第12章. 高シナジー社会に向けて
世界は今、危険である。
――バックミンスター・フラー
悟りの成長と社会的影響
個人における悟りの成長は、社会にどのように影響をおよぼすのだろうか?
われわれの価値観はどのように変化するのだろうか?
もし人類が飛躍的な進化をとげて高シナジー社会に至ったら、人生はどのようなものとなるのだろうか?
最初に注目すべき点の一つは、人類が全体として転換をとげつつあるということである。
そのため、もっとも重要な変化は、個人というより社会の行動に起こるであろう。
もう一度水が蒸気に変わるアナロジーを考えて見るといい。
沸点に達するまでは、水の分子は集合的に液体として行動する。
しかし水が沸騰し蒸気に変わると、分子の行動は急激に変化する。
それは全体として液体ではなく気体として行動する。
しかし個々の分子にはまったく変化は見られず、そこにはたらく量子物理学の法則にも変化は見られない。
変わったのは分子相互の関係である。
その結果蒸気にはたらく法則は、水にはたらく法則とはまったく別なものになる。
物理学者が「状態の変化」と呼ぶものが起こったのである。
社会に起こるのも大きな「状態の変化」をともなったこのような変容かもしれない。
物理学、化学、生物学の法則が大きく変わることはあるまいし、個々人は個別の生物学的存在として機能しつづけるにちがいない。
今と同じように呼吸し、食べ、飲み、働き、遊び、セックスするのである。
自分自身と他人に対する関係の変容がまったく異なった社会を生みはじめると、もっとも重要な変化は集合的レベルで起こるであろう。
経済学、政治学、社会学の「諸法則」は根本的に変わってしまうかもしれない。
これらが集団的行動に基づいたものだからである。
これらの法則は、蒸気の行動が水の行動と異なるのと同様、現在の諸法則とは違ったものになるだろう。
たしかにこの新しい集団的行動はわれわれの現在の行動とあまりにもかけ離れているため、いかなる予測もおぼつかないであろう(液体としての在り方しか知らない水の分子は、蒸気へ変容した後にものごとがどのようになるかを、はたして想像することができるだろうか?)。
そのため、以下に述べることは、なはだ推論的な性格をおびた未来に関する前向きのヴィジョン、一つの可能性のヴィジョンである。
後で考察するように、このような前向きのヴィジョンは非常に重要なものである。
前途に待ち構えているものに対するイメージは、われわれがいかなる種類の未来を創造するかに関して重要な役割を果たすからである。
まず第一に社会のシナジーのもっとも一般的ないくつかの特徴を見てみよう。
高シナジーの本質は、個々の構成要素の目的がシステム全体のニーズと調和しているというところにある。
その結果、構成要素相互および構成要素とシステム全体の間には最小限の摩擦しか存在しない。
人間社会におけるこうした摩擦の減少に関する証拠は、本来高レベルのシナジーをもっている部族集団に関する研究ですでに認められている。
こういった部族集団では、個人相互および個人と集団の間には、ほとんど攻撃性が見られない。
地球規模の高シナジー社会では、同じように犯罪、テロリズム、国際的対立の著しい減少をともなった全般的な摩擦と攻撃性の減少が考えられる。
われわれ全員がすべて同じ心をもっているという自覚が生まれれば、あらゆる人間の生が神聖になり、戦争、殺人、強盗、強姦などのあらゆる形態の個人的暴力はひどく呪われたものとなる。
高シナジー社会の根底には、広く行きわたった個人のアイデンティティの転換が存在するであろう。
その結果、獲得された自己を強化したいという欲求から生まれてくる適正さを欠いた浪費的かつ有害な行動が逆転されるかもしれない。
個人のアイデンティティを保とうとして、世界との相互作用に依存する必要がないために、もはや肯定的な精神的支えを探し求める必要もなく、否定的な批判によって心を傷つけられることもない。
よけいな持ち物を収集したり、「しかるべき」グループに属したり、自分が誰かを証明するために特定の信念に固執しなければならないような精神的ニーズはない。
もはや自己意識の継続的な再確認を求めなくなるため、自我の欲求ではなく、全体的な欲求を満たすために行動することができるようになる。
誰もが一体性の直接的体験から生まれた真の共感と慈悲に基づいて行動しはじめる。
さらに、より高次の意識の開発が広く行きわたると、精神性に価値を置く在り方が生活の一部として普遍的に受け入れられているような社会が生まれてくることになるだろう。
自己開発や内面的成長が、あらゆる人間の営みのしかるべき目的として、また絶えざる進化の基盤として認められるだろう。
この高シナジー社会におけるさまざまな長期的目標のなかには、たとえば健康の増進、栄養の向上、エネルギーと鉱物資源の効率的活用といったような現代社会のそれとかわらないものも含まれるであろう。
しかし、そのアプローチには大きな違いがあるだろう。
われわれは現在自分の身体を「思いやっている」のと同様に悟った意識状態によって、残りの世界を「思いやる」ようになるであろう。
その結果、このような目標は単に頭で必要であると理解されるだけでなく、積極的に求められ、すすんで実現されるようになる。
