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第12章. 高シナジー社会に向けて

ユートピア以外考えられないほど
世界は今、危険である。
  ――バックミンスター・フラー

悟りの成長と社会的影響

個人における悟りの成長は、社会にどのように影響をおよぼすのだろうか?
われわれの価値観はどのように変化するのだろうか?
もし人類が飛躍的な進化をとげて高シナジー社会に至ったら、人生はどのようなものとなるのだろうか?

最初に注目すべき点の一つは、人類が全体として転換をとげつつあるということである。
そのため、もっとも重要な変化は、個人というより社会の行動に起こるであろう。

もう一度水が蒸気に変わるアナロジーを考えて見るといい。
沸点に達するまでは、水の分子は集合的に液体として行動する。
しかし水が沸騰し蒸気に変わると、分子の行動は急激に変化する。
それは全体として液体ではなく気体として行動する。
しかし個々の分子にはまったく変化は見られず、そこにはたらく量子物理学の法則にも変化は見られない。
変わったのは分子相互の関係である。

その結果蒸気にはたらく法則は、水にはたらく法則とはまったく別なものになる。
物理学者が「状態の変化」と呼ぶものが起こったのである。

社会に起こるのも大きな「状態の変化」をともなったこのような変容かもしれない。
物理学、化学、生物学の法則が大きく変わることはあるまいし、個々人は個別の生物学的存在として機能しつづけるにちがいない。
今と同じように呼吸し、食べ、飲み、働き、遊び、セックスするのである。

自分自身と他人に対する関係の変容がまったく異なった社会を生みはじめると、もっとも重要な変化は集合的レベルで起こるであろう。
経済学、政治学、社会学の「諸法則」は根本的に変わってしまうかもしれない。
これらが集団的行動に基づいたものだからである。
これらの法則は、蒸気の行動が水の行動と異なるのと同様、現在の諸法則とは違ったものになるだろう。

たしかにこの新しい集団的行動はわれわれの現在の行動とあまりにもかけ離れているため、いかなる予測もおぼつかないであろう(液体としての在り方しか知らない水の分子は、蒸気へ変容した後にものごとがどのようになるかを、はたして想像することができるだろうか?)。
そのため、以下に述べることは、なはだ推論的な性格をおびた未来に関する前向きのヴィジョン、一つの可能性のヴィジョンである。

後で考察するように、このような前向きのヴィジョンは非常に重要なものである。
前途に待ち構えているものに対するイメージは、われわれがいかなる種類の未来を創造するかに関して重要な役割を果たすからである。

まず第一に社会のシナジーのもっとも一般的ないくつかの特徴を見てみよう。
高シナジーの本質は、個々の構成要素の目的がシステム全体のニーズと調和しているというところにある。
その結果、構成要素相互および構成要素とシステム全体の間には最小限の摩擦しか存在しない。
人間社会におけるこうした摩擦の減少に関する証拠は、本来高レベルのシナジーをもっている部族集団に関する研究ですでに認められている。
こういった部族集団では、個人相互および個人と集団の間には、ほとんど攻撃性が見られない。
地球規模の高シナジー社会では、同じように犯罪、テロリズム、国際的対立の著しい減少をともなった全般的な摩擦と攻撃性の減少が考えられる。
われわれ全員がすべて同じ心をもっているという自覚が生まれれば、あらゆる人間の生が神聖になり、戦争、殺人、強盗、強姦などのあらゆる形態の個人的暴力はひどく呪われたものとなる。

高シナジー社会の根底には、広く行きわたった個人のアイデンティティの転換が存在するであろう。
その結果、獲得された自己を強化したいという欲求から生まれてくる適正さを欠いた浪費的かつ有害な行動が逆転されるかもしれない。
個人のアイデンティティを保とうとして、世界との相互作用に依存する必要がないために、もはや肯定的な精神的支えを探し求める必要もなく、否定的な批判によって心を傷つけられることもない。
よけいな持ち物を収集したり、「しかるべき」グループに属したり、自分が誰かを証明するために特定の信念に固執しなければならないような精神的ニーズはない。
もはや自己意識の継続的な再確認を求めなくなるため、自我の欲求ではなく、全体的な欲求を満たすために行動することができるようになる。
誰もが一体性の直接的体験から生まれた真の共感と慈悲に基づいて行動しはじめる。

さらに、より高次の意識の開発が広く行きわたると、精神性に価値を置く在り方が生活の一部として普遍的に受け入れられているような社会が生まれてくることになるだろう。
自己開発や内面的成長が、あらゆる人間の営みのしかるべき目的として、また絶えざる進化の基盤として認められるだろう。

この高シナジー社会におけるさまざまな長期的目標のなかには、たとえば健康の増進、栄養の向上、エネルギーと鉱物資源の効率的活用といったような現代社会のそれとかわらないものも含まれるであろう。
しかし、そのアプローチには大きな違いがあるだろう。
われわれは現在自分の身体を「思いやっている」のと同様に悟った意識状態によって、残りの世界を「思いやる」ようになるであろう。
その結果、このような目標は単に頭で必要であると理解されるだけでなく、積極的に求められ、すすんで実現されるようになる。

現在われわれの多くは、たとえば指を切り落とすというような、故意に自分の身体を傷つけるという考えに対しては自然に「本能的」拒絶反応を示す。
いやなことだし痛いからである。
われわれは指が自分の一部だということを心の奥底から知っている。
われわれが世界に対して同じような感覚をもてるようになるまで十分に進化すれば、世界のあらゆる局面がわれわれの身体と同様、自分自身の一部であるという、直接かつ避けることのできない自覚をもつようになる。
つまり、人類はその環境およびガイア自身と調和して生きはじめるようになるのである。

お互いや人類や環境と調和を保って生きるということは、われわれ全員の行動や欲求が画一的になるということを意味しているわけではない。
あなたの身体の細胞は、健康な有機体を保つために画一的になる必要はない。
一体性とは、もっと深いレベルのものである。
同様に、高シナジー社会では、現在と変わらないような人間や興味の多様性が存在するであろう。
たしかに、ひとつの規範に従ったり属したいという心理的欲求から解放されることによって、人々は自分の個性を表現する自由を手にするであろう。
みんなが似たものになるというより、進化する有機的社会の健康的で生産的な側面としてむしろ多様性が増すであろう。

同様に、国家レベルにおいても多様性の減少は見られないであろう。
もしなにか変化があるとしても、集団は彼ら特有の民族的、文化的遺産により密着したものとなるだろう。
しかし、多様性の増加へと向うこの傾向は、(たとえば、EECのような超国家的集団の形成と拡大にみられるような)より大きな集合性へと向う相補的な傾向となんら相反するものではない。
われわれの身体のなかで、心臓、肺、腎臓、肝臓が高度の自立性を保って機能しながら、同時により大きな全体の一部として共に働いているのと同じように、高シナジー社会では家庭、コミュニティ、州、国家あるいはそれを超えるあらゆるレベルにおいて、自立性と協調の統合が起こるだろう。
社会的シナジーは、いかなる形の全体主義的な世界国家をも決して意味するものではない。

また、高シナジー社会への転機は、われわれが直面している数多くの問題が一挙に魔法にかかったように消えてなくなることを意味するわけでもない。
公害、飢餓、エネルギー不足、鉱物資源の不足、失業、貧困、犯罪、それに社会的、人種的、性的不平等といった問題は、真剣に取り組んで解決しなければならない。
これには、個人の行動、改革運動、圧力団体が必要とされる。
われわれはこれらの問題を解決するために、今と同じあるいは今より以上の努力をする必要があるのだ。
決定的な違いは、あらゆる思考、分析、問題解決、政策決定の基盤そのものが根本的に変わってしまうということである。
メタ・パラダイムの転換が起こり、世界観も変容するはずである。

成長に限界なし

この転換の一つの結果として考えられるのは、成長というものに対する社会の姿勢の大きな変化であろう。
現在たいていの人は、成長を主に物質的な(さまざまな問題をともなう)意味で捉えている。
より高次の意識状態への全般的な転換にともない、われわれは成長というものをより広い脈絡のなかで捉えるようになるであろう。
物質的な成長を越えはしないまでも、個人的ないし精神的な成長は同じように重要なものとなり、われわれの物質的消費は自然に安定するようになる。

たとえば、1972年に人類の未来の繁栄に関心を抱いた科学者のグループ「ローマ・クラブ」の手によって出版された『成長の限界』などの報告書は、物質的成長が永遠に続くものではなく、まもなくわれわれに不可欠なさまざまの資源がなくなりはじめる、という事実を明らかにしている。
そして、それらの資源が完全に尽き果てる前に、継続的成長にともなう社会的、政治的、環境的コストが耐え難いものとなる地点に到達する(すでに分野によっては、こうした操業上の限界に達しているものもあるかもしれない)。

意識的に成長への強い衝動をおさえ、持っているもので満足することを学ばなければならないと感じている人もいる。
この感覚は、思慮深い消費、人為的に作られた「ニーズ」への抵抗、限りあるエネルギーと鉱物資源に対する敏感さなどを提唱するいわゆる「自発的簡素化」の運動に現れている。

そしてこうした価値観はますます広く行きわたりつつある。
最近のギャロップ、ハリスなどの世論調査では、アメリカの人口の70パーセントが、もっと多くの財産を手に入れつづけるよりは、より人道的な非物質的価値観を味わうことを望み、50パーセント以上が、「物のないもっと質素な生活を送ることは良いことだ」と考えていることが明らかにされている。

自発的簡素化は、たしかに強制された簡素化に比べるとはるかに魅力的であるが、そこにはいまだなにかを抑えるという感覚、「なにかをなしで済ませる」という感覚がある。
高シナジー・システムでは、自然発生的な簡素化という別の形の簡素化が現れてくるであろう。
これはニーズと感じられたものに対するいかなる自発的な抑制も抵抗もともなわないものであるが、その代わり、ニーズそのものが大きく転換する。

心理学者アブラハム・マズローは1942年に『サイコロジー・トゥデー』誌に「人間の動機に関する理論」という今日では良く知られている論文を発表した。
彼はそのなかで「欲求の階層構造」と彼が名づけたものの存在を明らかにした。
この階層構造の最下部には、日々の生存を保証する食物、水、酸素に対する欲求がある。
それが満たされると、暖かさ、安全、住居、衣服、あるいは長生きといった第二段階の欲求に向うようになる。
第三段階には、種の存続を保証する愛や生殖に対する欲求がある。
ひとたびこれらが満たされると、人々は尊敬や社会的地位を求める。
階層構造の最上部には、自己実現と悟りへの欲求が存在している。

先進国に住むわれわれの多くは、尊敬や地位への欲求つまり第四段階の欲求に固執しており、しばしば富と物質的財産を集めることによってこれを満たそうとする。
それが満たされないと、もっとたくさんの良い物を持っていたら、すべてがうまくいったにちがいないという誤った考えを抱く。
そして物質の消費は増加の一途をたどる。

もしより高次の意識状態が規範となれば、過剰消費の根本的原因の大半は消滅することだろう。
もはや獲得された自己の欲求に束縛されることがないので、実際には必要でない製品やサービスを消費することを自然にやめるようになる。
すでに物質的欲求の大半を満たすことができるために、自己実現というより高次の欲求へと自発的に移行するようになる。
その時、社会は全体として一段上がり、第五段階の欲求に達することになろう。

おそらく「成長」の問題の原因は、成長への強い衝動それ自体というよりは、むしろ成長すべきさまざまな道に関して限られた認識しかないというところにある。
自己実現をめざす運動は、成長という概念の拡大を可能にしてくれるだろう。
もはや、物質的欲望を抑えることによって成長を抑制する必要はない(それはちょうど第一段階の空腹という欲求が満たされると、ほとんどの人がもはや食欲を抑制する必要がなくなるのと同じだ)。
成長は切り詰められるのではなく、そのレベルが上がることになる。
そうなると、物質的消費は人間の満足感を損なうことなく減少しはじめるだろう。

失業の再評価

自尊心の欲求から自己実現の欲求への転換は、さまざまな価値観の大きな変化をもたらすであろう。
特筆すべきことは仕事に対する姿勢の変化であろう。
将来、伝統的な職業分野の減少も十分考えられる。
広範な職業分野におけるテクノロジーの革新およびオートメーション化の拡大によって、もはや全員がフルタイムで働く必要がなくなるかもしれない。

それに加えて、物質的欲求の低下をともなうより高次の意識状態への重大な転換が起これば、雇用はよりいっそう減少することになる。
そして最終的には相当な自由時間と他の生活分野を深く探究する機会がもたらされ、雇用と失業という概念が完全に評価し直されることになるであろう。

短期的に個人、企業、あるいは組織の利益にならないために、今日金を支払われることのないさまざまな活動は、社会全体にとっての価値によって評価されることになろう。
たとえば、自分の教義を高めたり、他人に知恵を授けたり、芸術的・文化的遺産に貢献したり、あるいは深い瞑想に入ったりというような、現在、益のある仕事と考えられていないさまざまなことに関しても、長期的には社会に利益をもたらしていると評価されるようになるかもしれない。
こうした活動を社会が評価しはじめると、現行の有給雇用と失業「手当」の区分が考え直されることになるであろう。

多くの人にとって、失業という言葉はいぜんとして否定的な含みをもっている。
これは、十分な食物と基本的な物資を得るためにすべての人が役割を果たすことを必要としていた古い時代に由来するものである。
それは、もはや当てはまらないにもかかわらず、われわれのなかには、職業に就いていることは善で、失業は悪だという気持が残っており、そのために、職に就いていない人はしばしばニ流の市民と見なされてしまう。
その結果、失業は、財政的な危機ばかりか、人格的な危機ともなってしまうのである。

「労働の権利」と就業機会の減少の間の軋轢を感じる向きもあるかもしれないが、真の軋轢は地位に対する欲求とその欲求を職業によって満たす機会が減少することの間に存在する。
高シナジー社会では、社会的地位によって自分自身を再確認したいという欲求は消え失せるため、軋轢が著しく減少する。
たしかに、自己に対してなすべきさまざまな「仕事」があるのに、四六時中仕事に就くことを求めるのは、おそらくおかしいと思われるにちがいない。

現在、仕事は往々にして時間を潰すために使われている。
これはわれわれの「注意」が、一般的に「知覚体験をむさぼる外部指向型」であることに由来している。
8時間労働は、好都合にも日中の大半を潰してくれる。
一方家庭では他の娯楽と同様テレビがうまく時間を潰してくれる。
残りの時間は、趣味、家事、社交的集まり、語らい、そして社会的に認められた少しばかりのドラッグによって潰される。

その結果、多くの人が自らの自己と1対1で向い合う時間は短ければ短いほどいいという仮定に立って生きているように見える。

「自己実現」を求める第五段階の欲求への転換が起こると、おそらく内面の開発に費やされる時聞がますます増えてくるであろう。
体験的世界のなかで、われを忘れるために余暇を使うかわりに、人々は内面的自己の探究をおこなうため、喜々として外面的世界から遠ざかろうとするにちがいない。

「労働の権利」から「存在の権利」への転換が見られるだろう。

また、増えた自由時間の大半は教育に使われるであろうが、単に学習したり学校教育を受けたりするだけにとどまらず、潜在能力を開発するために使われるようになるだろう。
教育は単に大人になる準備をするだけでなく、一生を通じての営為となるであろう。

最近では、絶え間のない改善、再教育、挑戦、刺激を必要とするような活動に従事していない限り、われわれの知的、精神的能力は学校教育が終ったあたりでほとんど成長がとまってしまう。
生涯教育は、反対の傾向を生む。
継続的成長とほとんど手つかずの潜在能力の開発が、特権的なものではなく、あたりまえのものとなるだろう。

さらに、現行の事実と情報を偏重した教育は、知識の発達とそれを学ぶ人の発達とのバランスに重点を置いたものに変わるであろう。
社会は、新たなルネッサンスに突入し、創造性、直観、個的発達を、今日の科学、テクノロジー、経済的開発と同様高く評価するようになるであろう。
技術の進歩は、生活の質をおびやかす脅威ではなく、自己実現の方向に向うことを可能にし、それによって生活の質をもっとも本質的な点で高めるための解放者と見なされるようになろう。

歴史上、分業と工業化の普及が多くの人たちを土地に縛られた状態から解放し、物質的成長にもっと時間を費やすことを可能にしてきた。
今日、われわれはテクノロジーとオートメーションの発達によって、単調な手作業から解放され、内面的成長へと移行する機会を与えられている。
この点から見て、職に就きたいという欲求の減少は人間の進化の基本的な動向である「内面的な意識の進化」と調和しているように思われる。

健康で神聖で全体的な

シナジーと健康という概念は深く関連したものであるため、当然、高シナジー社会とは健康的な社会であると考えられる。
現在、健康という概念は病気の兆候が何もないという意味で用いられている。
もし身体の調子がよくて、体温、脈拍、血圧が正常で、慢性的な痛みや発疹がなく、貧血を起こしたりすることもなければ、あなたは「健康」である。

しかし、本当の健康とはこれよりもはるかに広いものである。
健康という言葉の語源は、「全体」を意味するギリシア語ホロスという言葉がもともとの意味である。
さらに神聖(holy、ホーリー)も同じ語源からうまれた。
だから健康な(へルシーまたはウェル)人とは、心と身体と精神が十分に発達し統合された全体的人間でなければならない。
そして、本当に全体的な人とはまた神聖な人、すなわち精神的に成熟した悟った人にちがいない。

精神的に変容した社会では、このシナジーと健康の増進の関係はおそらくさまざまな形で現れてくるであろう。
まず第一に、純粋な自己の体験にいたるテクニックの大半は、肉体のリラックスと心の静寂化をともなったものである。
瞑想やヨーガなどの技法に関して行われた数多くの研究の全般的結論の一つは、それらがストレス反応とは正反対のものを生み出すということである。
血圧、心拍数、筋肉の緊張およびストレスと関連したその他の変数は、血液中のさまざまな「ストレス・ホルモン」の濃度の降下とともにすべて減少する。
またストレスは大半の肉体的、精神的疾病に何らかの形で関連があるとされている。
そのためそうした技法を実践している人は、単にリラックスしているだけでなく、一般に病気にかかりにくい。
これまでこの分野で行われてきた数少ない研究も、この仮説を支持する傾向にある。

第二に、生理的ストレスの減少に加えて、高次の意識状態へ向うと、強いストレスを感じる状況が減少してくるであろう。
これは、高シナジーに特有の軋轢と攻撃性の減少と、生理的な脅威の著しい減少によってもたらされるものである。
そのような脅威の大半は、獲得されたアイデンティティに対する脅威にすぎない。
ひとたびアイデンティティが純粋な自己に変わると、ストレスの主な要因は取り除かれることになるだろう。

第三には、人為的な健康問題の減少が挙げられよう。
現在存在する不健康のなかには、低シナジー社会の搾取的な側面に由来するものもある。
大気の汚染、飲み水に浸入した有毒廃棄物、さまざまな食品や商品のなかの発ガン性添加物、たばこ、酒、菓子、その他金儲けのために売り出されている健康の害となるものなどがそれである。
これらの要因は、それ自体や周囲の世界と調和を保っているような社会では減少するであろう。

第四に考えられるのは、医療の全包括的健康(ホリスティック・ヘルス)への転換である。
さまざまな形の内面的開発に励んでいる人たちに共通した体験は、世界との一体性だけでなく、心と身体の相互作用に対する自覚が高まるということである。
(西洋医学によく見られるように)身体的な症状だけを治療し、心理的および精神的な相関現象を無視することは、システム全体の治療にも究極的な問題の解決にもならないということが、ホリスティックなアプローチを通して明らかになってきた。

こういった自覚の成長にともない、自分自身の身体に対する関心が高まってくるであろう。
現在のところ、自我の確認を求めて自分自身の身体を食い物にする人たちもいる。
「しかるべき」(しばしば間違った)食物を食べたり、肌を小麦色にして皮膚ガンをまねいたり、注意を引こうとして自らを虐待したり、現実から逃れるために強い酒をあおったりといったものがそれである。

獲得された自己が活動の中心ではなくなってくると、このような行動はしだいに見られなくなってくるであろう。
われわれは、もっと自分自身を思いやるようになる。
これが予防医療の真の基盤であり、ホリスティック・ヘルスの真髄である。
哲学者ヘンリケ・シコリモウスキーは、「自分にもっとも身近な宇宙の断片に対して責任をもち、自分自身を通じて生命への尊敬を表現する」と述べている。

さらに、全包括的健康(ホリスティック・ヘルス)の実践が普及してくると、心自体がもつはかり知れない潜在的治癒能力に対する認識(そして責任)が高まってくるにちがいない。
今までのところ、この分野についてはほとんど研究が行われていない。
しかしこれまでに行われた研究によって、われわれ自身には普通の風邪からガンに至るいかなる病をも治癒する能力が備わっていることが示唆されている(それについては、次章でもう少し詳しく検討することにする)。

その上、この能力を最大限に発揮する心の在り方は、リラックスした注意深さという瞑想中に見られるものに非常によく似ている。

左脳と右脳

健康で全体的であることは身体のほかの部分と同様、脳にもあてはまるものである。
脳もまたより統合された機能が期待されるもうひとつの分野である。
1960年代の中頃から行われてきたさまざまな心理学の研究は、脳の左側と右側がそれぞれ異なったタイプの活動を専門にしていることを示している。
左脳は右脳にくらべて、合理的で継起的思考、読み書きや話しなどの言語的能力にかかわっているようである。
右脳は視覚的/空間的機能、容美的/情緒的認識、そしておそらく直観的思考にかかわっているようである。

このようにして、左脳はより分析的で、段階的にものごとを処理し、右脳はより統合的で全包括的に処理するという、全体像が浮び上がってきた。
左脳はまた能動的な思考、すなわち「行動」と関連づけられ、右脳は受容的な思考、すなわち「放任」と関連づけられている。

こうした能力は多くの文化で男性と女性を象徴してきたものである。
男らしさは、能動的、行動的、知的様式の機能に関連づけられ、女らしさは受動的、受容的、直観的様式と関連づけられていた。
したがって、比喩的に言うと、左脳は男らしさ、右脳は女らしさを表している。

