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生々しい感覚が感じられないようでは、人は真に生きていることにならない



生々しい感覚が感じられないようでは、人は真に生きていることにならない。
――ランダウアーの非業の死、そしてイスラエル国家建設の苦悩――

暴力によって非暴力を達成することはできない

1918年、ドイツ国内は貧窮と敗戦で混乱していた。
ベルリンなどの工業都市を中心に百万人規模のストライキが起こり、11月にはドイツ革命が勃発。
労働者が蜂起し、共和制が宣言された。
皇帝ウィルヘルム二世はオランダに亡命、そうしてドイツ帝国は崩壊したのだった。

あくる年の4月、無党派の社会主義者たちが政権を握り、ミュンヘンにレーテ共和国が誕生する。
その初代指導者に選ばれたのがランダウアーであったが、すぐに共産主義革命政権によって奪われてしまった。
どのみち、彼のモットーである隣人愛によって成立した国ではなく、不本意に引き受けた任務でしかなかったため、ほとんど未練はなかったようである。
その後もランダウアーは、不穏な国内情勢の中、暴力による革命行為に反対し、群衆に非暴力を訴えてまわった。

ある若い学生は、すべての広場や街角、集会場において、大勢の群衆ばかりでなく、小さな集会や個人に向かって語りかけるときの人間らしい思いやりに、非常に心を動かされたと語っている。
ランダウアーは叫び続けた。
「暴力によって非暴力を達成することは決してできない。
諸国民の自由と平和は、人々があらゆる暴力から完全に手を引くことを選んだときにはじめて訪れるのだ!」

まもなく、赤軍とドイツ国防軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。
赤軍は敗れ、数百人の犠牲者を出して終焉を迎えることになる。
これはまた、ランダウアーの最期でもあった。
すでに赤軍支配によるレーテ共和国とは無関係だったにもかかわらず、むりやり逮捕され、拘置所に移送される途中、兵士たちから拷問を受け、殺されてしまったのである。

ランダウアーの死の知らせを受けたとき、彼の受けた肉体的苦痛を、ブーバーはまさに自分自身の体験であるかのように感じたという。
その殴打の痛みを、観念的にではなく、リアルな肉体の感覚として理解したというのだ。
すなわち「包摂」したのである。

この体験を通して、ブーバーが痛切に学んだことは、本当に人々に伝えなければならないのは知識や観念ではなく、リアルな感覚であるということだった。
生々しい感覚が感じ取れないようでは、いくら学んでも人は真に変わらない。
ブーバーは観念的な世界から、ますます現実的な世界へと意識をシフトさせていった。

神の理想を地上にあらわすために、地面にしっかりと足をつけ、誠心誠意、自己のすべてをかけて責任を果たしていく生き方の手本として、ランダウアーの存在は、いつまでもブーバーの心に刻まれることになった。
そして次のような追悼文を書いた。
「プレーシア〔イタリア〕の教会で、十字架にはりつけにされた男たちの描かれた壁画を見た。
十字架の立ち並ぶ大地は地平線まで広がり、すべての十字架には、どれも違う顔と姿をした男がはりつけにされていた。
そこにイエス・キリストの本当の姿があるように思われた。
それらの十字架のひとつに、グスタフ・ランダウアーがはりつけにされているのが、私には見える」


悪夢のような経験

非暴力による人間的な社会建設というランダウアーの意志を継承し、ブーバーは離れていたシオニズム運動に、再び力を注ぎ始めた。
理想的な共同体は、ひとりひとりの隣人愛を土台としなければならない。
このモットーを、ブーバーは自分自身のものとした。

ちょうどその頃、1917年に、英国はパレスチナにおけるユダヤ国家建設の支持を表明した。
いわゆるバルフォア宣言である。
ところが一方で、アラブ人によるパレスチナの独占を認めたマクマホン宣言もその二年前に行っていたのである。
中東に影響力をもつために行われた、こうした二枚舌政策により、パレスチナは混乱の度をますます深めていった。
次々に入植してくるユダヤ人と先住アラブ人との対立は激しさを増し、強引に領土が拡大されていき、アラブ人たちは土地を追われて住む家を失ったのである。

ブーバーは、そのような暴力的なシオニズム運動に断固として反対を唱えた。
彼が願っていたのは、ユダヤ人の入植が現地のアラブ人との協調によって進められること、なおかつ、そのことがアラブ人の発展に寄与するものとなることだった。

ブーバーはシオニスト会議で訴えた。
「アラブの人々との公正な連合によって、私たちは共通の住みかを、経済的、文化的繁栄をもたらす連邦、その拡大によって加盟国のひとつひとつに妨げられることのない自治的発展を保証する連邦にすることを望む」
だが、その反応は冷ややかだった。
ブーバーの主張は、決議の草案として採択されたものの、実態は単に国外の反シオニストの主張に反駁するためだけのもので、誰も真剣に実行しようとは思っていなかったのである。

彼は悪夢のような経験だったと回想している。
「私がシオニスト会議でユダヤ人とアラブ人の団結の思想のために闘っていた頃、私は悪夢のような経験をし、それが私の人生を決定した。
私は、双方の民族の利益の共通性を強調し、双方の協力への道を指し示す決議の草案を提出した。
それがパレスチナとそこに住む二つの民族を救済に導く唯一の道だったのに」

事実、もしもこのときブーバーの主張が実行されていたならば、今日のような血みどろのパレスチナ問題は起きていなかったに違いない。

ブーバーは深く失望し、それ以後、政治的な活動を通してのシオニズム運動からは手を引くようになった。
そして、隣人愛の実践を通してこそ、真の共同体は建設されるとするランダウアーの信念を、啓蒙的な活動を通して実現すべく歩み出した。
「自らの中に、つまり自己自身の生活の中に平和を実現した国民のみが、他の諸国民を世界平和に導くのだ」

ブーバーは、常により大きな視点から共同体の理想像を見続けてきた。
ユダヤ人のみならず、すべての人類が、この地上に平和的な共同体を築くという理想を。
これこそが神の望むことであり、ユダヤ精神の真髄であると。
世界平和の樹立こそが、ユダヤ人の使命なのであり、単に自分たちの国家を築くことだけを目的にするべきではないと考えたのだ。

ランダウアーが主張したように、外的な規制ではなく、自発的な相互の愛で結ばれた共同体の創造、これこそが真のユートピアへの道である。
結局、そのためにもっとも大切なのは、
「私たちひとりひとりが、いかにして愛の関係性を築いていくか」
という問題に立ち戻ることである。

この命題が、ブーバーの進路を示すコンパスとなった。
彼は船首を「関係性の哲学」へと向け、今までにない波乱に満ちた航海に飛び出していったのである。

―――――

人間が生きていくためには五感が必要であるが、他者と調和的な関係性を築くにも次のような「五感」が必要である。
(1)相手の善意(愛)を感じられる。
(2)相手の喜びを感じられる。
(3)相手の苦しみを感じられる。
(4)相手の願いを感じられる。
(5)相手の使命を感じられる。

―――――

金持ちの食事

ひとりの金持ちがコズニッツの説教師のもとにやってきた。
「あなたはどんなものを食べていますか?」というラビの質問に対し、金持ちはこう答えた。
「欲を出さずに慎ましくしております。パンと塩、それに水、これだけです」
「何を考えているんだ!」ラビは叱りつけた。
「金持ちが食べているように肉を食べ、蜂蜜酒を飲まなければならない!」
後で弟子から理由を尋ねられると、ラビは次のように答えた。
「彼が肉を食べるまでは、貧しい人がパンを必要としていることがわからない。
自分がパンを食べているんだから、貧乏人なら石を食べたって生きていけると思ってしまうだろう」


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

絶望した人間を救うのは、「こんな人が世の中にいる。それだけでも人生には生きる意昧がある!」と思わせる人物との出会いである



絶望した人間を救うのは、「こんな人が世の中にいる。それだけでも人生には生きる意昧がある!」と思わせる人物との出会いである
――第一次世界大戦と神秘主義との決別――

世界の破局を予言した人物との出会い

1914年、この年はブーバーにとって大きな転機となる出来事がいくつか起きた。
彼の基本的な思想の根幹がひっくりかえされたともいえる。
そのため、1916年以前に書かれた未発表の原稿は、いっさい出版しないようにとの遺言をしているほどである。

転機のひとつは、第一次世界大戦だった。
その年の五月、すなわち大戦が勃発する約2ヵ月前のこと、36歳のブーバーはヘルツルの同志だったウイルヘルム・ヘヒラーなる人物の訪問を受けた。
ヘヒラーは、旧約聖書のひとつで、世界の終末を幻視したとされる「ダニエル書」を引き合いにしながら、まるで予言者のように不気味なことを口にしたのであった。

「私は、今年中に世界戦争が勃発するだろうと君に告げるためにやってきたのだ」
その瞬間、底知れぬ不安がブーバーを襲った。
「世界戦争という言葉を、私はそのとき初めて聞いた。
世界を包む戦争とは、いったい、どのようなものなのだろうか?
いずれにせよ、これまでに戦争と呼ばれてきたものとは、明らかに本質的に違ったものであるに違いない!」

彼はそれを、人類がかつて経験したことのない、人類そのものを破局に導く怪物のイメージとしてとらえた。
局地的な戦争ではなく、全世界を巻き込んだ戦争!
実際に世界大戦が勃発するまで、実感として把握できなかったのだ。

別れ際、ヘヒラーはブーバーの肩に手をかけていった。
「友よ。
私たちは重大な時代に生きている。
教えてくれたまえ。
君は神を信じているかね?」

しばしの沈黙の後、ブーバーはややあいまいな言葉で返答した。
「この点については、私のことを心配なさる必要は少しもありません」
友人を駅まで見送り、その帰り道に「君は神を信じているかね?」と問われた場所で、ブーバーは立ちどまった。
そして、自らに問いかけた。
「本当に、私は神を信じているといえるのだろうか?」
正しい答えを見いだすまでは一歩も動くまいと決心し、その場に立ち尽くした。

もちろん、ブーバーは神を信じていたであろう。
しかし、世界戦争という底知れぬ恐怖の訪れを前に、果たして自分の信仰が、それに持ちこたえられるほど堅固なものであるかどうか、十分な自信がもてなかったのだ。

やがて、ブーバーの脳裏に、次のような言葉が浮かび上がってきた。
「神を信じるという意味が、神について三人称で語ることだとするなら、私は神を信じていない。
だが、神に向かって語りかけることだとするなら、私は神を信じている」


神についての知識は、神を知るための障害となる

私たちの多くは神を、漠然とした遠い存在のように感じている。
目の前にいる人間のように、リアルな存在として実感できない。
私たちにとって神とは、聖書の記述や宗教家の言葉によって構築されたイメージなのだ。
神は「知識」になっているのである。

「人々は現実のつもりではなく、単に教養人の高尚な慣習として神を語る」
知識としての神など、人間にとって何の意味もない。
苦難の支えにもならず、孤独を癒してくれることもない。
神学の研究対象になるだけで、観念という水面に浮かんだ幻像にすぎず、現実の波乱に遭遇したとたん、その像はかき乱され、消滅してしまう。

だが、もちろん神は、知識なんかではない。
目の前にいる人間が知識ではないように。
目の前にいる人間が、生き生きとして存在感を放ち、自分に向かって語りかけてくるように、神もまた、生き生きとした存在感を放ち、自分に向かって語りかけているはずである。

「神がわれわれと直接的な関係に入るのは、絶対的な人格としてである」
神は、現存する「人格」なのだから、知識や観念としてではなく、まさに目の前に存在するものとして認識し、呼びかけなければならないとブーバーはいう。

したがって、神を知るために、まるで辞典を参照するように、神学的な知識を勉強する必要はないのだと。
ありのままに向き合えばいいというのだ。
むしろ、神についての知識は、かえって神を知るための障害となる。

神に関するいっさいの既成概念を捨て去った瞬間、ブーバーはそれを〈決定的な時〉と呼んでいるが、そのときにこそ、人間は神と対話できるのだと説いた。

「この決定的な時とは、われわれが神について知っていると思い込んでいたすべてを忘れなければならない時であり、すでに与えられてきたものや、学んできたものや、自己があれこれ考えてきたものは、何ひとつ役に立たず、知識の断片も、その出会いの夜の中に沈んでしまうと思うほどの時である」

