えるのは、それらの音が、忘却されていたさまざまな感覚を再び呼び起こすからである。
そしてそれらの満足は、事実あるもの、あるがままに言葉が取って代わるとき、より一層大きくなる。

われわれは、われわれの内なる空虚を、言葉、音、騒音、活動で満たそうと試みる。
音楽と詠唱は、われわれ自身、われわれの卑小性、そして退屈からの愉快な逃避である。

われわれの書庫は言葉であふれている。
そして、何とひっきりなしに、われわれは話すことか!
われわれは、あえて書物なしでいること、何もしないでいること、一人きりでいることがほとんどない。

われわれが一人きりのときには、精神は落ち着かず、あたりかまわずさまよい、あれこれ心配し、思い出し、努力する。
それゆえそこには決して単独性はなく、精神は決して静かではない。

明らかに精神を、言葉、詠唱、祈りの反復によって静まらせることはできる。
精神は、麻酔させ、眠りこませられる。
それは、心地よく、あるいは手荒く眠りこますことができるのであり、そしてこの眠りの間に夢が現われるかもしれない。

しかし規律や、儀式、反復によって静まらされる精神は、決して機敏で、鋭敏で、そして自由ではありえない。
微妙または粗雑に精神をこのようにさいなむことは、瞑想ではない。

詠唱をすること、そしてそれを上手にできる人に耳傾けることは、快い。
しかし感覚は、よりいっそうの感覚によって生き、そして感覚は幻想に行き着く。

われわれの大部分は幻想に頼って生きることを好み、より深くかつ広い幻想を見出すことに満足する。
しかし、われわれをして現実のもの、事実としてあるものを拒ませ、またはおおい隠させるのは、われわれの諸々の幻想を喪失することへの恐怖である。

われわれが事実としてあるものを理解することができない、というのではない。
われわれを恐れさせる原因は、われわれがありのままの事実を拒絶して、幻想に固執するところにあるのだ。

よりいっそう深く幻想に囚われることは、瞑想ではなく、またわれれれを閉じこめている獄舎を飾り立てることも、瞑想ではない。
いかなる選択もはさませずに幻想の養い手である精神の状態に気づくことが、瞑想の初めである。

われわれがいともたやすく本物の代用品を見出し、そしていかにそれらに満足しているかは、おかしいほどである。
シンボル、言葉、イメージが最も重要になり、そしてこのシンボルの周囲に、われわれは自己欺瞞の構造を築き上げ、知識を用いてそれを強化する。
そしてそれゆえ経験は、本物を理解するうえの妨げになるのである。

われわれは、単に伝達するためだけでなく、経験を強固にするためにも命名する。
この、経験の強化が自意識であり、そしてひとたびその過程に捕えられるや、自意識を去らせること、すなわち超越することは、極めて困難である。

昨日の経験と今日の感覚に対して死ぬことが絶対に必要である。
さもなければ反復が生ずるからである。

そして行為の、儀式の、言葉の反復は、空虚である。
反復には何の再生もありえないのである。
経験の死が、創造である。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・言葉
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

怒り

怒りは、あの独特の孤立性を持っている。
悲嘆同様、それは人を切り放し、そして少なくともしばらくの間は、一切の関係に終止符が打たれる。

怒りは、孤立者の一時的な力と活力とを持っている。
怒りには奇妙な絶望がある。
なぜなら孤立は絶望だからである。
失望の、嫉妬の、傷つけようとする衝動の怒りは、自己正当化をその喜びとする激しい慰藉(いしゃ)を与える。

われわれは他人を非難するが、すると、その非難それ自体が、われわれ自身の正当化なのだ。
独善性、あるいは卑下のそれを問わず、ある種の態度をとらなければ、われわれはどうなるだろうか?
われわれは、自分自身を支持するためにあらゆる手段を用いる。

そして怒りは、憎悪同様、その最も容易な方法である。
単純な怒り、すぐに忘れ去られる突然かっとなる怒りは、それだけのことである。

しかし、故意に蓄積される怒り、ずっとたくらまれ、そして傷つけ、破壊を求めるところの怒りは、全く別のことがらである。
単純な怒りは、調べ、そして治療できる何らかの生理的原因を持っているかもしれない。
しかし、心理的な原因の結果である怒りは、もっとはるかに微妙で、扱いにくい。

われわれの大部分は、怒ることを気にかけず、われわれはその言い訳を見出す。
誰か他人またはわれわれ自身への虐待があるときに、なぜわれわれは怒ってはならないのか?
それゆえわれわれは、当然のこととして怒る。
われわれは決して、自分は怒っているとだけ言い、そしてそこでやめない。
われわれは、その原因についての念入りな釈明に及ぶのである。

われわれは決して、自分は嫉妬している、恨んでいるとただ言うだけにとどまらず、それを正当化したり、または釈明する。
われわれは、嫉妬なくしていかにして愛がありうるかと問うか、あるいは誰か他人の行為がわれわれを恨ませた、等々と言うのである。