ほとんどの現代社会では、人々は右脳より左脳に関連した機能を用いがちである。
これは、世界に対するわれわれの全般的アプローチに反映されている。
従事している活動とか職業、評価、奨励されるタイプの精神的活動などに反映されているのである。
たとえばわれわれがある人のことを「頭がいい」と言う場合、普通、その人が論理的に考え、正しい判断を下し、自分自身を明確に表現することができるということを意味している。
これらはすべて主に左脳の活動である。

この左脳指向は、一つにはわれわれの教育制度を反映したものである。
たいていの人は、右脳よりは左脳と関連した機能(つまり三つのR「読み、書き、算数」)をどのようにして開発し使うかということを教えられる。
存在よりも行動と目的の達成が西洋で強調されてきたことが、左脳思考に拍車をかけてきたのである。

瞑想中の人の脳波の活動に関する研究は、脳の両側からくる脳波の活動が漸進的に同調していくことを明らかにした。
瞑想が(主観的に言って)深ければ深いほど、同化の度合いが高い。
この同調性は、二つの思考様式のバランスの向上を示唆している。
ということは、悟った状態では、おそらく思考は分析的で全包括的、知的で直観的、能動的で受動的だと思われる。

これは、個人レベルにおける変化の描写である。
おそらく社会的レベルにおいても、これに匹敵するものが存在するであろう。
人類を一つの全体として見た場合にも、左脳優位のアプローチが支配的であるということは、「グローバル・ブレイン」もまた左優位であることを示唆している。
これは科学、テクノロジー、合理的思考に心を奪われ、何かことを起こそうとする現代社会の男性的性格に顕されている。

それとは対照的に、女性原理は生きている地球のエネルギー、生命の生成と維持、地球と調和を保った生き方などに象徴されている。
これは、目下のところ十分に利用されていないグローバル・ブレインの右脳にほかならない。
われわれが左脳思考と右脳思考のバランスを取り、誰もがもつ内なる男性と女性を統合していけば、グローバル・ブレインの二つの側面も同様にバランスのよい姿を見せてくれるかもしれない。

この観点からすると、フェミニズムの波の高まりが、男性優位の社会に対する待ちに待った反抗以上のものであることがわかる。
それは、また、個人と社会両方で高まりつつある意識の転換の兆しなのかもしれない。

広範な意識の変容にともなって、社会的な態度や価値が両性具有的なものになる可能性がある。
これは中性的という意味ではなく、男性的な性質と女性的な性質の統合を意味している。
男性的思考と女性的思考の大きな相違は、認識された価値と与えられた価値にある。
グローバル・ブレインの左脳と右脳のバランスと統合もその二つのバランスと統合であろう。

共時性の支配

広範な意識の転換によって生み出されるもうひとつの主な変化は、共時性(シンクロニシティ)と呼ばれる奇妙で不可解な偶然の一致の増加であろう。
こうした偶然の一致は、社会的超有機体へ向う人類にとって平均的な当然のことになるかもしれない。

有名なスイスの心理学者カール・ユングは、共時性を宇宙に働く非因果的な結合の法則だと述べている。
非因果的出来事とは、はっきりした物理的関連性がなく、互いにまったく影響を与え合うことのない複数の出来事である。
しかしこうした出来事は、それにかかわりのある人々にとって、しばしば非常に意味深い形で結びついている場合がある。
これが共時性、すなわち意味のある偶然の一致である(したがって、単に二つの無関係な出来事が同時に起こることを指す同時性(シンクロニズム)とは異なる)。

ユングは共時性の一例として次のような話を挙げている。
デイシャーング氏は少年時代オルレアンズにいた時、デ・フォルトギーブ氏から一切れのプラム・プディングを貰ったことがあった。
1O年後、パリのレストランでプラム・プディングを見つけ一切れ注文した。
しかしそのプラム・プディングはすでにデ・フォルトギーブ氏によって注文されていることがわかった。
何年も後になってデイシャーング氏は、パーティでプラム・プディングのお相伴をするように誘われた。
それを食べている時、たった一つ欠けているものはデ・フォルトギーブ氏だということに気づいた。
その瞬間ドアが開いて、道に迷った老人がなかに入って来た。
それは住所を間違えてパーティに紛れ込んできたデ・フォルトギーブ氏であった。

奇妙に聞こえるかもしれないが、こうした偶然の一致はさほど珍しいものではない。
アラン・ヴォーガンは、その著書『信じがたい偶然の一致』のなかでこのような例について詳しく論じている。
たとえば、彼は、鍵を置き忘れて家をロックしてしまったある女性が、懸命になかに入る方法を捜している時、貸していたスペアー・キーを同封した兄からの手紙を郵便配達の人が持ってきたという例を挙げている。
もうひとつ典型的なケースとして、ある男がニューヨークの地下鉄でうっかりまちがった駅で下車し、出口についてようやく間違いに気づき、電車に戻ろうとした瞬間、訪問しようとしていたまさにその人に出くわしたという例がある。

こうした偶然の一致は統計的に見て重要ではないと論じることもできる。
当然、こうしたことは時として起こる。
もちろん、思いがけない出会いを一回体験するには、偶然の一致のない場合が百回も千回もあることだろう。
この議論にもたしかに一理ある。
ここで、問題となってくるのは、こうした一致が単に偶然としてかたづけてしまうことができないほど頻繁に起こるかどうかということである。
残念なことに、これが事実か否かを示す統計値を集めることは事実上不可能である。
特定の奇妙な一致の起こる可能性を見積るのはそれほど難しくない。
ヴォーガン自身多くのケースについて分析を行い、確率は約一兆分の一だということを発見した。
難しいのは、起こりえたはずなのに起こらなかった他の数多くの予期せざる一致をどう査定するかということにある。

しかし、こうした体験には二つの一般的な特徴があり、それはこうした体験が単なる偶然以上のものであり、高シナジー社会にとって重要な意味をもっていることを示している。

第一に、こうした偶然の一致は、概してそれにかかわった人にとって有益なものであり、その時点での望みや欲求を満たしているように思われる。
そのうえ、他人を犠牲にして偶然の一致から利益を得るわけではない。
一般に、かかわりをもったすべての人のニーズはその相互作用によって満たされるのである。
もしも、こうしたことが偶然の出来事だとしたら肯定的影響と同じくらい否定的影響が出てもいいはずである。
だが、実際にはそうではないようだ。
否定的な例もいくつか報告されているが、それがあたりまえというわけではない。
肯定的なものにしか気づかないとは考えられない。
ほとんどの場合、周囲の状況がそれを支えるような役割を演じているようである。
でたらめな出来事どころか、それらは好意的な性質をもっているように見える。

第二に、こうした偶然の一致が起こる確率は、それにかかわっている人の心の状態から直接影響を受けているように思われる。
起こると心に決めれば起こすことができるというわけではない。
意図的になると逆の結果を招きやすい。
まちがった駅で地下鉄を降りた人が、意識してそうした出会いを招こうとしていたとしたら、まずだめであったであろう。
何かをしようとすることは、行動であり、世の中を操ろうとする活動形態の一つである。
これは、そういった体験にはそぐわない状態だと思われる。

そういった体験は、ある種の無意識の意思決定を受け入れやすい、無理に逆らわずに世界とともに在るような受容的な状態の時の方が、より頻繁に起こるようだからである。
理論的には、共時性の発生は瞑想によってもたらされる心の状態に近いリラックスした安らかな心の状態によって助長される。

なんらかの種類の瞑想を実践している人の多くが、瞑想がより深く澄み切っていればいるほど、奇妙な共時性のパターンを体験することも多くなることに気づいている。
この傾向は、長期間の集中的な瞑想キャンプの後で特に顕著に見られる。
普通の生活に戻ると、毎日がもっともありそうもない、最大の心の支えになるような共時性の連続のように見えてくる。

懐疑的な人は、こうした状況にある人は単に共時性に気づきやすいだけであると論じるかもしれない。
だが、共時性があまりにも顕著で意味深く、人生そのものに大きな影響を与えるようになったとしたら、そのような共時性を見過ごす可能性があったなどとは信じられないであろう。

この共時性と心の状態の関係は、なにも新しい発見ではない。
25OO年前、古代インドの『ウパニシャッド』はこれを次のように述べている。
『心が一定で純粋であれば、何であれ望みはすべて叶えられる。』

キリスト教にも同様の主張を見ることができる。
たとえば、2O世紀の有名なイギリスの大主教ウィリアム・テンプルは、
「私が祈ると、偶然の一致が起こりはじめ、祈っていない時には、それは起こらない。」
と述べている。

この観察は、重要なのは祈りのなかの特殊な祈願ではなく、共時性を受け入れやすい意識状態の達成であることを示唆している。
たしかに宗教的教えのほとんどが、もっとも高度な形態の祈りとは、心を静め結合的レベルの意識に心を開く精神的霊的瞑想だと見ている。

ということは、多くの人が意識レベルを上げはじめると、共時性がはるかに広く行きわたった出来事になると考えることもできるだろう。
もうすでにそれが始まっているという人たちもいる。
たとえば、フィンドホーン(内面的成長と心の込もった労働を目ざす北スコットランドにある数百人のコミュニティ)では、こうした偶然の一致の連鎖は生活の一部として認められている。
事実、こうした体験が起こらなくなったら、気をつけた方がいいと感じている人たちもいる。
それは内面的調和の欠如を示す兆だからだ。

もしより高次の意識状態がひとつのリアリティとなれば、おそらく心の支えとなる偶然の一致がもはや不思議がられることなく、自然な秩序として認められるような社会が生まれるであろう。
あらゆる人にとって、ものごとがすべてうまくいくような社会である。

自分の身体の細胞の例にちょっと戻ってみよう。
もし、細胞に自覚があるとしたら、それがどのように共時性を体験するかを考えてみよう。
血液が必要な時に必要な酸素と栄養を運び、同時に廃棄物ができるとそれを取り除いている、ということに細胞は気づくであろう。
そうした細胞は、自らの生命を支える欲求の大半を自然に満たしてくれる信じがたい偶然の一致の連鎖に驚嘆するにちがいない。
あらゆるものが正にしかるべく機能し、祈りはつねに叶えられると思うであろう。
独立した応答機関とか神の存在を思い浮べるかもしれない。

だが、有機体全体という視点からこの状況を見ると、細胞が「奇妙な偶然の一致」の連鎖と感じたことは、実は身体全体が一つの生命システムとして機能していることに由来する高シナジーに帰することができる。
細胞は身体を生きていると直接に「自覚する」ことはないが、にもかかわらずこの全体性が生み出す高シナジーの恩恵を受けている。
さらに、身体が健康であればあるほど、細胞は自らを支えてくれる偶然の一致に気づきやすくなる。

われわれが奇妙な偶然の一致の連鎖と見ているものも、いまだ未発達の社会的超有機体である集合的レベルにおけるより高度の組織原理の個人レベルでの顕れかもしれない。
人類がより統合され、より健康な高シナジー・システムとして機能するようになれば、われわれを支える偶然の一致の数も着実に増加していくであろう。
ということは、全人類にわたる共時性の体験の増加は、グローバルなレベルの有機体の出現をつげる最初の大きな兆候といえるかもしれない。

ESPと奇蹟

共時性と関連したものとして、テレパシー、透視、予知といった、超感覚的知覚あるいはESPとして知られている超常現象がある。
こうした現象の因果関係を解明するためにさまざまなことが試みられてきたが、なぜそのようなことが起こるのか満足な説明ができた人はだれもいない。
人によっては、これだけでもそうした超常現象の正当性を否定するのに十分な理由になるであろう。

しかし、たとえばユングのように、それらを共時的現象の実例だと考え、たいていの科学が扱う因果的な時空の領域を超えたより高度の組織原理を示すものと見ている人たちもいる。
この見解を受け入れると、共時性の全般的増加は、同時にESPの増加につながることになる。
ESPというと「他人の心を読む」とか「競馬の勝馬を予測する」ことができるというようなイメージをもつ人がいるかもしれない。
たしかにこういったことは可能かもしれないが、そうした現象は通常そういう現れ方はしない。
たとえば、テレパシーとは文字どおり「離れたものを感じる」ことを意味し、たしかにこうした体験は感覚レベルで起こる場合が多いように思われる。
突然、友だちからはっきりとしたメッセージを受けるより、親しい友だちが病気だという感覚をもつほうが多いであろう。
もし、そのようなものが存在するとしても、そうした才能はごく少数の限られた人のものだと思われるかもしれない。

しかし、最近の研究では、われわれすべてがこうした隠れた才能をもっていることが示唆されている。
スタンフォード研究所のラッセル・ターグとハロルド・パソフは彼らが「遠隔観察」と呼ぶものに関する調査を行っている。
これはでたらめに選んだ未知の場所の光景を、描写する能力である。
彼らはその実験を最初は心霊的な能力の十分に発達した人から始めたが、後に、誰でも同じように標的の場所をうまく描写できることを発見した。
たとえば、特別な才能をもっていないと言われている会社の秘書が、定評のある心霊術師と同じくらいの得点を上げた。
おそらく、重要なのは、心の中に突然現れてくる通常では偽物ないし的はずれなものとして拒否されてしまう、かすかなイメージや予感の開発に対して、全般的に心を開いているかあるいはその気があるかということであろう。
こうした研究は、ESPが知られているよりはるかに広範かつ頻繁に起こるということを示している。

他の実験は、これらの現象では言語的分析的な左脳より視覚的な右脳のほうが働いていることを示している。
おそらく脳の左半球に関連した技能に集中しがちなわれわれの傾向が、テレパシーその他のESPを体験する人が少ないという結果につながっているのだろう。
ESPの実験では、言語的考えではなく、イメージを描写するように言われた時のほうが、正確さが増すようである(左脳に損傷を受けた人のほうがESPに長けている場合がよくあるが、おそらくそれは右脳の機能があまり邪魔されることがないからであろう)。
右脳の特徴と見なされている心の受容的な状態は、同時にESPの助けにもなるようである。
他の形態の共時性と同様、これらの現象を起こそうとするのは非常に困難である。

そのため、もし、より高次の意識状態が右脳と左脳の統合につながるとしたら、より広範にESP現象が起こるようになるかもしれない。
これは、こうした才能は意識状態が高まるにつれ、まったく自然に開発されるとするさまざまな精神的教えの支持するところでもある。

しかし、精神的に啓発された社会で開発される超能力は、ESPに限られているわけではない。
大半の精神的伝統や神秘主義者の著作は、ESPが精神的幼稚園のようにしかみえなくなる他のさまざまな能力が現れてくると示唆している。

たとえばインドでは、悟りの結果としてシッダ(悉知)と呼ばれる能力が生じてくるといわれている。
ヨーガ哲学の礎である古代経典の『ヨーガ・スートラ』は、テレパシーや透視から不可視性、空中浮遊、水面歩行、同時に二つの場所に現れるといったものに及ぶ約52の能力について記している。

仏陀の教えを集めた『アングッタラ・ニカーヤ』(増壱阿合経)は、同様な超能力について次のように語っている。
「たくさんに分身し、現れては消え、壁を通り抜けることのできる人がいる。
彼は、まるで水を出入りするように地面を出入りする。
地面を歩くように沈むことなく水面を歩く。
足を組んで座ったままで、翼ある鳥のように空を飛ぶ。」
そうした力をもっていたといわれていたのは仏陀自身ばかりか、彼の弟子の数百人の僧侶もそうであった。

こうした能力が報告されているのは東洋に限られているわけではない。
キリスト教の文献のなかでは、ノア、エレミヤ、イザヤ、キリストが同様な力を発揮している。
キリストの場合、このような能力はしばしば彼の神性の証明と見なされているが、彼自身はこうした能力はあらゆる人に開かれたものであると主張していた。
「汝はこうしたことをすべてなすことができるであろう。」
かつてキリストが水の上を歩くのを見たペテロは、彼自身もまた、「信仰を失う」までそれができた。
多くの聖人や聖者が同じような奇蹟を行ったといわれている。
中世キリスト教の二聖人、アヴィラの聖テレサとサン・ファン・デ・ラ・クルスは、ともに空中を浮遊し、数多くの人がその空中浮遊を目撃した。
シエナのカタリナやコベルティノのヨセフも、同じような能力をもっているといわれていた。
たしかにそのような能力は霊性の発達の自然の結果と見られることから、ローマ・カトリック教会は奇蹟を行うことを公式の列聖の必要条件としている。

自然科学はどのようにしてこうした現象が起こり得るかを、いぜんとして説明することができない。
多くの場合それらは現行のパラダイムと明らかに矛盾する。
そのため、このような主張はすべて、普通の出来事の誇大な解釈とか単なる幻想として「ありえない」と拒絶する。
しかし、世界中のさまざまな教えがそのような現象を肯定しているという事実は、もしいまだ理解できず体験さえないとしても、完全に拒否してしまうべきではないということを示している。

もし、そうした主張が正当であることがわかれば、悟りをひらいた人たちの社会とは誰もがこうした能力をもっている社会だと、考えることができるかもしれない。
信じられない?ありそうもない?こうした現象は、来たるべき変容がどんなに深遠なものかを示しているのかもしれない。
あたかも水の分子が蒸気を垣間見るようなものであろう。

こうした能力が精神的に変容した社会の一部であろうとなかろうと、あるいはどのような予想だにしないことが起こるにせよ、いぜんとして、高シナジー社会は本当に現れるか、という疑問が残されている。

人類が大きな進化の飛躍に向っていることを示す証拠が数多くあり、また、そうした転換が起こるとすれば、何百年も先ではあるまいということを認めたとしても、それが不可避なものではないことはたしかである。

だが未来は、すでに決められているものでもない。
われわれがこの方向に向って進むか否かの選択は、ほとんどわれわれのうちにあるといっても過言ではあるまい。


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

第11章. 意識の時代の曙

地球上のあらゆるところで、今この瞬間、
進化の思想により作り出された新しい精神的環境の中に、
超人の不可欠なニつの構成要素である 神の愛と世界への信仰が、
互いに非常に反応しやすい状態で浮遊している。
この二つの要素は
「空中」のいたるところに存在している。
・・・早晩、連鎖反応が起こるだろう。
  ――テイヤール・ド・シャルダン

情報時代から意識の時代へ
さまざまな自己開発プログラムに関してよく聞かれるもう一つの見解は、それがごくマイナーな社会的現象にすぎないというものである。
内面の成長に直接かかわっている人の数はほんのわずかで、そうした努力が彼ら自身にどんな影響を与えるとしても、人類全体に対しては大きなインパクトとはならないと非難する人もいるだろう。

ある意味でこの批判は正しい。
現状では意識の開発が、人類の広範な興味を引くに至っていないということについてはあまり疑問をさしはさむ余地はない。
しかし、この領域の急速な成長から見て、この分野が近い将来人類にきわめて重要な影響を与えるようになる可能性は十分ある。

われわれは自然の成長パターンの大半が示す指数関数曲線について先に検討した(109ページ)。
それは、絶え間ない倍加時間(数が倍になるのに要する時間)の短縮によって特徴づけられており、曲線の勾配は加速的に急になっていった。

人間の心は(たとえば世界の人口の増加にひるんでしまうように)指数関数曲線の加速的性質にうまく対応することができず、与えられた成長曲線の将来を予測するさい、ことに自然発生的な急速な変化の予測をする場合、われわれはこの加速に正しい評価を与えていないように見える。
気をつけていないと、成長率が変化することを忘れ、直線的予測をしてしまう。
普通、こうした予測は実際をはるかに下回る結果に終わる。

人がいつ月に到達するかを予測するさいに起こったことは、このような判断の誤りを示す好例といえる。
1948年の『サイエンス・ダイジェスト』誌の記事は、「月面着陸や月の周りを回ることは人間に数多くの重大な問題をもたらすため、科学がそれらの問題を克服するにはもう200年はかかるだろう」と論じていた。
数年後、著名な科学者たちによる会議がイギリスで開かれたが、長い議論の末、似てはいるがいくらか楽観的な結論に達した。
必要とされるすべての技術的進歩をなし遂げるためには長い時間を要するため、われわれは西暦2OOO年以前に人が月面に立つ姿を見ることはあるまいと言明したのである。
彼らは当時の成長率にしたがって正確に予測を行ったのかもしれないが、わずか15年後に人が月面に到達することを可能にした技術の加速的発達を考慮に入れていなかったように思われる。

おそらくもっとなじみ深い例はテレビのスター・トレック・シリーズであろう。
このシリーズは今から2OO年後の出来事として描かれていたが、10年間で現実のほうがその予測のうちのいくつかに追いついてしまった。
キャプテン・カークは磁気テープを使った「原始的なコンピュータ」に向って照会を行っていた。
現実にそうしたコンピュータはすでに原始的である。
また、カークのコンピュータは合成された人間の声で喋ったが、その開発も予測された20分の1の時間で現実のものとなってしまった。

スター・トレックの台本作家が並はずれて素朴だったというわけではない。
1960年代にその後20年間に起こったコンピュータと情報テクノロジーのめざましい普及を予測できたものはほとんどいなかった。
その成長が見えにくかったのは、倍加時聞があまりにも短かったためである。
情報テクノロジーに従事する人の数は6年ごとに倍増し、その一方でコンピュータは毎年2倍の能力をもつようになっている。
かりに今後1O年の技術の状況を現場予測しようとすると、おそらくわれわれは発想の基盤を今起こっていることに置いてしまい、それが継続的に成長するだけでなく成長率自体も同様に急速に増加するということを考慮に入れ忘れてしまうであろう。

もっとも「空想的な」予想ですら、実際に起こることにははるかに及ばないかもしれない。
紙と鉛筆を手にして曲線を描いてみない限り、ものごとがどこに向っているかを正確に感じ取ることはできない。

確かに情報産業は急速に成長するであろうが、それが人間活動のうちでもっとも成長の速い分野というわけではないだろう。
意識の転換に向けての動きは、さらに速く成長する徴候を示している。
この分野にかかわっている人の数は、約4年ごとに倍になっている。
数だけを考えた場合、この動きは現在それほど重要だというわけではないが、どうもこの動きは社会が今まで経験したこともないような急勾配の成長曲線をたどっているように見える。

