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人間・二元

人間・二元

神の火花の聖霊である

私たちは

人間(にんげん)に化身しました



二元(にげん)を体験することで

親である神を識(し)るために



神は

私たちの二元体験を通して

自らを識るのです



私たちにとって、当初、それは歓びに溢れた旅でした

つまり

私たちの旅は

神にとっての大きな歓びでした



でも

人間は次第に

二元の深い沼に嵌(は)まり込み

二元そのものに拘泥(こうでい)するようになり

「ただ体験する」という歓びから離れてしまうようになりました



人間は二元に振り回されるようになってしまったのです



かつては

誰もが

魂に 感情を刻印すれば

それで人間としての旅は

終わっていたのに



感情をコントロールし

封印し

追い求めるという

終わりのない迷路に入っていったのです
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

輪廻転生

愛が、この物質の天界を探検する意識の誕生を可能にした。

だが、残念なことに、いくつかの感情的な出来事が起こり、その動きが止まってしまった。
そして、誰もが成長することをやめ、輪廻転生が始まった。

というのも、われわれは肉体を使い古してしまうものの、課題は達成されていないからだ。
肉体的な運動不足によってではなく、精神的な運動不足によって、われわれは感情的に肉体を使い古してしまう。
われわれは肉体を使い古し、肉体は死ぬ。

だが、われわれは依然として同じプログラムを抱えており、われわれは新しい体を必要とする。
そして、次の体もあっという間に使い果たし、その体も死んでしまう。
そして、われわれはまだ同じプログラムを抱えているのだ。

これはひとつの小さな体にすぎない。
あなたはひとつの体にすぎない。
あなたの変質した自我が何と言おうと、あなたは束の間の存在なのだ。
自分はそうではないとあなたが思っているなら、あなたは何もわかっていない。

違うのだ。
マインドが肉体を使い古してしまうのだ。
あなたがどんなにたくさん運動をしていようと関係ない。
あなたは無知な愚か者だ。
それは答えではない。
このことはもはや言うまでもないことだ。

違うのだ。
あなた方全員が、「愛」すなわち「偉大なる泉」、「偉大なるエリクサー」を望んでいる。
その魔法の瞬間を体験するために、われわれがいくつもの人生を費やし、たった一時間のために何度も人生を生きてきたというのは本当のことだ。

愛はそれほど強力な「ハイ」であり、それは究極のオーガズムである。
自分自身を愛することが、この探求の始まりである。

―――――――――

愛はそれ自体の美しさを持っている。
肉体のある部分が美しさを生み出すわけではない。

魂とスピリットが美しさを作り出すのだ。
自分の腰、自分の精子、自分の卵子から生まれた子供を持つということ、つまり自分自身から生まれた、生きていて呼吸をする、転生してきたひとりのスピリットを持つということは、ひとつの奇跡である。

自分の子供の写真写りが悪いとか、ももが太すぎるとか、顔が細長すぎるとか、髪の毛がないとか、髪の毛が多すぎるといった理由で、自分の子供を愛さない人間がいるだろうか?

もしあなたがそうしたことがあるなら、自分を恥じなさい。
あなたはその報いを受けることになり、あなたは次の人生で、自分が価値判断を下した子供のような人間になるのだ。

これは本当のことだ。
なぜだろうか?

それは、この人生であなたが不快に思い、密かに嫌がり続けたものが、あなたの次の転生の神殿と基盤を構築することになるからだ。
これは断言できるが、転生の仕組みはそのようになっているのだ。

愛はあなたの口に入っていくものではない。
愛は、あなたが食べられる食べ物の量とは関係ない。
それは、あなたが行うセックスの量とも関係ない。
あなたがどれくらい格好いいかということとも関係がない。
どれくらい財産を持っているかということとも関係がない。
それらはすべて無駄なものだ。
それらはすべてゴミくずに変わってしまう。

真実を言うことによって失うものは、良い人間関係であり、銀行預金であり、新しいトラックであり、新しい車であり、庭である。
真実を言うことはそれなりの結果を伴うが、量子の世界で起こることに比べれば、それらはまったく大したものではない。

つまり、自分が隠して抑圧するものに、われわれはなる運命にあるということだ。
そして、次の転生はまさに、自分が隠していたものに基づいて構築されるのである。

長い間、あなたはこの体の中に生きてきたが、自分が偉大な人生を生きたこともあれば、本当にひどい、極悪非道な、他人を食い物にするような人生を生きたこともあるということを、知っていただろうか?

ある人生では極めて偉大だったにもかかわらず、どうして次の人生ではそのようなひどい人間になったのか?
それは、その人生で偉大になるという行為が、たくさんの事柄を抑圧するという犠牲を伴った行為だったからだ。

これはちょうど、狡猾な政治家が行うことと同じだ。
そして次の人生では、あなたはその抑圧されたものになるが、それはあまり格好のいいものではない。

輪廻転生なるものは、叡智という結論に到達することを望みながら、使い尽くすことのできる人生を手に入れ続ける必要性にすぎない。
そう、あなたはこのことを聞いたことがない。
まあ、そんなところだろう。

おそらくあなたは、私が去ってから何年も経過するまで、このことを理解できないだろう。
そのときになってはじめて、
「なんてことだ、どうして自分はあのときにわからなかったのだろうか?」
と言うのである。

あなたは理解したくなかったのだ。
つまり、自分は単にドラマを演じ続けている機械であり、シェイクスピアの劇の中にいるよりも多くの衣装を身に着けるということを。
あなたは体を使い果たしてしまうが、マインドはずっと存続するのだ。


『愛という名のエリクサー』
  (ラムサ 著、アピアランス工房 刊)
 ・・・掲載に際して一部の文章を変更・割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

私は何なのか~映画のスクリーン

いのちを本当に感じたいのでしたら、目覚める方法を見つける必要があります。
本当の”いのち”が感じられるのは、「いま」この瞬間だけです。

罪の意識を捨て去るための最後の方法について話しましょう。
罪の意識が頭をもたげてきたら、一歩下がって、
誰がこの罪の意識を感じているのか、
誰が不安を感じているのか、と問うのです。

そしてその答えを待ちます。
自分の本当の姿のなかに浸りきって、そこから行動するとき、生きることの喜びが生まれます。

「私とは何なのか」
という問いは、見せかけの世界から一歩離れることに、あなたの意識を向けさせてくれます。
限られた思考力を使って自分を定義づける面倒から、逃れることができます。

「ただあること」の次元まで降りることです。
あなたは、いま現象界にいる絶対的で完全な目覚めた意識です。
ですから、リラックスして楽しんでください。
安心して現象界を体験してください。

私たちがあなた方に頼んでいるのは、それだけです。
自分が何なのかを実感することができたら、自分が潔白であることがわかります。
あなたの頭は自分を批判するでしょうが、あなたのなかの「私」は何も批判しません。

どうか自分の人生の一瞬一瞬にいてください。
人生を感じ、自分が何を考えているのかとか、自分が何を感じているのかをつねに知り、そして、誰が行動しているのかに注意を払ってください。

あなたは自分が何なのかがわかっていないのです。
あなたが自分を定養するのに使っている言葉は、あなたが肉体を離れたとたんに、意味のないものになるのです。
自分は誰なのかという評価の基準は、死とともにすべて消えてなくなります。

人々は自分を、特定の肉体と精神と感情をもった自己としてしか見てこなかったので、死んだときに思考が混乱するのです。
そして、そうしたものを失ってしまったときにやっと、「私は何なのか」と問いかけるのです。

いま、その質問をしてください。
そして、自分が純粋な目覚めた意識を持つ”光”であることを悟ってください。

それは完全なる”愛”として、自分や人を無条件に受け入れることとして体験されます。
それ以外のものはすべて、映画のスクリーンに映る映像のようなものです。

映像は入れ替わりますが、スクリーンは同じままです。
地獄の炎の映像が映っていても、スクリーンは焼かれません。
「神意識」やキリストや釈迦牟尼(しゃかむに)の映像が映っても、それらがスクリーンを変えることはありません。

スクリーンは永遠であり、不変であり、実在するものです。
あらゆる映像がスクリーンに映し出されますが、スクリーンは変わりません。

ですから、あなたの「存在」というこの永遠のスクリーンこそが、自分なのだということをわかってください。
それがあなたに心の平安を与えます。
そうすると、あなたは一瞬一瞬に完全にリラックスできるようになり、”いのち”を完全に受け入れることができるようになります。

『バーソロミュー 2 ~大いなる叡智が語る神への覚醒(めざめ)』
  (バーソロミュー 著、マホロバアート 刊)
 ・・・掲載に際して一部の文章を変更・割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

魂の魁(さきがけ)

許しと全肯定

私が皆さんにどうしても知っていただきたかったことは、これでほぼ語りおえた。
しかし、これだけでは、まだ皆さんの中に、多くの疑問が残ったままだろう。
残るひとつの章では、いくつかの角度から、「生きる」ということについて、私が知りえたこと、感じたことを書いていくことにしたい。
もちろん、これから述べる考えが絶対だと言うつもりはない。

私は、前に、悟りもひとつの状態にすぎないと書いた。
ひとつ悟ったら、もう十分というものではない。
ひとつ悟ったところから、何十何百という悟りの世界が開けてくる。
なんでもいいからひとつ悟ることは、この無限に深化する悟りの世界に参入するための許可証をようやく手に入れたということにすぎない。

すべてはそこから始まるのだ。
その意味で、私はまだまだ自分がこれからの人間だということを承知している。
悟りの空間で私という人間を深化させ、魂を磨き、創造力の回路を賦活(ふかつ)し、ごくわずかでもいいから新界の創造に参加し、あわせて自分を生かし切るという欲張った計画を、私は持っている。

私は欲を否定しない。
欲は、欲という名で呼ばれるエネルギーだからだ。
百馬力のエネルギーを使えるのに、びくびくして一馬力ぐらいしか使わずにエンストを起こすような人生を、私は送るつもりはない。

だからこの先、私という人間がどうなっていくのかは、私自身にもわからない。
これから書く意見が、もっと深化したり、変わったりすることがあるかもしれない。
今の私は、今の私のレベルでしか書けないし、考えられない。
どうかそのつもりで読んでいただきたい。
その上で、皆さんが魂を発見する際のお役に立てたなら、これ以上の喜びはない。

さて、「生きる」ということだが、このことを頭で考えていくと、際限なくむずかしくなる。
どうしても迷いの世界に入ってしまう。
右に行くか左に行くか、進むか退くか―そのどちらも正しいような気がするし、また、まちがっているような気もしてくる。

まじめに考えこむ人は、そこで自分を責める。
判断がつかないのも、先が見えないのも、悪いことが起こるのも、結局自分がダメだからだと卑下し、その結果、ますます深く迷いの世界に入りこんでしまう。

しかし、ちょっと待ってほしい。
迷うのは、本当にあなただけのせいなのだろうか?

「そうだと思う」と答えた人は、大きな錯覚をしている。
というのも、現界で生きているわれわれが、しばしば右か左かで迷うのは、ひとつには心があるためだが、より本質的には、この現界という世界そのものが、そもそも「矛盾」でできているからなのだ。

たとえば、「この世は心の影であり、心の投影だ」という主張と、
「この世は物質だ。思考も心も生命も、すべて物質によってできている」という主張は、いずれも幾分かの真実を持っている。
どちらが正しく、どちらがまちがっていると一方的に決めつけることはできない。

「人はパンによって生きるに非ず」という主張は正しいが、同じように「人はパンがなければ生きていけない」というのも真実だ。

「金は不浄だ。金が人を迷わし、魂を汚す」という考え方にも一片の真実が含まれているし、「金は必要だ。金がこの世の中を動かしている以上、金を不浄視するのはまちがっている」という主張にも、同じ程度に真実がある。

一方で「仏に会ったら仏を殺せ」と教える人があれば、もう一方では「仏に全託せよ」と教える人がいる。

「悟りは絶対自力で開ける」と考える人があるかと思えば、「絶対他力」を説く人もいる。
どちらかが一方的に正しく、どちらかが一方的にまちがっているとは言えない。
いずれも真実を含み、同時に、いずれも絶対ではないのである。

(自力と他力自力とは、自らに内在する霊性によって、自分のカで悟りを開こうとすること。
他カはその反対で、自分のすべてを仏菩薩に全託註し、ひたすら念仏などを唱えて救われの境に入ること。)

現界は、このように常に相対的なのだ。
常に矛盾があり、「矛」と「盾」のそれぞれに真実が含まれているものなのだ。
なぜかというと、すでにこれまでの各章でくりかえし説明してきたとおり、現界は物質と心が重なってできており、さらに幽界・霊界などとも一部重なりあってできているからであって、それぞれの空間の真実が、混然となって存在しているため、好むと好まざるとにかかわらず、いくつもの「真実」が現れ、うつしだされてくるからなのである。

だからこの世界では、これだけが正しいということは絶対にありえない。
そもそも現界は、そのようには造られていない。
そこに現界の意義があるのであり、この相対的で矛盾した真実を含む世界を生きぬくことで、人間はいながらにして三千世界を学び、真の知恵と悟りを得られるようになっているのである。