怒りを支え、それに範囲と深さとを与えるのは、無言のか、または口に出されたものかの別なく、釈明であり、言語化である。
無言の、ないし口にされた釈明は、あるがままのわれわれ自身の発見に対して楯の役を果たす。
われわれは、賞賛され、あるいはお世辞を言われることを欲し、われわれは何かを期待する。
そしてこれらのことが起こらないと、われわれは失望し、恨んだり、あるいはねたんだりするのだ。

そこで、激しく、または柔らかに、われわれは誰か他人を非難する。
われわれは、自分たちの心痛はその人のせいだ、と言うのである。

私は、私の幸福、私の地位または威信についてあなたに依存しているので、あなたはとても重要な存在だ。
あなたを通じて私は成就する、だからあなたは私にとって大切だ。
私はあなたを守り、あなたを所有しなければならない。
あなたを通じて、私は私自身から逃避する。
そこで私は、私自身に突き戻されると、自分自身の状態を恐れて怒るのである。

怒りは、さまざまな形をとる――失望、怨恨、苦い思い、嫉妬、等々。
怒りの蓄積、すなわち怨恨は、許しという解毒剤を必要とする。
しかし、怒りの蓄積ということの方が、許しよりもはるかに意味するところが深い。
怒りの蓄積がなければ、許しは不必要である。
怨恨があれば、許しは不可欠である。
しかし、無関心の無情さなしに、へつらいから、また侮辱感から自由であることは、慈悲、博愛を促す。

怒りは、意志の行為によって除くことはできない。
なぜなら、意志は、暴力の一部だからである。
意志は、願望、何かであろうとする切望の結果である。
そして願望は、まさにその本性上、攻撃的で、支配的である。
意志の行使によって怒りを押えることは、怒りを別のレベルへと移し、それに別の名前を与えることである。
しかし、それは、依然として暴力の一部なのである。

暴力から自由であるためには――ただし、それは非暴力を養うことではない――願望の理解がなければならない。
願望に取って代わる、霊的な代用物などはない。
それは、押えつけたり、あるいは昇華したりはできないのだ。
願望についての、静かな、かつ無選択な気づきがなければならない。

そして、この受動的な気づきは、願望を名づける経験者なしに、それを直接、刻々に体験することである。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・怒り
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

瞑想

正しい瞑想は、精神の浄化に不可欠である。
なぜなら、精神を空しくせずしては、何の再生もありえないからである。
精神は、絶えざる反復、誤用による摩擦、それを鈍感にし、疲れさせるさまざまな感覚によって衰弱する。
精神の統制は、重要ではない。
大切なことは、精神の諸々の関心を見出すことである。
精神は、互いに葛藤しあう一束の関心であり、そして単にある関心を別のそれに対して強化することが、われわれのいわゆる精神集中、規律の過程である。

規律は抵抗を養うことであり、そして抵抗のあるところには何の理解もない。
規律正しい精神は自由な精神ではない、そして自由においてのみ何らかの発見ができるのだ。

どのようなレベルにあろうとも、自我の運動をあばくためには、自発性がなければならない。
不愉快な発見があるかもしれないが、自我の運動は白日のもとにさらされ、そして理解されねばならない。

しかし規律は、そこにおいて発見が行なわれる自発性を破壊する。
規律は、いかに厳格でも、精神をあるパターンに固定させる。
精神は、訓練された目的に順応するだろうが、しかしその順応の対象は真実ではない。
規律は、単に上からの押しつけ物にすぎず、そしてそれゆえ決して露出の手段ではありえない。

自己規律を通じて、精神はそれ自身を、その目的において強化できる。
しかし、この目的は自己投影されたものであり、そしてそれゆえ、それは真実ではない。
精神は、それ自身のイメージにおいて真実を作り上げ、そして規律は、単にそのイメージに活力を与えるにすぎない。

発見――自我の動きの刻々の発見――においてのみ、喜びがありうる。
自我は、それがどのレベルに置かれていようとも、依然として精神のものである。
精神が思い廻らすことのできるものは、どんなものであれ精神のものである。

精神は、それ自身のものでないものを思い廻らすことはできない。
それは、未知なるものを考えることはできないのだ。
いかなるレベルの自我も、既知なるものである。

そして、表面の精神が気づいていない自我の諸層があるかもしれないが、それらは依然として、既知なるものの領域にある。
自我の運動は、関係の行為において暴露される。
そして、関係があるパターン内に閉じ込められていないとき、それは自己暴露の機会を与えるのである。

関係は自我の行為であり、そしてこの関係を理解するためには、無選択に気づくことが必要である。
なぜなら選ぶことは、ある関心を別のそれに対して強調することだからである。
この気づきは、自我の行為の刻々の体験であり、そしてこの体験状態には、体験者も被体験物もない。
かくして精神は、その蓄積物から空しくされる――そこにはもはや、「私」、蓄積者がいない。

蓄積物、貯えられた諸々の記憶が、「私」にほかならない。
「私」は、蓄積物とは別個の実体ではないのだ。
「私」は、それ自身を保護し、一時性のさなかでそれ自身に永続性を与えるために、それ自身を観察者、番人、監督者として、その特性から分離させる。

