4章 光と闇の人間関係論
多重人格者としての人間
ここ数年間、心理的病理としての多重人格についての研究がすすみ、多くの本が出版されるようになりました。
そして、残虐な犯罪を犯した人たちの多くが、多重人格症、つまり、自分の中にたくさんの人格を住まわせている病気であるという報告がなされています。
そういった研究がすすんでいることは、喜ばしいことですが、ただ多重人格は異常だとか病気だという単純な結論は、人間心理の解明にとってあまり生産的ではないでしょう。
私は昔から、自分も含めて人間とは基本的に多重人格な存在であると考えてきましたし、多重人格ではない人とは一人も会ったことがないと思ってます。
人格は、私たちが普通「あの人はいい人だ」とか、「あの人は親切だ」などと言っている以上に複雑なものがあります。
私に言わせれば、誰もが多重人格で、人格とは万華鏡のように変化するものです。
人は誰でもある程度多重人格であり、それは正常なことであるという認識は、今後益々必要になってくるでしょう。
人間は多重人格な存在です。
人間は基本的に多重人格な存在であるという例を一つ考えてみます。
たとえば、あなたがふだんいろいろな場でつき合う人が数十人いるとします。
親、職場の上司、部下、友人、同級生、同僚、恋人、夫、妻、子供、その他とつき合うときに、たいていは知らずに人格を使い分けているはずですし、誰に対しても同じ〈あなた〉ではないと思います。
ある人には優しく、ある人には厳格で、ある人には愛情深く、ある人には礼儀正しく、ある人には冷淡で、ある人には意地悪で、ある人には甘え、という具合ではないでしょうか。
したがって、あなたはそれぞれの人に対して違った印象を与え、そしてそれぞれの人は、あなたとの関係とその人の人格を通じて、あなたの人格を判断しているのです。
人格の変化は、相手によって非常に変化する人もいれば、相手が誰でもあまり変化しない人もいますが、人格は変化するということを理解すると、人間を一面的に判断する愚を避けることができます。
たとえばたまたま〈私〉が、自分が知らないAさんという人について、立場の違うAさんの三人の知人がどう思っているのかを聞く機会があるとします。
たぶんAさんはそれぞれの人に違った印象を与えているはずなので、この三人の人たちが正直な人であったとしても、〈私〉がAさんとはどんな人かを判断するのに、それぞれの人のAさんについての意見・印象は参考程度にしかできない、ということです。
人は関係によって、違った印象を相手に与えます。
もちろん人格が変わるといっても、人にはすべての変わりゆく人格の底を流れる生まれつきの基本人格のようなものがあり、相手が本当にどんな人なのかを知る必要があるときは、表面的な人格ではなく、その基本人格を探求することが大切です。
そしてまた私たちが、他人の人格についていだくイメージや判断も、ある瞬間のその人にしかあてはまらず、時間がたてば、その判断も役に立たない場合もあります。
他人についてのイメージや判断は、時間がたつと役に立たなくなる揚合があります。
同様に、他人が私についていだく印象も、私が自分自身に対してもっているイメージとはずいぶん違う場合もあります。
このことに関して一つ今でも記憶に残っている出来事がありますが、あるとき私は知り合いの人といっしょにお茶を飲んでいたところ、突然その人が私のことについてあれこれ言い始めたのです。
それは私にとってはとても不愉快なことで、どうして突然その人がそんなことを言うかが理解できなくて「私はあなたが思っているような、そんな人間ではありませんよ」
と怒りにまかせて強く言い返そうと思ったとたん、天の声か直感かわかりませんが、
「現時点のこの人から見ると、あなたという人はそう見え、それもまたこの人にとっては真実なのです。
だから、この人の見解と争うのはやめなさい」
という内容のメッセージがきたのです。
そこで、私は言い返すのをやめ、リラックスして、
「まあ、自分ではそう思ったことはないけれど、私に対して、そういう見方もウソではないと思います」などとのん気に答えることができたのでした。
それ以来自分に対して、何を言われでもほとんど「そういう見方もあるかもね」などとヘラヘラ笑って考えることができるようになり、あらゆる見方にはそれなりの真実があることもわかりました。
人間関係について一つ覚えておくといいことは、私たちが自分を〈正常で、普通〉と思っていても、他人から見たら〈私〉は変人に見えることもあるということです。
つまり、ほとんどの人は自分のことを〈正常で、普通〉だと思っているので、その基準で相手を見れば、お互いに〈変〉に見える場合もよくあるのです。
どんなふうに他人に思われても、それは自分の真実のほんの一部でしかありません。
ですから、他人にどう思われるかを気にするのは、時間とエネルギーのむだです。
もう一つ、人間から人格を解放する考え方を提出すれば、たいていの人格とは〈私〉に所属するものでもなく、〈あなた〉に所属するものでもなく、本当は〈私〉と〈あなた〉の間にあるものだ、ということです。
では、ためしに次の質問をよく考えてみてください。
あなたが一人でいて、他人のことを考えていないとき、あなたはいい人ですか?
あなたは親切ですか?
あなたは外向的ですか?
それとも内向的ですか?
そもそもあなたに人格があると意識できますか?