この現界に生をうけながら、何かひとつのことだけにこだわり、真実はこれのみで、他はすべて誤りだと主張することほど、現界での生命をないがしろにする生き方はない。

というのも、真実と過ちを截然(せつぜん)と区分けし、その世界にとっての真実のみによって成り立っている世界は別にあるからだ。

たとえば霊界には、肉体もなければ物質もない。
食べる必要がないからパンもない。
もちろん金もない。
従って「霊界は物質だ」という主張も、「霊はパンによって生きる」という主張も、「霊界は金だ」という主張も存在する余地がない。

純粋な霊という波動世界の真実のみが、その空間を支配しているのであり、矛盾のない、その世界固有の真実のみによってできている世界なのだ。

この霊界の様子を垣間(かいま)見てきて、あるいは本などで生半可な知識を得て、それを現界にも当てはめようとするから、まちがいが起こる。
たしかに霊界では「パン」は不要だが、現界の肉体人間には「パン」が必要なのだ。
その空間の成り立ちそのものが違うからである。

先に霊界の例をだしたが、同じように、ひとつの真実でできた空間世界は、まだ無限にある。
心界にせよ、無数の地獄界にせよ、その世界にのみ通用する真実があるから、それしか見えない人には、たとえば現界は「心の影」としかうつらないし、「苦しみの世界」としか認識できない。

しかし、現界というところは、それらすべてをうつしこんでできている世界なのだ。
矛盾する真実がいくつもあるような世界なのだ。
また、あって当然の世界なのである。

だからこそ、現界に生をうけた人は、居ながらにして三千世界を遍歴することができる。
地獄から霊界までの真実を見ることができる。

この現界に生をうけた価値のひとつは、まちがいなくここにあるのだ。

そこで私は、常に「全肯定しよう」というのである。
あるがままに、あるものを認めよう。
これだけが正しいという思い込みはやめよう。
偏見差別はやめて、この世にあるものは善と見えるものも悪と見えるものも、矛盾した真実も、ひとまずすべてをあるがままに肯定しようというのである。

私は内観の果てで、この全肯定へとたどりついた。
醜い自分を直視した果てで、それでもなおこの世に生かされていることの真実の重みに気づき、現界が、何にもたとえようのない巨大な「許しの空間」であることを悟った。

生きとし生けるものすべてが、ただそれが存在しているという理由だけで、存在することが許されている世界―それが現界なのだと悟った。

「あるがまま」の意味を、本当に「素直」に受け入れることができるようになったのはこのときだった。
全肯定の思い―この思いがあなたの腹に入れば、「生きる」ということが自然に見えてくる。
そのときあなたの前に現れた矛盾は、もはや矛盾ではなくなる。
臨機応変に、そのときどきの事実を見極め、選択しながら、しかも少しもあなたの「生」をそこねることなく生きることができる。
生命を、楽しむことができるのである。

釈迦が自分の説法を「方便」と言ったのは、この意味なのだ。

この人にはAが真実だが、あの人にはBが真実なのだ。
AとBが、仮に矛盾していたとしても、それで釈迦が二枚舌を使ったということにはならない。
この相対的な世界では、A、Bいずれもが真実なのであり、同じ程度に真実ではないということだけのことなのだ。

そのことをしっかりとわかり切ることが、この「現界で生きていく」ことの意味を知ることに通じるのである。


――――
魂の系列、血の系列

矛盾を矛盾として認め、聖も邪も、善も悪も、右も左も、あるがままに存在することが許されているのだと腹の底から肯定することができたら、
そのときその人は、矛盾の中に真理を、相対的な現象の中に絶対を見い出すことができる。

なぜならその人は、不動の中心を、そのときすでに発見しているからだ。

すべてがうつろっていくこの現界の生の中で、決してうつろわず、迷わず、変わることのない中心とは、その人の魂である。
全肯定とは、魂の位置に立つことなのである。

魂の位置に立ったとき「自覚」が生まれる。
自覚とは「自己」に「覚」醒する、
「自己」を感「覚」する、
「自己」を「覚」(さと)るということだ。
では、「自己」とは何か?

「自己」とは、最奥の魂、最先端の現界人としての私、そしてその中間にあるすべての守護霊・背後霊を含む前生の私のことなのだ。
この三者をあわせて「自己」というのである。

これが、魂の位置から見た「私」というものの一切であり、「自己」であって、私という存在は、これ以外の形では存在しないのだ。
そして、「自己」の目的は、魂と一体化し、「自己」そのものになりきること以外にはなく、滅びるのも、発展するのも、完成をめざすのも、すべては「自己」のみの責任である。

釈迦が天と地を指さして宣言したように、われわれの一人一人は、この自己において「天上天下唯我独尊」なのである。
たとえば百パーセントのうち、九九パーセントまでそろっていても、最後の一パーセントが足りないと完全にはなりえない。
あなたも私も、この意味において、百パーセントになりうる可能性を持った一パーセントの存在なのである。
だからこそ、唯「我」独尊なのである。

この魂の位置に立って信仰というものを見ると、何が大切で、何が迷いかがスッキリと見えてくる。
迷いの信仰と、安心の信仰の違いがわかってくる。

迷いは怯(おび)えを生む。
同じものが、一方では不安の種となり、もう一方では安心・喜び・充実の種になる。
たとえば、自分は絶えず守護霊に監視されているという観念にとり憑かれ、身の回りに起きることのすべてを守護霊作用と思い込み、一種の関係妄想に陥る人がいる。
関係妄想とは、互いに何の関連もないできごとを無理やりひとつの関心事に結びつけてしまう「心の病い」で、たとえば遅刻するのも、出世するのも、猫が死んだのも、体に赤斑ができたのも、出がけに知人と会ったのも、何もかも守護霊作用・・・というやつだ。

この人は、守護霊が自分とは別個の外的存在だと思いこんでいる。
そういう「思いの世界」を自分で勝手につくりあげ、その中で喜んだり、悲しんだり、怯えたり、悩んだりしている。

しかし、守護霊も「自己」なのだ。
このことを自覚すれば、この迷妄の世界から、スッと脱出できる。

宗教にまつわる迷妄は、ほかにも実に数多くある。
たとえば霊感商法の壺や幸運を招くペンダント、心霊絵画などなど―。
これらは、自己の一部を迷妄界にさまよわせ、肉体意識もその中でさまよっている人にとっては「真実」とうつるが、その空間にいない人にとっては迷妄そのものなのだ。

神仏の前では威儀を正さなければいけないとか、白い清浄の服でなければいけないとか、正座しなければいけないとか、あるいは信仰を貫くためには清貧に甘んじなければならないとかいったことも、すべて人間の側の勝手な思い、創作でしかない。
それもまた思いの世界にすぎず、それなりの意味も役割もあるにはあるが、決してとらわれる必要のない「方便」であると知ることが大切なのだ。

信仰にまつわる悪質な迷妄の中でも、「先祖の崇りで不幸が起こるのだから、先祖供養をしなさい。そうしないと救われませんよ」という教えは、その広がりからいって看過できないものがある。

ここでいう先祖とは何なのか?
私を例にしていえば、今は田岡家の一員である。
しかし過去世では、新井姓だったこともあれば、黒田姓だったこともある。
日本人ではなくインド人だったこともあるし、虎や狐や犬だったこともある。
虫だったこともある。

もし先祖を、生まれた家系の物故者とすると、十数代も遡(さかのぼ)っていくうちに、地球の人口よりも数多くの先祖を、私は持つことになる。
そして、それらの先祖から祟られるなどということになったら、生命がいくつあっても足りるものではない。
もちろん、そんな愚かなことはありえないので、信じる必要は一切ない。

そもそも「天上天下唯我独尊」の人間に崇れる先祖霊など、存在しないのだ。
確かに、この世に崇りというものは実在する。
しかしそれも、つきつめていくと、自らが前生のどこかの時点で発した思いが、めぐりめぐって今生のあなたに投射投影されてきた現象にすぎず、結局はそれも「自己」の一部なのである。

では、先祖供養など必要ないのかというと、それもまた違う。
「自己」という魂の系列とは別に、一肉体人間としての流れ・因縁というものも、確かに存在している。
肉体というものが造られ、血の流れというものがあるからこそ、私は神の出入口である「自己扉」(肉体)を持つことができ、この世に生を受けることができたのである。

田岡一雄と田岡フミ子は、前世では異なった姓であり、夫婦でもなかった。
もちろん私も、彼らの子ではなかった。
しかしこの三人には、因縁があった。
そこで父は田岡一雄として生まれ、母は深山フミ子として成長したのち、田岡フミ子となった。
もってきた因縁によって家が決まり、肉体が決まった。
その田岡家に、私が生まれた。
私と父、私と母の因縁は、血という物質的な形で、目に見える形で、実体化し、回路化した。
血をつきつめていくことで、霊能者に頼らなくとも、前生を知らなくとも、「自己」を見通すことができるように、われわれは造られているのである。
このように造られているがゆえに「唯我独尊」なのである。

だれもはっきりと気づいていないが、われわれは血の中に、過去世の因縁の具体的なデータをもって生まれてきている。
血をつきつめることと内観は、本質においては同じことなのである。

血の中には、よい因縁もあれば、悪い因縁もある。
その血を、やはり因縁によって私に流した父母や、そのまた父母である御先祖たちは、
「血の中のよい部分は伸ばしてほしい。
悪い因縁は、どうかあなたの代で断ち切ってほしい」
と切実に願っている。

いわば、血を純化してほしいと願っている。
そうして霊界から、私のほうを見守っている。
そうした父母や祖父母の願いを満たし、私自身も悪因縁を断ち切っていくこと―これが「供養」である。
読んで字のごとく、自分自身と、その血の投影者であり、血の因縁で結ばれた先祖を、「供」に「養」い育てていくことが供養なのである。
毎朝仏壇にお茶や線香をあげたり、熱心に墓参りすることだけが供養なのではない。
それは人としての、たんなるマナーにすぎないのである。


――――
魂の制御装置

心の空間の中の迷妄界について話をしたついでに、もうひとつ、おもしろい空間の話をしておこう。

その空間は、今から五年ほど前に発見した。
その空間を、私は勝手にスーパーサクセス空間=SS空間と名づけているが、この空間の存在に気づいたのは、私が自分自身の殻を破って、母親の胎内につながる空間―現状にとどまろうとする空間、甘えの空間、つまり私たち人間のほとんどが安住している一番心地よい空間から、その外へ一歩踏みだしたときだった。

そのとき初めて見えた数多くの空間のひとつがSS空間だった。
卵の殻を破って顔を出した雛の目にうつった外界に、たくさんの空間があって、そのひとつがSS空間だったと思ってもらえばいい。
ただし、このたとえは三次元的発想だから、雛は卵の殻を必ず割らなければ外へ出られないわけだが、実際はそうではなく、卵の内部に外の空間が入り込んできて同時に存在しているような感じなのだ。
この部屋の中に隣の部屋が入り込んできて、入りまじって同時に存在するという感じである。
つまり雲と雲とがぶつかりあった状態とでもいえばいいのだろうか。

なかなか適切な表現がむずかしいのだが、一つの空間があって、それに別空間が無数に重なりあい、蜂の巣のようになっていて、さらに重なりあった空間が鏡にうつるように投影しあっているのである。
鏡を何枚も何枚も増してゆくと、次々に重なった映像が作られるが、その場合、鏡面にうつっているものが鏡面に実在するわけではない。
SS空間の見え方はこの感じに一番近いかもしれない。
万華鏡をのぞくような感覚ともいえる。

こうして私はSS空間を発見したわけだが、この空間はいわゆる「運」とか「ツキ」をもたらしてくれる空間だった。
この空間に入った人は、それこそ何をやっても成功するし、自分が失敗したと思ったことでも結果オーライになる。
向かうところ敵無しの勢いで、ツキに乗って猛進する。
普通、人が「ツイている」「ツイていない」というのは、内なる自己が瞬間的にSS空間と点で触れあう現象なのだなと、このとき私は理解した。

さて、この空間は、普通は今いったように、人生のある時期、ある局面で、たまたま触れあえるにすぎない。
ところが、自己の内面をひたすら見つめ続け、心の旅をしていった過程で母親の空間から脱け出して、本当の意味での自立ということを知ると、このSS空間と、点ではなく線で接することができるようになる。

線で接するということは、すなわち一定の長さをもった期間を通じて接することができるということであり、SS空間に、ある一定期間、身を置くことができるということを意味する。

もしあなたが熱烈に成功を求めるなら、この空間に入るのが最も手っ取り早い。
百パーセント保証つきで、あなたは世間の勝利者になれる。
そして、それだけのためならば、それほど厳しい自己直視を行わなくとも、少しの修行を積むことで、比較的簡単にこの空間を発見することができるだろう。

けれども、SS空間に入って、そこでもう一度自分を見つめなおすと、あなたにはこの空間も、自己にとっては真の安住の地ではないということに、いつか気づく。
問題は気づかずに、いつまでもそこにとどまっていると、あなたの進化がそこでストップしてしまうということである。
このSS空間も、しょせんは心界の内のひとつの空間にすぎないのだ。

