許しと全肯定
私が皆さんにどうしても知っていただきたかったことは、これでほぼ語りおえた。
しかし、これだけでは、まだ皆さんの中に、多くの疑問が残ったままだろう。
残るひとつの章では、いくつかの角度から、「生きる」ということについて、私が知りえたこと、感じたことを書いていくことにしたい。
もちろん、これから述べる考えが絶対だと言うつもりはない。
私は、前に、悟りもひとつの状態にすぎないと書いた。
ひとつ悟ったら、もう十分というものではない。
ひとつ悟ったところから、何十何百という悟りの世界が開けてくる。
なんでもいいからひとつ悟ることは、この無限に深化する悟りの世界に参入するための許可証をようやく手に入れたということにすぎない。
すべてはそこから始まるのだ。
その意味で、私はまだまだ自分がこれからの人間だということを承知している。
悟りの空間で私という人間を深化させ、魂を磨き、創造力の回路を賦活(ふかつ)し、ごくわずかでもいいから新界の創造に参加し、あわせて自分を生かし切るという欲張った計画を、私は持っている。
私は欲を否定しない。
欲は、欲という名で呼ばれるエネルギーだからだ。
百馬力のエネルギーを使えるのに、びくびくして一馬力ぐらいしか使わずにエンストを起こすような人生を、私は送るつもりはない。
だからこの先、私という人間がどうなっていくのかは、私自身にもわからない。
これから書く意見が、もっと深化したり、変わったりすることがあるかもしれない。
今の私は、今の私のレベルでしか書けないし、考えられない。
どうかそのつもりで読んでいただきたい。
その上で、皆さんが魂を発見する際のお役に立てたなら、これ以上の喜びはない。
さて、「生きる」ということだが、このことを頭で考えていくと、際限なくむずかしくなる。
どうしても迷いの世界に入ってしまう。
右に行くか左に行くか、進むか退くか―そのどちらも正しいような気がするし、また、まちがっているような気もしてくる。
まじめに考えこむ人は、そこで自分を責める。
判断がつかないのも、先が見えないのも、悪いことが起こるのも、結局自分がダメだからだと卑下し、その結果、ますます深く迷いの世界に入りこんでしまう。
しかし、ちょっと待ってほしい。
迷うのは、本当にあなただけのせいなのだろうか?
「そうだと思う」と答えた人は、大きな錯覚をしている。
というのも、現界で生きているわれわれが、しばしば右か左かで迷うのは、ひとつには心があるためだが、より本質的には、この現界という世界そのものが、そもそも「矛盾」でできているからなのだ。
たとえば、「この世は心の影であり、心の投影だ」という主張と、
「この世は物質だ。思考も心も生命も、すべて物質によってできている」という主張は、いずれも幾分かの真実を持っている。
どちらが正しく、どちらがまちがっていると一方的に決めつけることはできない。
「人はパンによって生きるに非ず」という主張は正しいが、同じように「人はパンがなければ生きていけない」というのも真実だ。
「金は不浄だ。金が人を迷わし、魂を汚す」という考え方にも一片の真実が含まれているし、「金は必要だ。金がこの世の中を動かしている以上、金を不浄視するのはまちがっている」という主張にも、同じ程度に真実がある。
一方で「仏に会ったら仏を殺せ」と教える人があれば、もう一方では「仏に全託せよ」と教える人がいる。
「悟りは絶対自力で開ける」と考える人があるかと思えば、「絶対他力」を説く人もいる。
どちらかが一方的に正しく、どちらかが一方的にまちがっているとは言えない。
いずれも真実を含み、同時に、いずれも絶対ではないのである。
(自力と他力自力とは、自らに内在する霊性によって、自分のカで悟りを開こうとすること。
他カはその反対で、自分のすべてを仏菩薩に全託註し、ひたすら念仏などを唱えて救われの境に入ること。)
現界は、このように常に相対的なのだ。
常に矛盾があり、「矛」と「盾」のそれぞれに真実が含まれているものなのだ。
なぜかというと、すでにこれまでの各章でくりかえし説明してきたとおり、現界は物質と心が重なってできており、さらに幽界・霊界などとも一部重なりあってできているからであって、それぞれの空間の真実が、混然となって存在しているため、好むと好まざるとにかかわらず、いくつもの「真実」が現れ、うつしだされてくるからなのである。
だからこの世界では、これだけが正しいということは絶対にありえない。