神をリアルな人格とみなし、神からの合図を読み取る者にとって、神は生きたパートナーである。
研究対象として「彼は」などと三人称で呼びかけたりはしない。
夫や妻、親友と同じように、人生を共に歩む唯一無二の相棒として、直接的に「汝よ」と呼びかけることだろう。

路肩に立ち尽くしていたブーバーの脳裏に、次の言葉が湧き上がってきた。
「〔旧約聖書の予言者〕ダニエルに世界戦争を予言させる神は、私の神でも、神そのものでもない。
彼がその苦悩の中で祈りを捧げる神が私の神であり、万人の神なのである」

一方的に予言などをするのではなく、人間と語り合い、その苦悩を分かち合う神こそ、真の神なのだ。
人間が「汝よ!」と呼びかけることのできる「生きた人格」こそが、神なのだ。
そして人間は、そんな神の呼びかけに応答し、使命を遂行する責任を自覚しなければならない。

ブーバーは、次のように力強く述べて、歩き始めた。
「私は今、時代の状況と戦う必要性を強く感じている」


真の対話を実現した人物

戦争がもたらす破局を避けるため、国を越えた共同戦線を作ることを目的とした組織が生まれつつあった。
フレデリック・ファン・エーデンという名のオランダ人医師が組織する「フォルテ・クライス」である。
8人のメンバーが招集され、その中にブーバーも含まれていた。
さらにフランスの偉大な作家ロマン・ロランも参加する予定だった(結局は実現しなかったが)。
ファン・エーデンは、積極的にガンジーや詩人タゴールなどと意見のやり取りをし、その人格的な魅力によってメンバーたちを統率していった。
ブーバーは、ドイツのポツダムで開かれた組織の会合に出席し、集まったメンバーひとりひとりが忌憚(きたん)のない意見を出し合い、表面的な繕いを排した直接的な対話が支配していたことに深い感銘を受けたという。

そして何よりも、そのような会合へと導いたファン・エーデン自身の人格的な統率力を絶賛した。
ブーバーは次のような手紙を送っている。
「あなたは私たちひとりひとりを信頼の念に満ちた優しい表情で見守るという美徳によって、論争になったすべての問題の中にいた。
あなたは愛情のこもった澄んだ目で、互いに対立し合うことの中に、互いに向き合うことを見た。
あなたは結合の神秘的な成長を見、真実の新しい形態が、白熱の中から赤裸々に、華麗に現れるのを見た」

ブーバーは彼の中に、触れ合いをもたらす真の対話を実現する上での、いわば手本を見たのである。
事実、後に自らの思想を開花させるに際して大きな影響をもたらしたのは、ファン・エーデンのような、個性的で、人間的な魅力に富んだ何人かの人物だったのだ。

一方、ファン・エーデンは、ブーバーについて次のように日記に書き留めている。
「ほっそりとして、きゃしゃで、繊細だが、力強いブーバー。
まっすぐな眼差しと穏やかな目をもち、弱々しく、ビロードのようになめらかだが、深く、鋭い。
ラビ〔的〕だが狭量ではなく、哲学者だが無味乾燥なところはなく、学者だが虚栄心をもっていない」


ブーバーの懺悔(ざんげ)・・・ひとりの青年を死に追いやった態度

ブーバーは、戦争に直面し、より現実的な視点でものを見るようになっていった。
この姿勢を決定的にした転機が、同じ年の七月に起こった。彼自身、この体験を「回心」と名づけ、自伝や主要な著作で紹介していることからも、いかに重大な出来事であったかが伺える。

その日の午前中、ブーバーは、自ら「宗教的なもの」と呼ぶ、ある種の神秘的な忘我の状態にあったようだ。
「『宗教的なもの』は、私を人間の領域から離脱せしめた。
彼方には、さまざまな習慣的生活の営みがあるが、ここには、無我の陶酔と照明と歓喜とが、無時間的に、かつ、帰結なしに支配した」

そんな状態に浸っていたとき、ひとりの青年が訪ねてきた。
「私は決して、あたたかい歓迎の態度に欠けていたわけではなかった。
私は彼を、その当時、まるで私が口をきく神託であるかのように、訪問するのを常とした彼と同年輩の人々以上に、なおざりにしたわけではなかった。
私は注意深く、また、率直に振る舞った」
しかし・・・と、ブーバーは回想して懺悔の気持ちを訴えている。

「ただ、彼の提出しなかった質問を見抜くことができなかった」
2ヵ月後、この青年の友人が訪ねてきて、第一次大戦で戦死したことを告げたのである。
この青年は戦死するために戦場に向かったのだとブーバーは思った(真相は不明)。
「この青年は、偶然にではなく、運命の手に導かれて私のところへやってきたのであった。
おしゃべりするためにではなく、決断するために、他ならぬ私のところへ、他ならぬその時間にやってきたのであった。
われわれが絶望して、しかも、なおある人間のところへ行くとき、われわれは何を期待しているのだろうか?
それは間違いなく、その人格を通して『それでもなお意味がある』と語りかけてくる存在であろう」

この対話は、「すれ違い」に終わったのである。
ブーバーは、自らの全人格をかけて青年に対応しなかった。
いまだ神秘体験の陶酔から覚めていない、いくぶん「うわの空」の気分で対応したのである。

いったい、人生に絶望した人間が、最後に生きるより所とするものは何なのだろう?
絶望した人間にとって、もはやいかなる教えも、知識も、生を支える励みにはならないのかもしれない。
あの青年がブーバーのもとを訪れたのは、おそらく教えを乞うためではなかった。
「こんな人が世の中にいるのだ。
それだけでも、人生には生きる意味がある!」
そう思える人を求めていたに違いない。

絶望した人を救うのは、観念的な教えではなく、生きて現に存在する人間、すなわち「現存する人間」ではないのか?
自分のことを、その全身全霊の誠意と真心で受け入れてくれる存在。
それだけが、絶望した人間に生きる意味を与え、生きる意欲を賦活(ふかつ)させてくれるのではないのか?
それなのに、あの神秘体験の陶酔のため、青年のそんな動機を見抜けず、人格と誠意のすべてをもって、真剣に、青年と向き合わなかった。
そのために青年は、「
世の中なんて、生きるに値するものなんか何もないのだ」
と絶望を深め、生命を捨てるために戦場に向かい、そして戦死してしまったに違いない・・・。

この出来事は、ブーバーにとって生涯にわたる悔恨(かいこん)と心の傷となった。
神秘体験という特殊な状況の中で「一体性」を得たとしても、現実にひとりの人間と一体性を実現できないのであれば、それどころか、それを妨げてしまうのであれば、神秘体験に何の意味があるというのだろう。
そんなものは、単なる自己満足にすぎない。
そんなものに浸ることが、果たして神の望むことだというのか?

「それ以来、例外であり、離脱であり、脱出であり、脱我に他ならぬ『宗教的なもの』を放棄した。
あるいは、それが私を見捨てた。
私は今や、そこからは決して離脱し得ぬ、日常性以外の何ものももたない。
神秘は、もはや開示されない。
〔真の神秘は〕遠ざかったというよりも、むしろここに、いっさいがありのままに生起するところに宿っているのだ」

地上生活を否定し、自己の内的世界にこもるような神秘主義を、ブーバーは否定してきた。
けれども、それはまだ徹底されていなかった。
観念的でしかなかったのだ。
ところが戦争の悲惨さを肌で感じ、ひとりの青年を死に追いやってしまった(と実感した)ことで、真に目が覚めたのである。
あらためて、真の宗教生活とは何であるのかを。

「宗教とは、常に対話の可能性をはらんだ、単純素朴なる生活のすべてである。
この日常的な生活の場こそ、宗教がその最高の形を開花させる場所である。
君が祈りを捧げつつも地上の生活から離れず、あるいは突然、神に呼びかけられたとしても、死すべき生を生き、離脱せずに、すでに与えられている生活に気持ちをとどめているならば、君は気まぐれな満足に溺れることなく、人と人とを結ぶ中核となるであろう」

―――――

知識を探りながら相手に語るのはやめよ。
常に真っ白な気持ちで語りかけよ。

相手の意見を否定するのはかまわない。
だが、相手の存在を否定してはならない。

相手の存在を、あたたかいまなざしで受け入れながら語れ。

人が絶望するのは、人間が信じられなくなったときである。
絶望した人間を支えてあげるために、専門的な知識も巧みな弁舌も必要はない。
ただ全身全霊の誠意と真心をもって向き合い、あなたという人間を信じてもらいさえすればいい。

―――――

苦しみを受け入れる

「苦しみが訪れても、神をたたえ感謝して、幸福が訪れたかのような喜びをもって受け入れるべきである・・・」
先人たちのこの言葉をどう理解したらいいのか、ラビ・シュメルケの兄弟が、メスリッチュの説教師に尋ねた。
説教師はラビ・スツシャのもとへ行くように告げた。
ラビ・スッシャのもとに行くと、彼は笑っていった。
「私より他の人の所に行った方がいいよ。
私は苦しみなんて経験しておらんからね」
けれども兄弟たちは、彼が貧困と苦難の人生を送ってきたことをよく知っていた。
そのとき兄弟たちは、言葉の意味を理解したのだった。
すなわち、苦しみは愛をもって受け入れるべきなのだということを。
愛は、苦しみさえも喜びに変える。
愛する者のためなら苦労も苦労とならないように。


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

人の欠点を改めるには、自分の欠点を改めればよい。相手は欠点を改めることを学ぶだろうから。



人の欠点を改めるには、自分の欠点を改めればよい。
相手は欠点を改めることを学ぶだろうから。
――ブーバーに理想社会の本質を教えた社会運動家ランダウアー――

戦争賛美のあやまちを犯したブーバー

第一次大戦が始まる前、ドイツ帝国は、他の西欧諸国と比べて遅れをとっていた資本主義経済の発展を急ピッチで進めていた。
そのため、一部の大企業による独占や集中が社会を支配するようになった。
その結果、国や一握りの資本家は富むが、国民の大半が貧しくなるという独占資本主義社会の矛盾が露呈し、苛酷な労働、低賃金、失業、貧困、およびそれに起因する道徳的腐敗が社会をおおうようになった。

この点ではイギリスやフランスも同様だったが、これらの国は植民地の拡大によって得た利益により、国民の不満を押さえていたのである。
ところが、植民地政策の面でも遅れをとっていたドイツは、植民地の再分配を各国に主張し、影響力をもつために軍備の拡大に進んでいった。
これがますます国民に苛酷な負担を課すことになり、諸外国の反発も招いて、ついに第一次世界大戦が勃発してしまったのである。

ブーバーは、海の方から聞こえる大砲の音で目を覚ましたと日記に書いている。
幸い、彼の住居にまで戦火は及ばなかったものの、世界中の国の人々が殺し合うという残酷なニュースが伝わるにつれ、観念的な哲学世界から、この現実に目を向けなければならなくなっていった。
自ら『ダニエル』で書いたように、恐怖と絶望、不条理と波乱に満ちた苛酷な現実社会を受け入れなければならなくなったのである。

ところが、そのときのブーバーは、実に不可解な言動を始めるようになる。
この戦争に、奇妙な正当性を与えたのだ。
すなわち、この戦いは、人類がよりよい方向へ進んでいくために必要なプロセスであり「歴史的に必然な運動」と解釈したのである。

具体的には、この運動はドイツとヨーロッパを真の共同体にし、東欧のユダヤ人の状況を改善するとした。
ひとことでいえば、この戦争は「必要悪」だと主張したわけだ。

「私たちは、最近の恐ろしい出来事や苦難〔戦争〕を喜ばなければならない。
それは恐るべきものだが、新しき誕生という恩寵なのだ。
戦争を非難している者も、〈運動〉のうなりに耳をふさぐことはできない。
私たちの理想は、〈運動〉の目的を成就させることである」
戦争賛美と受け取られても仕方がない文面である。
『ダニエル』で語った「聖なる不安定に飛び込め!」という教えを自ら曲解し、またハシディズムの「宗教の本質は言葉よりも献身である」
という教えを歪ませて、戦争の犠牲になることが「神への献身」だとしてしまったのだ。

当時、知人に宛てた次のような手紙も残されている。
「私たちユダヤ人が、この運動の意味に気づくとき、”力によってではなく精神によって”という古いモットーを、私たちは必要としない。
新たな生活が始まる!」
この言葉がブーバーの口から出たとは、信じられないことである。