この空間に入ると、何をやってもうまくいくから、初めのうちこそ感謝しているが、そのうち感謝の念も薄れて、あたり前のように思いだす。
何でもできるから、「我に神仏の恩寵あり」と錯覚したり、「我は覚者なり」とか「地上の支配者」だとか思いだす。
そうした人物を、実際私は知っているが、彼はSS空間のとりこになって、やがて顔つきまで変わり、彼に見合った霊界波長を呼び寄せた結果、その波長が鏡のように当人に投影されて、「成功」という名の牢獄に封印されてしまった。

「成功」も「幸福」も、真剣な自己直視を経ず、中途で放りだすと、こうした魔境でストップしてしまう。
これは、成功を求める心や幸福を求める心が悪いというのではなく、中途半端に求めるから、中途半端な成功なり幸福しか得られないということを示している。

心界は果てしなく広い。だから心界の中で、魂に出会ったように錯覚したり、神に出会ったように錯覚することはしばしばあるし、かりそめの成功や幸福に溺れることは、日常茶飯である。

けれども、魂は賢明であり、魂が本来いるべきところからはずれ、ある一定以上の汚れがつくと、自動的に「そこから出よ」とシグナルを送る自動制御装置のような働きをもっている。

この良心の声に耳を傾けながら、なお自己を真剣に見つめながら進んでいけば、必ずその人は心界の外に出、幽界や霊界の外に出、ついには魂の空間に入ることができる。
そして、不動の成功、不動の幸福をつかむことができるのだ。

成功にマニュアルは存在しない。
こうやったら成功しますという本は山ほどでているが、そもそも成功とはひとつの状態に過ぎないものなのだから、自分で行動を起こして状態を切り替え、持ちあげないかぎり、向こうから成功がやってくることなど絶対にありえない。

あなた自身が、成功という状態に向かってとことん歩いていくしかない。
その歩き方は、マニュアルには書いていない。
人はみなそれぞれの前世を持ち、因縁を持ち、血を持っている。
そこから導き出されてくる歩き方も、一人一人違っている。
Aさんならこれ、Bさんならあれというように、皆違う。
だから、自分にしかない歩き方を発見するためには、結局は「自己」をギリギリまでたずねる以外ない。
守護霊も前生のあなただということをすでにあなたは知ったのだから、ますます「自己」にたずねる以外ないということが、理解できるだろう。

そうして進んでいけば、あなたはおのずと「この世に成功とはこれ以外存在しない」という状態を知ることになる。
感覚できるようになる。

そのときあなたは金持ちかもしれないし、また、たいして金は持っていないかもしれない。
しかし、それはもうどちらでもいいことだということを、あなたは知っている。
「成功」とは、ないものをもっと欲しい、もっと欲しいといって果てしなく増やしていくことではなく、今あるもので満ち足りている自分を感覚することだということが、実感できるからだ。

何度もくりかえすようだが、一切はあなた自身のうちにある。
それをたずね続けていけば、あなたにとって必要なものは、すべてあなたの手に入る。
一切の疑問に対する答えも見つかる。
そして、自分の生を生き切ることができる。

そのような人々の魂が弥勤の世をつくりあげる。
新界を創造する。

幸福を求めるのは結構、成功を求めるのも結構、仕事を楽しむのも、上達を求めるのも結構。
大いに求めてほしいと思う。
求めて求めて、求め続けてほしいと思う。

ただ、適当に頭で処理したり、中途半端に投げだしてはもったいない。
徹底して、「自己」にたずね、あくまでとどまることなく求め続けてほしいと願う。

その際、あなたのパートナーとなるのは、「良心」であり、「感性」だろう。
霊感・霊能は感受性であって感性ではない。
理屈や理論は頭脳作用であって、感性ではない。

今、感性の時代といわれるのは、弥勅の世、新空間が、感性という次元をベースに創造されるからなのだ。

感性(フィーリング)は、魂から発している。
感性は、いわば魂の知覚だ。
感性とは、ただただ感じていくその状能―あるものをあるがままに感じ、受け入れている状態そのものなのだ。
言葉をかえていえば「素」の状態そのものなのだ。

そしてそこからおさえようもなく強い勢いで浮かびあがってくる感覚
――すべてのものに「謝」まっている「感」覚、
「ごめんなさい」「ありがとう」の「感謝」の感覚が実感と結びついたとき、
われわれはそれと気づこうが気づくまいが、弥勤新界の創造に参加しているのである。


――――

神様食べた

三位一体という言葉がある。
これは人間社会で思考と実践の一致した状態を意味する。
まず実践を基盤に置いて、心と身体と魂の三つが融け合うことを三位一体と呼び、人がこの状態になるとき、それを素直と呼び、あるがままの状態という。

心、身体、魂―この三者をスムーズに融合させ、三位一体となるためには、人間は心を制御しなければならない。
その制御法の中に「三不心」(さんふしん)と呼ばれる心の処し方がある。
不動心、不惑心、不問心の三つだ。

不動心―これは心を動かす必要なしという意味で、感情の世界で一歩離れたところから物事を見つめるところから、この心ができてくる。

不惑心―これは、人惑う必要さらさらなしということだ。
心の中には錯覚界、妄想界といった空間がある。
その中に入って、「自己」を見失うのが惑心であり、そうした世界の中に身を置いても、真理という一点に立って惑わないのが不惑心だ。

不問心―神にも問う必要なしという意味だ。
神にも仏にもたずねない、安易な答えを神仏に求めることをしないのが不問心である。

この三位一体は、だれでも魂の呼び声を素直に肉体身に反映できれば、すぐに実現する。
それが実現しないのは、魂の代わりに頭に頼り、心と身体と頭脳の三位一体で、すべてを処理しようとするからなのだ。
確かに頭で考えている間は、これは非常にむずかしい。
頭ではわからない。
頭では見えないし、頭では心をコントロールすることもできない。
頭脳は肉体に属し、死ねば灰になって消える。
心は肉体に属さないから死んでも消えないが、しかしその行く先は心界でしかない。

魂だけが、永遠の世界とつながっている。
魂だけが、神と直接に触れあうことができる。
神とは何かと問うのは頭であり心だが、魂は問わずに、わかるのだ。

私は今、長女の麗(うらら)とマンションで二人暮らしをしている。
妻が亡くなったときには乳呑み児だった娘が、早いもでもう中学生になって、たまには食事をつくって私に食べさせてくれるまでに成長した。

ある日曜日の朝のことだった。
ちょうどお手伝いさんが土曜日から出かける用事があって不在で、父娘二人きりの休日の朝だった。
晴れあがった絶好の日和で、気分よく目ざめた私は娘と朝の挨拶を交わした。
娘は朝食は自分がつくると言いだした。
麗が小学校へ通っている間は、お手伝いさんが来られないときは私が娘に朝食をつくって食べさせる習慣だったから、何だか随分、娘が成長したような気分になった。

朝風呂からあがった私の前に並べられたのは、ご飯にみそ汁、のり、卵といったごく簡単な朝食だったが、ダイニングキッチンの食卓に朝の光りがさしこんでくるし、窓の外に視線を移すと空の青さが目にしみて、何となく高揚した気分だった。

食べ始めてしばらくして、ご飯の味がいつもと違うのに気づいた。
ものすごくおいしい。
口の中でとろけるような感じがして、甘い香りがする。
このご飯は前夜炊いたものを保温してあったのだから、そんなにおいしいはずがない。
前夜食べたときも、とくに変わった味はしなかった。
でもおいしい。
どうして味がこんなにも違うのだろうか、なぜなのだろうかと思いながら、形容しがたい芳香のするご飯をかみしめていると、急に涙が湧いてくる、止まらなくなった。

それと同時に腹の底からありがたいという感覚が、身ぶるいするような感じで湧きあがってきたのだった。
心の奥底からの感謝の気持ちとでもいうのか、なみたいていのありがたさではなかった。

涙をぼろぼろこぼしている父親を見た娘の麗は驚いて、きょとんとしていた。
でも父親の様子を見て、言葉をかけては悪いと思ったのだろう、黙々とハシを動かしていた。

涙を流しながら私は考えた。
このおいしさ、このありがたさ、この感覚は一体どこから来たのだろうか、と。

男手ひとつで育てた娘が朝食をしつらえるまでに成長した。
父親としては確かに感慨無量である。
娘のつくってくれた食事を、娘と向かい合って食べる情景は幸せそのものであるし、嬉しいし、感無量でもある。

だから私は涙して感動しているのだろうか。
私は自分の心の奥底を覗きこんでみた。
確かに感動している部分はあるし、喜んでもいる。
だが、いま私が味わっているありがたさの実感は尋常一様のものではないし、それにご飯の味もおいしすぎるし、このすばらしい芳香まで漂ってくるのはなぜなのか―。

その瞬間に、私自身の奥底からフーッと湧きあがってきた感覚は、いま私は神さまを食べているのだ、神さまそのものを味わっているのだ、という強烈な思いだった。

ちょうどそのころの私は、心と魂の旅の中で、神さまとは何だろう、神さまとはどのような存在なのだろう、といったことを深く考えていた時期だった。
しかし、こういったことを考えていた私は、神さまという存在を自分の外側に置いていた。

だが、娘と向かい合って朝食をとっている瞬間に、ありがたいと実感して涙を流した瞬間に、神さまという存在はもはや私の外側の存在ではなくなった。
これが私の問いかけに対する答えだったのか。
そうとしか考えられない。
やはり神さまの答えの一部だろう。

私は向かい合っている娘には何も言わなかった。
私にとっても生まれて初めての体験であったし、それを娘に話してみても理解できないだろうし、また、とても口で言い表せる自信もなかった。
それに、口にするとその感覚が消えてしまいそうな気がしたし、この至福感覚をより長く味わい、楽しみたいという思いもあった。

このときの私は、まさに魂と心と身体で、神そのものを味わっていたのだ。
別に頭を酷使することもなく、身体にムチ打つこともなく、心の中をうろつき回ることもなく、ごく自然に、スッと三位一体の中に入りこんでいたのだ。
こんな瞬間、私は私の中の生命を、これ以上ない確かさで実感する。

人間とはおかしなもので、神仏にせよ、守護霊にせよ、霊界・幽界にせよ、成功や幸せにせよ、それを外にあるものと思いこんで捜しているうちは、決してそれが見えない。

見えた、つかまえたと思うのは心の中の影にすぎず、結局その人は、外も見ておらず、魂の内奥も見ておらず、ただ心の世界だけが見えているにすぎない。

ところが、何かのはずみでもいい、一念発起からでもいいが、自分の内側に目を向けるようになると、逆に外が見えてくる。
心界の中に埋もれていた視線が、だんだん外をとらえられるようになってくる。

今の私には、神仏は雨や風と同じなのだ。
ありのままの自分が、ありのままの神仏を、ただ感じるだけなのだ。

神仏の目に見える現れ―それが、こうしてわれわれの見ている現実なのである。

外側の世界に、最も内奥の魂の源が現れている。
内を見つめれば外が見え、外を見ていくと内が見えてくる。
それがこの世界、われわれの世界なのだ。

どうか、この世界を発見していただきたい。
そこにはすべてがある。
あなたが求めている以上のものが、すべてそこには含まれている。

この広大な世界の中で、今、このとき、中心になってるのは、他のだれでもないあなたなのだ。
あなたが世界の中心なのだ。
あなたの生は、子どものためでも、親や夫、妻のためでも、恋人や社長、神仏や教祖や、その他いかなる人のためにあるのでもない。
あなたは、あなたを演じ切るために、この現界に生まれてきたのだ。
あなたがあなた自身を生き切らせること以上に大切なことは、何ひとつないのだ。

これまで書きつらねてきたことが理解できないという方も、当然いるだろう。
もともと文字で表しがたいテーマと、この本は取り組んでいるのだから、すらすらと理解できないからといって不安がることはない。
頭ではわからなくとも、本の内容は心から魂へと通っている。
必ず魂に、伝わっている。

だから、もしあなた自身の中に、
「なぜ私は生まれてきたのか?」
「何のために私は生きているのか?」
という問いが生じたとすれば、それでこの本の役目は終わったといえる。

疑問が生じたら、どうかあなたの答えを捜す旅に出てください。
時間は無限にあります。
結論がすぐにでないからといって、迷ったり焦ったりする必要は、少しもありません。
そこへ向かうこと、そこへ向かっていく状態こそが大切なのです。

あなたが魂を求める心の旅に出られることを、私は心から願っています。
私以上に、あなたの魂、数百数千のあなたの前生、あなたの守護霊、背後霊が、願っています。

どうかあなたの旅が幸多からんことを。
旅の途中で、私もまたあなたとお会いできる日がくることを楽しみに―。


『魂世紀―神界からの波動』(田岡 満 著、学習研究社刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

新・天地創造

魂の新転生空間をつくれ!

魂の救済!―これについて書くときがきた。
今までの記述で、あなたは魂について、肉体身について、また現界の特殊性について、守護霊活動の本当の理由について、はっきりとした「知識」を得られたことと思う。

われわれの直面している危機は、それら一切が、いわば壮大なゼロに、「無」になってしまうという危機である。

これまで書いてきたことの一切は、すべてが魂に乗っかっている。
その魂が消滅しかかっているということは、われわれ全生命体が、超巨大な沈没船に乗っていることと等しいのだ。

どうすれば救われるのか?