この証拠はさまざまな分野に存在する。
イギリスで私が行った基礎研究は、人々がこの分野に積極的にかかわっていく率を分析したものである。
内面の成長に取り組んでいる5OO人へのインタビューが行われた。
なかには相当長期間(5O年という人もいる)取り組んでいる人も何人かいるが、4Oパーセントは過去4年以内にこの道にはいってきた人である。
全般的な成長率の分析の結果は、平均倍加時聞は4年をほんの少し超えたくらいだということを示している。
さらに、この成長率には興味を失った人は含まれておらず、かかわり続けている人だけにあてはまるものである。

こうした成長率を補強するデータとしては、内面的転換に意欲的なさまざまな団体から提供された会員数を挙げることができよう。
その多くは2年から4年の倍加時間で増加していることを示している。
その上、そうした団体の数自体もほぼ同じ倍加時間で急速に増加している。
団体の数が規模とともにこの割合で倍増しているということは、それにかかわっている人の総数はもっと短期間、つまり1年ないし2年ごとに倍になるということを示している。
しかし、人によっては2つ以上の団体に所属し、2度以上数えられているかもしれないし、またこうした団体の多くは最初非常に急速な拡大期を経た後、徐々に延びが鈍化し横這いにさえなり、(図12に見られるように)典型的なS字カーブに向うということを考慮に入れなければならない。

たとえばワーナー・エアハードが始めた自己開発セミナー、エスト(EST)は最初の4年間は毎年2倍になったが今では3年ごとにようやく倍になっているにすぎない。
こうした傾向の最終的結果は推測しがたいが、だいたい3年から4年の間あたりが最終的な倍加時間のように思われる。

この問題への興味の増大を判断するもう一つの方法は、出版される本や雑誌の数によるものである。
この分野に関連した新しい出版物が出る速度の分析は、約3年から4年が倍加時間だろうということを示しており、これもまた一般的傾向を裏打ちしている。
総じてこの分野に関する関心の広がり方の一般的倍加時聞を4年と考えるのも、あながち的はずれではないように思われる。

われわれはこの議論を、さまざまな意識高揚のグループはマイナーな社会的現象にすぎないという批判から始めた。
しかし、指数的成長の分析を見れば、単なる数は全体的成長率ほど重大ではないということがわかる。
これらの動きは情報産業よりも速い速度で成長し、もし現在の傾向がさらに持続されれば、それが今どんなに小さなものに見えようと、「意識」の曲線はやがて情報の曲線に追いつきそれを追い越すことだろう。

正確にいつ曲線が交差するのかは、より高い意識へ向う動きに現在かかわっている人の人口比率に依存している。
これは、現時点では確かめることはできない。
政府機関は、それをまだ分析に値する現象だとは見ていない。
しかし、1978年のギャロップの世論調査はアメリカにおける数が約200万人に達していることを示している。
この場合、4年という倍加時間がさらに続く限り、これから2O年以内にアメリカの総人口の半分が意識の開発に熱中することになる。

もしこれが信じられないとすれば、それはまたもや現場予測において指数的成長の急激な加速に公平な評価を下すことができないことに起因している。
わずか2O年前コンピュータ産業に従事していた人の数が、今現在意識の拡大に従事している人の数よりはるかに少なかったことを思い起こして欲しい。
にもかかわらず、その曲線にいったいなにが起こっただろうか。

意識の高揚に興味をもっている人のなかには、実際にこの分野で(セラピスト、瞑想指導者などとして)職に就いている人もいる。
もしこのまま関心が高まり続けると、この職域で働く人の数も増加し、おそらく、次の世紀のはじめごろには、「意識処理」の雇用曲線が情報処理のそれを凌駕する地点に到達するだろう。
その時、人間の意識の進化は、人類の活動のもっとも支配的な分野になり、われわれは「情報の時代」から「意識の時代」への転換を遂げるであろう。

これは食料、物質的財産、情報が十分に満たされ、人間の活動の主要な推進力が内的フロンティアの探究へ向うことができるようになる時を表している。
自己開発が第一目的となり、人々は今日電卓やカセット・テープに親しんでいるのと同様に、瞑想や霊的体験に親しむことになるだろう。
SFのような話に聞こえるかもしれないが、私は進化に関する考察として、これは十分ありうると思っている。
すでに人類の一部が向いつつある方向の自然な延長だからだ。

これまで使ってきた素材は、西洋、アメリカ、イギリスにおける傾向に限られたものである。
こういったことはあまり開発の進んでいない国には当てはまらない。
その多くは、いまだ工業化時代への転換すら経ていない。
それにもかかわらず、発展途上国と先進国の間のずれはすでに縮まりつつある。

発展途上国が工業化時代に移行し、そこから西洋のような情報の時代に移行するには、それほど長くはかからないといわれている。
それと同様に、おそらく彼らは意識の時代にもっと速く移行するであろう。
もし想像どおりになったとしたら、きっと次の世紀のうちに地球のほぼ全域で意識の開発が人類の活動の中心をしめるようになるだろう。

実際には、この転換は私の予想よりももっと速やかに起こる可能性がある。
まず第一に、現在内面的開発に従事している人たちは、圧倒的に物質や外面を指向する文化的脈絡のなかでそれをおこなっている。
彼らは、古い意識の惰性に逆らっている。
しかし、より高次の意識状態に達した人の比率が高まるにつれて、古い意識の惰性は衰え、同時に新しい方向を支えるような勢いが増してくる。
その結果、おそらく内面的道がますます進みやすいものになってくるのではなかろうか。

転換がはるかに速く起こる第二の理由は、別に人口の大半が意識の変革を追求しはじめるのを待つまでもなく、われわれはその効果を感じられるからである。
より高い意識状態にある少数の人たちが、社会に対して桁はずれの肯定的な影響を与えるかもしれない。

もし一人の人の意識がなんらかの形で他の人の意識に直接影響を与えるとすれば、こうした結果が生まれよう。
こうした考えは奇妙に聞こえるかもしれないが、まったくありえないというわけではない。
それがつねに起こっていることを示す証拠がますます増えてきつつある。

心のリンク

心が互いに影響を与えあうという考えは、超感覚的知覚の領域、なかでもテレパシーと関連したものである。
これは、長い間激しい論議を呼んでいる話題である。
この分野そのものが、現在の科学的パラダイムの潜在的危機を象徴している。
予知、透視といった体験は、世界の機能の仕方に関する最近のモデルにあてはまらないために、そういった体験に関しては何とか説明するか拒絶してしまうしかない。
もしそうでないとしたら、モデルそのものを変えてしまわなければならない。

ここで最近の議論のようすを検討している余裕はない――簡単な調査でさえ十分に一冊の本が書けるだろう――あるいは、なにが本当に「超常的」(通常の科学的説明のらち外にあるということを意味する)なのか、あるいはどれが正統派の科学で説明できるのかといったことをここで問題にする必要はない。
私自身の体験がこの種の現象がたしかに起こるということを示してくれている。

この分野の研究は、現在までのところ特定の体験に焦点を合わせることに重きを置いている。
人は他人が考えたり感じたりすることを知りうるのか?
他人の頭のなかにあるイメージをどの程度正確に描くことができるだろうか?
ここで、人の全般的な意識状態や脳の活動が、他人のそういったものからどの程度直接的影響を受けるかという、もっと一般的な効果を考えてみよう。

これは、1970年代中頃になってようやく真剣な科学的関心を集めはじめるようになった、比較的新しい研究分野である(主に、適当な研究技術や装置の開発を待たなければならなかったことが原因である)。
この分野の初期の実験の一つは、スタンフォード研究所のラッセル・ターグとハロルド・パソフによっておこなわれた。
彼らは、すでにお互いを良く知っていてある程度感情的な親近感をもっているペア(普通は近い親戚や夫婦)を選び、2人を完全に分離するために、ビルの両端にある別々の部屋に入れた。
無作為に選ばれた時間に、ペアの1人の目に閃光を照射する。
これは、脳のアルファ波の全体的レベルを、一時的に下げる効果がある(アルファ波とは、意識の弛緩状態にともなう特定の脳波のリズムである)。
その間、もう1人は、別室のパートナーが閃光をいつ体験したかという質問をされた。
その人はこの問題には答えられなかった。
彼の確率は当て推量で予測したものと大差なかった。
彼にはもう一人がどんな状態にあったかを「言い当てる」ことはできなかったが、彼の脳のアルファ波は最初の人と同じ時に降下した。

その後、他の研究者たちは別の生理的変数を観察する同様の実験をおこなった。
特定の脳の状態を作り出すかわりに、第一の人をストレス状態において、ストレス反応を皮膚の抵抗や他のパラメータの変化によって測定した。
第二の人はこの場合もまた第一の人にいったいいつストレスが与えられたかを言い当てることはできなかったが、彼の皮膚抵抗には変化が見られた。
これらの研究やその他の類似した研究は、特定の状況下において、われわれが意識のレベルでは気づいていない場合でさえ、なんらかの方法でお互いの全般的な心の状態に感応することができると結論づけている。

こうした影響が、アルファ波やストレス状態に限られると考えなければならない理由はなにもない。
もしその現象が本物だとしたら、悟りにともなったより高い意識状態も含めて、他のさまざまな意識状態にも同様のことが起こると考えられる。
そしてたしかに、数多くの神秘主義的、精神的教えのなかにはこうした現象の証拠が見られる。

インド思想の重要な要素の一つに、悟った人が他の人に悟りの味わいを伝えることができるというダルシャンという観念がある。
その体験は、師を見たり触れたりすることによって起こることもあれば、悟った人と一緒にいるだけで起こることもある。
また、伝統によっては、悟った人がそこにいる必要はなく、単に心のなかに存在すればよい場合もある。

どんな形にしろ、ダルシャシが起こると、その効果は非常に強力だと考えられている。
その体験は、非常に深い瞑想によってもたらされるものによく似たものである。
5分間出会っただけで、一週間あるいは一か月にわたってより高い意識状態が続くこともある。
その上、単なる幸福感だけではなく、実際に悟りの状態の諸局面を体験するのである。

そうした出来事には、直接的な心のつながりなど不要だと論じることもできる。
こういう現象は適当な心理的誘因さえ与えられれば、そうした体験を自ら生み出す能力をわれわれのほとんどが持っているということを、単に示しているにすぎないのかもしれない。
にもかかわらず、その体験は非常に強力であり、その人の生活を根本的に変えることができるものである。
どうも悟りとは、「伝染性」のように思われる。

これに似ているのが、キリスト教の恩寵という概念である。
キリストは人に神の恩寵をもたらし、人はそのような恩寵によって霊的なめざめを得ることができる。
一般に恩寵と訳されるギリシア語は「カリス」である。
本来、「カリスマ的」な人物とは恩寵を授かった人のことであり、今日、霊的体験は直接人々に授けられるという信仰に基づく数多くのカリスマ的キリスト教の宗派が存在している。

おそらく瞑想中にそれに匹敵する転移が起こりうるという仮説を立てることができるであろう。
悟りの境地ではないとしても、瞑想中の人は一般に活動的な人とは異った意識状態にあり、異なった脳の活動のパターンを示す。
するとそばにいる別の人も、それをまったく意識していないにもかかわらず、同様な脳の活動の変化を示しはじめる。
もしこの第二の人物も瞑想をしている場合には、自らの体験がいくぶん深まり、促進されていることに気づくであろう。

そして、その人の瞑想は、第一の人にも同様の効果を及ぼす。
この相互のフィードバック・プロセスによって、集団で瞑想する方が瞑想が深まるという数多くの瞑想者の体験を説明することができる。
集団の人数が多ければ多いほど、その効果は強まるのである。

こうした現象は、単に一つの部屋のなかだけで起こるわけではない。
1979年におこなわれた研究によると、同様のことが非常に距離の離れた集団相互においても起こりうる。
マハリシ国際大学で進められている集団瞑想の効果に関する研究の一環として、約3OOO人の瞑想家の一団がマサチューセッツ州のアムハーストに集まった。
彼らは全員「TM・シッディ・プログラム」と呼ばれる超越瞑想の訓練をしている学生たちだった。
そのプログラムは、さまざまな研究によって脳の活動の凝集力を高めることが認められた高度なテクニックである(ここで言う凝集力とは、脳のさまざまな部分が他の部分と調和して機能する度合を示す尺度である)。

実験者は、全員が一緒に瞑想を実践しているこの集団が、数千マイルも離れたアイオワ州フェアフィールドで同じテクニックを実践しているいくぶん小規模な他の集団に対して及ぼす影響を観察した。
被験者、実験者のいずれも、3OOO人が何度座って瞑想に入ったかは知らなかった。
第二集団の瞑想中の脳の活動の分析結果は、第一集団が瞑想を始めるといつも個々人の間の凝集力が高まっていることを示した。
個々人の間の凝集力とは、第二集団の人たちの脳の活動のパターンが、相互に調和することを意味する。
つまり、彼らの脳がより同調するようになるのである。

そうした現象がどのようにして起こるのかはまったくわからないが、さまざまな理論的説明が試みられている。
伝統的な物理学の範囲内で、ある魅力的な理論が、ビンの口を吹くと共振する音波(ブーンという低い音)が生じるのと同様に、瞑想中に人は共振する電磁波を地球の周りに発しているのかもしれないということを示唆している。
この仮説は、(地表と超高層大気の間を交互に弾んで)地球の周りを回っている電磁波(つまり電波)の基本的な共振周波数が7.5ヘルツ(7.5サイクル)だということを根拠にしている。
この周波数の波は地球の周りを回った後、自らと正確に同調して出発点に戻ってくる。
そして、それによって自らを強め、共振を生むのである。

ほとんどのタイプの瞑想における脳の活動には、この周波数をもつ要素が含まれている。
この理論によると、瞑想中にわずかでもこの周波数の電磁波が脳から発せられると、それらは全惑星に及ぶ共振を引き起こす。
地球は瞑想の効果によって、いうなれば「ブーン」と共振するのである。
人がこの振動と共振すればするほど、瞑想の質が深まっていく。

この理論の最大の難点は、この種の波はたとえ共振したとしても非常に弱い、というところにある。
脳がことのほかこの周波数に敏感だということは明らかにされたが、それが感知できるほど強いものかどうかはまったく確かではない。

高い意識状態の長距離に及ぶ伝播に関するもう一つのアプローチは、第8章で論じた非顕在的存在レベルである織り込まれた秩序のレベルによって、それを理解しようとするものである。
もし、われわれ全員がなんらかの深いレベルで相互に結びついており、この一体性のレベルが純粋な自己と対応しているとすれば、この自己との接触を深めている深い瞑想にある人は、いわば織り込まれた存在レベルを通して波動を送っているといえるかもしれない。

もし、他の人もこのレベルに接しているとすれば、彼らはこうした刺激に敏感なはずだ。
となると、実際に、彼らは織り込まれた秩序を通して同調していることになる。

他にもそうした現象を説明しようとするさまざまな理論が存在している。
なかには場の量子論のような現代物理学の難解な概念を使った非常に複雑なものもある。
現行の科学的パラダイムを完全にはずれ、そういった体験を第六感や高次の存在との接触に関連づけるものもある。

かりにこうした説明に正しいものがあるとしても、ここではあまり問題とはならない。
重要なのは、ひとりの人の全般的意識レベルがなんらかの形で、他の人に弱めではあるが同じような効果を引き起こすということである。
これはそのような意識状態を体験しはじめる人が増えれば増えるほど、他の人も影響を受けはじめ、そうした状態に達しやすくなるということを示唆している。

こうしたプロセスはあるいは奇妙に聞こえるかもしれないが、自然界ではそうした現象が起こることがすでに数多く知られている。
心理学者のウィリアム・マグドゥガルによってハーバード大学で始められた一連の実験では、ネズミが水中の迷路から抜け出す方法をどのくらい速く学習するかが研究された。
驚いたことに、後継世代はより速くその課題を覚えることが発見された。
これは、親の技能が子孫に伝わるというラマルク派の進化の例なのだろうか?
答えはノーである。

スコットランドとオーストラリアの研究者は実験を重ねた結果、まったく異なった先祖から生まれた第一世代のネズミが、マグドゥガルの最後の世代と同じレベルからスタートするということを発見した。
なかには一回のミスもなく直ちに「覚える」ものさえあった。
ともかく彼らはすでに「知っていた」のである。
さらに実験が進むにつれて、水の迷路に近づいたこともない対照群の後継世代も、実験群とともにその能力を向上させた。
実験室のなかおよび世界中のネズミたちによってその技能はなんらかの形で学ばれたのである。

イギリスの植物生理学者ルパート・シェルドレイクは、これを彼が「形成因果関係」と名づけたものの一例だと見ている。
彼はその著書『生命のニューサイエンス』のなかで、システムは単に物理学上知られている法則に規定されるにとどまらず、彼が「形態形成場」と呼ぶ見えざる有機的組織化の場によっても規定されていると提唱している。
彼は自然の規則性は、永遠の物理的法則の反映というより、むしろ習性に似ていると見ている。

彼の理論は、もし生物学上の種の一員が新たな行動を学ぶと、ほんのわずかかもしれないがその種の形態形成の場に変化が生じるという仮定に立っている。
その行動が十分長く繰り返されると、その「形態的共振」が強められ種全体に影響しはじめる。
こうしてネズミの例では、課題を覚えたネズミの数が増せば増すだけ、形態形成場が強くなり、他のネズミがその課題を学びやすくなっていく。

形成因果関係のもうひとつの例として、彼は過去に結晶化されたことのない特定の有機化合物の結晶化の難しさを挙げている。
科学者は何年にもわたる研究の末、やっとひとつの結晶を手に入れることもある。
しかしいったんそれが達成されると、世界中の科学者がそれほど大変な思いをせず、その結晶を自分の手で作ることができるようになる。
より多くの結晶が作られれば作られるだけ、その化合物の結晶化は容易になる。

今までは訪れた科学者の顎鬚や洋服あるいは大気の流れによって微小な「種」晶が一つの研究室から他の研究室へ運ばれるという説明がされていた。
しかしグリセリンの場合に起こったように、密閉した容器の中で二次的な結晶化が起こると、この説明は成り立たないように思われる。

それに対して、シェルドレイクの仮説はこのような現象を特定の形態形成場の構築と解釈する。
シェルドレイクの理論をより高い意識状態の開発に適用すると、より多くの人が自分の意識レベルを高めはじめるにしたがって、より高次の状態への形態形成場がいちだんと強まり、他の人がその方向に向いやすくなると見ることができるだろう。
社会は悟りへと向うはずみをつけることになる。

現在の成長の度合が先達たちの業績に依存していることを考えると、われわれは超指数関数的成長の段階に突入することになる。
そして、ついには、連鎖反応を呼び起こし、突然誰もがより高い意識レベルへの移行を開始する。

百匹目のサルの登場

イギリスの生物学者ライアル・ワトソンはその著書『生命潮流』のなかで、食餌の習性を観察するために研究者がサツマイモを与えている日本の沿岸の島に住むサルの一族の例を挙げている。

掘りたてのイモは表面が泥や砂で汚れており、サルはそれを食べたがらない。
ところがある日、一匹の若いメスザルがサツマイモを食べる前にそれを海で洗った。
彼女はイモはきれいなほうが食べやすいということに気づき、翌日もまたサツマイモを海で洗い、その後数週間にわたってそれを続けた。
一匹また一匹と他のサルもその行動をまねしはじめ、汚れた餌を洗うために海に降りてきはじめた。
その習性は次から次へと広まって、まったく突然、普遍的なものになった。

ワトソンは、それを次のように述べている。

話を進める都合上、便宜的に、サツマイモを洗うようになっていたサルの数は99匹、時は火曜日の午前1時であったとしよう。
いつものように一匹の改宗者が仲間に加わった。
だが、百匹目のサルの加入により、明らかに数が何らかの閾値を超え、一種の臨界量を通過したらしい。
というのも、その日の夕方になるとコロニーのほぼ全員が同じことをするようになっていたのだ。
そればかりかこの習性は自然の障壁さえも飛び越して・・・他の島々のコロニーや本土の高崎山の群の間にも自然発生するようになった。

ここでわれわれが見ているのは、もう一つの付随した現象である。
単に習性が広まっただけでなく、一つの閾値に達して、その習性は社会全体に連鎖反応のように広がったのである。
はたして意識の開発に関して同じようなプロセスが起こりうるであろうか?
多くの人が起こりうると信じている。

たとえばテイヤール・ド・シャルダンは、十分な精神的進歩が起こり社会が成熟してくれば、
「それがいかなる場所であろうとも、精神圏に降り注ぐ閃光のような一本の光線は、激しい爆発を生み、一瞬のうちに地球の表面を燃え立たせ、まったく新しく塗り変えてしまうであろう」
と示唆している。

さらに、神秘主義者のなかには、このような連鎖反応を引き起こすのに必要な人数は必ずしも多くなければならないというわけではないと述べている人たちもいる。
たとえばロシアの神秘主義者G・I・グルジェフは、百人の完全に悟った人がいれば世界を変えるのに十分だろうと言っている。
かわりに、十分な人数の人が瞑想などの技法による内面的開発に励んだとしたら、たとえ瞑想をしている人が悟りに達していないとしても、世界的に大きな影響が感じられることだろう。

マハリシは、人口のほんの1パーセントがTMの技法を実践すれば、歴史の流れは大きく変わり、「悟りの時代」の曙がやってくるだろうと主張した。

なぜそのような少数の人が社会全体に重大な影響を及ぼしうるかを理解するには、物理学の世界における類似した現象の一つであるレーザーの作用を考えてみるといい。
いかなる源から発する光であろうと、それはおのおの異なった原子から生じてくる数多くの徴小な波束(量子)からなっている。
通常の光ではこれらの波は一般にすべて歩調がそろっておらず、「位相が異っている」といわれる。
しかし、原子が微小な波束を放射しようとする瞬間に、特定の周波数(または色)の光が原子に衝突すると、原子が刺激されて、刺激を与えた波と位相がそろった光のパルスを放射する。
こうして新たな放射は過ぎ行く波を、増大ないし増幅する。
エネルギーが低い時には、その結果出てくるものもいまだ互いに位相が異なった波束の一つにすぎない。
エネルギーが増すにつれて、レーザー閾値と呼ばれる一定のレベルに達すると、まったく新しい現象が起こる。
たくさんの小さな束は、突然位相がぴたっとそろう。
それは「コヒーレント」になったと言われる。
そうなると、生み出される光の強さがおびただしく増加する。