彼のモットーは”力ではなく精神によって”ではなかったか?
これでは、シオニズムにおいてヘルツルが取った道と同じ歩みである。
戦争を防ぐことに深い関心を寄せ、精神的な教えを土台に活動をしてきたはずのブーバーが、精神よりも力の崇拝者となり、戦争の賛美者に変わってしまったのだ。

完全な人間はいない。
たとえいかなる偉人や聖者であっても。
ブーバーもまた、さまざまな欠点や弱点をもち、誤りも犯したひとりの人間だった。
このときの彼は、自らいう「狭い尾根」を踏み外していた。

けれども、目を覚まさせてくれた人物がいた。
親友、グスタフ・ランダウアーである。


キリストのように愛を説いてまわる男

ランダウアーとの最初の出会いは、妻パウラと同じく、ブーバーが二十一歳のときであった。
当時、学生だったブーバーが、その専攻科目を科学と美術史からキリスト教神秘主義に切り替えたのも、ランダウアーの勧めによるものといわれる。
ランダウアーは、そのとき二十九歳で、ドイツの神秘家マイスター・エックハルトに関する本を出版していた。
ブーバーにとって当時の彼は、ひとりの神秘主義者にすぎなかった。

ところが世界大戦の最中に再会したランダウアーは、新しい共同体の建設に向け、組織を指揮する社会主義者となっていた。
ブーバーがランダウアーから受けた影響は、その後の思想形成の方向を大きく左右したといってもよい。

いったい、ランダウアーとは、いかなる人物だったのか?
社会改草に情熱を注いだという点では、マルクスが思い出されるかもしれない。
しかしランダウアーのやり方はマルクスと正反対であった。
そこで、ランダウアーの思想を理解するために、マルクスの考え方を少し振り返ってみたい。

カール・マルクス(1818~1883)は、ドイツに生まれ、後にロンドンに亡命したユダヤ人経済学者である。
マルクスによれば、少数の独占資本家による労働者の私有化により、本来なら労働者の手によって生産され、労働者に還元されるべき生産物が搾取されているという。
そのために生きがいと自己実現の機会であるべき労働が苦役となり、労働者は資本家によって、単なる生産物を生み出す”カネ(賃金)で買えるモノ”として扱われ、非人間的な生活を強いられているとした。

そこで、人間らしい生活を取り戻すため、私有化されていた生産手段を国が管理して、富の独占や搾取、階級差別を生まない「社会主義国家」を建設するべきだと説いたのである。
こうした理想国家の樹立のため、資本主義社会を打倒することが労働者階級の使命であり、歴史的な必然であると訴えた。
マルクスが最終的にめざしていたのは平和な国家であったが、それを実現するための暴力には肯定的であった。

マルクスの考えは、いうまでもなく唯物論を土台とする。
「人間の意識がその存在を規定するのではなく、人間の社会的存在がその意識を規定する」として、個人よりも組織的な運動や権力的闘争を手段とみなしている。

さて、こうしたマルクスの考えに対し、ランダウアーは、逆の立場を唱えた。
まず、資本家対労働者という、組織的な力関係の構図から社会をとらえるのではなく、あくまでも個人ひとりひとりの自主的な心情を改革の力点においた。
簡単にいえば、世の中を人間らしくするのは、個人の内面から湧き上がる正義感と隣人愛であるとしたのだ。

ランダウアーのめざす社会主義とは、マルクスのように強制的に社会構造を規定し、そのマス目の中に人間を押し込めて完成されるものではなく、あくまでも各人を主体とした隣人愛の実践による結果として生まれるものであった。
したがって、暴力的な手段は断固として否定された。

そのかわり、ランダウアーは民衆と交わり、「人間愛への回帰」を説いてまわったのである。愛
を説いてまわるといえば、イエス・キリストが連想されるが、ランダウアーの容貌や性格もイエスそっくりだったという。
ある友人は次のように描写している。
「痩身で、胸幅が狭く、身長は6フィート(約182センチ)を越えていた。
真っ黒な髪は肩まで垂れ下がり、豊かな黒いあごひげが、長くて青白く痩せこけている顔をふちどっていた。
しばしば長いケープと時代遅れの古い帽子を身に着け、通りを大股で歩いた」

性格については「親切で思慮深く、人間味のある男で、暴力的行動にも学説への狂信にも傾くことはなかった。
非常に穏やかな優しい声で、たちまち信頼と愛情を勝ち得た。
そのひとつひとつの言葉はすべて魂から発せられ、疑う余地のない誠実さがにじみ出ていた」

もっとも、非凡な人物にありがちな二面性も持ち合わせていたようで、次のように評価する人もいた。
「彼は忍耐強くも、寛大でもなく、恐ろしく頑固な自尊心がときおり顔を出した。
私生活はほとんど孤独で、経済的な貧しさから抜け出すことができなかった」

青年時代、自由について演説したとして11ヵ月投獄され、殺人の罪を着せられた無実の男を救うために不服を申し立て、そのために6ヵ月の刑務所暮らしをしたこともあった。
財産も定職もなく、友人の援助に頼りながら、理想社会の実現に邁進していたのである。


親友の怒りがブーバーを改心させる

ランダウアーもフォルテ・クライスのメンバーだったが、戦争を断固として拒否する者と、愛国心ゆえにドイツ国家主義を唱える者とに意見が分かれてしまった。
そのためブーバーはランダウアーと共に脱会し、その後組織もほとんど機能を停止してしまう。

そして、ブーバーは同志たちを集め、戦争のさなかにいるユダヤ民族の活動を支援する組織「ユダヤ民族委員会」を創設。
「デア・ユーデ(ユダヤ人)』と題する機関誌の発行を始めた。
この雑誌は以後十年もの間、ドイツ国内はもちろん、世界中に散らばっているユダヤ人の民族的な統一の支えとなり、シオニズム運動の促進に大きく貢献する権威ある雑誌になった。

ところが、この創刊号の社説と、当時に書かれたブーバーの著作の一部に、ランダウアーを激怒させる文章があった。
前述したように、戦争を「運動」として賛美する論調である。
1916年の5月、ランダウアーはブーバーを訪れ、烈火のごとき怒りをぶつけた。
「ドイツがこの数十年の間、どれほど征服による植民地化を追求してきたかに触れることなく、君が無条件でドイツを救いの担い手として選び出すのを見ると、私は怒りで腹の中が煮えくり返る。
あれは戦争政治じゃないか!
この戦争で流されたすべての血を憐れむ。
そして、君がこの戦争で道に迷ってしまったことを遺憾に思う!」

ところが、それから2ヵ月後、2人は和解したのである。
ランダウアーはブーバーの雑誌を高く評価し、賛同を表明している。
二人の間に、どのような対話が行われたのだろうか?

詳細は不明だが、結論的には、ブーバーは自らのあやまちに目覚めたのだった。
事実、その年の暮れには、戦争を批判する記事を書いている。
そして翌年の十月には、戦争のみならず、国内で高まりつつある反ユダヤ主義を生み出したドイツ国家主義に対し、厳しい批判を始めているのだ。

1916年、ブーバー一家はベルリンからハイデルベルク近郊の、花におおわれた静かな村・ヘッベンハイムに引っ越した。
「第一次世界大戦が始まって少しすると、当時すでに私は人類の危機の始まりだと感じていたのだが、ベルリンで暮らすことがひどく辛くなった」
38歳になった彼はそういっている。
近所の人によれば、当時のブーバーはひどく人見知りする人物で、ほとんどしゃべらず、毎晩、家の大きな窓から、両手で頭をかかえ頬づえをつき、遅くまで読書に没頭している姿が見えたという。


人間を罪のあやまちから救いあげる秘密

それにしても、ランダウアーは、どうやってブーバーを改心させたのだろうか?
真相は不明であるとはいえ、ハシディズム賢者のひとり、ズロチョフの説教師が残した言葉が、そのためのヒントになるかもしれない。
「君がある罪を見るか、または罪について聞くようなことがあったら、この罪に対する君の持ち分を探し出すがよい。
そして、行いを正すように努めるがよい。
そうすれば、その悪人も悔い改めるだろう。
君は彼を、統一の精神にのっとって、共に抱擁しさえすればよいのだ。
なぜなら、万人はひとりの人間なのだから」

ここに、人間を罪のあやまちから救いあげる秘密が示されている。
これまで考察してきたように、人間は全世界を内包するアダム・カドモン(神の似姿。神人)を共有している。
したがって、あなたの中に私が、私の中にあなたが存在しているのであり、もしもあなたが罪を犯したなら、その罪は私の中にも存在するということになる。
そして、もしも私が、自分の中にある罪を自覚し、改めたならば、あなたの中に「罪を改める私」が存在することになるだろう。
そして、あなたと私が〈我―汝〉の関係で結ばれてひとつになるなら、私が罪を改めることにより、あなたも罪を改めるようになるだろう。

すなわち、もしも罪ある人を改心させたいと願うなら、彼を責めるばかりでなく、彼の存在のすべてを愛しつつ、自分の中にある彼の罪を自覚し、自分の罪として、それを改めるように努力すればいいと、ハシディズムの賢者は語っているわけだ。
そうすれば、やがて彼は改心に目覚めるであろうと。

―――――

人は自分の中にある欠点を相手の中に見いだす。

相手の欠点を改めたいと思うなら、自分の欠点を改めるようにすればよい。
そうすれば、相手も欠点を改めるようになるだろう。


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

真の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかでわかる




真の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかでわかる
――人間を孤独にし社会を殺伐とさせる〈我―それ〉の関係――

〈我―それ〉の病に冒された人間はどうなるか?

自分のために相手を利用する関係を、ブーバーは〈我―それ〉の関係と呼んだ。
こうした関係での相手とは、自分に従属させるモノである。
モノは「あなた(汝)」とは呼ばれない。
モノは「それ」と呼ばれる。
〈我―それ〉の関係とは、打算に基づく取引の関係である。

こうした関係では、誰かと出会ったとき、表面的には友好的な握手を交わしながらも、内心ではこんなことを(明確に、あるいは漠然と)考えている。
「この人は敵か味方か?
つき合うことで利益があるのか?
仕事は何か?
どんな会社に勤め、肩書は何で、学歴や財産や権力はどれほどなのか?
才能や特技はあるのか?
のプライドを満たしてくれるのか?
何であれ、この人とつき合って得があるのか?・・・」

そうして利用価値がないと判断すれば関係を結ぼうとせず、あると判断すればアプローチを始める。
自分の得にならない者、自分と意見を同じくしない者、自分より劣った者には軽蔑のまなざしを向け、あるいは威張り、あるいは無視をする。
自分の得になる者、自分より優秀な者には娼びを売り、卑屈になり、あるいは嫉妬の念を燃やす。

「その人の本当の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかを見ればわかる」

こんな箴言(しんげん)があるが、〈我―それ〉の病に冒されると、心の触れ合いや、両者だけに通じる合図などは失われ、真の対話や交流は麻痺してしまう。
打算と腹の探り合いと、偽りの友愛しか持ち得ず、真の意味で関係と呼べるものが、ことごとく死に絶えてしまうのだ。


取引の家庭で育てられた子供は、自分を愛せない人間に成長する

本来なら、取引や打算は、ビジネスの世界でのみ行われるべきものである。
その限りでは問題はない。
基本的にビジネスは取引の土壌で成長するのであり、誰もがそのことを納得して関わっているからだ。

ところが、取引や打算とは無縁であるはずの領域、その最たる聖域である家庭が、〈我―それ〉の関係に侵されつつあるところに、今日の社会をおおっている悲劇の病根がある。
病状が進行した家庭になると、愛情の交わりなどはなく、あるのはまさに「ビジネス」なのだ。

子育ては「投資」である。
子供は、老後の世話をさせるため、
家業を継がせるため、
体裁のいい学校に入れて自分の虚栄心を満たすための「道具」でしかない。

そもそも道具の価値とは、それがもつ「機能」にある。
ハサミに価値があるのは切れるからで、その機能が失われれば価値はなくなり、捨てられて別物に交換されてしまう。

同じように、〈我―それ〉が支配する家庭では、親が愛するのは子供ではなく、子供の所有する「機能」にすぎない。
機能こそが、自分に利益をもたらしてくれる唯一の価値なのだ。
親はイミテーションの愛を取引の材料にし、次のように言って「商談」をもちかける。
「優秀になりなさい。
その報酬として、愛をあげましょう」