完全な、一元的過程の刻々の体験が、精神をその二元性から解放する。
こうして、表面にあるものも揺れているものも合わせて、精神の全過程が体験され、そして理解される――一片ずつ、一つ一つの活動ごとにではなく、その全体において。
そのときには、夢と日々の活動は、常に空しくする過程である。

精神は、受け入れるために、完全に空しくなければならない。
しかし、受け入れるために空しくなろうと切望することは、根深い障害であり、そしてこれもまた、特定のレベルにおいてではなしに、完全に理解されねばならない。
体験への渇望は完全にやまねばならないが、それは、経験者が経験とその記憶でもって、彼自身を養っていないときにのみ起こる。

精神の浄化は、単にその上層のレベルにおいてだけでなく、その隠れた深部でも起こらねばならない。
そしてこれは、名づけ、命名化する過程が終焉するときにのみ起こりうる。
命名化は、単に経験者、永続への願望、詳述し列挙する記憶の特質を強固にし、そして連続性を与えるにすぎない。

命名化についての静かな気づき、そしてそれゆえその理解がなければならない。
われわれは、話し合うためだけでなく、ある体験に連続性と内容を与え、それを蘇生させ、そしてその感覚を反復するためにも命名する。
この命名過程は、精神の表層レベルにおいてだけでなく、その全構造にわたってやまねばならない。
これは、簡単に理解されたり、あるいは軽々しく経験されるものではない困難な課題である。

なぜなら、われわれの意識全体が、経験を命名したり、または名づけ、然る後にそれを貯え、または記録する過程だからである。
幻想の実体である、経験から別個に分離したものとしての経験者に滋養と力とを与えるのは、この過程である。

思考がなければ、思考者はいない。
思考が思考者を生み出し、思考者は、自分に永続性を与えるために、自己自身を分離させる。
なぜなら思考は、常に一時的なものだからである。

全存在―表面ならびに揺れた部分―が過去から浄化されるときに、自由がある。
意志は願望である。
そして、もしも意志の何らかの行為、自由になり、自己自身を裸にしようとする努力があれば、そのときには決して自由、全存在の完全な浄化はありえない。

意識の多数の層のすべてが静謐で、完全に静まりかえっているとき、そのときにのみ、不可測のもの、時間のものでない祝福、創造の再生がある。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・瞑想
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

権威

独占的、私的な知識は、深く得心のゆく満足を与える。
他人が知らない何かを知ることは、満足の絶えざる源泉である。
それは、威信と権威とを与える、より深遠なものごとと接触しているという気持を当人に与えるのである。

あなたは直に触れている、あなたは他人が持っていないものを持っている、そしてそれゆえあなたは重要だ、あなた自身に対してだけでなく、他人に対しても。
他人はあなたを、少々気づかわしげに尊敬する、なぜならかれらは、あなたの持っているものを分けてもらいたいからである。

しかしあなたはより多く知っているので、常に与える。
あなたは指導者であり、権威者だ。
そしてこの地位は容易にやってくる、なぜなら人々は、教えられ、指導されることを欲しているからである。

われわれは、自分が途方にくれ、そして混乱していることに気づけば気づくほど、それだけしきりに指導され、教えられたがるのだ。
それゆえ、国家の名において、宗教の名において、〈マスター〉やあるいは党派の指導者の名において、権威が築き上げられるのである。

事の大小を問わず、権威の崇拝は邪悪であり、それは宗教的なことがらにおいては、よりいっそうそうである。

あなたと真実との間には、何の仲介者もいない。
そしてもしそういう者がいるとすれば、彼は道を誤らせる者であり、離間者である――彼が誰であるか、至高の救い主か、それともあなたの最近の導師または教師であるかは問題ではない。
知っている者は、知らない――彼に知ることができるのは、彼自身の諸々の偏見、彼自身の自己投影した諸々の信念や感覚的要求物だけである。

彼は、真理、不可測なるものを知ることはできない。
地位と権威は、築き上げ、巧みに養うことができるが、謙虚さはそうはできない。
真の廉潔は、自由を与える。
しかし養われた謙虚は、廉潔ではない――それは単なる感覚にすぎず、そしてそれゆえ有害で破壊的である。
それは、何度も何度も破られねばならない束縛なのである。

肝要なことは、誰が〈マスター〉、聖人、指導者かではなく、なぜあなたが従うかを見出すことである。
あなたは、ひとかどの者になり、何かを手に入れ、明晰になるためにのみ従うのだ。
明晰さは、他人からもらい受けることはできない。
混乱は、われわれの内部にある。
われわれがそれを引き起こしたのであり、それゆえ、われわれがそれを一掃しなければならないのである。

われわれは、満足な地位、内面的保障、組織化された信念の階級制度における地位といったものを達成するかもしれない。
しかし、これらはいずれも、葛藤や不幸に行き着く自己閉鎖的活動である。
あなたは、自分の業績に一時的に幸福を感じ、自分の地位は必然的なものであり、それは自分の運命なのだと確信するかもしれない。
しかし、どのレベルであるかを問わず、あなたが何かになろうと欲しているかぎり、必ず不幸や混乱が生まれる。