コヒーレントな光は、位相が等しい振動と異なった振動の場合では数学的な足し合わされ方が違うために強さを増す。
位相が等しい波動が予想どおり足し合わされると、一緒に作用する百本の波は単一の波の百倍も強力である。
しかし、位相がでたらめに符合するにすぎない波は、互いに少しずつ打ち消し合うために、波の総数の平方根に比例して増加するにすぎない。
たとえば百本の位相の異る波の強さは、単一の波のわずか十倍にすぎない。
こうしてコヒーレントに作用する少数のユニットは、はるかに数の多いコヒーレントに作用しないユニットを凌駕してしまう。
ユニットの数が多ければ多いほど、その効果は劇的なものとなる。
百万ユニットのうち、わずか千ユニット(0.1パーセント)がコヒーレントに作用すれば、その効果が支配的になる。

マハリシと一緒に働いている科学者たちは、社会全体が影響を受けるには、どのくらいの人の意識レベルを高めればいいかを予測するために、同じような法則を社会に適用した。
瞑想をしている人は自分の意識レベルを高めるだけでなく、わずかであれ他の人にも同じような効果を及ぼすという仮定に基づき、彼らは閾値として1パーセントという数字をはじき出した。
瞑想をしている人の数が1パーセントを越えると、都市全体にはっきりとした影響が出るというのである。

もちろんこれは単なる理論的モデルにすぎないし、それも非常に単純なものである。
その上、かなり大胆な(またかなり疑わしい)仮説に基づいている。
にもかかわらずこのテーマに関する研究の多くが結果的にこの仮説を裏づけることになっている。
たとえば、TMの研究者が行った人口の1パーセントがTMを学んだいくつかの都市の犯罪発生件数の基礎的な統計分析によると、こうした都市では犯罪率が平均5.7パーセント下がっている。
瞑想をする人の数がもっと少ない同規模の都市では、その間、平均犯罪率が約1.4パーセント増加した。
統計分析では、これがまったく偶然の結果にすぎない確率は200分の1だということが示されている。
この数字は統計的に見て重要であり、おそらくなんらかの関係が存在しているということを示している。

その後(たとえば収入、教育、失業、年齢といった)他の要素が、その変化の原因となっているかどうかに関してさらに研究がおこなわれた。
たとえば、教育レベルの向上が、犯罪率の減少や瞑想への関心の増大の原因となってはいないだろうか?
たとえこうした要素を考慮に入れたとしても、瞑想がいぜんとして重要な要素であることに変わりがないことが一般に認められている。

瞑想をする人が本当に社会に対してこのような影響を与えているとすれば、われわれは閾値すなわち意識の臨界量へ向っているといえよう。
それを超えると意識の成長が自我に基づく古いモデルの惰性を凌駕するのである。
もしそうだとすれば、閾値を超えるということは人類にとって重大な転換を意味する。
それを超えると、社会は完全に別なものに変わってしまうかもしれない。

このような突然の転換は、進化において前例がないわけではない。
ビッグ・バンのさい、宇宙はいぜんとして非常に高温で、形成された物質はどんなものでも一瞬のうちに消滅してしまった。
新たに創り出された高度の秩序をもつエネルギーの束にとって、周囲の熱(無秩序なエネルギー)は耐え難いものであった。
温度がいくぶん下がってから(つまり秩序が全般的に増して)、初めて物質は恒久的なものとなった。
ひとたび条件が良くなると、にわかに物質が生まれでてきたのである。
その後原始スープのなかで、最初のうちは生命は生み出されると同時に破壊された。
周囲の状況の無秩序のレベルが、ここでも高度の秩序をもった分子配列を圧倒した。
生み出された生命システムが十分な量に達して、初めて生命は恒久的なものとなったのである。

これが進化の一般的な傾向のように思われる。
進化の次なる段階においては、新たな悟りの現象が、通俗的な低レベルの意識に圧倒され、最初は何回も生まれては消えていくことだろう。
社会的「環境」が十分な秩序と組織化された段階に達したとき(つまりより高い状態が広くいきわたった時)、初めて悟りが恒久的に確立される。

おそらくこれが、悟りが過去において稀れなものであった主な原因であろう。
社会全体にまったくそれに対する準備ができていなかったのである。
キリストも、仏陀も、モーゼも、モハメットも、あるいは他のあらゆる偉大な指導者たちも時代にさきんじて生まれてしまったのだ。

過去数千年間に現れた多くの精神的指導者は、沸点に近づいた時に水中に現れはじめる蒸気の泡にたとえることができよう。
最初はこうした初期の蒸気の泡を維持できるほど温度が高くないため、それはただちに水に吸収されてしまう。
これらの泡は、蒸気の単なる前ぶれにすぎない。
しかし沸点に達すると、それら全部が自由に飛び回るだけの十分なエネルギーができ、水は急速に蒸気に変わる。

同様にして、偉大な指導者の洞察と教えは歪曲され、指導者が死んでしまうとただちに損なわれてしまう。
いうなれば、知恵は「通俗的な精神的無知のレベル」に吸収されてしまう。

しかし、今日なら、数多くの流れが同時的に収束することによってこれを変えてしまうことができる。
きたるべき科学と神秘主義の統合、精神的な知恵を広めるための効果的手法、内面的な開発への関心の芽生え、あるいは高次の意識状態の直接的転移。
これらすべてが一体となれば、人類史上初めて永遠の哲学の知恵が確固とした永続的なものとなる。

人類全体が偉大な転換を開始するにつれ、悟りの「泡」がもはや再吸収されることなく自由に羽ばたける時が急速に近づいているのかもしれない。
すべての人が突然、賢者、老師、聖者、仏陀になるであろう。

さまざまな分野における急速な加速が、進化的大転換に向いつつある時に、人口が10の10乗という決定的な規模に近づく時に、そして人類をつなぐネットワークが人間の脳に見られるのと同じような複雑さの度合に達する時に、この転換が起こるであろう。

われわれ現在生きている人間は高シナジー社会、健全な社会的超有機体の出現の曙に立ち会うことができるであろう。
もしそうだとしたら、われわれは人類のなかでももっとも恵まれた世代となるであろう。


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

第10章. スピリチュアル・ルネッサンス

道が失われたのちに徳がそこにあり、
徳が失われたのちに仁愛がそこにくる。
仁愛が失われたときに道義ができて、
道義が失われたのちに礼儀がくる。
およそ、礼儀は忠誠のうわベであり、
争乱の第一歩である。
  ――『道徳経』老子 B.C.6世紀

自己実現のための精神的アプローチ

万物との一体性の体験は、精神的、宗教的伝統と密接に結びついていることに加えて、数多くの心理学者の注目を集めてい体験でもある。
宗教的体験を真剣に考察した最初の心理学者はウィリアム・ジェームズとカール・ユングであり、1950年代にアブラハム・マズローとロベルト・アサジオリがそれに続いた。
この業績から1960年代後半に宗教とそれに関連した体験を、その中心的課題とした超個心理学(トランスパーソナル・サイコロジー)という新しい心理学の学派が生まれた。
それまで、サイコセラピーは精神的ないし心理的に問題のある人たちの治療に心を奪われていた。
しかし、心理学の専門家のなかには、マズローのように病んだ人の研究から精神的に健康な人、それも特別に健康な人の研究に方向転換した者もあった。
マズローはそういった精神的に特別に健康な人たちには、彼が「至高体験」と呼ぶものの発生率が高いことを発見した。
その状態で彼らは「世界と一つであること、世界の外で眺めているのではなく、世界に真に帰属していること、・・・真に絶対的真理を見たのだという感覚」を感じた。
彼らは、「ありとあらゆるものとの統合、および宇宙それ自体が生時きているという感覚」を抱いたのである。
この点で、そうした体験は一体的自己を垣間見たような感じに酷似しているように思われる。

マズローは、こういった人たちが温和で安定した立派な社会人であることに気づいた。
彼らはまたマズローが「自己実現」と名づけた特徴をもあわせもっていた。
自己実現とは、「使命の遂行として、あるいは自分自身の本性のより完全な認識および受容として、統一・統合・シナジーへと向う絶えることなき方向性としての潜在的能力、才能、天分の実現」である。
もっとも重要なことは、自己実現をめざす人が、自我の擁護よりも自分自身の外にある問題に目を向ける傾向をもっていたことである。

彼らは人類全体と一体であるという強いアイデンティティ意識と、より大きな万物に帰属しているという感覚をもっていた。
これらの描写からすると、こういった人々はおそらくわれわれが悟りと呼ぶものに向って進んでいるにちがいない。

アダム・グリーリィとウィリアム・マグレディという二人のアメリカの社会学者の手になる『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』誌の記事によると、至高体験は例外的なものなどではないという。
彼らがインタビューをした人の43パーセントが通常の自己を超える体験をしており、20パーセントがそれを二度以上体験している。
インタビューを受けたほとんどの人は、おおむね人から笑われることを恐れて、それ以前に自分の体験を人に語ったことはないという。
しかし、このように多くの人がそうした体験をもっているということは、彼らが信頼してそれを打ち明けさえすれば、打ち明けられた相手も、同様の体験をしていたかもしれないということを示唆している。

こうした体験の多くに共通していることは、喜びと幸福感、その体験が筆舌につくし難いこと、あらゆるものの一体性の感覚、そしてこれがあらゆるものの真のあり方だという認識・・・これもまた、すべて一体的自己の特徴である。
マズローの業績にも見られるように、グリーリィとマクレディはこうした体験と精神的健康の間に強い関係があることを発見した。

永遠の哲学を支える上で大いに意義のあるこうした研究は、そのような体験が誰にでも可能なものであり、選ばれた少数者の特権ではないと主張する。
しかしこうした体験を味わうということと、その頻度が高まり意識の支配的様式になることとはまったく別である。
となると、こうした体験を促進する方法、それをもっと一般的なものとする方法があるとすれば、それはなにかという問題が出てくる。

たぶん、われわれがまず頭に浮べるのは伝統的な宗教であろう。
総計すると世界中に何十という異なった宗教が存在し、その何倍もの宗派が存在する(仏教だけをとってみても、600以上の異なった宗派がある)。
個々の宗教はそれぞれ独特なものに見えるかもしれないが、そこにはそのすべての基礎になふる共通の主題がある。
プリンストン大学の哲学教授ウォルター・ステイスは、偉大な宗教的指導者の著作や教えを長い間研究して、あらゆる大宗教の核心をなしているのは、万物との一体性の体験――ハックスレーが永遠の哲学と名づけたもの――であるという結論に達した。

個々の伝統は最初はキリスト、仏陀、モーゼ、モハメッド、マニ、ゾロアスター、グル・ナナーク、シャンカラ、老子のような個人の教えから生まれた。
彼らの述べたことないし述べたと伝えられることを詳細に検討してみると、彼らがそれぞれの言い方でこの基本的な一体性の体験を語っていたことが明らかとなる。
キリストは神の国、仏陀は涅槃、シャンカラは解脱といったかもしれないが、彼らはそれぞれそれなりの悟りの側面を述べているのである。
さらに彼らの説いた礼拝、瞑想、帰依、自制、ダンスおよび伏礼などの慣行を見ると、彼らが普通の人がそうした状態に近づくための処方を示していることがわかる。

しかし、ひとたび指導者が死ぬとその教えは曲解されはじめる。
これは知識の分野におけるエントロピーに相当するものであり、避け難いことである。
ある人から他の人にメッセージが伝えられる時、何かが偶然に削除されたり少しばかり余計なものがまじったり、なんらかの変化が生まれる。
それはむしろフォトコピーのフォトコピーをさらにフォトコピーするのに似ている。
複写をするたびにイメージはだんだんぼけてくる。
同様に精神的霊的教えも、伝えられるさいに必然的に歪曲されてきた。

媒体がメッセージを破壊したのである。
教えの理論的側面に関しては、根本原理や教義を書き残したり記憶したりすることによって歪曲をできるだけ押さえることができる。
しかし、実際のテクニックや実践ははるかにデリケートであり、往々にして適切な言葉で言い表すことができない。
ほとんどの精神的霊的な実践は、体験を積んだ指導者の指導を必要とするうえに、たった一つの小さな歪曲や誤解がテクニックの効果を台なしにしてしまう。
こうしたことが起こると、その伝統の信者は統合意識という実践の本来の目的から切り離されてしまうことになる。
その結果、一体性の体験を達成する手段の方が、その状態の描写よりもはるかに早く損なわれてしまうことになる。

今日、伝統的宗教はこの絶え間ない歪曲という悲劇を反映している。
教義やドグマは山ほどあり、その信者たちはどれがもっとも素晴しいかを果てしなく論じ合う。
しかし論議されるべき意識状態を体験する手段を欠いては、真の悟りは運のいい一握りの者以外には手にすることのできない夢でしかない。

本来、大宗教の目的は万物との一体性の体験であったかもしれないが、今日それらはこの体験を促進するものをもっていない。
それらは単なる悟りの化石と化してしまったのである。

今日人類が差し迫って必要としているものは、広範な意識の転換をもたらす手段である。
これはいずれかの特定の宗教の復活によってではなく、再びそれらの教えに活力と効力を与えるテクニックと体験の復活によってもたらされるだろう。

われわれが必要としているのは、純粋な自己の直接体験を可能にし、それを人生に恒久的に統合していく方法を再発見することである。

覚醒への道

そうした復活が、すでに進行中である。
西洋世界のいたるところで、種々の瞑想のテクニックや悟りに至る道を説く精神の師やグルの数が急速に増加している。
またセラピーやトレーニング・プログラムの増加も見られ、それらすべてが究極的には内面的自己の自覚をもたらすことをめざしている。

そのすべてに効果があるかどうかという問題に関しては、まもなく検討することにするが、それらはこの潮流が増大する傾向にあることを示している。
瞑想という言葉はさまざまなタイプのテクニックを意味しているが、こうした修行の多くが何らかの形の瞑想を含んでいる。
ほとんどの瞑想テクニックの根底には、根源的自己と接するには知覚のインプットや思考の限りない連鎖のような通常の混乱を心から取り除かなければならないという前提がある。

なにもせずただ静かに座っている時でさえ、ほとんどの人はなんらかの心のなかの会話に注意を奪われている。
その結果、自覚されるのは考えている「私」ではなく、考えていることだけになってしまう。そのため、ほとんどの瞑想の技法は、思考が存在しない意識状態、つまり完全な精神的静寂に達することを共通の目的としている。

この状態においては(経験という言葉の通常の意味での)あらゆる経験は消え去り、純粋な自己つまり経験者のみが残る。
それは、心を空しくすることではない。
意図的に心を空しくすることによって、この状態に達することができると考えるのはよく見られる誤解である。
これを意図的にやろうとすると、しばしば内的会話を「私の心は空しい」という考えに置き換えてしまう。
これは偽りの誤った考えである。

真の瞑想では、言葉による思考は捨て去られる。
われわれのめざめているときの意識の大半を占めている心のなかの会話は、しだいに鳴りを潜め、ついには消え失せる。
それを実現するための、さまざまな瞑想の多様な方法を理解するために、もっとも一般的なアプローチのいくつかを手短に見てみよう。

現在西欧でもっとも広くおこなわれている修行法の一つであるTM(超越瞑想)では、座って穏やかかつ静かに「マントラ」(真言)を繰り返す。
修行法によっては、マントラに特定の意味がある場合もあるが、TMに関する限りマントラは単なる意味のない音にすぎない。
この瞑想では、マントラに特定の形式やリズムを強いることなく、受け身のアプローチをする。
この受け身のアプローチは、マントラに意味がないことに負うところが多い。
マントラ自体が、つぎつぎに連想を生む思考の連鎖につながっていかないからである。
これは、他の多くの瞑想のテクニックと同様、人を能動的「行動」型の意識から受動的「放任」型の意識へと導く。
その結果、意識はよりいっそう静寂なレベルで通常の思考過程を体験するようになり、ついには精神活動が完全に消え去る。

通常の能動的な心は、部屋のなかで誰もが互いにお喋りに興じている大勢の人にたとえられよう。
TMの体験は、全員がしだいに穏やかに話しはじめ、ついには部屋全体が完全な静寂に至る状態に似ている。
この状態においては、聞き手はいぜんとして意識しており、耳を傾けてはいるが何も聞こえてこない。
同様に心が完全に静寂に達すると、人はいぜんとして意識はしているもののなにも考えていない。
このようにして、通常の思考が超越されるために、「超越瞑想」と呼ばれるのである。

インド人の哲学者で精神的導師であるバグワン・シュリ・ラジニーシは、まったく別のアプローチを唱えている。
彼によると、西洋人の心はあまりにも能動的で緊張しすぎているために、静寂な瞑想に浸りきることができないのだという。
そこで、弟子たちはまず緊張を解くために、跳んだり跳ねたり怒鳴ったりする「ダイナミック・メディテーション」をおこなうように勧められる。
こうした激しい運動は瞑想とは相反するもののように思われるかもしれないが、ラジニーシは心のなかの緊張の多くを発散させてこそ、内的に静寂な状態に達することができると主張する。

仏教の瞑想の多くも、まず心を静めることを促す技法から始まる。
チベット仏教に見られるように、宗派のなかには言葉による思考から注意をそらすための観想法が含まれている場合がしばしばある。

他にも調息の修行から入る宗派がある。
調息には、それ自体心を静める効果があるばかりでなく、呼吸の動きをマントラのように使い、意識を受動的にするテクニックとしても機能する。

瞑想のテクニックの多くは心に静寂をもたらすことをめざしているが、いくぶん異なったアプローチを取るやり方も見られる。
たとえばより高度の仏教のテクニックを修行している者は、表面的なレベルのアイデンティティをつぎつぎと捨て去っていくことによって、つまり自らが肉体でも観念でも、あるいは感情でもないということを認識していくことによって、本質的自己を実現しようとする場合もある。
このプロセスが繰り返されると――つぎつぎと微細なレベルの自己を掘り起こし捨て去っていくにしたがって――そのつどいかなる属性もない純粋な自己に一歩近づく。

禅仏教の宗派のなかには、このアイデンティティの変換がもっと劇的な形で引き起こされるものもある。
老師は弟子に、たとえば「片手を打った時の音はどんな音か?」(隻手音声(せきしゅおんじょう))というような公案、つまり逆説的な質問ないし明らかに解決不可能な謎をだす。
そうした謎は理屈のみによっては解決できるものではないが、弟子は答えを見い出したと思って、何度も老師の許へ通う。
そして、長い沈思黙考の果て、あるいは極度のフラストレーションのなかで、論理と推論的能力が枯れ果てた時に、突如として壁を破り「悟り」に至る。
なんらかの新しい解釈や考えを見い出したわけではなく、通常の論理的心を超越し、一瞬の間、自らの殻をかぶった世界観を突破したのである。

こうしたやり方は、多種多様な自己実現のための精神的アプローチのほんの一例にすぎない。
また、私がここで取りあげたものも、実際には私の簡単な説明よりはるかに複雑なものである。
としても、自己実現を可能にするアプローチの多様性は十分明確になったはずである。
この他にも、同様な効果を上げることができる活動やプロセスは数多く存在している。

多くの人たちが、ハタ・ヨーガや太極拳などの「肉体的」修行を通して、内面的静寂を味わっている。
長距離のランニングやさまざまな長時間に及ぶ肉体的運動によって、それを体験する人もある。

断食によってこの状態に達する人もあれば、痛みや苦しみ、脳の機能を変えるドラッグとか性的体験によってそれに達する者もある。
しかしどんな道であろうと、そしてその突破が意識的であろうが偶然であろうが、つねに結果は、殻をかぶった自我を超越し、より深い一体的自己へ至るというほぼ同様のものである。
しかし、やり方や機会がこのように多様であるにもかかわらず、真の悟りがいぜんとして稀れなものであることに変わりはない。
どうしてだろう?

