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物語としての〈私〉

何年か前のある日のことでした。
ある出来事がいつ起こったのかをふと考えていたとき、衝撃的なことに気づいたのです。
つまり、私はその出来事が、実際に起きた過去の出来事だったのか、自分の頭で空想したことだったのか、あるいはまた、夢で見た出来事だったのかを、どうしても明確に区別できなかったのです。

近年記憶力が衰えてきたとはいえ、もともとは記憶力はそう悪いほうではなかったのにと思っていたので、この”事件”はちょっとしたショックでした。
脳にストレスがたまりすぎて、記憶喪失が始まったのかとか、その出来事には、自分でも知らない私の秘密が何か隠されているのか、なーんて少々おおげさに考えたものです。

しかし、ショックがおさまってもう少し冷静に考えたとき、もう一つの事実に気づいたのです。
それは、私たちの脳のなかでは、過去の思い出も、想像も、夢も、それを呼び出してくるときは、今この瞬間の脳にイメージされるという点ではまったく同じものであるという事実です。
そしてそれが、過去の思い出なのか、想像なのか、自分が見た夢なのかの区別は、自分のはかない記憶だけにたよって判断しているということです。
しかも、その記憶というものが実のところ、どれだけ信用できるものなのかは、非常に疑わしいものがあります。

私たちが歳をとるにつれて、経験は日々増えるのに、脳の記憶能力は日々低下していくという哀しい半比例があります。
ということは、記憶からこぼれている経験もたくさんあるということであり、また記憶違いもたくさんあるということを意味しています。
そうなってくると、私が記憶している過去の事実そのものが、あまり信憑性がないということにもなります。
そのことは一方では、大変にコワイことではありますが、楽しいこともたくさんあるのです。

たとえば、私たちは自分の過去にそうしばられる必要性がないことを意味しているのです。
なぜなら、過去とは脳のなかにしか存在せず、必要なら書き換えてもいいわけで、実際ここに、「過去を書き換える」という精神世界でよくおこなわれるセラピーの有効性があります。
つまり、自分の脳が信じてしまえば、どんな作り話でも過去として機能するということです。

最近ますます私は、私が私だと思っている人は、物語のなかにしかいないということを実感しています。
つまり私が〈私の過去〉や、〈私の経験〉や、〈私の哀しみ〉を語るときは、私がどれだけ事実を語ろうとしても、結局のところ、私が自分で創造した物語しか語ることができないということです。
極端な話、私は相手に応じて、〈私の物語〉を創造しているわけなのです。
小説家でなくても、人はその意味においてみんな自分を主人公にした小説を書いている(ちょっとした、悲劇や喜劇をいれながら)のだと、私は思っています。

自分の過去について深刻に考えている人や過去からの束縛に悩んでいる人は、脳のなかにある、思い出と、想像と、夢の垣根を少しはずしてしまうことをお勧めします。
まあ、無理にそうしなくても、私くらいの年齢になると、幸福な痴呆症が始まって、自然にそうなってくるのですが。

また現在、地球人の起源や未来についても、多くの話やメッセージが語られるようになってきましたが、〈私〉が語る〈私の過去〉や〈私の未来〉が、〈私〉についての無数の物語の一つであるように、それらもまたこの地球について語られる無数の物語の一つであると私には思われます。

実際それらを読んでいるときは、私はほとんどSF小説を読むような感覚になっています。
もちろん物語であるからといって、そのなかに真実がないわけではなく、地球人の現状を理解するための多くの有用な情報が含まれていることは確かなことです。
ちょうど質の高いSF小説にも多くの真実が含まれているように。

しかし、いついつ頃に何々が起きるというような、人の意識を現在よりも未来に向けてしまうような具体的な情報には、あまり振りまわされないようにしたほうがいいでしょう。
なぜなら、そういった物語は、現在も刻々と書かれて変化している最中であり、誰も本当には未来を予測できないからです。

それが何の物語であるにせよ、物語に関して一番適切な態度とは、熱狂でも無視することでもなく、冷静で開かれた心をもって接することではないかと思います。


『人をめぐる冒険』
  (高木悠鼓 著、マホロバアート 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

新・神との対話

新・神との対話

キリスト教徒でもないのに、私は人生のあるときから神は絶対に存在すると確信し、同時にそれでは「神とはどんなものか?」に大いに興味をもってきました。
私が神の存在を確信しているのは、非常に素朴な考えによるもので、このような複雑な宇宙を設計できるのは神しかいないし、そう考えるのが科学的だと思ったからです。

ちょうどそれは、「あなたは地球以外に生命体が存在すると思いますか?」と聞かれたら、異星人に会ったことも見たこともないけれど、疑いもなく私は「存在しているに決まってます」と答えるのと似ています。
その根拠は、これだけ無数の星が存在していれば、たくさんの星に生命体が存在しているのは当然だし、そう仮定しないほうが非科学的だと思うからです。
これは証明や証拠以前の素朴な考えや直感のようなものですが、科学も案外そういう素朴な考えや直感から最初は始まるのではないかと思います。

さて、なぜ神がそんなにもおもしろいかといえば、「神とは何か?」という問いは「私とは何か?」という問いでもあり、また同時に「宇宙とは何か?」という問いでもあるからです。
そして、宇宙や自分の存在の謎にチャレンジすることはワクワクすることだからです。

特にここ数年はほとんど唯一の趣味といっていいほど、私は〈神研究〉に没頭してきました。
たぶんだんだん歳をとって、もう他の様々なことに興味をもったり、何かを得たいという欲望をもつだけの体力が少しずつなくなっているせいもあるし、突然、「自分の肉体は明日にも終わるかもしれない」という考えが浮かんで、死ぬ前に「神様のことだけは知りたい」という愚かな願望のせいでもあります。

最初は研究するといっても、神とはあまりに膨大で、どこから始めるかなあと思っていたとき、聖書の一節、「神はご自身に似て人間をお造りになった」を思い出して、神に似ている人間を研究することで逆に神のことがわかるかもしれないと気づきました。
つまり、神対神の被造物と人間対人間の創造物との関係はある種の比例関係にあるということです。
たとえば形而上学的質問、「神はなぜ世界を創造されるのか?」に対する質問は、これを人間におきかえて「人間はなぜ創造するのか?」の問いに置き換えてみると、よくわかるのです。

では、人間はなぜ創造するのか?
なぜ絵を描き、音楽を作り、家を作り、服を作り、文章を書き、そして愚かしくも戦争し、その他様々なものを創造するのか?
その究極の答えは「創造の喜び」、あるいは単純に「創造したい情熱」ということです。
私たちは何かを創造しているとき、その行為の最中にはただ創造への熱中と喜びがあるだけだということに気づきますが、神がまさに次から次へと創造行為をするのは単に「それが楽しいから」、または「創造したいから」ということです。

神は創造するのが楽しいから、地球をはじめ無数の星々、様々な異星人、そして、地球界の人間、動物、植物、そして天使たち、悪魔たちなど霊界の住民たち、さらに様々な観念、感情など、この字宙のありとあらゆるものを永遠に創造し、破壊しているのです。

そして、この神と人間に共通する創造への衝動とは、同時に自分は誰かを知りたいという衝動でもあり、1章にも書きましたが、「私はここにユニークに存在している」という叫びでもあると考えることができます。

なぜなら、神にしても人間にしても何か新しいことを創造したときには、「うん、私にこんなこともできるとは驚きだ」という新しい自分を発見した驚きと満足があるからです。

よく「神とは全知全能である」と言われますが、私自身は「神には全知全能の可能性があるが、自分では自分のことがわからない存在であり、自分では自分のことがわからないことが創造への衝動となっている」と気づいたことがありました。

たとえるならば、生まれたばかりの赤ん坊には無限の可能性があるのに、赤ん坊は自分では自分が誰かわからないし、自分にどんな能力があるか知らない状態にあります。
そこで一歩一歩成長し、歩いたり、言葉を覚えたり様々なことが少しずつできるようになり、そこに赤ん坊の喜びがあります。
つまり、新しい自分を創造し、発見することであり、「私ってこんなこともできるんだ」という喜びです。

人間と神の唯一の違いは、人間は大人になるにつれて、自分の創造をあれこれ判断し、批判するようになるのに対して、神にはどんな創造も楽しいし、どんな創造の結果にも憂慮していないことだと思います。

さてここ数年アメリカでベストセラーになった本で、「神との対話」(邦訳サンマーク出版)という本がありますが、この本のなかにも神がなぜ創造するのかについて、おもしろい話が神から直接語られているので、興味のある人はお読みになることをお勧めします。

この本を読んだことがきっかけで、私も神に聞きたいことは直接神に聞いてもいいのだと思い始め、最近神との対話を始めてみました。

私:長い間の私の疑問の一つは、神は真、善、美、愛だと言われるのに、なぜ悪を創造するのか、またはなぜ悪が存在することをゆるすのか、という疑問です。
私は何人かのいわゆる覚醒した先生に、「ヒットラーのような悪人もまた神でしょうか」と直接聞いたことがあります。
そしてその答えはすべて「イエス」であり、そう聞いて一方で私は安心し、もう一方で非常に混乱しました。
あなたはどう思っているのでしょうか。

神:まず第一に、わたしが真、善、美、愛であるというのは人間が考えていることであって、わたしはあなた方人間が考えているような真、善、美、愛でないということを覚えていてほしい。
もしどうしても真、善、美、愛という言葉を使いたいなら、わたしの真には嘘が、善には悪が、美には醜が、愛には憎しみが同時に存在すると考えべきだ。
私がなぜヒットラーのような悪人を創造したかといえば、究極の答えは「楽しいから」だ。
善人だけの世界は退屈だ。
そうは思わんかね。
そして、あなたも知っているように、わたしは人間たちと共同でヒツトラーを創造したのだ。
つまり、多くの人たちがヒットラーを待望していたわけだ。
あなたの会社で出版した「バーソロミュー2」という本にも神と人間の共同創造(共同陰謀)について書いであったではないか。
私は、「神との対話」のなかでも言っているように、何一つ人間が望まないものは創造していない。
わたしにとってはいわゆる悪も善もかわりないということを覚えておきなさい。

私:でもそのお答えはあんまりではないですか。
「楽しいから」という理由で、悪人をやたら創造されても困るんですよ。
たくさんの被害者もでるし。

神:それではわたしも聞きたい。
なぜ人間たちは善人だけが登場する、愛と善と幸福だけがある小説や映画や演劇を創造しないのかね。
あなた方の間で一番読まれている小説といえば、人が残酷に殺されるミステリーやホラー小説、一番人気のある映画はこれもやはり悪い敵がたくさんでてきて、激しい殺し合いや撃ち合いの場面がある映画ではないのかね。
恋愛小説にかぎっても、幸せな結婚と愛が一生続くなどという話は誰も書かず、不倫だの心中などという話ばかりが人々に人気がある。
そういう映画や小説を創造している作家たちに聞いてみてほしい。
「なぜ善人だけを登場させないのですか。なぜ幸福と愛だけを描かないのですか」と。
彼らは「そんな話は退屈で書けないし、書いたとしても誰も読まないよ」と答えるだろう。
そして、当然一般大衆の読者がそう思っているから、作家もそう思うのであって、悪人や不幸が存在してほしいというのは、ほとんどすべての人間の合意であると考えることができる。
あなた方は小説や映画などの想像の世界では、悪人はたくさんいてほしいけど、現実の社会では悪はイヤだなどと、のん気なことを言っている。
しかし、あなた方の社会の現実は人間の想像から始まることを考えてみれば、人間の観念や想像のなかに悪や悪人が存在するので、当然現実社会にも悪や悪人が出現することは火を見るより明らかではないのかね。
それにあなた方は、何か悪いことが起きると、ようやく何かを変えようという気になるというふうに条件づけられている。
つまり、悪というのは、あなた方の社会を変革する推進力でもあるのだ。
もう一度言うよ。
わたしは人間が望んでいないものは何一つ創造していないと。
すべてはわたしと人間の共同作業である。
であるから、自分たち人間のことも、神のことも責めるのはやめなさい。
神の目から見れば、すべてはあるがままで、完壁だ。
人間は小説や映画を創造して楽しむが、わたしにとっては宇宙そのものが小説で、わたしはすべて一人でその脚本を書いて、無数の存在を通じて演じて楽しんでいるわけだ。

私:では、いつになったら地球はもっとましな星になるのでしょうか。
「まし」というのは、あなたの判断だ。
地球は現在でさえ「まし」な星だし、美しくいい星だ。
私は自分の創造を悪く言うことはできない。

私:でも誰の責任であるにせよ、地球は破滅寸前だと言われているんですよ。
どうすればいいんですか?

神:あなたに一つ考えてほしいことがある。
今ここに、長年、アルコールやらドラッグやら否定的考えで、人生が破滅しかかっている人がいるとする。
失業し、人間関係にも破れ、おまけに病気だ。
さて、この人があなたに何かアドバイスを求めたとする。
あなたはこの人に何と言ってあげることができるだろうか。

私:たぶん、今あるものに、そして、今まであったすべてのことに感謝をするように言うと思います。
今生きていることに、今日食事がでさることに、今話ができることに、今日美しいタ日が見れることに、そして、過去のアルコールに、ドラッグに、病気に、失業に、自分の否定的観念に。
そして、感謝できない自分自身に。

神:そう、何かを変えたいと思うなら、まずはすべてを受け入れて感謝することだ。
これは自分の人生にもいえるし、地球全体にもあてはまる。
あなた方人類は共同で今の地球の現実を創造してきた。
そして、今地球の体は病気であり、ある意味ではすべての人の体が病んでいる。
その治療とは、まずは病気を受け入れる。
そして、その病気の原因を自分の内に探ってみることだ。
そうすれば、どうすればいいかが一人ひとりわかるはずだ。

私:地球上の多くの覚醒者たちが「神の意志への明け渡し」というメッセージを残していますが、「神の意志への明け渡し」とは一体何なのでしょうか。
一方で、私たちは自分の意志を賢明に使うということも様々な本や先生から教えられました。
自分の意志を自由に使うことと、神の意志に明け渡すことは矛盾しているのではないでしょうか。

神:人間の二元思考から見ると、自分の意志と神の意志との二つがあるように見えるが、本当は自分の意志と神の意志の二つがあるわけではなく、自分の意志はまさに神の意志、神の意志はまさに自分の意志なのだ。
あなたが書いた霊的進化の第2段階では、それを自分の意志と呼び、第3段階で、自己というものが幻想であることを見た人たちは、それを神の意志と呼ぶだけのことである。
つまり、自分を人間と同化すれば、それを自分個人の意志と呼ばざるを得ないし、自分が神だとわかれば、それは神の意志ということだ。
であるから、あなたが何をしていても、それはあなたの意志でもあり、神の意志でもある。神の意志への明け渡しとは単に、自分の行為とそれがもたらす結果だけではなく、今ここにあるもの、今ここで起こっていることすべてを受け入れるということだ。
なぜなら、すべては神の仕業だからだ。
神の意志に完全に明け渡した人とは、何が起こっても文句も不満も疑問もない人のことだ。
あなたのように疑問だらけの人は、だからまだ完全に神の意志に明け渡しているとは言えない。

私:中途半端に霊的な教えをかじった人のなかに、「すべては神がなさったことだ」などと言って、自分の悪事の責任を取らない人や、神の意志を自分に都合よく解釈する人がいます。
また反対に、「自分の思考が自分の現実をつくる」とか、「人は自分の現実に責任がある」という考えそのものに苦しむ人たちもいます。

神:まず、「すべては神だ」と真にわかった人が、人に危害を与えることはありえないから、悪事を働いて、神のせいにする人は、神というものが何もわかっていないバカ者にすぎない。
もかかわらず、「すべては神の仕業である」というのは究極的には間違ってはいない。
なぜなら、この宇宙にはわたししかいないから。
しかしもしバカ者が「すべては神の仕業であるから、私は自分の行為に責任はない」などと言って、自分の悪事の責任と罪を逃れられると思ったら、大きな間違いである。
あなた方が他人に危害を与えるようなことをすれば、当然人間として、人間次元であなた方は罰を受ける。
そしてもう一言、言っておくが、神や宗教の名を語って悪事を働く人は、そうでない場合に比べて、罪も罰も何倍も重いのだ。
観念ということについていえば、あなたも書いているように、あらゆる観念は役に立つ場合もあれば、役に立たない場合もあるし、人を成長に導く場合もあるし、人の成長を妨げる場合もある。
なぜなら、真実とはあらゆる観念を超越しているからだ。
だからこそ、3段階の教師は、真理にいたるためには、すべての観念とイメージを手放す必要があることを強調するのだ。

私:お話を聞いているうちに、あなたについて色々と明確になる一方で、ますます混乱します。

神:それは、言葉と知識とはそういうものだからだ。
一つのことを知ることで、十の無知が増えるようになっているし、わたしはすべての言葉と知識と法則を越えるのだ。
あなた方の賢人が昔からそう教えなかったかね。
もしわたしが、人間が考える言葉と知識と法則の範囲内に収まったら、わたしは人間以下ということになる。
だから、永遠に人間は神を理解できないようにできている。
しかし神を理解できないと真にわかった瞬間こそ、あなたは自分が神だとわかることができる。
しかし、人間は自分の知性で何でも理解できると思っているし、その倣慢さのせいで自分が神だとわからないのだ。
だから、人間の知を楽しみ、同時に絶望するといい。
あなたにはそれ以外の何もできないのだから。

私ーーところで、人の望みとはすべてかなうものでしょうか。
あなたは「神との対話」のなかで、そうおっしゃっていましたが、「人が望むことはすべてかなうわけではない」と教える教師や導師もたくさんいます。

神:多くの教師が言っているように、あなたが真剣に望むことで、かつあなたの心身に合うことはすべてかなうようになっているが、しかしもし望みがかなわないとしたら、それはあなたが真剣に継続的に望んでいなかったのか、その望みを得るための代償を支払っていないか、またはその望みがあなたや宇宙のためにならないかである。
だから、「人が望むことはすべてかなうわけではない」ということは、今述べた意味において真実であり、もし望みがかなわないとしたら、それもそれで問題はない。
人間を見ていると、自分の心身に合っていないことを望んでいる人が多いようだ。
幸福な望みとは、自分の心身が真に必要なことだけを望むことだ。
そうすれば、それは無理なく、ほとんど望むことさえなくかなうはずだ。
あなたの場合であっても、必要な望みはすべてかなえてきたはずだと思うが。

私:そうだと思います。最後に個人的なことを少々お聞きしますが、私はこの世になぜ存在しているのでしょうか。
あるレベルでは理解・納得していますが、改めて考えると、人生も自分の存在も無意味なものに感じ、疑問の深みに落ちてしまうことがあります。

神:おやおや、あなたのように長年精神世界を学んできた人が、そんなことを質問するとはね。
よほどあなたは暇なんだな。
それにそういう問題は、もう昔に解決済みだと思っていたよ。
それならわたしから聞くが、あなたはなぜ食事をするのだろか。

私:それはお腹がすくからです。
つまり、生きるために食べる必要性があるからです。

神:さて、〈あなた)がなぜ存在するのかも、同様に考えることができる。
つまり、〈あなた〉は存在する必要があるから存在している。
ただそれだけだ。
意味とは人間の次元で、人間が追求することであって、人間が考えるような意味は神の次元にはない。
人間の存在意義や人生の意味・目的を、人間の思考(観念)で考えれば、答えは無限にあって、そのどれも正しいともいえるし、間違っているともいえる。
たとえば、人生の目的とは幸福になることである、と教える教師もいる。
また、人生の目的とは覚醒することである、と教える教師もいる。
わたしに言わせれば、何でもお好きなものをどうぞと言いたい。
あえて神の答えに一番近いものがあるとすれば、「人生の目的と人間の存在意義とは、ただ今あるように存在すること」というふうになる。
つまり、もしあなたが自分の存在を無意味だと感じるとすれば、「無意味に感じながら、存在すること」が今のあなたの存在意義である。
無意味さに何も問題はない。

私:それでは人間が求める意味は幻想だと言うのでしょうか。

神:人間は意味を求めるざるをえない。
なぜなら、わたしが人間をそのようにつくったからだ。
しかしどれだけ意味を追求しても、あなたのことも含めて、この世のすべての存在にどんな意味があるのか、それが何に役立っているのかなどは、人間の知ではとうてい理解できないことなのだ。
あなたはある種の慰めをほしがっているようなので、あえて言ってあげるが、わたしはあらゆる人間を適所適材に配置しているから、役立たない人間など一人も存在しない。
それがわたしの全知全能の能力の一つである。
有名な話なので知っていると思うが、ラマナ・マハリシ(二十世紀を代表するヒンズー教の聖者の一人)に、ある訪問者が次のように尋ねたことがあった。
「あなたは一日中、ここに寝そべって何もしないでいるが、なぜ町へ出かけて、あなたの教えをといたり、社会活動をしないのですか」と。それに対してラマナ・マハリシは、「私がただここにいることで、必要なことはすでにすべて起こっていることが、あ
なたにはわからないのですか」と答えたのだ。そう、必要なことはすべてすでに起こってい
るのだよ。
あなたのことに話を戻せば、あなたのような人間に出版社をさせていることは、わたしの大いなる遊び&冒険であり、わたしは大いに楽しんでいる。
であるから、援助もたくさん与えているではないか。
それに神について追究できるほどの、心の余裕も与えているわけだから、あなたも神の寛大なもてなしをもっと楽しんで、感謝してほしいなあ。


『人をめぐる冒険』
  (高木悠鼓 著、マホロバアート 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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あらゆる観念は薬である

あらゆる観念は薬である

2章の「霊的成長の3段階」のところで、観念は進化の段階によって異なり、また、それぞれが相対立することもある、ということを説明しました。
なぜ、人間の世界には無限に観念があるかといえば、たとえていえば、球という立体を円という平面で切ると、理論的には無限に切口があるようなものです。
ここでの球とは真理であり、人間であり、この宇宙のあらゆる事象であり、円とは真理、人間、事象についての説明(観念)と考えてみると、よくわかります。