現在われわれの多くは、たとえば指を切り落とすというような、故意に自分の身体を傷つけるという考えに対しては自然に「本能的」拒絶反応を示す。
いやなことだし痛いからである。
われわれは指が自分の一部だということを心の奥底から知っている。
われわれが世界に対して同じような感覚をもてるようになるまで十分に進化すれば、世界のあらゆる局面がわれわれの身体と同様、自分自身の一部であるという、直接かつ避けることのできない自覚をもつようになる。
つまり、人類はその環境およびガイア自身と調和して生きはじめるようになるのである。
お互いや人類や環境と調和を保って生きるということは、われわれ全員の行動や欲求が画一的になるということを意味しているわけではない。
あなたの身体の細胞は、健康な有機体を保つために画一的になる必要はない。
一体性とは、もっと深いレベルのものである。
同様に、高シナジー社会では、現在と変わらないような人間や興味の多様性が存在するであろう。
たしかに、ひとつの規範に従ったり属したいという心理的欲求から解放されることによって、人々は自分の個性を表現する自由を手にするであろう。
みんなが似たものになるというより、進化する有機的社会の健康的で生産的な側面としてむしろ多様性が増すであろう。
同様に、国家レベルにおいても多様性の減少は見られないであろう。
もしなにか変化があるとしても、集団は彼ら特有の民族的、文化的遺産により密着したものとなるだろう。
しかし、多様性の増加へと向うこの傾向は、(たとえば、EECのような超国家的集団の形成と拡大にみられるような)より大きな集合性へと向う相補的な傾向となんら相反するものではない。
われわれの身体のなかで、心臓、肺、腎臓、肝臓が高度の自立性を保って機能しながら、同時により大きな全体の一部として共に働いているのと同じように、高シナジー社会では家庭、コミュニティ、州、国家あるいはそれを超えるあらゆるレベルにおいて、自立性と協調の統合が起こるだろう。
社会的シナジーは、いかなる形の全体主義的な世界国家をも決して意味するものではない。
また、高シナジー社会への転機は、われわれが直面している数多くの問題が一挙に魔法にかかったように消えてなくなることを意味するわけでもない。
公害、飢餓、エネルギー不足、鉱物資源の不足、失業、貧困、犯罪、それに社会的、人種的、性的不平等といった問題は、真剣に取り組んで解決しなければならない。
これには、個人の行動、改革運動、圧力団体が必要とされる。
われわれはこれらの問題を解決するために、今と同じあるいは今より以上の努力をする必要があるのだ。
決定的な違いは、あらゆる思考、分析、問題解決、政策決定の基盤そのものが根本的に変わってしまうということである。
メタ・パラダイムの転換が起こり、世界観も変容するはずである。
成長に限界なし
この転換の一つの結果として考えられるのは、成長というものに対する社会の姿勢の大きな変化であろう。
現在たいていの人は、成長を主に物質的な(さまざまな問題をともなう)意味で捉えている。
より高次の意識状態への全般的な転換にともない、われわれは成長というものをより広い脈絡のなかで捉えるようになるであろう。
物質的な成長を越えはしないまでも、個人的ないし精神的な成長は同じように重要なものとなり、われわれの物質的消費は自然に安定するようになる。
たとえば、1972年に人類の未来の繁栄に関心を抱いた科学者のグループ「ローマ・クラブ」の手によって出版された『成長の限界』などの報告書は、物質的成長が永遠に続くものではなく、まもなくわれわれに不可欠なさまざまの資源がなくなりはじめる、という事実を明らかにしている。
そして、それらの資源が完全に尽き果てる前に、継続的成長にともなう社会的、政治的、環境的コストが耐え難いものとなる地点に到達する(すでに分野によっては、こうした操業上の限界に達しているものもあるかもしれない)。
意識的に成長への強い衝動をおさえ、持っているもので満足することを学ばなければならないと感じている人もいる。
この感覚は、思慮深い消費、人為的に作られた「ニーズ」への抵抗、限りあるエネルギーと鉱物資源に対する敏感さなどを提唱するいわゆる「自発的簡素化」の運動に現れている。
そしてこうした価値観はますます広く行きわたりつつある。
最近のギャロップ、ハリスなどの世論調査では、アメリカの人口の70パーセントが、もっと多くの財産を手に入れつづけるよりは、より人道的な非物質的価値観を味わうことを望み、50パーセント以上が、「物のないもっと質素な生活を送ることは良いことだ」と考えていることが明らかにされている。
自発的簡素化は、たしかに強制された簡素化に比べるとはるかに魅力的であるが、そこにはいまだなにかを抑えるという感覚、「なにかをなしで済ませる」という感覚がある。
高シナジー・システムでは、自然発生的な簡素化という別の形の簡素化が現れてくるであろう。
これはニーズと感じられたものに対するいかなる自発的な抑制も抵抗もともなわないものであるが、その代わり、ニーズそのものが大きく転換する。
心理学者アブラハム・マズローは1942年に『サイコロジー・トゥデー』誌に「人間の動機に関する理論」という今日では良く知られている論文を発表した。
彼はそのなかで「欲求の階層構造」と彼が名づけたものの存在を明らかにした。