肉体だけを鍛えても救われない。
どんな超人の肉体といえども、この沈没船の上に乗っかった「荷物」のひとつでしかない。

スーパーマンのような奇跡の人―救世主の救いを待つか?
これも無意味だ。
われわれの多次元空間宇宙に存在するものは、チリひとつから高級霊界の龍神に至るまで、ひとつの例外もなく魂の投射投影によって成り立っている。
メシアとて例外ではない。
そして、それらすべてを成り立たせている魂そのものが沈没船に乗りあわせている以上、沈没はまぬがれないのだ。

では、どうすればよいのか?
答えはただひとつしかない。
今乗っている船に代わる船をつくるのだ!

「新空間創造」―これがわれわれの魂を救う唯一の道である。

霊界は、遅かれ早かれ消える。
これまで数多くの人々が記録し、描写してきた死後の世界は、そのうち確実に存在しなくなる。
それが何十年後か、何百年後かは、私は知らない。
しかし、輪廻の法が滅びかけている今、死後の世界は確実に消える。

それが消え去る前に、われわれは「新界」をつくらなければならない。
肉体人間も、霊界人も、自然霊も、手をたずさえて、この未曾有の大事業を成し遂げなければならない。

魂のために、それを成就しなければならない。
本当に、悪魔も天使も、みな手をつながなければならない時代が来たのである!

新界は、われわれ生命体すべての新しい転生空間になるだろう。
その新界が、次元でいえば現界と神界を結ぶ目に見えない線上の中央に発生すれば、再び生命の循環は回復される。
新界からの投射投影が現界にはねかえることによって、魂は救われる。

それを成すのは、たまたま神界が開いている今このときをおいてない。

魂は、もともとは創造主によって創造された。
創造主によって創造されたものであるがゆえに、魂には創造主のすべでが投射されている。

われわれの世界だけに限定すると、魂はすべての根源であり、三千世界の一切は、魂による投射投影によって成り立っている。
しかし、神界も含めて考えると、魂も究極の単位ではなく、神界からの投射投影によって存在しているにすぎない。

ただ、これまでは神界とわれわれの側の世界は別個に存在していた。
だから、魂が究極の単位のように振る舞ってきた。
そして、自らまいた種により、絶滅の危機に瀕する事態を招いた。

ことここに至って、神界が開いた。
神界からの投射投影が、今まさにこのとき、起こった。
この神界からの直通のバイブレーションを受けることのできる空間は、この現界をおいてない。
だからこそ、魂にとって、今という「時」は二度とないチャンスなのだ。

神界からのバイブレーションを受け、創造主がもともと魂に投影しておいてくれた「創造の回路」を活性化させて、新界をつくらねばならない。
それこそがわれわれ人類の使命なのである!


――――
第二の天地創造

では、われわれはどうやって虚空中に新界を創造すればよいのだろう。
その方法は、われわれ一人一人が、これまでくりかえし書いてきた「魂の位置に立つ」こと以外ないと、私は思っている。

一人一人の自覚、一人一人の悟りの積み重ね以外ないと思っている。

そして、そうした自覚・悟りを持った人たちが、ある一定以上の人数に達したとき、それらの人々の魂から発せられる新転生空間創造の強烈な思いのエネルギーは、開いた神界から発せられてくる光のエネルギーと呼応して、まったく新たな空間をつくりあげるだろう。
これ以外に、魂が救われる方法はない。

「新界は新空間だ」ということの意味を、よく理解してほしい。
それは、既存の異次元空間一切とはまったく別個の、独立した空間ということだ。
ということは、すでに存在している異次元空間内のどこかに念を送りこんでつくる世界とは、まったく別の世界だということを意味している。

なぜこうしたことを、あえて断るかというと、人類は過去、異次元空間内に、いくつもの空間内空間を創造(投射投影)してきたからである。

地上のさまざまな宗教宗派は、彼ら信者や部族・一族だけが集まる空間を、異次元界中にうつしだし、そこに転移転生してきた。
その宗派だけの「極楽空間」をつくりだし、「地獄空間」をつくりだしてきた。
何々宗専用の空間、何々教専用の空間というものが、われわれの四次元連動帯内には、数かぎりなく存在しているのだ。

そうした空間には、きわめて低次元の「極楽」もあれば、「弥陀の西方浄土」といった高次元の「極楽」もある。
けれども、それらは、たとえいかにすばらしい世界であったとしても、いずれダムの底に沈む運命を背負った「村」的な空間にすぎないのだ。
そして私は、そうした「村」状の空間は、遅かれ早かれ、すべて消滅するということを、再三訴えてきたのだ。

だからこそ、特定の信仰団体をつくり、既存の空間内に自分たちの転生空間をつくっても、魂の救済には結びつかないと知ってほしいのである。

新空間は、高次の涅槃界から霊界・幽界・六道界までを含む既存の全空間のどれにも所属していない。
その空間は、これまで有ったこともなければ、無かったこともない状態から、まったく新たに創造される。
これは第二の「天地創造」なのである!


――――
弥勤すなわち新界!!

釈迦は、今日のあることを知覚し、後世に伝えている。
ここにも、覚者・釈迦の偉大さが存分に発揮されている。

釈迦は、彼の生きている時代は「神界が閉じている」ということを、魂のレベルで知っていた。
それゆえ釈迦は、今は神の世ではなく仏の世なのだと説法し、全宇宙を支配する輪廻転生の法を説き、さらに六道界での輪廻から脱けだして永遠の涅槃界へと移行(解脱)することを、ひとつの理想の姿として弟子に教示した。

(涅槃界:すでに存在している諸空間のうち、最も高次元の空間。
釈迦を始めとする覚者のみが、この空間に転生した。
解脱とか入滅とかいうのは、この空間に入ること。
過去における最上空間。)

これは、釈迦以後、千数百年間は真理だった。
けれども、不変の絶対的な真理でないということを、釈迦は知っていた。
仏法が栄える「正法」の時代から、魂の汚れが日増しに厚くなり、三千世界が曇った鏡の状態になる「末法」の世を経て、絶対無が出現し、一切の法が滅び去る「減法」の時代が訪れる。
そのとき仏法は滅び去ると、釈迦は、その透徹した魂の神通力で見通した。

しかし釈迦は、同時に、この滅法が生命の終鷲ではないということも知り抜いていた。
滅法のそのとき、「神界が開く」ということまで、この覚者は感得していた。
そしてそれを、「弥勤の世が来る」という表現で、後世に伝えたのである!

ただ、釈迦は、弥勤の世が来るということまではわかっていたが、それがどのような世で、どうしたらその世が現出するかまでは、わからなかった。
そのため後世の弟子たちは、弥勤が住むとされた兜率天(とそつてん)に生まれ変わることだろうと想像したり、あるいはこの地上現界に、弥勤が転生してきて人々を救ってくれるのだろうと想像したりした。

けれども、弥勤の世とは、そういうことではないのだ。
それは、魂が滅び去る前に、魂の転生空間を、この現界と神界の間に創造すること、新界をつくりだすことなのだ。

この新空間こそ、弥勤世界なのである!

釈迦の魂は、この新界を感じとっていた。
だからこそ釈迦は、弥勤の世が訪れたら、自分は是が非でもこの現界に生まれ変わりたい、必ず生まれ変わってくるぞと言い遺した。

なぜか?
ひとつには天地創造の大事業に参加するため、そしてもうひとつは、釈迦自らの魂を救済するためになのである。

弥劫の世は、もう始まっている。
それは同時に、減法が滅法が刻一刻と進行しているということをも意味している。

われわれは今、かつて経験したことのない魂の振り分けの時代の真っただ中にいる。
魂を求め、魂の存在に気づき、すべての基準を魂に置いてみることのできるようになった人の魂は、新界に転生するだろう。

けれども、魂を無視し、心を追い求め、今いる場所から動こうとしない人の魂は、転生場所を失い、生命の循環がとぎれて、消滅するだろう。

この数年来、私は何かお話しする機会があるごとに、人間は「人間位」に就かなければならないということを、くりかえし強調してきた。
人間位の「位」とはポジションのことだが、これだけでは理解していただけないだろうから、もう少し説明する。

ものごとには、すべてポジションというものがある。
たとえば幽体は、図式的に簡略化していえば、幽界というポジションにいる魂の投射投影像といえる。
同じように、霊体は、霊界というポジションにいる魂の投射投影像だ。

では、人間のポジションはどこなのか?
肉体は現界にある。
だから、肉体人間のポジションは現界だと考えてしまいがちだが、そうではない。
人間は、肉体と同時に心を持ち、幽体を持ち、霊体を持ち、さらに究極の魂も持っている。

さあ、どうだろう。
人間のポジションはどこにあるのだろう。

これから書くことは、とても重要なので、じっくり考えながら読んでいただきたい。
まず、人間は肉体と頭脳だと思っている人―この人のポジションは、現界である。
物質界の住人である。

人間は、つまるところ心だと思っている人―この人のポジションは心界である。

人間は、心を超えた世界に本体があると思っている人―この人は幽界、もしくはそれ以上の世界にポジションを持っている。

人間の本体は霊であり、幽体も肉体も、霊をくるむ衣のようなものにすぎないと思っている人―この人のポジションは霊界である。

けれども、以上述べたすべてのポジションは、人間の本来立つべきポジションではない。
人間は、神界を除いた、この現界と霊界、幽界を含む全空間の外側―魂の空間に、本来のポジションを持っているのだ。
なぜなら人間のみが、肉体も心も頭脳も、幽体も霊体も持つと同時に、魂も併せ持つ存在だからだ。

すべてを持つように造られているということは、すべてに気づけるように、すべてを見通せるように造られているということだ。
そしてそれに気づいた人のことを、私は「人間位に就いた人」と呼んでいるのである。

こう書くとあなたは、「人間位」に就いた人物として釈迦やキリストを初めとする聖人の姿を、真っ先に思い浮かべることだろう。
しかし、それは違うのだ。
釈迦・キリストの時代には、「人間位」という位置づけはなかった。
だから彼らは、人間位には就いてはいないのだ。

神界が閉じていた期間には、肉体人間の重要性も、現界の重要性も、ほとんど理解されなかった。
魂と肉体のラインを通し、現界人として新界創造に参加するという仕事そのものがなかった。
だから釈迦は、涅槃界への解脱を追い求めた。

しかし今、神界が開いた。
開いているからこそ、新界創造という大仕事が生まれ、唯一それに直接参加できる現界人の位置づけができた。
「人間位」というものが、初めて発生したのである!

神界が開いている今、すべての人が人間位に就きうる。
そのことを私は、どうしても皆さんに知っていただきたいのだ。
そのために、宗教家でもなければ文筆家でもない、一実業家にすぎない私が、自分自身の未熟な過去をさらけ出してまで、こうして本を書いてきたのである。

私のような者でも、ここまでわかることができた、私のような者でも、絶えざる自己直視によって、魂を見い出すことができたという事実を、皆さんに知っていただきたかったのである。

人間位に就くことは、決してむずかしいことではない。
特殊な修行も、能力も、一切いらない。
お経を覚える必要も、祝詞を覚える必要もない。
ヨガもメディテーションもしなくてもいい。
チャクラを開く必要もない。
先祖供養もいらない(これについては後述する)。
徒党を組んで教団をつくり、信仰生活に入る必要もさらさらない。

必要なのは、自分の魂を見つめることだ。
頭脳や心に幻惑されずに、すべての物事を感性でとらえ、魂の基準から見据えることなのだ。

人間は、だれ一人として例外なく、魂の声を聞いている。
あなたも聞いている。
それは「良心の声」だ。
良心とは、魂の声が通る心の中の道なのだ。
「良い心」ではなく、それは「魂の声の道」なのである。

この声に耳を傾け、「素直」と「感謝」と「信」という三つの状態が腹からわかり、いつでもスッとこの状態に入れる人は、もう魂の位置にいる。
人間位に就いている。

この人間位に就いた人々によって、弥勃空間―新界は創造される。
そして、この新界からの新たなる現界への投写投影―それこそが、過去から今日に至るまで、すべての宗教で唱え続けられてきた「地上天国」の本当の意味なのである。

『魂世紀―神界からの波動』(田岡 満 著、学習研究社刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

多次元宇宙の無を救うのは!?

神界の扉、今開く!