本来この宇宙のあらゆること(球)は、言葉(円)では説明できないものであるにもかかわらず、人間は限界のある言葉で語らざるをえない宿命を背負っています。
したがって、本当はあらゆることについて、「AはBであり、同時にBではない」と言ってはじめて、真理に近い(これでも真理を表現したことにはならないわけですが)のです。

たとえば、「人間は自由であって、同時に自由ではない」、「人間には自由意志があって、同時に自由意志はない」「Aさんは優しい人であって、同時に優しい人ではない」などと言うべきなのですが、これでは人間の言語そのものが機能しなくなるので、あるときは、「AはBである」を強調し、あるときは「AはBではない」と言うしかないわけです。

少々哲学的で難解な話となりましたが、私がここで言いたいことは、観念とはどんな観念であっても(どんな素晴らしい観念でさえも)それは真理の一部でしかないということです。

2章で説明した進化に関連していえば、観念をもたない動物(動物的な人間ではなく、実際の動物)が進化して、観念をもつ人間になり、そしてさらに進化して、再び観念なき神になるのです。

つまり、観念とは進化の途上に出現するきわめて人間的な事象であります。
観念があるゆえに、人間には過去があり、未来があり、善悪があり、生の喜びと苦しみがあるのです。

人間にとって観念とは、自分を形づくる道具であり、自分が着ている洋服のようなものでもあり、そして、自分を癒す薬のようなものです。
道具とか洋服という比喩は理解できると思いますが、「薬である」という言い方は少々説明が必要かもしれません。

たとえば、〈私〉が幼い頃から、自分が無力であるという観念をもっていて、その観念のとおり、自分が無力を感じる現実を生み出してきたとします。
そしてあるとき、「自分の思考が自分の現実を創造する」という考え方を学び、これからは「自分はパワーがあるのだ」という観念に切り替えようと思います。
さて、ここで注目すべきことは、「自分の思考が自分の現実を創造する」という考え方(観念)そして、「私はパワーがある」という新しい観念が、以前の「私は無力である」とか、「私は運命のなすがままである」という観念を癒すために使われ、薬のように役立っているということです。

もう一つ、私が個人的に経験したことから、観念は薬であるという例をここに書いてみます。
もうずいぶん前のことですが、ある人の私に対する不親切な言動がどうしても理解できなくて、非常に苦しい思いをしたことがありました。
その理由を探求していて、もしかしたらこれは自分と相手との過去生の関係に原因があるのかもしれないと気づいたとたん、私と相手がかかわった過去生を映画でも見るように思い出し、ようやく相手の私に対する不親切を理解し、また許すことができました。
つまり、私はこのとき、「人は輪廻転生する」という観念のおかげで、自分を癒し、人を許すことができたのです。
同時に、この世のすべての悪人に対しても、慈悲をいだくことができるようになり、ある一時期はこの考え方は私の人生の薬でもあったのです。

さて、日本では過去十年間くらい、アメリカでは過去二十年間くらい、今述べたような「人は輪廻転生する」とか、「自分の思考が現実を創造する」を代表とするニューエイジ的思考が、急速に広まりましたが、その理由の一つには、(2章で述べた)成長の1段階を多くの人たちが卒業しようとしていて、1段階の観念を癒し、1段階から2段階への移動を助ける思考形態が求められているからです。

特に西欧社会では、単に「生き延びること」は、もはや問題ではなく、自分独自のライフスタイルの質を求める、つまり、自分はどういう生活がしたいのかを考える人たちが多くなっています。

また、霊的な面においても、伝統的キリスト教の価値観から離れた多くの人たちが、神や霊的な成長について新しい解釈をニューエイジ的思考のなかに見いだしたのです。

さて、日本ではどうかというと、戦後日本人全体が物質的豊かさを求めて走り続けた結果、バブル経済あたりで、それが頂点に達しました。
戦後を支えてきた日本人の価値観とは、「生き延びるために、みんなでいっしょにがんばる」というものでした。
つまり、過去五十年問、会社でも、家庭でも、学校でも、日本人は、みんなでいっしょに走ってきたわけです。
それが成功して頂点に達した頃、多くの人たちは、共同体の価値観から離れて、他者とは違う個の確立を模索し始めました。
また、ちょうどその頃アメリカからチャネリングなどを中心としたニューエイジ的思考がどっと入ってきて、多くの人たちが1から2への成長段階へ移動するのを助けたのでした。

私自身は、十代の終わりに、日本の共同体的価値観を捨て、それ以後、家族や社会が提唱するどんな価値観とも無縁に生きてきたのでニューエイジの本を読んだとき、ようやく日本でも、個というものを真に大切にする考えが受け入れられる時代がきたのだと思いました。
あまりにも個が集団に埋没してしまう日本人の弊害を見てきて、日本人は個を正しく確立する必要性を常々痛感していた頃でした。
実際、日本人の悩みは「自分はあることをやりたいのだが、まわりがそれをゆるさない」とか、「私が言いたいことを言ったら、他の人に受け入れてもらえない」とか、つまり、自分の価値観と自分が所属している共同体の価値観との葛藤から生じていることが多いのです。

そして、何かの力に押されるような感じで、突然のことながら、自分自らも出版社をつくって、海外で出版されている本を翻訳して、出版し、個を確立するための考えを宣伝する仕事もしてきたわけです。
私が一人ひとりの悩み相談にのるより、本でも読んで自分で解決してもらうのがいいのでは、と思ったからです。

西欧と日本でのニューエイジ的思考の繁栄のもう一つの理由は、過去二千年あまり地球文明を築きあげる中心となった、1段階のあまりに否定的な観念を早急に癒す必要があるからです。
つまりこれ以上そういう否定的な観念をほっておくと、地球と人類が滅亡するかもしれないと、多くの人たちが危機を感じているからです。
個人的にも国家的にも、「私は無力である」、「私が勝つか、相手が勝かのどちらかである」、「今手にしている物は、明日はないかもしれない」などいう無力と競争と欠乏感にさいなまされて、脅迫的に物を生産し販売し消費した結果が、今日の環境問題、暴力、貧富の差という問題を生み出したことは間違いのないことです。(
ちょうどこれを書いている日、ある新聞社の新聞勧誘員がわざわざ本部からきて、「ぜひライバル新聞を追い抜いて、一番になりたいので購読お願いいたします」と勧誘に来ていましたが――しかもビール券のおまけつきで――なんという勧誘文句でしょうか!)
ということでニューエイジの考え方は、そういった1段階の観念を癒す特効薬として非常に効果があるのです。

私が出版社をつくってから、約七年の歳月が流れ、この間、日本は急速に共同体の崩壊がすすみました。
例をあげれば、離婚の増加と伝統的形態の家族の減少、会社での終身雇用制と年功序列の崩壊、能力主義と個人主義の台頭など、そして、それにともなってストレスからくる犯罪の増加などもあって、現象的にはけっしていいことだけではありません。
しかし、その古いものが崩壊していくことは必然的な流れですしこれからもそれが止まることはないでしょう。

1段階にしがみつきたい人たちにとっては、恐ろしい時代と見えるかもしれませんし、2段階にいる人たちにとっては、可能性とチャンスの時代に見えるかもしれません。
日本という国全体からみても、1段階を終わって国として2段階へ移動しつつあります。
多くの人たちが家族や共同体からの個の自立と確立を求め、自分で自分の価値観を選択していかなければならない時代です。
精神的に怠惰であること(つまり、他人と同じに生きていけば、問題なく生きれるはずだと思うことなど)がゆるされず、必要なときには外部から新しい価値観を迫られる事件が起こる可能性があります。

さて、以上のような説明から、観念とは強力な薬であることを理解していただけたと思います。
しかし、薬であるということは、必要がなくなったり、効かなくなったら、飲まなくてもいいということです。

前にも述べた「人は輪廻転生する」とか、「自分の思考が自分の現実を創造する」というような役に立つ観念(薬)であっても、それが効く期間は成長のある期間に限定されていますし、また飲み方によっては、むしろ人の成長を妨げる毒になる場合があります。

人の心と体の治癒について、とても深い愛と洞察が心に響く本、「癒された死」(ヴォイス発行)のなかで、著者のスティーブン・レヴァインは、長年ヒーリングにかかわってきた経験から、「私たちは自分の病気に責任があります」とか、「私たちは生きるか死ぬかを自分で選んでいます」というような流行の考え方は、中途半端に使うと、かえって治癒をはばみ、恐怖を増やすことがあることを、多くの例をあげて警告しています。
彼はまた、ヒーリングの成功とは、必ずしも病気が治って健康になることではなく、病気が治らず死んでいった人たちのなかにも、深い癒しが起こることを指摘しています。

私がアメリカに滞在していた頃、「人が死ぬのは、人が死ぬという観念をもっているからであって、もし人が自分の肉体は死なないという観念をもつことができれば、人は肉体として永遠に生きることができる」と主張しているグループの人たちに会ったことがあります。
しかし私は、ここまでくると肯定的思考も行き過ぎな感じがします(肉体の死があるからこそ生が貴重なものになると、私には思えます)。

ニューエイジ的思考とか肯定的思考について一つだけ理解してもらいたいことは、それらはけっして人を無欲で無私な人間にすることが目的ではなく、人を正しくエゴイストにするのがその目的であるということです。
つまり、自分と他人、自分と他人の思考や感情、自分と他人の価値観を区別することによって、今まで明確ではなかった自分という人間を明確にし、自分が本来もっている才能やパワーが実現することを助けることです。
ですから、〈他者とは違う自分〉という考え方を正しく実践している人たちは、みなエゴイストであります。
そしてそれは、人の進化から見て、正しいあり方であることは1章でも説明しました。
ですから、精神世界を学んでいる人たちは、けっして単に「いい人」や「愛情深い人」になっていくわけではなく、正しくエゴイストになる道を歩いていることを誤解なく理解する必要があります。
そしてまた、知らずに間違ったエゴイストになる危険性も十分にあるのです。

個人的な経験からいうと、〈他人とは違う自分や自分のパワー〉という考え方さえ癒しを必要とする時期もあり、人生には〈私の思考やパワー〉ではどうにもできないことも、多々起こるものであります。
そのようなときは、すべての〈私の考えや価値観ややり方〉を捨てて、自分の無力を深く感じ、神(宇宙)にすべてをまかせるほうが、ずっと自由で心も癒されるのです。

ということで、「人を見て法を説け」という言葉もあるように、あらゆる観念も、それを使う人間と状況との関係があってはじめて効果があるということ、そして、使い方によっては薬にも毒にもなることを心にとめておきたいものです。


『人をめぐる冒険』
  (高木悠鼓 著、マホロバアート 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

精神世界の光と闇

精神世界の光と闇

最近でこそほとんどなくなりましたが、私がこの精神世界の出版という仕事を始めた頃は、「チャネラーやヒーラーになりたいがどうしたらいいか」とか、「マホロバアートに就職したいのですが」というお手紙やお電話を時々いただきました。
「マホロバアートに就職したい」と言われて、とても光栄に感じたのですが、でもいつも、「精神世界の会社はあなたが期待するほど楽なところではないので、今いるところで精神世界の知恵を活かしたほうがいいですよ」とお答えしたものです。

たぶん精神世界の本やセミナーが、少々明るさばかりをふりまいたせいで、「精神世界の仕事はそれ以外の世の中の仕事とは違って、明るくて楽しいものばかりであるにちがいない」という印象を与えてしまったようです。
もちろん明るく楽しいこともたくさんありますが、普通の仕事と同じく、大変なこともたくさんあるのです。

前にも書きましたが、精神世界で仕事をする人たちは、別に立派だからでもなく、霊性が特別に高いからでもなく、そうせざるをえない必然とカルマ(縁)があるということです。
そして、光を背負う分、闇も背負う覚情もしないといけないし、そしてさらに自分の観念と現実のギャップをイヤというほど見せられて、いろいろ試されたりもするわけです。

ヒーラーやチャネラーも含めて精神世界の仕事というのは、他人のエネルギー領域にかかわることであり、仮に相手(お客)が望んでいることであったとしても、他人のエネルギー領域に働きかけることには、ある種の微妙な責任をともなうことを理解する必要があります。
そして、一つの責任ある立場に立ったら、その立場ゆえに求められる多くのモラルやルールもあるのです。

このことをわかっていただくために例をあげれば、たとえば、政治家や官僚が脱税したとしたら、一般の市民が脱税するよりも何十倍も罪が重く、宗教家が犯罪を犯せば、ヤクザが犯罪を犯すよりも何十倍も罪が重く、医者が自分の利害のために、患者の命を犠牲にするとすれば、普通の人がそうするよりも何十倍も罪が重いということです。

同様に「楽しいお金」のような本を書いた私が、人に借りたお金を返さないとすれば、普通の人がそうするよりも何十倍も罪が重いのです。
理由を説明する必要もないとは思いますが、問題は立場にともなうモラルということです。

ですから、これを読んでいる皆さんのなかで、もし精神世界の仕事をしたいと思っている人がいれば、「精神世界の仕事とは、人が思っている以上に多くのことが自分に求められる仕事であり、大きな責任がともなう仕事である」ことを理解していただきたいのです。

もちろん私も精神世界の読者の多くが、「人に役立つやりがいのある仕事をしたい」と真剣に願う気持ちが痛いほど理解できますし、そういう願いをもった人たちを励ますのも私の仕事の一つかもしれない、と思っています。
しかし、問題は〈役に立ちたい〉という観念と、〈実際に役立つ〉という現実の間には常にギャップがあるということです。

ですから、もし本当に人のために役に立ちたいと思うなら、そのギャップを埋めるべく自分の実務的能力、霊性、人格、判断力のすべてを、〈実際に役に立てる〉レベルにまで引き上げるための日々の地道な積み重ねが必要だということです。

私の信念の一つに、人はまず自分のために役立つべきで、それができるようになったら、自分のすぐまわりにいる家族や同僚、友人のために役立つようにし、それができるようになったら、それ以外の人たちのために役立つようにするべきであって、逆をやるべきではない(つまり自分のために役に立たない人が、社会や他人のためなどといって走りまわらないほうがいい)、というものがあります。
まずは自分のレベルに合わせて、小さなことから役に立つ行為を始めるのが一番いいのです。
自分や自分の家族、同僚、友人、関係者に誠意と優しさをもてない人や組織が、「地球に優しく」なんて言うのを、私は信じないことにしています。

精神世界ではその話題があまりに壮大で、広大で、美しいため、本を読んだり、話を聞いたりするだけで、一気に観念がふくらんでしまう傾向があります。
ところが、人間の現実的肉体、感情、思考レベル、つまり私たちのエネルギーレベルは、本をたくさん読んだり、セミナーに参加したくらいで、そう簡単に変わることはできないのです。
ですから、精神世界の読者は多かれ少なかれ、観念と現実がかけ離れているのですが、問題はかけ離れていることではなく、そのことを認識しない人が案外多いということです。

そういった観念と現実のギャップの例をあげると、たとえば、〈私〉が精神世界の本でたびたび言われている〈平安な心〉に感動し、自分でも実践したいと思うとします。
ところが、今日電車に乗っているときに、隣りに立っている人に足を踏まれ、おまけにその人が何もあやまらないとします。
〈私) は腹が立ち、半日くらい思い出しては不愉快になります。
さて、ここでわかるように、〈平安な心〉を実践したいと思うことが観念のレベルで、実際イヤな奴に腹を立ててしまうのが〈私〉の現実、つまりエネルギーレベルということになります。

ここで「自分は平安な心を実践したいと思っているけれど、今日は実践できなかった」とそのギャップに気づくことによって、次回は足を踏まれて数秒間腹が立つところで終わり、さらにその次は足を踏まれでも、腹も立たない、というところまで反応が進化する可能性があるのです。
それが〈平安な心〉という観念と、電車のなかで足を踏まれて怒るという出来事を結びつけて考えることができない人は、〈平安な心〉は永遠に観念のレベルにとどまり、電車のなかで足を踏まれたとき私はこのテーマが大切だと思って、何度かこのテーマで話したことがあるのですが、たとえば、精神世界の光と闇や、その他イヤな出来事に対する自分の反応も変えることができない、ということになります。
以上はほんの一例ですが、誰の日常でもよく起こることだと思います。

私はこのテーマが大切だと思って、何度かこのテーマで話したことがあるのですが、たとえば、〈豊かさを引きつける〉とか、〈ライフワークを見つける〉などに比べると、まったくのところ人気のないテーマであることがわかりました。
しかし、自分の観念と現実のズレをたえず認識しない人は、個人でも集団でも、光を求めていると本人は思いながら、実は知らずに闇が増えるという現象が起こります。
私が感じるに、街で勧誘やお祈りをしている団体や人は、たいていある種のアブナイ波動を放っています。

最近はほとんど外に行かないので、こういう種類の人に出会わなくなりましたが、以前外に仕事に行っていた頃は、うんざりするほどよく声をかけられたものです。
曰く「あなたのひたいから光がでていますよ。本当にあなたは輝いています。あなたは今、人生の転機なのです。何かしたほうがいいですよ」なんて、一日中立って、五時間くらい話した後の仕事帰りで、今にも倒れそうになるのをこらえて歩いている私が輝いて見えるわけがなかろうが、本当に下手なウソをつくものだと思いながら、ときには興味本意に営業トークを聞いたものです。

またその他、新興宗教系、自己啓発セミナー系、占い系の人たちにも時々つかまって、「なぜ今の自分を変えなくてはいけないのか」の話を聞かされたのですが、そのたびに私は、「私の修行は、いかに今の自分でいいのかを認めるというものなので、あなた方の方法とは系列が違うようですね」などと少々からかって答えたものでした。

また一年に一度くらい、私の会社のほうにも、こういう団体や人からお電話をいただくことがあります。
こういう団体や人に共通して見られることは、〈他人に言われたことをそのままうのみにしてしまうある種の信じやすさ〉と〈自分が信じていることや、やっていることが、他人にも絶対的にいいことだという信念〉ですが一般の精神世界の読者や精神世界の仕事にかかわる人たちも、注意していないとこの心の罠に陥ることがあります。

個人的な考えでいえば、精神世界の仕事や教えに関しては、「ここにこんな素晴らしいものがあり、あなたにも絶対いいはずだから、ぜひどうぞ」という積極的姿勢よりも、「私には役に立ったものが、ここにありますので、必要でしたらどうぞ」という少々消極的姿勢のほうが、無理がないと思うのです。
なぜなら、精神世界の読者や教師であっても、心理的依存症という病気にかかりやすく、自分の問題の答えを他人から得ることに中毒したり、反対に答えを他人に与えることに中毒してしまう傾向があるからです。
そして、「自分以外の権威のある人(存在)が、自分の問題の答えを教えてくれるはずだ」とか、「私はあなたの問題の答えを教えてあげることができる」と人々が錯覚するとき、そこに大きな闇が生まれるのです。

さて、精神世界や宗教が闇を作りだすもう一つの原因は、それにかかわる人たちのエネルギーの増加にあります。
つまり、個人でも団体でもある種のワークや瞑想を長く続けると自分が使えるエネルギーの量が必ず増えて(質は必ずしもよくなるとはかぎりませんが)、そのせいである種の超能カや霊能力が突然開発されることがあります。
そして、そういう超常的能力をいったんもったら、それを使いたくなるのが人情ですし、仮に本人が望まなくても、そういう能力を悪用したいとたくらむ人たちが集まってきます。
気をつけていないと、いつのまにかそういう能力を使って他人をコントロールしたいという欲望にとりつかれてしまうということです。

精神世界の教えやワークや本が広まれば広まるほど、光も増える半面、闇も広まるのを私はこの七年間実感してきました。
でも、エネルギーの増加は両方に作用することを考えれば、しかたのないことでしょう。

私たちにでさることは、自分以外の人や団体のことはほっておいて、自分の観念とエネルギーのギャップを埋めるよう努力しながら、日々、正直に誠実にやるべきことをやって生きていくことだと思います。
そしてそのように生きることが、結局は他人や社会の役に立つことであり、機会と運命があれば、そういう仕事につくことを可能にすることでしょう。


『人をめぐる冒険』
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チャネリング再考

チャネリング再考

1980年代から1990年代の前半頃まで、欧米や日本の精神世界ではチャネリングが大ブームでした。
今でも一時の熱狂はないものの、チャネリングの本は相変わらず根強い人気があります。
私も興味をもって、翻訳されていない本も含めてかなり多くの種類のチャネリングの本を読み、そして、そのなかで私が気に入って、日本の読者にも合うと思った本を何冊か翻訳出版したのです。

チャネリングの魅力とは、地上的人間的な発想に縛られない斬新で豊富な情報と、目に見えない世界で人間を応援している存在がこれだけたくさんいますよ、ということを教えてくれていることだと思います。

でも逆にいえば、神よりは身近に感じられる非人間的で絶対的な存在に、愛され、助けてもらいたい、確かなことを言ってもらいたい、という人間の孤独と無力感と不安が、ブームの底にはあるのかもしれないと分析できます。

私自身は長年チャネリングの本を読んできたにもかかわらず、自分でそれをやりたいと思ったことも、やろうと試みたことも、またチャネリングが何であるかさえ探求したことはありませんでした。
なぜなら、チャネリングをやるということはまったく私の気質と興味にはずれたことでしたし、またチャネリングとは何かを探求するよりも、自分がその情報をどう感じ、どう活用するかのほうが大切であると思ってきたからです。

今でも基本的にその考えは変わっていませんが、今回この本を執筆するにあたって、チャネリングの本の読者が圧倒的に多い自分の会社の読者のためにも、一度くらいはチャネリングとは何でその情報の信頼性について自分なりの考えをまとめて発表してもいいのではないかと思いたち、このように書き始めているのです。