この階層構造の最下部には、日々の生存を保証する食物、水、酸素に対する欲求がある。
それが満たされると、暖かさ、安全、住居、衣服、あるいは長生きといった第二段階の欲求に向うようになる。
第三段階には、種の存続を保証する愛や生殖に対する欲求がある。
ひとたびこれらが満たされると、人々は尊敬や社会的地位を求める。
階層構造の最上部には、自己実現と悟りへの欲求が存在している。
先進国に住むわれわれの多くは、尊敬や地位への欲求つまり第四段階の欲求に固執しており、しばしば富と物質的財産を集めることによってこれを満たそうとする。
それが満たされないと、もっとたくさんの良い物を持っていたら、すべてがうまくいったにちがいないという誤った考えを抱く。
そして物質の消費は増加の一途をたどる。
もしより高次の意識状態が規範となれば、過剰消費の根本的原因の大半は消滅することだろう。
もはや獲得された自己の欲求に束縛されることがないので、実際には必要でない製品やサービスを消費することを自然にやめるようになる。
すでに物質的欲求の大半を満たすことができるために、自己実現というより高次の欲求へと自発的に移行するようになる。
その時、社会は全体として一段上がり、第五段階の欲求に達することになろう。
おそらく「成長」の問題の原因は、成長への強い衝動それ自体というよりは、むしろ成長すべきさまざまな道に関して限られた認識しかないというところにある。
自己実現をめざす運動は、成長という概念の拡大を可能にしてくれるだろう。
もはや、物質的欲望を抑えることによって成長を抑制する必要はない(それはちょうど第一段階の空腹という欲求が満たされると、ほとんどの人がもはや食欲を抑制する必要がなくなるのと同じだ)。
成長は切り詰められるのではなく、そのレベルが上がることになる。
そうなると、物質的消費は人間の満足感を損なうことなく減少しはじめるだろう。
失業の再評価
自尊心の欲求から自己実現の欲求への転換は、さまざまな価値観の大きな変化をもたらすであろう。
特筆すべきことは仕事に対する姿勢の変化であろう。
将来、伝統的な職業分野の減少も十分考えられる。
広範な職業分野におけるテクノロジーの革新およびオートメーション化の拡大によって、もはや全員がフルタイムで働く必要がなくなるかもしれない。
それに加えて、物質的欲求の低下をともなうより高次の意識状態への重大な転換が起これば、雇用はよりいっそう減少することになる。
そして最終的には相当な自由時間と他の生活分野を深く探究する機会がもたらされ、雇用と失業という概念が完全に評価し直されることになるであろう。
短期的に個人、企業、あるいは組織の利益にならないために、今日金を支払われることのないさまざまな活動は、社会全体にとっての価値によって評価されることになろう。
たとえば、自分の教義を高めたり、他人に知恵を授けたり、芸術的・文化的遺産に貢献したり、あるいは深い瞑想に入ったりというような、現在、益のある仕事と考えられていないさまざまなことに関しても、長期的には社会に利益をもたらしていると評価されるようになるかもしれない。
こうした活動を社会が評価しはじめると、現行の有給雇用と失業「手当」の区分が考え直されることになるであろう。
多くの人にとって、失業という言葉はいぜんとして否定的な含みをもっている。
これは、十分な食物と基本的な物資を得るためにすべての人が役割を果たすことを必要としていた古い時代に由来するものである。
それは、もはや当てはまらないにもかかわらず、われわれのなかには、職業に就いていることは善で、失業は悪だという気持が残っており、そのために、職に就いていない人はしばしばニ流の市民と見なされてしまう。
その結果、失業は、財政的な危機ばかりか、人格的な危機ともなってしまうのである。
「労働の権利」と就業機会の減少の間の軋轢を感じる向きもあるかもしれないが、真の軋轢は地位に対する欲求とその欲求を職業によって満たす機会が減少することの間に存在する。
高シナジー社会では、社会的地位によって自分自身を再確認したいという欲求は消え失せるため、軋轢が著しく減少する。
たしかに、自己に対してなすべきさまざまな「仕事」があるのに、四六時中仕事に就くことを求めるのは、おそらくおかしいと思われるにちがいない。
現在、仕事は往々にして時間を潰すために使われている。
これはわれわれの「注意」が、一般的に「知覚体験をむさぼる外部指向型」であることに由来している。
8時間労働は、好都合にも日中の大半を潰してくれる。
一方家庭では他の娯楽と同様テレビがうまく時間を潰してくれる。
残りの時間は、趣味、家事、社交的集まり、語らい、そして社会的に認められた少しばかりのドラッグによって潰される。
その結果、多くの人が自らの自己と1対1で向い合う時間は短ければ短いほどいいという仮定に立って生きているように見える。
「自己実現」を求める第五段階の欲求への転換が起こると、おそらく内面の開発に費やされる時聞がますます増えてくるであろう。
体験的世界のなかで、われを忘れるために余暇を使うかわりに、人々は内面的自己の探究をおこなうため、喜々として外面的世界から遠ざかろうとするにちがいない。
「労働の権利」から「存在の権利」への転換が見られるだろう。