私の場合は答えはすべて「NO」です。
もちろん一人でいるときにも、感情の起伏(楽しいとか悲しいという感情)はありますし、一人のときに、私が誰か知っている人のことを考えているときには、その想像のなかで、私は相手に対して、親切であったり、意地悪であったりすることはできます。
また、相手の人が寛大な人格や愛情深い人格を示すと、自分のなかでもより寛大な人格や愛情深い人格が現れ、相手が意地悪だったり、誠意がなかったりすると、自分のなかでもそれに合わせるかのように、より意地悪で誠意のない人格が現れることも、私はよく経験してきました。
逆にときには、相手のある人格を引き出したのは、自分のせいかもしれないと反省したこともありまし
た。
私がここで言いたいことは、もし他者がいなければ、人格も必要ないということと、したがって、人格とは本質的なものではなく、場面に応じて創造されてくるものだ、ということです。
自分のなかには大聖人から大悪魔まで、あらゆる人格の可能性があることを認めたうえで、さらに自分や他人の本質は人格ではないとわかるならば、自分や他人の人格や性格についての悩みもずっと減るでしょうし、さらに研究すれば、相手の一番いい人格を呼び出すにはどうすればいいかもわかるようになるでしょう。
人格とは、本来〈私〉と〈あなた〉の間にあるもので、二人の関係によってどのようにも創造することができます。
生き延びる戦略としての多重人格
今まで、人間の基本的多重人格性とそれが他者とのかかわりで生まれることを説明してきましたが、それではもう少し具体的に人が多重の人格をもってしまう理由を、否定的理由と肯定的理由にわけで考えてみたいと思います。
否定的な理由とは、人は自分を守るために、様々な場面で「受け入れられ、好まれる人」を演じるために無意識に多くの人格をつくるということです。
これは私たちが幼い頃から習慣的にやっていることで、「ありのままの自分を受け入れてもらえない」と子供が感じた日から、親向けの顔、先生向けの顔、友人向けの顔と、相手にとって「受け入れられるいい子」を演じるようになっていきます。
このように、たいていの人は、多かれ少なかれ、まわりの大人にありのままの自分を認めてもらえなかった過去のトラウマ〈心の傷〉をもっていて、人格の背後に本当の感情を隠して生きています。
つまりこれは、まわりの人々となんとかうまくやっていき、人間クラブに所属させてもらい、そこからできるだけ多く何かを得るための戦略であると考えることができます。
もし人間の姿を完全にありのままに認める社会が実現したら、たぶん人間は多重の人格を必要としなくなるでしょうが、今現在の社会の現状では、人間が多重な人格をもつことはけっして異常なことではなく、他人とのかかわり合いのなかで、摩擦を防ぐ方法として認識されるべきです。
話は少しとびますが、テレビでのスポーツ観戦を趣味としている私は、スポーツ選手がマスコミにどう対応するのかに興味をもっています。
見ているとマスコミ対策が上手な選手と下手な選手がいるようです。
マスコミのプレッシャーでつぶれて、実力を発揮できない日本のスポーツ選手が多いなか、これからはスポーツ選手もマスコミ向けに複数の人格をもつ必要があるのでは、と思いますし(時々信じられないような愚かな質問をする記者を見ると、選手の側もとても一個の人格では足りないだろうなあ、と私は同情するのです)、練習メニューの一つにマスコミ対策をやるべきだと提案します。
人が多重な人格をもつのは、人間関係で摩擦を防ぎ、快適に生き延びていくためです。
では、病理的な多重人格と正常な多重人格の区別はどこにあるのでしょうか。
詳しく研究したわけではありませんが、私が読んだ本などからまとめると、病的に多重人格な人は人格を自分でコントロールできなくなるということです。
しかも自分や他人の心身を傷つけることがわかっても、人格の暴発を止めることができないという事態にまでいたってしまいます。
なぜ、そのように人格が暴発してしまうかというと、人生のあるときに、まわりの大人が要求する人格と自分が演じられる人格の間のギャップが非常に大きくなり、自分の本当の感情を深く抑圧してしまったせいだと思われます。
たとえば、多重人格の研究ではよく知られていることですが、多重人格症の多くの人は子供の頃、周囲の大人から何らかの虐待を受けた経験があると報告されています。
本来であれば、自分に愛情と保護を与えてくれるはずの立場の人から、虐待を受けると、子供の心に様々な葛藤が生じます。
「憎んではいけない人を憎悪したり、殺したいと強く思う」残虐な人格が生まれ、しかし同時に、「これ以上虐待されないようにもっといい子」になろうとする人格も生まれ、一般的には残虐な人格はある年齢になるまで深く抑圧されるととになります。
また、どんなにがんばっても現実の世界から自分の望む愛情や保護が得られないとわかると、空想のなかで、スーパーマンやスーパーウーマンのような人格を作ることによって、大人からの虐待に耐え、生き延びようとするのです。
ですから、病理的多重人格とはあまりにもつらい体験を感じずに、生き延びていく一つの戦略と見ることができます。
もちろん、私たちの大部分はこのような病理的な多重人格ではありませんが、しかし、本当は正常と異常の境界線は非常にあいまいなものかもしれず、誰のなかにも人格の暴発や人格の崩壊という危険性はひそんでいると考えるべきです。
なぜなら現代は、動物社会から人間社会へ人類全体が激しく進化している最中で、つまり、別の言葉でいえば、物質状態からエネルギー状態へと移行しつつあって、前章でも述べましたが、今まで私たちのなかにあった動物的なもの、深く抑圧されてきた暴力的なものがエネルギーの圧迫で一気に表にでやすくなっているからです。
現代は人格にとって、危機が起こりやすい時代です。
人格からの解放と人格の楽しい使い方
それでは、多くの人格をもつための肯定的な理由とは何かといえば、多種多様の人たちとつき合い、また、多様な自分を楽しみ、さらには他人を楽しませるために使うものです。
一般に人格や性格は、まるで人の本質であるかのように考えられていて、固定的なものと思われていますが、実際は人格とは生きるための道具であり、必要なときに自分のなかから呼び出してくるものです。
そして、人は生きていくうえで、たくさんの種類の人とつき合わねばならないわけですから、自分と他人に役立つという意味で、人格というカードは、できればたくさんあったほうが便利だし、楽しいと思います。
多くの人が俳優や女優という職業に憧れるのも、様々な人格を演じでみたいという人間のなかにある変身願望のせいです。
私たちの人生劇場には「手に負えない困った人」が登場したり、予期せぬ出来事が起こったりすることもあります。
ですからいつも決まった人格を持ち歩くよりも、その場面に合わせて、人格を呼んでくるほうが、効果的なことが多いのです。
たとえば、外国を旅行するときは、日本人的「何も言わなくても、黙っていれば、望むものがでてくるはず」というお人好し的人格はほとんど役に立たず、少々強引な人格のほうが役に立つことを、私は経験から学びました(もちろん、これも時と場合によりますが)。