まずはチャネリングとは何かということですが、非常におおまかに言ってしまえば、多くの人たちの共同エネルギー領域(共同観念)が自分たち自身に向けて発しているメッセージであり、また、チャネラーとはそれを代表して伝えている人である、というのが私の考えであります。

共同エネルギー領域とは、同じ感情や考えをもっている人たち(動物や異星人たちも含む)のエネルギーで構成されている磁場、とでもいうようなものです。
私たちは便宜上、その共同エネルギー領域に名前をつけて呼んでいますが、それは私たちがイメージするような個人的な存在ではない、と私は思っています。

もう少し具体的イメージがわくように書きますと、たとえば〈私〉があるチャネリングの本を読んだり、メッセージを聞いて、とても感動し、共感するとします。
そのことは、〈私〉がすでにそのメッセージを発するエネルギー領域に無意識的に参加していて、そのメッセージを具体的な現実の形(たとえば、セミナーや本やテープ)に創造した結果、今本を読むなり、メッセージを聞いている現象があるわけです。

つまり、チャネリングのメッセージとは、〈私〉自身が〈私〉に与えているメッセージということであり、チャネラーという人は、たまたまその人がチャネルするようなメッセージに最も関心をもっている人で、かつそれを代表として人前で発表する諸条件に恵まれている人ということになります。

私たちは通常自分を、他とは分離した個体であると信じているため、自分が肉体を越えたところで、他の存在とどれほどつながっているかが自覚できません。
しかし今では科学者たちでさえ、私たちを構成している原子や分子は、私たちの肉体の中と外を自由に出入りしていると述べています。

つまり、人間が思っているほど、人間は分離した存在ではなく、私たち固有の思考や感情だと思っているものさえ、とても多くの人間と共有されていると考えられます。
私のイメージでいうと、自分の肉体を中心に無数のエネルギー領域が自分を取り囲み、それぞれのエネルギー領域は、他の人間(や動物、異星人)と共有され、影響を与え合っています。

多くの賢人が言っているように、この宇宙のあらゆる存在は〈たった一つのもの〉からできているとすれば、人間という受信機の感度しだいで、私たちは宇宙のどのような場所の情報も手に入れることができるのです。
そして、宇宙にはどのような思考エネルギー領域も感情エネルギー領域もあって、私たちがチャネリングそのものに関心があってもなくても、すでに無意識ではいろいろな領域にかかわっているのです。
ただし、そのようなエネルギー領域は、私たちが考えているいわゆる善なるものだけではなく、悪なるものも含まれていますから、この地上で悪いことをたくらむ人たちもそういう領域から応援と情報をしっかりともらっています。

さて、話をチャネリングの情報の信頼性に移しますと、それが信頼できるのか、または役に立つのかを判断できるのは、メッセージを聞いている一人ひとりの人しかいません。
なぜなら、〈私〉は役立っても〈あなた〉には役立たないというものもたくさんあるからです。
また、ある時期は〈私〉に役立っても、別の時期には役立たないというものもあるからです。
どんな情報の価値も流動的であって、普遍的なものではないと思います。

また私がたくさんのチャネリングの本を読んで感じたことは、細部の情報(たとえば、結婚、セックス、お金、仕事、病気など)に関しては、それぞれずいぶん意見が違うものだということです。
そして、その違いがどこからくるのかをよく考えたのですが、結局、それぞれのメッセージは特定の人たちに向けられている、という私なりの結論に達しました。

ですから、メッセージが自分向きで役立つものなら使えばいいし、必要がなくなったら捨てればいいだけのことです。
いずれにせよ、必要なのは個々の人の判断力と感性です。

チャネリングという一風変わった現象の流行は、自分の可能性をもっと探求したいという多くの人たちの思いが創造したことであり、私自身もその情報と発想とエネルギーにはずいぶん助けられました。
でも、今後人類の進化が進んで、人間が日常的に自分からメッセージを聞くことができれば、こういう特別な現象も必要なくなると予想できますし、作家、歌手、芸術家、政治家、犯罪者など、多くの人たちの観念や感情を代表する人たちはすべて広い意味でチャネラーであるということも認識されるようになるでしょう(私自身、自分が書いた内容に教えられるということがよく起こります)。


『人をめぐる冒険』
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ずっと自分のことだけ

大学生のときのことでした。
ある日同級生に、「あなたって自分のことしか関心がないのね」と少々非難めいて言われて、非常にショックを受けたことがありました。
なぜかというと、私は日頃、「人間というのは、基本的には自分のことにしか興味のない存在であり、それが正常の姿である」と、信じていたからでした。
しかも誰もがそう信じていると、思い込んでいたのです。

しかし、友人にそう言われて改めて周囲の人たちを眺めてみると、確かに人は自分のことよりも他人のことに興味があるように見え、他人がどんな物をもっているのか、どんなところに住んでいるのか、誰とつき合っているのか、どこの学校を出たのかなどにとても関心をいだいているように思われました。

それを見て「うーん。私ってやっぱり変かも」と、一時は考えこんだわけですが、それでは、なぜ人は他人に関心があるのか」をさらに続けて観察してみると、多くの人が思っているのとは違う隠れた二つの理由があることに気づきました。

一つは、他人の私生活をあれこれ知ることによって、自分の生活を判断するためです。
よくある心理としては、他人の幸運や幸福を見ると、突然自分の今の生活がつまらないものに見えるということがあります。
あるいは逆に他人を見て、自分を幸福だと思うときもあります。
あるいは友人が突然幸運に恵まれたら、自分もその人と同じ幸運を手に入れることができるように、その秘密を知りたいと思うのです。

このように他人への関心は、突きつめていえば自己関心への裏返しということができます。
自分に真に関心をもつことは、ときには痛みをともなう作業なので、その代わりに多くの人たちはお手軽に「他人への関心」によって自己への関心を避けるのです。

人が他人に関心をいだくもう一つ大きな理由は、単に「暇つぶし」と「退屈しのぎ」です。
自分のことよりも、他人のことに関心をもっているような人(他人に嫉妬したり、他人の悪口を言っているような人も含めて)を見ると、私が最初にまず思うことは「みんな暇なんだなあ」ということです。
もちろん私だって退屈したり、暇なときもあるのですが、私の場合は昼寝をしたり、本を読んだりしていると、あっという問に時間が足りなくなります。

もちろん今述べたこと以外に〈他者への関心〉には〈他者への応援〉という肯定的・積極的意味もありますが、少なくとも私の場合は、他者を応援することによって、自分が生きていく勇気・知恵を得たいという動機があります。

以上辛辣な観察なようですが、結局のところ私は、「人は最終的には他人に関心をもつことはなく、すべては自己関心の裏返しであり、誰のことより自分に関心をいだくというのは、人間の正常のあり方である」という最初の考えに安心して戻り、今日まで「ずっと自分のことだけ」を貫いてきました。

しかし、私はここで他人に関心をいだくことがいいとか悪いとかを論じているわけではありません。
私だってときには暇つぶしに山ほどの週刊誌を読むこともあれば、必要なら他人に関心をもって、積極的に情報を得ることもあります。
しかしそれはすべて自分の人生に役立つ何かを得るためであって、そうでなければ、他人についてあれこれ知ることは重荷でさえあると思っています。

私がここで指摘したいことは、多くの人がもっている考え、つまり単に「他人に関心をもつことは、他人への思いやりや友情のあかしである」とか、「他人から関心をもたれることが、自分が好かれている証拠である」という考えに対して、本当にそうなのかどうかということです。

「それではあなたは自分のことだけ考えていて、人に愛情や思いやりを示すことはないのですか」とか「あなたのように考えると非常に寂しいですよね」などと、反論する入がいるかもしれません。
私自身は、人は自分への関心、愛情、思いやりを通じて、他人に愛情、思いやりをいだくことができ、自分への理解を通じて他人を理解(もちろん、他人を理解することは前にも述べたように限られてはいますが)することができると思い、そう実践してきました。

例をあげてみれば、たとえば、私たちは自分の不完全さを知ることで、他人の不完全さを許し、それに思いやりをもつことができ、自分の孤独の深さを知ることで、他人の孤独を知ることができ、自分のストレスを知ることで、それが周囲に広がって、他人に迷惑をかけないように注意を払うことができます。

つまり、自分への関心は、目立たないやり方で、十分他人にも役立つし、愛情深い行為なのです。
ですから、真に自分のことだけを貫けば、それは〈あなた〉へいたる道でもあるということです。

もう一つ例をあげてみます。
この話は逆に、自分を知らないことがいかに自分と他人にストレスを与えるかということです。
よく私は、自分がいかに他人に気を使いすぎて、疲れるかという悩み、特に女性の悩みを聞いてきました。
また悩みとしては口には出さないけれど、対人関係に相当気を使って疲れている人たちが、世の中には多くいることも知りました。
私はそのほとんどの例が、本当は他人に気を使いすぎて疲れているのではなく、自分が職場の人たちや友人や親戚にどう思われるのかに気を使いすぎて疲れている、ということに気づきました。

こういう悩みの場合は、自分が他人に気を使っているせいで疲れているのだと思っているかぎり、悩みはなかなか解決されないのです。
しかしいったん自分が自分に関心があるだけなのだと理解したら、それでは自分の自分に対する関心のあり方が、どうしてこんなに疲れることなのかをさらに考えることができ、そこから解決の糸口が見えてきます。

ここでまた次のような疑問をもつ人がいるかもしれません。
「それでは、職場の人たちや友人などに気を使う必要はないのですか。
自分がしたいように勝手にふるまってもいいのですか」と。
もちろん、自分が集団のなかの一人であるところでは、他人に気を使うことは、自分がその集団で快適に過ごすためにも必要なことです。
特に職場では何かの仕事やプロジェクトをやるために人が集まっているわけですから、人間関係をうまくやることは仕事の一部と考えるべきことかもしれません。

これは前西武ライオンズ監督、森祇晶氏がその著書「一流になるために何をするべきか」(講談社発行)、のなかで述べていたことですが、さすがだと思いました。
どう他人に気を使って、しかも自分が疲れないでいられるか、これには単純なノウハウはないわけで、大人になることの修行の一部として、個々の人が真剣に研究すべきテーマでしょう。

さて、人間関係はほとんどの人たちにとっては永遠のテーマであり、他人とかかわるかぎり、死ぬまでついてくる問題です。
しかし人間関係にどれだけの重きを置くかは、人によってずいぶん違います。

私自身は、「人間関係は体力と能力と技術と、そして縁である」という基本的考えをもっています。
つまり、多くの人間関係を良好に維持しようと思ったら、それ相当の体力と能力と技術が必要であるということであり、だから人は自分の体力と能力に応じて人間関係をつくるのが、一番無理がないということです。

こんな本を書いている私も正直なところ、人間関係は特別に得意な分野ではないのですが、ただそのことについて悩まないのです。
ちょうどスポーツが不得意でも悩まないように。

ようするに、私がここで言いたいことは、友人知人恋人が多くても少なくても、人間関係のドラマが多くても少なくても、表面的に人気があってもなくても、異性にもててももてなくても、人間関係のあり方が自分に合っていれば、楽しい人生を送ることは可能だということです。

人間関係は能力であり、それと技術の問題でもあるということは、友人知人の数を増やしたり、良好な関係を維持したり、そして、異性にもてたりすることさえ、能力と技術の問題なのだと私には思えます。
つまり、それは英語やパソコンを習うように学ぶことがでさることであって、けっして人間の本質的価値の問題ではないということです。

私が知るかぎり、友人知人の多い人、良好な人間関係を維持している人、そして、異性になぜかもてる人というのは、それなりの研究と努力を怠らないのです。

ですから、もしあなたが現在の人間関係のあり方に不満であれば、それを変えることもできるということは覚えていてください。
でも、まず大切なことはたぶん、自分といい関係になること、そして、どういう人間関係であれ、今ある関係に感謝することから始めるといいと思います。


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精神世界は楽しい

精神世界は楽しい

自分の人生に起きた最もよかったことの一つは、精神世界との出会いであることを、私は確信することができます。
もし精神世界と出会っていなかったら、中年の今、体も頭も衰えていくのを実感しながら、老いと死へと向かっていく日々をひどくみじめに感じ、憂鬱に思うにちがいない、と想像します。
確かに体も頭も衰えていくにもかかわらず、20年間精神世界を学んだおかげで、精神的には堂々と日々生きていくことができるのは楽しいことです。

今から20年ほど前、精神世界(20年前の当時は精神世界という言葉はなかったような気がしますが)と出会ったときのことは今でも鮮明に覚えています。
その頃は、自分のすべてが行き詰まっているように感じていた頃でした。
そんなある日、何かおもしろい本を探すために書店に立ち寄って、今まで読んだことのない分野の本を買おうと思い、はじめて精神世界の本を何冊か買ったのです。

それまで学校のテキスト以外に宗教や精神世界の本を読んだことがなかったにもかかわらず、はじめて自分で買って読んだ精神世界の本に私はひどく衝撃をうけ、自分の行き詰まりを打破するにはこの世界しかないと確信しました。

それからの数年問、手に入るあらゆる宗教、心理学、精神世界の本を読み、各種の瞑想を行い、セラピーを受け、とても充実した日々でした。
しかし同時に、瞑想やセラピーや、特定の修行の場に人は長い間いるべきではないとも感じました。
なぜなら、精神世界の修行とは結局のところ、あれこれの瞑想法やメソッドを修得することではなく、世の中で生きること、そして、生きている一瞬一瞬に自分を見つめていくことしかないとわかったからです。

どれほど瞑想やメソッドや教師の力が強力なものであっても日々の一瞬一瞬の気づき、学び、失敗、成功を地道に根気よく積み上げていく作業をしないと、精神世界はただの一時的な気晴らしに終わってしまう可能性があります。

では、瞑想やメソッドを学ぶメリットとは何で、またなぜ導師や教師のところに人々が集まるのかといえば、前にも書きましたが、多くの人々が集まることによって、一つのエネルギーの磁場が生まれて、それによってそこに参加した人々は大きな影響を受け、精神世界の道を歩いていく励ましと勇気を得ることができるからです。

精神世界とかかわって数年たった二十代の終わり頃に、どういう人生が一番かっこよくて、自分が満足するのかということを真剣に考えたことがありました。たとえば、仕事に生きるキャリアウーマンとか、結婚していい母親になるとか、お金をたくさん儲ける人生とか、学問に生きる学者とか、自分に可能性のありそうな人生はすべて考えてみたものでした。
それはまた同時に、自分は精神世界とのかかわりのなかで、最終的には何が得たいのかへの問いでもありました。

結局出した結論は、自分が外側で何になって、また何を実現しても、完全には満足できず、最後には虚しさが残るだろうというものでした。
なぜなら、外側のものは永遠には残らず、時がたてば、すべてなくなってしまうからです。
では、何があれば、自分の人生に満足できるかといえば、永遠に残るものを得ることであると考えました。

そして、もし永遠なるものを得ることができれば、そのことによって、自分の外側の状況がどうであれ、日々を怖れなく、平和に生さることができるだろうし、それこそ一番かっこいい人生であると確信したのです。

その後、「永遠なるものとは、得るものではなく、気づくものである」ということを理解しましたが、どんな人生がかっこいいのかという確信は、今現在も変わることなく続いています。
そして、そういった「永遠性に目覚め、日々怖れなく平和に生きること」を完全に実践している人たちと直接お会いし、お話する機会にも恵まれ、自分の確信を強化できたことは、最大の幸運でした。

さて、これを読んでいる皆さんも何らかの形で、精神世界とかかわっている人も多いと思いますが、一体自分が精神世界とのかかわりで何を望んでいるのかを一度明確にすることをお勧めします。
なぜなら、現在一口に精神世界といっても、多様な人々と価値観と考えがあって、それぞれの人(組織)の精神世界はかなり異なっているからです。

そして、自分が精神世界から何を望むのかによって、その人が出会う本、教師、メソッド、組織はずいぶん違ってくるからです。
そして、そこで何と出会い、何が自分に起きるかは、すべて自分に責任があるわけで、だからこそ自分自身の感受性と判断力が大切なのです。

何かの組織や人とかかわって、「だまされた」とか、「ひどい目にあった」などと泣き言を言う人がたまにいますが、精神世界は精神的に大人の人たちの遊び場(=学びの場)であって、子供の遊ぶところではないことを覚えておくべきです(だまされたら、いい経験をしたと笑えるくらいのユーモア感覚が必要なのです)。
そう、実際精神世界には多種多様な奇人、変人、悪人もいるのです。

また、〈いい人〉が〈悪い人〉に突然変身なんてことも起こり、気がついたらそれが自分だったり(?!)もする楽しい世界でもあります。
また、この世界ではどんな奇妙な考えも観念も価値観もゆるされていて、どんなテレビを見ているよりも飽きない世界なのです。
そしてもし、他人と価値観が合えば、参加して一緒に踊ることはこのうえなく幸福なことです。

最後に一言精神世界について言っておきたいことは、人がいわゆる精神世界と深くかかわるかどうかは、必ずしもその人の精神性や霊性と関係なく(つまり、ある人が精神世界と深くかかわっていたり、精神世界の本をたくさん読んでいたり、精神世界の仕事をしているからといって、必ずしも精神性や霊性が高いわけではないということ)、どちらかといえばよくも悪くもカルマ(縁)のようなものだと、私自身は思っています。
あるいはもっと軽くいえば、趣味のようなものだといってもいいかもしれません。

もしこれを読んでいる皆さんにも、私と同じくそのようなカルマや趣味があるとすれば、この世界と深くかかわって学ぶことになるでしょう。
お互いにいい旅を祈りたいものです。


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人間関係の癒しとは何か

5章 人間関係の癒しとは何か

〈心の傷〉の認識

1章から4章まで、私たちが人間関係と呼んでいるものが一体何で、人と人とがお互いに快適に感じられない理由と原因を、生物進化学、心理学、そして精神世界の観点から論じてきましたが、今までは、どうやって関係を癒すのかにはあえてほとんど言及しませんでした。

なぜなら、人間関係に関して根本的誤解や幻想をいだいているかぎり、どんなヒーリング(癒し)の手法も一時的な気休めにしかならないので、まず関係とは何かをできるかぎり明確にすることのほうが大切だと思えたからです。

現在書店には、精神世界から心理学までヒーリング関係の本が以前とは比べものにならないほど、多く並んでいますし、私の会社でもあえてヒーリングの本とは言わないものの、人間関係の癒しと解明に役立つ本を出版してきました。
今後もヒーリング関係の本の需要が減ることはないと予想されます。
なぜなら、ますます多くの人が、「自分は人間関係のなかで傷ついてきた」と認識し始めているからです。

先日も新聞を読んでいたら、子供時代、親の言動に傷ついた人たちの手記をまとめた「日本一醜い親への手紙」というタイトルの本を、ある出版社(メディアワークス)が企画している話がのっていました。
また同じ出版社では、子供を愛せない親たちの手記をまとめた「子を愛せない親からの手紙」も出版予定とのことです。

このように日本でもようやく大人による子供の虐待という問題が、アダルト・チルドレンなどという言葉とともにマスコミに認識されるようになったのですが、欧米では大人による子供の虐待が日本よりもずっと以前から社会問題の一つになっていて、家庭の崩壊がすすむなか、問題の深刻さは深くなるばかりのようです。

このように世界中でますます多くの人々が、「自分は傷ついてきた」という〈心の傷〉に気づくようになっていますが、これは人々と時代の感受性が急速に高まっていることを意味しています。
私は常々このような〈心の傷〉は、経済の発展と意識の進化ととも認識されるようになると考えています。

たとえば、五十年前や百年前、そして十年前でさえ、なぜ人々は〈心の傷〉をほとんど認識したり、話題にしたりしなかったのかといえば、その当時の大人たちが今日の大人たちより立派で、子供を傷つけないように配慮したからではありません。
むしろ現在と同じくらい、あるいは現在よりももっとひどく多くの大人たちが子供を扱ったにもかかわらず、人々が〈心の傷〉を認識できるほど進化していなかったことと、生活し生きていくのに精一杯で、そんなことを考えている余裕がなかったのです。

つまり、現在は昔より人間一般のなかの動物度数が減って、人間度数が上がっているので、心の闇を表に出して、そのことをみんなで考えたり、論じたりするゆとりがあるのです。
実際、動物度数の高い人ほど、何か異常な事件が起きると、「まったく異常なヤツが異常な事件を起こす」と一言ですませて、それ以上探求しない傾向があります(何か事件が起きたとき、周囲の人たちのコメントを聞くと、その人たちの進化度数がよくわかるものです)。

現代は一見、心の異常や闇がもたらす事件が多発して、〈ひどい時代〉に見えますが、時代そのものはいつの時代もいい時代、悪い時代というものはなくただ〈あるべき時代〉があるのです。

〈心の傷〉について論じ合うことができるのは、社会が経済的精神的に進化しているからです。

ヒーリングとしての気づき

さて、以上のように人間であるということは傷つくことでもあり、傷つくこと、あるいはその傷に気づくこと自体はけっして悪いことではないという認識が、人間関係の癒しへの第一歩になります。
さらにいえば、自分がどれくらい人間かを知るには自分がどれくらい自分と他人の心の痛みを感じることができるかで、はかられると私は思っています。

そして、人が自分の心の痛みに本当に気づいたとき、同時に自分が他人に与えてきた多くの心の痛みにも気づくことができます。

以下に人間関係の〈心の傷〉の認識のプロセスをまとめてみると、

1 自分の心の痛みに耐えられず、他人を苦しめて、その苦しみを見て、心が一時的に癒される(病的動物段階)。
前にも述べた犯罪者の心理。
自分の心の痛みを救うには、他人を苦しめるしかないと錯覚する。

2 自分の心の傷にも、他人の心の傷にも気づかず、無意識に人を傷つける(一般的動物段階)。
心の傷を抑圧している状態。
自分の言動が他人を傷つけることに無自覚であるが、潜在的には自分が人を傷つけることによって、相手に自分がどれだけ傷ついているのかを知ってほしいと思っている。
心理学ではよく知られた事実であるが、幼い頃大人から虐待を受けた人は、それを次の世代に繰り返す傾向がある。