また、増えた自由時間の大半は教育に使われるであろうが、単に学習したり学校教育を受けたりするだけにとどまらず、潜在能力を開発するために使われるようになるだろう。
教育は単に大人になる準備をするだけでなく、一生を通じての営為となるであろう。
最近では、絶え間のない改善、再教育、挑戦、刺激を必要とするような活動に従事していない限り、われわれの知的、精神的能力は学校教育が終ったあたりでほとんど成長がとまってしまう。
生涯教育は、反対の傾向を生む。
継続的成長とほとんど手つかずの潜在能力の開発が、特権的なものではなく、あたりまえのものとなるだろう。
さらに、現行の事実と情報を偏重した教育は、知識の発達とそれを学ぶ人の発達とのバランスに重点を置いたものに変わるであろう。
社会は、新たなルネッサンスに突入し、創造性、直観、個的発達を、今日の科学、テクノロジー、経済的開発と同様高く評価するようになるであろう。
技術の進歩は、生活の質をおびやかす脅威ではなく、自己実現の方向に向うことを可能にし、それによって生活の質をもっとも本質的な点で高めるための解放者と見なされるようになろう。
歴史上、分業と工業化の普及が多くの人たちを土地に縛られた状態から解放し、物質的成長にもっと時間を費やすことを可能にしてきた。
今日、われわれはテクノロジーとオートメーションの発達によって、単調な手作業から解放され、内面的成長へと移行する機会を与えられている。
この点から見て、職に就きたいという欲求の減少は人間の進化の基本的な動向である「内面的な意識の進化」と調和しているように思われる。
健康で神聖で全体的な
シナジーと健康という概念は深く関連したものであるため、当然、高シナジー社会とは健康的な社会であると考えられる。
現在、健康という概念は病気の兆候が何もないという意味で用いられている。
もし身体の調子がよくて、体温、脈拍、血圧が正常で、慢性的な痛みや発疹がなく、貧血を起こしたりすることもなければ、あなたは「健康」である。
しかし、本当の健康とはこれよりもはるかに広いものである。
健康という言葉の語源は、「全体」を意味するギリシア語ホロスという言葉がもともとの意味である。
さらに神聖(holy、ホーリー)も同じ語源からうまれた。
だから健康な(へルシーまたはウェル)人とは、心と身体と精神が十分に発達し統合された全体的人間でなければならない。
そして、本当に全体的な人とはまた神聖な人、すなわち精神的に成熟した悟った人にちがいない。
精神的に変容した社会では、このシナジーと健康の増進の関係はおそらくさまざまな形で現れてくるであろう。
まず第一に、純粋な自己の体験にいたるテクニックの大半は、肉体のリラックスと心の静寂化をともなったものである。
瞑想やヨーガなどの技法に関して行われた数多くの研究の全般的結論の一つは、それらがストレス反応とは正反対のものを生み出すということである。
血圧、心拍数、筋肉の緊張およびストレスと関連したその他の変数は、血液中のさまざまな「ストレス・ホルモン」の濃度の降下とともにすべて減少する。
またストレスは大半の肉体的、精神的疾病に何らかの形で関連があるとされている。
そのためそうした技法を実践している人は、単にリラックスしているだけでなく、一般に病気にかかりにくい。
これまでこの分野で行われてきた数少ない研究も、この仮説を支持する傾向にある。
第二に、生理的ストレスの減少に加えて、高次の意識状態へ向うと、強いストレスを感じる状況が減少してくるであろう。
これは、高シナジーに特有の軋轢と攻撃性の減少と、生理的な脅威の著しい減少によってもたらされるものである。
そのような脅威の大半は、獲得されたアイデンティティに対する脅威にすぎない。
ひとたびアイデンティティが純粋な自己に変わると、ストレスの主な要因は取り除かれることになるだろう。
第三には、人為的な健康問題の減少が挙げられよう。
現在存在する不健康のなかには、低シナジー社会の搾取的な側面に由来するものもある。
大気の汚染、飲み水に浸入した有毒廃棄物、さまざまな食品や商品のなかの発ガン性添加物、たばこ、酒、菓子、その他金儲けのために売り出されている健康の害となるものなどがそれである。
これらの要因は、それ自体や周囲の世界と調和を保っているような社会では減少するであろう。
第四に考えられるのは、医療の全包括的健康(ホリスティック・ヘルス)への転換である。
さまざまな形の内面的開発に励んでいる人たちに共通した体験は、世界との一体性だけでなく、心と身体の相互作用に対する自覚が高まるということである。
(西洋医学によく見られるように)身体的な症状だけを治療し、心理的および精神的な相関現象を無視することは、システム全体の治療にも究極的な問題の解決にもならないということが、ホリスティックなアプローチを通して明らかになってきた。
こういった自覚の成長にともない、自分自身の身体に対する関心が高まってくるであろう。
現在のところ、自我の確認を求めて自分自身の身体を食い物にする人たちもいる。
「しかるべき」(しばしば間違った)食物を食べたり、肌を小麦色にして皮膚ガンをまねいたり、注意を引こうとして自らを虐待したり、現実から逃れるために強い酒をあおったりといったものがそれである。