子供はそんな「愛」を手に入れるために、必死になって「機能」を磨こうとする。
テストで満点を取って誉められようとする。
親の命令にひたすら服従する「よい子」になろうとする。
取引に必要な機能を養うために、緊張に満ちた苦しい努力を続けていくのだ。

そんなことが長く続けられると、子供はいつしか、機能こそが自分(人間)の本質なのだと思い込んでしまう。
そして、機能が優秀でない人間は、愛されるに値しないという信念のようなものが根を張っていく。
その結果、ありのままの自分に価値が感じられない人間に成長してしまうのだ。
ありのままの自分を愛せない人間になってしまうのである。

同じ理由で、ありのままの他者を愛することもできない。
自分を喜ばせる機能をもった人しか愛せない。
言い方をかえれば、機能さえ優秀なら、誰であろうとかまわない。
大切なのは道具としての機能であって、相手の存在そのものではないからだ。


〈我―それ〉の関係がもたらす現代社会の悲劇

しかし、人間は万能ではない。
いつも優秀でいることは無理である。
失敗や挫折をすることもある。
ところが、機能が人間の本質だと思っている子供にとって、失敗や挫折は「存在の否定」そのものに他ならない。
その結果、自分には生きる(存在する)価値も意味もないと絶望してしまうのだ。

あるいは、常に優秀であることは現実に不可能だと悟る子供もいる。
そうした子供は、優秀になるよりも、「優秀に見せかける」ことに力を注ぐようになる。
その結果、他者のすべてはライバルとなり敵となってしまう。
競争心を燃やし、少しでも優秀に見せかけるため、権力や名声、金やブランドに貧欲となっていくのだ。

けれども、そんな努力もいずれ疲れ果ててしまう。
そして結局は、終わりのない欠乏感と、優秀な人間への嫉妬や憎悪に心を蝕まれ、自己の空しさに直面せざるを得なくなるのだ。

こうした子供たちが育ち、大人になって、社会を担っていくのである。
そんな社会では、誰かと向き合っても、相手の瞳に映し出されるのは自分の姿ではない。
自分の肩書、自分のお金、自分のコネ、自分の機能にすぎない。
つき合って面白くないと思われたら一方的に関係は破棄される。
まるでチャンネルを切り替えるように。
他者は、自分を喜ばせる「番組」でしかないのだ。

あらゆる人間関係は疑似の体験でしかない。
恋も友情も芝居にすぎない。
真の触れ合いも交流もない。
集団の中に身をおいても、各々は心の中に引きこもり、隔絶された人生を生きていくのである。

要するに、孤独なのである。
この世界に生きる私たちは・・・。
〈我|それ〉の関係が作り出す世界とは、孤独の世界なのである。

そんな孤独の空しさが、過食や拒食といった心身症、鬱病や自殺などを招き、麻薬やアルコール、性犯罪や暴力へと駆り立て、さまざまな非行に走らせ、狂信的なカルト宗教に溺れさせてしまう大きな原因のひとつになっているのだ。
これが、現代社会の抱える病なのである。

人間が病んでしまうのは、結局のところ、孤独という「関係性の病」に冒されているからに他ならない。
私たちの人格は、他者との関係を通して築かれる。
関係性が適切でなければ、人は病み、社会も病んでしまうのだ。
現代社会の病は、それゆえ「症状」にすぎない。
真の病因は、私とあなたの間が、〈我―それ〉の関係性、すなわち孤独に病んでいることなのである。

しかも、この病巣は増殖する。
モノ扱いされた人は、他の人もモノ扱いする。
その連鎖は次々に拡大し、愛を持ち得ない孤独な人間が次々と世の中に生み出されていく。
世界はますます殺伐となり、人が死んでも「モノが壊れた」くらいの感覚しかなくなり、暴力と戦争が際限なく繰り返され、ついには個人も国家も、次のように叫ぶのだ。

「自分の得にならない者、自分と意見を同じくしない者、自分より劣った者なんか、滅ぼしてしまえばいい!」


どうすれば孤独から5解放されるのか?

こうした悲劇の連鎖に、終止符を打つ道はあるのだろうか?
あるとすれば、〈我―それ〉に対する解毒剤を、家庭はもちろんのこと、あらゆる人間関係の中に注ぎ込むしかない。
すなわち、〈我―汝〉の関係を取り戻すことである。

換言すれば、孤独の中に愛を復活させることである。
モノになりきったら、孤独さえも感じなくなる。
モノは病むことさえなく、〈我―それ〉の社会でそつなく生きていく。
真の触れ合いがもたらす喜びも知らず、ただ機械のように。

孤独を感じるのは、たとえいかに病んでいようと(病んでいるからこそ)、まだ人間であることの証ともいえる。
かすかでも、まだ愛の見える眼が、孤独をも見てしまうのだ。

けれども、闇を見るためにではなく、光を見るためにこそ眼は備わっている。
眼をもっ私たちは、光の中で生きるように創られた、ということなのだ。
それが人間の本来の姿なのである。
私たちは、〈我―汝〉の光の中で生きなければならない。
いったいどのよ、つにして?

ブーバーはいう。
私たち自身が光源となり、お互いを照らし合い、世界を照らすことによって・・・。


利害関係のない人や立場が下の人に対しても、誠実さを貫く本物の人格を磨くこと。
いくらごまかしても、虚実の人格はすぐに見抜かれ、幸せな出会いをもたらすことはない。

自分の利益を得るための道具として、相手を見てはならない。
ますは心を開き、相手の全存在をありのままに受け止められる大きな人間になること。


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

荒々しい波に乗ったサーファーほど遠くまで進むように、荒々しい運命に乗った人ほど進歩していく



荒々しい波に乗ったサーファーほど遠くまで進むように、荒々しい運命に乗った人ほど進歩していく。
――神秘主義と老子の教え――

私は神秘主義者ではない。しかし・・・

シオニズム運動に失意を感じたブーバーは、あらためて精神性こそが重要なのだと感じ、それ以後、36歳から5年もの間、いっさいの政治的な活動や執筆、講演などから身を引いて、隠遁的な学究生活に入ることになる。
ブーバーが求めていたのは、形式的な宗教儀式や神学などではなく、あくまでも生きた神との直接的な出会いであった。
そこで再び学び始めたのが神秘主義である。
神との直接的な交流をめざす道、それが神秘主義だからである。

この成果は31歳のとき、古今東西の神秘家40人ほどの体験を収集した『忘我の告白」という本で実を結ぶことになった。
「忘我〔エクスタシス〕とは根源的なものであり、神の内部に入ってゆくことであり、陶酔であり、神によって満たされた状態である」
神秘家たちの中には、俗世を蔑視し、人との交わりをなるべく避け、ただひとり神に心を向ける者も少なくない。
しかし前述したように、現実世界から遊離したそのような姿勢に対して、ブーバーは否定的だった。
「私は神秘主義者ではない。
なぜなら〔神秘主義が認めない〕理性や現実世界を、私は認めているから」

とはいえ、ブーバーは「神秘」そのものを否定したわけではない。
神秘を否定したら、残るものといえばすべてが明白な因果律(メカニズム)ということになる。
神も人間も機械になってしまう。
時間を超えた永遠なども存在しないことになる。

しかし神は、時間を超えた永遠性であり、神の分身である人間の本質も永遠なのであって、それゆえに因果律を超えた存在、つまりは神秘的な存在に他ならない。

ブーバーが説く〈我―汝〉の交わりも、神秘(永遠性)の領域から考察しなければ、その真意を説明することはできない。
〈我―汝〉の本質は、理性も因果律も超えているからだ。

それでもなお、〈我―汝〉が現出する舞台は、理性と因果律に支配された現実世界なのだ。
神秘主義は現実世界を軽視する傾向にあるが、ブーバーは重視したのである。

実際、ハシディズムも神秘主義のひとつであるが、時間軸上の因果律に支配された現実世界から逃避するのではなく、逆に、その世界に時間を超えた永遠性をもたらそうとするポジティブな姿勢をもっている。
永遠である神の理念を地上に現出させることで、つまりは地上を「聖別」する(神聖なものとする)ことで、因果律(宿命)を打ち破ろうとする教えなのである。

「ハシディズムは、時間を聖別する唯一の神秘主義である」
要するに、ブーバーは、現実に立脚した神秘主義なら、それを評価したわけだ。


真の対話がもたらす「完全な慰め」

神秘主義の視点から〈我―汝〉の関係を考察すると、何が見えてくるだろうか?
そのために、『忘我の告白』に収められている、アッシジの聖フランチェスコの同志であった神秘家エギディウス(1190頃~1262)の逸話を紹介してみたい。

聖地巡礼の途中、当時のフランス王ルイ9世は、その評判を聞いてエギディウス修道士を訪問した。
ただし自分の身分を知られないよう、貧しい巡礼者の姿で、ごくわずかな従者だけを連れていったという。
そして修道院の門前で面会を求めたところ、エギディウスは霊感によって誰がきたかを悟った。
二人は倒れかかるようにして抱擁を交わし、前から知っていたかのように、ひざまずきながら深い尊敬の念のこもった口づけをした。
そして最初から最後まで、お互いにひとことも口をきくことなく、完全に沈黙したまま別れたという。

あとで従者が、なぜ言葉をおかけしなかったのかと尋ねると、エギディウスはこう答えた。
「私たちが抱擁を交わすやいなや、神の智の光が私にあの人の心を、あの人に私の心を明らかにしたからです。
そして永遠の鏡の中に立ちながら私たちは、あの人が私にいおうと思っていたこと、私があの人にいおうと思っていたことを、完全な慰めと共に感得したのです。
もしも私たちが心の中で感じたことを声に響かせていい表そうとしたならば、二人の話は慰めになるよりも憂欝なものになってしまったことでしょう」

二人の間に、いったい何が起こったというのだろうか?
「永遠の鏡」という言葉で表現されているように、二人は自らのアダム・カドモン(神の分身)の中に、相手の姿をとらえたのである。
〈我〉と〈汝〉が出会うとき、お互いのアダム・カドモンが共鳴するのだ。
共鳴とは、自分のことを相手の側から、相手のことを自分の側から感じること、つまり「包摂」に他ならない。
二人の意識が同一の振動数で震えるのだ。
両者が独自性を保ったまま、振動的にひとつになるわけだ。

それは人格そのものの共鳴であり、触れ合いであり、お互いを認め合っているという確信である。

ブーバーは次のように説明する。
「私は相手のことを志向している。
彼の方に私のある部分が派遣される。
それは純粋な振動である。
それが相手のもとにとどまり、私の言葉を受け入れる働きに参加する。
つまり私は、自分の思いを向ける相手を、自分の中に包み込んでいるのである」

これこそが「真の対話」であり、出会いであり、交流であるとブーバーはいう。
アダム・カドモンの振動は、神の振動そのものである。
それゆえに二人は神とも共鳴し、触れ合い、認め合い、本質的に結ばれるのだ。

神との交わりを通して、「畏敬の念」が、他者との交わりを通して「魂の歓び」が湧き上がってくるのである。

すなわち、孤独の唯一の解毒剤である「愛の和音」が鳴り響くのだ。
こうした出会いによって、二人は「完全な慰め」を得たのである。

いかなる人も、その心の中に、愛に共鳴する弦をもっている。
真の交わりとは、そんなお互いの弦を共鳴させ合うことに他ならない。
神の属性を共鳴させ、両者の間に神の息吹を現出させること、他者との交わりと神との交わりをひとつにさせることなのである。

「人間と人間の関係は、本来、人間と神の関係の比輪である」


真理を体得した人は、陰と陽を調和的に和合させて生きる

ところで、ブーバーが神秘主義とみなした思想の中で、ことさら彼の心をとらえ、〈我―汝〉の思想を構築するうえで重要な柱になったのが、中国の老子による「道」(タオ)であった。

そして『道の教え』と題し、『忘我の告白』のあくる年に自らの持論を展開させている。
道とは、ご存じのように老子の教説の根本理念を示した言葉で、「天地の理法」、「根源的秩序」といった意味をもつが、そうした認識をはるかに超えた表現不能のものとされる。
道は、理性や知識、言葉として学ぶことはできない。

あえていえば、それは顕在意識で学ぶのではなく、無意識で学ぶのである。

無意識で学ばれたことは、学んだ内容は自覚されないし、表現もされないが、その行動に変化が現れる。
学んだ真理を、生きざまを通して表現するようになるのだ。
したがって、
「人間は道を知ることはできない。
ただ道に生きるだけである」
というのが老子の考え方である。

ブーバーは、これこそが神秘主義における実践面での本質と考え、深く心をとらえられたのである。
ならば、道に生きるとは、具体的にどのようなことなのだろうか?