また、日常の人間関係でも、いつも「いい人で、親切な人」であるよりも、ときには「冷淡な」人格や「怒る」人格も大いに必要とされることがあります。
よく「これは自分の性格だから、しようがない」といつも同じ人格で突進して、自分にも周囲にもストレスを与える人がいますが、人格とはその場面に役に立つように使うことが、楽しい使い方であって、これしかないなどといって、執着すべきものではありません。
傷つくことからただ単に自分を守るための人格は窮屈なため、ストレスがたまり、たとえば、お酒などの手段を使って、人は一時的に人格の束縛から逃れようとします。
また、「失楽園」や「不機嫌な果実」などに代表される結婚外恋愛がテーマの小説が大流行するのも別の人格になりたいと潜在的に望んでいる人が多いからだと思いますが、お酒や結婚外恋愛などの手段は人格ストレスの根本解決にはなりません。
では、どうすれば自分の人格と他人の人格と楽しくつき合うことができるかといえば、私が一番効果的だと思う方法は、「ユーモアと愛情をもって、自分と他人を眺める」ということです。
人格が硬直するのは、人が自分の人格に執着し、それを深刻に考えすぎることにあります。
他人から見たら、人が自分の性格や人格に深刻に執着している様子はひどく滑稽に見えることが多いのですが、本人だけがそれに気づかず、その深刻さを他人にも押しつけようとすることで人間関係のストレスが増加します。
反対に、「私ってこんなにおかしいですよね」と自分の欠点やバカバカしさや悪い癖や、あるいは長所さえも(ときには「私はこんなに立派にやっていますよ」といういわゆる自分の長所への執着が、まわりに多大なストレスを与える場合もあります)愛情をもって笑うことによって、人格の束縛をかなり解放できます(ただし、笑う程度ではすまない重症な人格の病気の場合は、専門的な治療とカウンセリングをうける必要があります)。
自分と他人、自国の国民と他国民、自国の文化と他国の文化、そしてさらに地球文化と他の惑星文化を、「愛情をもって眺める」、そしてときには、「愛情をもって驚く」ことができるようになれば、人間関係や国家間の緊張と争い(いずれは惑星間の緊張と争いも)が軽減することは間違いのないことです。
ユーモアと愛情をもって自分と他人の人格を眺めれば、人格という道具と楽しく遊ぶことができます。
さて以上、人格の必要性と効用と、人格からの解放について書いてきましたが、ここではさらに私たち一人ひとりのなかにある光と闇が、私たちの人生一般と人間関係にどう作用していくのかを考えてみます。
人格の話のところでも述べまたしたが、私たちのなかには、最も暗い闇の部分から最も明るい光の部分まで、つまり、大聖人から極悪人の可能性がある、というのが私のここでの基本テーマです。
私が人間関係を考えるときに基本にしていることの一つに、「あらゆる人の人格には光と闇の部分が存在している」ということがあります。
光とは、俗にいう長所も含めたその人のいいところ、精神世界でいう高い波動の部分です。
闇とは、俗にいう欠点も含めたその人の悪いところ、精神世界でいう低い波動の部分です。
家族のなかの光と闇
最初に私が一人ひとりの人間のなかにある光と闇と、それが人間関係に与える影響について深く考えたのは、自分が生まれ育った家族つまり、自分の両親、姉妹、祖父母について考えたときでした。
そしてあるとき、
「どうも自分は家族の誰にでもその性格が似ている。
しかも悪いところばかりが、目立って似ている。まるでコピーのようだ」
と気づいて、ひどく不愉快になったのです。
それまでは「自分は家族の誰にも性格なんて似ていないし、私はオリジナルな私だ」
と思って自負していた面もあり、またひそかに家族の性格の欠点を批判することもよくありました。
よく調べてみると、自分が相手のなかに批判している欠点や性格を自分がまさにもっていることに気づき、さらにあまり目立たないけれど、いい点も似ていることに気づきました。
つまり、精神世界でいうところの鏡の理論です。
そこで、表を作って、家族のそれぞれが他の誰と、どんな光と闇を共有しているかを徹底して書きだしたところ、家族の根本に迫るいくつかの重要な事実を理解したのです。
まず、人がお互いに家族になるためには、それぞれのなかにお互いを惹きつける要素、つまり、お互いに似た要素が必要です。
普通、一組の男女が結婚するところから新しい家族はスタートするわけですが、結婚が成立するためには、当然二人のなかにお互いを惹きつける要素、つまり、似ている点があるはずです。
そして二人の間に子供が生まれ、家族が拡大しますが、やはり子供と親は似ている要素があるゆえに、親子の関係が成立します。
この似ている要素が、私が先に述べた光と閣ということになります。
普通は夫婦も親子も兄弟姉妹も、まず相手のなかにある闇(欠点)に気づき、それに不満をいだき、たいていはそれを自分の思い通りに変えようとして、関係を悪化させることになります。
そして、相手の闇ばかりを見るので、相手の光、つまり、相手の偉大さがまったく見えない状態になります。
そしてさらに相手の光、偉大さが見えないことによって、自分の光、偉大さにも気づかないことになり、自分をどんどん卑小な存在にするという悪循環に陥ります。
その結果、後に詳しく述べる家族のなかにあらかじめ組み込まれている進化のための学習機能が妨害され、進化を促進するために、悲劇的な事件(家族の誰かの大病、子供の非行や登校拒否、犯罪に巻き込まれること、親の離婚など)が起きる場合があります。
私の観察によれば、家族はお互いから学び、そして自分がもっている最良のものを与え合うために家族として集まっているのです。
家族の誰かのなかに非難したいような闇を見つけたら、自分にも同じような闇があるのでは、と問うことが大切です。
同様に家族の誰かのなかに光を見いだしたら、自分もそうなれる可能性があるのだと信頼することです。
家族の成員がお互いの闇と光から学ぶとき、家族間のエネルギーはバランスがとれ、今回家族として集まった目的、つまり、進化を達成することができます。
そのとき家族は、最後には親子とか夫婦とか兄弟姉妹という見かけの役割を越えて、本当に一番いい友達になることができます。
家族の目的
私は長い間、人間はなぜ家族をつくるのかという、家族の目的のようなものについて考えてきました。
人間の家族とはけっしてシンプルなものではなく、複雑怪奇で、非常に込み入っていて、苦労の多いもの(ではありませんか?もしみなさんの家族関係が平穏無事であれば、きっと今回はお休みするために集まったのかもしれませんね)なのに、たいていの人は家族をつくります。
それは単に人間は一人では寂しいからとか、一人では生きられないからなど、よく言われる理由だけではなく、伺か別の理由があるのでは、と私は思っていました。
動物の世界の家族の目的は、自分の子孫を作り、守り、残すことという、いたって単純なもので、したがって動物の世界には、家族問題なんでものは起こりようがありません。