獲得された自己が活動の中心ではなくなってくると、このような行動はしだいに見られなくなってくるであろう。
われわれは、もっと自分自身を思いやるようになる。
これが予防医療の真の基盤であり、ホリスティック・ヘルスの真髄である。
哲学者ヘンリケ・シコリモウスキーは、「自分にもっとも身近な宇宙の断片に対して責任をもち、自分自身を通じて生命への尊敬を表現する」と述べている。
さらに、全包括的健康(ホリスティック・ヘルス)の実践が普及してくると、心自体がもつはかり知れない潜在的治癒能力に対する認識(そして責任)が高まってくるにちがいない。
今までのところ、この分野についてはほとんど研究が行われていない。
しかしこれまでに行われた研究によって、われわれ自身には普通の風邪からガンに至るいかなる病をも治癒する能力が備わっていることが示唆されている(それについては、次章でもう少し詳しく検討することにする)。
その上、この能力を最大限に発揮する心の在り方は、リラックスした注意深さという瞑想中に見られるものに非常によく似ている。
左脳と右脳
健康で全体的であることは身体のほかの部分と同様、脳にもあてはまるものである。
脳もまたより統合された機能が期待されるもうひとつの分野である。
1960年代の中頃から行われてきたさまざまな心理学の研究は、脳の左側と右側がそれぞれ異なったタイプの活動を専門にしていることを示している。
左脳は右脳にくらべて、合理的で継起的思考、読み書きや話しなどの言語的能力にかかわっているようである。
右脳は視覚的/空間的機能、容美的/情緒的認識、そしておそらく直観的思考にかかわっているようである。
このようにして、左脳はより分析的で、段階的にものごとを処理し、右脳はより統合的で全包括的に処理するという、全体像が浮び上がってきた。
左脳はまた能動的な思考、すなわち「行動」と関連づけられ、右脳は受容的な思考、すなわち「放任」と関連づけられている。
こうした能力は多くの文化で男性と女性を象徴してきたものである。
男らしさは、能動的、行動的、知的様式の機能に関連づけられ、女らしさは受動的、受容的、直観的様式と関連づけられていた。
したがって、比喩的に言うと、左脳は男らしさ、右脳は女らしさを表している。
ほとんどの現代社会では、人々は右脳より左脳に関連した機能を用いがちである。
これは、世界に対するわれわれの全般的アプローチに反映されている。
従事している活動とか職業、評価、奨励されるタイプの精神的活動などに反映されているのである。
たとえばわれわれがある人のことを「頭がいい」と言う場合、普通、その人が論理的に考え、正しい判断を下し、自分自身を明確に表現することができるということを意味している。
これらはすべて主に左脳の活動である。
この左脳指向は、一つにはわれわれの教育制度を反映したものである。
たいていの人は、右脳よりは左脳と関連した機能(つまり三つのR「読み、書き、算数」)をどのようにして開発し使うかということを教えられる。
存在よりも行動と目的の達成が西洋で強調されてきたことが、左脳思考に拍車をかけてきたのである。
瞑想中の人の脳波の活動に関する研究は、脳の両側からくる脳波の活動が漸進的に同調していくことを明らかにした。
瞑想が(主観的に言って)深ければ深いほど、同化の度合いが高い。
この同調性は、二つの思考様式のバランスの向上を示唆している。
ということは、悟った状態では、おそらく思考は分析的で全包括的、知的で直観的、能動的で受動的だと思われる。
これは、個人レベルにおける変化の描写である。
おそらく社会的レベルにおいても、これに匹敵するものが存在するであろう。
人類を一つの全体として見た場合にも、左脳優位のアプローチが支配的であるということは、「グローバル・ブレイン」もまた左優位であることを示唆している。
これは科学、テクノロジー、合理的思考に心を奪われ、何かことを起こそうとする現代社会の男性的性格に顕されている。
それとは対照的に、女性原理は生きている地球のエネルギー、生命の生成と維持、地球と調和を保った生き方などに象徴されている。
これは、目下のところ十分に利用されていないグローバル・ブレインの右脳にほかならない。
われわれが左脳思考と右脳思考のバランスを取り、誰もがもつ内なる男性と女性を統合していけば、グローバル・ブレインの二つの側面も同様にバランスのよい姿を見せてくれるかもしれない。
この観点からすると、フェミニズムの波の高まりが、男性優位の社会に対する待ちに待った反抗以上のものであることがわかる。
それは、また、個人と社会両方で高まりつつある意識の転換の兆しなのかもしれない。
広範な意識の変容にともなって、社会的な態度や価値が両性具有的なものになる可能性がある。
これは中性的という意味ではなく、男性的な性質と女性的な性質の統合を意味している。
男性的思考と女性的思考の大きな相違は、認識された価値と与えられた価値にある。
グローバル・ブレインの左脳と右脳のバランスと統合もその二つのバランスと統合であろう。
共時性の支配
広範な意識の転換によって生み出されるもうひとつの主な変化は、共時性(シンクロニシティ)と呼ばれる奇妙で不可解な偶然の一致の増加であろう。