3 自分が受けた心の傷に気づき、傷つくことに敏感になり、自分を傷つけた人に対して怒りや憎しみを感じる(人間段階)。
人間関係に真の自由と平等をもたらすために、誰もが一度は通過しないといけない関門。

4 自分が他人に与えた苦しみにも気づき、同時に自分を傷つけた人たちを許すことができる心境になる(人間段階)。

5 人間の心一般にある傷と、傷つけ合う心のメカニズムそのものに気づき、人間存在に慈悲をいだくことができる(神段階)。

6 すべての心の傷は夢のなかの出来事(幻想)であることに気づく(神段階)。

いわゆるヒーリングとは、今述べた3の段階から始まります。
いったん自分の心の傷に気づけば、それで半分以上はヒーリングは完了することができます。
そのうえで、知的理解以外にも、肉体や感情に働きかける特別な療法が必要だと思う人は、自分に合った方法を探して、いろいろ試してみることをお勧めします。

さて最近ではこのような(心の傷)の認識が社会的に広まっていくにつれて、それにともなって新たな問題が派生する可能性についても、指摘され始めています。
つまり一部の人たちは、人生がうまくいかない原因をすべて、幼少時代に負った〈心の傷〉のせいにして、「自分がこんな状態なのはすべて親が悪かったからだ」などと言ってすませ、それ以上の努力をしない傾向があるということです。

さらにアメリカでは近年、子供たちが催眠療法を受けて、親から受けた虐待を思い出すことに関して、親たちと催眠療法士の間で裁判まで起こるようになっているそうです。
つまり、子供たちが思い出していることが事実なのか、あるいは催眠療法士の誘導によって引き出された単なる想像なのかが問題になっているわけです。

多くの人は〈私の心の傷物語〉を一度巧妙に作りあげてしまうと、なかなかそれを手放したがらない傾向があります。
自分の心の傷に執着して、「私の心の傷は少しくらいのことでは癒されないのよ」などと言って、心の傷を大切に抱え込んで放さない人がいますが、みんな自分の心の傷に関してはけっこうガンコなのです。
そして、〈傷ついた私〉への執着もまた自己愛の変形なのです。

私もある一時期、自分の心の傷を分析するのが趣味だったときがあり、その頃は現在から生まれたときまで遡って、それからさらに多くの過去生を遡って、なぜ自分が傷ついたのかよく分析したものです。
しかし結局のところ、〈傷ついた私〉というのも一つの物語にすぎないと気づいて、心の傷の解釈や、分析をすべてやめてしまったのです。

人間の心の中身は無限であって(ちょうど、小説家が無限に異なった小説を書けるように)、それゆえ人間の心や心の傷をめぐる様々な理論、療法が出現するのでしょう。
でも、人間の心の中身については中庸な精神が必要だと思います。
つまり、それを無視してもいけないし、重視しすぎてもいけないのです。
そして、適切な取扱いをすれば、それにわずらわされずに生さることができます。

ヒーリングとしての想像力

私は自分も含めた多くの人間を観察してきて、人が人間関係で傷ついたり、対立が起きてしまう原因の一つに、想像力の欠如というものがあると感じてきました。
人間の世界では、人は必ず何かの立場にたつ必要があります。
しかし、自分の立場の見解に固執しすぎると、相手の立場の見解を想像できなくなり、対立や争いがいっそう深くなるのです。

たとえば、妻対夫、子供対親、教師対生徒、経営者対社員、国民対政府、自国対他国などの関係に、そのようなことを見ることができます。
私自身、三十代半ばをすぎるまで、自分の親の苦労や人生を本当に理解、想像することもありませんでした。
また経営者などという立場になってお金を出す側の苦労をはじめて感じ経営者は修行僧だと思わないとやってられないと、昔気楽に人からお金をもらっていた頃の立場をなつかしく思うことがあります。
でもたぶん、日本全国の社員の立場の人たちは、経営者の苦労も知らずに、どうしてうちの会社は給料が安いのかなど待遇で不満のある人も多いと思います。

同様に日本全国の多くの妻たちは、夫の苦労も知らずに、給料が安いだの、出世が遅いだの、帰りが遅いだのと自分の夫に不満をもち、夫は夫で、妻の苦労も知らずに、料理がまずいの、子供のしつけがなってないの、夫を大切にしてないの、と文句があるわけです。

このような例は書き出せばきりがありませんが、争いや不和の原因はすべて、自分の苦労だけに固執して、相手の立場を想像できないことつまり、自分も相手の立場にたったら、今、相手が自分に言ったりやったりしているのと同じことを言ったり、やったりするかもしれない、と想像するカに欠けていることです。

自分と立場の違う人と対立したときは、お互いの間に今述べたような想像力が少しでもあれば、より高い解決法が見えてくる可能性があるのです。
また、立場が違う相手でなくても、ごく普通の知人友人関係のなかでも、お互いの想像力の欠如が相手を傷つけることもあります。

私は、運よくとても幸福に暮らしてきた人のなかに、ある種の鈍感さを感じることがあり、それは、自分の人生をとても幸福に思うあまり、自分とはまったく違う人生を生きてきた人に対する無理解のようなものです。
最高の質の想像力と感受性は、人が進化し、精神的に大人になる過程で身につくものであり、その意味では「若い頃の苦労は買ってでもしておけ」という先人の言葉は、含蓄が深いものがあります。
私の場合はあまり苦労はしてないのですが、本をたくさん読んだおかげで、自分とはまったく違う生き方や経験をしてきた人たちの感情や思考を学ぶことができました。

ヒーリングとしての存在肯定

さて、私自身も人生のあるときに、先に述べた心の傷の分析も含めて、ヒーリングということに集中的に取り組んだ時期がありました。
そのきっかけは、いい友達がいたり、自分を愛してくれる人たちがいても、それにもかかわらず心が満たされないのはなぜかを、あるとき深く考え、探求したことです。
様々なセラピーを受けたり、本を読んでも、なかなか決定的な答えを発見できなかったのですが、ようやくあるとき人間関係で満たされない本当の原因、というより人生そのものに満たされない本当の理由を理解したのです。

それは考えてもみれば、とても単純なことで、私たち人間のあらゆる不幸感とストレスと心の傷は、人間関係のストレスも含めて、自分の存在を外部の人たちとシステムに否定された(と私たちが思っている)ことから生まれるのです。

私たちの不幸感とストレスを生み出す原因となる例を列挙してみると、

・親(周囲の大人)の残酷な言動
・学校での教師による成績、運動能力、個人的好みによる差別的言動
・同級生からのいじめや差別や冷たい言動
・入試での失敗
・就職試験での失敗
・失恋
・会社内での差別やいじめ
・出世が人よりも遅れる
・友人や恋人の裏切り的行為
・夫(妻)の不倫、自分への無理解
・子供の身勝手さ、できの悪さ
・自分の仕事(能力)が評価されない
・自分の思いやりや親切が無視される
・女(男、外国人、障害者)であることによる社会やシステムからの差別

書けばきりがありませんが、子供の頃から中年になる間に多くの人たちが経験する、心の傷の原因となる代表的出来事を書き出してみました。
いろいろなことがありますが、結局のところ、すべてが他者による〈私という存在の否定〉という構図になっています。
つまり、私たちは幼い頃から、自分の存在の定義と価値を外部の人とシステムに依存するように教育されているので、それが否定されると、非常に打撃を受けるのです。

ここでの問題は、自分の存在を否定するかに見える他者や外部のシステムそのものではなく、私たちが大人になってからも、いとも簡単に他者や社会システムの価値観を受け入れていることにあります。
〈私〉の存在を否定するかに見える他者やシステムは、たいていはただその人やシステムの価値観と善に忠実に従っているだけで、意図的に〈私〉の存在を否定しているわけではありません。

1章でも説明しましたが、人もシステムもまず自分の生存に有利になるように他者との関係を考えるようにできているのです。
つまり、他者は〈悪意〉があって、〈私〉の存在を否定するわけではなく、現在の〈私〉の存在が、相手(相手のシステム)の生存に貢献しないと単純に判断しているだけの話なのです。

しかし、相手の価値観や判断はあくまでも、相手に所属しているものであって、そのせいで自分で自分を傷つけたり、おとしめたりする必要はないのです。
先日もテレビを見ていたら、倒産した会社の社長が、会社が倒産したとたん、ほとんどすべての友人が自分から去っていったと哀しそうに言っていましたが、多くの人間関係は、お互いの生存に貢献するかどうか、つまり、お互いに得になるかどうかにもとづいている事実を人はもっと冷酷に見つめる必要があるのではないかと思います。
そうであれば、他人やシステムに自分を否定されたところで恨むこともなく、まあ人間や体制なんてこんなもんだし、とおおらかに考えることができます。
もちろん多くの人たちに認められたり、愛されたりすれば、当然誰でもうれしく思うわけですが、しかし他人の愛情や評価に中毒してしまうと、失望したり傷つくことが多くなります。

たとえば、私も教師をやっていたことがあるのでよくわかるのですが、教師という人たちはたいてい、まじめに勉強する成績のいい子供が好きなのです(体育系の教師なら、スポーツのできる生徒を好みます)。
なぜなら、学校というシステムはタテマエはいろいろなことを言っても、結局のところ「生徒の学力をつけることが善である」という価値観に従っていて、親も社会もそれ以外のことなんて求めていないからです。
ですから、その価値観によって自分も働き、子供を評価するのは当然だといえば当然なのです。

私が高校で教えていた頃は、よく次のようなことを生徒に話したことがありました。
「先生というものは、私も含めて、成績がよく、学校に迷惑をかけない生徒が好きなのです。
でももしみなさんのなかで、成績で努力できない人がいれば、せめて先生に好かれるように、性格だけはよくしてください。
少なくとも私のクラスで落第したくない人、そして、成績が悪くても、快適に学校生活を送りたい人は、この言葉をよく覚えていることです。
みなさんがどう思っても、学校にいる間は、私はみなさんよりも権力があるのですからね」。

むしろ正直に言うほうが、生徒が傷つかないのではないかと思ったからでもあり、自分の怠惰もあって、生徒が私に面倒をかけないようにするためでもありました。
学校という場にいて、生徒の心を傷つけないほうがむずかしいというのが、私の偽らざるをえない実感でしたし、現在でも多くの教師の実感なのではないかと思います。

それでは、親しい人間関係、たとえば、親子や兄弟姉妹、恋人や夫婦などの関係で、相手が自分の存在を否定するようなことを言ったり、やったりする場合はどう考えるべきなのかを少し説明してみましょう。
親しい人間関係の場合は、相手に自分を否定されたときは、ひどく傷つくものです。
でも、もう少し深く見れば、相手の否定的言動はすべて、
「私はいろいろなことで傷ついて生きてきました。
こんなにも愛しているあなたにだけは、そのことをわかってもらいたいのです。
あなた以外に私の心の傷を受けとめてくれる人を知らないし、あなたは私のこの言動くらい耐えられると見込んでいるのです」
というような主旨に翻訳できるのです。
つまり、他人の存在を否定するような人は心が屈折していて、愛をストレートに表現できないのです。

また他人があなたの悪口を言ったりするようなときがあれば、そのすべての言動も、
「私はあなたに憧れ、あなたを愛していて、あなたからも愛されたいと思っているのです」
と翻訳すれば、間違いのないことです。

私が人のこの屈折した心理に気づいたとき、自分がそんなにも人に愛されていることに驚いたことがあるのですが、でももう少し進化した表現にしてほしいなあ、と思ったものです。
そのような進化段階の人と親しい関係になった場合は、相手を許し、思いやりをもつことによって、自分自身の進化を促進する機会を神(宇宙)に与えられている、と思うといいでしょう。

さて、結局のところ自分の存在の定義と評価を、きまぐれな他者や外部のシステムに依存していたことが、自分が満たされない原因だったのだとわかって、ようやく私は真にほっとしたのです。

私の存在は私が認めればいいだけの話で、外部の人やシステムに求める必要はないと思えたとき、ようやく漂流する不安定な世界のなかで、『私は私』という確固たる基盤をもつことができたのです。

そしてそのときはじめて、あらゆる他者や社会システムの存在も認められる優しさをもてたような気がしますし、同時に愛は、私たちの外部の状況に関わらず、すべての人に平等に注がれていることを理解することができました。

人がよくいだく「自分だけが愛されていない」という思いや、反対に「自分だけが愛されている」という思いは、人間の大いなる誤解と幻想の一つですが、人が外部の状況によって、自分が愛されている度合をはかろうとするかぎり、永遠に愛を理解することはできないと思います。

「自分だけが愛されていない」とか、「自分だけが愛されている」という思いは、人間の大いなる誤解と幻想の一つです。

とはいえ、「私は私だ」と達観できたからといって、〈私〉が傷つくような状況や出来事が起きないわけではありません。
人間として生きているかぎり、傷つくことも、またときには人を意図せず傷つけてしまうのも、避けることができないことです。

また、私が一つおもしろいと思ったことが、「私は私だ」という態度で生きていると、もちろん共感してくれる人たちも多いけれど、その態度そのものが一部の人たちを傷つけてしまうこともあるということです。
たぶんそのことが他人には傲慢に見えるからなのかもしれません。
これを読んでいる皆さんも自分の好きな作家のエッセイを読むことがあると思いますが、私も時々気晴らしに作家のエッセイを読むことがあります。
誰のエッセイを読んでもたった一つ共通して感心することは、作家になる人たちは何を書いても、ただ「私は私だ」と強烈に言い放っているということです。
想像するにたぶん作家という人たちは、傷ついた人生に追いつめられて、書くことによってしか自分の存在の肯定ができないと、覚悟した人たちだろうと思います。
つまり、書くことによって自分を癒す作業をしているのであり、表現活動とは結局、「私は私だ」と言うことにほかならないのです。

「私は私である」と無条件に肯定することは、最大のヒーリングになります。

たかだか「私は私だ」と単純に肯定することが、ヒーリングであるということを信じられない人がいるかもしれませんが、この世の人の悩みと苦しみの多くは、「私は私だ」と自分の存在を無条件に肯定できず、また自分のまわりの誰一人からもそうしてもらえないから起こるのです。

また、自分の存在を自分で肯定できない人が、それを無理やり暴力的に他人に認めさせようとすることで、人間関係に多くの悲劇が生まれることになります(ナイフをふりかざす少年の悲劇の原因はここにあ
るのであって、〈心の教育〉の問題ではないのです)。
ですから、特に幼い子供に対しでは、親など周囲の大人が心からの愛情をそそいで、その存在を無条件に肯定し、「おまえがここに存在していることを私は認めているよ」という気持ちを伝える必要があると思います。

でも、まわりの大人がそれをできないとすれば、たぶんそれは自分自身の傷ついた過去が癒されていないのか、または生活に疲れていてその心の余裕がないのか、または子供にあまり関心がないのかということでしょう。

以上述べたことから、自分や他者の存在を否定することが、どれだけ悲劇を生むかを理解していただけたと思います。
そして同様の理由から、社会や人間をむしばむように見える暴力団、総会屋、ウィルス、ガン細胞などを撲減しようという人間の努力が、どれほど無謀で徒労な行為であるかもわかるでしょう。

多くの人たちは、「世界に存在しているものは必要があって存在し、神に今のままの存在をゆるされている」という単純な真理を忘れているのです。
つまり、自分が今の自分をどう思っても、どんな瞬間にも「私は今の私である」以外には存在しえず、「あなたは今のあなたである」以外に存在しえないもの(ではありませんか?)なのです。
そして、どんな存在でも一度生まれたら死にたくないのは、ガン細胞も総会屋も普通の人間も同じですから、存在を否定されたら死にものぐるいで闘うようになります。

そのことで思ったのはここ数年間問題が明るみにでた大企業と総会屋との癒着事件で、会社のトップの人たちの謝罪会見を見て、一番喜んでいるのは当の総会屋さんたちだろうなあ、ということです。
なぜなら、本当に悪いことをしたと思っていないのに、見栄や世間体だけでおざなりの言葉でお詫びをする態度こそ、総会屋に一番利用されるからであり、企業のトップの人たちの哲学のない姿によって、会社の体質が何も変わっていないことを総会屋の人たちは見抜いたはずです。

むしろ、企業が「私たちの会社の存続にとって総会屋さんはとても必要な存在でしたし、私たちはあの方々を愛しておりました」と本音を言って、ラブ・コールでも送ったほうが、闇の世界の人たちには脅威だったのではないでしょうか。

「私は私だ」と肯定することについて、勘ちがいする人がいるといけないので一つだけ言っておきますが、これは自分の悪癖や欠点に居直ることではないということです。
もし誰かが「私は私だ、オレはオレだ」といつもわめいていて、周囲の人たちに多大な迷惑をかけていたり、「困った人」のリストにはいっているならば、その人は自分の存在を無条件に肯定しているのではない、と断言できます。
そういう人は逆に、自分の心の傷にまったく気づいていない幼稚な人であるにすぎません。

自分の存在を無条件に肯定する人は、人気者にもならないけれど、他人にとって「困った人」になることもありません。
また、他者や外部のシステムの存在を認めることは、その人たちの価値観に自分が同意していることを意味していませんし、その存在のあり方を〈私〉が好きだということも意味していません。
また、その存在がずっと続くことを願っているわけでもありませんし、その人と関係をずっと保つことも意味していません。

ただ今この瞬間〈私〉も〈あなた〉も今あるシステムも、神(という言葉が好きでない人は宇宙でも、至高の力でもなんでもいいですが)によって存在がゆるされていることを単純に認めるだけのことなのです。
それだけでも世の中の人間関係のストレスがかなり減ると思いますし、今ある人間関係をよくしたい人は今日からでもぜひそういう目で周囲を見るといいと思います。
私自身、自分が相手の存在のあり方を否定していることに気づいて、そして、気づいた瞬間、関係が突然よくなるということを経験したことがありました。

「他人や自分を批判する前に、まず存在の肯定を」というのが私の小さな心がけの一つであり、自分も含めたこの世界のあらゆるものの存在を認めるとき、私たちは努力せず神になっているのです。

最後に、人間関係をめぐる1章から5章までの考察を短くまとめてみると、次のようになります。

・「他者とは違う自分として存在したい」というのが、人間の最大の情熱です。
・すべての人はまず自分のことを優先的に考える権利があります。
・すべての人は多重人格で、常に人格を使いわけています。
・多重人格は、人間関係の摩擦を防ぐ一つの戦略です。
・人格は本来、〈私〉と〈あなた〉の間で創造されるものです。
・自分を〈普通で正常〉だと考えれば、自分の基準に合わないすべての他人は〈変人〉です。
・すべての人は自分のエネルギーの質と量と速度によって行動し、思考し、感じます。
・人間の中には、動物、人間、神の意識があります。
・人間界の悲劇の一つは、多くのヒトがまだ人に進化していないことです。
・エネルギーの質が違う(=進化の段階が違う)と、お互いの理解は困難な場合があります。
・進化した人ほど、自分を抑圧することなく他人のことを真に考えることができます。
・傷つくことは、人間にまで進化した証拠です。
・他人や社会があなたの存在を認めるかどうかは、他人や社会のきまぐれによります。
・あなたの存在を否定する他人やシステムに、個人的な悪意はありません。
・親しい人のあなたに対する否定的言動はすべて、「私はあなたを愛しています」と翻訳できます。
・自分の存在を本当に認めることは自分にしかできません。
・他人を理解できなくてもその存在を認めることはできます。
・他人の存在を認めると、一瞬にして関係が変わる場合があります。
・他人の存在を無条件に認めることが、いわゆる〈神の無条件の愛〉ということです。

以上のことがわかっただけでも、他人に関する価値のない関心とトラブルを減らして、有益な人間関係を生さることができ、またあまった時間を他のことに有効に使うことができます。

ただし、だからといって、あなたが特別に人に好かれたり、友人知己がたくさんできたり、異性にもてたりすることは、たぶん期待しないほうがいいと思います。
皆さんの〈人をめぐる冒険〉が有意義なものでありますように。

『人をめぐる冒険』
  (高木悠鼓 著、マホロバアート 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

光と闇の人間関係論

4章 光と闇の人間関係論

多重人格者としての人間

ここ数年間、心理的病理としての多重人格についての研究がすすみ、多くの本が出版されるようになりました。
そして、残虐な犯罪を犯した人たちの多くが、多重人格症、つまり、自分の中にたくさんの人格を住まわせている病気であるという報告がなされています。
そういった研究がすすんでいることは、喜ばしいことですが、ただ多重人格は異常だとか病気だという単純な結論は、人間心理の解明にとってあまり生産的ではないでしょう。

私は昔から、自分も含めて人間とは基本的に多重人格な存在であると考えてきましたし、多重人格ではない人とは一人も会ったことがないと思ってます。
人格は、私たちが普通「あの人はいい人だ」とか、「あの人は親切だ」などと言っている以上に複雑なものがあります。
私に言わせれば、誰もが多重人格で、人格とは万華鏡のように変化するものです。
人は誰でもある程度多重人格であり、それは正常なことであるという認識は、今後益々必要になってくるでしょう。

人間は多重人格な存在です。

人間は基本的に多重人格な存在であるという例を一つ考えてみます。
たとえば、あなたがふだんいろいろな場でつき合う人が数十人いるとします。
親、職場の上司、部下、友人、同級生、同僚、恋人、夫、妻、子供、その他とつき合うときに、たいていは知らずに人格を使い分けているはずですし、誰に対しても同じ〈あなた〉ではないと思います。
ある人には優しく、ある人には厳格で、ある人には愛情深く、ある人には礼儀正しく、ある人には冷淡で、ある人には意地悪で、ある人には甘え、という具合ではないでしょうか。