しかし、人間の場合は、自分の子孫をつくり、守り、残すという動物的目的の他に、人間ゆえにあるもう一つの家族の目的があり、それは、お互いの進化をサポートするという目的である、と私はあるとき発見しました。
進化のサポートといえば、聞こえがよい言葉ですが、実際はそれは修行と言い換えることもでき、ときにはお互いにとってつらいものになる場合もあります。
残念ながら、現在まだほとんどの人たちが、子孫を作り、守り、残すという動物的目的のほうしか理解していないので、家族のもう一つの目的にまったく気づいていません。
しかし、家族のなかで、ドラマや悲劇や問題が生み出されるのは、この動物的目的と人間的目的がときに相対立するからです。
たとえば、自分の子供が突然登校拒否児童になったとします。
このことを動物的観点から考えると一大事です。
なぜならヒト科社会では、自分の子供がまともに学校(できれば一流の学校)を出て、いい会社に就職して、いい結婚相手を見つけることが、生き延びて、子孫を繁栄させる最大の条件とされているからです。
ところが子供が学校へ行かないということは、大切な生存条件の一部が欠けるかもしれないということで、親としてはとても心配になります。
つまり、まともに学校に行っていないと、このヒト科社会ではまともな扱いを受けず、エサを獲得するのに苦労するかもしれず、ひいては結婚も不利かもしれないと思うわけです。
しかし、子供の登校拒否を人間的観点から見た場合は、まったく別の考え方をすることも可能です。
たとえば、これをきっかけに今までは、あまり興味のなかった教育問題に興味をもって、いろいろ勉強する機会に恵まれるかもしれないし、親子の対話を始めることもできるし、いろいろな成長の可能性をはらんでいるのです。
一時的にはつらい事件を乗り越えることによって、かえって親子関係や家族関係全体がよくなることも多いのです。
一方で、動物的見方しかできない場合は、いたずらに問題が長引き、家族関係や親子関係がさらに悪化し、ときには家族の崩壊にまでいたることもあります。
人間的観点と動物的観点は、ときに相対立します。
家族とは、少々文学的にいえば、家族の成員一人ひとりが宿命として背負っている〈愛とみじめさ〉をいっしょにわかちあうために存在しているのです。
ですから、家族をつくるということは、そういう覚悟をすることであって、家族に自分の都合のいい期待だけをしている人は大いなる失望を味わうことになります。
一般的には、人は親になると保守的になり、自分と子孫の保護と繁栄だけを望む傾向にあります。
つまり、親は動物的目的を強く代弁する傾向があるのです。
それに対して、子供たちは家庭のなかに進化を呼び込む要因となります。
ほとんどの親が動物として子供に期待することは、たいてい裏切られることになり、それは家族の進化を促すという意味で、家族のあり方としては正常だと私は思っています。
だからこそ、多くの親にとっては期待せずに、しかも愛情をもって、子供を育てることをいやでも学ばされるので、家族は霊的な修行の場といえるのです。
子供の側にしても、もともとは保守的な家庭という場で、軋轢を感じながら、なんとか自己実現を果たそうとすることは、やはり霊的な修行であるのです。
〈親の子供に対する期待〉というよく見られる現象は、次のように心理学的に考えられています。
つまり一般に、親が子供に期待し、ときにはその期待を無理に押しつけるのは、自分自身に満たされない何かがあるからだというものですが、これはそのとおりだと思います。
人生で自分の夢を追って実現し、ある程度満足してきた人たちは、あまり子供に過重な期待はしないものです。
ところが、何らかの理由で、自分が自分らしく生きることがゆるされず、他人の期待にそって生きてきた人たちやいわゆる人生に挫折した人たちは、子供を通じて自分が満たされなかった何かをどうしても満たそうとする傾向があります。
しかしそういった人たちが、表面的なエゴの望み(単に子供にいい学校へ行ってほしいとか、安定した人生を歩いてほしいとか、まともな職業に就いてほしいとか)とは違って、本当に子供に望んでいることは、自分にはゆるされなかった人間としての自由や夢を実現して、自分らしく生きてほしいということです。
しかし多くの親は自分のなかにある子供に対するこの深い望みに気づいていません。
でも、もしこの望みに気づくことができれば、自分と子供の間にある不和や心の傷を癒すことができます。
また子供の側も、親の本当の望みを知ることができたら、親の表面的な言動がどうであれ、親は自分を深く愛していることを理解できるはずです。
だからこそ私は、『子供は親のエゴの期待は裏切り、魂の望みは必ず満たすようになっている』と確信しているのです。
子供は親のエゴの期待は裏切り、魂の望みは満たすようになっています。
家族のテーマ
さて、家族に関して私が発見したもう一つの点は、それぞれの家族にはテーマがあるということです。
さきほど家族成員一人ひとりのなかにある光と闇の話を書きましたが、さらに家族には全員に共通する光と闇があるのです。
ここでいう家族のテーマとは、その闇に光を当て、同時に光の部分がもっと輝くようにするということです。
そしてこれが、家族関係を通じて進化するということになります。
たとえば、私が生まれ育った家族を例にとって考えてみると、自己表現を怖れるという共通の闇をもっていました。
別の言葉でいうと、小心で、目立つのが嫌いで、絶対に自分からは舞台にあがろうとしない性格、さらにいえば、責任ある立場を絶対に避けて生きる、などの共通点があります。
つまり、本当はいろいろ表現したいことがあったり、責任ある立場に立てるくらいの実力や才能がないわけではないのに、そうすることを強く押し止める力が家族のなかに強く働いていたのです。
一方で私の家族に共通の光とは、自分に与えられたことに対する責任感の強さと誠実さだと私は思っています。
何事に対しても誰に対しても、真面目に誠実に取り組む家族でした。
たぶん、あまりに責任感と誠意が強すぎるため、逆に責任のある立場に立ちたくない気持ちになるのだと、自分の家族を分析することができます。
ある意味では闇のなかに光があり、光のなかに闇があるという言い方もできるかもしれません。
今述べた私の家族を例に考えてみると、自己表現を怖れる気持ち(闇)には、たくさんのパワーがあり、パワーがあるから怖れるということができます。
ですから、いったんパワーを認めることができれば、闇は光に変わることができるのです。
そして、責任感と誠意(光)には逆に創造性や自己表現を抑える場合もあることを見てみると、光だったものが闇に変わる場合もあるのです。
私自身幼い頃から無口で、人前で話すのと文章や文字を書くのが何よりも嫌いで、高校生のときに、なりたい職業が何かは全然わからなかったにもかかわらず一番なりたくない職業だけは、人前で字を書いて、話さなくてはいけない教師だと強く感じていたことを思い出します。