こうした偶然の一致は、社会的超有機体へ向う人類にとって平均的な当然のことになるかもしれない。
有名なスイスの心理学者カール・ユングは、共時性を宇宙に働く非因果的な結合の法則だと述べている。
非因果的出来事とは、はっきりした物理的関連性がなく、互いにまったく影響を与え合うことのない複数の出来事である。
しかしこうした出来事は、それにかかわりのある人々にとって、しばしば非常に意味深い形で結びついている場合がある。
これが共時性、すなわち意味のある偶然の一致である(したがって、単に二つの無関係な出来事が同時に起こることを指す同時性(シンクロニズム)とは異なる)。
ユングは共時性の一例として次のような話を挙げている。
デイシャーング氏は少年時代オルレアンズにいた時、デ・フォルトギーブ氏から一切れのプラム・プディングを貰ったことがあった。
1O年後、パリのレストランでプラム・プディングを見つけ一切れ注文した。
しかしそのプラム・プディングはすでにデ・フォルトギーブ氏によって注文されていることがわかった。
何年も後になってデイシャーング氏は、パーティでプラム・プディングのお相伴をするように誘われた。
それを食べている時、たった一つ欠けているものはデ・フォルトギーブ氏だということに気づいた。
その瞬間ドアが開いて、道に迷った老人がなかに入って来た。
それは住所を間違えてパーティに紛れ込んできたデ・フォルトギーブ氏であった。
奇妙に聞こえるかもしれないが、こうした偶然の一致はさほど珍しいものではない。
アラン・ヴォーガンは、その著書『信じがたい偶然の一致』のなかでこのような例について詳しく論じている。
たとえば、彼は、鍵を置き忘れて家をロックしてしまったある女性が、懸命になかに入る方法を捜している時、貸していたスペアー・キーを同封した兄からの手紙を郵便配達の人が持ってきたという例を挙げている。
もうひとつ典型的なケースとして、ある男がニューヨークの地下鉄でうっかりまちがった駅で下車し、出口についてようやく間違いに気づき、電車に戻ろうとした瞬間、訪問しようとしていたまさにその人に出くわしたという例がある。
こうした偶然の一致は統計的に見て重要ではないと論じることもできる。
当然、こうしたことは時として起こる。
もちろん、思いがけない出会いを一回体験するには、偶然の一致のない場合が百回も千回もあることだろう。
この議論にもたしかに一理ある。
ここで、問題となってくるのは、こうした一致が単に偶然としてかたづけてしまうことができないほど頻繁に起こるかどうかということである。
残念なことに、これが事実か否かを示す統計値を集めることは事実上不可能である。
特定の奇妙な一致の起こる可能性を見積るのはそれほど難しくない。
ヴォーガン自身多くのケースについて分析を行い、確率は約一兆分の一だということを発見した。
難しいのは、起こりえたはずなのに起こらなかった他の数多くの予期せざる一致をどう査定するかということにある。
しかし、こうした体験には二つの一般的な特徴があり、それはこうした体験が単なる偶然以上のものであり、高シナジー社会にとって重要な意味をもっていることを示している。
第一に、こうした偶然の一致は、概してそれにかかわった人にとって有益なものであり、その時点での望みや欲求を満たしているように思われる。
そのうえ、他人を犠牲にして偶然の一致から利益を得るわけではない。
一般に、かかわりをもったすべての人のニーズはその相互作用によって満たされるのである。
もしも、こうしたことが偶然の出来事だとしたら肯定的影響と同じくらい否定的影響が出てもいいはずである。
だが、実際にはそうではないようだ。
否定的な例もいくつか報告されているが、それがあたりまえというわけではない。
肯定的なものにしか気づかないとは考えられない。
ほとんどの場合、周囲の状況がそれを支えるような役割を演じているようである。
でたらめな出来事どころか、それらは好意的な性質をもっているように見える。
第二に、こうした偶然の一致が起こる確率は、それにかかわっている人の心の状態から直接影響を受けているように思われる。
起こると心に決めれば起こすことができるというわけではない。
意図的になると逆の結果を招きやすい。
まちがった駅で地下鉄を降りた人が、意識してそうした出会いを招こうとしていたとしたら、まずだめであったであろう。
何かをしようとすることは、行動であり、世の中を操ろうとする活動形態の一つである。
これは、そういった体験にはそぐわない状態だと思われる。
そういった体験は、ある種の無意識の意思決定を受け入れやすい、無理に逆らわずに世界とともに在るような受容的な状態の時の方が、より頻繁に起こるようだからである。
理論的には、共時性の発生は瞑想によってもたらされる心の状態に近いリラックスした安らかな心の状態によって助長される。
なんらかの種類の瞑想を実践している人の多くが、瞑想がより深く澄み切っていればいるほど、奇妙な共時性のパターンを体験することも多くなることに気づいている。
この傾向は、長期間の集中的な瞑想キャンプの後で特に顕著に見られる。
普通の生活に戻ると、毎日がもっともありそうもない、最大の心の支えになるような共時性の連続のように見えてくる。
懐疑的な人は、こうした状況にある人は単に共時性に気づきやすいだけであると論じるかもしれない。