したがって、あなたはそれぞれの人に対して違った印象を与え、そしてそれぞれの人は、あなたとの関係とその人の人格を通じて、あなたの人格を判断しているのです。

人格の変化は、相手によって非常に変化する人もいれば、相手が誰でもあまり変化しない人もいますが、人格は変化するということを理解すると、人間を一面的に判断する愚を避けることができます。

たとえばたまたま〈私〉が、自分が知らないAさんという人について、立場の違うAさんの三人の知人がどう思っているのかを聞く機会があるとします。
たぶんAさんはそれぞれの人に違った印象を与えているはずなので、この三人の人たちが正直な人であったとしても、〈私〉がAさんとはどんな人かを判断するのに、それぞれの人のAさんについての意見・印象は参考程度にしかできない、ということです。

人は関係によって、違った印象を相手に与えます。

もちろん人格が変わるといっても、人にはすべての変わりゆく人格の底を流れる生まれつきの基本人格のようなものがあり、相手が本当にどんな人なのかを知る必要があるときは、表面的な人格ではなく、その基本人格を探求することが大切です。

そしてまた私たちが、他人の人格についていだくイメージや判断も、ある瞬間のその人にしかあてはまらず、時間がたてば、その判断も役に立たない場合もあります。
他人についてのイメージや判断は、時間がたつと役に立たなくなる揚合があります。

同様に、他人が私についていだく印象も、私が自分自身に対してもっているイメージとはずいぶん違う場合もあります。
このことに関して一つ今でも記憶に残っている出来事がありますが、あるとき私は知り合いの人といっしょにお茶を飲んでいたところ、突然その人が私のことについてあれこれ言い始めたのです。
それは私にとってはとても不愉快なことで、どうして突然その人がそんなことを言うかが理解できなくて「私はあなたが思っているような、そんな人間ではありませんよ」
と怒りにまかせて強く言い返そうと思ったとたん、天の声か直感かわかりませんが、
「現時点のこの人から見ると、あなたという人はそう見え、それもまたこの人にとっては真実なのです。
だから、この人の見解と争うのはやめなさい」
という内容のメッセージがきたのです。
そこで、私は言い返すのをやめ、リラックスして、
「まあ、自分ではそう思ったことはないけれど、私に対して、そういう見方もウソではないと思います」などとのん気に答えることができたのでした。

それ以来自分に対して、何を言われでもほとんど「そういう見方もあるかもね」などとヘラヘラ笑って考えることができるようになり、あらゆる見方にはそれなりの真実があることもわかりました。
人間関係について一つ覚えておくといいことは、私たちが自分を〈正常で、普通〉と思っていても、他人から見たら〈私〉は変人に見えることもあるということです。
つまり、ほとんどの人は自分のことを〈正常で、普通〉だと思っているので、その基準で相手を見れば、お互いに〈変〉に見える場合もよくあるのです。

どんなふうに他人に思われても、それは自分の真実のほんの一部でしかありません。

ですから、他人にどう思われるかを気にするのは、時間とエネルギーのむだです。

もう一つ、人間から人格を解放する考え方を提出すれば、たいていの人格とは〈私〉に所属するものでもなく、〈あなた〉に所属するものでもなく、本当は〈私〉と〈あなた〉の間にあるものだ、ということです。

では、ためしに次の質問をよく考えてみてください。
あなたが一人でいて、他人のことを考えていないとき、あなたはいい人ですか?
あなたは親切ですか?
あなたは外向的ですか?
それとも内向的ですか?
そもそもあなたに人格があると意識できますか?

私の場合は答えはすべて「NO」です。
もちろん一人でいるときにも、感情の起伏(楽しいとか悲しいという感情)はありますし、一人のときに、私が誰か知っている人のことを考えているときには、その想像のなかで、私は相手に対して、親切であったり、意地悪であったりすることはできます。
また、相手の人が寛大な人格や愛情深い人格を示すと、自分のなかでもより寛大な人格や愛情深い人格が現れ、相手が意地悪だったり、誠意がなかったりすると、自分のなかでもそれに合わせるかのように、より意地悪で誠意のない人格が現れることも、私はよく経験してきました。
逆にときには、相手のある人格を引き出したのは、自分のせいかもしれないと反省したこともありまし
た。

私がここで言いたいことは、もし他者がいなければ、人格も必要ないということと、したがって、人格とは本質的なものではなく、場面に応じて創造されてくるものだ、ということです。

自分のなかには大聖人から大悪魔まで、あらゆる人格の可能性があることを認めたうえで、さらに自分や他人の本質は人格ではないとわかるならば、自分や他人の人格や性格についての悩みもずっと減るでしょうし、さらに研究すれば、相手の一番いい人格を呼び出すにはどうすればいいかもわかるようになるでしょう。

人格とは、本来〈私〉と〈あなた〉の間にあるもので、二人の関係によってどのようにも創造することができます。

生き延びる戦略としての多重人格

今まで、人間の基本的多重人格性とそれが他者とのかかわりで生まれることを説明してきましたが、それではもう少し具体的に人が多重の人格をもってしまう理由を、否定的理由と肯定的理由にわけで考えてみたいと思います。

否定的な理由とは、人は自分を守るために、様々な場面で「受け入れられ、好まれる人」を演じるために無意識に多くの人格をつくるということです。
これは私たちが幼い頃から習慣的にやっていることで、「ありのままの自分を受け入れてもらえない」と子供が感じた日から、親向けの顔、先生向けの顔、友人向けの顔と、相手にとって「受け入れられるいい子」を演じるようになっていきます。
このように、たいていの人は、多かれ少なかれ、まわりの大人にありのままの自分を認めてもらえなかった過去のトラウマ〈心の傷〉をもっていて、人格の背後に本当の感情を隠して生きています。

つまりこれは、まわりの人々となんとかうまくやっていき、人間クラブに所属させてもらい、そこからできるだけ多く何かを得るための戦略であると考えることができます。

もし人間の姿を完全にありのままに認める社会が実現したら、たぶん人間は多重の人格を必要としなくなるでしょうが、今現在の社会の現状では、人間が多重な人格をもつことはけっして異常なことではなく、他人とのかかわり合いのなかで、摩擦を防ぐ方法として認識されるべきです。

話は少しとびますが、テレビでのスポーツ観戦を趣味としている私は、スポーツ選手がマスコミにどう対応するのかに興味をもっています。
見ているとマスコミ対策が上手な選手と下手な選手がいるようです。
マスコミのプレッシャーでつぶれて、実力を発揮できない日本のスポーツ選手が多いなか、これからはスポーツ選手もマスコミ向けに複数の人格をもつ必要があるのでは、と思いますし(時々信じられないような愚かな質問をする記者を見ると、選手の側もとても一個の人格では足りないだろうなあ、と私は同情するのです)、練習メニューの一つにマスコミ対策をやるべきだと提案します。

人が多重な人格をもつのは、人間関係で摩擦を防ぎ、快適に生き延びていくためです。

では、病理的な多重人格と正常な多重人格の区別はどこにあるのでしょうか。
詳しく研究したわけではありませんが、私が読んだ本などからまとめると、病的に多重人格な人は人格を自分でコントロールできなくなるということです。
しかも自分や他人の心身を傷つけることがわかっても、人格の暴発を止めることができないという事態にまでいたってしまいます。
なぜ、そのように人格が暴発してしまうかというと、人生のあるときに、まわりの大人が要求する人格と自分が演じられる人格の間のギャップが非常に大きくなり、自分の本当の感情を深く抑圧してしまったせいだと思われます。

たとえば、多重人格の研究ではよく知られていることですが、多重人格症の多くの人は子供の頃、周囲の大人から何らかの虐待を受けた経験があると報告されています。
本来であれば、自分に愛情と保護を与えてくれるはずの立場の人から、虐待を受けると、子供の心に様々な葛藤が生じます。
「憎んではいけない人を憎悪したり、殺したいと強く思う」残虐な人格が生まれ、しかし同時に、「これ以上虐待されないようにもっといい子」になろうとする人格も生まれ、一般的には残虐な人格はある年齢になるまで深く抑圧されるととになります。

また、どんなにがんばっても現実の世界から自分の望む愛情や保護が得られないとわかると、空想のなかで、スーパーマンやスーパーウーマンのような人格を作ることによって、大人からの虐待に耐え、生き延びようとするのです。

ですから、病理的多重人格とはあまりにもつらい体験を感じずに、生き延びていく一つの戦略と見ることができます。
もちろん、私たちの大部分はこのような病理的な多重人格ではありませんが、しかし、本当は正常と異常の境界線は非常にあいまいなものかもしれず、誰のなかにも人格の暴発や人格の崩壊という危険性はひそんでいると考えるべきです。
なぜなら現代は、動物社会から人間社会へ人類全体が激しく進化している最中で、つまり、別の言葉でいえば、物質状態からエネルギー状態へと移行しつつあって、前章でも述べましたが、今まで私たちのなかにあった動物的なもの、深く抑圧されてきた暴力的なものがエネルギーの圧迫で一気に表にでやすくなっているからです。

現代は人格にとって、危機が起こりやすい時代です。

人格からの解放と人格の楽しい使い方

それでは、多くの人格をもつための肯定的な理由とは何かといえば、多種多様の人たちとつき合い、また、多様な自分を楽しみ、さらには他人を楽しませるために使うものです。
一般に人格や性格は、まるで人の本質であるかのように考えられていて、固定的なものと思われていますが、実際は人格とは生きるための道具であり、必要なときに自分のなかから呼び出してくるものです。
そして、人は生きていくうえで、たくさんの種類の人とつき合わねばならないわけですから、自分と他人に役立つという意味で、人格というカードは、できればたくさんあったほうが便利だし、楽しいと思います。

多くの人が俳優や女優という職業に憧れるのも、様々な人格を演じでみたいという人間のなかにある変身願望のせいです。
私たちの人生劇場には「手に負えない困った人」が登場したり、予期せぬ出来事が起こったりすることもあります。
ですからいつも決まった人格を持ち歩くよりも、その場面に合わせて、人格を呼んでくるほうが、効果的なことが多いのです。

たとえば、外国を旅行するときは、日本人的「何も言わなくても、黙っていれば、望むものがでてくるはず」というお人好し的人格はほとんど役に立たず、少々強引な人格のほうが役に立つことを、私は経験から学びました(もちろん、これも時と場合によりますが)。

また、日常の人間関係でも、いつも「いい人で、親切な人」であるよりも、ときには「冷淡な」人格や「怒る」人格も大いに必要とされることがあります。
よく「これは自分の性格だから、しようがない」といつも同じ人格で突進して、自分にも周囲にもストレスを与える人がいますが、人格とはその場面に役に立つように使うことが、楽しい使い方であって、これしかないなどといって、執着すべきものではありません。

傷つくことからただ単に自分を守るための人格は窮屈なため、ストレスがたまり、たとえば、お酒などの手段を使って、人は一時的に人格の束縛から逃れようとします。
また、「失楽園」や「不機嫌な果実」などに代表される結婚外恋愛がテーマの小説が大流行するのも別の人格になりたいと潜在的に望んでいる人が多いからだと思いますが、お酒や結婚外恋愛などの手段は人格ストレスの根本解決にはなりません。

では、どうすれば自分の人格と他人の人格と楽しくつき合うことができるかといえば、私が一番効果的だと思う方法は、「ユーモアと愛情をもって、自分と他人を眺める」ということです。
人格が硬直するのは、人が自分の人格に執着し、それを深刻に考えすぎることにあります。
他人から見たら、人が自分の性格や人格に深刻に執着している様子はひどく滑稽に見えることが多いのですが、本人だけがそれに気づかず、その深刻さを他人にも押しつけようとすることで人間関係のストレスが増加します。

反対に、「私ってこんなにおかしいですよね」と自分の欠点やバカバカしさや悪い癖や、あるいは長所さえも(ときには「私はこんなに立派にやっていますよ」といういわゆる自分の長所への執着が、まわりに多大なストレスを与える場合もあります)愛情をもって笑うことによって、人格の束縛をかなり解放できます(ただし、笑う程度ではすまない重症な人格の病気の場合は、専門的な治療とカウンセリングをうける必要があります)。

自分と他人、自国の国民と他国民、自国の文化と他国の文化、そしてさらに地球文化と他の惑星文化を、「愛情をもって眺める」、そしてときには、「愛情をもって驚く」ことができるようになれば、人間関係や国家間の緊張と争い(いずれは惑星間の緊張と争いも)が軽減することは間違いのないことです。

ユーモアと愛情をもって自分と他人の人格を眺めれば、人格という道具と楽しく遊ぶことができます。

さて以上、人格の必要性と効用と、人格からの解放について書いてきましたが、ここではさらに私たち一人ひとりのなかにある光と闇が、私たちの人生一般と人間関係にどう作用していくのかを考えてみます。

人格の話のところでも述べまたしたが、私たちのなかには、最も暗い闇の部分から最も明るい光の部分まで、つまり、大聖人から極悪人の可能性がある、というのが私のここでの基本テーマです。
私が人間関係を考えるときに基本にしていることの一つに、「あらゆる人の人格には光と闇の部分が存在している」ということがあります。

光とは、俗にいう長所も含めたその人のいいところ、精神世界でいう高い波動の部分です。
闇とは、俗にいう欠点も含めたその人の悪いところ、精神世界でいう低い波動の部分です。

家族のなかの光と闇

最初に私が一人ひとりの人間のなかにある光と闇と、それが人間関係に与える影響について深く考えたのは、自分が生まれ育った家族つまり、自分の両親、姉妹、祖父母について考えたときでした。
そしてあるとき、
「どうも自分は家族の誰にでもその性格が似ている。
しかも悪いところばかりが、目立って似ている。まるでコピーのようだ」
と気づいて、ひどく不愉快になったのです。
それまでは「自分は家族の誰にも性格なんて似ていないし、私はオリジナルな私だ」
と思って自負していた面もあり、またひそかに家族の性格の欠点を批判することもよくありました。
よく調べてみると、自分が相手のなかに批判している欠点や性格を自分がまさにもっていることに気づき、さらにあまり目立たないけれど、いい点も似ていることに気づきました。
つまり、精神世界でいうところの鏡の理論です。

そこで、表を作って、家族のそれぞれが他の誰と、どんな光と闇を共有しているかを徹底して書きだしたところ、家族の根本に迫るいくつかの重要な事実を理解したのです。

まず、人がお互いに家族になるためには、それぞれのなかにお互いを惹きつける要素、つまり、お互いに似た要素が必要です。
普通、一組の男女が結婚するところから新しい家族はスタートするわけですが、結婚が成立するためには、当然二人のなかにお互いを惹きつける要素、つまり、似ている点があるはずです。
そして二人の間に子供が生まれ、家族が拡大しますが、やはり子供と親は似ている要素があるゆえに、親子の関係が成立します。
この似ている要素が、私が先に述べた光と閣ということになります。

普通は夫婦も親子も兄弟姉妹も、まず相手のなかにある闇(欠点)に気づき、それに不満をいだき、たいていはそれを自分の思い通りに変えようとして、関係を悪化させることになります。
そして、相手の闇ばかりを見るので、相手の光、つまり、相手の偉大さがまったく見えない状態になります。
そしてさらに相手の光、偉大さが見えないことによって、自分の光、偉大さにも気づかないことになり、自分をどんどん卑小な存在にするという悪循環に陥ります。
その結果、後に詳しく述べる家族のなかにあらかじめ組み込まれている進化のための学習機能が妨害され、進化を促進するために、悲劇的な事件(家族の誰かの大病、子供の非行や登校拒否、犯罪に巻き込まれること、親の離婚など)が起きる場合があります。

私の観察によれば、家族はお互いから学び、そして自分がもっている最良のものを与え合うために家族として集まっているのです。
家族の誰かのなかに非難したいような闇を見つけたら、自分にも同じような闇があるのでは、と問うことが大切です。
同様に家族の誰かのなかに光を見いだしたら、自分もそうなれる可能性があるのだと信頼することです。

家族の成員がお互いの闇と光から学ぶとき、家族間のエネルギーはバランスがとれ、今回家族として集まった目的、つまり、進化を達成することができます。
そのとき家族は、最後には親子とか夫婦とか兄弟姉妹という見かけの役割を越えて、本当に一番いい友達になることができます。

家族の目的

私は長い間、人間はなぜ家族をつくるのかという、家族の目的のようなものについて考えてきました。
人間の家族とはけっしてシンプルなものではなく、複雑怪奇で、非常に込み入っていて、苦労の多いもの(ではありませんか?もしみなさんの家族関係が平穏無事であれば、きっと今回はお休みするために集まったのかもしれませんね)なのに、たいていの人は家族をつくります。
それは単に人間は一人では寂しいからとか、一人では生きられないからなど、よく言われる理由だけではなく、伺か別の理由があるのでは、と私は思っていました。

動物の世界の家族の目的は、自分の子孫を作り、守り、残すことという、いたって単純なもので、したがって動物の世界には、家族問題なんでものは起こりようがありません。
しかし、人間の場合は、自分の子孫をつくり、守り、残すという動物的目的の他に、人間ゆえにあるもう一つの家族の目的があり、それは、お互いの進化をサポートするという目的である、と私はあるとき発見しました。

進化のサポートといえば、聞こえがよい言葉ですが、実際はそれは修行と言い換えることもでき、ときにはお互いにとってつらいものになる場合もあります。

残念ながら、現在まだほとんどの人たちが、子孫を作り、守り、残すという動物的目的のほうしか理解していないので、家族のもう一つの目的にまったく気づいていません。
しかし、家族のなかで、ドラマや悲劇や問題が生み出されるのは、この動物的目的と人間的目的がときに相対立するからです。

たとえば、自分の子供が突然登校拒否児童になったとします。
このことを動物的観点から考えると一大事です。
なぜならヒト科社会では、自分の子供がまともに学校(できれば一流の学校)を出て、いい会社に就職して、いい結婚相手を見つけることが、生き延びて、子孫を繁栄させる最大の条件とされているからです。

ところが子供が学校へ行かないということは、大切な生存条件の一部が欠けるかもしれないということで、親としてはとても心配になります。
つまり、まともに学校に行っていないと、このヒト科社会ではまともな扱いを受けず、エサを獲得するのに苦労するかもしれず、ひいては結婚も不利かもしれないと思うわけです。

しかし、子供の登校拒否を人間的観点から見た場合は、まったく別の考え方をすることも可能です。
たとえば、これをきっかけに今までは、あまり興味のなかった教育問題に興味をもって、いろいろ勉強する機会に恵まれるかもしれないし、親子の対話を始めることもできるし、いろいろな成長の可能性をはらんでいるのです。
一時的にはつらい事件を乗り越えることによって、かえって親子関係や家族関係全体がよくなることも多いのです。

一方で、動物的見方しかできない場合は、いたずらに問題が長引き、家族関係や親子関係がさらに悪化し、ときには家族の崩壊にまでいたることもあります。

人間的観点と動物的観点は、ときに相対立します。

家族とは、少々文学的にいえば、家族の成員一人ひとりが宿命として背負っている〈愛とみじめさ〉をいっしょにわかちあうために存在しているのです。
ですから、家族をつくるということは、そういう覚悟をすることであって、家族に自分の都合のいい期待だけをしている人は大いなる失望を味わうことになります。

一般的には、人は親になると保守的になり、自分と子孫の保護と繁栄だけを望む傾向にあります。
つまり、親は動物的目的を強く代弁する傾向があるのです。
それに対して、子供たちは家庭のなかに進化を呼び込む要因となります。
ほとんどの親が動物として子供に期待することは、たいてい裏切られることになり、それは家族の進化を促すという意味で、家族のあり方としては正常だと私は思っています。

だからこそ、多くの親にとっては期待せずに、しかも愛情をもって、子供を育てることをいやでも学ばされるので、家族は霊的な修行の場といえるのです。
子供の側にしても、もともとは保守的な家庭という場で、軋轢を感じながら、なんとか自己実現を果たそうとすることは、やはり霊的な修行であるのです。

〈親の子供に対する期待〉というよく見られる現象は、次のように心理学的に考えられています。
つまり一般に、親が子供に期待し、ときにはその期待を無理に押しつけるのは、自分自身に満たされない何かがあるからだというものですが、これはそのとおりだと思います。
人生で自分の夢を追って実現し、ある程度満足してきた人たちは、あまり子供に過重な期待はしないものです。

ところが、何らかの理由で、自分が自分らしく生きることがゆるされず、他人の期待にそって生きてきた人たちやいわゆる人生に挫折した人たちは、子供を通じて自分が満たされなかった何かをどうしても満たそうとする傾向があります。
しかしそういった人たちが、表面的なエゴの望み(単に子供にいい学校へ行ってほしいとか、安定した人生を歩いてほしいとか、まともな職業に就いてほしいとか)とは違って、本当に子供に望んでいることは、自分にはゆるされなかった人間としての自由や夢を実現して、自分らしく生きてほしいということです。

しかし多くの親は自分のなかにある子供に対するこの深い望みに気づいていません。
でも、もしこの望みに気づくことができれば、自分と子供の間にある不和や心の傷を癒すことができます。

また子供の側も、親の本当の望みを知ることができたら、親の表面的な言動がどうであれ、親は自分を深く愛していることを理解できるはずです。
だからこそ私は、『子供は親のエゴの期待は裏切り、魂の望みは必ず満たすようになっている』と確信しているのです。

子供は親のエゴの期待は裏切り、魂の望みは満たすようになっています。

家族のテーマ

さて、家族に関して私が発見したもう一つの点は、それぞれの家族にはテーマがあるということです。
さきほど家族成員一人ひとりのなかにある光と闇の話を書きましたが、さらに家族には全員に共通する光と闇があるのです。