そもそも現界は、そのようには造られていない。
そこに現界の意義があるのであり、この相対的で矛盾した真実を含む世界を生きぬくことで、人間はいながらにして三千世界を学び、真の知恵と悟りを得られるようになっているのである。
この現界に生をうけながら、何かひとつのことだけにこだわり、真実はこれのみで、他はすべて誤りだと主張することほど、現界での生命をないがしろにする生き方はない。
というのも、真実と過ちを截然(せつぜん)と区分けし、その世界にとっての真実のみによって成り立っている世界は別にあるからだ。
たとえば霊界には、肉体もなければ物質もない。
食べる必要がないからパンもない。
もちろん金もない。
従って「霊界は物質だ」という主張も、「霊はパンによって生きる」という主張も、「霊界は金だ」という主張も存在する余地がない。
純粋な霊という波動世界の真実のみが、その空間を支配しているのであり、矛盾のない、その世界固有の真実のみによってできている世界なのだ。
この霊界の様子を垣間(かいま)見てきて、あるいは本などで生半可な知識を得て、それを現界にも当てはめようとするから、まちがいが起こる。
たしかに霊界では「パン」は不要だが、現界の肉体人間には「パン」が必要なのだ。
その空間の成り立ちそのものが違うからである。
先に霊界の例をだしたが、同じように、ひとつの真実でできた空間世界は、まだ無限にある。
心界にせよ、無数の地獄界にせよ、その世界にのみ通用する真実があるから、それしか見えない人には、たとえば現界は「心の影」としかうつらないし、「苦しみの世界」としか認識できない。
しかし、現界というところは、それらすべてをうつしこんでできている世界なのだ。
矛盾する真実がいくつもあるような世界なのだ。
また、あって当然の世界なのである。
だからこそ、現界に生をうけた人は、居ながらにして三千世界を遍歴することができる。
地獄から霊界までの真実を見ることができる。
この現界に生をうけた価値のひとつは、まちがいなくここにあるのだ。
そこで私は、常に「全肯定しよう」というのである。
あるがままに、あるものを認めよう。
これだけが正しいという思い込みはやめよう。
偏見差別はやめて、この世にあるものは善と見えるものも悪と見えるものも、矛盾した真実も、ひとまずすべてをあるがままに肯定しようというのである。
私は内観の果てで、この全肯定へとたどりついた。
醜い自分を直視した果てで、それでもなおこの世に生かされていることの真実の重みに気づき、現界が、何にもたとえようのない巨大な「許しの空間」であることを悟った。
生きとし生けるものすべてが、ただそれが存在しているという理由だけで、存在することが許されている世界―それが現界なのだと悟った。
「あるがまま」の意味を、本当に「素直」に受け入れることができるようになったのはこのときだった。
全肯定の思い―この思いがあなたの腹に入れば、「生きる」ということが自然に見えてくる。
そのときあなたの前に現れた矛盾は、もはや矛盾ではなくなる。
臨機応変に、そのときどきの事実を見極め、選択しながら、しかも少しもあなたの「生」をそこねることなく生きることができる。
生命を、楽しむことができるのである。
釈迦が自分の説法を「方便」と言ったのは、この意味なのだ。
この人にはAが真実だが、あの人にはBが真実なのだ。
AとBが、仮に矛盾していたとしても、それで釈迦が二枚舌を使ったということにはならない。
この相対的な世界では、A、Bいずれもが真実なのであり、同じ程度に真実ではないということだけのことなのだ。
そのことをしっかりとわかり切ることが、この「現界で生きていく」ことの意味を知ることに通じるのである。
――――
魂の系列、血の系列
矛盾を矛盾として認め、聖も邪も、善も悪も、右も左も、あるがままに存在することが許されているのだと腹の底から肯定することができたら、
そのときその人は、矛盾の中に真理を、相対的な現象の中に絶対を見い出すことができる。
なぜならその人は、不動の中心を、そのときすでに発見しているからだ。
すべてがうつろっていくこの現界の生の中で、決してうつろわず、迷わず、変わることのない中心とは、その人の魂である。
全肯定とは、魂の位置に立つことなのである。
魂の位置に立ったとき「自覚」が生まれる。
自覚とは「自己」に「覚」醒する、
「自己」を感「覚」する、
「自己」を「覚」(さと)るということだ。
では、「自己」とは何か?