だが、共時性があまりにも顕著で意味深く、人生そのものに大きな影響を与えるようになったとしたら、そのような共時性を見過ごす可能性があったなどとは信じられないであろう。
この共時性と心の状態の関係は、なにも新しい発見ではない。
25OO年前、古代インドの『ウパニシャッド』はこれを次のように述べている。
『心が一定で純粋であれば、何であれ望みはすべて叶えられる。』
キリスト教にも同様の主張を見ることができる。
たとえば、2O世紀の有名なイギリスの大主教ウィリアム・テンプルは、
「私が祈ると、偶然の一致が起こりはじめ、祈っていない時には、それは起こらない。」
と述べている。
この観察は、重要なのは祈りのなかの特殊な祈願ではなく、共時性を受け入れやすい意識状態の達成であることを示唆している。
たしかに宗教的教えのほとんどが、もっとも高度な形態の祈りとは、心を静め結合的レベルの意識に心を開く精神的霊的瞑想だと見ている。
ということは、多くの人が意識レベルを上げはじめると、共時性がはるかに広く行きわたった出来事になると考えることもできるだろう。
もうすでにそれが始まっているという人たちもいる。
たとえば、フィンドホーン(内面的成長と心の込もった労働を目ざす北スコットランドにある数百人のコミュニティ)では、こうした偶然の一致の連鎖は生活の一部として認められている。
事実、こうした体験が起こらなくなったら、気をつけた方がいいと感じている人たちもいる。
それは内面的調和の欠如を示す兆だからだ。
もしより高次の意識状態がひとつのリアリティとなれば、おそらく心の支えとなる偶然の一致がもはや不思議がられることなく、自然な秩序として認められるような社会が生まれるであろう。
あらゆる人にとって、ものごとがすべてうまくいくような社会である。
自分の身体の細胞の例にちょっと戻ってみよう。
もし、細胞に自覚があるとしたら、それがどのように共時性を体験するかを考えてみよう。
血液が必要な時に必要な酸素と栄養を運び、同時に廃棄物ができるとそれを取り除いている、ということに細胞は気づくであろう。
そうした細胞は、自らの生命を支える欲求の大半を自然に満たしてくれる信じがたい偶然の一致の連鎖に驚嘆するにちがいない。
あらゆるものが正にしかるべく機能し、祈りはつねに叶えられると思うであろう。
独立した応答機関とか神の存在を思い浮べるかもしれない。
だが、有機体全体という視点からこの状況を見ると、細胞が「奇妙な偶然の一致」の連鎖と感じたことは、実は身体全体が一つの生命システムとして機能していることに由来する高シナジーに帰することができる。
細胞は身体を生きていると直接に「自覚する」ことはないが、にもかかわらずこの全体性が生み出す高シナジーの恩恵を受けている。
さらに、身体が健康であればあるほど、細胞は自らを支えてくれる偶然の一致に気づきやすくなる。
われわれが奇妙な偶然の一致の連鎖と見ているものも、いまだ未発達の社会的超有機体である集合的レベルにおけるより高度の組織原理の個人レベルでの顕れかもしれない。
人類がより統合され、より健康な高シナジー・システムとして機能するようになれば、われわれを支える偶然の一致の数も着実に増加していくであろう。
ということは、全人類にわたる共時性の体験の増加は、グローバルなレベルの有機体の出現をつげる最初の大きな兆候といえるかもしれない。
ESPと奇蹟
共時性と関連したものとして、テレパシー、透視、予知といった、超感覚的知覚あるいはESPとして知られている超常現象がある。
こうした現象の因果関係を解明するためにさまざまなことが試みられてきたが、なぜそのようなことが起こるのか満足な説明ができた人はだれもいない。
人によっては、これだけでもそうした超常現象の正当性を否定するのに十分な理由になるであろう。
しかし、たとえばユングのように、それらを共時的現象の実例だと考え、たいていの科学が扱う因果的な時空の領域を超えたより高度の組織原理を示すものと見ている人たちもいる。
この見解を受け入れると、共時性の全般的増加は、同時にESPの増加につながることになる。
ESPというと「他人の心を読む」とか「競馬の勝馬を予測する」ことができるというようなイメージをもつ人がいるかもしれない。
たしかにこういったことは可能かもしれないが、そうした現象は通常そういう現れ方はしない。
たとえば、テレパシーとは文字どおり「離れたものを感じる」ことを意味し、たしかにこうした体験は感覚レベルで起こる場合が多いように思われる。
突然、友だちからはっきりとしたメッセージを受けるより、親しい友だちが病気だという感覚をもつほうが多いであろう。
もし、そのようなものが存在するとしても、そうした才能はごく少数の限られた人のものだと思われるかもしれない。
しかし、最近の研究では、われわれすべてがこうした隠れた才能をもっていることが示唆されている。
スタンフォード研究所のラッセル・ターグとハロルド・パソフは彼らが「遠隔観察」と呼ぶものに関する調査を行っている。
これはでたらめに選んだ未知の場所の光景を、描写する能力である。
彼らはその実験を最初は心霊的な能力の十分に発達した人から始めたが、後に、誰でも同じように標的の場所をうまく描写できることを発見した。