われわれは、すべてが「存在」という方向に向かって回転する多次元空間に生きてきた。
魂は次々と投射投影をくりかえし、無限に照応しあう巨大生命宇宙というものを成り立たせてきた。

この世界にあっては、「有」がすべてだった。
どんどん消えていく宇宙ではなく、どんどん増大膨張していく宇宙―それがわれわれの多次元宇宙の姿だった。
そしてその宇宙を根元から支え、成り立たせているのが、魂という実体だった。

ところが、その魂が腐敗し、消滅し始めている。
これはもうお手あげだと、私は思った。
どう考えても救われる道はないと思われた。

ところが私は、またしても古今未曽有の発見に、まったく偶然に遭遇した。
それは突然の「閃めきの矢」となって、私を貫いた。

そのとき私は、私という意識を現界にとどめたまま、自分の一部を「素の空間」に置いた状態にあった。
そんな私の中に、一条のインスピレーションが走った。

「神界が開いている!
神類は今、神界と現界との間に直接道を開こうとしている!!」

私を貫いた閃きの矢は、私の意識にこう告げた。
この天啓ともいえる閃きにより、私は魂救済の方法を悟り、またそのときまでどうしても解けずにいた積年の疑問も、一気に氷解していったのである。

順を追ってお話ししていこう。
まず、最も驚嘆すべき発見は、神界と現界と霊界の位置関係だった。
といっても、三次元的な意味での位置関係では、もちろんない。
そうではなく、いわば次元差とでもいうべき位置関係なのだが、それを言葉で言い表すことはとてもできないので、概念としてお伝えする。

私が知ったのは、神界は、この現界―肉体人間の住むわれわれの世界からしか見えず、霊界からは角度差というか次元差がある関係で、まったく見えないという、まさに驚天動地の実態であった。

この驚異的な多次元空間宇宙の実相を発見するまでは、私も、他のすべての異次元探訪者と同じように、神界は高級霊界、あるいはさらにより高次元の涅槃界に近いところにあるものと、漠然と想像していた。
肉体身を離れ、幽体を脱ぎ捨て、さらに霊体すらも脱ぎ捨てて魂そのものに近づいた者ほど神界に近づける、神界の光輝の思恵に浴せるものと考えていた。

しかし、こうした考えは、まったくのまちがいであった!
有史以来、数千年にわたって人類が犯し続けてきた宗教史上最大の錯覚であった!

なんとも信じがたいことだが、神界は、高級霊界からは絶対に見えず、したがって現界以外のすべての異次元空間は、神界からの光、神界からの波動が絶対にとどかない次元差上の位置に置かれているのだということを、私は毛筋ほどの疑念も入りこむ余地のないほど確固とした啓示によって、直覚させられたのである!

この発見は、過去幾多の信じがたい心霊体験と直接・間接に接してきた私でも、にわかにはのみこみがたい、極めてショッキングな発見であった。

今こうして書いていても、読者の「何をトチ狂ったことを!!」という声が聞こえてくるような気がする。
確かにこの主張は、それほど突飛で、この分野の常識ともかけ離れていることを、私は十二分に承知している。
それを十二分に承知したうえで、それでも事実そうなのだといわなければならない今の私の心境は、「それでも地球は回っている」と言った、あのガリレオ・ガリレイの心境そのものなのだ。

過去、こんな突飛なことを言った人間は、一人もいない。
宗教の分野でも、心霊学の分野でも、普通は神界を最上層に置き、その下に霊界、その下に幽界、その下に現界、その下に地獄界といった構造で、この三千世界を説明する。
人により、宗教家により、各界の名称や順位は多少入れ替わることもあるが、それでも神界が最上層で、人間界は下位に位置するという説明は共通している。
そして、神界に最も近いのは高級霊界だという説明が、常識のようになされている。

しかし、私の発見は、この見解と真っ向から対立する。
いかなる高級霊界といえども、霊界からは神界は見えない。
くりかえすが、神界が見えるのは、唯一この現界からだけなのだ!

私は、この発見を受け入れた。
いかに非常識と言われようと、いかに狂気じみていると言われようと、この発見を否定すれば、それは自らの魂を否定することになる。
それは断じてできない。
であれば、今までそうしてきたように、ありのままの感覚を受け入れようと私は思った。
そして、この発見を自らのうちに受け入れたとき、私の目から、多くのウロコが落ちた。

霊界関係の本を一度でも読んだことのある方なら、どの本も共通して、霊界の素晴らしさ、美しさ、永遠の官能的ともいえる逸楽(いつらく)、大安心などが強調されていることは御存知だろう。

では、私は問いたい。
それほど素晴らしい霊界、人間とは天と地ほども隔たった自由さと叡智と歓喜の充溢(じゅういつ)を誇る霊界に住む者が、なぜこれほど足繁く、この汚濁にまみれ、重く淀んだ波動の現界に通ってくるのか?
霊界にずっといればいいではないか?
何をしに、四六時中この現界にやってくるのか?

この問いに対し、宗教家から納得のいく説明を聞いたことは、私はかつて一度たりともない。

彼らは、「霊界の使者は、われわれ人類を救いにやってくるのだ」と口をそろえる。
しかし、これほどいいかげんな説明はない。
救いにきたと称する霊界や幽界の霊によって、人類がどれほどかき回され、迷わされ、くだらない宗教戦争の犠牲になったかを、冷静に考えてほしい。

神仏を僭称(せんしょう)する霊は、ほとんど例外なく狂信者をつくりだし、他宗を排斥する。
狂信者たちは異様な情熱に駆られていたるところに出没し、改宗を迫り、異端を弾劾する。
たとえば十六世紀に日本を訪れたカトリックの宣教師たちは、弘法大師空海を激しく否定し、口ぎたなくののしった。
パードレ・ガスパル・ピレラは空海を「悪魔の化身」と呼んでいるし、有名なパードレ・ルイス・フロイスも、空海のことを「彼は甚だ悪しき人」と非難した。

狂信者にとっては、他人の土地に土足であがりこみ、民族・部族の祖霊の霊廟を破壊することは「聖なる使命」なのだ。
最近はさすがに鳴りをひそめたが、折伏(しゃくぶく)と称し、日蓮以外を信仰すると地獄に落ちると脅かして他人の家の仏壇神棚を焼き捨てるような巨大宗教団体もあった。

地上天国を建設すると称して南米に移住し、信者全員を服毒自殺させた教団もあった。
洗脳し、思考力を奪い、心界の迷宮に追い立て、一家を離散させ、差別感情を煽り、精神錯乱を引き起こし、戦争を誘発する・・・。
自称「神仏」の信徒たちは、こうした愚行を綿々と積み重ねてきたのだ。

こうした事態―とりわけ二十世紀以降顕著になった「神々のラッシュアワー」のもたらした事態を見るかぎり、自称「神仏」が「人類を救いにやってきた」とする説明は、いかなる説得力も持たない。
この説明は、完全に破綻している。

では、なぜ彼らは現界にやってくるのか?
その答えは、すでに冒頭に書いた。
彼らがやってくるのは、現界が、唯一神界の見える位置にあるからなのだ。

この現界にやってくる自称「神仏」は、われわれの魂同様、本当の神界に恋こがれ、その神界が唯一見える現界に自分の場所を確保したくてやってくるのである!

世界中のあらゆる宗教の、これ以上ない醜い「陣取り合戦」に思いをはせてほしい。
だれそれ講堂だの、何々教会だのといった建物が、どれほどの土地を占有しているかを考えてほしい。
土地に対する、この、およそ「神々」らしからぬ執着―それは現界内に自分の空間を占有したいという、人間も含めた霊的生物の念の凝り固まった姿以外の何者でもない。

通常信じられているように、現界は霊界の二軍なのではない。
現界に転生するのが二軍落ちで、霊界に入るのが一軍昇格なのではない。
それはまったく逆なのだ。
霊界こそが、現界の二軍、ファームなのである!

だからこそ、神界の見える現界は三千世界内の、いうなれば一等地なのだ。
土一升金一升の銀座どころの比ではない。
どんな手段を講じてでも確保したい空間なのである!

現界は、次元差の関係でたまたま神界と直面しているという以外、他のすべての点で霊界とは比較にならないほど劣っている。
肉体人間と霊界人との差も、天と地の開きがある。
道教のほうに「壺中(こちゅう)に天有り」という言葉がある。
壺(つぼ)の中に、無限の空間が入るというのは、霊界での空間の在り方を表現している。
三次元的にはマッチ箱程度の空間でも、霊界なら天地が納まる。
伸縮自在の空間がそこにはあり、すべては思ったと同時に出現する。
とても不自由な現界とは比較にならない。

だからこそ、近世に至るまでは、散発的に現界に現われる霊界人はあったが、現界は現界、霊界は霊界として、その秩序がまがりなりにも保たれていた。
人間は輪廻の法則に従って、死ねばその境涯に応じた空間に移行し、時がくればまた現界に再生して、自動的に回転していた。

その間、神類のおられる神界は閉じていた。
われわれの側の世界と、神界とは没交渉だった。
だから、神をかたるも自由、各空間で修行するも自由、不良霊、宿無し霊となってウロつくのも自由だった。

ところが、すでに述べたように、魂が腐り始めた。
と同時に、霊界も消え始めた。
霊界で自足していた霊たちの居場所がせばめられていき、このままでは霊人の居場所も、人間の死後の行き場所もなくなる事態に直面した。

幽界も地獄界も、同じ事態になった。
過去の霊界・幽界情報の一切が通用しなくなる滅法期に入った。

このとき、神界が、なぜか開いた。
私は、神という言葉を口に出すことすらおそれ多い、不遜だと考えている人間だが、あえて不遜を百も承知で自らの受け止めた感覚をいえば、これは神の、真の創造主の慈愛そのものの表れなのではないかと思っている。

神界が、理由はわからないが、とにかく開いた。
今や救われる場所は現界しかないというので、霊界から地獄界まで、三千世界の住人が一斉に現界に着目し、大移動が始まった。

これが、今、まさにこのときの状態なのである!

――――
守護霊の実相

魂消滅の危機と、今世紀に至ってにわかに守護霊活動が顕在化し、一般の人までも信じる信じないは別として、守護霊というものの存在を知るようになったこととは、密接な関連がある。

この守護霊の活動は、われわれの魂の救済という大問題を考えるうえで、どうしても知っておいていただかなければならないことなので、次に守護霊について記していく。

われわれには、みな守護霊がついていて、われわれを守っているというのは本当である。
私は守護霊からいろいろな教えをじかに受けてきたし、また、私の進化の度合に応じて担当する守護霊が変わることも体験を通じて知ることができた。
守護霊の存在は、絶対に否定できるものではない。

守護霊は、原則的には一人に一体だが、複数の場合もある。
厳密にいえば、その霊体は霊界と現界との間の空間―いわば3.5次元の世界に属しており、人間の潜在意識を通じて活動している。
この守護霊を「第一守護霊」といい、それ以外の守護霊は霊界で活動している。
守護される人間の置かれている状況、進歩の度合に応じて、守護霊は入れ替わる。
壺中に天有り次元界の守護霊が霊界に戻り、新たな守護霊が第一守護霊になって3.5次元界に移ることを、守護霊の現界化と呼んでいる。

何のために守護霊が存在するのかという点については、一般には「その人を守り、その人の進化を助けるため」と説明されているが、この説明は、実はかなり不十分なものだ。
それは、いくつかの本質的に重要なポイントを見落としているからだ。

先の説明では、守護霊は、まるで慈善事業か奉仕活動をやっているような印象を受ける。
事実そう受け止めている人もいるし、そのへんを暖味にしたまま、「高い霊性の持ち主は自分を犠牲にしても人のために尽くすものだ」などと手前勝手に納得している人もいる。

しかし事実は異なる。
このへんを唆昧にしたままにしておくと、守護霊への甘えが生じる。
甘えはその人のためにも、守護霊のためにも最悪の結果を招くので、事実関係をはっきりさせておきたい。

まず第一に、守護霊は守護霊自身のために、自らの魂を磨きだし、守るために守護しているのであって、決してお人好しに慈善事業をやっているわけではない。

守護霊の守護は徹底している。
最善を尽くして、その人を守ろうと働いている。守られる側が気づこうが気づくまいが、あるいは否定しようが甘えようが、可能なかぎり守ろうとし、導こうとしている。
世間一般の霊能者は、守護霊は肩にいるなどと言っているが、それは正解とはいえない。きちんと次元差まで見通せる霊能者には、守護霊がその人の足元で必死に本人を支えてくれているのが見えるだろう。
霊界と現界との一般的なルールからいえば、守護される側の人間が守ろうとする霊界人を否定したり拒否したら、霊界人は、いくらその人を守りたくても守れないものなのだ。

たとえば私は、ずいぶん妻の霊に助けられ、教えられてここまできたが、妻が私をフォローすることができたのは、まず一番最初に妻が夢で「私が生まれ変わっても、あなたのおそばに置いてくださいますか」とたずね、私が「いいよ」と答えたからなのだ。

このとき私が「いやだ」と答えたら、その時点で、霊界籍の妻は、いくら手を貸したく
ても現界人の私には手を貸すことができなかったのだ。
それが法則なのである。

同じように、たとえばだれか知人が地獄で苦しんでいる。
見るに忍びないからといって、本人が助けてくれとも何とも言っていないのに、勝手に助けることはできない。
あくまで本人の承諾がなければ、助けられない。

だから、霊界側の救済というのは、「助けてやる」ではなく、「助けさせていただく」という法則で、徹底して貫かれているのである。

ところが、守護霊だけは、同じ霊界に籍を置きながら、守護される側の人間が「守護霊なんているものか」と思おうと、「守護などしてもらわなくとも結構」と思おうと、人間の想いとは無関係に、必死で助ける。
そして、助けることが許されている。

それはなぜか?
その最大の理由は、いくつかの例外を除けば、守護霊イコールその人の「前生」だからである。
つまり守護霊とは、過去のあなたであり、同じ魂の投射投影の一部だからなのだ。

あなたと、3.5次元で活動している第一守護霊、さらにはその後ろの守護霊、そして、その他のあなたのすべての前生の霊たちは、肉体人間であるあなたと、絶対に断ち切ることのできない一本のラインで、みごとにつながっている。

小学生のころ、整列する際に行った「前へならえ!」を思いだしてほしい。
あなたの背後には、守護霊も含めた過去すべての前生のあなたが、一本の線になって連なっているの
である!