「自己」とは、最奥の魂、最先端の現界人としての私、そしてその中間にあるすべての守護霊・背後霊を含む前生の私のことなのだ。
この三者をあわせて「自己」というのである。
これが、魂の位置から見た「私」というものの一切であり、「自己」であって、私という存在は、これ以外の形では存在しないのだ。
そして、「自己」の目的は、魂と一体化し、「自己」そのものになりきること以外にはなく、滅びるのも、発展するのも、完成をめざすのも、すべては「自己」のみの責任である。
釈迦が天と地を指さして宣言したように、われわれの一人一人は、この自己において「天上天下唯我独尊」なのである。
たとえば百パーセントのうち、九九パーセントまでそろっていても、最後の一パーセントが足りないと完全にはなりえない。
あなたも私も、この意味において、百パーセントになりうる可能性を持った一パーセントの存在なのである。
だからこそ、唯「我」独尊なのである。
この魂の位置に立って信仰というものを見ると、何が大切で、何が迷いかがスッキリと見えてくる。
迷いの信仰と、安心の信仰の違いがわかってくる。
迷いは怯(おび)えを生む。
同じものが、一方では不安の種となり、もう一方では安心・喜び・充実の種になる。
たとえば、自分は絶えず守護霊に監視されているという観念にとり憑かれ、身の回りに起きることのすべてを守護霊作用と思い込み、一種の関係妄想に陥る人がいる。
関係妄想とは、互いに何の関連もないできごとを無理やりひとつの関心事に結びつけてしまう「心の病い」で、たとえば遅刻するのも、出世するのも、猫が死んだのも、体に赤斑ができたのも、出がけに知人と会ったのも、何もかも守護霊作用・・・というやつだ。
この人は、守護霊が自分とは別個の外的存在だと思いこんでいる。
そういう「思いの世界」を自分で勝手につくりあげ、その中で喜んだり、悲しんだり、怯えたり、悩んだりしている。
しかし、守護霊も「自己」なのだ。
このことを自覚すれば、この迷妄の世界から、スッと脱出できる。
宗教にまつわる迷妄は、ほかにも実に数多くある。
たとえば霊感商法の壺や幸運を招くペンダント、心霊絵画などなど―。
これらは、自己の一部を迷妄界にさまよわせ、肉体意識もその中でさまよっている人にとっては「真実」とうつるが、その空間にいない人にとっては迷妄そのものなのだ。
神仏の前では威儀を正さなければいけないとか、白い清浄の服でなければいけないとか、正座しなければいけないとか、あるいは信仰を貫くためには清貧に甘んじなければならないとかいったことも、すべて人間の側の勝手な思い、創作でしかない。
それもまた思いの世界にすぎず、それなりの意味も役割もあるにはあるが、決してとらわれる必要のない「方便」であると知ることが大切なのだ。
信仰にまつわる悪質な迷妄の中でも、「先祖の崇りで不幸が起こるのだから、先祖供養をしなさい。そうしないと救われませんよ」という教えは、その広がりからいって看過できないものがある。
ここでいう先祖とは何なのか?