理由の一つは、(次の章で見るように)社会全体の全般的意識レベルにあるのかもしれない。
第二の理由は、効果的な方法が思ったほど多くないことであろう。
その理由はさまざまである。
テクニックを正しく教えるのが難しかったり、弟子たちによって歪曲されやすいという場合もあろう。
アプローチのなかには、それがうまく機能するまでに相当の熟練を必要とするものもある。
多くの場合、自分自身に変化が起こったことに気づくまでに時間がかかるのに、そういったフィードバックがないために修行を途中で投げ出してしまうためである。
時として修行を続ける動機づけとなるようなより高い意識のレベルをはっきりと体験することもあるが、その体験が恒久的な意識の変化を生むほど頻繁ではない場合もある。
なかには指導者による個人的指導や相談が相当必要なプログラムもあるが、指導者の数が十分でないこともある。

東洋から生まれたアプローチは、西洋の日常的なライフ・スタイルと両立しえないこともある。
特定なテクニックの有益な効果が、アルコール、ドラッグ、疲労、不健康あるいはストレスなどの日常生活からくる影響によって打ち消されることも頻繁にある。
そして、最後に大半の人が住む社会的環境は、一体性の感覚をもったとしても、それを支持してはくれない。

1960年代に始まった悟りの希求の増大からわれわれがえた教訓は、多くの賢者が説くほど悟りは容易にやってこないということである。
だからといって必ずしも落胆するには及ばない。
大規模な社会の悟りに関する限り、われわれはいまだ先駆者の域を出ない。
そして、先駆者は誤りを犯すものである(産業革命をもたらした初期の蒸気機関が、効率的でも効果的でもなかったことを思い起こしてみるのも意味があるだろう)。

しかし、内面的意識の発達が外部指向型の思考方法と相いれないものにとどまっている限り、内面の探究者の試行錯誤はたやすく愚弄と軽蔑の対象にされてしまうであろう。

東洋と西洋の結合

より高い意識状態への転換を広めるためには、誰もが日々の生活に組み込むことができる、実行も普及も簡単な、しかも必要とされる意識の転換をかなり速やかに生み出しうるようなテクニックやプロセスを社会は必要とするだろう。
今日利用できるテクニックの大半はこれらの目的を十分に満たしているとは言えないが、これらの目的を実現するうえで科学とりわけ心理学と生理学が大いに寄与してくれるであろう。

顕微鏡、コシピュー夕、電子工学機器およびおびただしい数の実験、分析器具が外界の理解を高めてきたのと同じように、今や科学技術は内面的世界の理解を高めつつある。
たとえば電子顕微鏡は、神経生理学が個々の脳細胞がどのように機能し情報を伝達するかを調べる上で大いに役立っている。

コンピュータ解析とエレグトロニクスの進歩によって、数十億個の脳細胞の複合的作用から起こる脳波の活動の非常に複雑なパターンや、異なった意識状態における脳のさまざまな領域の相互関連の仕方に関する理解が深まりつつある。
生化学者は、脳の機能やわれわれの体験に直接影響を与える広範な化学的プロセスを解明しつつある。
また、どのようにして異った意識状態が周囲の世界の知覚を変えるかを考察し、いかなる外的および内的要因が意識の変化を誘発するかを研究しているアプローチもある。

この脳や意識の科学的理解と神秘主義者や精神的導師たちの知識や技法を結びつけはじめるにつれて、さまざまなテクニックがどのように機能するのか、それらをどのように改良し開発すればいいのか、また「実験用の蒸気機関」から「大量輸送機関」への移行をどのようにしたらもっとも促進することができるかということが、よりよく理解できるようになるだろう。

この東洋と西洋の結合によって、適切にも精神技術(サイコ・テクノロジー)と呼ばれる新しい学問分野が生まれることになるだろう。
それは単なる精神ないし魂の研究にとどまらず、精神の機能を向上させ体験の質や意識のレベルを高めるために、テクニックを応用することにもなるだろう。

すでにいくつかの分野で、この方向での研究が進んでいる。
この十年間に、科学は瞑想とその潜在的な価値に本気で興味をもちはじめた。
瞑想の生理学的、心理学的および生化学的効果に関して、過去十年間に千を越える研究論文が発表された。
こうしたさまざまな研究の大方の結論は、瞑想はストレスとはまったく逆の生理的状態を生み出し、身体は非常にリラックスしており、脳の活動は穏やかで安らいだ意識状態特有のパターンを示すというものである。

関連した研究分野の一つであるバイオフィードバックは精神技術の夜明けの好例である。
バイオフィードバックのプロセスでは、被験者は脳のリズム、心拍数、血圧、皮膚の温度などに関する情報を与えられる。
これは通常生理学的作用が一定レベルに達した時(たとえば、血圧が一定レベル以下に下がった時)に光や音のスイッチがはいる装置に測定装置を接続することによって行われる。
そして、できるだけそうした光や音のスイッチが入るよう進言される。
これはたいてい特定のイメージや心のもち方でできるようになる。
こうしたプロセスによって、一般に西洋の生理学者が自分ではコントロールすることはできないと考えているさまざまな生理的プロセスのコントロールを学ぶことができる。

バイオフィードバックのテクニックがいっそう精巧になるにつれ、また深い瞑想や神秘的な意識状態において脳になにが起こっているかがさらに詳細にわかるようになるにつれ、そうした意識状態を誘発ないし促進するためにバイオフィードバックを使うことが可能になるかもしれない。
しかし、西洋のテクニックが逆に伝統的技法を損なうことのないよう気をつけなければならない。
その二つの組み合わせがうまくいけば、自己実現のプロセスの加速につながることになる。

知覚隔離タンクは、科学と瞑想が結びついたもう一つの例である。
このタンクの目的は、最小限の知覚インプットしかない環境を提供することにある。
普通、隔離タンクでは人は音と光を通さない囲い(それでタンクと呼ばれる)のなかで、体温と同じ水のなかに浮ぶ。
そうした状況では、知覚に注意がいきにくくなる。
こうした環境に置かれると、瞑想に特有の内的状態がより深い形ではるかに容易に引き起こされるということが、多くの被験者によって認められた。

催眠術は瞑想的な意識状態を促進する可能性をもったもうひとつの有効な道具である。
西洋では一世紀以上も知られていたにもかかわらず、催眠術はいまだに十分に理解されていない。
それにもかかわらず、催眠術が意識に対してきわめて効果的であることは十分に立証されている。
催眠術の原理は単なるおもしろい舞台効果をだすための道具とか、手術における麻酔の代用品というよりは、深いリラックスや観想法と併用されると、より高次の意識状態を引き起こし、一時的にアイデンティティを自己中心的なモデルから純粋な自己の自覚に転換する強力な手段になると今では見なされている。
この分野の研究はいまだ初期的なものであるが、非常に強力な道具であることが明らかにされる可能性は十分にある。

人間の精神的成長を加速するもう一つの手段は、向精神性ドラッグの使用によるものである。
原始的文化では何世紀もの間、変性意識状態を引き起こすために、さまざまな薬草、サボテン、キノコなどの植物からの抽出物が用いられてきた。
そして1950年代以降西洋人のなかにもそれを試す人が増えはじめた。
これと同じ時期に、化学者たちは向精神性物質の合成に成功し、サイロシビン、メスカリン、LSDなどを発見した。
こうした生化学薬品が宗教的・神秘的状態を生む上で果たす役割に関しては、大いに議論のあるところである。
これらを体験した結果、より精神的な世界観をもつようになったという報告も見られるが、こうした物質は恒久的な悟りの境地をもたらすには十分ではないように思われる。
だが、純粋な自己へのアイデンティティの転換と密接に関連した脳の状態と同じ状態を引き起こす他の植物(あるいは新たな生化学薬品の合成)が見つかる可能性はまだ残っている。

ここにあげた例はより高い意識状態の開発を促進する科学的方法論のほんの一例にすぎない。
この分野は急速に拡大しつつあり、おそらく、きたるべき十年ほどの間に精神技術は科学的探究のもっとも重要な領域になり、いまだ考えも及ばないような発展をもたらすであろう。

そればかりか、人間の活動のもっとも重要な領域になるかもしれない。
もしも、軍備拡張競争に注ぎ込まれるのと同じだけの資金、人材、エネルギー、時間、頭脳がより高い意識状態をもたらすために使われたとしたら、もはや軍拡競争の必要はあるまい。

より効果的な悟りのテクニックの開発に加えて、内的変容を押し進める上で計りしれない価値をもつもう一つの重要な進歩が西洋のテクノロジーに見られる。
それは、コミュニケーション革命である。

かつて、自己実現の方法を説いた導師は数多くいたが、そうした導師たちが直接影響を与えることができたのは身近な人に限られていた。
キリストは彼が住んでいた中近東地域の人たちに、仏陀は北インドでそのメッセージを伝えたが、マス・コミュニケーションのテクノロジーを欠いていたために、その知識と実践法は人から人へと伝えられていっただけであった。
そしてそれは、必然的に歪曲や効力の低下をもたらした。
いまだ人類全体あるいはその大半に悟りをもたらすことに、成功した人がいない理由の一つがここにある。

しかし、今日われわれは情報を世界中で利用するためのさまざまなコミュニケーションの手段をもっている。
自動車、飛行機、郵便業務、電話、テレックス、ビデオ、録音テープ、衛星中継、コンピュータ・ネットワークなどによって、世界中のほとんど誰とでもさまざまな方法で情報の伝達をしあうことが可能となった。
おまけに、これらの手段のなかには、情報を記憶しあとでそれを再生することができるものもある。
こういった発達によって、地球の歴史上初めて自己実現の手段を直接正確に普及することが可能となった。
さらに重要なのは、人類全体にとって、より高次の意識状態への転換が不可欠と思われる時期に、こういった可能性が現れたということである。
進化という視点からすると、おそらくテクノロジーの最終的な目的とは社会がこの転換を行うことを可能にすることにあるのだろう。

二ューエイジ

人類が新たな時代の曙を迎えつつあると感じる人の数が、ますます増加してきている。
その時代とは、人々の意識と人々と地球との関係の根本的な転換をはらんだものである。
そうした考えは、しばしば「ニューエイジ」運動と呼ばれている。
こういった考え方を信奉している人々は、中心となる組織によって統合されているわけではない。
むしろ、主として共通の姿勢や価値観によって結ぼれたゆるやかで多様なネットワークを形作っている。
ニューエイジ運動で繰り返し扱われるテーマは次のようなものである。

・われわれ誰もが今使っている能力やいまだ気づいてさえいない能力をも超えた潜在的能力をもっている。
・人類と環境とは単一のシステムである。
・われわれは自分たち自身や環境の取り扱い方を改善することができる。
・人類はより良いものへと変わりうるのだ。

ニューエイジ運動は、広範で多様な興味の対象をカバーしている。
絶滅の危機に瀕している種の保護、有機農業、コミューン生活、適正技術、自発的簡素化、エネルギーと資源の保存、核軍縮、それに地球との調和的な生き方などに関心をもつエコロジー指向のグループもある。

ジョギング、インナー・スポーツ、アレキサンダー・テクニック、フェルデンクライス・メソッド、バイオエナージェティクス、自律訓練法、ホリスティック医療、針療法、ヒーリング、マッサージ、指圧、ロルフィング、イリドロジー、自然療法、同種療法、オステオパシー、健康食品、完全食品その他の何十種類もの食事療法などによる、個人の心身の健康の改善に関心をもった人たちやテクニックもある。

催眠療法、水治療法、ドリーム・セラピー、ロゴセラピー、リアリティ・セラピー、ライヒアン・セラピー、ゲシュタルト・セラピー、プライマル・セラピー、セックス・セラピーといった内面的、心理的健康に関連した無数のセラピーの手法が存在する。
こうした方向を指向したものとして、リバーシング、バイオフィードバック、エンライトメント・インテンシヴ、センシティヴィティ・トレーニング、エンカウンター・グループ、サイコシンセシス、ニューロリングイスティック・プログラミング、サイコドラマ、アンドロジェニー(両性具有)・ワークショップ、アクチャライゼーション、est(エスト)、アリカなどの技法がある。

太極拳、合気道、タントラ、ハタ・ヨーガなどの修行に加えて、あらゆる精神的伝統からきた無数の瞑想法が存在する。

オーラ判断、テレパシー、過去生体験といった「超常的」能力の開発や、占星術、タロット、ジオマンシー、ラジオニグスなどのさまざまな様式の占いがある。

それに加えて、ホリスティック教育、フェミニズム、自然分娩や、潜在能力を開発するさまざまな方法に関心をもっている人たちもいる。

『ニューエイジ』、『ニューディメンションズ』、『ニューヒューマニティ』、『ニューイクイノッグス』、『ニュータイムズ』、『ニュールーツ』、『ニューリアリティ』などという名前の雑誌も存在している。

ニューディメンションズ・ラジオ・ネットワークというのもある。
意識のフェスティバル、覚醒のフェスティバル、水瓶座のフェスティバル、心・体・霊のフェスティバル、人類に関する世界シンポジウム、オムニバーサル(全世界)・シンポジウムといったものも存在する。

こうしたグループは、遠い将来ではなく今現在ニューエイジ(新時代)の曙を予告している。
(これらはあくまでもほんの一例にすぎないが)上にあげたようなグループの数と関心の広がる速度が、すでにこういった考えを支えているとする者もいる。
この点については、次章で詳細に検討することにしよう。
また、占星術師がわれわれの惑星は新時代、いわゆる「水瓶座の時代」に入ったと語っていることを証拠として挙げる人たちもいる。

占星術は天空を12の部分、黄道帯の12宮に分ける。
毎年地球が太陽の周りを回るにしたがって、太陽は12宮の間を一つずつ順番に動いて行くように見える(たとえば、彼らは太陽が金牛宮〔牡牛座〕にあるという言い方をする)。
同時に、地球は自転軸の周りを回る。
この軸は傾いており、その傾斜はわれわれが太陽の周りを回るのと同じ宇宙の方向をさしている。

だが、地球の傾斜の方向は非常にゆっくりと変化している。
これは、湾曲した赤道上にある太陽と月の複合的引力によって引き起こされる。
その結果、天空は地球の周りを、およそ二万六千年で完了するサイクルで揺れ動いているように見える。
そのため季節に基づくわれわれの地球暦は12宮を徐々に後退する(あるいは、専門用語でいえば春分点を通って歳差運動をする)。
そして、所定の日付は約二千百年ごとに宮を変える。

占星術師は、3月21日の春分の日を占星術における暦年のはじめとみる。
そして、この春分点の12宮上の位置が、その時代の特徴を決めるとみている。
過去二千百年ほど春分点は双魚宮〔魚座〕にあったが、今や宝瓶宮〔水瓶座〕へと移りつつある。
そのため、われわれは今「水瓶座の時代」に突入したといわれる。
占星術師によると、それは調和と高い道徳的理想主義と精神的成長によって特徴づけられる時代だという。
正確にいつ転換が始まったのか(あるいは、正確な日時を示すことができるのか)という点に関しては、占星術師たちの意見が大いに分れるところである。
しかし、
1960年代の後半というのが大方の一致した見方であり、1967年前後が得票のもっとも多い時期である。

こうした主張に意味があるかどうかは、議論のあるところである。
しかし60年代後半、特に1967年は、確かに多くの人にとって転換期であった。
それは、「フラワー・パワー」(花を愛・美・平和の象徴とするヒッピー)の全盛期だった。
そしてかつてのヒッピーたちは「67年の夏」を郷愁とともに振り返る。
しかし、それは単に人々がLSDを飲み、愛と平和を語り、花をばらまき、ノッティング・ヒル、グリニッジ・ヴィレッジ、ハイト・アシュベリーの家々のファサードに突如として虹と花と陽光が芽を吹いた時だったというだけではない。
それにかかわっていた人たちは、もしも世界中の人が愛と一体性を体験することができたら、世界はきっと幸福で平和なものとなるにちがいないと本当に感じていた。
新しい時代の始まる可能性があった。
やり方はとても簡単にみえた。

1967年は、「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ(愛こそすべて)」を歌ってその絶頂期にあったビートルズとともにその幕を閉じた。
そのメッセージは単純であり、しかもいろいろな意味で正しかった。
あなたが必要としているものは愛だけである。
もしわれわれが他のすべての人やすべてのものを愛することができたら、理想的とまではいかなくとも世界ははるかに良くなるだろう。
しかし、その前にまだ問題が残っている。
つまり、どうやってやるかということだ。
単に愛すると決め、愛を語り、愛から出たように行動するだけではだめだ。
それでは、よくいっても愛のムードを醸し出すくらいが精一杯である。
かなり偽善的な自己矛盾を生みかねない。
へたをすると、前章で見たように、純粋で無条件な普遍的な愛は全人類や万物との一体性を体験することから生まれる。
理想社会のヴィジョンがかなえられる前に、必要とされるのはこの体験である。

1960年代後半に社会に起こったことは、芸術作品の創作過程に起こることに似ている。
創作過程の突破口は、熟考や思案の末に生まれてくる。
しかし、いざ生まれるとなると、それは前触れもなく、突然の閃きとしてやってくる。
芸術作品の本質や問題に対する解答が突然見えてくる。
道が明らかになるのだ。
だが閃きはそれから実行に移されねばならず、その洞察が実行されるまでには数か月、数年の努力が必要とされる。

1960年代後半は、社会にとって同様の創造的閃きであったにちがいない。
大勢の人たちが、突然世界の在りうる姿に気づいた。
しかし、閃きはリアリティを生みはしなかった。
そして、それ以来この洞察を実行に移し、個人の意識を高め愛や慈悲を生み出す道を見い出すことが、課題となっている。
この点からみると、70年代および80年代のニューエイジ運動は、そのヴィジョンをリアリティにしようとする人たちのさまざまな方法を象徴しているといえよう。

ニューエイジかオールドエイジか

しかし、みんながみんな自己開発の探究を、そのように肯定的にとらえているわけではない。
そうした探究は、社会全体にとって無価値であるとか、一般的に見て人類が直面している真の問題からの逃避を示すものだと非難する人もいる。
これは、その類の著書『ニュールールズ』における社会研究家のダニエル・ヤンケロヴィッチの見解である。

彼は、多くの人たちが内面の開発に励むことは、反社会的であるとの理由で自己実現の探究を批判する。
彼は、マズローその他の人間性心理学の学者たちが強調する自己充足の倫理は、社会の繁栄に寄与しない個人の欲望を肯定しており、「道徳的、社会的に見て馬鹿げたもの」であると論じている。
ヤンケロヴィッチは、西洋社会を浸食しつつある諸危機を乗り超えるために、どんな犠牲を払ってもわれわれは一致団結しなければならない、つまり社会をうまく機能させることに専心せねばならないと信じている。
したがって、われわれは「内面の旅」を放棄しなければならないと彼は論じる。

こうした議論は、内面の旅がいかなるものかということに関する誤解に基づいている。
ヤンケロヴィッチは、自己充足とは「職業、結婚、子供、性的自由、自治、進歩的、金儲け、不適合の選択、社会正義の主張、都市生活の享受、田舎の生活、簡素さ、優雅さ、読書、友人など」の彼らが望むあらゆるものを手に入れることだと解する。

これが自己充足の追求の唯一のタイプだとすれば、彼のほうが正しいかもしれない。
しかしヤンケロヴィッチの描いている追求は、マズローその他の人間性心理学者や超個心理学者たちあるいは精神的指導者たちの多くが説く自己充足とはまったく別のものである。

彼らは、自己中心的欲求、再確認を見い出そうとする獲得された自己の欲求を満たすことを勧めているわけではなく、純粋な自己の発見を提唱しているのである。
これは、より深遠な意味での自己充足である。
こうしたより意味深い自己充足の欠如が、人々を外面的な満足の探求に駆り立てるのである。

真の自己の内なる覚醒によって、自己中心的な欲求は捨て去られる。
この自己の充足は、ヤンケロヴィッチが信じているものとはまったく反対のものであり、社会がもっとも必要としているものである。
この深遠な統合的アイデンティティのレベルに波長が合うようになれば、われわれは一致協力して社会を機能させることができるようになるだろう。

さまざまな自己開発のプログラムの実践法や目標は賞賛すべきものであり、また本当に必要とされているかもしれないが、それに関与している人の多くは、悟りとはほど遠い状態にあるようにみえると主張する人たちもいる。
彼らはしばしば自己中心的で教条的であり、他人の悟りと同じくらい自分のアイデンティティや権力に関心をもっているようにみえる。

特定の自己開発プログラムに参加する者のなかには、それによって自らの潜在能力をもっと発展させ「内なる自己」を発見したいとの真摯な欲求から参加する者もある。
しかし、人に遅れをとりたくないとのミエや、約束された精神力の開発とか、内部集団の一員となるため、あるいは単に自分の信念を強めたいといった理由でやってくる者もいる。
特定の瞑想や儀式やライフ・スタイルの実践から、あるいは特定の予言者やグルや指導者の信徒になることから、強いアイデンティティ感覚をえている者もある。

つまるところ、自分の道が最高の道だという確信が強まれば強まるほど、自我はより安全だと感じるのである。
悟りという観念に対する執着が起こり、「私は自我を超越した」とか「私は悟った」というもっとも危険な独りよがりに陥る人もいる。
これは少々悲劇的な自己矛盾である。

そうした態度や行動を見ると、人類には真の精神的成長の可能性はないのではないかという気にさせられてしまうにちがいない。
しかし、それは必ずしも修行や技法自体が自我に支配された行動につながるということを意味しているわけではない。
われわれはみんな程度の差こそあれアイデンティティを再確認したいという欲求に支配されており、自己開発に興味をもち、それにかかわる人ですらある程度の擁護を必要とする自我をもっている。

いまだ人生における真の自己の実現と統合が完了していない限り、その目標のための手段はある程度自我に支配されたものとならざるをえない。
そのため、まだ「途上にある」者に目標に達したかのごとく振る舞うことを、期待してはならない。
少なくとも、そういった人々はそのエネルギーを捕鯨、露天掘り、軍備や核兵器の製造、あるいは生命に対する潜在的な破壊的活動などのかわりに、内面的な成長を促進する方向に注いでいるのである。

これは、意識の進化に関して興味深い視点を与えてくれる。
多くの人たちにとって、より高次の自己を見い出そうとする動機は、究極的には超越されることになる獲得された自己の欲求から生まれてくる。
つまり、実際には、これらの欲求はそれ自体を消滅させる糧となるのである。
いうなれば、進化とは「自らの靴ひもを引き上げる」(ブートストラップ)ことによって成し遂げられるのだ。


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

第9章. 自己の覚醒

人間はわれわれが「宇宙」と呼ぶ全体の一部、時間と空間によって限定された一部である。
人は、自分自身、自分の思考、自分の感情を他から分離したもの
――意識の視覚的安想の一種――として体験する。
この妄想は、われわれにとって一種の牢獄のようなもので、
われわれを個人的欲望や、数人のもっとも身近な人たちに対する愛情に限定してしまう。
われわれの課題は、愛情の輸を広げ、この牢獄から自分自身を解放し、
生きとし生けるものおよび、自然全体の美を抱擁することである。
  ――アルバート・アインシュタイン


メタ・パラダイムの転換

われわれすべてが究極において一つであることを、永遠の哲学は繰り返し語っている。
そして、この一体性はわれわれの存在の奥底にある純粋な自己として知ることができるものであり、すべての人が生まれながらの権利として、このことに気づく可能性をもっている、と示唆している。

だが、大多数の人はそのような意識で生きてはいない。
おそらく、これはわれわれが教育や文化によってアイデンティティの皮相的な側面のみを見るように条件づけられているためであろう――暗示をかけられているという人もいる。
純粋かつ普遍的な自己はつねに存在する。
だが、われわれほとんどが「眠りこけ」、そのことに気づかない。

18世紀のイギリスの詩人、画家、空想家であるウィリアム・ブレイクは、『天国と地獄の結婚』のなかで次のように述べている。
もし知覚の扉が洗い清められたならば、すべてのものがあるがままの無限として人の目に映るであろう。

人は自らを閉ざしてしまったため、自分の洞窟の狭い隙間を通してすべてのものを見てしまう。
一つのアナロジーとして、もう一度161ページの黒と白の班点の例に戻ってみよう。
しかるべき視覚的なヒントによって、それを人の顔の絵と見ることができるようになった。
そしていったんその顔が見えると、ある意味でいつ見てもそこに顔があることがはっきりとわかるようになった。
しかし、セットの転換がなければ、顔を見ることはできない。
「彼はいったい何を言っているんだろう?
顔がそこにあるって?」