無としてあることは、否定ではない。
意志の積極的または消極的行為、すなわち研がれ、そして高められた願望は、常に争いや葛藤に行き着く――それは、理解の手段ではない。

権威の樹立とそれへの追従は、理解の否定である。
理解があるときに自由があるのだが、それは買い入れたり、または他人から与えられたりできない。
買って得られるものは失われうる、そして与えられるものは持ち去られうる。
そしてそれゆえ、権威とその恐怖とが生み出されるのである。

恐怖は、慰撫や燭光によって片づけられるようなものではない――それは、何かになろうとする願望の停止とともに終わる。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・権威
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

ラジオと音楽

ラジオ音楽が驚嘆すべき逃避であることは、明らかである。
隣家では、家人たちが、一日中それをかけ続け、そしてさらに夜間にまで及んだ。
父親は、かなり早い時刻に彼の事務所に出かけた。
母親と娘は、家の中、または庭で働いていた。
そして二人が庭で働いていたときには、ラジオはより高々と鳴り響いた。
様子からして、息子もまた音楽とコマーシャルを楽しんでいるようだった。
というのは、彼が在宅中は、ちょうど同じようにラジオがかかりっ放しになっていたからである。
ラジオによって、クラシックからごく最近のものまで、あらゆる種類の音楽を、延々と果てしなく聞くことができる。
人は、奇跡劇や、ニュースをはじめ、ひっきりなしに放送され続けるあらゆるものを聞くことができる。
ラジオが、あなたのためにほとんど何でもしてくれるから、何の会話も、何の思考のやりとりも不要である。
聞くところによると、ラジオは学生の勉強の助けになり、そして搾乳時に雌牛に音楽を聞かせると、乳の出が促進されるという。

――――

こうしたことすべてについて奇妙に思われる部分は、
ラジオは、われわれの生の成行きをほとんど変更しない、ということである。
それは、あるものごとをわずかばかり便利にするかもしれない。
われわれは、世界のニュースをより迅速に得、そして殺人事件がごく生々しく解説されるのを聞くことはできるかもしれない。

しかし情報は、われわれを聡明にしてはいない。
原子爆弾投下の惨事、国際的諸同盟、クロロフィルの研究等々に関する情報の薄い層は、われわれの生に何ら根本的な相違を生んではいないようである。

われわれは相も変わらず戦争のことに熱心であり、われわれはどこか他の人々の集団を憎悪し、われわれはこの政治的指導者を軽蔑して、あの指導者を支持し、われわれは組織宗教にだまされ、われわれは国家主義的であり、そしてわれわれの不幸は続いていく。

そしてわれわれは諸々の逃避に余念がなく、それは体裁が良く、組織化されていればいるほどよいというわけである。
集団的に逃避することは、最高度の安全保障である。

あるがままに直面すれば、われわれはそれについて何かすることができる。
しかし、あるままから逃げ去ることは、いやおうなしにわれわれを愚鈍にし、感覚と混乱の奴隷にさせてしまうのだ。

音楽は、非常に微妙な仕方で、われわれに、あるがままからの楽しい解放を与えてくれるのではないだろうか?
良い音楽は、われわれをわれわれ自身から、われわれの日々の悲嘆、卑小性、そして心配ごとから運び去ってくれる。
それは、われわれをして忘れ去らせてくれる。
あるいはまた、それはわれわれに、生に直面する力を与えてくれる。
それはわれわれを鼓舞し、元気づけ、そしてなだめてくれる。

それは、われわれ自身のことを忘れる手段として、あるいは鼓舞の源泉としてであれ、いずれにせよ必要物になる。

美への依存と醜の回避は、断たれてしまうと激しい苦悶の種になる逃避である。
美がわれわれの幸福にとって必要になると、そのときには刻々の体験はやみ、そして感覚が始まる。

刻々の体験の瞬間は、感覚の追求とは全く相違したものである。
刻々の体験においては、経験者とその諸々の感覚についての気づきはない。
刻々の体験が終わると、その後に経験者の諸々の感覚が始まる。
そして経験者が要求し、追い求めるのは、これらの感覚なのである。
感覚が必要物になると、そのときには、音楽、川、絵画といったものはよりいっそうの感覚への手段にすぎない。
刻々の体験ではなく感覚が、最も優勢になる。
体験を反復しようとする切望は、感覚への要求である。
そして、感覚が反復できる間は、刻々の体験はありえない。

われわれをして音楽に固執させ、美を所有させるのは、感覚への願望である。
外面的な線や形状ヘの依存は、われわれが音楽、芸術、意識的な沈黙といったもので満たそうとする、われわれ自身の存在の空しさを示しているにすぎない。

あるがままのもの、ありのままのわれわれへの果てしない恐怖があるのは、この恒常不変の虚無が、諸々の感覚で満たされたり、あるいはおおい隠されるからである。
感覚は始めと終りを持っており、反復し、そして拡大することができる。

しかし、刻々の体験は、時間の領域にはない。
ぜひとも必要なことは刻々の体験なのだが、それは感覚の追求においては否定されてしまう。
感覚は限定されており、個人的であり、それらは葛藤や不幸を引き起こす。