私を例にしていえば、今は田岡家の一員である。
しかし過去世では、新井姓だったこともあれば、黒田姓だったこともある。
日本人ではなくインド人だったこともあるし、虎や狐や犬だったこともある。
虫だったこともある。
もし先祖を、生まれた家系の物故者とすると、十数代も遡(さかのぼ)っていくうちに、地球の人口よりも数多くの先祖を、私は持つことになる。
そして、それらの先祖から祟られるなどということになったら、生命がいくつあっても足りるものではない。
もちろん、そんな愚かなことはありえないので、信じる必要は一切ない。
そもそも「天上天下唯我独尊」の人間に崇れる先祖霊など、存在しないのだ。
確かに、この世に崇りというものは実在する。
しかしそれも、つきつめていくと、自らが前生のどこかの時点で発した思いが、めぐりめぐって今生のあなたに投射投影されてきた現象にすぎず、結局はそれも「自己」の一部なのである。
では、先祖供養など必要ないのかというと、それもまた違う。
「自己」という魂の系列とは別に、一肉体人間としての流れ・因縁というものも、確かに存在している。
肉体というものが造られ、血の流れというものがあるからこそ、私は神の出入口である「自己扉」(肉体)を持つことができ、この世に生を受けることができたのである。
田岡一雄と田岡フミ子は、前世では異なった姓であり、夫婦でもなかった。
もちろん私も、彼らの子ではなかった。
しかしこの三人には、因縁があった。
そこで父は田岡一雄として生まれ、母は深山フミ子として成長したのち、田岡フミ子となった。
もってきた因縁によって家が決まり、肉体が決まった。
その田岡家に、私が生まれた。
私と父、私と母の因縁は、血という物質的な形で、目に見える形で、実体化し、回路化した。
血をつきつめていくことで、霊能者に頼らなくとも、前生を知らなくとも、「自己」を見通すことができるように、われわれは造られているのである。
このように造られているがゆえに「唯我独尊」なのである。
だれもはっきりと気づいていないが、われわれは血の中に、過去世の因縁の具体的なデータをもって生まれてきている。
血をつきつめることと内観は、本質においては同じことなのである。
血の中には、よい因縁もあれば、悪い因縁もある。
その血を、やはり因縁によって私に流した父母や、そのまた父母である御先祖たちは、
「血の中のよい部分は伸ばしてほしい。
悪い因縁は、どうかあなたの代で断ち切ってほしい」
と切実に願っている。
いわば、血を純化してほしいと願っている。
そうして霊界から、私のほうを見守っている。
そうした父母や祖父母の願いを満たし、私自身も悪因縁を断ち切っていくこと―これが「供養」である。
読んで字のごとく、自分自身と、その血の投影者であり、血の因縁で結ばれた先祖を、「供」に「養」い育てていくことが供養なのである。
毎朝仏壇にお茶や線香をあげたり、熱心に墓参りすることだけが供養なのではない。
それは人としての、たんなるマナーにすぎないのである。
――――
魂の制御装置
心の空間の中の迷妄界について話をしたついでに、もうひとつ、おもしろい空間の話をしておこう。
その空間は、今から五年ほど前に発見した。
その空間を、私は勝手にスーパーサクセス空間=SS空間と名づけているが、この空間の存在に気づいたのは、私が自分自身の殻を破って、母親の胎内につながる空間―現状にとどまろうとする空間、甘えの空間、つまり私たち人間のほとんどが安住している一番心地よい空間から、その外へ一歩踏みだしたときだった。
そのとき初めて見えた数多くの空間のひとつがSS空間だった。
卵の殻を破って顔を出した雛の目にうつった外界に、たくさんの空間があって、そのひとつがSS空間だったと思ってもらえばいい。
ただし、このたとえは三次元的発想だから、雛は卵の殻を必ず割らなければ外へ出られないわけだが、実際はそうではなく、卵の内部に外の空間が入り込んできて同時に存在しているような感じなのだ。