まずは、道について、もう少し考察を深めてみよう。
道は、陰と陽という、二つの根源的な要素で成り立っている。
光と闇、創造と破壊、生と死、善と悪、増減、熱冷、強弱、尊卑、男女といったように。

これら陰と陽は、静止した状態で止まっているのではなく、振り子のように絶え間なく往還し、交替している。
私たちの周囲を見渡しても、昼と夜、夏と冬は交互にやってくるし、幸運が訪れれば不運も訪れる。
世界は、このようにダイナミックな対極的変化の波によって構成されている。
決して一方だけの状態で固定されてはいない。
どちらかに片寄れば、やがて反対の方へ揺れ戻す動きが生まれる。
宇宙には、陰陽のバランスを保とうとする働きが支配しているのだ。

バランスを取り、対極的な要素である陰と陽を調和的に和合させる運動、それが道である。
その運動が陰陽を交合させ、森羅万象を創造していく。
天地の交合によって世界が創造され、男女の交合によって子孫が生まれていくように。
世界も人も、道の働きで生まれたわけだ。

要するに、道とは、創造のための運動なのである。

逆にいえば、創造のための運動を可能にするために、地上の事物が両極的になっているともいえる。
男と女に分かれていなければ、恋愛という運動は生まれず、結婚という交合もなく、出産という創造も行われない。
創造するためには、異質な要素がダイナミックに絡み合うことが必要なのだ。
似たような要素が集まっても創造性は生まれない。

芸術を例にあげれば、類似した色彩だけを使い、変化の乏しい構図の絵画はパッとせず、一般に創造的とはいえない。
リズムや音程の変化が乏しい音楽なども単調で、創造的とはいえない。

こうした作品には生命力が感じられないだろう。
傾向としていえば、より振幅の大きい対極的な要素を統合させた方が、より創造的で、より生き生きとした秩序が生まれる。
陽は陽らしく、陰は陰らしい方が、それだけ力強い生命のダイナミズムが生まれる可能性が出てくるわけだ。

したがって、道に生きるとは、可能な限り両極性を広げながらも、どちらかに偏って固定するのではなく、両者のバランスを保ち、両者を統合させるように生きることなのである。


無為になったとき人は全体から世界を見る

道に生きることを、老子は「無為」と呼んだ。ブーバーは次のように説明する。
「これは全存在をあげての人間の活動であり、〈無為〉ともいわれる。
かかる行為においては、もはや個々の存在は断片として存在せず、人間は部分的なもので動かされず、それゆえ、彼はこの世で何ものにも煩わされることはなくなる。
ここにおいて人間は全体に包まれ、全体の中で安んじて活動し、人間は活動する全体的存在となる」

無為の人は、道(宇宙法則)とひとつに結ばれているがゆえに、全体の視野から物事を見るようになる。
そのため、主体的な行為が求められる状況におかれても、こうは問わなくなる。
「今ここで、何を為すべきか?」
彼は次のように問いかけるだろう。
「今ここで、何が為されるべきか?」

微妙な違いであるが、前者の問いは「自分」が主体となっているのに対し、後者は「世界」が主体となっている。
道の人はいう。
「自分が行うのではない。
偉大なる英知である全体が〔自分を通して〕行うのだ」と。
だから何の心配もなく、煩わされることを知らない。

道の力とひとつになっているので、「我意」で何かをしようとしなくても、いや、そうしないからこそ、大きな力を発揮し、世界に創造的な影響力をもたらすことができるのである。

「道に身をゆだねることは、創造を新たにすることである。
自己を押し付ける者のもつ力はちっぽけで見えすいた力をもっている。
自己を押し付けない者は、大きく底知れない力をもつ。
為さない者こそが働くのである」


宇宙の偉大な力を自分のものにする

たとえるなら、道の人とは、波に乗って進むサーファーのようなものである。
波が高ければ高いほど、荒々しく不安定だが、それにうまく乗れたサーファーは遠くまで運ばれていく。
道に生きる人も同じように、荒々しく不安定な運命の高波に身を投げ入れ、バランスと統一性を保ちながら波に乗って生きる。

ブーバーは次のように語る。
「道の完全な啓示である人間は、もっとも極端な変化をもっとも純粋な統一性と結合させている人間である。
二つの生活様式がある。
ひとつは単にのんびり日を過ごし、疲弊してやがて消滅するものであり、今ひとつは、果てしない遍歴と精神におけるその統一性である」

サーファーは決して波に逆らわない。
波の動きと同調し、その運動を自らに取り入れて前進している。
一見すると、何もしていないように見える。
実際、ある意味では何もしていない。
サーファーを前に押し出すのは波であって、サーファー自身の力によるのではないからだ。
彼はただ、波と一体になっているがゆえに、大きな前進の力を発揮するのである。

同じように、道に生きる人(無為に生きる人)も、自らを道にゆだねているので、その意味では何もしていない。
だが、道の力が自分を通して発揮されていく。
結果として、偉大な働きが自然と行われるのである。
彼の周囲に「創造的な現象」が起こるようになるのだ。
(世界の)創造、すなわち無為を通して、〈我―汝〉の出会いが起こるようになるのである。

―――――

いかなる人も愛に共鳴する弦をもっている。
愛だけがそれを振動させることができる。


あなたが愛するのではない。
愛が、あなたを通して愛するのだ。

歌手のように声をはりあげる愛もある。
聴衆のように沈黙して耳を傾ける愛もある。

真実の愛は、相手を「愛される人間」から「愛する人間」へと変えていく。

愛の達人は、自分が相手を愛しているのを、少しも気づかれすに愛することができる。


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

人生にひそむ最高の価値をつかむためには、危険に満ちた冒険に旅立たねばならない




人生にひそむ最高の価値をつかむためには、危険に満ちた冒険に旅立たねばならない
――「聖なる不安定」と「狭い尾根」――

ブーバー夫妻の悩み

ブーバー家の家事や育児は、ほとんど妻のパウラが取り仕切ったので、夫マルティンは研究に専念することができた。
しかしながら、子供との関係では少なからぬ悩みがあった。
二人の子供はともに十歳を過ぎていたが、長男ラファエルは父親に反抗的となった。
息子の立場からすれば、33歳にしてユダヤの指導者であり著名な哲学者の息子というのは、いろいろな点で重圧を感じさせるものだったのだろう。

サマーキャンプに参加したときなど、あまりにも大勢の人から「あのマルテイン・ブーバーの息子なのか?」と尋ねられるので、ついには嫌気がさし、大きな看板に「そうです」と書いて周囲を歩き回ったこともあったという。
かと思うと、急に家出をしてサーカス団に入ったり、高校を中退して軍隊に入るなど、ブーバーとパウラに心配と悩みの種を与え続けた。

一方、長女エーファの方は、兄ほど両親との関係は悪くなかった。
それでも当時の、次のような想い出を彼女自身が伝えている。
あるとき、ちょっとした秘密を母親に打ち明けたところ、母親がそれを他人に話してしまった。
そのことで大声で文句をいっていると、突然ブーバーが書斎から出てきて、いきなり平手打ちをくらわしたのである。
興奮が冷めてから、エーファは父親の書斎に入っていき抗議をした。
「言い分を聞く前にぶつのは間違っている!」
するとブーバーは、自分の非を認めて娘に謝り、今度まちがったことをしてもぶたないと約束したという。

ブーバーもパウラも、子供との接し方については、必ずしも上手とはいえない面があったようだ。
子供たちに関する苦悩を、ブーバーは受け入れなければならなかったのである。


神はもっともふさわしい時期に出会いの種を蒔く

前述したように、誰かと〈我―汝〉の出会いをもつときには、必ず同時に神との出会いがそこに生じている。
〈我―汝〉の関係は二重的なのである。
どんなに親密な関係であっても、他者とだけ結ばれた〈我―汝〉の関係は存在しない。
必ず神との関係が成立している。
逆にいえば、神と出会う人であれば、人間にも真の意味で必ず出会っているということである。

「もし人が本質的に人間と交わらないならば、実際、本質的に神と交わり得ない」
また、神は因果律を超えた永遠の存在であるから、そんな神との関係を伴った〈我―汝〉の出会いもまた、因果律を超えていることになる。

このことは、何を意味しているのだろうか?
それは、〈我―汝〉の出会いをもたらすための、いかなる「方法」も存在しない、ということである。
なぜなら、方法というものは因果律を土台としているからだ。
目的とする結果を生み出すための原因を作り出す技術、それが「方法」だからである。

したがって、私たち人間には、〈我―汝〉の出会いを意図的に引き起こすことはできないのである。
何らかの方法を駆使して、それを操作することはできないのだ。

ブーバーによれば、〈我―汝〉の出会いは、世界創造の計画の一環として、神によって与えられる「恩恵」である。
努力してつかみ取るものではないというのだ。
私たちには、それがいつ、どのように訪れるのか、決してわからない。
ただ訪れるのを受け身で待つだけである。

かといって、ただ手をこまねいていればいい、というわけではない。
神が、出会いという種を蒔いてくれるのだとすれば、人間は、その種が芽を出せるように土壌を養っておかなければならない。
土壌が悪ければ、いくら種が蒔かれても不毛のままである。
神が蒔いてくれる出会いの種を、いつでも受け入れられる土壌にととのえておくことが、人間がするべき努力なのであり、それ以外にできることはない。

むしろ、それ以外に何もしてはいけない。
なぜなら、わざとらしく強引な我意は、〈我―汝〉の関係とはあいいれず、むしろその土壌を汚染してしまうからである。

すばらしい土壌ができたのを見計らって、神はもっともふさわしい季節に、もっともふさわしい出会いの種を蒔いてくれる。
それは人間の知恵では計り知ることのできない意味と目的をもっている。
その出会いの意味は、ずっと後になってわかったりする。
あるいは一生わからないかもしれない。
いずれにしても、人との出会いには、必ず神意が込められているのだ。

では、いつ訪れるかわからない神の種蒔きに備えて、私たちはどのように土壌をととのえておけばいいのだろうか?

「聖なる不安定」――これがブーバーの回答である。


世界は合理的で確実で安定しているという「夢」

この着想は、おそらく老子の思想から練り上げられたものであろう。
『道の教え』から三年後、35歳のときに書かれた『ダニエル』という作品で、この教えが発表されている。
この著作は、求道的な若者ダニエルが「方向、現実、意味、両極性、一体性」をテーマに友人と語り合うという内容の小説だが、ストーリー性はほとんどなく、むしろ対話形式による哲学書と呼ぶべきものである。
いったい、そこで説かれている「聖なる不安定」とは、何なのか?

