人生にひそむ最高の価値をつかむためには、危険に満ちた冒険に旅立たねばならない
――「聖なる不安定」と「狭い尾根」――
ブーバー夫妻の悩み
ブーバー家の家事や育児は、ほとんど妻のパウラが取り仕切ったので、夫マルティンは研究に専念することができた。
しかしながら、子供との関係では少なからぬ悩みがあった。
二人の子供はともに十歳を過ぎていたが、長男ラファエルは父親に反抗的となった。
息子の立場からすれば、33歳にしてユダヤの指導者であり著名な哲学者の息子というのは、いろいろな点で重圧を感じさせるものだったのだろう。
サマーキャンプに参加したときなど、あまりにも大勢の人から「あのマルテイン・ブーバーの息子なのか?」と尋ねられるので、ついには嫌気がさし、大きな看板に「そうです」と書いて周囲を歩き回ったこともあったという。
かと思うと、急に家出をしてサーカス団に入ったり、高校を中退して軍隊に入るなど、ブーバーとパウラに心配と悩みの種を与え続けた。
一方、長女エーファの方は、兄ほど両親との関係は悪くなかった。
それでも当時の、次のような想い出を彼女自身が伝えている。
あるとき、ちょっとした秘密を母親に打ち明けたところ、母親がそれを他人に話してしまった。
そのことで大声で文句をいっていると、突然ブーバーが書斎から出てきて、いきなり平手打ちをくらわしたのである。
興奮が冷めてから、エーファは父親の書斎に入っていき抗議をした。
「言い分を聞く前にぶつのは間違っている!」
するとブーバーは、自分の非を認めて娘に謝り、今度まちがったことをしてもぶたないと約束したという。
ブーバーもパウラも、子供との接し方については、必ずしも上手とはいえない面があったようだ。
子供たちに関する苦悩を、ブーバーは受け入れなければならなかったのである。
神はもっともふさわしい時期に出会いの種を蒔く
前述したように、誰かと〈我―汝〉の出会いをもつときには、必ず同時に神との出会いがそこに生じている。
〈我―汝〉の関係は二重的なのである。
どんなに親密な関係であっても、他者とだけ結ばれた〈我―汝〉の関係は存在しない。
必ず神との関係が成立している。
逆にいえば、神と出会う人であれば、人間にも真の意味で必ず出会っているということである。
「もし人が本質的に人間と交わらないならば、実際、本質的に神と交わり得ない」
また、神は因果律を超えた永遠の存在であるから、そんな神との関係を伴った〈我―汝〉の出会いもまた、因果律を超えていることになる。
このことは、何を意味しているのだろうか?
それは、〈我―汝〉の出会いをもたらすための、いかなる「方法」も存在しない、ということである。
なぜなら、方法というものは因果律を土台としているからだ。
目的とする結果を生み出すための原因を作り出す技術、それが「方法」だからである。
したがって、私たち人間には、〈我―汝〉の出会いを意図的に引き起こすことはできないのである。
何らかの方法を駆使して、それを操作することはできないのだ。
ブーバーによれば、〈我―汝〉の出会いは、世界創造の計画の一環として、神によって与えられる「恩恵」である。
努力してつかみ取るものではないというのだ。
私たちには、それがいつ、どのように訪れるのか、決してわからない。
ただ訪れるのを受け身で待つだけである。
かといって、ただ手をこまねいていればいい、というわけではない。
神が、出会いという種を蒔いてくれるのだとすれば、人間は、その種が芽を出せるように土壌を養っておかなければならない。
土壌が悪ければ、いくら種が蒔かれても不毛のままである。
神が蒔いてくれる出会いの種を、いつでも受け入れられる土壌にととのえておくことが、人間がするべき努力なのであり、それ以外にできることはない。
むしろ、それ以外に何もしてはいけない。
なぜなら、わざとらしく強引な我意は、〈我―汝〉の関係とはあいいれず、むしろその土壌を汚染してしまうからである。
すばらしい土壌ができたのを見計らって、神はもっともふさわしい季節に、もっともふさわしい出会いの種を蒔いてくれる。
それは人間の知恵では計り知ることのできない意味と目的をもっている。
その出会いの意味は、ずっと後になってわかったりする。
あるいは一生わからないかもしれない。
いずれにしても、人との出会いには、必ず神意が込められているのだ。
では、いつ訪れるかわからない神の種蒔きに備えて、私たちはどのように土壌をととのえておけばいいのだろうか?