この部屋の中に隣の部屋が入り込んできて、入りまじって同時に存在するという感じである。
つまり雲と雲とがぶつかりあった状態とでもいえばいいのだろうか。
なかなか適切な表現がむずかしいのだが、一つの空間があって、それに別空間が無数に重なりあい、蜂の巣のようになっていて、さらに重なりあった空間が鏡にうつるように投影しあっているのである。
鏡を何枚も何枚も増してゆくと、次々に重なった映像が作られるが、その場合、鏡面にうつっているものが鏡面に実在するわけではない。
SS空間の見え方はこの感じに一番近いかもしれない。
万華鏡をのぞくような感覚ともいえる。
こうして私はSS空間を発見したわけだが、この空間はいわゆる「運」とか「ツキ」をもたらしてくれる空間だった。
この空間に入った人は、それこそ何をやっても成功するし、自分が失敗したと思ったことでも結果オーライになる。
向かうところ敵無しの勢いで、ツキに乗って猛進する。
普通、人が「ツイている」「ツイていない」というのは、内なる自己が瞬間的にSS空間と点で触れあう現象なのだなと、このとき私は理解した。
さて、この空間は、普通は今いったように、人生のある時期、ある局面で、たまたま触れあえるにすぎない。
ところが、自己の内面をひたすら見つめ続け、心の旅をしていった過程で母親の空間から脱け出して、本当の意味での自立ということを知ると、このSS空間と、点ではなく線で接することができるようになる。
線で接するということは、すなわち一定の長さをもった期間を通じて接することができるということであり、SS空間に、ある一定期間、身を置くことができるということを意味する。
もしあなたが熱烈に成功を求めるなら、この空間に入るのが最も手っ取り早い。
百パーセント保証つきで、あなたは世間の勝利者になれる。
そして、それだけのためならば、それほど厳しい自己直視を行わなくとも、少しの修行を積むことで、比較的簡単にこの空間を発見することができるだろう。
けれども、SS空間に入って、そこでもう一度自分を見つめなおすと、あなたにはこの空間も、自己にとっては真の安住の地ではないということに、いつか気づく。
問題は気づかずに、いつまでもそこにとどまっていると、あなたの進化がそこでストップしてしまうということである。
このSS空間も、しょせんは心界の内のひとつの空間にすぎないのだ。
この空間に入ると、何をやってもうまくいくから、初めのうちこそ感謝しているが、そのうち感謝の念も薄れて、あたり前のように思いだす。
何でもできるから、「我に神仏の恩寵あり」と錯覚したり、「我は覚者なり」とか「地上の支配者」だとか思いだす。
そうした人物を、実際私は知っているが、彼はSS空間のとりこになって、やがて顔つきまで変わり、彼に見合った霊界波長を呼び寄せた結果、その波長が鏡のように当人に投影されて、「成功」という名の牢獄に封印されてしまった。
「成功」も「幸福」も、真剣な自己直視を経ず、中途で放りだすと、こうした魔境でストップしてしまう。
これは、成功を求める心や幸福を求める心が悪いというのではなく、中途半端に求めるから、中途半端な成功なり幸福しか得られないということを示している。
心界は果てしなく広い。だから心界の中で、魂に出会ったように錯覚したり、神に出会ったように錯覚することはしばしばあるし、かりそめの成功や幸福に溺れることは、日常茶飯である。
けれども、魂は賢明であり、魂が本来いるべきところからはずれ、ある一定以上の汚れがつくと、自動的に「そこから出よ」とシグナルを送る自動制御装置のような働きをもっている。
この良心の声に耳を傾けながら、なお自己を真剣に見つめながら進んでいけば、必ずその人は心界の外に出、幽界や霊界の外に出、ついには魂の空間に入ることができる。