すでに考察したように、神の愛は、母性愛と父性愛という両極をもっている。
愛ばかりでなく、この世界のあらゆる事物が両極的であることを、老子の思想から見てきた。
母性愛と父性愛の両方を呼び覚まし、統合することによって、私たちの愛が神の愛(真の愛)に近づいていくように、この世のあらゆる両極性を統合するべく生きることによって、人間は神に近づき、神と出会い、真実の姿を開花させていくのである。
真実の姿、すなわち神性を宿した生命の存在として、生き生きと、創造的になっていくのだ。

「矛盾する双方の命題を一身に担って生きなければならぬ。
それによって、この矛盾の命題は生きてひとつとなるのである」

とはいえ、人生が両極性で揺さぶられ、不安定になるのは、あまり愉快なことではない。
そうした人生は、確実性も保証もなく、先行き不透明で、混沌としているからだ。

私たちは、合理的で確実で安定した生活を望んでいる。
その否定である混沌状態は、非常に不安な気持ちにさせる。
そのため大多数の人は、波に乗ってサーフィンなどをするよりも、砂の上に寝転んで日光浴をしていた方がいい。
冒険はしたくないのである。

けれども、世界をありのままに見るならば、両極的で多様な価値観が交錯して不安定である、というのが現実なのだ。
にもかかわらず、そんな現実など受け入れたくはない。

「この世界は、今日も明日もあさっても、変わることなく生活を支え、困ったことは起きず、プライドもアイデンティティも守り続けてくれる・・・」と思いたい。

そこで、私たちは現実を否定しようとする。
一面的な価値観や信念だけに目を向けて、確固とした(ように見える)世界観を提示する慣習や伝統や思想、政治や宗教の指導者にすがったりする。
「世界は合理的で確実で安定している」という「夢」を見るために。

そうして自らを、両極的な矛盾を感じない固定的なシステムに組み入れてしまうのだ。

たとえば、そのような宗教は、何らかの教義や戒律や儀式を守りさえすれば必ず救われると保証してくれる形式(システム)で構築されていなければならない。
お金を入れれば確実に商品が出てくる自動販売機のように。
言葉を換えれば、それは因果律に支配された「方法」でなければならない。

信者たちは、まるで脅迫されるがごとく修行や信仰に打ち込み、あるいは多額の布施をする。
神という「自動販売機」を作動させるために。
そして「自分の宗教こそが唯一絶対に正しい」と主張し、それに権威をもたせようと大きな伽藍(がらん)を建築し、派手に宣伝して信者の獲得に狂奔する。

そのような世俗的権威を駆使して、ようやく自らの信仰に確信がもてるからだ。
信者たちは、これほど豪勢な教会にこれほど大勢の人が集まり、これほど厳格な儀式を行うのだから、神もそこにおられるに違いないと思えて安心する。
そうして神を所有した気持ちになる。

「人間は神を所有したいと熱望する。
時間と空間の限定のもとで神の所有を持続したいと願う。
生活のあらゆる点とあらゆる瞬間を保証するような完全な持続を望んでいる」


神は不安定な状況に生きる者と共にある

だが、神は決して人間の所有物にはなり得ない。
神は決して、人間が作り出したいかなる組織的なシステム、すなわち教会や組織、教義や戒律、儀式や魔術といったものでとらえられたり、呼び出すことはできない。
人間と取引したり、絢爛(けんらん)豪華な教会に心がよろめいてそこに住んだりはしない。

「これだけの儀式や祈りや修行をします。
そのかわり救ってください」という祈り、あるいは神社仏閣に行き賽銭箱に金を投げ込んで願い事を唱える行為は、信仰ではなくて商取引である。
そこで出会う「神」は、神の着ぐるみをまとった私たち自身の欲望にすぎない。

「人は、自分が所有欲と結び付いていることに目覚め、それから離れることによって救われるのであって、所有欲と結合したままで神に導かれることはあり得ない」
もちろんブーバーは、苦しいときに神に救いを求めることがいけないと主張しているわけではない。
交換条件をもちだして神と交わろうとし、神をコントロールしようとすることが間違いだと指摘しているのだ。

なぜなら、何であれコントロールするためには、そのためのシステムに対象となるものを組み込まなければならず、システムとは因果律の体系であり、要するにメカニズムだからである。
つまりメカニズムに組み込むことができるのは、同じメカニズム(機械)だけなのだ。
しかし、神は機械ではないし、因果律を超えているから、システムに組み込むことはできない。

要するに、システム化された宗教や信仰に、神は姿を現さないということなのだ。
「宗教について論じ、体系として所有し、人々から保証され、確信されて安定している宗教は、循環を停止した血液である。〔こうした〕宗教ほど、われわれから神の御顔を隠すものは他にはない」

神は、固定されたシステムにではなく、不安定で混沌とした両極的状況に現れるのだ。
宗教であれ何であれ、システム(安定した生活)に自らを組み込むと、生命は窒息してしまうのである。
生命は、両極的な要素を行き来するダイナミズムを本性とする。
生命は、混沌状態に身をおいてこそ、生き生きと活性化するのである。

それゆえ、不安定な状況に生きる者こそ、神と共にあるのだ。
神から見放されたと思うほどの辛い試練や苦難、波乱に満ちた人生を生きている者ほど、実は神が、隣に寄り添っているのであり、神の息吹が注ぎ込まれているのである。


真理に至る道「狭い尾根」とは何か?

こうした不安定な混沌状態に身をおくことが、〈我―汝〉の出会いを受け入れる土壌となる。
なぜなら、〈我―汝〉の出会いは神の恩恵なくして成就せず、その神は混沌状態を通して姿を現すからだ。
それゆえ、そこから神性が輝き出るという意味において、それは単なる不安定ではなく、「聖なる不安定」なのである。

”狭い尾根”――ブーバーは、聖なる不安定に生きる道をそう呼んだ。
尾根、つまり山の背にあたる道は、右を見ても左を見ても、深い谷底の急斜面がのぞいている。
少しでもどちらかにそれてしまったら、それきり転落してしまう険しい道である。
しかし神に出会い、真理の頂上に到達するには、右でも左でもない不安定な道を歩まなければならない。

「人間の決定的な宗教経験は、創造的エネルギーが何の矛盾対立もなく働くような領域で生ずるのではなく、禍と福、絶望と期待、破壊と新生の力が共存するところにこそ生じる」
神の真理を宿した種子は、両極性というペアの形で地上に降り注がれる。
その片方でも捨てることは、神の真理そのものを捨てることになる。
片方の靴を捨てたら、もう片方の靴も靴として成り立たなくなってしまうように。

それゆえ私たちは、喜びばかりでなく悲しみも、安楽ばかりでなく労苦も、成功ばかりでなく失意も、引き受けて生きなければならない。
人の長所も短所も、美点も汚点も、強い面も弱い面も、あるがままを受け入れて、認めなければならない。
要するに、「現実」に生きなければならないのである。

聖なる不安定に生きることは、私たちにとって冒険である。
だが、あえて冒険に挑まなければならないとブーバーはいうのだ。

「〈汝〉と呼び得るようになるためには、人間はまずにせの安全から脱け出し、永遠なる存在に向けて冒険に旅立たねばならない」
ブーバーによれば、私たちの魂には、たとえ混沌とした不安定の中に投げ込まれでも、永遠(神)に向かう道を自らに指し示す「方向づけの力」が宿っているという。

「方向づけとは、その時々に、無限の可能性の中からもっともふさわしいひとつだけを選び、それを実行して現実化させる、人間の魂の根源的な緊張である」


出会いによって人は「永遠なる存在」に変身する

こうした「聖なる不安定」の思想を生み出したブーバー自身の原体験は何かといえば、少年時代に遭遇した「世界は有限か無限か」という疑問であろう。

彼は、有限か無限かという両極的な混沌状態におかれ、死ぬほど悩んだ。
もちろん、有限あるいは無限のどちらかを選んで信じる道もあったし、カントのように問題を棚上げする道もあった。
ニーチェのように循環論で片付けてしまう道もあった。
しかしブーバーは、そのいずれにも固定されず、不安定な「狭い尾根」を歩み続けたのである。
そしてついに、魂の方向づけの力を発揮して、両極性を統一させる概念をつかんだのだ。
つまり「永遠」である。

魂の方向づけの力は、根源的には神からやってくる。
それゆえ、両極性が統一された「永遠性」は、我意による結果ではなく、神からもたらされる恩恵なのだ。

たとえるなら、それは水素と酸素から水を生成する化学反応と似ている。
水素と酸素を混ぜ合わせた状態、それが混沌状態だ。
そして、混合されたその気体に火花を放って爆発させ、化学反応を起こすと水が生まれる。
それが永遠である。

水は、水素と酸素(の分子)から構成されるが、水素でも酸素でもない。
二種類の気体は火花によって液体という本質的な変容を遂げ、完全に融合したわけだ。

同じように、私とあなたが「対面」しただけでは「出会い」とはならない。
そこに神の火花が放たれたときに「出会い」となる。
そのとき私たちは生命としての独自性は保ちながらも、ひとつに融合するのである。
私とあなたは、〈我〉と〈汝〉になるのだ。
私たちは「永遠なる存在」に変容するのである。
つまり、因果律を超えて生きるようになるのだ。

これは、人生のあらゆる両極性、相手のあらゆる両極性、その美しさも醜さも、すべてを受け入れて混沌の中に生きる者だけに訪れる根源的な覚醒であり、変身なのである。

人間には、「神の火花」がいつ放たれるのか、知ることはできない。
しかしその火花は、人知を超えて必然的にもたらされる。
出会いは必然の出来事なのだ。
その必然が地上に現れたものが「運命」であるとブーバーはいう。

「この火花にこそ真の必然性は認められる。
その必然性とは運命である」


人間の本当の自由とは何か?

神の摂理の導き、それが「運命」である。
したがって、運命に身をゆだねることが、人間の本当の自由となる。
なぜなら、そんな神の火花(アダム・カドモン)を私たちは本質としてもっているがゆえに、神の摂理こそが、実は自分自身の真の意思だからである。
そんな真の意思を発揮させて生きるとき、私たちは因果律を超え、予想もしなかった可能性を招き寄せることができるのだ。

この「予想もしなかった可能性の訪れ」こそが、人間にとっての「必然性」であり、言葉を換えれば「創造性」なのである。
我意によって気ままに生きることは、一見すると自由に感じられるかもしれないが、しょせんは因果律に縛られた運動にすぎない。
機械のように非創造的で予測可能な「宿命」を生きるだけであり、外的環境に操られ、縛られ、翻弄されているにすぎない。
それは、神の意思を自らの意思とし、創造的なものを生み出していく「運命」とはまったく異なったものである。

「自由と運命が対をなしているように、勝手気ままな我意と宿命は対をなしている」
たとえ、我意によって強引に「出会い」をもたらすことができたとしても、それはお互いをモノ扱いする〈我―それ〉の関係にすぎず、神の世界創造に寄与するものとはならない。
それは真の出会いではない。

ただ〈我―汝〉の関係こそが、因果律に支配されない永遠性であり、真の出会いなのである。
「〈我〉と〈汝〉とはお互いに自由に向かい合い、因果律に支配されず、他の何ものにも侵されることなく、相互に働きかける」

だが、いかに辛い状況に遭遇しようと、運命をまっとうするべく誠実に真撃に生きている者を、愛である神がいつまでもほうっておくはずがない。
神の恩恵は、必ずもたらされるであろう。

「たとえ現実は恐ろしく、不可解であっても、とにかく神の前において生命力あふれた生活の現実を生き抜くこと。
そうして現実を生き抜いた者は、神によって愛され、自らも神を愛することを知り、同時に恐ろしい現実をも愛することができるようになる」


愛は種時きのようなものである。
今日愛したからといって、明日に報われの実がなるわけではない。
だが、いつかは芽を出し、成長していく可能性を秘めている。

大きな人間だけが、人生に起こる善いことも悪いことも、相手の長所も短所も受け入れることができる。
大きな人間だけが愛することができる。
なぜなら愛は、世界のすべてを包み込むほど大きなものだから。

忘恩や裏切りを許せないのは人間として自然な気持ちである。
しかし許せないことで、人は貴重なチャンスを失うことになる。
大きな人間に成長できるというチャンスを。
愛することのできる人間に成長するチャンスを。
愛し合うという、人生最高の歓びを知るチャンスを。


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

苦しみは人生の真理が姿を変えたものであり、神があなたと一緒にいるという合図である



苦しみは人生の真理が姿を変えたものであり、神があなたと一緒にいるという合図である
――ブーバー哲学の核心〈我―汝〉の関係――

馬と交わされた不思議な合図

イエス・キリストは馬小屋で誕生したといわれるが、マルティン・ブーバーの哲学が産声をあげたのも、やはり馬小屋であった。
当時、十一歳だったマルティン少年には、密かな楽しみごとがあった。
人目を避けて馬小屋に忍びこみ、一番お気に入りの馬を撫でることである。
そのたてがみを優しく愛撫するとき、少年は自らの手の下に生命の躍動を感じた。
まるで馬の生命そのものが、自分の皮膚と直接に触れているかのように。

かいば桶にカラスムギを注ぎ入れないうちから、馬はどっしりとした頭をもちあげ、両耳をピクリと動かし、低く鼻を鳴らした。
そのしぐさの意味が、少年にはよくわかっていた。
〈僕のことを認めてくれているんだ!〉