ここでいう家族のテーマとは、その闇に光を当て、同時に光の部分がもっと輝くようにするということです。
そしてこれが、家族関係を通じて進化するということになります。

たとえば、私が生まれ育った家族を例にとって考えてみると、自己表現を怖れるという共通の闇をもっていました。
別の言葉でいうと、小心で、目立つのが嫌いで、絶対に自分からは舞台にあがろうとしない性格、さらにいえば、責任ある立場を絶対に避けて生きる、などの共通点があります。
つまり、本当はいろいろ表現したいことがあったり、責任ある立場に立てるくらいの実力や才能がないわけではないのに、そうすることを強く押し止める力が家族のなかに強く働いていたのです。

一方で私の家族に共通の光とは、自分に与えられたことに対する責任感の強さと誠実さだと私は思っています。
何事に対しても誰に対しても、真面目に誠実に取り組む家族でした。
たぶん、あまりに責任感と誠意が強すぎるため、逆に責任のある立場に立ちたくない気持ちになるのだと、自分の家族を分析することができます。

ある意味では闇のなかに光があり、光のなかに闇があるという言い方もできるかもしれません。
今述べた私の家族を例に考えてみると、自己表現を怖れる気持ち(闇)には、たくさんのパワーがあり、パワーがあるから怖れるということができます。
ですから、いったんパワーを認めることができれば、闇は光に変わることができるのです。

そして、責任感と誠意(光)には逆に創造性や自己表現を抑える場合もあることを見てみると、光だったものが闇に変わる場合もあるのです。

私自身幼い頃から無口で、人前で話すのと文章や文字を書くのが何よりも嫌いで、高校生のときに、なりたい職業が何かは全然わからなかったにもかかわらず一番なりたくない職業だけは、人前で字を書いて、話さなくてはいけない教師だと強く感じていたことを思い出します。

しかし皮肉にも二十代、三十代の長い間、教師の仕事をするようになって、実際それを自分の天職だと思えたほどでしたから、小さい頃の自分の考えなどあまり当てにはならないものですし、よく言われているように強く抵抗することは、本当はどこかで憧れていることなのかもしれません。

私が父と母の子供として生まれて長い年月が過ぎ去り、日本のどこにでもいる平凡な家族のなかにもたくさんのドラマや事件があったなあと思い起こすことがあります。
もうその共同の旅も最終段階を迎え、「みんながんばって進化してよかったね」というのが、私の今の率直な感想であります。

これからの家族

今まで私が生まれ育った家族を例に、家族のなかにある進化を促進する要素と抑止する要素について書いてきました。
最近では、家庭内で起こる暴力事件や離婚が増えたりなどの現象から、「家庭や家族の危機」がマスコミで話題にされるようになりました。

これら一連の現象の背景には、私の考えでは、ヒトが人間へと進化するプロセスが非常に速まっていると見ることができると思います。
つまり、人が家族のなかに動物的目的よりも、より人間的目的を求めるようになったということです。

たとえば、離婚の増加を見ても、現在は女性の側から離婚を申し立てる人が多いという事実は、単なる経済的な安定(動物的目的)以上の何かを結婚に求める女性が多くなっていることを物語っています。
昔であれば、子供のため(動物的目的)にと結婚に耐えていた女性たちが、動物的目的よりは、人間的目的(たとえば、もっと自由や愛情のある生活)を選択しているのです。

また、子供に関する事件が多いというのも、親や教師という大人の側にもっと子供のことを感じてほしいという、今の子供たちからのアピールのように思われます。
つまり、親子とか教師対生徒という上下関係ではなく、一人の人間対一人の人間として対等な取り扱いを要求しているのです。

それを、今までのように大人の権威や権力で抑え込もうとしたり、また「さわらぬ神にたたりなし」といった態度で、コミュニケーションを避けたり、動物的発想で脅したりする方法(学校へ行かなくてどうするんだ、などと言うこと)はほとんど効果がないのです。

唯一成功する方法とは、大人が人間に進化して(つまり、役割や立場に違いはあれ、人と人は対等で、平等であるという観点をもつ)一人の人間として心を開いて子供と大人がお互いに何を感じているのかを話し合うことだと思います。
話し合ったうえで、「だめなことはだめ」、「いいことはいい」と、大人が自分の意見をはっきりと言うべきなのです。

ただし、私がここで言っていることは、けっして〈理想の家族〉をつくるように奮闘せよ、ということではないのです。
家族なんてものは、少々〈変で、いいかげん〉なところを許容するほうが、健全なのだと私は思っています。
ただ様々な理由で家庭という場が窮屈で楽しくないと感じている大人も子供も多いので、それを何とかしたほうがいいのではないか、ということです。

家族問題の先進国アメリカを見ているとよくわかることですが、これからの時代は家族をつくり、家庭を運営するのも今まで以上に知恵と体力が要求され、家族に何が起こっているかに敏感に対処していかないと、簡単に家族は崩壊の危機にさらされることになります。
なぜなら、人々は血縁、地縁(つまり動物的縁)に昔ほど執着しなくなり、また一度つくった家族関係を捨てても、納得できる関係に出会えるまで、人間関係をわたり歩くという人たちも増えているからです。
先日、電車に乗っているとき、隣にすわっていた母親らしき二人の人がそれぞれの子供の話をしていました。
話題は「子供をどうしても○○高校に入れたい」という内容でしたが、それを聞きながら私はこれからの母親は、「仮に学歴なんてなくても立派に生きていけるわよ」と人間の論理を子供に言ってあげるくらいに進化しないと、21世紀に生きるのは大変だろうなあと思いました。

それでは一般の人間関係、つまり友人関係、恋人関係、その他職場の同僚、上司と部下との関係において、この光と闇はどう作用するでしょうか。

まず、友人関係や恋人関係のように自発的につくる関係について考えてみます。
ある人と友人関係や恋人関係になる場合、まず最初は相手のなかにある光に惹かれて関係が開始します。
こういう関係には二つの場合があって一つは、最初から自分と相手の共通の光を認識している場合、つまり「この人と私は共通の光がある」とか、「この人と私は似ている」と思う場合です。
二つ目は、「この人には自分にはない何か素晴らしい光がある」と考えるときです。

しかし、人は自分がもってないものに惹かれるということはなく、本当は自分がすでに潜在的にもっているもの、あるいは、今の人生で具現しようとしている潜在的素質のあることにしか心惹かれないのです。たまたまそういう素質をすでに実現している人に出会って、自分のなかのそういう部分が外側に現れる可能性が生まれるのです。

たとえば、〈私〉がとても内向的な人間だとします。
たまたま友人になったA子さんは自分とは正反対で、とても外交的で友人もたくさんいて、明るい人だとします。
〈私〉は彼女の明るさに惹かれ、いっしょに話しているととても楽しい気分になります。
一方A子さんは、〈私〉の穏やかで静かな性格が気に入りいつも話を楽しく聞いてくれるのでいっしょにいるととてもほっとします。

ということで二人は最初とてもいい友人関係が続きます。
ところがしばらくすると、たいてい自分が相手のなかに気に入った部分を、反対に気に入らないと思う気持ちが生まれます。
たとえば前の例でいえば、〈私〉はA子さんの外向的で明るい面を何か深みのない軽薄さのように感じ、A子さんは〈私〉の内向的性格を暗いと感じます。
ですから、友人や恋人などの関係では、自分が好きになったり心惹かれた部分から、まず嫌いになるということを覚えておくといいと思います。

つまりたとえば、相手の優しさ、親切さ、強さなどが好きになったら、必ずその優しさ、親切さ、強さを疎ましく思うことが一度はあるということです。
これは人間の心は、必ず正反対に振れるという心理上の法則のようなものです。
そのことをあらかじめ知っておけば、それは一時的なものであり、またすぐに元の〈好き〉という感情に戻ることがわかり、それほど深刻に考えなくてもすみます。
また、そのことを通じてより高い段階の関係へすすむ機会である場合もあります。

そして、親しい関係で深い不和や対立が起きた場合は、この地点で人間関係を通じて人が進化の方向に進むのか、それとも一時的後退の方向に進むのか、の選択ができます。

親しい人間関係では、相手のなかに好きになったところを一度は嫌いになります。

進化するとは、まず自分と相手の闇を理解し、相手の光によって自分の闇を照らし、自分のエネルギーのバランスをとることです。
具体的には、相手にある最高の波動(長所)を学んで自分のなかに取り入れることと、同時に自分と相手のなかにある最低の波動(短所)に気づくということです。

なぜお互いの闇に気づくことが大切かというと、自分と相手の闇に気づけば、お互いの闇によって足をすくわれることがなく、最高のものだけを相手から得ることができるからです。
反対に一時的後退を選択することは、相手から学ぶことを拒否して、今までの自分のままでいようと強く抵抗することです。

私自身、最初はうまくいっていた関係、つまり光だけを見ていた関係が、パンドラの箱を開けたように、闇ばかりを見る関係に終わった例(精神世界にかかわっている人たちにはよく起こりがちです)をたくさん見たり、自分でも経験したことがありました。
その理由とは、今述べた光と闇の問題です。
誰でも自分が好きになった人、尊敬した人のなかに、「闇なんかあるはずはない」と思いたいですし、また自分のなかにも闇があることを認めるのはさらに勇気のいることです。
しかし、前に述べた家族関係だけでなく、恋人関係、友人関係、先生と生徒の関係、導師と弟子の関係、セラピストと患者の関係など、あらゆる親しい関係にこの光と闇はかかわっていて、私たちが気づかないでいると、いつのまにか闇が支配する関係(つまり、低い波動で結びつく関係)になる場合があります(オウム真理教の一連の事件も、導師と弟子の闇が一気に開花した事件としても見ることができます)。

いい人間関係を継続するには

長年つき合った人でも、たった一言の言葉が原因で関係が終わったり、また一日しかいっしょにいない人でも、生涯の友愛を感じたりすることを経験すると、人間関係は必ずしも長く続くことだけが大切なのではないと、私はますます思うようになっています。
でも、大切な関係をなるべくいい状態で長く続けたい、と思う読者の方々のために、考えていただくヒントのようなものを書いてみます。

たぶん人間関係とは植物のようなもので、いい関係を長く続け、さらに成長させるためには、水や肥料をきちんとやったりするなど、まめに手入れをすることが大切なのです。
ほっておいたら、親しい関係はたいてい三年くらいで関係は冷えるというのが専門家の見方ですし、私も三年という年数はそうだなという実感があります。

いい関係を長続きさせるには、私の考えでは二つの要素、つまり、安定と刺激、別の言葉でいえば、関係を安定させる共通性と関係を刺激し合う異質性という要素が必要です。
結婚にしろ、恋愛にしろ、友情にしろ、ある関係が続くためには、まず二人の間に共通なもの、つまり、共通の価値観、共通のライフスタイル、共通の趣味、共通の話題など二人を結びつけるのに足る十分な共通項がなければいけません。
その共通項が二人の関係を安定させてくれます。

ところが、二人に共通項だけがあれば、関係は楽しく続くかといえば、たいてい倦怠がやってきます。
なぜなら、もし共通項だけの関係があるとしたらそれは同じ人が二人、つまり、自分が二人いるようなものだからです。
人は自分に似た人を求めながらでも万一そんな人を見つけることができたら、実際はとても退屈するはずです。
そこで、お互いに異質な要素が必要になりますが、その異質さこそ関係に刺激を与え、関係を成長させることができます。

いい関係を継続させるには、安定と刺激の二つの要素が必要です。

関係が三年くらいで冷えてしまうとされるのは、一つは二人の間に共通項が何もないことがわかり、関係を安定させる要素に欠ける場合と、反対に二人がどんどん似てきて共通項ばかりが増え、お互いを刺激する異質なものに欠ける場合との二種類に分類されます。
どちらの場合も、何かをしないと、形だけの関係になっていくか、崩壊するかの道をたどります。

以上関係を長続きさせるための要素について述べましたが、理論はシンプルでも実践はそう簡単にはいかないことを、私は常々実感します。

では次に、自分が望んだわけでもないのに、できてしまう人間関係(おもに職場の人間関係や学校の人間関係など)にある光と闇について考えてみます。
人間関係には、自分で自発的につくる関係と、好き嫌いに関係なくできてしまう関係がありますが、たとえば、職場の人間関係などは後者の典型的関係です。
たまたま入社した会社にイヤな奴がいるとしたら、これほどの悲劇はないかもしれません。
なぜなら、せっかく入った会社をやめる以外、自分の力では、そのイヤな奴と離れることができないからです。

実際、私のまわりでも職場の人間関係で悩む人が多く、たぶん日本全国でも多くの人たちが会社をやめる理由は、人間関係なのではないかと思われます。
私自身は会社経験が少なく、また会社にいた頃も、社内の人間関係で悩んだことがなかったので、いつも人の話を聞くたびに、「どうしてみんな仕事で悩むよりも、人間関係で悩むんだろうか。会社とは、仕事をするために人が集まっているところではないか」と思うのです。

職場の人間関係は、自分で好んで選んだのではない(精神世界では、すべてが自分の選択であるという見方もあるので、この考え方によれば、それもまあ自分で選んでいるわけですが)ところが、家族関係に似ている点です。
つまり、家族関係同様、自分では避けていたいことを、神(宇宙)が強制的に人に見させ、成長させる手段として、人間関係を使うということです。
もしあなたが職場のなかで特定の誰かをひどく嫌っている場合、それは自分のなかの何かを見なさいという合図だと思えば間違いないことです。

たいていは、他人のなかに嫌っている要素とは、自分のなかに抑圧している要素であったり、憧れている要素であったりすることがほとんどです。
たとえば、職場に非常に倣慢な(そうあなたが思っている)人がいて、あなたはその人を見るのもいやなくらいその人の倣慢さが大嫌いだとします。
その場合は、あなたがその人の倣慢さにそんなに強く反発するのは、自分のなかに気づかずに倣慢さを隠しもっているからであり、この機会にそれを見よという指令なのです。

もしあなたが進化を選べば、そのことに気づいて相手の倣慢さよりもレベルがあがって、もうそういう人とつき合う必要がなくなるか、相手を倣慢だと見なくなるかです。
なぜなら、人の倣慢さをもっと深く見るとき、たいていは無力感をその裏に見ることができ、相手の苦しみを思いやることもできるからです。
しかし反対にあなたが一時的後退を選ぶ、つまり、自分のなかの倣慢さを見ることを拒否し、相手の倣慢さを非難し続ければ、その人をもっと倣慢にするか、あるいは別の場所でもっと倣慢な人を引きつけることになるかもしれません。

もちろん今述べたことは、相手の倣慢さが自分に被害を与えているようなときに、黙って耐えるのがいいと言っているわけではありません。
行動や言葉が必要であれば、相手に対して何かをしたり、言ったりすることは適切なことですが、相手にどういう意識を向けながら、行動したり、発言したりするかで、結果はずいぶん違ったものになると思います。
たとえば、非難しながら何かを言うか、愛情をもって言うか、理解しながら言うか、というようなことです。

人間関係のなかでよく起こりがちなことの一つに、
「人は何かがうまくいかないときに、自分の影を他人に投影する傾向がある」
というものがあります。
つまり、本当は自分のほうでそう思っていることを、他人のほうでそう思っている、というような幻想をいだくということです。

例をあげてみると、
・Aさんは私のことを嫌っている(幻想)←私がAさんを嫌っている(実際の感情)
・Aさんは倣慢だ(幻想)←私が倣慢だ(実際の感情)
・まわりが私を攻撃する(幻想)←私がまわりに攻撃的である(実際の感情)
・世の中は私を受け入れていない(幻想)←私が世の中を受け入れていない(実際の感情)
・イラクは攻撃的な国だ(幻想)←我が国がイラクに攻撃的である(実際の感情)

最初の例をさらにもっと深く見れば、「Aさんが私を嫌っている」という幻想が、「私はAさんが嫌い」という感情を生むことになり、したがってもし最初の幻想をなくすことができれば、実際の自分の感情も幻想であることに気づき、お互いの間にあるとされる〈嫌い〉という感情そのものがそもそも幻想であるかもしれないのです。

このような例は、人が本当は敵がいないところで、いかに自分で敵をつくるのかをよく示しています。
例はかぎりなくありますが、私たちは注意していないと、無意識にこの自分の影を他者に投影するゲームにはまる傾向があり、自分が実際の自分の感情と正直に向き合わないでいると、このゲームの代償は高くつくことになります。

人間関係に関して二十代の終わり頃、私はあることを強く思いました。
それは、「人間関係から教訓的なことを学ぶことはできるだけ少なくしたい」というものでした。
つまり、「仕事場のようなところで、仕事ではなく、人間関係でつらい思いをしたり、あれこれ考えさせられるようなトラブルにはなるべく出会いたくない」ということです。
なぜなら、暇そうに生きていても、これでも私は他のことでいろいろと忙しいからです。

そこでどうすれば、人間関係のゴタゴタにまきこまれずにすむかを真剣に考えて、次のような答えを得たのです。

つまり、神に無理やり勉強させられる前に、あらゆる機会に、人間について、人間の心理について、そして自分について、すすんで積極的に学ぶことだとわかったのです。
本を読むことによって、他人の話を聞くことによって、世の中で起きた事件によって、そして、人と話しているときの、自分の反応に気づくことによって。

おかげで、ゴタゴタの前兆を感じるのがうまくなり、人間関係に関するトラブルやストレスをかなり避けることができるようになったのですが、同時に、人間関係をいつもうまくいかせる魔法の方法やテクニックなどというものはない、ということもわかりました。
つまり、あるとき、ある人に、ある状況でうまくいった方法が必ずしも別の状況で、別の人に対してうまくいくとはかぎらないということです。

黙って人の話を聞いているより、怒鳴ったほうがいいときだって、まれですがあるわけです。
なぜかというと、何度も書きますが、人間の心は複雑で、しかも人間関係をとりまく状況も複雑だからです。
そして神は何事においても創造性を求めますから、人は瞬間瞬間において、テクニックを創造しなければいけないのです。

ですから、人間に関する一般論を学ぶことは重要ですが、それを個別に応用するためには、経験と知恵が必要で、そのあたりは手を抜いてはいけないことです。

国家間の光と間

国家間の問題は、庶民にはあまり興味のもてない外交問題のように受け取られていますが、実際は個人と個人との関係と同じように、国家エゴの心理にもとづいて展開しています。
そのような観点で、各国の国民感情と政治家の心理を読んでいくと、個人対個人の人間関係のように、国際政治も実に人間的な(というよりは、動物的なというべきでしょう)感情に左右されていることがわかります。

まず、国家間の関係を考えるときも、個人対個人と同じように、どの国にも光と闇の部分があって、その光と闇がお互いに影響を与えているという視点が必要です。
いくつか例をあげて考えてみると、たとえば、日本と最も深い関係にあるアメリカの最高の光とは、先駆的なもの、新しいものへの限りない愛と開かれた心であると私は思っています。
先駆的なものが必ずしもいいものかどうかは別にして、アメリカ人は常に新しいものを求め、伝統がない分、その目は常に過去よりも未来を向いています。
別の言葉でいえば、アメリカは実験的な国家なのです。
新しい発明と道具、新しい発見と観念、そして新しい病気に、犯罪と、世界の新しいものはまずほとんどアメリカから始まります。

それではアメリカの最も深い闇とは何かといえば、パワー(お金、武力、政治権力)への執着です。
アメリカ人ほど、お金への愛を声高に語る国民はいませんし、アメリカ人ほど、自分の価値をお金ではかる国民もいません。
「才能のある人は何をして、どれだけお金を稼いでも自由なのだ」という多くのアメリカ人の考えが、アメリカを今日のように貧富のある国にしてしまったのです。
また、アメリカが国際外交において、どれだけ武力を背景にした自分たちのパワーを誇示したいと思っているかは火を見るより明らかでありその〈世界で一番でありたい〉という病気のせいで、どれだけの紛争と戦争が起きたことでしょうか。
また、そのアメリカの病気に刺激されて、ひそかに自分こそが世界で一番だと思っている中国やフランスが、核兵器開発にさらに力を入れたのは記憶に新しいところです。

それでは、日本の最高の光とは何かと言えば、アメリカとは対照的にその〈無欲さ〉にあると思っています。
〈欲深い人々〉の話が毎日のようにマスコミで報道されているのを見ると、いったい日本人のどこが無欲かということになりますが、国民全体を見ると無欲な国民なのです。
無欲とは別の言葉でいえば、自分の利益を自分以外の存在のために犠牲にできる精神でもあり、起こったことを文句も言わずに受け入れる精神ともいうことができます。

たとえば、日本人の平均夏休みはせいぜい一週間から十日間くらいですが、以前この話をフランス人の友人にしたら、夏休みが平均一カ月から一カ月半のフランスからみると、信じられないと言っていました。
なぜ、同じ先進国でありながら、日本人がわずか一週間くらいの夏休みでがまんしていられるのかといえば、無欲だからです。
つまり、自分の労働時間を会社へより多く与えても、大多数の人は別に文句もないのです。
また、国が税金を一部の人たちのために使っても、ほとんど議論なしに突然のように会社員の健康保険の負担が一割から、二割になっても国民は暴動を起こすこともありません。
なぜかといえば、それは無欲だからです。

私自身は日本人のこの無欲さを愛していますし、戦後日本が驚異的な復興をとげて、一流の経済国家になれたのも、犯罪が少なく、比較的平等な国をつくることができたのも、この美徳のおかげだと思っています。

しかし、残念ながら世界のどこの国もこの日本の美徳を理解していませんし、まして、国際外交の世界では〈無欲〉などというのは、ただ利用され、カモにされるための性質にすぎないのです。
また現在は、〈無欲〉がほとんど〈無力〉と〈無気力〉と同義語になっていて、無欲という最高の美徳を、パワーをもって使える人材が政治家の世界にも、経済界にも、ほとんどいないのが日本の現状のようです。

さてそれでは日本の闇に話を移しますと、それは「精神的自立心のなさ」であり人が精神的に自立するのを妨げようとする風潮が強いことです。
〈私は私だ〉と言える強さがなく、人とは違う自分になる勇気がなく、いつも他人の風評を気にしている日本人が多いのです。
政治家にしても、日本とはどういう国かを世界に向かって堂々と主張できる人がいず、ほとんどアメリカの顔を見て、政策を決定しています。
日本の政治家が言うことが国際外交の世界でほとんど信頼されていないのも、たぶん日本はアメリカの子分のように思われているからです。