そして、不動の成功、不動の幸福をつかむことができるのだ。
成功にマニュアルは存在しない。
こうやったら成功しますという本は山ほどでているが、そもそも成功とはひとつの状態に過ぎないものなのだから、自分で行動を起こして状態を切り替え、持ちあげないかぎり、向こうから成功がやってくることなど絶対にありえない。
あなた自身が、成功という状態に向かってとことん歩いていくしかない。
その歩き方は、マニュアルには書いていない。
人はみなそれぞれの前世を持ち、因縁を持ち、血を持っている。
そこから導き出されてくる歩き方も、一人一人違っている。
Aさんならこれ、Bさんならあれというように、皆違う。
だから、自分にしかない歩き方を発見するためには、結局は「自己」をギリギリまでたずねる以外ない。
守護霊も前生のあなただということをすでにあなたは知ったのだから、ますます「自己」にたずねる以外ないということが、理解できるだろう。
そうして進んでいけば、あなたはおのずと「この世に成功とはこれ以外存在しない」という状態を知ることになる。
感覚できるようになる。
そのときあなたは金持ちかもしれないし、また、たいして金は持っていないかもしれない。
しかし、それはもうどちらでもいいことだということを、あなたは知っている。
「成功」とは、ないものをもっと欲しい、もっと欲しいといって果てしなく増やしていくことではなく、今あるもので満ち足りている自分を感覚することだということが、実感できるからだ。
何度もくりかえすようだが、一切はあなた自身のうちにある。
それをたずね続けていけば、あなたにとって必要なものは、すべてあなたの手に入る。
一切の疑問に対する答えも見つかる。
そして、自分の生を生き切ることができる。
そのような人々の魂が弥勤の世をつくりあげる。
新界を創造する。
幸福を求めるのは結構、成功を求めるのも結構、仕事を楽しむのも、上達を求めるのも結構。
大いに求めてほしいと思う。
求めて求めて、求め続けてほしいと思う。
ただ、適当に頭で処理したり、中途半端に投げだしてはもったいない。
徹底して、「自己」にたずね、あくまでとどまることなく求め続けてほしいと願う。
その際、あなたのパートナーとなるのは、「良心」であり、「感性」だろう。
霊感・霊能は感受性であって感性ではない。
理屈や理論は頭脳作用であって、感性ではない。
今、感性の時代といわれるのは、弥勅の世、新空間が、感性という次元をベースに創造されるからなのだ。
感性(フィーリング)は、魂から発している。
感性は、いわば魂の知覚だ。
感性とは、ただただ感じていくその状能―あるものをあるがままに感じ、受け入れている状態そのものなのだ。
言葉をかえていえば「素」の状態そのものなのだ。
そしてそこからおさえようもなく強い勢いで浮かびあがってくる感覚
――すべてのものに「謝」まっている「感」覚、
「ごめんなさい」「ありがとう」の「感謝」の感覚が実感と結びついたとき、
われわれはそれと気づこうが気づくまいが、弥勤新界の創造に参加しているのである。
――――
神様食べた
三位一体という言葉がある。
これは人間社会で思考と実践の一致した状態を意味する。
まず実践を基盤に置いて、心と身体と魂の三つが融け合うことを三位一体と呼び、人がこの状態になるとき、それを素直と呼び、あるがままの状態という。
心、身体、魂―この三者をスムーズに融合させ、三位一体となるためには、人間は心を制御しなければならない。
その制御法の中に「三不心」(さんふしん)と呼ばれる心の処し方がある。
不動心、不惑心、不問心の三つだ。
不動心―これは心を動かす必要なしという意味で、感情の世界で一歩離れたところから物事を見つめるところから、この心ができてくる。
不惑心―これは、人惑う必要さらさらなしということだ。
心の中には錯覚界、妄想界といった空間がある。