バフィン諸島


純粋な自己についても、同じことが言えるように思われる。
「普遍的な自己」としての自己のリアリティは、それを知っている人にとっては自明のことであるが、必要なセットの転換なくしては容易に理解することができない。
「あなたはすでに悟っている。
あなたのなすべきことは、ただその事実にめざめることである。」
と、禅師が言うのはそういった意味である。

問題は、いかにしてそれにめざめるか、われわれをいかにして「催眠からさますか」ということである。
この問いに答えることこそ、今日、人類が直面しているもっとも重大な課題と言っても過言ではあるまい。
もしも、「私はこのなかに」あり、残りの世界は「そとに」あるというように、いまだにリアリティを二元的に知覚しているとすると、われわれが宇宙全体と不可分であることを、いくら頭で理解しているとしても十分とは言えない。

人類が根本的な姿勢の転換を成しとげるためには、人体の細胞と有機体としての人間の関係同様、個としての人間が自然の不可分な部分であり、その環境から分離していないということに気づき、殻をかぶった自己を拡大しなければならない。
この〈気づく〉(リアライゼーション、実現する)という言葉はきわめて重要である。
というのはホリスティックでエコロジカルな倫理は、まずわれわれ自身のなかに築かれない限り、われわれの姿勢、方針、行動に組み込むことはできないからである。

それは、人生で直接体験される事実でなければならないし、あらゆる思考、知覚、感情、行動の絶対的前提とならなければならない。
われわれは自然との本質的な一体性を、単に知性や理性のみでなく、感覚的にも、また魂でも理解しなければならない。
それがわれわれのリアリティの否定し難い一部とならねばならないのだ。

すでに見てきた自己中心的なモデルからしても、そのような転換は非常に難しいと思われるかもしれない。
このモデルは、幼年期の早い時期から確立されてきたもので、もっとも強力な条件づけの一つであり、言葉、社会制度、あるいは周りの人たちの態度によってさらに強化される。
そのうえ、自己モデルは思考、議論、分析によっても、また単に変えようと思っても変えられるものではない。
なぜなら、それはあらゆる思考、議論、分析、意思決定の基礎をなす準拠体系であり、そのためそういったものの力の及ばないものであるからだ。

先に見たとおり、われわれの自己モデルはあらゆる精神活動を条件づける。
こういった点では科学的パラダイムと似た一つのメタ・パラダイムだと考えることができるが、自己モデルは科学的パラダイムと違い、すべての思考領域で勢力を振るう。
科学的パラダイムも、自己モデル同様きわめて変化しにくいことはしにくいが、変化はする。
ということは、類似の転換が科学においてどのようにして起こるかをもっと詳細に研究すれば、メタ・パラダイム――つまりわれわれの自己モデル――に転換を起こす方法に関してなんらかの糸口を見い出すことができるかもしれない。

コペルニクス革命

パラダイム転換の古典的な例の一つは、天文学におけるコペルニクス革命である。
宇宙の中心に地球があって、月、太陽、惑星および星がその周りを回っているという古いパラダイムは、紀元140年頃ギリシアの天文学者プトレマイオスによって公式化された。
このパラダイムは、円運動は完全な運動であるというプラトンの考えにその基礎を置いている。
天体は、完全な運動を体現していると思われていたので、当然それは地球の周りを円を描いて回っているはずであった。

しかし観測の結果、惑星は地球の周りを滑らかには回っていないことがわかった。
速度も変化するし、時として逆方向に動くことさえある。
プトレマイオスは、惑星が地球の周りの円軌道上に中心を置くより小さな円の周りを回っていると説くことによって、この変則性を何とか説明しようとした。

そして、周転円(エピサイクル)の名で知られる曲線が生み出された。
それは、惑星の軌道とほぼ一致したもので、円運動の法則を維持することができた。
観測の精度が増すにつれて、さらに多くの変則性が発見された。
そして、より複雑な周転円をつけ加え、さまざまな振幅を導入し、システムを非常に複雑にすることによって、それは説明された。
このモデルは、ぎこちないものであったが、1300年間事実上問題にされることなく生き残った。

何世紀にもわたって、少数の勇敢な人たちがシステムの中心にあるのは、地球ではなく太陽であるという説を唱えてきた。
この理論は、ギリシア初期の一部の天文学者によって唱えられていたが、ほとんど顧みられることはなかった。
16世紀、ニコラス・コペルニクスがこの説を数学的に公式化するに至って、初めて注目を浴びるようになった。
もしも太陽が中心にあれば、惑星のさまざまな変則的な運動は一気に解決することを彼は示した。
しかし、コペルニクスはいぜんとしてプラトンの完全なる円運動という考えに固執しており、変則性を相変わらず周転円によって説明しようとした。

地球が宇宙の中心ではないという考えは教会に対する異端であったため、コペルニクスは晩年になるまでなかなか自分の著作を出版しようとはしなかった。
彼が恐れたのも、無理からぬことではあった。
彼の支持者のなかには教会に罰せられた者もあったし、なかには火刑に処せられた者すらあった。
そして、ついに彼の著書が出版されると、それはローマ教会の禁書目録に名を連ねることになった。

8年後ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが、オランダの天文学者テイコ・ケプラ一の手になる非常に正確な天体観測の本を手に入れた時にもたらされた。
ケプラーは、このデータを分析し、太陽を中心とするシステムを使えば、複雑な「周転円」によらずとも、惑星が円の代わりに楕円上を回っているとすることでさまざまな動きを説明することができるということに気づいた。
新しいパラダイムへの次のステvプは、この二つの大転換――宇宙の中心に地球があるという考えからの転換と、円運動からの転換――が、手を携えて新しいパラダイム、つまりまったく異った世界観を生み出した。

しかし、そのモデルはすこぶる納得のいくものであったにもかかわらず、体制側からは容易には受け入れられなかった。
たとえば、イタリアの数学者ガリレオが新たに発明された望遠鋭を使ってケプラーの説を裏づける証拠を集めた時、大学教授たちは大変な脅威を感じた。
彼らは一致協力してガリレオに対抗し、神への冒涜のかどで彼を教会に訴えた。
彼は宗教裁判所に召喚され、地球が太陽の周りを回っているという馬鹿げた考えを「捨てることを普い、それを呪い、忌み嫌う」ことを強要された。

1687年サー・アイザック・ニュートンがその主著『プリンキピア』を出版して、ようやくこのモデルは受け入れられるところとなった。
ニュートンは万有引力の法則を説いたが、それはケプラーの説に理論的基盤を提供した。
こうして、パラダイムの転換が完了した。

トーマス・クーンなどの科学哲学者たちは、このパラダイムの転換やそれに匹敵する重要なパラダイムの転換を特徴づけている一般的パターンの考察をとおして、こうした変化が次のような段階を経て起こるということを明らかにした。

―.一般に受け入れられているパラダイムでは説明できない異常な発見。
最初のうちはこういった変則性は偽物あるいは虚偽として無視されるか、あるいはつじつまが合うようにモデルが拡大解釈される。

二.無視したりつじつまを合わせたりするだけでは押さえ切れないほどの、そうした変則性の数の増加。そして、観測報告ではなくむしろパラダイムの方が誤っているということがわかる。

三.新発見を説明できる新たなパラダイムの成立。

四.新しいパラダイムが体制側から議論を挑まれ、時には古いパラダイムに固執する人たちとの血みどろの争いにまで発展することもある過渡期。

五.新しいパラダイムがその後の観測報告をさらに説明できるようになり、新たな発見を予言できるという理由で受容される。

アイデンティティの転換

科学的パラダイムと同様、殻をかぶった自己モデルも、体験に一貫性のある枠組を与えてくれるために、高い地位を得ている。
この地位は、「私はこのなかにあり」世界は「外に」あるというそデルによって、われわれに起こるほとんどの出来事が理解できるという事実により強化される。
あらゆる外の世界の知覚は、まさにそれが外の世界の経験であるという理由で、自己中心的モデルにぴったりとあてはまる。
したがって通常の経験に関する限り、このモデルを脅かすような異常な現象などはないように見える。

二元的自己モデルがその原因となっている差し迫った全世界的破局さえ、この「内側に」いる「私」によって知覚される。
そのため、今日の危機は、単に社会的、経済的、科学技術的、政治的パラダイムの危機とされてじまう。
それらの危機はわれわれの世界観がどこかでまちがっていると頭のなかでは理解させてくれるかもしれないが、殻をかぶった自己の体験が直接挑戦を受けることはない。
その結果、われわれは自分自身に対してなにができるかを問う代わりに、社会に対してなにができるかを問う。
そのため、自己モデルは問題にされないままである。

殺をかぶった自己モデルに直接的に挑戦してくる現象の一つは、無限性や他の万物との一体性の個人的体験、つまり「私」と他のものはもっとも基本的なレベルにおいて同一の実体であるという認識である。
この一体性の直接的体験は、殻をかぶった自己のモデルとは相いれない異常な観察結果である。
これは、モデルの不完全さを暴露し新しい自己モデルへの転換を引き起こす古いアイデンティティの危機である。

科学的パラダイムの場合、たった一つの異常な観察結果だけでは、大きな転換は生まれない。
それは無視されるか言葉巧みに言い抜けられてしまう。
アイデンティティの転換についても同じことが言えそうだ。
時としてそのような一体性を味わう人の例は山ほどある。
その場合、彼らは突如として自分自身と世界を単一の全体だと感じる。
こうした意識の状態は、美しい夕焼け、長距離のランニング、瞑想、ドラッグ、激しい感情の高まり、宇宙空間からの惑星地球の眺望、あるいは取り立ててどうということもないと思える場合にも起きるものである。

しかし、そうした体験をするということと、この一体性があらゆる知覚、思考、行動の根本的な基盤となることは別である。
こうした一体的状態を体験した人の多くは、その後二元的な殻をかぶった自己モデルへと戻る。
万物との本質的な一体性を体験したという記憶は残るかもしれないが、一体性はもはや逃れがたいリアリティではなくなる。

古い自己モデルの立場に立つと、こうした体験は科学的パラダイムにおける変則性と同様、精神錯乱、幻覚、脳機能のなんらかの急変として葬り去られるに違いない。

アイデンティティにおける真の転換を引き起こすためには、古い自己中心的アイデンティティがもはや維持できずその地位を失いはじめるぐらいまで、変則性が積み重ねられなければならない。
これは、一体性の体験が個人的リアリティの一部となるまで、何度も何度も繰り返されなければならないことを意味している。
アイデンティティは、再び一体性を取り戻さなければならない。
これは次の章で見るように、さまざまな精神的修行や瞑想の実践の目的である。
これらは、このもう一つのリアリティを知り、その自覚を繰り返し体験することを可能にするプロセスである。

新コペル二クス革命

パラダイムの転換においては、基本的に次の二つのうちの一つのことが古いモデルに起こる。
コペルニクス革命の場合と同様、古いモデルが誤りとして排除される場合と、新しいモデルに統合される場合の二つである。
後者は、物理学におけるアインシュタイン革命のさいに起こったことである。
その場合には、ニュートンの運動の法則は、相対性原理の特例として保持された。

われわれの自己モデルには、この第二のタイプの変革が必要である。
殻をかぶった自己のモデルがかならずしも排除されねばならないというわけではない。
生物学的アイデンティティと自律性という観点から見て、個人の独自性と分離性とは重要な価値をもつからである。
先に見たような問題となる行動は、自己中心的な自己モデルそのものというより、唯一の自己のあり方としてそれに依存してしまうことから起こる。
そのため、アイデンティティの転換は、殻をかぶった自己のモデルを、大切なものではあるが自己の部分的見方だという形で迎合させるものでなければならない。

スタンフォード研究所の未来学者ウイリス・ハーマンは、この意識の転換を「新コペルニクス革命」と呼んでいる。
最初のコペルニクス革命においては、物質的宇宙に関する地球中心のモデルは引っくり返され、地球は宇宙の中心としての地位を失い、地球がその周りを回る中心としての地位は太陽に移った。
新コペルニクス革命においては、物質的世界に関する自我中心的モデルが同様に引っくり返される。
長い間内的宇宙の中心とみなされていた自我は、しかるべき地位に置き換えられるであろう。
すなわち、T・S・エリオットのいう「回転する地球の静止点」、あらゆる意識の真の中心たる純粋な自己の周りを回るものとされるのである。

本来のコペルニクス革命は、地球の動きを変えたり太陽の動きを止めるのではなく、システム全体をよりよく知ることによってもたらされた。
そのため、新コペルニクス革命も、自我の破壊や抑制、あるいは純粋な自己という概念に固執することによってではなく、内的本性に対する自覚を拡大することによってもたらされるはずである。

最初にそういった事実の直接体験のないまま、個人のアイデンティティを破壊したり、万物と一体であると思ってしまうと、理論と体験の不調和が醸し出されるだけである。
おそらく、さらに強力な個としての自己意識が、社会的相互作用、コミュニケーションおよび自己改善には不可欠であろう。

自我を破壊することは、「世界の原動力」を取り去るに等しい。
そうなるとわれわれは、目的をもたぬ植物になり下がることだろう。

純粋な自己が個人のリアリティとして恒久的に確立された状態は、さまざまな精神的伝統で自己実現とか悟りと呼ばれているものである。
ここでいう悟りとは、単に特別に賢いとか自覚があるとか温和だとかいっただけのものではなく、一つの明確な意識状態を意味している。
悟った人は、生物学的自律性を維持しながら、個的有機体として機能しつづける。
そして、この個の意識にそれと同等にリアルな万物と一体であるという意識がつけ加えられる。
一体性と分離性とが、アイデンティティのニつの側面となるのだ。

悟った意識状態の重要な点は、もはや自分の存在を確認するために環境に依存する必要がないということだ。
純粋な自己は外界の浮沈に影響されないからである。
したがって、傷ついた自我を癒したり、なんらかの脅威にさらされたとき必ず自我の再確認をしなければならないという絶え間ない欲求はもはや存在しない。
他人や外界を犠牲にして自我を再確認することと、外界との一体感の体験は完全に相いれないものとなる。

悟りをひらいた人が、もはや外界との相互作用から自己を獲得する必要がないということは、その人物にパーソナリティ、性格、個としての特異性がないという意味ではない。
(悟りをひらいた神秘主義者や宗教的導師たちに関する研究を見ればすぐわかるように)こうした点において悟った人は、他のいかなる人にも、負けないくらい豊かな個性をもっている。
重要なのは、彼らがもはやこうした特性に心理的に執着していないということだ。
こういった意味で、彼らは「無我」である。
彼らは個的自我をなくしてしまったのではなく、それを絶え間なく確認する欲求をもっていないだけである。
行動は自我に支配されなくなり、その場の状況によりふさわしいものとなる。

悟った人は心理的にもはや経験に依存していないため、世界に翻弄されることはない。
以前は苦悩の原因となっていた個人的批判、失職あるいはその他の出来事も、いぜんとして現実として存在するが、もはや自分に対する脅威と感じられることはない。
これは、悟りに至ってはいないが、その方向に向って進みはじめた人たちの体験で実証されている。
最初に目につきはじめるのは、一体性の感覚ではなく、内面的な強さと安堵感を伴った、自分自身に対する安心感であると彼らはしばしば述べている。

こうした獲得された自己の欲求からの解放に伴い、心の解放が訪れる。
以前は(なんらかの面で相手を愛すべきものと感じるという)条件つきであった愛が、今やほとんど無条件になってくる。
悟りをひらいた人は、あらゆる生き物や物質に対して、その性質や属性に関わりなく、自然にわきあがる愛を体験しはじめる。

そのような愛の成長は、あらゆる宗教の絶えることのないテーマである。
たとえば、キリスト教の伝統のもっとも重要な側面をなしているのもそのような愛の成長である。
ギリシア語のカリタスは、福音書で慈善と解釈されることもあるが、本来「いとおしさ」あるいは「親密さ」、つまり一体性という意味での愛をさしていた。
これは、単なる友情とか隣人の世話をすることよりはるかに深くて広い意味での愛である。

こうして、われわれは「汝の隣人を愛せよ」という一節を、特定の形で感じ行動せよという戒めとみなしてしまう。
しかし、おそらくそれは決して戒めなどを意味するものではなかったであろう。
われわれはある姿勢を身につけなければならないのではなく、ある意識状態に達しなければならないのだ。
その状態とは、あなたの隣人(およびすべての人)が汝自身と同一の実体であることを理解している状態のことである。

ほとんどの人にとって、真の共感の相手が身近な少数の人物を越えることはまずない。
世界との共感をおぼえるというより、むしろそれから疎外感を感じている人がほとんどである。
万物に対する真の愛は、万物との一体性の個的体験、もっとも深遠なレベルにおいて自己と世界が一つであるという自覚から生まれてくる。
あらゆる人や物との深い共感は、このような意識状態の自然の成り行きとしてまったく自然発生的に生まれてくる。

同じような啓示的な言葉が、中国古代の『道徳経』に簡潔に述べられている。
「自分自身として世界を愛しなさい。
そうすれば、あらゆるものを本当に好きになれる。』

25OO年後、テイヤール・ド・シャルダンは、その著書『人間の未来』のなかでこのテーマを詳しく論じている。
「われわれが必要としているのは、頭と頭、身体と身体ではない。
心と心である。
もしも、完全なる魂の統合をもたらそうとするなら(そして、これこそが唯一可能な進歩の定義ではあるのだが)、それは最後の手段として、普遍的な相互の愛において実現されるような、人間というユニットの中心と中心の出会いによって達成される。」
そして、彼はさらに続けて次のように述べている。
「人間という本質的に数えきれないほど多様な構成要素が、互いに愛し合う道がたった一つ存在する。
それは誰もが全員に共通した、たった一つの”超越的中心”をもっているということを知ることである。」

悟りをひらいた人は、深い普遍的な慈悲心を体験し、奉仕の生活を送るようになるのが通例である。
そしてその奉仕は、人類だけでなく、全世界に対する奉仕である。
仏教の経典には、次のような言葉がみられる。
「二元性を知らない正しい思考の木は、慈悲の花と実をつける。
そしてその名は他への奉仕という。」

悟りをひらいた人は、自他に基づく日常的な二元性や、それに起因する苦悩を超えたリアリティを知っており、人類に対する慈悲心から他人がこの理解に至る手助けをしたいと思う。
そのため、仏教の教えの多くが、悟りをひらいた人はあらゆるものが悟るまでは、休むことを知らないと説いている。

このあらゆるものの悟りという目的に向って、人類は進まねばならない。
悟りに至った者の数は、一般にきわめてすくない。
しかし、世界が変容し、高シナジー社会が現実となるためには、そうした意識の転換が広く行きわたる必要があるであろう。

地球のガンの治療

より高い意識への世界規模の変革は、人間社会を惑星のガンとする仮説にとって重要な意味をもつ。
第二章で見たように、自らが依存している身体を破壊するような形で増殖する人体の悪性腫瘍の広がり方と、人類が無差別に地球の表面を食い荒らし惑星という宿主を分裂、破壊していくやり方には、数多くの類似点が存在している。

悪性腫疹の組織では、個々の細胞はより大きな有機体の一部として活動することをやめてしまっている。
彼らは身体の他の部分の犠牲のもとに、栄養を摂取し増殖する。
それはある意味で、自己中心的な細胞である。
こういった意味でガンは低シナジー現象である。

生きている有機体のシナジーは、その細胞の核の中のDNA分子に依存している。
DNAの特定の鎖の上の数多くのより小さな分子の精密な配置が、特定の遺伝コードを形作るもととなる。
個々の人間はほんの少しだけ異った遺伝コードをもっているが、一人の人物のなかでは同一の遺伝コードが、文字どおりあらゆる細胞に含まれている。
この遺伝コードは、個人の特定の特徴を決定するだけでなく、全部の細胞がいかに機能するかも決定する。
もっとも重要なのは、それが個々の細胞と全体としての有機体を共通のプログラミシグでつなぐ不可欠な要素を提供するということである。

特定の細胞がガンになるのは、この遺伝コードがなんらかの形で乱されたり妨害されるためである。
これは、さまざまな形で起こりうる。
有毒化学薬品の影響、X線または核放射線の照射、あるいは単に数十億個の細胞を恒常的に再生するプロセスで偶然に身体が不完全なものを生みだす場合もある。

健康な有機体においては、ときおり生まれる欠陥はすぐに処理される。ところが、衰弱したり抑圧された有機体では、その妨害によって全体としてのシステムとのつながりとなっている情報の一部を失った細胞が生み出される。
システムの他の部分との必要なつながりを欠いてしまうと、変異細胞と全体との関係は低シナジー関係となり、変異細胞は低シナジー的に機能しはじめる。
そして同様に乱された遺伝コードをもつ別の細胞が作られはじめ、悪性腫瘍となっていく。

社会のレベルにおいて、個人をシステム全体に結びつけ、遺伝子に匹敵する機能を果たしているものは、純粋な自己である。
DNAのなかの遺伝子が体内の細胞の高シナジーに不可欠な共通のプログラミングを提供しているのと同様に、社会の超有機体のなかの細胞のシナジーに不可欠な共通のプログラミングを提供しているのは自己の自覚である。
細胞の遺伝子と同様、純粋な自己は普遍的な実体である。
それらはちょうど共通の遺伝子が一人の人物のすみずみまでいきわたっているのと同じように、社会全体のあらゆる意識の中心に存在する。

人間のガンと地球のガンはこのアナロジーよりも、はるかに密接に結びついているかもしれない。
それは、同一の問題の二つの異った兆候かもしれない。
人間のガンは、過去数十年間に、西欧先進諸国で着実に勢力を増してきた。
同時に、これらの国では環境に対するアプローチが、よりいっそう有害なものとなってきた。

ガンの増加の一部は、皮肉にも、保健医療の向上が原因になっているようだ。
結核が主な死因だった当時は、ガンになる人はそれほど多くはなかったのである。
近代的なライフスタイルもまた、大きな要因である。
現代の食事も、人生に対する全般的姿勢同様、関連があるとされてきた。
空気中の汚染物質や放射能はいうにおよばず、無数の商品(たとえば、毛染め剤、日焼けオイル、石綿繊維、フォトコピー液、塩素殺菌された飲料水)が、ガンを引き起こすということがわかってきた。
これらはすべて現代社会の低シナジー的なアプローチから生じたものの例であるが、それらはまた同時に個人の低シナジーやガンを生み出しているように思われる。