しかし、経験の反復とは全く違うものである刻々の体験は、連続性がない。
刻々の体験のうちにのみ、再生、変容がある。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・ラジオと音楽
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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反復と感覚

われわれの精神は、あまりにも多くの知識を詰めこまれているので、直接に体験することはほとんど不可能である。
快や苦の体験は直接であり、そして個人的である。
しかしその体験の理解は、他人の、宗教的そして社会的権威のパターンに従って行なわれるのだ。

われわれは、諸々の思考および他人のさまざまな影響の結果である。
われわれは、宗教的ならびに政治的プロパガンダによって、条件づけられている。
寺院、教会およびモスクは、われわれの生において、奇妙な、漠(ばく)とした影響力を持っており、そして政治的イデオロギーは、われわれの思考に見かけの内容を与える。

われわれは、プロパガンダによって作り上げられ、そして滅ぼされる。
組織宗教は第一級の宣伝者であり、説き伏せ、そして然る後に掌握するために、ありとあらゆる手段を用いる。

われわれは混乱した反応の固まりであり、そしてわれわれの中心は、約束された未来と同じ位不安定である。

単なる言葉が、われわれにとっては途方もない意義を持っている。
それらは、神経学的な効果――そのさまざまな感覚の方が、シンボルを超越したもの以上に重要であるところの――を持っているのだ。
シンボル、イメージ、旗、音といったものが、最も重要になる――真実ではなく、代用物がわれわれの力なのである。

われわれは他人の経験についての本を読み、われわれは他人が演ずるのを見つめ、われわれは他人の例に倣い、われわれは他人の言を引用する。
われわれは、自分自身の内部が空しいので、この空しさを言葉や感覚、希望や想像で満たそうと努める。
しかし、空しさは続いていく。

反復は、そのさまざまな感覚とともに、いかに心地良くて気高くとも、刻々の体験状態ではない。
儀式、言葉、祈りの一定の反復は、立派な名を与えられる満足のいく感覚である。
しかし刻々の体験は、感覚ではなく、そして感覚的反応は、すぐにありのままの事実に場所を譲る。
事実としてあるもの、あるがままは、単なる感覚によっては理解できない。

五感は、限られた役割を果たす。
しかし理解、または刻々の体験は、五感を超越している。
感覚は、刻々の体験がやむときにのみ重要になる――そのときには、言葉が重要になり、そしてシンボルが優位を占める。
こうして、蓄音機が魅惑的なものになる。

刻々の体験は、連続するものではない。
なぜなら、連続性を持つものは、どんなレベルでも、感覚であるからだ。
感覚の反復は、新鮮な体験のような見せかけを与えるが、感覚は決して新たではありえない。
新たなるものの発見は、反復的な感覚の中にはない。

新たなるものは、刻々の体験があるときにのみ出現する。
そして刻々の体験は、感覚の衝動と追求がやんだときにのみ可能となるのである。

経験の反復への願望は、感覚の束縛的性質であり、そして記憶の強化は感覚の拡大である。
あなた自身のものであれ、あるいは誰か他人のものであれ、経験の反復への願望は、鈍感さ、死へと行き着く。

真理の反復は、虚偽である。
真理は、反復できない。
それは、宣布したり、あるいは利用したりはできないのだ。
利用され、そして反復されうるものは、それ自体に何の生命も持っておらず、それは機械的で、静止的である。

死物は利用できる。
しかし真理は利用できない。
あなたは、まず真理の息の根を止め、そして否定し、然る後にそれを利用するかもしれない。
しかしそれは、もはや真理ではない。

宣伝者たちは、刻々の体験には関心がない――かれらは、宗教的、政治的、あるいは社会的、個人的な感覚の組織化に関心があるのだ。
宗教的、あるいは世俗的な宣伝者は、真理の語り手ではありえない。

刻々の体験は、感覚への願望がないときにのみ生まれうる。
名づける過程、名称化はやまねばならない。
言語化がなければ、思考過程はない。
そして言語化に捕えられることは願望の幻想の虜(とりこ)になることなのである。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・反復と感覚
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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個人と社会

個人対社会の関係とは、いかなるものなのか?
明らかに社会が個人のために存在するのであって、その逆ではない。

社会は、人間の結実のためにある。
それは、個人に自由を与えることによって、彼が最高度の英知を目覚めさせる機会を持つことができるようにするためにあるのだ。

この英知は、技術または知識の単なる養成ではない――それは、表面的な精神のものではない、あの創造的な真実に触れることである。
英知は、蓄積の結果ではなく、前進的な成就や成功から自由なことである。英知は、決して静止していない。

それは、模倣されたり、標準化されることはできず、そしてそれゆえ教示されることはできないのである。
英知は、自由において見出されるべきものなのだ。

集団的な意志とその行動、すなわち社会は、そのような自由を個人に与えない。
なぜなら、社会は有機的ではないので、常に静的だからである。
社会は、人間の便宜のために構築され、まとめ上げられている。
それは、それ自身の独立したメカニズムは何も持ってはいないのである。