たとえば、特別な才能をもっていないと言われている会社の秘書が、定評のある心霊術師と同じくらいの得点を上げた。
おそらく、重要なのは、心の中に突然現れてくる通常では偽物ないし的はずれなものとして拒否されてしまう、かすかなイメージや予感の開発に対して、全般的に心を開いているかあるいはその気があるかということであろう。
こうした研究は、ESPが知られているよりはるかに広範かつ頻繁に起こるということを示している。
他の実験は、これらの現象では言語的分析的な左脳より視覚的な右脳のほうが働いていることを示している。
おそらく脳の左半球に関連した技能に集中しがちなわれわれの傾向が、テレパシーその他のESPを体験する人が少ないという結果につながっているのだろう。
ESPの実験では、言語的考えではなく、イメージを描写するように言われた時のほうが、正確さが増すようである(左脳に損傷を受けた人のほうがESPに長けている場合がよくあるが、おそらくそれは右脳の機能があまり邪魔されることがないからであろう)。
右脳の特徴と見なされている心の受容的な状態は、同時にESPの助けにもなるようである。
他の形態の共時性と同様、これらの現象を起こそうとするのは非常に困難である。
そのため、もし、より高次の意識状態が右脳と左脳の統合につながるとしたら、より広範にESP現象が起こるようになるかもしれない。
これは、こうした才能は意識状態が高まるにつれ、まったく自然に開発されるとするさまざまな精神的教えの支持するところでもある。
しかし、精神的に啓発された社会で開発される超能力は、ESPに限られているわけではない。
大半の精神的伝統や神秘主義者の著作は、ESPが精神的幼稚園のようにしかみえなくなる他のさまざまな能力が現れてくると示唆している。
たとえばインドでは、悟りの結果としてシッダ(悉知)と呼ばれる能力が生じてくるといわれている。
ヨーガ哲学の礎である古代経典の『ヨーガ・スートラ』は、テレパシーや透視から不可視性、空中浮遊、水面歩行、同時に二つの場所に現れるといったものに及ぶ約52の能力について記している。
仏陀の教えを集めた『アングッタラ・ニカーヤ』(増壱阿合経)は、同様な超能力について次のように語っている。
「たくさんに分身し、現れては消え、壁を通り抜けることのできる人がいる。
彼は、まるで水を出入りするように地面を出入りする。
地面を歩くように沈むことなく水面を歩く。
足を組んで座ったままで、翼ある鳥のように空を飛ぶ。」
そうした力をもっていたといわれていたのは仏陀自身ばかりか、彼の弟子の数百人の僧侶もそうであった。
こうした能力が報告されているのは東洋に限られているわけではない。
キリスト教の文献のなかでは、ノア、エレミヤ、イザヤ、キリストが同様な力を発揮している。
キリストの場合、このような能力はしばしば彼の神性の証明と見なされているが、彼自身はこうした能力はあらゆる人に開かれたものであると主張していた。
「汝はこうしたことをすべてなすことができるであろう。」
かつてキリストが水の上を歩くのを見たペテロは、彼自身もまた、「信仰を失う」までそれができた。
多くの聖人や聖者が同じような奇蹟を行ったといわれている。
中世キリスト教の二聖人、アヴィラの聖テレサとサン・ファン・デ・ラ・クルスは、ともに空中を浮遊し、数多くの人がその空中浮遊を目撃した。
シエナのカタリナやコベルティノのヨセフも、同じような能力をもっているといわれていた。
たしかにそのような能力は霊性の発達の自然の結果と見られることから、ローマ・カトリック教会は奇蹟を行うことを公式の列聖の必要条件としている。
自然科学はどのようにしてこうした現象が起こり得るかを、いぜんとして説明することができない。
多くの場合それらは現行のパラダイムと明らかに矛盾する。
そのため、このような主張はすべて、普通の出来事の誇大な解釈とか単なる幻想として「ありえない」と拒絶する。
しかし、世界中のさまざまな教えがそのような現象を肯定しているという事実は、もしいまだ理解できず体験さえないとしても、完全に拒否してしまうべきではないということを示している。
もし、そうした主張が正当であることがわかれば、悟りをひらいた人たちの社会とは誰もがこうした能力をもっている社会だと、考えることができるかもしれない。
信じられない?ありそうもない?こうした現象は、来たるべき変容がどんなに深遠なものかを示しているのかもしれない。
あたかも水の分子が蒸気を垣間見るようなものであろう。
こうした能力が精神的に変容した社会の一部であろうとなかろうと、あるいはどのような予想だにしないことが起こるにせよ、いぜんとして、高シナジー社会は本当に現れるか、という疑問が残されている。
人類が大きな進化の飛躍に向っていることを示す証拠が数多くあり、また、そうした転換が起こるとすれば、何百年も先ではあるまいということを認めたとしても、それが不可避なものではないことはたしかである。
だが未来は、すでに決められているものでもない。
われわれがこの方向に向って進むか否かの選択は、ほとんどわれわれのうちにあるといっても過言ではあるまい。
『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体