こういった社会の悪質な傾向を変えるためには、世界の一体性の体験を通して、もう一度われわれとシステム全体の結びつきを取り戻す必要がある。
おもしろいことに、ラテン語の「結び直す」は、「宗教」という言葉を指していた。
宗教がわれわれを共通のよりどころに結び直すのである。

これはなにもわれわれが伝統的な宗教に回帰しなければならないということを、意味しているわけではない。
というのは、次章で述べるように伝統的宗教は結び直す術を失いつつあるからだ。
われわれが必要としているのは、偉大な神秘主義者や永遠の哲学の支持者の体験に基づく精神の再生、すなわち広範な意識の転換である。

今やそうした転換は、個人や社会全体の繁栄にとってだけでなく、ガイア自体にとってもきわめて重要なものになってきた。
それは、全世界の自発的解放への道である。
こういった意味では、ヒマラヤの洞宛のヨーガ行者であろうとロサンジェルスのビジネスマンであろうと、自己実現という目的をもっている者は誰もがもっとも根本的なレベルで、世界の変革に役立っているのである。
おそらくそのような人たちこそ最大の革命家であろう。

内からの進化

われわれは、自我に支配された自己モデルからより普遍的なモデルへの転換が、高シナジーの発展と健全な社会的超有機体への人類の転換に不可欠な要因だということを見てきた。
この点から見ると、自己実現の発展は、人類の漸進的統合へと向う進化の全般的動向を支えていることになる。

しかし、さらに一歩つっこんで、意識のより高い状態への発展が、進化のプロセス自体の不可欠な要素であると見ることもできる。
自省的意識への飛躍的進化は、自らを意識し考える存在として自覚することを可能にしただけでなく、意識そのものの本質――純粋な自己――を意識する能力をも与えてくれた。
われわれに精神的に悟る可能性を与えてくれたのだ。

その上、自省的意識の出現によって、進化の舞台は生命から意識へと上昇し、意識が進化の最前線となった。
地球上で初めて、進化が内面化されたのである。
したがって、数多くの人々が感じている内面的に発達し成長したいという強い衝動は、われわれ自身の意識のなかにおける進化の力の現れといえるだろう。
われわれを通して宇宙が進化しているのである。

この内面的進化は、進化の全プロセスの一つのわき道というわけではない。
意識の内面的進化とは、宇宙の片隅で、われわれが目下体験しつつある特定の進化の局面なのだ。

この見方に立てば、社会的超有機体に向う動きと、内的一体性を知ろうとする神秘主義的な衝動は、より高次の全体性へと進化を推進させる同一のプロセスの相補的局面といえる。
つまり、進化の流れにしたがうということは、内面的自己を探究し我々のなかに一体性と全体性を見つけ出すことだということになる。

人類が今直面している問題は、どのようにしてこの内的進化を促進するかということであり、さらに重要なのはそれを手遅れにならないうちになしうるかどうかということである。


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

第8章. 統合を求めて

そうだ、理解の果てなるものが存在する
そうだ、その時にのみ理解しうるものが存在する
心の開花する時、
棄を付け、つぼみを付け、花開く、
あの美しき花満開なる時、
ところが、人は心に網を打ち、
縛りつけ、閉じ込め、内へ向かえと強いるというのか
自らが理解しえぬ内へと
全盛なる心のカは
太陽のごとく威厳とともに立ち昇り、
思考の光で感情とともに光り輝く
あらゆるものから解き放たれた純粋なる魂をつねに抱き
他のあらゆるものから小さき心を空しくせよ
ただ一つ心を超えて存在するものの理解の果てを究めん
との志を除いてすべてから空しくせよ。
  ――カルデアの神託(作者不明)

自己へのアプローチ

先に見たように、体験から自己を獲得することは、木にあいた穴を穴自体ではなく、周りの木の性質で説明しようとするようなものである。
われわれの本性は、穴のなかの空気同様、獲得された自己に較べるとはるかに捉えがたいものである。
だが、それはあらゆる経験に共通したもっとも普遍的な唯一の要素でもある。

われわれの真の本質とも呼ぶべきこの根源的な自己の探究は、何千年にもわたって世界中の人々の心を引きつけてきた。
たとえば、18世紀のスコットランドの哲学者デヴィッド・ヒュームは、真の自己を見い出そうと、何度も自らの内を探った。
しかし、彼が見い出したのは「私が自分自身と呼ぶもののなかへ深く入っていくと、必ず熱さや寒さ、光や影、愛や憎しみ、苦しみや喜びといった特定の知覚につまずいてしまう。
いかなる時にも、知覚なくして、自分自身を捉えることはできない。
また、知覚以外、なにも観察することはできない。」
ということであった。

ヒュームの苦労はなにも特別なものではない。
他の物と同じように自己を経験することはできない。
いかなる経験であれ、経験には二つの要素が必要である。
まず外界の対象、体内の感覚、心像、あるいは感情のような、経験されるべき客体がなければならない。
そして、その経験をする経験者、すなわち経験の主体がなければならない。
ヒュームが自己の探究において捜し求めていたのは、この経験の主体であった。

だが、他の物と同じよ与に自己を経験するためには、自己が経験の客体とならなければならない。
こうしたアプローチが失敗する主な理由はこの点にある。
それは、ちょうど額につけた懐中電灯以外に光のない部屋に入り、光の源を探すのに等しい。
われわれが見るものは、すべてその光を反映したさまざまな対象にほかならないのである。

だが、あらゆる経験の主体が、まったく不可知なものであるといっているわけではない。
ただこの「自己」(前章の獲得された自己と区別する意味で括弧書きした)は、それ自身が経験するものであるために、他の物と同様には経験できないのである。
それは、「私は、これだとかあれだ」という経験ではなく、むしろ「あれとかこれを経験する私」なのだ。
このように、われわれ自身をどう思い、あるいはどう感じようと、それはあらゆる経験の主体たる純粋な「自己」ではなく、われわれの意識のなかに現れてくる自己にすぎない。

つまり、われわれは真の「自己」ではなく、自らの自覚の内容や経験と自己同一化を起こしているのである。

自己同一化とは、文字とおり「同一のものにする」という意味である。
われわれが自己同一化しているものは「私」と同一のものにしたものではあるが、それらを「私」と同一にしなければならないという事実そのものが、すでにそれが本当の「私」ではないことを示唆している。

自分の本質的な側面だと思っている部分を取り出し、もしその側面が今と違っていたら「私」という感覚も違ってくるかどうかを問えば、このことがわかる。
もし身長がもう3センチ高かった場合、「私」という感覚に変化があるかどうか、あるいは別の人種だったら、異性だったら、それとも自分の身体が他の点で違っていたらどうかということから始めてみるといい。
確かに外見は変わるだろうが、肉体的に今とは違いうるというまさにそのことが、そうした特徴をもつ「あなた」には変わりがないということを示している。
あなたは肉体をもってはいるが、あなたは肉体そのものではない。

同じことが感情にもあてはまる。
ある日、あることを感じるとする。
次の日には、違ったことを感じるかもしれない。
この場合もまた本質的な「私」という感覚が変わったわけではなく、単に自分の感情が変わったにすぎない。
あなたは感情をもってはいるが、感情があなたというわけではないのだ。

思考や欲望についても、同じことがいえる。
あなたは思考力をもってはいるが、思考そのものではない。
あなたは欲望をもってはいるが、あなたが欲望そのものというわけでもない。

では純粋な自己の本質とは、いったい何だろう。
こういった意味での「私」の本質とは何なのだろうか?

純粋な自己

われわれは、「自己」が「自己」を体験するためには、経験する者が同時に経験の客体にならねばならないということを見てきた。
こうした状況においては、もはや主体と客体との区別は存在しないだろうし、主客が相互作用する余地もあるまい。
ここでは、一般的な意味での経験はなくなってしまう。
これは、内容が完全に不在の純粋な意識の状態である。

意識すべきものがなにも存在しないのに意識のみが存在している状態を、いかにして理解すればいいのだろうか。
聞くことと耳を傾けることの違いが格好のアナロジーになる。
どこにいようと、普通、耳を傾けさえすれば周りのさまざまな音が聞こえてくる。
しかし、まったく音のない部屋に入ったとすると、いぜんとして耳を傾けてはいるものの、なにも聞こえはしない。

同様に、精神的に完全に静寂な状態においては、経験の主体であるあなたは意識してはいても、意識されるべきものはなにもない。
あなたは存在してはいるが、あなたはいかなるものでもない。
これが、純粋な存在の状態として知られているものである。

この意識状態は内容を欠いているため、彼または彼女自身の自己に対するもっとも深い感じ方を他人のそれと識別するすべはない。
その時、人は普遍的レベルの自己と触れ合っているのだ。

この状態になんらかのアイデンティティが存在するとすれば、それは人類および全存在と一体であるというアイデンティティにほかならない。
多くの人にとってそういった意識状態は、かりに起こるとしても稀れにしか起こらない。
一般に、われわれの注意は外へ、つまり純粋な自己から逸(そ)れた知覚体験の世界へ向けられている。
たとえ注意が内面に向けられたとしても、通常、なんらかの考えに心を奪われている。
頭のなかになんの考えも存在しない「なんの考えも存在していない」という考えすら存在しないというのは、非常に稀れなことである。

この自己認識は大半の人が共有する経験の一部ではない。
それにもかかわらず、それが可能であるというありあまるほどの証拠が存在する。
こうした状態に関する記述が、世界中のあらゆる時代の神秘主義者や宗教家の著作のなかにしばしば現れる。
しかし、純粋な自己はいわゆる経験というもののもつ特性をなに一つとしてもっていないため、言葉で言い表すことは非常に難しい。
たしかに、描写するという行為そのものが、自己を経験の主体というよりは客体にしてしまう。
これが多くの神秘主義者に「言語を絶した」言葉にできないものといわせる理由である。
それは言葉では言い表せず、あらゆる考えを超えたものであり、それを言い表そうとすると、どうしてもなんらかの考えに変えてしまうことになる。

純粋な自己の本質に関する古代インドの聖典『ムンダカ・ウパニシャツド』は、この難しさを次のようにまとめている。

それは外面的認識ではない。
それは内面的認識でもない、
まして認識の停止などではない。
それは知ることではない、
それは知らざることでもない、
まして知っていること自体などではない。
それは判断することでも
理解することでもない。
それに限界を与えることはできない。
それは言語を絶し考えも及ばない。
それは定義し難い。
それはそうなることによってのみ知ることができる。

同じ調子で、あらゆるものの究極的な本質(タオ)について語っている古代中国の『道徳経』は次のような書き出しで始まっている。
「語ることのできる道は、不変の道ではない。」

しかし、このような自己の本質に関して完全な沈黙を保つことには、たいした価値はあるまい。
こうした難しさを心に留めつつ、神聖なるものとの結合を個的に探究してきた神秘主義者たちがその状態をどのように述べているか、そして、特にどのようにして森羅万象との一体性の直接的認識にいたったかを見てみよう。

紀元前5世紀の中国の神秘主義者、荘子は、この状態を
「私と、宇宙にあるすべてのものは一つである。」と非常に簡潔に述べている。

3世紀のエジプトの哲学者プロティノスは、次のように述べている。
「今や人はすべてであることをやめてしまった。
しかし、個であることをやめるとき、再び立ち上がり全世界を貫くであろう。」

13世紀のキリスト教神秘主義者マイスター・エックハルトは、自らの経験を次のように記している。
「人がこの世でもっている外面的なさまざまな物は、すべて本来一つのものである。
草の葉、木、石などすべてのものは一つである。
ここにもっとも深遠な深みがある・・・」

そして、ドイツのドミニコ会修道士ヘンリー・ズーゾーは、
「万物は・・・同一の生命、同一の実体、同一の力、同一の物でありそれ、以下のものではない」と述べている。

これらの神秘主義者が言おうとしているのは次のようなことではないだろうか。
「私は、そのもっとも深遠な存在のレベルにおいて、あなたや宇宙と同一の実体である。
われわれはすべてこの同一の実体であり、私は自己をそのように体験する。
これがわれわれが”同一である”ということであり、われわれのアイデンティティのもっとも深いレベルである。」

自分を完全に分離した個と捉える考え方に慣れ親しんでいるわれわれからすると、これは非常に理解し難い概念に見えるかもしれない。
何人かの導師によって用いられた次のアナロジーが、この考えを明確にする上で役に立つだろう。
われわれの個々の意識は大洋から取った一滴の水のようなものである。
それぞれの水滴はユニークで、固有の性質とアイデンティティをもっている。
しかし、同時に個々の水摘は大洋とその本質は同じである。

永遠の哲学

表面的には、この一体性の体験は、あらゆる神秘主義的、宗教的伝統の核心をなしていると見ることができよう。
さまざまな宗教はリアリティの本質、救済とか解放の手段に関してまったく異なった教えを提示しているように見える。
しかし、ひとたび文化的装いや後世の注釈者、解説者による追加や修正を削り取ると、われわれがその中核において一体である、というそれらすべてに共通した根本的教えが姿を現す。

主要な宗教的、神秘主義的伝統にかなり造詣が深い文筆家で小説家のオルダス・ハクスレーは、この根本的教えを「永遠の哲学」と呼んだ。
ハクスレーの言葉を借りると、「永遠の哲学」とは「物質界、生命界、精神界の本質である神聖なリアリティの認識、神聖なリアリティあるいはそれに近いなにものかを心の中に見い出す心理学、あらゆる存在の内在的、超越的基盤に関する知識を究極の目的とする倫理」である。

たとえば、『ウパニシャッド』には次のように述べられている。
われわれの内なる物は、外なる物
われわれの外なる物は、内なる物

これに酷似した所説が、最近発見されたトマスの福音書にも見られる。
「神の国は汝の内にあり、汝の外にある。」

馬鳴は、『大衆起信論』という初期の仏教経典のなかで、次のように述べている。
「その始めからすべてのものは、本質において仏性そのものであった。」

永遠の哲学の特筆すべき点は、それがイデオロギーでも信念体系でもなく、西洋的な意味での哲学ではないというところにある。
永遠の哲学は、そういった状態を味わった人たちの体験に基づいたものである。
思考や議論のための一連の観念ではなく、心の内側へ目を向け、自らの力でこれらの真理を発見せんとするものである。
それに伴う認識、ライフスタイル、道徳の変化は深遠なものかもしれないが、それはなんらかの概念体系や教義を受け入れることによってもたらされるのではなく、この純粋な存在の状態を知ることによって生じてくるものである。

さらに永遠の哲学では、本質的な一体感の理解は、選ばれた少数の者だけのものではないと、繰り返し説かれている。
「自己」はあらゆる人に共通したものであるため、われわれ誰もが真の内的本質を悟る可能性をもっている。

そのため、たとえば詩人テニスンのような、世俗的文筆家のなかにも同様な叙述を見い出すことができるのである。
友人に宛てた手紙のなかで、彼は
「個性は無限の存在へと溶解した。
その状態は混乱どころか言葉ではとても言い表し難いほどこのうえもなく明瞭なものであり、確実きわまりないものである。
ここにおいては死はあり得ないばかばかしいものである。
(もしそうだとすれば)個性の死とは、消滅ではなく唯一のまことの生にすぎない」
と、語っている。

19世紀の社会科学者で詩人のエドワード・カーペンターは、次のように述べた。
かりに思考を抑制することができれば(そして、あくまでそれを貫徹しうれば)、最後には思考の奥底あるいは向うにある意識の領域に至り、・・・われわれが慣れ親しんできたものよりはるかに巨大な自己の理解に至る。
われわれが日常生活で関与している通常の意識は、まず第一に狭い局所的な自己に基盤を置いたものであるため、・・・そこから技け出すことは、通常の自己や日常的世界を捨てさることを意味する。
それは通常の意味では死であるが、別の見方をすれば真の自己、もっとも本質的な自己、つまり「私」が宇宙にみなぎっているということに、めざめ気づくことを意味する。
山や海や星は人体の一部であり、人の精神は万物の精神と触れ合っている。

このような状態を経験したことのない者にとっては、こうした相互関連性の感覚は、いささかこじつけ気味に思えるかもしれない。
しかしあらゆる形態の内に存在する一体化の要素という概念は、単なる哲学的概念ではない。
過去50年の間に、この概念は現代物理学というおよそ無関係と思える分野でも支持をえつつある。

神秘主義的物理学者

われわれすべてが同一の実体からなっていることを示す非常に基本的な捉え方がある。
あなたと私そしてこの宇宙のあらゆる物は、百あまりのさまざまな原子の抜粋から成り立っている。
また、原子自体もいくつかの素粒子(電子、中性子、陽子等の)から成り立っている。
このさまざまな粒子もまた、クォークと呼ばれるさらに基本的な粒子から成り立っているようである。
こういった意味では、われわれは文字どおり同一の物質的実体からなっているといえる。

むろん、これはきわめて単純な一体性の形態である。
しかし、神秘主義者がいう一体性とは、もっと深遠なものであり、経験のレベルにおける一体性のことである。

経験の対象としての物質的世界と経験の主体を完全に分離しうると考えるのは誤りかもしれないということを、最初に示唆した物理学者はアルバード・アインシュタインである。
1905年に出版された彼の『特殊相対性理論』は、時間や空間と見えるものは、絶対的に固定されたものではない、という革命的観念をはらんでいた。
たとえば、異った速度で旅をしている2人の人物が同じいくつかの出来事を見ていたとする。
1人が計った出来事と出来事の間の距離や時間と、もう1人が計ったものとは、わずかながら異るであろう。
2人の速度が異なることを考慮に入れても、この事実に変わりはない。

アインシュタインは、時間と空間は別々に見えても、それは同一のもの(時空連続体)の異る局面にすぎないということを証明した。
しかし、われわれが宇宙を観察するときには、時間と空間の一体性が崩れ、それぞれの観測者は互いに連続体の異った部分を見ることになる。
要するに、アインシュタインはリアリティをどう知覚するかは、観測者の動きによって部分的に規定されることを示したのである。

20年後、原子物理学の分野で活躍していたもう1人のドイツの物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクは、不確定性原理を提唱した。
それは、粒子の位置と速度の両方を特定の限度を超えて正確に測定することは不可能であるということを示していた。
一つの局面を正確に測定すればするほど、もう一方は不正確になる。
粒子の位置を正確に測定しようとすると、速度は曖昧になる(反対に、正確な速度を決めると、正確な位置が決められなくなる)。
ハイゼンベルクはそれによって、観測という行為そのものが、観測されるものに影響を与えるということを示した。

観察者と観察される物を分離した独立の実体と捉えていた当時の物理学者にとって、この二つの結論には強烈な意味合いが含まれていた。
どういうわけか、精神界と物質界は相互に依存していたのである。

それ以来、理論物理学者たちは宇宙のさまざまな現象は単一の根源的全体の顕れにすぎないとする見方に、相当の注意を払ってきた。
アインシュタインは、時間と空間だけでなく、電気と磁力、エネルギーと物質(彼の有名な等式 E=mc2)についても同じことがいえることを証明した。
そして、彼はさらに壮大な統合、すなわち物理学における四つの基本的な力(重力、電磁力、いわゆる強い核力および弱い核カ)が一つの原理の異なった顕れであることを示す統一場の理論の探究にその晩年を費やした。
彼はこの問題に長い年月を費やしたが、結局、統一場の理論を発見することはできなかった。

しかし、物理学のその後の研究は、彼の予感がおそらく正しかったであろうことを示している。
ゲージ理論の発展によって、物質界の四つの基本的な力はたしかに同一のプロセスの顕れだと考えることができるのではないか、ということが示唆されている。
重力と電気は非常に異った物理的特性をもっているため、まったく異ったものと見えるかもしれないが、それは一つの力の異なった局面にすぎないと物理学者たちは今では信じている。

現代物理学の他の発見は、個々の粒子を分離した別個の実体と捉えるのは、誤っているかもしれないということを示唆している。
もっとも基本的なレベルにおいては、個々の粒子が分離しているような外観を生むエネルギーのパターンが存在しているだけである。
この研究のもつ平命的意味合いは、物理的に分離しているように見えるにもかかわらず、われわれすべてが本来宇宙の織り物のなかに互いに織り込まれており、ある意味では相互に関連していることを示唆している点にある。

織り込まれた秩序という概念を導入したイギリスの物理学者デヴィッド・ボームの提唱するアプローチは、この相互関連性の理解につながるものである。
明示された秩序とはわれわれが目にする自分たちの周りの宇宙(さまざまな物理学の法則で描き出されている因果の世界)であり、織り込まれた秩序とは感覚や身体器官では感じえないレベルの秩序に関するものである。

織り込まれた秩序のレベルでは、宇宙のあらゆる部分がそのなかに宇宙のすべてを包み込んでいる。
もしも、これが理解し難い奇妙な概念だというのなら、ホログラフィという新しい写真技術にその理解に役立つ有益なアナロジーを見い出せよう。

普通の写真では、写真上の個々の筒所は全体的映像の特定の部分であり、すべての筒所が正しい位置になければ正しい映像は見えない。
それとは対照的にホログラムでは、ホログラフィックな感光板上のそれぞれの地点には映像のすべてのデータが記録されている。
映像上のあらゆる部分が、感光板上のあらゆる部分に記号化して記録されているわけだ。
だが、ホログラムを肉眼で見ると、さざ波のような微細なパターンが見えるにすぎない。
しかし、ある種の光線を感光板に照射すると、三次元の映像が感光板から浮びあがってくる。
感光板上のあらゆる部分は、映像全体の情報を含んでいるので(使う感光板の部分が小さければ、それだけ映像がボケはするが)どの部分からも全体の映像を生み出すことが可能なわけだ。
こういった意味で、感光板のすみずみまで映像が「包み込まれている」のである。