そして、前生のあなたたちは、自らが犯してきた過ち、もろもろの罪汚れを、ラインの先端にいるあなたにきれいにしてもらいたいと、せつないほどの真剣さで切望している。

自分たちが到達できなかった悟りのレベルに到達してほしいと、狂おしいほどに待ち望んでいる。

だからこそ、それらあなたのすべての前生を代表して、守護霊は全霊をあげてあなたを守護し、導こうとするのだ。
必死なのだ。
なぜなら、一番先端にいるあなたが気づけば、前生の全員が救われるからである!

私は、肉体人間である自分が気づきの境地に入ったとき、背後にひかえる守護霊も含めたすべての前生が、何にもたとえようのないほどの歓喜に包まれたことを、実際に体験して知ることができた。

魂と私との間に連なるすべての前生―魂の直通ラインが、まるで電流でもあびたかのようにピリピりと喜びにうちふるえるのを実感した。
だからこそ守護霊は、足もとで、最底辺で、これ以上下はないというぎりぎりのポジションにあえて立って、われわれを守護してくれているのである。
その働きのありがたさ、切なさを、われわれは本当に、腹の底から知り、感謝し、そしてふるいたたなければ嘘なのである。

過去何度となく生き変わり死に変わりしてきた末に、あなたがいる。
あなたという存在は、過去何十何百という前生のあなたにとって、まさに希望の星なのだ。

なぜ希望の星といえるのか?
なぜあなたは、すべての前生のトップに立っているといえるのか?

その理由を明示しよう。
それはあなたが、この肉体をもって現界に生まれてきたからである。

――――
肉体は神気の「扉」だ!

肉体人間というのは、霊の側から見ると、実に不完全で、頼りなく、鈍感で愚かな存在に見える。
実際、古来よりなされてきた数々の霊界通信は、表現こそまちまちだが、要するに肉体人間は未熟だということを、くりかえし主張してきた。

しかしこの主張も、実は非常に重要な一点を見逃している。
肉体人間には、霊界その他の異次元空間に転移した霊的存在には絶対に得ることのできない、最も重要な特性が、本来備っているのだ。
だからこそ肉体人間は、この多次元空間宇宙内で唯一神界の見える現界に発生し、存在することが許されているともいえるのである。

では、その肉体人間のみが持つ特性とは何か?
先に私は、魂は「神の通路」だと書いたが、ここでもうひとつ、極めて重要な事実を記
しておく。
魂の通路を通った神気―あるいは「神の光」は、肉体身を通って出入りする。
霊体でも幽体でもなく、この、古来、罪穢れのかたまりのようにさげすまれ、非難され続けてきた肉体身を通してのみ、出入りする。

だからこそ肉体人間は、知性の面でも、悟りの面でも、数々の霊能面でも、感性感覚の面でも、どのような点においても霊界霊に比べると劣っているにもかかわらず、三千世界内で最も重要なポジションにいるのであり、あなたの前生である守護霊が、その全存在をあげて守護しているのである!

皆さんは次のことを、不思議に思われなかっただろうか。

霊界賛美者は、霊界ほどすばらしい世界はない、死ねば永遠の幸福が待っていると口をそろえる。
ならば、それほどすばらしい霊界に入った者が、なぜ不自由な肉体に憧れるのか?
なぜ必死になって転生したがるのか?
不浄だ、低級だ、波動が荒いとケチばかりつけているこの地球世界―肉体世界への転生を、なぜ渇望するのか?

霊界人だけではない。
なぜ自然霊は、ありあまる超能力を持ちながら、肉体に憑依したがるのか?
肉体を持ちたがるのか?

その根源的な理由はただひとつしかない。
それは肉体身というものが、神の出入りする扉―私のいう「自己扉」だからだ。
そのことを、霊体や幽体は、あるいは知らないかもしれない。
自然霊も、知ってはいなかったかもしれない。
しかし、霊体や幽体、自然霊らの本体は、十分に知っている。
本体―すなわち彼らの魂は、肉体身の意味を知っているのである!

だからこそ彼らは、熱心に転生したがる。
まして今、神界は開いた状態にある。
魂の汚れを落とし、神の通り道の詰まりをなくした人の肉体身は、神気を通しうる状態にある。

これほど価値のあるものは、今の時点では肉体身以外ない。
だからこそ激しい肉体身の争奪戦が始まっている。
有史以来、類を見ない猛烈な勢いで人口が急増しているのである!!

こうした事実を、はっきりと明言した者は過去一人もいなかった。
なぜかというと、神界が閉じていたからである。
私がこのことを知ったのは、たまたま神界が開いたという事実を知ったからにすぎない。
まったくの幸運にすぎない。

しかし、今まで私が述べてきたことを、恐るべき感性の感覚力で、ほぼ的確に感じとり、後世人に伝えた人物が、有史以来ただ一人いた。
その人こそ、本当の意味での覚者というにふさわしい。

その人とは、釈迦であった。
釈迦は、「人身得がたし」と言った。

人身―肉体人間としての生は、まことに得がたいものなのだ。
しかしそのことを、本当に自覚している者は、あまりにも少ない。
いや少なかったと過去形で言うべきだろう。
なぜなら今、人類はようやく肉体身というものの重要性に―いまだ潜在意識のレベルとはいいながらも―気づき始めたからである。

人類が肉体身に目を向けだしたという事実は、魂の消滅という逼迫した事態に対する、魂自身の危機感の現れ以外の何物でもない。
この「魂自身の危機感」が全多次元空間宇宙に投射投影され、霊界が反応し、守護霊が反応して、いわば怒涛の勢いで肉体人間の潜在意識に「目覚めよ!!」と働きかけている!!
それが現在という時なのだ。

現人類が肉体身というものの重要性に気づき始めているという証拠は、いたるところに現れている。

たとえば過去数千年の間、ごく一部のず求道者・神秘家たちの秘法秘伝として師資相承(ししそうしょう)されてきた肉体内の霊的器官―チャクラとか、丹とか、霊的な鞘(さや)とか呼ばれているもの―の開発法が、今日では驚くほど一般化されている。
ひと昔前までなら特定の行者の専売だった丹田行法や気功、ヨガ、メディテーションなどが、今日ではカルチャースクールで講義され、美容にまで応用されている。
そして、こうした肉体そのものの開発ブームの背景にあるのは、疑いもなく魂の危機感そのものなのである。

しかし、せっかくこの身の重要性に目を向けてはみたものの、肝心かなめの魂の危機のほうには、だれも気づいていない。
この、いわば半覚醒とでもいった状況に置かれているのが、現人類なのである―。

――――
神界からのバイブレーション

けれども、ここで是が非でも確認しておかなければならないのは、肉体の鍛錬、潜在能力の開発などは、それ自体が目的なのではないということだ。

それはあくまで、魂とつながった神気の「扉」=肉体の詰まりをとり除き、神気の通りをよくするための作業なのであって、本来の目的は、魂の位置に立ち、自らの魂を救済することにあるのである。

よりはっきり言うと、感覚のよい体は、魂の位置で居りやすい。
逆に感覚の鈍い体は、心にとらわれやすいという、ただたんにそれだけのことなのである。

ここをはき違え、肉体開発にのみ執着すると、いかに霊的に開発された肉体を得ようとも、その人はたんなる心界のとらわれ人に堕してしまう。
というのも、肉体は、魂よりはるかに強く心に縛られ、支配されるものだからだ。

肉体身の重要性に気づき、掃除することは、それ自体としてはとてもいいことだ。
しかし、肉体の神秘器官を開発しようとしまいと、人間は魂の位置に立てるという事実を知ることは、はるかに大切なことだ。

そのことを知っていただくために、私は、私自身が通ってきた道を、これまでずっと書き記してきたのだ。
それは、本当にだれでもが通ることのできる道、平凡な、ごく普通の人間でも必ず魂に至ることのできる道なのだ。
「真理」というものは、特別な人間が、特別な行や学問を積んだ果てで得られるものではない。
だれもがそうかと気づき、気づいたときにはその状態に入っているような、そんな道―複雑でも特殊でも難解でもない「素」の道なのである。

けれでも、前生からの因縁やクセなどで、どうしてもチャクラなどの開発から入りたいという人は当然いる。
滝行をせずには気のすまない人もいれば、ヨガの人も、禅の人も、神道行法の人もいる。
それはそれで、もちろんいいことだと私は思う。
入口に個性の違いはあっても、優劣の差はない。
どんな入口から入っても、最終的な地点まで行きつけば、みな魂の空間に出るからだ。

ただ、ひとつだけ誤解しないでほしいことがある。
それは、肉体身というものがとても大切だということと、肉体の性能のよしあしとは関係がないということだ。

頭脳のできがよかろうと悪かろうと、あるいは五体満足であろうと障害があろうと、そんなことは一切問題にはならない。
仮に目が見えなくても、耳が聞こえなくても、手足が欠損していても、魂に出会うことは必ずできる。

そして、魂に出会えば、神気はその人の魂を通り、肉体身という扉をおしあけて、必ず現界にあふれだす。
あの三重苦のへレン・ケラーが、ついに魂と触れあったように、その人が肉体をもって生をうけたかぎり、どんな状態であれ、どんな境遇であれ、魂に至る道は等しく開けている。
目に見える肉体(ボディ)そのものが大切なのではなく、このボディを与えられている三次元に存在していることの意味を知ることが、最も重要なのである。

目に見える肉体身が現界に存在するからこそ、真理を感じとれる。
ここでしかわからない、ここにしかない真理が、三次元の肉体身の中には、埋もれた宝のように眠っているのである。

このことをもう一度しっかりと確認しておいたうえで、いよいよわれわれは、魂の救済という大問題へと移っていくことにしよう。


『魂世紀―神界からの波動』(田岡 満 著、学習研究社刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

魂の終末期

神類と人類との距離

父や母の生きざまを通じ、あるいは霊界の妻を通じ、守護霊を通じ、また数々の偉大な先達や、私を見守り育ててくださった多くの人々の愛念を通じて、私は自分自身の魂と出会い、魂をいかに輝かして生きるかを学ばせてもらった。
(注:著者・田岡満 氏の父は、山口組三代目組長の田岡一雄氏)

私個人としていえば、今の自分を十全に生かし切ること以外、本当の意味での仕事というものはない。

人はだれでも、自分を生かし切るということ以上に重要なテーマは持っていない。
この世に生をうけたのは、他のだれのためでもなく、自分のため、自分自身を百パーセント使い切り、生かし切るためなのだ。
決して罪滅ぼしのためでも、特定の神仏や教祖に奉仕するためでも、親や子のためでもない。

このことをまずお断りしておいたうえで、私は次に、今までだれ一人として気づかず、だれ一人として語っていなかった、ある恐ろしい事実についてお話ししなければならない。

今まで私は、異次元空間について、いろいろな角度からお話してきた。
それらすべての異次元空間を一言で言い表すなら、人間を含めた全生命体の超巨大な活動のフィールドということになる。

物質宇宙、心的宇宙、霊的宇宙の総体が、われわれの舞台であり、われわれに関わりをもった空間なのだ。

ところで、こうしたわれわれの空間とはまったく別個に、独立して存在している空間というものが存在する。
それが「神界」なのだ。

以下の点を、はっきりふまえてほしい。
神界は、われわれがこの世および死後の世界で関係する一切の世界とはまったく隔絶した、自足した完全世界であって、われわれの存在とは無関係に実在する。

神界に住む人々を、仮に神類と呼ぶなら、神類は、われわれの前に現れることもなければ、通信してくることも、まずない。
人類と神類とでは、あらゆる点でレベルが極端に速い過ぎ、語ることはおろか、姿を見ることも、否、想像することも不可能なのだ。

仮に人間を、一ミリの十万分の一程度の大きさしかないウイルスにたとえ、神類を人間に見立てて考えたら、両者の隔絶の度合いが少しはイメージできるかもしれない。
ウイルスの持っている全情報量、活動能力と、人間のそれを比較するのはあまりに愚かなことだ。
ウイルスが仮にいかほど根をつめて考え、想像し、瞑想したとしても、人間という概念には絶対に到達できない。
その活動次元が数千、数万段階も隔たっている。
それどころか、全存在の容量が根源的に掛け離れており、そもそもそうした問題にアプローチする回路自体がゼロなのである。

だから、神が降臨して人間に教えを垂れたり、導いたり、脅かしたりすることは、まずあり得ない。
あなたがウイルスに教えを垂れたり導いたりする姿を想像してほしい。
ウイルスに対し、その未来を予言する図を想像してほしい。
それがいかに滑稽なことか、あなたはたちどころに理解するだろう。

神という名のもとに現界に現れてくるのは、ほぼすべてが霊界人か自然霊である。
中でも、高級霊界中の龍神界に魂の本籍を置く龍神系神類は、古来しばしば現界に登場している。
また、地球外生命体―いわゆる宇宙人を、人類が神とあがめるケースもある。