その中に入って、「自己」を見失うのが惑心であり、そうした世界の中に身を置いても、真理という一点に立って惑わないのが不惑心だ。
不問心―神にも問う必要なしという意味だ。
神にも仏にもたずねない、安易な答えを神仏に求めることをしないのが不問心である。
この三位一体は、だれでも魂の呼び声を素直に肉体身に反映できれば、すぐに実現する。
それが実現しないのは、魂の代わりに頭に頼り、心と身体と頭脳の三位一体で、すべてを処理しようとするからなのだ。
確かに頭で考えている間は、これは非常にむずかしい。
頭ではわからない。
頭では見えないし、頭では心をコントロールすることもできない。
頭脳は肉体に属し、死ねば灰になって消える。
心は肉体に属さないから死んでも消えないが、しかしその行く先は心界でしかない。
魂だけが、永遠の世界とつながっている。
魂だけが、神と直接に触れあうことができる。
神とは何かと問うのは頭であり心だが、魂は問わずに、わかるのだ。
私は今、長女の麗(うらら)とマンションで二人暮らしをしている。
妻が亡くなったときには乳呑み児だった娘が、早いもでもう中学生になって、たまには食事をつくって私に食べさせてくれるまでに成長した。
ある日曜日の朝のことだった。
ちょうどお手伝いさんが土曜日から出かける用事があって不在で、父娘二人きりの休日の朝だった。
晴れあがった絶好の日和で、気分よく目ざめた私は娘と朝の挨拶を交わした。
娘は朝食は自分がつくると言いだした。
麗が小学校へ通っている間は、お手伝いさんが来られないときは私が娘に朝食をつくって食べさせる習慣だったから、何だか随分、娘が成長したような気分になった。
朝風呂からあがった私の前に並べられたのは、ご飯にみそ汁、のり、卵といったごく簡単な朝食だったが、ダイニングキッチンの食卓に朝の光りがさしこんでくるし、窓の外に視線を移すと空の青さが目にしみて、何となく高揚した気分だった。
食べ始めてしばらくして、ご飯の味がいつもと違うのに気づいた。
ものすごくおいしい。
口の中でとろけるような感じがして、甘い香りがする。
このご飯は前夜炊いたものを保温してあったのだから、そんなにおいしいはずがない。
前夜食べたときも、とくに変わった味はしなかった。
でもおいしい。
どうして味がこんなにも違うのだろうか、なぜなのだろうかと思いながら、形容しがたい芳香のするご飯をかみしめていると、急に涙が湧いてくる、止まらなくなった。
それと同時に腹の底からありがたいという感覚が、身ぶるいするような感じで湧きあがってきたのだった。
心の奥底からの感謝の気持ちとでもいうのか、なみたいていのありがたさではなかった。
涙をぼろぼろこぼしている父親を見た娘の麗は驚いて、きょとんとしていた。
でも父親の様子を見て、言葉をかけては悪いと思ったのだろう、黙々とハシを動かしていた。
涙を流しながら私は考えた。
このおいしさ、このありがたさ、この感覚は一体どこから来たのだろうか、と。
男手ひとつで育てた娘が朝食をしつらえるまでに成長した。
父親としては確かに感慨無量である。
娘のつくってくれた食事を、娘と向かい合って食べる情景は幸せそのものであるし、嬉しいし、感無量でもある。
だから私は涙して感動しているのだろうか。
私は自分の心の奥底を覗きこんでみた。
確かに感動している部分はあるし、喜んでもいる。
だが、いま私が味わっているありがたさの実感は尋常一様のものではないし、それにご飯の味もおいしすぎるし、このすばらしい芳香まで漂ってくるのはなぜなのか―。
その瞬間に、私自身の奥底からフーッと湧きあがってきた感覚は、いま私は神さまを食べているのだ、神さまそのものを味わっているのだ、という強烈な思いだった。
ちょうどそのころの私は、心と魂の旅の中で、神さまとは何だろう、神さまとはどのような存在なのだろう、といったことを深く考えていた時期だった。