人間が、それぞれの心理状態に応じて社会を捕え、それを導き、あるいはそれに暴威をふるうことはあるかもしれないが、社会は人間の支配者ではない。
それは、人間に影響は与えるかもしれないが、彼は常に社会を圧倒してしまうのである。

人間と社会の間に葛藤があるのは、人間が自分自身の内部で葛藤を起こしているからである。
そして葛藤は、静的なものと生動しているものとの間にあるのだ。
社会は、人間の外部的な表現である。
彼自身と社会との間の葛藤は、彼自身の内部の葛藤なのである。

この、内部と外部の葛藤は、最高度の英知が覚醒されないかぎり、常に存在することであろう。

われわれは、個人であると同時に社会的存在である。
われわれは、人間であると同時に市民であり、悲嘆や快楽の中を別々に歩みつつ、何かになりつつある存在なのである。

平和があるためには、われわれは人間と市民との間の正しい関係を理解しなければならない。
もちろん国家は、われわれが完全に市民であることを望んでいる。
しかしそれは、為政者側の愚かしさである。
われわれ自身は、人間を市民に譲渡することを欲している。
なぜなら市民であることは、人間であることよりも容易だからである。

善き市民であることは、任意の社会の範型の内部で、能率よく機能することである。
能率と順応は、市民を強固にし、無情にするので、彼はこれらを要求される。
そしてそうなれば、彼は、市民のために人間を犠牲にすることができるわけだ。

善き市民は、必ずしも善き人間ではない。
しかし善き人間は、必ず――特定の社会や国のものでない――正しい市民である。
彼は何よりも先ず善き人間だから、彼の行為は反社会的ではなく、彼は他の人間に対立したりはしないだろう。
彼は、他の善き人間たちと協力し合って生きることだろう。

彼は何の権威も持たないから、権威を追い求めたりはしないだろう。
彼は、冷酷になることなく、能率的に働くことができるだろう。

市民は、人間を犠牲にしようと企てる。
しかし至高の英知を捜し出しつつある人間は、当然ながら市民の愚行を避けるだろう。
それゆえ国家は、善き人間、英知の持主に反対するだろう。
しかしかくのごとき人間は、あらゆる政府や国から自由なのである。

英知の持主は、善い社会を生み出すだろう。
しかし善良な市民は、人間が至高の英知の持主でいられるような社会を生み出すことはできないだろう。
市民が優勢であるかぎり、市民と人間との間の葛藤は避けられない。
そして、故意に人間を無視するような社会はいずれも、やがて崩壊する。

人間の心理的過程が理解されるときに初めて、市民と人間の間に和解が生まれる。
国家、現在の社会は、内部の人間にではなく、外部の人間、市民にのみこだわっている。
それは、内部の人間を拒絶するかもしれないが、彼は常に外部の人間に打ち勝って、市民のために巧妙に仕組まれたあらゆる計画を破壊してしまうのである。

国家は、未来のために現在を犠牲にし、未来のために常に自己防御している。
それは、現在ではなく未来を最も重要とみなすのである。

しかし英知の持主にとっては、現在が、明日ではなく今が、至高の重要性を持っている。
あるがままは、明日が消え去ることによって初めて理解されうるのである。
あるがままを理解することが、直接の現在に変容をもたらす。

いかにして市民と人間とを和解させるかではなく、この変容こそが、至高の重要性を持つものなのである。
この変容が起こるとき、人間と市民の間の高藤は消えてなくなる。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・個人と社会
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

既知なるものと未知なるもの

不可測なるものが、あなたや私によって見出されうるだろうか?
時間のものでないものが、時間からできているものによって捜し出せるだろうか?
規律や苦行の刻苦精励が、われわれを未知なるものに導きうるだろうか?
初めも終わりも持たないものに至る手段があるのだろうか?
あの真実が、われわれの願望の網に捕えられるだろうか?

われわれが捕えうるのは、既知なるものの投影物である。

しかし未知なるものは、既知なるものによっては捕えられないのである。
名づけられるものは、名づけがたきものではなく、そして名づけることによって、われわれは条件づけられた反応を目覚めさせるだけなのだ。

これらの反応は、いかに気高くそして心地良いものでも、真なるものではない。
われわれは、刺激物に反応するが、しかし真実は何の刺激も与えはしない――それは、それ自体としてある。

精神は既知なるものから既知なるものへと動くのであって、それゆえそれは未知なるものに貫入することはできない。
あなたは、あなたが知らないものを考えることはできない――それは不可能だ。

あなたが思い廻らすものは、既知なるもの、過去――遠くても、あるいはたった今過ぎ去った一秒前でも――からやってくる。
この過去は数多くの影響によって形成され、そして条件づけられ、諸々の環境や圧力に従ってそれ自身を修正するが、しかし常に時間の過程のままである思考なのである。

思考には否定したり主張したりすることができるだけで、それは、新たなるものを発見したり、捜し出したりすることはできない。
思考は、新たなるものに出会うことはできない。
しかし思考が沈黙しているときには、新たなるものがありうるが、それもまた思考によってたちどころに、古いもの、経験物へと変容させられてしまうのである。