そこで、日米間の関係ですが、日本とアメリカが戦後五十年間、仲よくやってこれたのは、性格的に相性が合うからです。
つまり、無欲な日本に強欲なアメリカ、精神的自立がない日本と自己主張のアメリカという組み合わせは、当然うまくいくのです。

アメリカのエゴは次のように思ってきたはずです。
「日本はなんでかわいい奴なんだ。
戦争で原爆を落とされても、国民の大多数はアメリカを恨んでいないし、ちょっと強く言えば、何でもいうことは聞くし、金はいっぱいもっているし、俺には頼っているし、しかも軍事戦略上、これ以上望むことができないほどいい場所にあるしなあ。
まあ、アジア人のくせして、俺たちよりも技術がちょっと優秀ってのは、しゃくにさわるが、まあ、アメリカから稼いだ金はあとで返してもらうぜ。
これからもずっと手放さず、利用できるだけ利用してやるぜ」と。

もちろん日本のエゴだって、アメリカと友達でいることが利益になると思っているから、緊密な関係が続いているわけです。
つまり、
「アメリカの軍事力の庇護にあるほうが、経済的に安上がりだし、アメリカの後ろだてがあれば、まさかどこの国も我が国に攻めてくることはないはずだ。
軍事のことはアメリカにまかせて、とにかく経済に集中したい。
だから、どんな犠牲を払っても、国民の声なんて無視してもアメリカの要求は何でも聞かなくちゃいけないんだ。
アメリカに逆らうなんて、そんなそんな恐くてできないし、アメリカの後ろだてのない日本の軍事力なんて無にも等しい」
と、日本の特に自民党の政治家の皆さんは戦後五十年思ってきたのです。
もちろん、そのような自民党(私はひそかにアメリカ党と呼んでいますが)の考えは、国民の大多数の影の声でもあり、国民の最も保守的な意識を代弁しています。

国民は何か政治がらみの事件が起きると、政治家をよく批判しますが、しかし、政治家そのものが国民の意識そのものによって縛られているので、政治家が口でどんな改革を唱えても、政治家は自分たちで自分たちを変えることができない存在(しかも彼らの多くはまだ人間意識にまで進化していない!)なのです。

ですから、現在の政府・アメリカ党の優先順位は、まず自分たちの存続、次にアメリカ、次に大企業、そしてその他(中小企業や大多数の国民)となっている事実を、国民も感傷なく理解する必要があります。

そしてあえて、政府・アメリカ党を擁護してあげるとすれば、彼らはそうすることが日本国の安全にとって一番いいことだと信じていることです。
たぶん国家が一部の人たちを優遇するというのは、日本だけではないでしょうし、それだけまだどこの国家も動物的意識に支配されているということです。
たぶんそのような国家のあり方を変えていくのは、他者を支配したいという考えを放棄できるほど、一人ひとりが進化してパワーをもつことでしょう。

ここでもう一つ、アメリカとヨーロッパの関係を光と闇の心理学から見てみます。
ヨーロッパは現在EU(ヨーロッパ連合)としてまとまりつつあり、意識的には一つの国家とみなすことができます。
ヨーロッパとアメリカの関係は、保守的な親と親を裏切って成功した子供の関係と見るとよくわかります。
ヨーロッパの光とは一言で言って、「質を重んじる気質」であり、その製品に、芸術に、住宅に、食に、そして人々の生活スタイルのいたるところに、「質」を見ることができます。

そして、その闇とは頑固な保守性であり、人と人をはじめから区別している階級性です。
ヨーロッパの人がアメリカ人について語るとき、私はある種の軽蔑を感じることがよくありますが、その軽蔑は、アメリカ人の拝金主義、そして、軽薄で薄っぺらな文化や食に対して向けられています。
しかし、同時に私はヨーロッパの人たちの言葉の底に、自分たちから出ていった子孫が、自分たちより栄えて力をもっていることに対する嫉妬と怖れ、そしてその軽薄で薄っぺらな文化が、高級なヨーロツパの文化や言語を侵害していることへの憤懣(ふんまん)を感じることがあります。

さて、一方アメリカにとっては、ヨーロッパは堅苦しく、教養のある保守的な父親のようなもので、どうつき合ったらいいのかとまどっている様子があります。
つまり、日本のように子分として扱うこともできなければ、でも、自分のほうが力が強いのに、子供のように父親に従順に従うのもイヤだしというわけです。
それに、どちらも自分たちは世界で一番と思いたい国ですから、そのエゴをむきだしにすれば、戦争をせざるをえないということで、なんとか共通の利益を見いだし、仲よくやっていこうと思っています。

最後に、お隣韓国と日本の関係ですが、韓国の光と闇は〈恨=うらみ〉にかかわっていて、韓国のパワーとは日本への恨みを基盤にしています。
つまり、自分を苦しめた日本に絶対に負けたくないという思いが、国家を発展させる強大なパワーを生み出す原動力になっています。
しかし、恨みという否定的エネルギーを基盤にしているかぎり、韓国の発展には限界があり、今の経済混乱はそのことを象徴しています。

一方日本にとっては、韓国は直面したくない過去のトラウマ(心の傷=つまり、おまえは今では立派になっているが、昔はこんなにひどいことをしたやつなんだ、と言われること)であり、できればあまり深く関係したくない相手なのです。
しかし、金大中氏が大統領に就任したり、2002年のサッカーのワールドカップの共催が決まったりしたのを見ると、この二国間の関係もそろそろ進化が求められているようです。
今後この二国間の闇とトラウマがどのように癒されていくのか、大変に興味深いものがあります。

国家間同士の関係は現在までのところ、残念ながら、お互いの光と闇から学ぶという段階にまで達していず、お互いの闇を非難することに終始しています。
また、基本的に相手から欲しいものは物と金というレベルで、お互いの精神的なものにはほとんど関心がありません。
しかし、個人レベルでは世界の文化と人々の交流はかつてないほど盛んであり、世界中の人たちがお互いの文化から影響を受け合っています(現在、インターネットは文化交流を押し進める最強のツールです)。

その結果これからは、自分は日本人であるとかアメリカ人であるというような意識は薄れて、単に地球人と思う人が増えるのではないかと予想できます。
でも、ここでもまた国境や国というもので現在のように人の意識を縛っておきたい動物的な人たちと、国境を越えて地球人になろうとする人間的な人たちとの間で、意識上の戦いが起こるかもしれません。


『人をめぐる冒険』
  (高木悠鼓 著、マホロバアート 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

エネルギーと人格

3章 エネルギーと人格

エネルギー体としての人間

1章ではエゴの構造と機能の観点から、そして、2章では霊的進化の観点から人間関係について論じてきましたが、3章では、個々の人が発するエネルギーの質と量の違いと、それが人間関係に及ぼす影響について考察してみます。

この宇宙の全存在は人間だけでなく、すべてがエネルギーを放っていて、現代では物理学の世界でも、精神世界でも、この世界は壮大なエネルギーのマジック・ショウである、というような言い方もされています。
つまり私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、無数のエネルギーに囲まれ、また、エネルギーを放出し、影響を与え合って生きているのです。

私が常々考えることは、「人間は環境である」ということです。
そして、私たちの生活に影響を与える環境(家、動植物、自然、コンピューターや家具など)のなかで、人間環境は最優先に考えるべきことだと思いますが、現在、家庭、学校、職場の人間環境は悪化するばかりのようです。
なぜなら、子供から大人まで多くの人たちが不安定な社会環境に多大なストレスを感じていて、そのせいでストレスの多いエネルギーを周囲に放出しているからです。
今後は、人間が出すエネルギーが、まわりに、そして自然環境そのものにさえ、どういう影響を与えるかはもっと研究される必要があります。

さて、この目に見えないエネルギーについてもっと具体的に説明しますと、人間が発するエネルギーは基本的に三種類のエネルギーによってできています。
つまり、肉体、感情、思考が出すエネルギーのことです。

精神世界の用語を使えば、人間は肉体、感情体、精神体というエネルギー体からできていて、それぞれが肉体、感情、思考のエネルギーを取り扱っていることになります。
私のイメージでいうと、目に見える肉体を中心にそのまわりを感情体と精神体が囲っている三重構造という感じです(もちろんこれは非常に単純な言い方で、人間はもっと多くの種類のエネルギー体をもっているとされていますがここでは本書の目的のため複雑にしないように三つに限定しておくことにします)。

そして、その三つの体は、この宇宙に遍在するエネルギーによって動いていると当然考えることができます。
つまり、私たちは宇宙からエネルギーを取り入れて、自分の三つの体に流し、人間として日々生きているのです。
いわゆる〈私らしさ〉とか、他人といるときに感じられるそれぞれの人独特の感じというのはこの三つの体が発するエネルギーの組み合わせと、その質と量と速度によるものです。
したがって、指紋などと同じように、このエネルギーがまったく同じという人は存在しないはずであり、近い将来は指紋、写真などに代わって本人であることを証明するために使われる可能性もでてくるかもしれません。

エネルギーの運動

精神世界ではよく、「ハートを開く」とか、「オープンになる」という言い方をし、あたかも人間はいつも心を閉ざして生きていて、「オープンになる」ために何か特別な努力をしなければいけない、というようなイメージを与えがちです。

しかし、エネルギーの次元では、通常の状態が「オープン」です。
私たちが、一人でいるときや、町にでかけて知らない人たちの間を歩いているときなどは、私たちは中立的で、オープンなエネルギー状態にいます。
ところがたとえば、他人に何か不快なことを言われたとたん、今までオープン状態にあったエネルギーが、自分のまわりに壁でも作るように突然閉じるのです。
もちろん、この閉じた状態も長く続くわけではなく、時間がたったり、相手と仲直りをすると、また通常のオープンな状態に戻ります。

私たちが初対面の人に会うとき、たいてい緊張するのは、未知なる危険性(相手にイヤな思いをさせられるかもしれないとか、いい印象を相手に与えないかもしれない、などという怖れ)に備えて、自分のエネルギーを少々閉じた状態にしておくからです。
そして、実際に会ったときには、お互いにエネルギーを少しずつ出して、まず相手がどんな人かを探ります。
そこで、相手のエネルギーが快適に感じられたらつまり、相手が自分を傷つけるような人でないとわかったら、自分のエネルギーをオープンな状態にして、相手とのエネルギー交流につとめるようにします。

もし相手と気が合えば(たとえばある種の恋愛状態や相手の言うことに非常に興味をいだいている状態)、活発なエネルギー交換が行われることになります。
反対に相手のエネルギーを不快に感じればできるだけエネルギーを閉じた状態にして相手のエネルギーが自分の領域に侵入しないようにつとめ、早く相手と別れたいと思います。

一般に、自分の相手をしている人が、今現在自分に対してどう思っているのかを知るのには、言葉はあまりあてになりません。
なぜなら、言葉は常にウソをつくことが可能ですし、本心を言って他人を傷つけたくないという思いや、自分の対面を保つためなどの理由で、言葉はウソをつきます(さらに時と場合には、特に日本人は相手に自分のウソを察してもらいたいと思います)。
しかし、エネルギーはウソをつけないものです。

ですから、自分が言っていることや、自分の存在そのものを今、相手がどれだけ受け入れているかはエネルギーの動きによって知ることができます。
相手が何らかの理由でこちらのエネルギーに対して閉じているときは、自分から出ていったエネルギーが相手のエネルギーの壁に当たって自分に戻ってくるので、エネルギーが自分の体にささるような不快な感じがします。
こういうときは話し方を変えるとか、あるいは、話すのをやめるとか、また別の機会に話すようにするとかしないと、そのままの状態では、お互いに不愉快になるばかりです。

私がこういうエネルギーの運動を最初に敏感に感じたのは、学校で教えていた頃でした。
クラスの生徒の質や人数、そして、自分の授業の進め方の良し悪しが自分の疲労にひどく影響したのです。
つまり、生徒にやる気がなかったり、自分の説明のし方が悪いと、まるで壁に向かって話しているように、話したエネルギーがそのままエネルギーの壁に当たって戻ってきて、自分を疲労させることをよく経験しました。

このように様々な状況で、人の相手をしていて、特別疲労したり、楽しかったりする場合、今述べた自分と相手の間のエネルギーの運動が関係していると考えることができますが、さらにこれから、人間同士のエネルギーのすれ違いをもたらすいくつかの要因について考えてみます。

三つのエネルギー・タイプ

これを読んでいる読者の皆さんの多くも、一度くらいは、星占い、血液型、姓名判断などに熱中したことがあると思いますが、私もかつてはいろいろと熱中した頃がありました。
それは、そういうものが、人や自分の性格や運勢の判断にどのくらい役立つかに興味があったからです。
結論からいうと、星占いによる性格分析以外は、ほとんど役に立たないと思いましたし、複雑な人間を何かのパターンに分類すること自体無理があるのでは、と考えていました。

にもかかわらず、ここであえてエネルギー・タイプによる分類を試みるのも、少なくとも私にとって、そのことが人間関係を理解したり、自分のエネルギーのアンバランスを矯正するうえで役に立ったからです。

多くの人が案外気づいていないことですが、人が他人を不愉快にさせるのは、その人がエネルギーを出すやり方や相手からエネルギーを入れるやり方が、相手に合っていないということがあります。
たとえば、自分の言っていることが相手に通じていない場合、自分の話している内容が問題ではなく、話し方が相手に合っていないこともよくあります。

ここでは、読者の皆さんが今まで以上に、自分や他人が出すエネルギーに興味をもって敏感になっていただくために、一つの試みとしてエネルギー・タイプを説明しましょう。

私が長年人間を観察して発見したことによればエネルギーがどの体に一番多く流れるのかによって、三つの基本的タイプがあります。

1 行動(肉体)主動型

このタイプの人はエネルギーが基本的に肉体に一番多く流れ、感じるよりも、考えるよりも、まずは体を動かし、行動するタイプ。
フットワークが軽く、話題が豊富で、話すときは一つの話題から次の話題へとどんどん変化するのが特徴的で、感情や会話や文章でさえ行動的である。
一般的欠点としては、深く考えること、また深く自分や他人の感情を感じることは得意ではない。
また、体力に自信のある人が多いので、逆に体を使い過ぎて、病気やけがを起こしやすい。
たぶん、過労死するような人たちはたいていこのタイプの人ではないかと想像できる。

2 感情(感情体)主動型

このタイプの人はエネルギーが基本的に感情体に一番多く流れ、考えるより、行動するより、まずは感じるタイプ。
自分が何かや誰かに対してどう感じるかを大切にし、その分人の感情を思いやる優しい人が多い。
話すときは、自分がどう感じるかを中心に話が進行し、相手にも自分の感情を感じてほしいと望む。
一般的欠点としては、感情的好き嫌いに固執するため、物事の冷静な判断ができないときがあることと、自分や他人の感情を気にしすぎることである。

また自分の自然な感情がうまく表現されないと(感情主動型の人は、むしろ感情をあまり表に出さない人が多い)それがもとでガンや潰瘍などの病気を引き起こしやすい。
またいじめや人間関係などの苦痛が原因で自殺してしまうような人は、このタイプの人が多いのではないかと想像できる。

また、感情主動型の亜流として感覚主動型というタイプもある。
この人たちは、自分の生理感覚にもとづいてほとんどすべて決定するタイプ。
圧倒的に若い女性に多く、自分の生理感覚による「好き・嫌い」を中心に会話や行動が進行する。
直感にすぐれていて、フットワークも軽い人が多いが論理的に考えることや人の感情を感じることは得意ではない。

3 思考(精神体)主動型

このタイプの人はエネルギーが基本的に精神体に一番多く流れ、感じるよりも、行動するよりも、まずは考えるタイプ。
自分が何かに対してどう考えるかを大切にする。
分析的・論理的思考を得意として、会話は「なぜ・なぜなら」を中心に進行し、相手に自分の考えを理解してもらうことを望む。
一般的欠点としては、自分の考えの正しさに固執することが多いことと、感情を感じることが得意ではなく、また行動すべきときに考え過ぎて行動できないことである。
考え過ぎて思考がまとまらなくなると、極端な場合ノイローゼなどになりやすい。

誤解のないように言っておきたいことですが、人間が生きているということは、当然あらゆる人は一つの体だけではなく、すべての体を使っているということです。
ただそれぞれの人によって、そのエネルギーの流れ方が違うことを自覚することが、人間関係においても、また自分の人生を創造していくうえでも大切ではないか、ということです。

人間を観察していると、ほとんどの人は、たいてい三つの体のうち二つを主に使い、さらにその二つのうちの一つの体に主動されて生きています。
理想的には人は三つの体にバランスよくエネルギーが流れるようにする(=三つの体の進化のバランスがとれる)と、創造的ないい人生を送ることができるわけですが、私も含めてほとんどの人は、多かれ少なかれエネルギーの使い方がアンバランスです(三つの体を流れるエネルギーのバランスをよくする方法については、あとで述べます)。

エネルギー・タイプの遣いによるすれ違い

このようなエネルギーを、日本人は一般的には「気」と呼び、精神世界の読者であれば、波動と呼びます。
いわゆる人間関係において、「あの人とは気が合う、または気が合わない」と人々はよく言いますが、言い換えればお互いのエネルギー・パターンを快適に感じれば、「気が合う」ということであり、それを不快に感じれば、「気が合わない」ということです。

人と人の気が合っているとき、人は相手の発するエネルギー(気)に対して、オープンな状態であり、もっと相手のエネルギーを吸い込みたい状態にあります。
逆に相手の人と気が合わないときは、相手の発するエネルギー(気)に対して、閉じた状態にあり、相手のエネルギーが自分の領域内に侵入してくるのを拒否したい状態にあります。

人のこのエネルギー・パターンは、一人でいるときは通常中立的で平静ですが(特に何かの事態が起きて、激しく考えたり、感じていないかぎり)、他人が自分の前に現れると、オープンになったり、閉じたりと、忙しく運動します。
また、いつも気が合っている人でも、様々な理由で、お互いに相手のエネルギーに対して閉じているときもよくあります。

では、人が自分のエネルギーを自覚しないで、先ほど述べた三つのエネルギー・パターンにしたがって他人と向き合うときに、どういうすれ違いが生じるか説明してみます。

1 行動主動型対感情主動型

一度、極端な行動主動型の人と極端な感情主動型の人が同席して、話をしている場面にいたことがありました。
お互いに関心のある分野はかなり一致していて、見たところ楽しそうに話をしているのに、どうも二人の間にエネルギーが流れていないようで、二人は内心早く会話をやめたがっていたのがわかりました。
そのときエネルギー的にはどういう事態が起きていたかといえば、行動主動型の人は、とにかく話題を前へ前へ進行させようとするのに対して、感情主動型の人はその一つ一つの話題に対して自分がどう感じるかを確かめたいと思っています。
行動タイプの人の感覚のなかでは、どうも会話の進行が相手のエネルギーによって妨害されているような感じがしてイライラし(感覚的にいえば、相手のエネルギーが自分にまとわりつくような感じがし)、一方で感情タイプの人の感覚のなかでは、自分がようやく一つの話題に追いついたと思ったら、相手はもう別の話題に移動していて、何かが完了しないままに、会話がどんどん進行するような不快感を感じます。このとき行動タイプの人が話題の進行を遅らして、相手が感情を感じる間をとるなりし、また感情タイプの人も相手のエネルギーに乗って話題進行に協力すれば、お互いに相手の印象も違ったことでしょう。

2 行動主動型対思考主動型

さて、このパターン同士の会話やつき合いにも1と同じエネルギー上のすれ違いが起きます。
1の場合と同様に行動主動型は、「なぜ・なぜなら」という物事の理解を相手にも求める思考主動型の人のエネルギーに、会話や物事の進行が妨害されるように感じ、不快に思います。
一方で思考主動型の人は、行動主動型の人が物事を深く考えずに、ただ会話や物事を進行させようとするのに対してやはり不快な感じがします。

一般に行動主動型の人のポリシーとは、何事においてもまず行動することであり、行動することによって、よい結果を生み出すと信じています。
人生を勝ち抜いていくためにも、また成功するためにも人よりも早く行動することが大切だと思っています。
このタイプの人から感情主動型の人や思考主動型の人を眺めると「どうして一文の得にもならないことにいつまでもこだわったり、考えたりしているのだろうか」「なぜもっと行動しないのだろうか」「考えてばかりいると、行動しない前に人生が終わってしまうのに」などの疑問をいだきます。

3 感情主動型対思考主動型

感情主動型も思考主動型も一つのことを深く感じたり、考えたりする点は似ているものの、そのエネルギーの質はかなり違っています。
思考型の人のエネルギーはどちらかというと硬質で、冷たく感じられ、感情型の人のエネルギーは柔らかく温かく感じられます。
この二つのタイプの人が話しているとき、極端な場合、思考型の人は相手のエネルギーが少々うっとうしく感じられるか、歯ごたえがないように感じ、感情型のタイプの人は相手のエネルギーを冷たく感じます。
そして、そのことが相手に対してお互いに、「しつこい人だ」とか、「冷たい人だ」というような思いをいだく原因になります。

私自身人生のある時期、思考主動型の悪い癖を発揮して、人が悩みを話しているときに、「あなたの悩みの原因は――ですよ」などとと論理的に分析してあげて、かえって人を傷つけた経験がありました。

感情タイプの人が悩みを話しているとき、ほとんどの場合、その人は自分の問題や悩みを分析してほしいと思っているわけではなく、また解決方法を見つけたいわけでもなく、ただ相手に自分の気持ちを感じて、共有してほしいと思っています。
つまり「私とあなたは同じことを感じ合っている」という意識をもちたいと願っているのです。
そういう人に対して、「あなたの問題は――である」などと言って親切そうに分析するのは、むしろ人間関係を悪化させる場合がある、ということは覚えておくべきでしょう。