「聖なる不安定」――これがブーバーの回答である。
世界は合理的で確実で安定しているという「夢」
この着想は、おそらく老子の思想から練り上げられたものであろう。
『道の教え』から三年後、35歳のときに書かれた『ダニエル』という作品で、この教えが発表されている。
この著作は、求道的な若者ダニエルが「方向、現実、意味、両極性、一体性」をテーマに友人と語り合うという内容の小説だが、ストーリー性はほとんどなく、むしろ対話形式による哲学書と呼ぶべきものである。
いったい、そこで説かれている「聖なる不安定」とは、何なのか?
すでに考察したように、神の愛は、母性愛と父性愛という両極をもっている。
愛ばかりでなく、この世界のあらゆる事物が両極的であることを、老子の思想から見てきた。
母性愛と父性愛の両方を呼び覚まし、統合することによって、私たちの愛が神の愛(真の愛)に近づいていくように、この世のあらゆる両極性を統合するべく生きることによって、人間は神に近づき、神と出会い、真実の姿を開花させていくのである。
真実の姿、すなわち神性を宿した生命の存在として、生き生きと、創造的になっていくのだ。
「矛盾する双方の命題を一身に担って生きなければならぬ。
それによって、この矛盾の命題は生きてひとつとなるのである」
とはいえ、人生が両極性で揺さぶられ、不安定になるのは、あまり愉快なことではない。
そうした人生は、確実性も保証もなく、先行き不透明で、混沌としているからだ。
私たちは、合理的で確実で安定した生活を望んでいる。
その否定である混沌状態は、非常に不安な気持ちにさせる。
そのため大多数の人は、波に乗ってサーフィンなどをするよりも、砂の上に寝転んで日光浴をしていた方がいい。
冒険はしたくないのである。
けれども、世界をありのままに見るならば、両極的で多様な価値観が交錯して不安定である、というのが現実なのだ。
にもかかわらず、そんな現実など受け入れたくはない。
「この世界は、今日も明日もあさっても、変わることなく生活を支え、困ったことは起きず、プライドもアイデンティティも守り続けてくれる・・・」と思いたい。
そこで、私たちは現実を否定しようとする。
一面的な価値観や信念だけに目を向けて、確固とした(ように見える)世界観を提示する慣習や伝統や思想、政治や宗教の指導者にすがったりする。
「世界は合理的で確実で安定している」という「夢」を見るために。
そうして自らを、両極的な矛盾を感じない固定的なシステムに組み入れてしまうのだ。
たとえば、そのような宗教は、何らかの教義や戒律や儀式を守りさえすれば必ず救われると保証してくれる形式(システム)で構築されていなければならない。
お金を入れれば確実に商品が出てくる自動販売機のように。
言葉を換えれば、それは因果律に支配された「方法」でなければならない。
信者たちは、まるで脅迫されるがごとく修行や信仰に打ち込み、あるいは多額の布施をする。
神という「自動販売機」を作動させるために。
そして「自分の宗教こそが唯一絶対に正しい」と主張し、それに権威をもたせようと大きな伽藍(がらん)を建築し、派手に宣伝して信者の獲得に狂奔する。
そのような世俗的権威を駆使して、ようやく自らの信仰に確信がもてるからだ。
信者たちは、これほど豪勢な教会にこれほど大勢の人が集まり、これほど厳格な儀式を行うのだから、神もそこにおられるに違いないと思えて安心する。
そうして神を所有した気持ちになる。
「人間は神を所有したいと熱望する。
時間と空間の限定のもとで神の所有を持続したいと願う。
生活のあらゆる点とあらゆる瞬間を保証するような完全な持続を望んでいる」
神は不安定な状況に生きる者と共にある
だが、神は決して人間の所有物にはなり得ない。
神は決して、人間が作り出したいかなる組織的なシステム、すなわち教会や組織、教義や戒律、儀式や魔術といったものでとらえられたり、呼び出すことはできない。
人間と取引したり、絢爛(けんらん)豪華な教会に心がよろめいてそこに住んだりはしない。
「これだけの儀式や祈りや修行をします。
そのかわり救ってください」という祈り、あるいは神社仏閣に行き賽銭箱に金を投げ込んで願い事を唱える行為は、信仰ではなくて商取引である。
そこで出会う「神」は、神の着ぐるみをまとった私たち自身の欲望にすぎない。
「人は、自分が所有欲と結び付いていることに目覚め、それから離れることによって救われるのであって、所有欲と結合したままで神に導かれることはあり得ない」