しかし、こういったことを考えていた私は、神さまという存在を自分の外側に置いていた。
だが、娘と向かい合って朝食をとっている瞬間に、ありがたいと実感して涙を流した瞬間に、神さまという存在はもはや私の外側の存在ではなくなった。
これが私の問いかけに対する答えだったのか。
そうとしか考えられない。
やはり神さまの答えの一部だろう。
私は向かい合っている娘には何も言わなかった。
私にとっても生まれて初めての体験であったし、それを娘に話してみても理解できないだろうし、また、とても口で言い表せる自信もなかった。
それに、口にするとその感覚が消えてしまいそうな気がしたし、この至福感覚をより長く味わい、楽しみたいという思いもあった。
このときの私は、まさに魂と心と身体で、神そのものを味わっていたのだ。
別に頭を酷使することもなく、身体にムチ打つこともなく、心の中をうろつき回ることもなく、ごく自然に、スッと三位一体の中に入りこんでいたのだ。
こんな瞬間、私は私の中の生命を、これ以上ない確かさで実感する。
人間とはおかしなもので、神仏にせよ、守護霊にせよ、霊界・幽界にせよ、成功や幸せにせよ、それを外にあるものと思いこんで捜しているうちは、決してそれが見えない。
見えた、つかまえたと思うのは心の中の影にすぎず、結局その人は、外も見ておらず、魂の内奥も見ておらず、ただ心の世界だけが見えているにすぎない。
、
ところが、何かのはずみでもいい、一念発起からでもいいが、自分の内側に目を向けるようになると、逆に外が見えてくる。
心界の中に埋もれていた視線が、だんだん外をとらえられるようになってくる。
今の私には、神仏は雨や風と同じなのだ。
ありのままの自分が、ありのままの神仏を、ただ感じるだけなのだ。
神仏の目に見える現れ―それが、こうしてわれわれの見ている現実なのである。
外側の世界に、最も内奥の魂の源が現れている。
内を見つめれば外が見え、外を見ていくと内が見えてくる。
それがこの世界、われわれの世界なのだ。
どうか、この世界を発見していただきたい。
そこにはすべてがある。
あなたが求めている以上のものが、すべてそこには含まれている。
この広大な世界の中で、今、このとき、中心になってるのは、他のだれでもないあなたなのだ。
あなたが世界の中心なのだ。
あなたの生は、子どものためでも、親や夫、妻のためでも、恋人や社長、神仏や教祖や、その他いかなる人のためにあるのでもない。
あなたは、あなたを演じ切るために、この現界に生まれてきたのだ。
あなたがあなた自身を生き切らせること以上に大切なことは、何ひとつないのだ。
これまで書きつらねてきたことが理解できないという方も、当然いるだろう。
もともと文字で表しがたいテーマと、この本は取り組んでいるのだから、すらすらと理解できないからといって不安がることはない。
頭ではわからなくとも、本の内容は心から魂へと通っている。
必ず魂に、伝わっている。
だから、もしあなた自身の中に、
「なぜ私は生まれてきたのか?」
「何のために私は生きているのか?」
という問いが生じたとすれば、それでこの本の役目は終わったといえる。
疑問が生じたら、どうかあなたの答えを捜す旅に出てください。
時間は無限にあります。
結論がすぐにでないからといって、迷ったり焦ったりする必要は、少しもありません。
そこへ向かうこと、そこへ向かっていく状態こそが大切なのです。
あなたが魂を求める心の旅に出られることを、私は心から願っています。
私以上に、あなたの魂、数百数千のあなたの前生、あなたの守護霊、背後霊が、願っています。
どうかあなたの旅が幸多からんことを。
旅の途中で、私もまたあなたとお会いできる日がくることを楽しみに―。
『魂世紀―神界からの波動』(田岡 満 著、学習研究社刊)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体