以上、エネルギー・タイプの違いによるすれ違いを説明してきましたが、今述べた例はどちらかというと非常に極端な例で、普通はもっとお互いに無意識に自分のエネルギーを調整して、相手にあわせて対応しています。
なぜなら、ほとんどの人たちは他人といるときは、快適で楽しく有意義に過ごしたいと思っているからです。
ある意味ではその調整能力こそ、人間関係の能力なのです。

エネルギーの量によるすれ違い

一般に、大勢の人たちの相手をする人や大勢の人たちの上に立つ指導的立場の人、たとえば、教師、政治家、宗教的指導者、会社の社長、その他リーダーと呼ばれる人たちは、エネルギーをたくさんもっています。
普通の人よりもエネルギーをたくさんもっているからこそ、そういう立場につくことが可能なのです。
なぜなら、大勢の人たちを一つの方向にまとめて引っ張っていくには、大量のエネルギーが必要だからです。
ただし、そういうエネルギーをたくさんもっている人たちが必ずしも人格的にすぐれていたり、善意の人であったりするわけではありません。
闇の世界のリーダーたちも(たとえば、マフィアや暴力団のボス)も、非常にエネルギッシュな人たちです。
エネルギーをたくさんもっている人たちはある種のカリスマ性があり、そのせいで同じ質のエネルギーをもっている多くの人たちを惹きつけることになりますが、またそのエネルギーの過剰さが多くの人たちの離反を招くことにもなります。

歴史を振り返ってみても、カリスマ的な指導者たちの成功と失意は、指導者と指導者に従う人たちとの間にあるエネルギー問題が原因だ、と私は思っています。
人間関係のエネルギーの法則の一つに、エネルギーの少ない人がエネルギーの多い人に惹かれるというものがあります。
というのは、エネルギーの少ない人は、エネルギーの多い人とつき合って、エネルギーをわけてもらいたいと無意識に思うからです。

エネルギーの多い人は、エネルギーの少ない人を惹きつけます。

ところが、カリスマ的な指導者たちも無条件に自分のエネルギーを与えるわけではなく、相手にもそれ相当のエネルギー補充を、お金や労働や思想的崇拝や尊敬という形によって求めることになります。
お互いが相手からもらっているエネルギーの量に満足している間は蜜月的関係となりますが、いったん少しでも量に不満がでたら、離反や組織の崩壊が始まることになります。

本来、光を求めて集まっている宗教教団が、いつのまにか闇を生み出す教団になってしまうのも、今述べたようなエネルギーの問題が深くかかわっています。
また、マスコミをにぎわす詐欺師たちも、他人のエネルギーを巧みに操る人たちですし、犯罪とは無関係ですが、あらゆる業種で営業という職種の成功も、他人のエネルギーを正確に読むことに依存しています。
このようにエネルギーの量の多い人たちは魅力的な人たちが多いのですが、まわりの人たちのエネルギーに無自覚に自分のエネルギーをふりまわすと、まわりはひどく不愉快な思いをすることがあります。
たとえその人が言っていることややっていることが立派なことでも、よいことであっても、です。
なぜ不愉快かといえば、一方的に相手のエネルギーに押しまくられる気がするからです。

人と人とのエネルギーの量の違いは、肉体、思考、感情の個々のレベルにも当てはまります。
たとえば、肉体エネルギーはたくさんもっているけれど、思考エネルギーや感情エネルギーは少ない人もいれば、肉体エネルギーは少ないけれど、思考エネルギーはたくさんある人もいれば、肉体エネルギーと思考エネルギーはあまりないけれど、感情エネルギーだけはたくさんあるという人もいます。
エネルギーの量と速度の違いは、それだけで人間関係にストレスを与える場合もあり、それゆえ、私たちが他人と共同で何かをする場合は、一方的に自分のエネルギーの量と速度を他人に押しつけないように注意する必要があります。

他人と共同で何かをする揚合は、お互いの間のエネルギーの量と速度の遣いに注意をはらう必要があります。

このことを理解してもらうための例をあげると、たとえば、車の運転を習う場合は、たいてい歳をとった人ほど時間がかかりますが、これは一般に歳をとるほど、肉体に流れるエネルギーの量が少なくなり、エネルギーの速度も遅くなるからです。
ですから、教えるほうも、相手の肉体が理解できる速度で教える必要があります。
また会社などで、新人に仕事を教えている場合、教える側が自分のぺースで、つまりできる人の速度で教えているので、まったく教えていることになっていない場面を、私はよく見たことがありました。

このように他人と共同して何かを行う場合や、自分が何かを習うとき、または教えるときなど、生活の様々な場面で個々の人のエネルギーの量と速度が重要な要素となるときがあります。

エネルギーの質によるすれ違い

それでは今度は、エネルギーの質のほうに話を移してみます。
肉体エネルギー、感情エネルギー、思考エネルギーは、一人ひとりによって質が異なり、質が違うと、同じことに興味があっても、その表現はずいぶん違うものです。
また、先に説明した同じエネルギー・タイプでも、その質は人によってかなり違います。

たとえば、わかりやすい例をあげると、スポーツを観戦していて、自分が応援しているチームが負けたとします。
ある人たちは自分が応援するチームの選手に怒り、物を投げるなど暴力的に反応します。
またある人たちは「ひいきのチームは負けたけど、ゲームは楽しかった」と思います。
また、ある人たちはゲームを純粋に戦略的観点から見て、「こんな作戦ではチームが勝てるわけがない」と分析します。
とまあいろいろな反応があります。

同じものに興味をもちながら、エネルギーの質によって、人はまったく異なる表現をすることがわかります。
また、エネルギーの質が違うと、どれだけ言葉で説明してもお互いを理解することは困難な場合が多いのです。
自分と他人のエネルギーの質が違えば違うほど、人といっしょにいて違和感や苦痛を感じることになりますし、相手が特に何かを自分にしたわけでもないのに、他人の存在が気にいらないとかムカつくという場合、このエネルギーの質の違いが原因の場合があります(逆に投影といって、自分と似ている人を見て、なぜか気にいらないと思うときもあります)。

エネルギーの質が遣うと、お互いを理解するのが困難な揚合があります。

一般に人は自分とエネルギーの質と量が同じレベルの人とつき合いますが、これは当然のことです。
自分よりもエネルギーが非常に多い人、または少ない人、エネルギーが非常に高い人、低い人に対しては、エネルギーとエネルギーがぶつかるので、気楽に感じることができないからです。
それに対してエネルギーレベルが同じ人同士の場合は、一番抵抗なく、快適に感じることができます。

ですから、仮に私たちが現在の自分のまわりの人間関係に、どれだけ表面的に不満をいだいているにしても、私たちの人間関係は私たち自身のエネルギーレベルを表し、そのレベルでは快適に感じているはずなのです。

しかし、同じエネルギーの質と量の人同士、そして、同じエネルギー・タイプの人同士のつき合いは、快適ではあるものの、注意していないと、すぐ停滞するという欠点があります。
また、エネルギーレベルが同じところで停滞し続けると、人生そのものも停滞する傾向があります。

三つの体のバランスを調整する方法

前に人間にある基本的な三つの体と、どの体にエネルギーが一番多く流れるかによるエネルギー・タイプの説明をしました。
よく観察すれば、誰でも自分がどの体を一番よく使っていて、どれを一番使わないかが簡単にわかると思います。
体同士のバランスをとるとは、使わない体をもっと使うようにし、使いすぎる体をもっと休ませ、それぞれの体にするべきことをさせるということです。
一般に人は一番得意な体を酷使する傾向があります。
つまり、肉体にエネルギーがまわりすぎる人は、無理して体を使うことが多く、精神体にエネルギーがまわりすぎる人は、頭を使いすぎることが多い、という具合です。
その結果、思考を使うべきときに、感情を使い、肉体を使うべきときに、思考を使うというような非能率的な体の使い方をするようになります。

またなかには、この三つの体の発達が極端にアンバランスな人がいて、私は、肉体年齢が六十才とか七十才の人で、感情年齢は十歳とか、思考年齢は十五歳という人たちをたくさん見たことがあります。
このタイプの人たちは、歳をとるにつれて、そのアンバランスが周囲にとても迷惑をかけてしまうことがあります。
さらに、三つの体の極端なアンバランスは、ある種の犯罪者のなかにも見ることができ、たとえば、肉体と感情の状態は非常に稚拙なのに、頭だけは非常にいいという犯罪者もいるのです。
ということで、この各体のアンバランスは、人が思っている以上に自分の人生に影響を与えることはよく理解する必要があります。

私自身あるとき、あまりの運動音痴をなんとかしたほうがいいと思いたって、人生の数年間スポーツばかりやっていた時期がありました。
人並にうまくできるところまではいかなかったものの、自分なりに楽しめるところまでやることができました。
今では、そのほとんどすべてをやめてしまいましたが、おかげでエネルギーの不均衡を少しは解消できたのです。

エネルギーの極端な不均衡を矯正すると、その人がこの人生で生まれながらにもっている才能をようやく発揮できる状態になります。
なぜならたとえば、人の才能が肉体にかかわっているにしても、考える力が弱かったり、感情的に不安定であれば、未発達な体がその才能の開花を妨害することになるからです。
才能あるスポーツ選手で大成する人が少ないのは、精神体と感情体が未熟であるところにその本当の原因があるのでは、と私は思っています。
これは人の才能が、思考、感情の分野にある場合でも、同様にいえることです。
つまり、人が自分の才能を最大に開花するためには、すべての体が協力することが必要なのです。

才能が開花するためには、三つの体が協力することが必要です。

参考までに誰にでも実践できる各体のエネルギーを活発にする活動を書いてみます。
現在は一般的に、多くの人の場合、感情体の発達が遅れています。
これは、肉体や思考の発達はある程度学校や社会でその価値が認識されているのに対して、感情の発達にはほとんど重きをおかれていないからです。
社会や学校や家庭においては、思考や肉体とは違って、感情を発達させたからって、それでどんな得があるのかという程度の理解しかないわけですが、その代償が社会的に高くついていることは、今後もっと理解される必要があります。

・肉体――各種スポーツ、ジョギング、散歩、ヨガ、気功
・感情体(感情)――音楽鑑賞、歌を唄うこと、その他芸術活動、感情表現、動植物と親しむこと
・精神体(思考)――読書、コンピューターを学ぶ、文章表現、語学学習

その他、精神世界のセラピーやワークにはいくつかの体に同時に効果的に働きかけるものもありますが、そういうものを始めるときは熟練した指導者についたほうがいいでしょう。

エネルギーの量と質を変える

エネルギーの量と質を変えることは、2章で述べた進化にかかわっています。
つまり、進化した人ほど、大量で高品質のエネルギーを放出することができるということですが、エネルギー転換はそれほど簡単ではありません。
なぜなら、たとえていえば、食事の量と食べ物の好みを変えるようなものだからです。
私たちが長年かけて、食事の習慣を確立するように、やはり長年かけて現在の自分のエネルギーの量と質を確立しています。
ですから、それを変えるためには、ある種の意識的努力が必要ですが、たいていの人はそれを変える必要性を感じませんし、その場合は無理に変える必要もないものです。

でも、私たちが食事の量と食べ物の好みを変えようと思うときがありますが、それはどういうときでしょうか。
それは、その量と好みでは自分の体に害になると、自分が気づいたときです。
同じことがエネルギーの質と量の転換についてもいえます。
たとえば、何事においても暴力的にエネルギーを出す人がいるとします。
その人が自分のそういうエネルギーレベルに満足し、快感さえおぼえているときは、誰が何と言ってもその人を変えることはできません。
しかし、本人が自分の暴力性にイヤ気がさし、もっと違う表現をしたいと望むとき、エネルギーの質と量の転換の一歩が始まります。

私の個人的経験から、エネルギーの質と量の転換に役立つと思うことを書いてみます。

1 自己観察と瞑想

自分が外部の人や物事に対してどう反応するかを正直に観察する。
このことによってムダに使っていたエネルギーを節約することができ、また不平・不満などの低い質のエネルギーを放出しないようになる。
長年続ければ、自然にエネルギーの量と質を変えることができる。
その他各種瞑想もエネルギーの転換に役に立つ。

2 人生に起こるショックな出来事

人生で起きたショックな出来事のおかげでエネルギーの質と量の転換を強制される。
エネルギーが急激に変わると、突然以前の二倍くらい頭がよくなったり、体も動く半面、他人の心の痛みやウソまでもが驚くほど読みとることができるなど、苦痛な面も多くある。
このような〈ショック療法〉は、予期せぬときに起きる可能性がある。

3 エネルギーの質と量の遣う人々との出会い

様々な人との出会いによって、自分のエネルギーを活性化する。
特に自分が具現したいと思う性質をもっている人と幸運にも出会うことができたらエネルギーを変える絶好のチャンスである。
たとえば、各種セミナーなどに参加すると、講師と参加者が作るエネルギーの磁場によって、自分のエネルギーを活性化し、質と量の変換へのはずみがつく場合がある。
また、今述べた3と関連したことを書くと、精神的なことにかぎらず、様々な技能や知識に関しても、自分の興味のあることを早く学びたいと思ったら、そういう技能や知識をもっている人たちとつき合うのが効果的です。

たとえば、私がスポーツに一生懸命に取り組んでいたときは、なるべくスポーツのできる人とつき合って、スキーや水泳などにいっしょに連れていってもらいました。
また、文学に熱中していた頃は、文学の知識の豊富な人たちとつき合うことで、文学の知識を簡単に身につけることができましたし、政治・経済が得意な人たちとつき合っていると、なんとなく自分も政治・経済が得意になる、という具合です。
私はこれを〈超簡単学習法〉と呼んでいます。

以上のように他人を通じて、自分のエネルギーを変えたいと思うときや、他人を通じて何かを学びたいときに一番大切なことは、「エネルギー的に抵抗しないこと」につきます。
しかし、相手にどうしても抵抗を感じたら、それはたいてい二つの理由によるものです。
一つは、相手がその人のエネルギーを無理やり押しつけてくる場合。
もしこれがあなたの先生であれば、先生を変えたほうがいいのかもしれませんし、友達であれば、関係を絶ったほうがいいのかもしれません。
もう一つは相手に何の意図もないのに、相手と自分のエネルギーの質と量が違うために感じる抵抗というものもあります。
この場合は、自分が感じている抵抗を「相手が心を閉じている」などと、投影して読み間違えないように注意する必要がありますし、自分の抵抗に気づけば、相手のエネルギーレベルに合わせるという選択も可能になります。

人間関係におけるエネルギーの調整方法

今まで述べてきたように、私たちが意識的に自分のエネルギーレベルを変えたいと思うとき以外は、自分のレベルと合った人といっしょにいるのが楽しいことです。

しかし現実には、私たちは様々な人々や場所にかかわって生きていて、好むと好まざるとにかかわらず、いろいろなエネルギーの質量をもった人たちとつき合うことを余儀なくされています。
また、好きになれない人と一時的に関係しなければならないときもあります。

他人のエネルギーレベルに対応するための調整方法として、原則的にはエネルギーを今よりもオープンにして拡張するという運動と、今よりも閉じてエネルギーを収縮させるという運動があります。
エネルギーをもっとオープンにするということは、特別なことをすることではなく、もっと意識して相手の存在を認め、相手からのエネルギーを抵抗なく受け入れ、そして流すということです。
シンプルなことですが、すぐに実践するのはなかなか困難です。
なぜなら、相手のエネルギーを受け入れて、それに影響されないためには、自分の中にとても大きなエネルギーが必要だからです。

さらに、高度なテクニックとしては、相手からくる否定的なエネルギーを肯定的なものに変えて、相手に送り返すというものがありますが、これにはもっと大きなエネルギーが必要です。
たいていの人は、自分にとって不愉快なエネルギーがくると、まず自分のエネルギーを閉じて、これ以上相手のエネルギーが自分に入ってこないように防御するか、ときには相手のエネルギーに対して攻撃的に向かっていきます。

以上述べた方法でもちろん人間関係に一番いい方法は、エネルギーをオープンにするということですがときにはエネルギーを閉じることも、エネルギー的に攻撃することも相手によっては必要な場合があります。
私の場合も、エネルギーを閉じて、できるだけ早くその場からさっさと退散することが一番多いと思います。
なぜかというと、私にはそういう意味での忍耐力がないし、かかわる必要のないときに、無理することもないと思うからです。
また、ときには相手がとても鈍感で、こちらが多大な迷惑をこうむっているときは、少々攻撃的にエネルギーを出すこともあります。
世の中には、自分が他人に迷惑をかけていることにまったく鈍感な人たちも多くいるので、そういう場合は、憎まれても言ってあげるほうが、親切です。

しかしまた、時と場合と相手によっては、相手に何か言ったりすることもできないし、そして、エネルギーを閉じるとかえって自分の苦境を招くというときもあり、そういうときは思いきってエネルギーをオープンにすると、思いもよらないほどいい結果がでることがあります。

私も、人生で一度だけこれを劇的に体験したことがありました。
それはある年配の初対面の人と、事情があって一時間ほどその人のオフィイスで二人だけで時間を過ごさなければいけない、というときだったのですが、私は人生でこのときほど他人といっしょにいることを苦痛に感じたことはありませんでした。
そのとき自分が感じたことをうまくは説明できませんが、その人はたぶんエネルギーの質が私とちょうど正反対、しかも人を威圧するような強烈なエネルギーの持主でした。
はじめて会ったときから、私のエネルギーがみるみるうちに収縮し、自分のまわりに壁をつくり、相手のエネルギーが自分の中に入ってこないように必死に防御しているのがわかりましたが、そのことがたぶん相手をさらに不愉快にさせたようで、あからさまに私の悪口を言い始めたのです。
もちろん退散できるときなら、さっさとその場を出てしまうのですが、そのときはそれもできない状況でこのまま私の悪口をあと一時間も聞かされると思うと、とても憂欝な気分でした。

そのときふと、逆をやってみるといいのではないかと気づき、意識的にエネルギーを全開にし、相手に何を言われでも抵抗しないことにしたのです。
すると、私が言葉で何かを言ったわけでもないのに、突然相手も私の悪口をやめ、なぜか今度は私のことを誉め始めるのです。
そこで、私もお世辞ではなく相手について立派だと思うことを言ってあげると、その人もずいぶんうれしそうにするので、「人って本当に不思議!」と改めて思いました。
おかげで、いっしょに過ごした時間がお互いにムダにはならず、私もいろいろ勉強になったのです。

ということで、必要なときや、逃げ場のないときや、余裕のあるときは、エネルギーをオープンにすることで、相手とのエネルギー調整をするのが一番いいと思います。
幸運であれば、そこから何か美しいものが生まれるかもしれませんし、否定的な状況が肯定的なものに変わるかもしれません。
しかしこれは、けっして相手のエネルギーレベルを変えたり、操作したり、また否定的な人を肯定的に変えようとすることではない、ことを覚えていてください。

快感としてのエネルギー

今まで、人間が放つエネルギーについて様々な角度から考察してきましたが、最後のまとめとして、快感としてのエネルギーについて述べてみたいと思います。
前にも説明しましたが、人があるエネルギーレベルに定着しているのはそのレベルがその人にとって快適で、快感であるからです。

たとえば、自分が気に入らない事態を見ると、自分のせいで起きたことでも、まわりの人間に一発癇癪を落とすような短気な人がいるとします。
たいていの場合、本人は一発癇癪を落とすと、スッキリとするのです。
つまり、くしゃみと同じようなものであり、またある種の健康法でもあるのです。
しかし、快感のレベルが、自分が快感を満たすことによって、他人を不快にするという段階にあることが問題であり、まわりは当人の進化を待つしかないのです(経験から言えば、このタイプの人には、黙って耐えるよりも、同じくらいのエネルギーで言い返してあげたほうが、進化を刺激することが多いようです)。

同様に、世の中のすべての人は、その人のエネルギー状態がどうであっても、その人の快感レベルで落ち着いて生きているのです。
誰も他人の快感を批判したり、否定する権利はありませんし、批判して否定したところで、本人が変えたいと思うまでは、何も変わらないのです。
私たちにできることはただ、不愉快な人や暴力的な人といかにつき合わないようにするかを知り、そして、万一そういう人と遭遇したり、被害が自分に及んでいる場合は、どうしたらできるだけ快適に対処できるかを学ぶことです。

現在日本でも、暴力事件がアメリカのように多発する時代になり、今後も増え続けると予想されます。
それは悪い人たちが増えているからではなく、今まで道徳や社会通念が抑圧してきたものが、よく言われているようにたぶん地球全体のエネルギーが加速されているため、一気に解き放たれているからです。
したがって、普通の「いい人たち」や「いい子供たち」が、簡単に悪い人や悪い子供になるのです。

このようにエネルギーの加速と増加は、社会に光をもたらすと同時に、隠れていた闇を表に出すという作用もするので、今後、当分世界的に様々な混乱が続くことになります。
このことはまた、私たちの個人的な人間関係にも大きな影響を与え、注意していないと、関係は不安定で、こわれやすいものになることは覚倍したほうがいいでしょう。
そして、注意していても、お互いのエネルギーの質量の変化にともなって、関係が変わったり、終わったりすることもよく起こります。

どんな状況のなかでも、私たちはまず自分のエネルギーの状態と運動と、他人のエネルギーとのかかわり方に責任をもつべきであって、そういう意味では、自分のまわりのエネルギーに敏感になることはますます必要なことになります。
(本章を執筆するにあたりまして、特に次の三冊の本を参考にしました。
第3部でも解説してありますが、読者の皆さんにも機会がありましたら、お読みいただくことをお勧めします。「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス著、地湧社発行、「奇蹟を求めて」P・D・ウスペンスキー著、平河出版社発行、「パーソナル・パワー」サネヤ・ロウマン著、マホロバアート発行)


『人をめぐる冒険』
  (高木悠鼓 著、マホロバアート 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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