いずれにせよ、神と名乗り、あるいは人間が勝手に神と呼んでいるこれら異次元の住人は、先に述べた神界の神類とは全く違うということを知ってもらいたい。

これら異次元の住人を神とあがめたてまつる人々は、それが神である証拠として、しばしば予知予言や奇跡の治病力などを持ち出すが、予知予言なら、異次元界に籍を置く老練な狐狸の類でもできるということを理解しなければならない。

予知予言は、霊界人ならだれでもある程度はできる。
人間ですら、感覚移行にすぐれ、あるいは霊的感受性の強い者ならできるのだということを、しっかり知っておかないと、つまらない流言や迷信に惑わされ、心界の中をさまようことになる。

異次元空間には、われわれのいう時間は存在しない。
それは、あるひとつの状態といってもよい。
ひとつの状態は、そこから出ないかぎり永遠に続く。
そこで、異次元界の住人が人間の、あるいは人類の状態を見ると、それがどのような遍歴をたどってその状態にたどりついたか、この状態がこのまま続けば、物質レベルでどういうことが起こるかは手にとるようにわかる。
さらに、現界と異次元空間は「写し写され」の関係になっているから、そこにあることはここにあること、ここにあることはそこにあることという具合に、これまたその現状・将来がはっきりとわかる。
つまり予知予言は、何ら奇異な現象ではないのである。

時間というものはいろいろな角度から説明することができるが、今の話の関連でいえば、それは一種の心の作用ということができるだろう。

現界人が、自己の魂と出会わないかぎり、その人は、遊ぼうが、学ぼうが、絶望しようが、出世しようが、ずっと同じ状態にある。
超霊界レベルから、あるいは魂のレベルから見ると、その人は同じ一点にとどまって変化していない。

しかし、肉体人間には、ひとつの状態にとどまっているとは感じられない。
それは心があるからで、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、泣いたりする心の動き―魂の海に立つさざ波のような、とりとめのない心の動きを空しく追い求め、それを時間の経過として感じているにすぎない。

しかし、くりかえすが、それはたんに寄せては消える泡沫(うたかた)の心の動きであって、魂のレベルでは何ひとつ変わっておらず、ただひとつの状態があるにすぎない。

そこで、この状態がずっと続けば、その人の行き着く先はわかり切っており、運命に流され、業に流されるしかないわけで、それを予知予言することは実にたやすい。
もともと時間のない霊界から見た場合、それを予言するのは、赤児の手をひねるより簡単なことなのだ。

にもかかわらず、予言はしばしばはずれる。
この意味を、人々は真剣に考えなければならない。
予知予言がはずれるのは、人間が、自分の置かれた状態を変えることができる―運命と呼ばれるものを変えることができるからで、Aの状態ならA'の未来につながるところが、Bの状態に変わったら、もうA'の未来は起こり得ないのだ。

その意味で、予知予言は一般的にいって低級な行為というしかない。
予知予言の前提は、ほとんどの場合、AだからA'になるという法則を利用しているにすぎない。
しかし、Aは、常にBになる可能性を内在している。
BはCに、CはDになる可能性を持っている。
AがBになるためには、心界というものを見極め、そこから一度出なければならない。
ところが予知予言は、Aにいる人を、ますます深く心界に引きずりこむのである。

このように、さして底の深くない予知予言をもって神界や神類の証拠とする発想は、あまりに幼稚で、おそまつである。
くりかえすが、神類と人類との距離、次元の開きは、それこそ大海をインクにして書き尽くしても尽くせないほどすさまじいのだと、しっかり認識してほしいのだ。

――――
輪廻の法も滅びる!

では、これほどかけ離れた神類と人類との接点はないのかというと、そうではない。
接点はある。
私は内観の果てで、それと出会った。

魂―これこそが人類と神類との、私の知り得た唯一の接点だったのでおる。

魂とは何かとの問いに対する私の答えは、ただひとつしかない。
それは「神の通り道」だ。
神は魂を通って現出する。
魂の位置に立ったとき、人は神の存在を初めて全身で経験する。
直覚する。

神について語り得ることは、これしかない。
魂は、神類を除く全生命体―肉体人間はもちろんのこと、幽界人、霊界人、龍や天狗などの自然霊も含めた全生命体の究極の単位といえる。
そして、それらはみな魂を持つ。

というより、魂の投射投影によって存在している。
だから、この全空間に存在する、あらゆる生きとし生けるものは、すべて魂の一点で神とつながっているともいえるのだ。

こうした成り立ちによって、われわれは、われわれの生存圏で生きてきた。
われわれの生存圏とは、もちろん霊界も含んでいる。

ところが、その、何よりも大切で、全生命形態の根源である魂が、今、かつてない危機に直面しているのである!

私はその事実を知って愕然となった。
自分でも信じられなかった。
打ち消せるものなら打ち消したかった。
しかし、心ではなく魂のレベルで知ったこと、感じたこと、経験したことは、どんなにあがこうが、決して否定できないものなのだ。
それはもはやこれ以上証明できないが、しかし絶対にそれが真理であることを否定できない公理のようなものであり、それを否定することは魂を否定すること、自己の存在そのものを否定することになるのである。

――――
魂の終末が始まっている。

この事実を人類は自分たちの問題として、真剣に受け止めなければならない。
信じられないことだが、全生命体の根源である魂が、今、死にかけているのだ!!

理由はよくわからない。
ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。
それは魂に付着した汚れが、もはや拭ってすむ段階をとうに通り越し、そのため魂の腐敗が始まったという事実だ。

「魂が腐敗するなんて、そんなバカな」と言われても、「魂がどうやったら腐るんだ」とたずねられでも、私にはお答えしようがない。
私はただ、あるがままを感得し、あるがままの状態をこうやってお話ししているにすぎない。
信じられない方は、自らの魂と直面し、自らの魂に問うてくれと言うしかない。

話を続けよう。
われわれ全生命体の根源は魂である。
その魂は、神界が創造したらしい。
らしいというのは、この問題も人知を超越しているからである。

その後、神界とそれ以外の全世界は遮断された。
そして我々の側の世界は悠久の昔から、独自に、あるいは自動的に回転してきた。

ところが、魂の腐敗によって、この世界を支配する大法が崩れだした。
すでに私たち兄弟の魂が、どんどん消えていっている。
魂が消えれば、その魂によって成り立っている世界の一部が消えていく。

その影響は、霊界など波動が霊妙な空間では、すでに現れ始めている。
魂の消滅により、投射投影された世界も消えていっているのだ!!

霊界の崩れは、すでに敏感な霊能者にはキャッチされている。
幽界も、自然界すらも、今やその仕切りが崩れだしている。

それらが消滅したらどうなるのか?
答えは簡単だ。
われわれは行き場所がなくなる。
輪廻することすらできなくなる。

消えた空間のあとには、真の無、絶対無の空間が出現する。
それはもう四次元連動帯の中に出現している。

私はそれを見た。
見たというより、この全身で感得した。
その底なしの恐怖感は、文字によっては伝えることができない。
万物を呑みこんで膨らむ真の闇、絶対虚無―それがもう、われわれの生息圏に、その不気味な姿を現しているのである!!

このときのあることを、釈迦は見ていた。
偉大な釈迦は、それを「輪廻の法も滅ぶ!」と表現した。
「滅法」と呼んだ。

このような破局を、魂はかつて経験したことはない。
輪廻の法が滅び去れば、魂も滅び去る。
輪廻とは、たんに生まれ変わり死に変わりするということではない。
回転のイメージで語られる輪廻とは、生命の姿そのものだ。
否、無生物を含めた全存在物の、根源的な存在形態なのだ。

あらゆるものは回る。
地球を中心に月が回る。
その地球は、太陽の周囲を回る。
太陽は銀河の中心軸に沿って回る。
銀河は大宇宙を回る・・・。

生命も回る。
生命の物質単位でDNAは際状に回る。
原子も回る。
電子も回る
霊界から現界まで、あらゆる世界は「回る」という言葉で表される存在のしかたによって存在することができる。
この大法が滅べば、すべてが滅ぶ。

救いの道はないのか?
われわれに成しうることはないのか?

『魂世紀―神界からの波動』(田岡 満 著、学習研究社刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

ものがたりの始まり

ものがたりの始まり

森羅万象あらゆるものを可能性として潜在させている空(くう)は、自分自身を思考した。
空(くう)は自身の投影を創造したのである。
これは革命であった。
ものがたりの始まりである。

―――
空(くう)のただひとつの願い

空(くう)は自身の投影であるあなたに語りかけた。
「あなたを祝福します。
あなたはあなた自身を使って、やってみたいことを何でも創り出してください。
あなたはいつも私と一緒にいます。
だから、さあ、行ってあなたの喜ぶものを何でも創り出しなさい。」

この偉大な親は、何一つとしてあなたに制限をしなかった。
ただひとつ、成長し、拡大して欲しいという願いがあるだけだった。

―――
創造の旅

空(くう)の分身であるあなたは、創造の旅に出た。
初源であるゼロポイントの中の旅である。

しかし、あなたは何処にも行くことができない。
時間と空間を持たなかったからである。

―――
最初の現実

何処にも行くことができないあなたは、親の言いつけを守ろうと空(くう)がそうした様に、自身の内面に自分の反射意識を創造した。

あなたの意識と、あなたの反射意識の間に生まれた現実が、最初の時間と空間である。
それは極めて速く振動する現実である。

―――
次の現実

あなたは親の言いつけを守る本当によい子である。
更なる創造を望んだのである。

そこであなたは別の位置に自分の反射意識を創造した。
それはゼロポイントと最初に置いた位置との距離よりも少しだけ遠いところだった。
こうして、最初の現実よりも少しだけ遅く振動する時間と空間が生まれた。
二つ目の天界である。

―――
降下の旅

あなた方がゼロポイントから少しずつ離れながら創り出して来た反射意識のこの旅は、「降下の旅」と言われる。

―――
七つ目の天界

あなたは、更に更に....冒険のためのステージ創りを繰り返していった。
次、次....と創造していった反射意識の位置は、だんだんとゼロポイントから遠ざかっていった。

そしてあなたは遂に、今いる位置に反射意識を創造した。
それはゼロポイントから遥かに隔たった七つ目の位置である。
ここが物質の天界、極めて遅く振動する時間と空間の中にあるあなたのユニークなステージである。

―――
二極化による想像のゲーム

遥かなる降下の旅の終点で、神の反射意識であるあなたは二極化による想像(創造)のゲームを始めた。

始源のゼロポイントから意識をそらし、振り子のように振れ出したのである。
右:左、マクロ:ミクロ、過去:未来、善:悪、硬:軟、美:醜、自己:他者・・・・・

あなたが認めた光の意識は現実として固まり、あなたはこの体験の中に入って行った。

―――
神々がまとう体

七つのそれぞれの天界に住む神々は、その天界のエネルギーと時間で構成される体に身を包んでいる。

あなたが異なる天界の神々を見ることが出来ないのは、あなたのエネルギーのフォーカスの置き場所が違うからである。

―――
七つの天界のエネルギーと時間

降下の旅で創られた天界には、その上位の天界のエネルギーが螺旋(らせん)状に渦を巻きながら、より長い波長となり遅い時間率となって降りてくる。

七つの天界のエネルギーと時間は、こうして独自のものとなり、それぞれの天界を満たしている。

―――
未知を既知にせよ

空(くう)があなたに与えた使命はただひとつであった。
「未知を既知にせよ」だ。

空(くう)は
「私を使って、あなたの望むどんなものでも創りなさい。
創造者になりなさい。
私はあなたの望むどんなものでも与えます。

善悪など存在しない。
進化だけが存在する。
創造だけが存在する。」

と言ったのだ。

あなたの親は
「あなたの望むどんなものでも与える」と言ったのだ。

―――
あなたはまだ、とどまりたいのか

あなたは存在すると知っているものしか見ることはできない。

これが、あなたがこの降下の旅にとどまり続けたり、愚かにも更なる降下の旅を試みようとする理由である。

―――
キリストとは誰か

あなた方はずっと立ち往生している。
ほんの少数の者だけが、物質の天界から3つ上の天界までは帰り着く。

さて、キリストとは誰のことだろうか?
立ち往生のタイムラインを終わらせて、あなたの本当の家である初源の天界へ帰る者のことである。

このキリストの旅路を「覚醒の旅」という。

―――
夢を表現する天界

既にあなたは、至福の天界で自己を神として成就させた。
あなたという精霊は、既に、自分が神であることを知っている。

それなのに、あなたは何故、再び、この物質の天界で自己を神として表現することを選択したのだろうか?