しかし皮肉にも二十代、三十代の長い間、教師の仕事をするようになって、実際それを自分の天職だと思えたほどでしたから、小さい頃の自分の考えなどあまり当てにはならないものですし、よく言われているように強く抵抗することは、本当はどこかで憧れていることなのかもしれません。
私が父と母の子供として生まれて長い年月が過ぎ去り、日本のどこにでもいる平凡な家族のなかにもたくさんのドラマや事件があったなあと思い起こすことがあります。
もうその共同の旅も最終段階を迎え、「みんながんばって進化してよかったね」というのが、私の今の率直な感想であります。
これからの家族
今まで私が生まれ育った家族を例に、家族のなかにある進化を促進する要素と抑止する要素について書いてきました。
最近では、家庭内で起こる暴力事件や離婚が増えたりなどの現象から、「家庭や家族の危機」がマスコミで話題にされるようになりました。
これら一連の現象の背景には、私の考えでは、ヒトが人間へと進化するプロセスが非常に速まっていると見ることができると思います。
つまり、人が家族のなかに動物的目的よりも、より人間的目的を求めるようになったということです。
たとえば、離婚の増加を見ても、現在は女性の側から離婚を申し立てる人が多いという事実は、単なる経済的な安定(動物的目的)以上の何かを結婚に求める女性が多くなっていることを物語っています。
昔であれば、子供のため(動物的目的)にと結婚に耐えていた女性たちが、動物的目的よりは、人間的目的(たとえば、もっと自由や愛情のある生活)を選択しているのです。
また、子供に関する事件が多いというのも、親や教師という大人の側にもっと子供のことを感じてほしいという、今の子供たちからのアピールのように思われます。
つまり、親子とか教師対生徒という上下関係ではなく、一人の人間対一人の人間として対等な取り扱いを要求しているのです。
それを、今までのように大人の権威や権力で抑え込もうとしたり、また「さわらぬ神にたたりなし」といった態度で、コミュニケーションを避けたり、動物的発想で脅したりする方法(学校へ行かなくてどうするんだ、などと言うこと)はほとんど効果がないのです。
唯一成功する方法とは、大人が人間に進化して(つまり、役割や立場に違いはあれ、人と人は対等で、平等であるという観点をもつ)一人の人間として心を開いて子供と大人がお互いに何を感じているのかを話し合うことだと思います。
話し合ったうえで、「だめなことはだめ」、「いいことはいい」と、大人が自分の意見をはっきりと言うべきなのです。
ただし、私がここで言っていることは、けっして〈理想の家族〉をつくるように奮闘せよ、ということではないのです。
家族なんてものは、少々〈変で、いいかげん〉なところを許容するほうが、健全なのだと私は思っています。
ただ様々な理由で家庭という場が窮屈で楽しくないと感じている大人も子供も多いので、それを何とかしたほうがいいのではないか、ということです。
家族問題の先進国アメリカを見ているとよくわかることですが、これからの時代は家族をつくり、家庭を運営するのも今まで以上に知恵と体力が要求され、家族に何が起こっているかに敏感に対処していかないと、簡単に家族は崩壊の危機にさらされることになります。
なぜなら、人々は血縁、地縁(つまり動物的縁)に昔ほど執着しなくなり、また一度つくった家族関係を捨てても、納得できる関係に出会えるまで、人間関係をわたり歩くという人たちも増えているからです。
先日、電車に乗っているとき、隣にすわっていた母親らしき二人の人がそれぞれの子供の話をしていました。
話題は「子供をどうしても○○高校に入れたい」という内容でしたが、それを聞きながら私はこれからの母親は、「仮に学歴なんてなくても立派に生きていけるわよ」と人間の論理を子供に言ってあげるくらいに進化しないと、21世紀に生きるのは大変だろうなあと思いました。
それでは一般の人間関係、つまり友人関係、恋人関係、その他職場の同僚、上司と部下との関係において、この光と闇はどう作用するでしょうか。
まず、友人関係や恋人関係のように自発的につくる関係について考えてみます。
ある人と友人関係や恋人関係になる場合、まず最初は相手のなかにある光に惹かれて関係が開始します。
こういう関係には二つの場合があって一つは、最初から自分と相手の共通の光を認識している場合、つまり「この人と私は共通の光がある」とか、「この人と私は似ている」と思う場合です。
二つ目は、「この人には自分にはない何か素晴らしい光がある」と考えるときです。
しかし、人は自分がもってないものに惹かれるということはなく、本当は自分がすでに潜在的にもっているもの、あるいは、今の人生で具現しようとしている潜在的素質のあることにしか心惹かれないのです。たまたまそういう素質をすでに実現している人に出会って、自分のなかのそういう部分が外側に現れる可能性が生まれるのです。
たとえば、〈私〉がとても内向的な人間だとします。
たまたま友人になったA子さんは自分とは正反対で、とても外交的で友人もたくさんいて、明るい人だとします。
〈私〉は彼女の明るさに惹かれ、いっしょに話しているととても楽しい気分になります。
一方A子さんは、〈私〉の穏やかで静かな性格が気に入りいつも話を楽しく聞いてくれるのでいっしょにいるととてもほっとします。
ということで二人は最初とてもいい友人関係が続きます。
ところがしばらくすると、たいてい自分が相手のなかに気に入った部分を、反対に気に入らないと思う気持ちが生まれます。
たとえば前の例でいえば、〈私〉はA子さんの外向的で明るい面を何か深みのない軽薄さのように感じ、A子さんは〈私〉の内向的性格を暗いと感じます。
ですから、友人や恋人などの関係では、自分が好きになったり心惹かれた部分から、まず嫌いになるということを覚えておくといいと思います。
つまりたとえば、相手の優しさ、親切さ、強さなどが好きになったら、必ずその優しさ、親切さ、強さを疎ましく思うことが一度はあるということです。
これは人間の心は、必ず正反対に振れるという心理上の法則のようなものです。
そのことをあらかじめ知っておけば、それは一時的なものであり、またすぐに元の〈好き〉という感情に戻ることがわかり、それほど深刻に考えなくてもすみます。
また、そのことを通じてより高い段階の関係へすすむ機会である場合もあります。
そして、親しい関係で深い不和や対立が起きた場合は、この地点で人間関係を通じて人が進化の方向に進むのか、それとも一時的後退の方向に進むのか、の選択ができます。
親しい人間関係では、相手のなかに好きになったところを一度は嫌いになります。
進化するとは、まず自分と相手の闇を理解し、相手の光によって自分の闇を照らし、自分のエネルギーのバランスをとることです。
具体的には、相手にある最高の波動(長所)を学んで自分のなかに取り入れることと、同時に自分と相手のなかにある最低の波動(短所)に気づくということです。
なぜお互いの闇に気づくことが大切かというと、自分と相手の闇に気づけば、お互いの闇によって足をすくわれることがなく、最高のものだけを相手から得ることができるからです。