思考は常に、経験のパターンに従って、形成し、修正し、色つけている。
思考の役割は、話し合い、伝え合うことであって、刻々の体験状態にあることではない。

刻々の体験が終わると思考が引き継ぎ、そしてそれを既知なるものの範疇で名づけるのである。
思考は未知なるものを貫通できず、そしてそれゆえ、それは決して真実を発見したり、または直接体験できないのである。

規律、断念、無執着、儀式、美徳の実践――これらはいずれも、いかに気高くとも、思考の過程である。

そして思考は、常に既知なるものである目的に、成就に向かってだけ働くことができる。
成就は防護であり、既知なるものの自己防衛的な確実さである。

名なきものに保護を求めることは、それの否定である。
見出しうる保護は、過去、既知なるものの投影物の内にあるにすぎない。

このゆえに精神は、完全かつ深く沈黙しなければならないのだ。
しかしこの沈黙は、犠牲、昇華、あるいは抑圧を通じて得られるものではない。
この沈黙は、精神がもはや求めておらず、もはやなりゆく過程に囚われていないときに生ずる。

この沈黙は蓄積されるものではなく、それは修行によって築き上げられるものではない。
この沈黙は、永遠なるものと同様に、精神にとっては未知なるものでなければならない。

なぜなら、もしも精神が沈黙を経験するとすれば、そこには、過去の経験の結果であり、過去の何らかの沈黙を認識している経験者がいるからだ。
そして経験者によって経験されるものは、自己投影された反復にすぎないのである。

精神は、決して新たなるものを経験できない。
そしてそれゆえに、精神は、完全に静まらねばならないのである。

精神は、それが経験していないとき、すなわち、それが名づけたり、記録したり、記憶の中に貯えたりしていないときにのみ、静かにしていることができる。
この名づけ、記録する行為は、単に上層の精神のみならず、意識のさまざまな層の不断の過程なのである。

しかし表層の精神が静まっているときには、より深層の精神が、その暗示を出すことができる。
意識全体が沈黙し、静まりかえり、一切のなりゆく過程が消え、自然のままであるとき、そのときにのみ、不可測なるものが現われるのである。

この自由を維持しようとする願望は、なりゆく者の記憶に連続性を与え、真実の障害になる。
真実は、連続性を持たない。
それは、刻々にあり、常に新たで、常に新鮮なのである。
連続性を持つものは、決して創造的ではありえない。

上層の精神は、話し合い、伝え合うための手段にすぎず、それは、不可測なるものを測ることはできない。
真実は語られざるものであり、それゆえ語られるときには、それはもはや真実ではない。
これが、瞑想である。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・既知なるものと未知なるもの
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

眠り

もしもわれわれが睡眠を断たれたら、一体どういうことになるだろうか?

闘い、陰謀を企て、そして不和の種をまく時間がもっと増えるのだろうか?
われわれは、よりいっそう残忍で冷酷になるのだろうか?
謙虚さ、共感、そして節約のための時間がもっと増えるのだろうか?
われわれは、もっと創造的になるのだろうか?

眠りは不思議なものであるが、しかし途方もなく重要である。

大部分の人間にとって、日中のさまざまな活動は、夜間のまどろみの間中継続していく。
かれらの睡眠は、退屈または刺激的なかれらの生の持続であり、同じ無味乾燥または無意味な争いの、異なったレベルでの延長なのである。

肉体は、睡眠によって元気を回復する。
それ自身の生を持つ内部の有機体が、それ自身を回復させるのである。
眠りの間、願望は活動をやめており、そしてそれゆえ有機体に干渉しない。
しかし肉体の回復とともに、願望の諸活動は、刺激と拡張のよりいっそうの機会を持つのである。

明らかに、人が内部の有機体に干渉しなければしないほどよい。
精神が有機体を預かることが少なければ少ないほど、それだけその機能は健全かつ自然なのである。
しかし、精神または有機体自身の弱さによって生み出される、有機体の病気は、別のことがらである。

眠りは、重大な意味を持っている。
願望が強められれば強められるほど、それだけ眠りは無意味になる。
願望は、積極的でも消極的でも、根本的には常に積極的なものであり、そして眠りは、この積極的なものの、一時的な休止なのである。

眠りは、願望の反対物ではない。
眠りは否定ではなく、願望が貫通できない一状態なのである。

睡眠中に意識の表層部の鎮静化が起こり、そしてそのため、これら表層はより深層部の暗示を受け取ることができるようになる。

しかしこれは、問題全体の部分的な理解であるにすぎない。
明らかに、目覚めている時間中、そしてさらに眠っている間も、意識のすべての層が、お互いに連絡し合うことが可能である――そしてもちろん、これは欠くべからざることである。

この交信は、精神をそれ自身の自尊心から解放し、そしてそれゆえ精神は支配的要素ではなくなる。
こうして精神は、自由かつ自然に、その自己閉鎖的な努力および活動をなくするのである。
何かになろうとする衝動は完全に溶解され、蓄積的慣性はもはや存在しなくなる。