それは、仲間うちだけに伝わる合図であった。
二つの生命は友愛の鼓動で共鳴し、少年の馬に対する畏敬の念が、その場を神聖な空間に変えた。
無言のうちに交わされる触れ合いに、深い喜びと充実感が満ちあふれた。

ところがあるとき、事件が起こった。
事件といっても、何の変哲もないような、ささいな出来事であった。
いつものように馬を撫でていたとき、ふと、撫でているその手を意識したというのだ。

「自分のしていることは、面白いことだな・・・」
これが「事件」だった。

後にブーバーはこう告白している。
「愛撫はいつものように行われた。
しかし、何かが変わってしまった・・・」

それ以来、馬は、いくら撫でても、頭をあげなくなってしまったのである。
深い交わりの喜びは消え、その場は墓地のように冷たくなってしまった。

いったい、少年と馬との間に、何が起こったというのか?
馬はなぜ、頭をあげなくなってしまったのか?
この小さなエピソードの中に、ブーバー哲学の核心が込められている。

もちろん、当時の幼い彼が、ここに潜む深い真理をすぐさま自覚したわけではない。
この体験はしばらくの間、意識の底に沈澱することになる。
だが、良質の果実で醸造された酒が、いつか芳醇な香気を放つように、このときの体験が、私たちの魂を陶酔させる思想として熟成することになる。
ブーバー哲学のラベルには、まさにこのとき「1889年」が、刻印されているのだ。


深く結ぼれた者は以心伝心でわかり合う

なぜ、馬は頭をあげなくなってしまったのか?
ブーバーはこの体験を回想して、愛撫した馬のことをこう表現している。
――私ではないもの、まったく私ではないもの、まったく私の知らないもの――

その馬は「具体的で真実なる他者」であるというのだ。
馬は、まったく自分とは違う一個の独立した存在(他者性)であった。
本来、人間が利用するために飼われた家畜でもなければ、愛玩動物でもなく、馬と呼ぶことさえ許されない存在であった。

その生きものは、独自の生を生きる、唯一にしてかけがえのない「生命」であり、それ以外のなにものでもなかったのである。

とはいえ、孤立した存在というわけでもなかった。
ブーバーはいう。
その馬と自分とは、〈我―汝〉の関係にあったのだと。

〈我― 汝〉の関係・・・。
いったいそれは、どのような関係なのか?

深い一体感に満ちた関係、
共感と親密さにあふれた関係、
とりあえず今はこう表現しておこう。
ただし、自分を見失い、相手の気持ちに溺れてしまう感情移入ではない。
〈我―汝〉の関係は、あくまでも自分は自分、相手は相手という独自性を保っている。
それでいて、比類なき一体感で結ばれているのだ。

ブーバーによれば、これこそが真の関係性である。
このとき、相手が人間であろうと動植物であろうと、また神であっても、真の触れ合いと相互交流の対話が可能になる。
その対話は、必ずしも言葉によるものとは限らない。
仲間どうしだけがわかり合う「合図」を通して行われることもある。

その合図は、自然発生的なもので、あらかじめ決めておいたものではない。
相手の何げないしぐさや表情から、あるいは存在を前にしているというだけで、何がいいたいのか、以心伝心の感性でわかり合えるのだ。

愛情をこめて花を育てている園芸家などは、葉っぱの微妙な色合いを見れば健康状態がわかるというし、草花もその思いに応えて良好に生育するという。
犬や猫や鳥と心を伝え合っている人もいる。
そこには仲間うちだけに通じる不思議な合図がある。
合図を通して「あなたの存在を認めているよ」というリアルな感触が伝わってくるのだ。


神と人聞はどのように対話をするのか?

そして、神との間に〈我―汝〉の関係が築かれたときも、合図が交わされるようになる。
神は、常に私たちに合図を送っている。
電車で隣に座っていた人の独り言、たまたま開いた本のページに書かれてある言葉が「合図」だったりする。
そうした偶然とも思える出来事により、悩みが解決したり、教訓や慰めを得るといったことを、私たちはしばしば経験する。

ブーバーによれば、神はあらゆる手段や状況を通して合図を送っている。
事件やトラブルでさえ合図なのかもしれない。
問題は、その合図に気づくかどうかなのだ。

神との間に〈我―汝〉の関係が築かれたとき、人は何げない眼前の出来事に、神の合図を読み取るであろう。
そのときあなたは、それを自らの課題として受け止めるだろう。
そして全身全霊で取り組むだろう。

そうした行為が、神の合図に対して送り返される「人間の側からの合図」となる。
神はあなたの合図を喜んで受け入れる。
こうして、神との間に「対話」が行われていくのである。

特にユダヤの教えにおいては、苦難に満ちた試練こそは、人生の真理をつかむ奥義(隠された教え)として、神が与える最高の合図であると考えられている。
それは神が、その人間を認めているしるしであると。
神のパートナーとして、大切な使命を任せるに値する絶対の信頼を置いているという合図なのだ。
神は愛する者に苦しみとも思える試練を与えることで、使命が何であるかを教え、また使命をまっとうできる人間に鍛えあげるのである。

人間の側も、訪れた苦しみを、神からの試練であり、合図であると見抜いて勇敢に受け入れ、最後まで耐え抜き通す。
それが「神を認めています」という返答の合図となる。

こうして、神と交流し、対話し、認め合う人は、苦難の中にありながらも、生命力に満たされ、深い充実感と光明に包まれ、ときにはユーモアさえも飛び出すようになる。
逆説的であるが、真の希望と幸福は、もっとも深い絶望と苦悩の中にこそ見いだされるのだ。
そして、それを新たな人格の基盤として、人間は生まれ変わっていくのである。


誰かの所有物にされると、生命は失われてモノになる

それでは、あれほど親密な〈我―汝〉の関係を築いていたブーバーと馬が、なぜ突然、破綻に満ちた結末を迎えてしまったのだろうか?

「自分の罪が見抜かれたかと思った・・・」
ブーバーはそう告白している。
その「罪」のために、馬は頭をもちあげなくなったのだと。

「この罪を犯してから、もはや、そこには、あの他者がいなかった」
最初、馬は自分とは別の生命、「はかり知れない他者性」であった。
それは文字通り、その価値をはかることのできない、かけがえのない存在であった。
しかし犯した「罪」のために、馬は他者ではなくなってしまったのである。

何になったというのか?
少年の「所有物」になってしまったのだ。
自分が楽しみのために利用する道具、すなわちモノになったのである。
馬を撫でるという行為を(自分にとって)面白いと感じ、愛撫する手を意識したとき、少年はその馬を、まるで陳列棚に並べられている商品のように観察し、その価値を”はかった” のである。

本来、はかり知ることのできない唯一にして独自の存在を、彼は利己の目的ではかったのである。
それが「罪」なのであった。

このとき、馬の他者性は「従属性」となり、独立した生命が失われてしまったのだ。
生命がなければモノである。
そしてモノが、心の触れ合いに応えてくれることはない。
合図は消滅し、対話は閉ざされてしまったのである。

―――――

他者とは、はかり知れない独自性をもった存在なのだということを忘れてはならない。


『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
  (斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

心と物質的現象化

真空はある意味で、物質的現象化を待機中の、歪みに閉じ込められた比較的に画一的なポテンシャルエネルギーと見なせよう。

この物質創造を引き起こす刺激は、実はわれわれの心の内部から生じるのである。
われわれの人間としての心は、それぞれが自分の運命のカルマ(プララブドウ)の種を内に含んでいる。
というわけで、この運命のカルマが五つの要素もしくはタットヴァをパターン化し、物質的現象化が起きるのであるが、それはあくまでもわれわれ自身の内部から起きるのだ。
われわれは、五感を通すことによってのみ、そして自分たちの注意の方向が外部に向かうが故に、物質的現象化が外の世界で起きているように認識するが、実はわれわれの五感による認識は、すでに説明したように心の中で行っているのである。

だが、われわれの現状の水準の意識では、自分の心が機能している実際の仕組みを直接認識することはまずないので、われわれにはこの過程が起きているのが見えない。
自分たちの内的生活と外的生活を結びつける偶然の一致や連想や頻発するパターン等に直面した時、ぼんやりとその存在に気づいたりはするものの、ふつうは活動中の件の仕組みを観察することは不可能である。

だからこそわれわれは、なぜ物事が今起きているような形でしか起きないのかが理解できないのだ。
だが霊的もしくは神秘主義的な意味で進歩してゆくと、それにつれて物事の”ぴったり加減”が増大するように見えてくることに気づく。
最近筆者は、これをみごとに表現する言い回しを耳にしたので、ご紹介しておこう。
「偶然の一致は、神が匿名を守る方法にほかならない」

われわれの日常生活の一つの側面として”思わぬ素敵な発見をする才能”というのがある。
要するにちょうどよい時におあつらえ向きの場所にいて、物事がどう運びつつあるかを直観的に理解する能力のことであるが、この能力も霊的な進歩に応じて増大するようである。

自分が実際はどれほど何も知らないかを自覚すればするほど、われわれの意識は自分の内部で拡大してゆくし、逆もまた同じである。
無知の自覚と意識の拡大は相伴うのだ。

とかく人間は自分が自由意志を持っている等と思ったりするが、われわれは五分後はおろか百万分の一秒後の自分に何が降りかかってくるかも知らないのである。
また次の瞬間にどんな思考や感情がわいてくるかも知りはしない。

となると、いったいどこに自由意志の可能性があるのだろうか?
いやそれどころか、そもそも自分が自由意志を持っていると思っている”私”とは何なのであろうか?

世間ではデカルトの次の言葉がしばしば引用される。
「われ思う、故にわれ在り」
だが彼はもっと正しい言い方をすべきだったのだ。
「われ在り、故にわれ思う」と。

なぜなら意識が、つまり”在る”ということが一番大事だからである。
それはわれわれの内部にある生命力にほかならない。
心――先のデカルトの言葉の場合は自分の思考――は意識によって活気づけられ、意識が原因で生まれてくる。
だからわれわれは、思う前に在るのだ。
真の”私”が魂もしくは意識に属しているのに対し、エゴでできている小さい方の”私”(アハンカール)は人間的な心の一機能に過ぎず、ほとんどの人の場合、均衡がまるでとれていない。
そして小さい方の”私”がわれわれの内部でひどい大声でまくし立てるものだから、小さい方の”私”に生命を与えている肝心の大きい方の真の”私”は、すっかり影が薄くなってしまうが、このことをデカルトは、例の言葉で自分ではそれと知らずに実にみごとに立証してくれている。

(注1)
注1:実をいえば筆者は俳優のニコラス・ジョーンズの名せりふの方が好みである。
デカルトの言葉のジョーンズ版はこうだ。
「われ思う、故にわれは要点が分からずじまい!」

同様にわれわれは、ほかならぬ自分のエゴ、自分の心の状態のおかげで、全ての心が真空(もしくはアカーシヤ)の海の共同創造者・共同表出者としてつながり合っている(そうでなければ真空の海は未分化のままだったのだ)様子を見れずにいる。

つまり、もしこの物質界から全ての生き物の魂が取り去られたとすれば、われわれの心は、もはや物質界を刺激して幻惑的パターン(これは、われわれの心によって描き出され、一見したところではわれわれの五感を通して知覚されているようであるが、実は自分自身の心の中で体験されているのだ)の終わりなき戯れを続けさせるために存在することはないであろう。
あるいはこうも言えよう。
そもそも生命と心の知覚作用が存在しなければ、物質界など全く存在しないはずなのだ、と。
もし何かが存在するとすれば、せいぜい波一つないアカーシヤの海原ぐらいのものであろう。

さて心と五感と物質的現象化の結合は極めて巧みに編まれているのでわれわれは――この劇的なドラマの本質的な一部分である以上――件の結合を自分自身の心で客観的に知覚するためにそれを外側に置くことが決してできない。
われわれの心は物質的現象化の過程の一部分なのだ。

人間の心で以って物質的実体もしくは「心」を理解しようとすることは、犬が自分のしっぽを追いまわすようなものである。
つまり主体が客体となり、客体が主体となるわけである。
だから外へ向かう唯一の方法は、逆に内に向かうことであって、そうすることによってドラマ全体をより高次元に知覚もしくは認識するしかないのだ。


『空間からの物質化』(ジョン・デビッドソン 著、たま出版 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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ジャンル : 心と身体

エネルギーダンスにすっかり埋め込まれて

すでに何度となく指摘したことであるが、われわれはとにかく重力が実際に何であるかも知らないでいる。
同じことは素粒子に働く四つの基本的な力についても言える。
われわれは原子核の中で起きていることについて観測したり理論化したりする。
そして何かが原子核全体を結合させているに違いないことに気づく。
そこでその何かを強い力(相互作用)と名付ける。
ちょうどリンゴが落下したり惑星が軌道を描いて回ったりするのを見て、それを重力と称するようなものだ。
だがその次に、質量は”重力の法則に従っている”とか、強い相互作用は中性子と陽子を結合させている、とか言い出すのは、まるで話があべこべではないか!