反対に一時的後退を選択することは、相手から学ぶことを拒否して、今までの自分のままでいようと強く抵抗することです。
私自身、最初はうまくいっていた関係、つまり光だけを見ていた関係が、パンドラの箱を開けたように、闇ばかりを見る関係に終わった例(精神世界にかかわっている人たちにはよく起こりがちです)をたくさん見たり、自分でも経験したことがありました。
その理由とは、今述べた光と闇の問題です。
誰でも自分が好きになった人、尊敬した人のなかに、「闇なんかあるはずはない」と思いたいですし、また自分のなかにも闇があることを認めるのはさらに勇気のいることです。
しかし、前に述べた家族関係だけでなく、恋人関係、友人関係、先生と生徒の関係、導師と弟子の関係、セラピストと患者の関係など、あらゆる親しい関係にこの光と闇はかかわっていて、私たちが気づかないでいると、いつのまにか闇が支配する関係(つまり、低い波動で結びつく関係)になる場合があります(オウム真理教の一連の事件も、導師と弟子の闇が一気に開花した事件としても見ることができます)。
いい人間関係を継続するには
長年つき合った人でも、たった一言の言葉が原因で関係が終わったり、また一日しかいっしょにいない人でも、生涯の友愛を感じたりすることを経験すると、人間関係は必ずしも長く続くことだけが大切なのではないと、私はますます思うようになっています。
でも、大切な関係をなるべくいい状態で長く続けたい、と思う読者の方々のために、考えていただくヒントのようなものを書いてみます。
たぶん人間関係とは植物のようなもので、いい関係を長く続け、さらに成長させるためには、水や肥料をきちんとやったりするなど、まめに手入れをすることが大切なのです。
ほっておいたら、親しい関係はたいてい三年くらいで関係は冷えるというのが専門家の見方ですし、私も三年という年数はそうだなという実感があります。
いい関係を長続きさせるには、私の考えでは二つの要素、つまり、安定と刺激、別の言葉でいえば、関係を安定させる共通性と関係を刺激し合う異質性という要素が必要です。
結婚にしろ、恋愛にしろ、友情にしろ、ある関係が続くためには、まず二人の間に共通なもの、つまり、共通の価値観、共通のライフスタイル、共通の趣味、共通の話題など二人を結びつけるのに足る十分な共通項がなければいけません。
その共通項が二人の関係を安定させてくれます。
ところが、二人に共通項だけがあれば、関係は楽しく続くかといえば、たいてい倦怠がやってきます。
なぜなら、もし共通項だけの関係があるとしたらそれは同じ人が二人、つまり、自分が二人いるようなものだからです。
人は自分に似た人を求めながらでも万一そんな人を見つけることができたら、実際はとても退屈するはずです。
そこで、お互いに異質な要素が必要になりますが、その異質さこそ関係に刺激を与え、関係を成長させることができます。
いい関係を継続させるには、安定と刺激の二つの要素が必要です。
関係が三年くらいで冷えてしまうとされるのは、一つは二人の間に共通項が何もないことがわかり、関係を安定させる要素に欠ける場合と、反対に二人がどんどん似てきて共通項ばかりが増え、お互いを刺激する異質なものに欠ける場合との二種類に分類されます。
どちらの場合も、何かをしないと、形だけの関係になっていくか、崩壊するかの道をたどります。
以上関係を長続きさせるための要素について述べましたが、理論はシンプルでも実践はそう簡単にはいかないことを、私は常々実感します。
では次に、自分が望んだわけでもないのに、できてしまう人間関係(おもに職場の人間関係や学校の人間関係など)にある光と闇について考えてみます。
人間関係には、自分で自発的につくる関係と、好き嫌いに関係なくできてしまう関係がありますが、たとえば、職場の人間関係などは後者の典型的関係です。
たまたま入社した会社にイヤな奴がいるとしたら、これほどの悲劇はないかもしれません。
なぜなら、せっかく入った会社をやめる以外、自分の力では、そのイヤな奴と離れることができないからです。
実際、私のまわりでも職場の人間関係で悩む人が多く、たぶん日本全国でも多くの人たちが会社をやめる理由は、人間関係なのではないかと思われます。
私自身は会社経験が少なく、また会社にいた頃も、社内の人間関係で悩んだことがなかったので、いつも人の話を聞くたびに、「どうしてみんな仕事で悩むよりも、人間関係で悩むんだろうか。会社とは、仕事をするために人が集まっているところではないか」と思うのです。
職場の人間関係は、自分で好んで選んだのではない(精神世界では、すべてが自分の選択であるという見方もあるので、この考え方によれば、それもまあ自分で選んでいるわけですが)ところが、家族関係に似ている点です。
つまり、家族関係同様、自分では避けていたいことを、神(宇宙)が強制的に人に見させ、成長させる手段として、人間関係を使うということです。
もしあなたが職場のなかで特定の誰かをひどく嫌っている場合、それは自分のなかの何かを見なさいという合図だと思えば間違いないことです。
たいていは、他人のなかに嫌っている要素とは、自分のなかに抑圧している要素であったり、憧れている要素であったりすることがほとんどです。
たとえば、職場に非常に倣慢な(そうあなたが思っている)人がいて、あなたはその人を見るのもいやなくらいその人の倣慢さが大嫌いだとします。
その場合は、あなたがその人の倣慢さにそんなに強く反発するのは、自分のなかに気づかずに倣慢さを隠しもっているからであり、この機会にそれを見よという指令なのです。
もしあなたが進化を選べば、そのことに気づいて相手の倣慢さよりもレベルがあがって、もうそういう人とつき合う必要がなくなるか、相手を倣慢だと見なくなるかです。
なぜなら、人の倣慢さをもっと深く見るとき、たいていは無力感をその裏に見ることができ、相手の苦しみを思いやることもできるからです。
しかし反対にあなたが一時的後退を選ぶ、つまり、自分のなかの倣慢さを見ることを拒否し、相手の倣慢さを非難し続ければ、その人をもっと倣慢にするか、あるいは別の場所でもっと倣慢な人を引きつけることになるかもしれません。
もちろん今述べたことは、相手の倣慢さが自分に被害を与えているようなときに、黙って耐えるのがいいと言っているわけではありません。
行動や言葉が必要であれば、相手に対して何かをしたり、言ったりすることは適切なことですが、相手にどういう意識を向けながら、行動したり、発言したりするかで、結果はずいぶん違ったものになると思います。
たとえば、非難しながら何かを言うか、愛情をもって言うか、理解しながら言うか、というようなことです。
人間関係のなかでよく起こりがちなことの一つに、
「人は何かがうまくいかないときに、自分の影を他人に投影する傾向がある」
というものがあります。
つまり、本当は自分のほうでそう思っていることを、他人のほうでそう思っている、というような幻想をいだくということです。
例をあげてみると、