しかし睡眠中には、何かそれ以上のことが起こる。
そこには、われわれの諸問題への答えが見出されるのだ。

意識的精神が静かなとき、それは答えを受け取ることができるのである。
これは、ごく単純なことだ。

しかし、これらすべてよりもさらにもっと意味深く、重要なことは、養成物ではない蘇生である。
人は、意識的に才能や能力を養ったり、あるいは技術や行為、行動様式を育てることはできる――しかし、これは蘇生ではない。
養成は、創造ではない。
もしも、何かになりつつある者の側に、何らかの努力があるかぎり、この創造的蘇生は起こらない。
精神は、自発的に、一切の蓄積衝動、よりいっそうの経験と成就への手段としての経験の蓄積をなくさなければならない。

時間の曲線を生み出し、創造的蘇生を妨げるのは、蓄積的、自己防衛的衝動なのである。

われわれが知っているものとしての意識は時間のものであり、それは、そのさまざまなレベルで経験を記録し、貯える過程なのである。
この意識内で起こるものは、いかなるものであっても、それ自身の投影物である――それは、それ自身の性質を備えており、そして測定できるものなのだ。

睡眠中には、この意識が強められるか、あるいは何か全く違ったことが起こる。
われわれの大部分にとって、眠りは経験を強固にする。
それは、膨張はあるが蘇生はない、記録と蓄積の過程なのである。
膨張性は、高揚感、算入的な成就感、理解したのだ、等々の気持を抱かせる。

しかし、これらはどれも、創造的な蘇生ではない。
この、何かになるという過程は、全的に終わらねばならない――よりいっそうの経験への手段としてではなく、それ自身の終駕として。

睡眠中、およびしばしば目覚めている時間に、なりゆく過程が完全にやみ、因果に終止符が打たれたとき、そのとき、時間を超越したもの、因果の尺度を超越したものが現われる。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・眠り
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

心の単純さ

心の単純さは、所有の単純さよりも、はるかに大きな重要性と意味とを持っている。

わずかな物で足りることは、比較的容易なことがらである。
安楽を断念したり、あるいは喫煙やその他の習慣をやめることは、心の単純さを示すものではない。
服装、安楽な生活用品、娯楽といったものに馴染んだ世の中で腰布をまとうことは、自由な存在を表わすものではない。

世俗とそのならわしを放棄したある人物がいたが、彼の心は、願望と情欲に燃えていた。
彼は僧衣をまとっていたが、平和を知ることはなかった。
彼の目は、果てしもなく求め続け、そして彼の精神は、自らの疑惑と希望によって千々に引き裂かれていた。

外面的に、あなたは修行し、断念し、そして一歩一歩目的に到達するまでの自分の道筋を図面に記す。
徳の基準に従って、あなたは自分の成就の進み具合を測定する――これまたはあれをどれだけ放棄したか、自分の行動においてどの程度自制できているか、どのくらい寛容で、親切になっているか、等々。

あなたは、精神集中の術を習得した。
そこで、森や、修道院、あるいは薄暗くされた部屋に引き寵って瞑想する。
あなたは、祈りと注視に明け暮れるわけである。
外面的に、あなたはあなたの生を単純にしたのであり、そしてこの慎重にして計画的な準備によって、あなたは、この世のものでない祝福に到達することを願うのである。

しかし、真理は、外部的な統御や認可によって到達されるものだろうか?
外面的な単純さ、安楽の放棄は、明らかに必要ではあるが、このような意志表示が、真実へのドアを開くだろうか?

安楽や成功でいっぱいになることは、精神と心の重荷になる。
旅をするには、自由でなければならない。

しかし、なぜわれわれは、そのような外面的な意志表示にこだわるのだろうか?
なぜわれわれは、こうも熱心に、断固として、自分の意図に外面的な表現を与えようとするのだろうか?

それは、自己欺瞞や、あるいは他人の意見や批評への恐怖なのだろうか?

なぜわれわれは、自分の誠実さを自分自身に納得させたがるのだろうか?

このような問題はすべて、何かになりつつある過程での自分自身の偉大さを確信し、自分自身に納得させたいという願望にあるのではないだろうか?

何かであろうとする願望が、複雑さの始まりである。
内面的、外面的に何かであろうとする果てしのない願望に駆られて、われわれは蓄積あるいは放棄し、修養あるいは拒絶する。
時があらゆるものを奪い去るのを見て、われわれは永遠なるものにすがりつく。
執着または無執着を通じて、積極的または消極的に何かになろうとするこの努力は、いかなる外面的意志表示によっても、あるいは規律や修行によっても、決して解決できないのである。

しかし、この努力を理解することが、自然に、かつ自発的に、さまざまな葛藤を伴う外部的および内部的蓄積からの自由をもたらすことだろう。
真実は、無執着によって到達されるものではない――それは、いかなる手段によっても到達されえないのである。

すべての手段と目的は一種の執着であり、そしてそれらは、真実があるためには消えてなくならねばならない。


『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1』 ・・・心の単純さ
    (J.クリシュナムルティ 著)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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