もちろんブーバーは、苦しいときに神に救いを求めることがいけないと主張しているわけではない。
交換条件をもちだして神と交わろうとし、神をコントロールしようとすることが間違いだと指摘しているのだ。
なぜなら、何であれコントロールするためには、そのためのシステムに対象となるものを組み込まなければならず、システムとは因果律の体系であり、要するにメカニズムだからである。
つまりメカニズムに組み込むことができるのは、同じメカニズム(機械)だけなのだ。
しかし、神は機械ではないし、因果律を超えているから、システムに組み込むことはできない。
要するに、システム化された宗教や信仰に、神は姿を現さないということなのだ。
「宗教について論じ、体系として所有し、人々から保証され、確信されて安定している宗教は、循環を停止した血液である。〔こうした〕宗教ほど、われわれから神の御顔を隠すものは他にはない」
神は、固定されたシステムにではなく、不安定で混沌とした両極的状況に現れるのだ。
宗教であれ何であれ、システム(安定した生活)に自らを組み込むと、生命は窒息してしまうのである。
生命は、両極的な要素を行き来するダイナミズムを本性とする。
生命は、混沌状態に身をおいてこそ、生き生きと活性化するのである。
それゆえ、不安定な状況に生きる者こそ、神と共にあるのだ。
神から見放されたと思うほどの辛い試練や苦難、波乱に満ちた人生を生きている者ほど、実は神が、隣に寄り添っているのであり、神の息吹が注ぎ込まれているのである。
真理に至る道「狭い尾根」とは何か?
こうした不安定な混沌状態に身をおくことが、〈我―汝〉の出会いを受け入れる土壌となる。
なぜなら、〈我―汝〉の出会いは神の恩恵なくして成就せず、その神は混沌状態を通して姿を現すからだ。
それゆえ、そこから神性が輝き出るという意味において、それは単なる不安定ではなく、「聖なる不安定」なのである。
”狭い尾根”――ブーバーは、聖なる不安定に生きる道をそう呼んだ。
尾根、つまり山の背にあたる道は、右を見ても左を見ても、深い谷底の急斜面がのぞいている。
少しでもどちらかにそれてしまったら、それきり転落してしまう険しい道である。
しかし神に出会い、真理の頂上に到達するには、右でも左でもない不安定な道を歩まなければならない。
「人間の決定的な宗教経験は、創造的エネルギーが何の矛盾対立もなく働くような領域で生ずるのではなく、禍と福、絶望と期待、破壊と新生の力が共存するところにこそ生じる」
神の真理を宿した種子は、両極性というペアの形で地上に降り注がれる。
その片方でも捨てることは、神の真理そのものを捨てることになる。
片方の靴を捨てたら、もう片方の靴も靴として成り立たなくなってしまうように。
それゆえ私たちは、喜びばかりでなく悲しみも、安楽ばかりでなく労苦も、成功ばかりでなく失意も、引き受けて生きなければならない。
人の長所も短所も、美点も汚点も、強い面も弱い面も、あるがままを受け入れて、認めなければならない。
要するに、「現実」に生きなければならないのである。
聖なる不安定に生きることは、私たちにとって冒険である。
だが、あえて冒険に挑まなければならないとブーバーはいうのだ。
「〈汝〉と呼び得るようになるためには、人間はまずにせの安全から脱け出し、永遠なる存在に向けて冒険に旅立たねばならない」
ブーバーによれば、私たちの魂には、たとえ混沌とした不安定の中に投げ込まれでも、永遠(神)に向かう道を自らに指し示す「方向づけの力」が宿っているという。
「方向づけとは、その時々に、無限の可能性の中からもっともふさわしいひとつだけを選び、それを実行して現実化させる、人間の魂の根源的な緊張である」
出会いによって人は「永遠なる存在」に変身する
こうした「聖なる不安定」の思想を生み出したブーバー自身の原体験は何かといえば、少年時代に遭遇した「世界は有限か無限か」という疑問であろう。
彼は、有限か無限かという両極的な混沌状態におかれ、死ぬほど悩んだ。
もちろん、有限あるいは無限のどちらかを選んで信じる道もあったし、カントのように問題を棚上げする道もあった。
ニーチェのように循環論で片付けてしまう道もあった。
しかしブーバーは、そのいずれにも固定されず、不安定な「狭い尾根」を歩み続けたのである。
そしてついに、魂の方向づけの力を発揮して、両極性を統一させる概念をつかんだのだ。
つまり「永遠」である。
魂の方向づけの力は、根源的には神からやってくる。