・Aさんは私のことを嫌っている(幻想)←私がAさんを嫌っている(実際の感情)
・Aさんは倣慢だ(幻想)←私が倣慢だ(実際の感情)
・まわりが私を攻撃する(幻想)←私がまわりに攻撃的である(実際の感情)
・世の中は私を受け入れていない(幻想)←私が世の中を受け入れていない(実際の感情)
・イラクは攻撃的な国だ(幻想)←我が国がイラクに攻撃的である(実際の感情)
最初の例をさらにもっと深く見れば、「Aさんが私を嫌っている」という幻想が、「私はAさんが嫌い」という感情を生むことになり、したがってもし最初の幻想をなくすことができれば、実際の自分の感情も幻想であることに気づき、お互いの間にあるとされる〈嫌い〉という感情そのものがそもそも幻想であるかもしれないのです。
このような例は、人が本当は敵がいないところで、いかに自分で敵をつくるのかをよく示しています。
例はかぎりなくありますが、私たちは注意していないと、無意識にこの自分の影を他者に投影するゲームにはまる傾向があり、自分が実際の自分の感情と正直に向き合わないでいると、このゲームの代償は高くつくことになります。
人間関係に関して二十代の終わり頃、私はあることを強く思いました。
それは、「人間関係から教訓的なことを学ぶことはできるだけ少なくしたい」というものでした。
つまり、「仕事場のようなところで、仕事ではなく、人間関係でつらい思いをしたり、あれこれ考えさせられるようなトラブルにはなるべく出会いたくない」ということです。
なぜなら、暇そうに生きていても、これでも私は他のことでいろいろと忙しいからです。
そこでどうすれば、人間関係のゴタゴタにまきこまれずにすむかを真剣に考えて、次のような答えを得たのです。
つまり、神に無理やり勉強させられる前に、あらゆる機会に、人間について、人間の心理について、そして自分について、すすんで積極的に学ぶことだとわかったのです。
本を読むことによって、他人の話を聞くことによって、世の中で起きた事件によって、そして、人と話しているときの、自分の反応に気づくことによって。
おかげで、ゴタゴタの前兆を感じるのがうまくなり、人間関係に関するトラブルやストレスをかなり避けることができるようになったのですが、同時に、人間関係をいつもうまくいかせる魔法の方法やテクニックなどというものはない、ということもわかりました。
つまり、あるとき、ある人に、ある状況でうまくいった方法が必ずしも別の状況で、別の人に対してうまくいくとはかぎらないということです。
黙って人の話を聞いているより、怒鳴ったほうがいいときだって、まれですがあるわけです。
なぜかというと、何度も書きますが、人間の心は複雑で、しかも人間関係をとりまく状況も複雑だからです。
そして神は何事においても創造性を求めますから、人は瞬間瞬間において、テクニックを創造しなければいけないのです。
ですから、人間に関する一般論を学ぶことは重要ですが、それを個別に応用するためには、経験と知恵が必要で、そのあたりは手を抜いてはいけないことです。
国家間の光と間
国家間の問題は、庶民にはあまり興味のもてない外交問題のように受け取られていますが、実際は個人と個人との関係と同じように、国家エゴの心理にもとづいて展開しています。
そのような観点で、各国の国民感情と政治家の心理を読んでいくと、個人対個人の人間関係のように、国際政治も実に人間的な(というよりは、動物的なというべきでしょう)感情に左右されていることがわかります。
まず、国家間の関係を考えるときも、個人対個人と同じように、どの国にも光と闇の部分があって、その光と闇がお互いに影響を与えているという視点が必要です。
いくつか例をあげて考えてみると、たとえば、日本と最も深い関係にあるアメリカの最高の光とは、先駆的なもの、新しいものへの限りない愛と開かれた心であると私は思っています。
先駆的なものが必ずしもいいものかどうかは別にして、アメリカ人は常に新しいものを求め、伝統がない分、その目は常に過去よりも未来を向いています。
別の言葉でいえば、アメリカは実験的な国家なのです。
新しい発明と道具、新しい発見と観念、そして新しい病気に、犯罪と、世界の新しいものはまずほとんどアメリカから始まります。
それではアメリカの最も深い闇とは何かといえば、パワー(お金、武力、政治権力)への執着です。
アメリカ人ほど、お金への愛を声高に語る国民はいませんし、アメリカ人ほど、自分の価値をお金ではかる国民もいません。
「才能のある人は何をして、どれだけお金を稼いでも自由なのだ」という多くのアメリカ人の考えが、アメリカを今日のように貧富のある国にしてしまったのです。
また、アメリカが国際外交において、どれだけ武力を背景にした自分たちのパワーを誇示したいと思っているかは火を見るより明らかでありその〈世界で一番でありたい〉という病気のせいで、どれだけの紛争と戦争が起きたことでしょうか。
また、そのアメリカの病気に刺激されて、ひそかに自分こそが世界で一番だと思っている中国やフランスが、核兵器開発にさらに力を入れたのは記憶に新しいところです。
それでは、日本の最高の光とは何かと言えば、アメリカとは対照的にその〈無欲さ〉にあると思っています。
〈欲深い人々〉の話が毎日のようにマスコミで報道されているのを見ると、いったい日本人のどこが無欲かということになりますが、国民全体を見ると無欲な国民なのです。
無欲とは別の言葉でいえば、自分の利益を自分以外の存在のために犠牲にできる精神でもあり、起こったことを文句も言わずに受け入れる精神ともいうことができます。
たとえば、日本人の平均夏休みはせいぜい一週間から十日間くらいですが、以前この話をフランス人の友人にしたら、夏休みが平均一カ月から一カ月半のフランスからみると、信じられないと言っていました。
なぜ、同じ先進国でありながら、日本人がわずか一週間くらいの夏休みでがまんしていられるのかといえば、無欲だからです。
つまり、自分の労働時間を会社へより多く与えても、大多数の人は別に文句もないのです。
また、国が税金を一部の人たちのために使っても、ほとんど議論なしに突然のように会社員の健康保険の負担が一割から、二割になっても国民は暴動を起こすこともありません。
なぜかといえば、それは無欲だからです。
私自身は日本人のこの無欲さを愛していますし、戦後日本が驚異的な復興をとげて、一流の経済国家になれたのも、犯罪が少なく、比較的平等な国をつくることができたのも、この美徳のおかげだと思っています。
しかし、残念ながら世界のどこの国もこの日本の美徳を理解していませんし、まして、国際外交の世界では〈無欲〉などというのは、ただ利用され、カモにされるための性質にすぎないのです。
また現在は、〈無欲〉がほとんど〈無力〉と〈無気力〉と同義語になっていて、無欲という最高の美徳を、パワーをもって使える人材が政治家の世界にも、経済界にも、ほとんどいないのが日本の現状のようです。
さてそれでは日本の闇に話を移しますと、それは「精神的自立心のなさ」であり人が精神的に自立するのを妨げようとする風潮が強いことです。