それは、この濃密な物質の天界でしか真の体験として完了させることが出来ないからだ。
この物質の天界はまた、表現する天界と呼ばれる所以(ゆえん)である。

―――
究極の定義

自己の究極の定義は、「わたしは神である」ということだ。

この定義を完結させるには、あなたは「神」を定義しなければならない。


        ―― ラムサ

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

アセンションと創造体験

ダイアード(物質存在)のアセンションと
トライアード(魂)の創造体験

魂としての私たちは「始まりの瞬間―創造主」の姿に、それぞれがユニークな意識の表現体として創造されました。
創造された瞬間、私たちは完全に自由に解き放たれたのです。

そうして「始まりの瞬間」(創造主)は、私たち一人一人の存在のリアリティについて、意識的に気づかないことを選択したのです。
「始まりの瞬間」はそれ自身を、私たちを通して無意識に体験していくのです。

・・・何を体験するの?
     創造を体験していくのです。

私たちは広大な魂です。
みな、同じ瞬間に、ユニークで決して改変できない存在として創造されました。
創造のモザイクのうちで一つとして同じものはありません。

魂は説明不能な「永遠なる意義」において、「始まりの瞬間―創造主」の包括的な表現とつながっています。
始まりの瞬間こそ私たちのただ一つの源です。

(創造主は意識的に私たちという存在に気づいていないのだ、ということを理解していないと、自分の意識内に空虚感を感じます。)

私たちは完全に自由であり、創造の中で自分たちを「自分たち」として発見するもしないも、思いのままです。

「始まりの瞬間」がその意識的な無意識を通して、私たちに覆すことのできない自由を与えたということ、
そして私たちは始まりの瞬間のビジョンの、かけがえのない一つの面であることに気づいたとき、
私たちの苦難に満ちた探求の旅は終わります。
「始まりの瞬間」との関係性を知ることは、創造主を求める努力からの解放を意味します。

一度このことを知れば、私たちは自分の価値を認めることができ、虚しさは聖なる意味で満たされていくでしょう。
私たちは自分自身を自分自身として表現できるようになるのです。

創造の瞬間、私たちが自由に解き放たれたのでなければ、創造主は生きていくうえで頼りになる解放の力とはなりえないでしょう。

この関係性を理解すれば、宇宙的な「価値の不当化」の傷に塩をすりこみ続けた、迷信や古めかしい教義から自由になります。

私たちはなんらかの義務によって、始まりの瞬間にしばられることは一切ありません。

私たちが完全に解放されれば、創造主と創造されたものの間に永遠の関係が生まれます。
この「叡智」があなたを自由にするのです。

私たちが創造されたときには、それぞれの能力や意志は平等ではなかったことを知ったとき、
すべての批判や比較はストップします。
それはこの次元であろうと他の次元であろうと同じです。

この次元でのジャッジメントは人格を通して体験されますが、それは自己中心性が織りなす不透明のベールとなって、どの次元のリアリティにおいても本質を感じる能力を曇らせてしまうのです。

ジャッジや葛藤を手放すことで、私たちは抑圧してきたすべての能力をその究極まで発揮することができます。
そうなると五感の直感的側面を生かして、人生のすべての領域を自由に使うことができるようになります。
眠っていた能力で創造の精妙な多次元的構造をつかむことができるからです。


始まりの瞬間の二つの基本的な要素

創造の内に存在するすべては、そのオリジナルの形体を改変することはできません。
すべてが「始まりの瞬間―創造主」の多次元的投影だからです。

すべてが―最もささいな小さなかけらでさえ―その内には永遠のすべて、
創造のすべてに関する完全なる方程式が備わっています。

知性で捉えることのできない無限の可能性が「始まりの瞬間―創造主」の最初のビジョンに含まれているのです。
想像しうる限りのすべての組み合わせが存在しているのですが、創造の基本的な本質は二元的です。
物理的、非物理的創造には、二つの明確な形体が存在します。

1) 非物理的形体:
トライアード(三位一体)。基本的第一次存在。
私たちはこの形体を「魂」と呼びます。
魂は純粋な意識、純粋なエネルギー、純粋な衝動として表現しています。
ミクロの視点、つまり人間の視点からは魂はしばしば単に「意識」と言われます。

2) 物理的形体:
ダイアード(二元性存在)。基本的進化存在。
地球環境では私たちの複雑な多機能を持つ肉体は、基本的にはエネルギーをベースにした物質と捉えられています。

トライアードと呼ばれるすべての第一次存在(魂)は、創造された最初の瞬間から全体であり、完成された存在です。
より高次元の存在へは進化はしません。

進化する存在であるすべてのダイアード(物質存在)は、始まりの瞬間(創造主)の最初のビジョンの可能性を達成するべく他のダイアードと結合します。
ダイアードが組み合わされたものが細胞になると、感覚のない意識がダイアード性物質として形成され、始まりの瞬間の虚空の中に進化しつつ入っていきます。

ダイアード性物質である細胞が質量を持つようになると、「拡大した意識」を持つようになります。
初期段階では、この意識はそれを作り出した物体の持つ制限された期間(寿命)を超えて存続し拡大し続けます。
このために拡大し続ける意識は今まで入っていた物質と同じような物質を再生しようと、あるいは似たような物質を占有しようとします。
発達していくライフサイクルの一環としてそれを行うのです。

自らを維持していくことが安定してくると、感覚を持たない意識(もともと質量を持った細胞あるいは細胞の塊から生まれたもの)は自分の前身だった物質を再生し、より長い寿命を持つものへと進化していこうとします。
この無意識または前意識の生存の「欲求」は、多機能を持った細胞を形成しようとします。
このことがさらに前身である物体が消滅したあとも存続する、より拡大した意識を生み出します。

多次元的な意識は進化するダイアード性の要素(単体)が組み合わされたときの副産物なのです。
複数の魂が一つになり、お互いのユニークな資質をシェアし合えるように、ダイアードもまた組み合わさり新しい進化する構造を形成しながらお互いを強化しあうのです。

極微のダイアードの単体の要素の元の形体は不変です。
そして組み合わさって新しい物質を形成したあとは、その物質の寿命が尽きたあとも継続して存在するのです。
こういった意味で複合したダイアード、または一連の類似した生命体を形成していくにつれ、ダイアードはその最終形体に近づき、より偉大な「感覚を持たない意識形体」になっていきます。

最終形体はどのような形にもなりえます。
生命体あるいは非生命体、いずれにもなりうるのです。

すべての物質は意識を持っています。
そして地球上で最も進化した最終形体は霊長類です。
霊長類の環境においては、私たちは魂(トライアード)であり、物理的形体(多機能性のダイアード)に宿っている存在です。
人間の肉体は何兆ものダイアード(基本的進化存在)から成り、より大きな形体に進化すべく、すべてが調和する特定の形体の創造を目指しています。

それぞれの「特定の形体(細胞で構成されたもの)」はすべてがまったく同じダイアード性の物質でできています。
実際、物質と言われるすべてのもの、すなわち鉱物、気体、人の臓器、複合化学物質、すべての有機的な物質、木製のテーブル・・・これらの基本的な構成物はどれもまったく同じなのです。

人間の場合、基本的なダイアードの形体は「幹細胞」と呼ばれ、その細胞から人体のすべての細胞が作られます。
幹細胞の基本的な性質は、ある特定の機能を果たすための特定構造を一切持っていないということです。
言い換えれば、幹細胞は隣の細胞と協力して心筋細胞のように身体に血液を送り出すことはできません。
赤血球のように血管内を酸素を運ぶことはできませんし、神経細胞のように腕や足を動かすために電気信号を伝えることもできません。

けれども特定の機能を持たない幹細胞は、特定機能を持つ別の細胞を創ることはできるのです。
心筋細胞も、血球も神経細胞も。

この特定機能を持つ細胞を創り出すプロセスは「分化」と呼ばれます。
この進化のステップは、その物理形体が環境の中で生き残るために必要なときに起こります。

科学者は今、幹細胞の内側と外側の何が引き金となって分化を促すのかを、やっと理解しはじめたところです。
内側の引き金となるシグナルは、細胞の遺伝子によってコントロールされます。
遺伝子はDNAの長い鎖の中に散在し、中にはその細胞のすべての構造や機能の指示が記録されています。
外部からの細胞分化を引き起こすシグナルは、他の細胞から出される化学物質、隣り合った細胞同土の物理的な接触、そして全体の形態に関わるある種の分子などです。

では、一つの幹細胞が何十億の細胞を持つ背骨を形成しようと決断するときの非物理的な、形而上学的な要素は何でしょうか?
形而上学的な観点から見れば答えはシンプルです。
自己選択は肉体が死を迎えたときに始まります。
死後も肉体意識はさらに継続し拡大し続けようとしますが、幹細胞には前の肉体の意識が保持されています。
ということは一度ふくらはぎになった筋肉は常にふくらはぎに、くるぶしの骨は常にくるぶしの骨になるということでしょうか?

そうではなく、単純に一つのダイアード(肉体)の寿命を終えた継続する意識は、直前のダイアードと同様の、あるいは良く似たダイアードを次の形体として選ぼうとするということです。

進化のジャンプは、その細胞の全体調和が「保持記憶」を通してシフトしたときに起こります。
また細胞をとりまく極徴世界の環境も影響します。
このごくわずか保持されている拡大した意識が全体の調和に変化をもたらし、新しい領域を引き寄せる力になります。

幹細胞では自己選択のプロセスが始まり、それがやがて多機能を持った多次元的な意識となるのです。

唯一無二の宇宙の法則

トライアード(魂)は意識的に進んで他の魂と融合し、その視点を分かち合おうとします。
一方ダイアードは唯一存在する宇宙の法則にしたがって他のダイアードと結合します。

唯一の法則―引力の法則です。
この法則はすべての進化する存在にまったく同じ影響を与えますが、魂には影響を与えません。

ただ魂がダイアードに宿っているときにはわずかながら影響を受けます。
第一次存在である魂には似通った存在はありません。
始まりの瞬間から、私たちは意識、エネルギー、衝動が多次元的な三位一体を形成した存在です。
多次元性を獲得するのに他の第一次存在と結合する必要はないのです。
最初の瞬間から私たちには多次元的意識が備わっていました。

しかし進化するダイアードは、無意識的に多次元性を獲得する手段として、宇宙の引力の法則の支配を受けます。
私たちトライアードは意図してダイアードや他のトライアードと結合し、多重構造の「創造」を観察する能力を強化拡大しようとします。

ダイアードが多機能、多次元的意識を獲得するにつれ、徐々に拡大した継続する意識を包みこむために恒久的なエーテル体が形成されます。
この新しいエーテル構造が作りだされるための条件や環境については、アカシックレコードにははっきりと示されていません。

生き残ろうとするダイアードの意識は形体(肉体)が失われたあとも、その外側で存続していくためにエーテルの外被を作りだします。
そのとき新しい意識が―ダイアード的知覚が生まれるのです。
この存続していく意識は今までのすべての形体の記憶を保持し、今去ったばかりの形体に似通った物質を次の住処として積極的に探します。

進化のこのポイントまで来ると、ダイアードは意識とエネルギーからなる存在となっています。
このように拡大した形体は今や「始まりの瞬間」のビジョンを実現する存在なのです。

私たちはダイアード(物理的肉体)と結合し、この世界に実際に「現れている創造」を理解します。
物理的肉体を包み込むエーテル体に保持されているダイアードが認知したものを情報として取り入れるわけです。

私たちはダイアードの持つ記憶と、魂のエーテル体に刻まれた人間としての今まで転生の記憶とを融合します。
このように進化するダイアードと第一次存在のトライアードの双方の枠組みから体験していくために、「創造」を観察する能力が飛躍的に速く拡大していくのです。

意識、エネルギーそして聖なる衝動

トライアードである魂は、始まりの瞬間に創造された、自然な状態において単体で独立して存在できる数少ない存在の一つです。
そして引力の法則の影響をまったく受けません。

「始まりの瞬間―創造主」のイメージに創造された魂は、「意識、エネルギーと衝動」が一体化した存在として、永遠に静止安定した状態を保ちます。

ただ魂は自らすすんで他の魂と一緒になり、結合存在や複合存在を形成するのです。
結合存在は二つの魂が結合したもので一つの存在として行動します。
複合存在は三つかそれ以上の魂が結合して一つの魂として活動するのです。

魂が結合すると、それぞれは単体としての自己を手放し、組み合わされた状態に意識をフォーカスします。
他と結合し、拡大した存在の中で、自らのユニークさをその一部に吹き込むのです。

これは重要なことですが、それぞれの魂はオリジナルの存在意義と独自性を保っていますし、自由にその結合状態を解消することもできます。
例外はありません。
魂が結合状態を解消するとき、自分が体験したすべての記憶を持ち帰りますが、同時にそのときのパートナー独自の体験も持ち帰ることができるのです。

こういった意味で、私たちは同時に意識の枠組みを広げ、より深くそして多くの創造の現実を観察できるわけです。
これが私たちの使命だと言い換えることもできます。

いわゆるダイアードは始まりの瞬間のビジョンを表現するための形体を探しています。
トライアードはビジョンが物質化、現実化したものを観察します。
トライアードはダイアードに宿り、彼ら(ダイアード)の努力の結果を見るわけです。

木が、自分が木であることを完全に知ることができるのは、
私たちがその物質を木だと「観察する」からです。
私たちが独自の視点となり、木はその視点を通して自らを観察するのです。

このタイプの叡智は特に哺乳類において顕著に見られます。
なぜなら私たちは同じ哺乳類として直感的なリンクを共有し、すぐに私たちの視点を通して彼らの観察が正当化されるからです。


『アトランティスの叡智』
    (ゲリー・ボーネル 著、徳間書店 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)


私たち(トライアード(魂))は、
肉体(ダイアード(物質存在))を通して、
創造主としての創造活動を体験させてもらい、
その代償として、
肉体(ダイアード(物質存在))を
アセンションさせる約束をしているのです。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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