それゆえ、両極性が統一された「永遠性」は、我意による結果ではなく、神からもたらされる恩恵なのだ。
たとえるなら、それは水素と酸素から水を生成する化学反応と似ている。
水素と酸素を混ぜ合わせた状態、それが混沌状態だ。
そして、混合されたその気体に火花を放って爆発させ、化学反応を起こすと水が生まれる。
それが永遠である。
水は、水素と酸素(の分子)から構成されるが、水素でも酸素でもない。
二種類の気体は火花によって液体という本質的な変容を遂げ、完全に融合したわけだ。
同じように、私とあなたが「対面」しただけでは「出会い」とはならない。
そこに神の火花が放たれたときに「出会い」となる。
そのとき私たちは生命としての独自性は保ちながらも、ひとつに融合するのである。
私とあなたは、〈我〉と〈汝〉になるのだ。
私たちは「永遠なる存在」に変容するのである。
つまり、因果律を超えて生きるようになるのだ。
これは、人生のあらゆる両極性、相手のあらゆる両極性、その美しさも醜さも、すべてを受け入れて混沌の中に生きる者だけに訪れる根源的な覚醒であり、変身なのである。
人間には、「神の火花」がいつ放たれるのか、知ることはできない。
しかしその火花は、人知を超えて必然的にもたらされる。
出会いは必然の出来事なのだ。
その必然が地上に現れたものが「運命」であるとブーバーはいう。
「この火花にこそ真の必然性は認められる。
その必然性とは運命である」
人間の本当の自由とは何か?
神の摂理の導き、それが「運命」である。
したがって、運命に身をゆだねることが、人間の本当の自由となる。
なぜなら、そんな神の火花(アダム・カドモン)を私たちは本質としてもっているがゆえに、神の摂理こそが、実は自分自身の真の意思だからである。
そんな真の意思を発揮させて生きるとき、私たちは因果律を超え、予想もしなかった可能性を招き寄せることができるのだ。
この「予想もしなかった可能性の訪れ」こそが、人間にとっての「必然性」であり、言葉を換えれば「創造性」なのである。
我意によって気ままに生きることは、一見すると自由に感じられるかもしれないが、しょせんは因果律に縛られた運動にすぎない。
機械のように非創造的で予測可能な「宿命」を生きるだけであり、外的環境に操られ、縛られ、翻弄されているにすぎない。
それは、神の意思を自らの意思とし、創造的なものを生み出していく「運命」とはまったく異なったものである。
「自由と運命が対をなしているように、勝手気ままな我意と宿命は対をなしている」
たとえ、我意によって強引に「出会い」をもたらすことができたとしても、それはお互いをモノ扱いする〈我―それ〉の関係にすぎず、神の世界創造に寄与するものとはならない。
それは真の出会いではない。
ただ〈我―汝〉の関係こそが、因果律に支配されない永遠性であり、真の出会いなのである。
「〈我〉と〈汝〉とはお互いに自由に向かい合い、因果律に支配されず、他の何ものにも侵されることなく、相互に働きかける」
だが、いかに辛い状況に遭遇しようと、運命をまっとうするべく誠実に真撃に生きている者を、愛である神がいつまでもほうっておくはずがない。
神の恩恵は、必ずもたらされるであろう。
「たとえ現実は恐ろしく、不可解であっても、とにかく神の前において生命力あふれた生活の現実を生き抜くこと。
そうして現実を生き抜いた者は、神によって愛され、自らも神を愛することを知り、同時に恐ろしい現実をも愛することができるようになる」
愛は種時きのようなものである。
今日愛したからといって、明日に報われの実がなるわけではない。
だが、いつかは芽を出し、成長していく可能性を秘めている。
大きな人間だけが、人生に起こる善いことも悪いことも、相手の長所も短所も受け入れることができる。
大きな人間だけが愛することができる。
なぜなら愛は、世界のすべてを包み込むほど大きなものだから。
忘恩や裏切りを許せないのは人間として自然な気持ちである。
しかし許せないことで、人は貴重なチャンスを失うことになる。
大きな人間に成長できるというチャンスを。
愛することのできる人間に成長するチャンスを。
愛し合うという、人生最高の歓びを知るチャンスを。
『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
(斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体