〈私は私だ〉と言える強さがなく、人とは違う自分になる勇気がなく、いつも他人の風評を気にしている日本人が多いのです。
政治家にしても、日本とはどういう国かを世界に向かって堂々と主張できる人がいず、ほとんどアメリカの顔を見て、政策を決定しています。
日本の政治家が言うことが国際外交の世界でほとんど信頼されていないのも、たぶん日本はアメリカの子分のように思われているからです。
そこで、日米間の関係ですが、日本とアメリカが戦後五十年間、仲よくやってこれたのは、性格的に相性が合うからです。
つまり、無欲な日本に強欲なアメリカ、精神的自立がない日本と自己主張のアメリカという組み合わせは、当然うまくいくのです。
アメリカのエゴは次のように思ってきたはずです。
「日本はなんでかわいい奴なんだ。
戦争で原爆を落とされても、国民の大多数はアメリカを恨んでいないし、ちょっと強く言えば、何でもいうことは聞くし、金はいっぱいもっているし、俺には頼っているし、しかも軍事戦略上、これ以上望むことができないほどいい場所にあるしなあ。
まあ、アジア人のくせして、俺たちよりも技術がちょっと優秀ってのは、しゃくにさわるが、まあ、アメリカから稼いだ金はあとで返してもらうぜ。
これからもずっと手放さず、利用できるだけ利用してやるぜ」と。
もちろん日本のエゴだって、アメリカと友達でいることが利益になると思っているから、緊密な関係が続いているわけです。
つまり、
「アメリカの軍事力の庇護にあるほうが、経済的に安上がりだし、アメリカの後ろだてがあれば、まさかどこの国も我が国に攻めてくることはないはずだ。
軍事のことはアメリカにまかせて、とにかく経済に集中したい。
だから、どんな犠牲を払っても、国民の声なんて無視してもアメリカの要求は何でも聞かなくちゃいけないんだ。
アメリカに逆らうなんて、そんなそんな恐くてできないし、アメリカの後ろだてのない日本の軍事力なんて無にも等しい」
と、日本の特に自民党の政治家の皆さんは戦後五十年思ってきたのです。
もちろん、そのような自民党(私はひそかにアメリカ党と呼んでいますが)の考えは、国民の大多数の影の声でもあり、国民の最も保守的な意識を代弁しています。
国民は何か政治がらみの事件が起きると、政治家をよく批判しますが、しかし、政治家そのものが国民の意識そのものによって縛られているので、政治家が口でどんな改革を唱えても、政治家は自分たちで自分たちを変えることができない存在(しかも彼らの多くはまだ人間意識にまで進化していない!)なのです。
ですから、現在の政府・アメリカ党の優先順位は、まず自分たちの存続、次にアメリカ、次に大企業、そしてその他(中小企業や大多数の国民)となっている事実を、国民も感傷なく理解する必要があります。
そしてあえて、政府・アメリカ党を擁護してあげるとすれば、彼らはそうすることが日本国の安全にとって一番いいことだと信じていることです。
たぶん国家が一部の人たちを優遇するというのは、日本だけではないでしょうし、それだけまだどこの国家も動物的意識に支配されているということです。
たぶんそのような国家のあり方を変えていくのは、他者を支配したいという考えを放棄できるほど、一人ひとりが進化してパワーをもつことでしょう。
ここでもう一つ、アメリカとヨーロッパの関係を光と闇の心理学から見てみます。
ヨーロッパは現在EU(ヨーロッパ連合)としてまとまりつつあり、意識的には一つの国家とみなすことができます。
ヨーロッパとアメリカの関係は、保守的な親と親を裏切って成功した子供の関係と見るとよくわかります。
ヨーロッパの光とは一言で言って、「質を重んじる気質」であり、その製品に、芸術に、住宅に、食に、そして人々の生活スタイルのいたるところに、「質」を見ることができます。
そして、その闇とは頑固な保守性であり、人と人をはじめから区別している階級性です。
ヨーロッパの人がアメリカ人について語るとき、私はある種の軽蔑を感じることがよくありますが、その軽蔑は、アメリカ人の拝金主義、そして、軽薄で薄っぺらな文化や食に対して向けられています。
しかし、同時に私はヨーロッパの人たちの言葉の底に、自分たちから出ていった子孫が、自分たちより栄えて力をもっていることに対する嫉妬と怖れ、そしてその軽薄で薄っぺらな文化が、高級なヨーロツパの文化や言語を侵害していることへの憤懣(ふんまん)を感じることがあります。
さて、一方アメリカにとっては、ヨーロッパは堅苦しく、教養のある保守的な父親のようなもので、どうつき合ったらいいのかとまどっている様子があります。
つまり、日本のように子分として扱うこともできなければ、でも、自分のほうが力が強いのに、子供のように父親に従順に従うのもイヤだしというわけです。
それに、どちらも自分たちは世界で一番と思いたい国ですから、そのエゴをむきだしにすれば、戦争をせざるをえないということで、なんとか共通の利益を見いだし、仲よくやっていこうと思っています。
最後に、お隣韓国と日本の関係ですが、韓国の光と闇は〈恨=うらみ〉にかかわっていて、韓国のパワーとは日本への恨みを基盤にしています。
つまり、自分を苦しめた日本に絶対に負けたくないという思いが、国家を発展させる強大なパワーを生み出す原動力になっています。
しかし、恨みという否定的エネルギーを基盤にしているかぎり、韓国の発展には限界があり、今の経済混乱はそのことを象徴しています。
一方日本にとっては、韓国は直面したくない過去のトラウマ(心の傷=つまり、おまえは今では立派になっているが、昔はこんなにひどいことをしたやつなんだ、と言われること)であり、できればあまり深く関係したくない相手なのです。
しかし、金大中氏が大統領に就任したり、2002年のサッカーのワールドカップの共催が決まったりしたのを見ると、この二国間の関係もそろそろ進化が求められているようです。
今後この二国間の闇とトラウマがどのように癒されていくのか、大変に興味深いものがあります。
国家間同士の関係は現在までのところ、残念ながら、お互いの光と闇から学ぶという段階にまで達していず、お互いの闇を非難することに終始しています。
また、基本的に相手から欲しいものは物と金というレベルで、お互いの精神的なものにはほとんど関心がありません。
しかし、個人レベルでは世界の文化と人々の交流はかつてないほど盛んであり、世界中の人たちがお互いの文化から影響を受け合っています(現在、インターネットは文化交流を押し進める最強のツールです)。
その結果これからは、自分は日本人であるとかアメリカ人であるというような意識は薄れて、単に地球人と思う人が増えるのではないかと予想できます。
でも、ここでもまた国境や国というもので現在のように人の意識を縛っておきたい動物的な人たちと、国境を越えて地球人になろうとする人間的な人たちとの間で、意識上の戦いが起こるかもしれません。
『人をめぐる冒険』
(高木悠鼓 著、マホロバアート 刊)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体