”重力の法則”とやらは、われわれが体験したことを記述する言葉に過ぎず、それ自体は決して自然界に固有の要素ではない。
われわれは、まず最初に何かの結果(重力や強い相互作用など)を観察し、それから件の結果をあたかも実在する根源的な何かであるかのように記述する。
そして、それを物質的宇宙が守っている原因的法則である、などと言い出すのだ!
これはまさに根本的な混同としか言いようがない。

同様に、力は”エーテルという編物の表面に生じた歪み”である、などという言い方も正しくはないのである。
実際に存在するのはエネルギーの振動性のダンスだけなのであって、”粒子”も”波動”も”力”も本当は、この唯一で同一の存在の異なる側面、このダンスがわれわれの前に現象化する際の異なるやり方に過ぎないのだ。

あらゆるものの中にあるこの同一性を体験することは可能であるが、それを言葉で論じたり思考したりするには分割が必要であるために、この一体性を表現してみようとするやいなや、それを分割しないわけにはゆかなくなる。

一般的に言えば、われわれの心は分割しか体験せず、従って”われわれ”と”それ”の内部に潜む本質的な統一性に気づかずに、世界を分割によって記述するのである。

だが神秘主義者といえども、われわれと人間的な方法で意志を交わす場合は言葉を使わざるをえない。
むろん彼らが使う言葉は美しい。
それには真理の響きがある。
だが彼らが言葉を使うのは、それぞれの段階でもう一段高い内的現実と体験を指し示す道具としてだけなのである。

多くの数学者は、数学が単にしっかりと圧縮された言語であるばかりではなく、自然界それ自体に本来備わっているものなのだ、などと信じてさえいる。
だがこれは絶対にそうではない。
人間のあらゆる思考と同じように、数学もわれわれ自身の心の中に存在しているのだ。

ほかでもないわれわれの心が分割されていて、それ故に世界を分割されたものとして眺めるのである。
われわれが自分の中に「一なるもの」を見る時、われわれは同時にどこにでもそれ(一なる神)を見る。

だが、われわれ人間の心と数学と自然界との間には一応の結びつきがある。
それは一人一人の心が、あらゆる形態の真の設計者である「より偉大なる心」と同じ特徴を備えているからである。
だからわれわれの人間としての心が抱く考えが善いものであればあるほど、より偉大な宇宙が建設される方法と結びつくようになる。

だが、そうした考えも現実の反映に過ぎず、現実そのものではないのだ。

というわけでわれわれの心も五感による知覚も、行動も物質界も、一個のエネルギーダンスなのである。
われわれは、この万物創造と呼ばれる巨大な単一の重層的エネルギーダンスと自分たちの間の相互作用や関係に完全に埋め込まれ一体化しており、しかも万物創造の不可欠の要素でもある。

いろいろな問題が起きてくるのは、われわれが自分たちは分離していると思う(実は自分がそう思うと思い込むわけであるが)時にほかならない。
だが、これもエネルギーダンスの一つの側面――われわれがエゴ(自我、うぬぼれ)と呼ぶ心のエネルギーの側面、あるいはヨーガでいうアハンカール――なのである。

バランスのとれた現れ方をした人間としての主体性や自我(エゴ)は、われわれに人間として当然占めるべき地位を教えてくれる。
それは、足やひざやその他の精妙体も合めた人体構造の全ての側面と同様に、人間であることの不可欠の要素にほかならない。
だがバランスがとれていない場合――われわれが人間として普通に体験するように――自分がエネルギーパターンの網のような組織の中で占めている地位についての認識が、ゆがめられてしまうのだ。
われわれは、このようなエゴを人間にありがちのエゴ――万物創造に占める自分の地位の不正確か錯覚に基づいた認識――と認めるわけである。

人間の心は、人体構造の内部に一つの真の焦点を実際に持っている。
これがいわゆる「アイ・センター(眉聞のチャクラ)」であり、二つの眼球の少し上の奥の方に存在する。
われわれは、例えば精神を集中したいと思うと、両手を額に当てるが、決してひざやその他の人体部分をつかんだりはしない。
われわれは自分の思考センターが頭の中にあることを本能的に知っているのだ。
だが心がこのセンターから外へ離れたり感情的におおげさにふるまったりすればするほど、われわれの物質界に対する認識の不均衡や潜在意識の感情的な捉われもひどくなる。
つまり人間的主体性の均衡のとれた認識が均衡を欠いたエゴとなってしまうし、そのようなエゴには、もはや自分や宇宙の正体など分かりようもないのである。

例えばエゴの一側面である優越感は自分が他人よりも優れているとささやきかけるが、これは明らかに物事の実際のありようの誤った認識にほかならないし、同じことは自分を他人より劣っていると思わせる間違った謙そんや劣等感にも当てはまる。

同じ人間同士が相手より優れているとか劣っているとか考える全くの自己中心的な発想は、均衡のとれていない自我もしくは主体性の現れである。
それは、われわれ人間が置かれている状況の実体とは全く無縁の幻想に過ぎない。

というわけでわれわれは、この万物創造というエネルギーダンスを体験しているし、めいめいの心のエネルギーの焦点や意識の程度に応じて、その物質的な現れ方を内面的に理解しているのである。

それは言ってみれば高層のデパートのようなものだ。
エレベーター(つまり意識の内的センター)からは、何が進行中かについて正しい見方をすることができる。
上の階に行くほど物事の本質がより明瞭かつ完壁に見抜けるようになる。
だが、もしわれわれが自分の心のエネルギーを五感を通して外へ拡散してしまうならば――そこが、この物質的圏域であろうと、より高いレベルの意識だけが行けるより高次元の世界であろうと――そのレベルで、つまりデパートのその階で迷子になってしまうのだ。
そして陳列してある商品が、あらがいがたい魅力を帯びるようになるのである。

そうなると物事が正しく見えなくなり、われわれは混乱状態に陥ってしまう。
そしてこの混乱状態がデパートの一階(物質的レベル)で起きた場合には、われわれにとって破滅的である。
なにしろ商品にすっかり夢中になってしまい、自分が本当は自分自身の内部で意識を備え活力に満ちた存在として生きていることを忘れ果ててしまうのだから。
いやそれどころか、エレベーターが存在することにも、上の方にたくさんの階があることにも、気づかなくなってしまうのだ。
そしてまるで夢の中の世界のように、前に何が起きたのかも、自分がどこから来たのかも、一瞬後には忘れてしまうのである。

だが、もしだれかがご親切にもわれわれにこうしたことを教えようとすれば、われわれは逆に腹を立て、その人間を物騒な神秘主義者だの心得違いの狂信者だのと呼んだりするのだ!
そして昔の神秘主義者たちは、その時代の僧侶や神官や”知識人”たちの扇動のために首をはねられたり十字架にかけられたり、もっと残酷な殺され方をしたりしたのだ!

現在ではわれわれ人類は、少なくとも若干の国々ではもう少し民主的であるが、それでも依然として次の原則は通用している。
つまりわれわれは、感覚や心のまどろみから目覚めさせられるのが嫌なのである。
われわれの潜在意識的な習慣に支配された心は、これまでずっと同じだった思考や行動のパターンを維持するためなら何でもやるに決まっているのだ。

このような事態がなぜ生じたかといえば、心が、自分の存在の真の中心である眉間の意識的な思考の中枢を離れることによって、無意識で均衡を欠いた状態に陥ってしまったからである。


『空間からの物質化』(ジョン・デビッドソン 著、たま出版 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

エネルギー

話を結果と原因の問題にもどすと、物理学者が一般的に抱いているエネルギーの概念が”いつかそのうち仕事をするようにお膳立てをした場合に仕事を遂行する能力”であるのも、同じ調子と言えよう。
例えば海抜○○の高さに置かれたボールは、重力に関連した位置エネルギーを合んでいる。
このボールを放すと、位置エネルギーは運動エネルギーに変換されるが、空気中を通る際に摩擦のせいで一部は熱エネルギーとなる。
このような運動エネルギーは、例えば水力発電所で電気エネルギーを作り出すために利用されている。
つまり重力による水の落下が部分的に高電圧の電位エネルギーに転化されると、今度はそれが電荷を持った質量(電子)を電線に沿って走らせるために使われ、われわれが電流と呼ぶものが発生するわけである。

実を言えば、これと同じことがわれわれの科学的・技術的発明の全てについて言えるのだ。
これらの発明は、どれも仕事を遂行する能力としてのエネルギーに結びついており、件の仕事が何か別の種類の潜在エネルギーに変換されるか、あるいは別の力に逆らって仕事を遂行するのに使い果たされるかする。

例えば風の抵抗や重力や機体の慣性に逆らって飛行機が飛んだり、道路の表面の摩擦や風の抵抗に逆らって自動車が走ったり等々である。
われわれはエネルギーを一つの形から別の形へと変換しながら際限のないイタチごっこをしているのだ。

だが少し深く考えてみれば次の事実に気づくであろう。
つまりエネルギーを仕事によって定義し、仕事は力の概念を含んでいる(仕事=力×移動した距離)以上、エネルギーは実際には一つの結果であると定義されているのだ。
なぜなら力もまた一つの結果だからである。

従って在来の物理学が理解しているエネルギーは、実際に存在する何かと結びついているわけではなく、単なる結果と結びついているに過ぎない。
一方で筆者を含め最近の多くの人々の共通の語法では、エネルギーは”存在する全て”――物質的・精妙体的・アストラル的・コーザル的に現象化した一切の物――を意味するようになっている。

つまりエネルギーは二元性に固有の運動なのである。
運動には二元性もしくは有極性が含まれているのだ。
このような認識は、アインシュタインの有名な質量とエネルギーの等価性(e=mc2)の中にも見え隠れするが、後者は旧来の思考法でも、われわれのもっと最近の思考法でも、どちらでも解釈が可能である。

神秘主義の世界観では、万物創造は「至高の存在」もしくは「神」の内部における運動である、と言われている。
それは神の投影であり、現象化したものと独立して存在する永遠の「実体」との間で最後まで演じられる二元性にほかならない。

というわけで、われわれは議論の出発点にもどったわけである。
在来の科学は、頭の中にある事物の概念が事物それ自体の存在と違うことを実際に確認できるような構造にはなっていないのだ。
たいていの場合、定義はその定義の対象とされた存在と同一であると見なされている。
そしてそうすることによって、科学は事物それ自体や原因を研究の対象とするのではなく、結果に関する観念だけを取り扱っているのである。

だがもう一度繰り返すが、万物を元の真空もしくはアカーシヤの状態に結びつけて考えれば、少なくともあらゆる現象化した存在に共通する因果律が見いだされるであろう。
かの老子はこう言っている。
「鉱山より万物が生じる」と。

とはいえ依然としてわれわれは、そのような無なり真空なりを存在させている原因を探し当てる必要があるわけだ!
さらにその構造や、それをパターン化させているものも探究しなくてはなるまい。

だがわれわれは、こうしたことをもっと直観的に理解することもできる。
なぜなら心が真空状態と緊密につながっているからだ。
真空状態は、われわれの運命の因果応報が演じられる物質的な映写幕なのである。
そして心はといえば、魂・意識・生命力によって内部から活性化されるエネルギーにほかならない。
だから真空状態は全体がしっくり調和し、初めは知らず知らずのうちにであるが、次のような理解へとわれわれを導いてくれるのだ。
つまり真空状態の全体を本当に理解するには、われわれの心の際限のない思考と旋転を静め、内部からの直接的で神秘主義的な知覚を発達させるしか方法がないのである、と。


『空間からの物質化』(ジョン・デビッドソン 著、たま出版 刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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プロフィール

究魂(きゅうこん)

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魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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