ボームの織り込まれた秩序という理論は、物質界とはすべての時間と空間が、そのあらゆる部分になんらかの方法で記号化して組み込まれているホログラムのようなものかもしれないということを暗示している。
この織り込まれた秩序が、直接知覚されることはない。
われわれが目にするのは、根底にある織り込まれた秩序から生み出された、特殊な形態である明示された秩序である。
究極的には全宇宙は、分離、独立した部分にはいかなる基本的意味もない単一の分離不可能な全体であるという結論をボームは下している。

もう一人のイギリスの物理学者リチャード・プロッサーは、どのようにしてそのような包み込み現象が起こるかに関する物理学上の説明を提唱している。
彼の提案は基本的に、単一の分離した素粒子と思われていたものは、実は宇宙のあらゆる方向に広がる無限の波状パターンと考えることができる、というものである。

波は、ごく小さな空間を除いてあらゆる場所で互いを打ち消し合うような性質をもっている。
そして、ごく小さな空間では波は互いに強め合って粒子という外観を与える。
これは、すべてのものはある意味であらゆる場所に存在するが、特定の一点にのみ現れるということを意味している。

これらの理論は物理学者たちによって説かれているにもかかわらず、ますます神秘主義者の教えに近づきつつあるように思える。
たしかに、もしも宇宙が究極において一体であるなら、そのような諸観念の収斂もありうることだろう。

物理学者は、客観的存在のもっとも深いレベルを物理的な実験、理性、数学という道具を通して探究し、神秘主義者は主観的存在のもっとも深いレベルを個人の内観によって究めようとする。
かりに彼らが物質界と精神界とを収束する究極的統合に別個に近づきつつあるとしたら、両者の発見と理解がますます似てきたとしても驚くには当たるまい。

言い替えれば、科学はみずからの手で永遠の哲学を見つけだし、もっとも深遠なレベルにおいてわれわれが一つであることを再確認しつつあるのだ。


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

第7章. 殻をかぶった自我

分かち難い仲間である二羽の鳥が、同じ木に止まる。
一羽は果物を食べ、もう一羽が見守る。
最初の鳥がわれわれの個我、この世の苦楽を常食とする。
もう一羽が普遍的な「自己」。
黙ってすべてを見守る。
  ――「ムンダカ・ウパニシャッド」 B.C.5世紀

パラダイムとリアリティ

何千年もの間、太陽は地球の周りを回っていると信じられていた。
誰もが堅くそう信じていたために、それがリアリティだと思われていた。
しかし、16世紀にコペルニクスが地球が太陽の周りを回っているというまったく違う見解を提唱した。
彼の理論は、容易には受け入れられなかった。
古いリアリティが捨てられ新しいリアリティが認められるまでの間、一世紀にわたって論議が絶えなかった。

この世界観の完全な逆転を可能にしたのは、重要な新しいデータの発見ではなく、既存のデータの新しい解釈であった。
たしかに、惑星の動きは変わりはしなかった。
変わったのは、それを通して惑星の動きを見る概念的パースペクティブ(遠近法、透視図法、見取図、展望)であった。

科学者はこのプロセスを新しいパラダイムの創造と呼ぶ。
この「パラダイム」という言葉は、哲学者で科学史家のトーマス・クーンが、その著書『科学革命の構造』のなかで初めて使ったもので、もともと、ギリシア語でパターンを意味する「パラディグマ」に由来している。
クーンはこれを特定の科学の基礎となる支配的な理論的枠組、ないしは一連の仮説という意味で用いた。
パラダイムとは、特定の科学にその分野内のリアリティの基本的モデルを提供する一つの「超理論」といったものである。
科学者の考え方や、理論づけの方法、あるいは実験の観察方法がこれに左右される。

一度パラダイムが受け入れられると、疑われることはまずない。
そして、普通、永続性をもった科学的ドグマになってしまう。
その結果、科学者たちは、そのモデルにあてはまる現象のみを受け入れ、そうでないものを拒絶するという傾向をもつようになる。
しかし、時にはある現象がモデルにあてはまらないことが余りにも明白で、もはや無視できないような事態になることがある。
これは一般に、クーンがパラダイムの転換と呼んだ世界観の変革をもたらすが、これについては後でもう少し詳細に検討する。

本来クーンは科学思想に関してパラダイムという概念を提案したのであるが、この概念は教育学、政治学、ヘルスケアそして世界観一般といったさまざまな分野に適用されるようになった。
また、この原理はわれわれがリアリティを認識し、意味づける方法にも適用することができる。

われわれの思考、知覚、経験の基礎となっているものは、世界の在り方に関する暗黙の仮定である。
たとえば物を見るさい、目は「外の」世界の知覚的データを脳に提供する。
しかし、このデータが意味をもった経験となるには、まず脳による解釈と組織化がなければならない。
それには、一つの世界のモデル(つまり、物の在り方についての観念)が必要である。
もしこのような知覚の枠組がなければ、生の視覚的データは、前ページの挿絵の例でも分かるように、そのままでは意味をもたない。

バフィン諸島


図8を見て、黒と白の班点がでたらめに配置されたものにしか見えない人がほとんどだろう。
実は、これは中世風の面持ちのひげを生やした男の顔写真である。
しかし、この顔の視覚的モデルがなければ、一目見てそれと分かる人はほとんどあるまい。

もし、一分間ほどこの挿絵を見つめても(ほとんどの人がそうだと思うが)顔が見えてこない場合は、185ページの図を一瞥(いちべつ)願いたい。
そうすれば、はいってくる知覚データを解釈する十分な視覚モデルができ、図8のなかに顔が「見える」。
さらに、それがどう見えるかを覚えている限り、つまりモデルをもちつづけている限り、たぶんいつも顔を見ることができるだろう。

心理学者たちは、この知覚の構成作用のもとになっている心理的モデルのことを「セット」と呼ぶ。
それはわれわれの体験の大半を左右するだけでなく、われわれ一人一人のリアリティをも決定する。
われわれはセットによって、環境のなかの特定の特徴に目を引かれるよう条件づけられている。
たとえば、新しい車を買ったとしよう。
すると町中でそれと同じ車、特に同じ色の車がおそらく目につきはじめる。
市場に一挙にその車があふれ出たと思うにちがいない。
しかし、その車の数は変わってはいない。
なにが起こったかというと、あなたの心がその事に「セット」され、それによってその車に気づきやすくなったのである。

こういったセットは、われわれの態度や行動にも影響をおよぼす。
たとえば、新たな世界記録を樹立できると確信しているスポーツ選手は、互角の力をもっていても記録はまず破れないというセットをもった選手よりは、その目標を達成する可能性が高い。

それらは、情緒的リアリティにも影響をあたえる。
だれも自分を尊敬も愛してもくれず、全世界が自分をやっつけようとしていると感じている鬱気味の人は、負のセットをもっている。
肯定的な支えとなる意見は忘れられたり過小評価され、さまざまな体験や会話は悲観的に解釈され、憂鬱という個人的リアリティがどんどん強化されていく。

同様に、われわれが世界をどう評価するかもセットに影響される。
もしわれわれの全般的セットが、迫りくる経済的崩壊やいずれ第三次世界大戦にいたる国際緊張や侵略、あるいはきたるべき天災や飢饉だとすると、メディアから流されるこの種の要素に目がいきがちになり、その結果負のセットが強化されることになる。
その上、われわれはそのセットを支持するような形の行動をとる。
そして、新たな記録は作れないと信じているスポーツ選手と同じように、自己達成的な予言を生み出してしまうのである。

要するに、その存在を意識するしないにかかわらず心のセットは非常に強力である。
それは、知覚データをどう解釈するか、どの体験を「現実」として受け入れ、どれを「錯覚」として拒絶するか、あるいはリアリティはどんなものかを決定する。
さまざまなパラダイムと同様、一般にそれは当然と思われて顧みられることがなく、問題にされることはほとんどない。

自己モデル

世界がどのように機能していると見るか(パラダイム)、われわれが体験をどう構成するか(セット)ということの根底には、それよりもさらに基本的なモデルが存在している。
われわれ自身をどう見るか、自己と他のあらゆるものとの関係をどう見るか、というその見方である。
この基本的モデルは、すべての思考、知覚、行動を条件づける。
つまり、これはあらゆる精神活動のセットとかパラダイムなのだ。

さらに自己モデルはさまざまな教育、社会、経済、政治のパラダイムに織り込まれているため、パラダイムの発達自体さえ条件づけてしまう。

たとえば、物理学者が自分の意識と物質的世界が完全に分離した存在だという体験をした場合と、その二つがより大きな全体の一部だという体験をした場合では、そうとう異なるパラダイムを発達させるだろう。
そういった意味では、われわれの自己意識は、セットやパラダイムをはるかに越えたものである。
これは、(ギリシア語で「超える」を意味する「メタ」を冠して)メタ・セットまたはメタ・パラダイムとも呼べるもので、あらゆるセットやパラダイムを越えたところに存在する。

われわれの多くが活動の基盤にしているもっとも一般的な自己モデルは、個としての自己は他の世界から完全に分離した別個のものであるというモデルである。
このモデルの枠のなかで機能しているため、われわれは「私」は「このなかに」いて、それ以外の世界は「外のあそこに」あるとの仮定の下に、日常生活を送っている。

哲学者で神学者のアラン・ワッツは、これを「殻をかぶった自我」と呼んだ。
殻の内側が「私」であり、外側が「私ではないもの」である。
ワッツによると、われわれのあらゆる経験や知覚がこの仮定に基づいて解釈され、われわれはそれに沿ってリアリティを作り上げる。
この自己の見方は、あまりにも広く浸透しているため、それが単なるモデルにすぎないことに気づいたり、それが経験や思考に及ぼす影響に気づく人はほとんどいない。

しかし、自己のモデルはこれだけというわけではない。
まったく異なってはいるが、同時に相補的なモデルもある。
それは、普遍的自己、つまり殻をかぶらず、他のあらゆるものと分離しているというより、むしろ本質において一なる性質をもった自己モデルである。

この普遍的自己を体験することは、想像されるほど珍しくはないが、それが世界を理解するための支配的モデルとなる例は、たしかに稀れである。
殻をかぶった自己というモデルのほうが、はるかに広く行きわたったモデルである。
しかし、今日、人類が直面している問題の多くは、このモデルがその原因となっているといえる。
それが、どんなに根深いものかを理解するために、このモデルの発達の仕方を眺めてみよう。

ニ元性の発達

生まれたばかりの乳児は環境を意識してはいるが、環境と自分を識別しているとは見えない。
自分が分離した存在だとは意識していない。
母親と自分が物理的に分離しているという認識が芽生えると、他の環境と分離しているという認識も芽生えてくる。
心理学者の多くは、個の意識は簡単な言葉を使いはじめて、初めて生まれてくると語っている(たとえば、ジャン・ピアジェなどは、自己という完全なアイデンティティが獲得されるのは7、8歳になってからだと言うだろう)。

言語の多くはこの個の意識を強化する。
つまり、「名詞+動詞」の構造に固有な〈主格+目的格〉の関係は、行為者と行為はまったく分離した異なったものであることを意味している。
これは、子供の成長過程で「ジョンはボールが欲しい」が「僕はボールが欲しい」に変わるという微妙ではあるが重要な転換として現れる。
子供は、内なる自己を意識しはじめるのだ。

発育途上の子供は、二元論的な言葉を学ぶと同時に、両親から考え方やふるまい方を学ぶ。
もし両親が「私」は「このなか」にいて、完全に「外の」環境と分離しているという考え方を反映しているとすれば、子供は同じモデルを採用するようになり、そのモデルに沿った考え方を発達させる。
こうして殻をかぶった自我が発達する。

このモデルから生じてくる分離感と個が特異な存在であるという意識は、かなり重要な意味をもっている。
生物学的には、われわれは自己維持的、自己調整的、自己決定的な有機体であり、この自律性を象徴しているのが独立した自己という観念である。
分離した自己という意識とともに生まれるこの特異性の意識をとおして、われわれは自分自身を他人から区別するようになる。
そして、この独立した特異な自己を維持しようとする努力によって、生理的有機体の生存がより確実なものになる。

心理的レベルでは、この個の意識はすべての思考、感情、知覚、行動に内的統一性を与える。
つまり、経験し行動するのは「このなか」の「私」なのだ。
そしてここから、「私」という感覚が生じてくる。

だが、殻をかぶった自己が唯一の自己意識になってしまうと、われわれは世界を単に「私」か「私でない」かという視点から見るようになる。
こうして、われわれは自他の間に絶対的な違いがあると感じるようになる。
われわれはお互いにどう見えるかで自分自身を特徴づけようとする。
そして、身長、体重、年齢、性別、国籍、皮膚の色、服装、車、社会的地位、職業、友人、性格、個性、思考、イデオロギーといった自分を他人と区別する特徴から、独自のアイデンティティを引き出そうとする。

したがって、自分が何者かという意識は、われわれの知覚、経験、外界との相互作用、すなわち自分が他人とどのように違うかということから生まれてくる。

しかし、実際には自己とはこのようなものではない。
身長、体重、年齢等は人とは違うかもしれないが、だからといってそれによって「私である」という意識が違ってくるわけではない。
どうもわれわれは自分ではないものから、自己意識を生んでいるように思われる。

このような形でのアイデンティティの獲得は、アメリカの哲学者ダニエル・カウアンが用いたアナロジーを借りると、板片にあいた穴を(たとえば、茶色で丸いなめらかな穴というように)周りの木の色や形やキメで表現するようなものである。
いうなれば、この穴のアイデンティティは周囲の木に基づいているのだ。
穴自体の本質はより抽象的であるために、たいていの人がこういう形で穴を描写する。
穴のなかの空気よりも、木の性質の方が描写しやすいからだ。

同様に、われわれのアイデンティティの意識も通常、自己を取り囲むもの(すなわちわれわれの外界の体験)から生まれてくる。
内にあるものは、はるかに描写しにくいものである。

穴


外界から獲得されたアイデンティティが、唯一のアイデンティティになってしまうと、それはかけがえのないものになる。
それなしでは、文字どおり「私」は存在しなくなる(肉体の死が、非常に恐れられるのはこのためである。
肉体の死は自己意識がよって立つあらゆる物からの分離を意味するからだ)。
しかし、このようにして獲得された自己はその基となった体験と同様、束の間のはかないものである。
それには、絶え間ない擁護、養育、保護が必要とされるため、そういった支えを得るためなら人はしばしばどんなことでもやってのける。
人間の行動の大半は、アイデンティティの確立と防衛に向けられており、社会に見られる低シナジーの大半はこの必要性に由来している。

愛され、帰属し、信じられ

われわれは他人との相互作用をとおしてアイデンティティを獲得しているため、他人から自分の存在を認められ再確認される必要がある。
そしてこの欲求を満たすために相当な努力を払う。
人生は(これは正の心理的ストロークとも呼ばれる)個の強化の探求となる。

かならずしも、この探求が悪いというわけではない。
たしかにこれは、われわれに満足感を与えてくれる。
しかし、もしストロークがわれわれの幸福感の頼みの綱だとすると、その探求に膨大な時間とエネルギーが費やされることになる。

ある心理学者は、他人との相互作用の80パーセントまでがこういった強化の欲求から生まれているという。
また同時に、この獲得された自己は極度に脆いため、われわれは感情を傷つけられることに非常に弱い。
中立的な捉え方をされる出来事などまずなく、強化の役に立たないものはだいたい脅威とみなされる。
その結果、正のストロークの探求に使われない時聞は、負のストロークを回避することに使われるようになる。

われわれは、負のストロークを受けると傷ついてしまい、その結果不幸になったり憂鬱になったりする。
『サイコロジー・トゥデー』誌(1979年4月)に掲載されたジェラルド・クレーマンのメランコリーの研究によると、「鬱病的反応を引き起こす主たる要因は、個人の心理的統合性すなわち自己意識に対するさまざまな脅威であり」、メランコリーと鬱病こそが現代のもっとも一般的な精神病であるとの結論が下されている。

獲得された自己が負のストローク、なかでも自分に対する批判を処理するもう一つの方法は、心理的防御機能の喚起である。
合理化、ブロッキング(阻止現象)、報復などの傷ついた自己を強化する方法を使うのである。
しかし、この強化/防衛プロセスは自己を再確認したいという欲求を完全に満たしてはくれないために、ほとんどの人が無意識のうちに自らのアイデンティティを強める他のさまざまな手段を使うことになる。
その一つは財産の蓄積である。
われわれは物を手に入れることによって、自分が誰かを示しなんらかのステイタスを得ようとする。
個人のアイデンティティは、家、車、テレビ、ステレオ、電子機器、絵画、蔵書、家具、その他の物質的な財産によって評価されるようになる。
特定の持ち物に結びついたステイタスが下落してくると、捨て去られたりもっと評判のいいものと交換される。
たとえば、前の年の車を次の年のモデルに買い替えたいという欲求は、よりよい輸送手段を得るためというより、むしろ自分が誰かという意識を維持したいという欲求に基づいている。

これを餌に、さまざまな広告は自己意識を再確認したいという人々の欲求を食い物にしている。
特定のモデルの車を買いなさい。そうすればあなたは誰からも尊敬されるハンサムで超クールな一分の隙もない服を着た車の持ち主と同じようになれる。もちろん、あなたは完全にそうなれはしないかもしれないが、意図するところはそういうイメージと自分を同一視することによって、自分をそういう人間と感じることである。

つねにその存在を再確認しようと努めている獲得された自己は、しばしば集団や信念体系のようなより大きなものと同一視することによって安心感を感じる。
社会集団、政治団体、宗教団体、あるいは私的なクラブであろうと、特定の集団への帰属は、獲得された自己に「数の上での安心」感を与えてくれる。

同様に、人々は町のなかの「しかるべき」場所に住み、「しかるべき」クラブに所属し、「しかるべき」人と知り合いで、「しかるべき」車に乗り、休暇には「しかるべき」場所に行き、「しかるべき」服を着て、「しかるべき」音楽を聞き、タバコも「しかるべき」ものを吸う。
その方がいいからそうするわけではなく、それらが特定の集団とのアイデンティティを支えてくれるからである。

ファッションもまた、自己を再確認したいという欲求に基づいたものである。
70年代の初め、地面と足の間が10センチ以上もあるようなヒールの高い靴が大流行した。
なぜそんな靴を履いたかというと、皆がそれを望んでいたからではなく、それがファッションとして提示されたからであり、流行に乗ることは「しかるべき」集団に帰属することであったからだ(なかでもこのファッションは、履き手の身長を数センチも高く見せてくれるので、自我を煽ってくれるというおまけまでついていた)。
数えきれないほど足首を捻挫したり背中を痛める人がいたにもかかわらず、何百万もの人たちがヒールの高い靴の前にひざまづいた。
獲得された自己は、明らかにこれらの不都合を帰属感の再確認の正当な代償とみなしていた。

こうした行為は社会全体にとっては比較的害のないものかもしれないが、集団へ帰属したいという欲求はより重大な問題につながってくる。
帰属感を脅かすような他の集団が現れると、人々は劇的な変化を見せる。
たとえば、皮膚の色の違う一団が町にやってきたとしよう。
するとふだんは穏便な住民が、突然敵対的になり好戦的な言葉を口にして、肉体的にも乱暴になる。

ブラッドフォード大学で平和を研究しているアダム・カール教授は、
「この帰属によるアイデンティティが”自国が正しかろうと間違っていようと”お構いなしの愚かな愛国心、血と土への神秘主義まがいの思慕の念、よそ者に対する地元の人の尊大な優越感といった外国人嫌いの原動力である。それこそが、われわれが決定的に共有している属性であり、それによってもっとも危険な人類のジレンマの一因を生んでいる。」と指摘している。

アイデンティティのもう一つの強力な拠り所は自分の信念であり、われわれはそれを徹底的に守ろうとする。
それが疑問視されると、獲得された自己は自らを脅かされたと感じ、しばしば強い感情的反応をひき起こし、自分の見解を守ろうとしたり、相手を攻撃したりする。
論理的に議論していると思っている時でさえ、われわれは自分が正しいということを証明するために、選択的知覚、方向転換、権威づけ、虚偽の陳述、中傷、事実や専門用語による幻惑といったさまざまの巧妙な策略を用いる。

しかし、自らのアイデンティティの一部としての信念への固執は、はるかに危険なものをはらんでいる。
自らの政策がもはや実行不可能だとしても、政府は自分たちの政治的信念が誤っていることを認めず、その政策に頑強に固執する。
歴史上もっとも残酷で血なまぐさい戦争のなかには、信念体系を守るために戦われたものがいくつもある。

低シナジー社会

経験をとおして獲得された自己意識を維持し確認したいという欲求は、再確認のためのストロークをとおしてであれ、あるいはわれわれが果たす役割、自分が所属するグループ、われわれが信奉している信念、さらにはその他のプロセスをとおしてであれ、自己を満足させるために世界を利用する方向にわれわれを導く。

その結果、意識が搾取的な形態を取るようになる。
われわれは、環境、他人、さらには自分自身の肉体さえも搾取するようになる。
社会の低シナジーの核心に存在しているのがこの意識の形態である。

シナジーの本質は、個人の目的が集団の目的の支えとなるということである。
しかし、獲得されたアイデンティティを維持したいという欲求は、しばしば他人や集団全体の最大の利益と矛盾する。

子供と同様、獲得された自己はただちに満足したがる。
そのため、シナジー的な行動とは正反対に、長期的目的を犠牲にして短期的な利益を追求する。

低シナジーの一例は、原油供給量削減がささやかれた際、人々が燃料タンクを満タンにした行動に見られる。
個人のニーズは燃料切れを避けることにあり、そのためだれもがほんの数ガロン余分に詰め込んだ。
そして供給システムに過度の負担がかかった結果、ガソリンスタンドが空になり、本当の燃料危機を引き起こした。
この場合、個人の行動は、明らかに集団の利益に反したものである。

この個人の短期的ニーズと集団全体としての長期的目的の衝突は、エコロジストたちが「コモンズの問題」と呼ぶものにつながる。
コモンズとは、元来、放し飼い用の共有の牧草地を意味していた。
しかし、今日この言葉は海洋や大気といった共有の資源という意味で使われている。

プールされた資源を、その補填(ほてん)より速いペースで使ってしまうときに発生する。
たとえば、コモンズの問題は、グジラをその繁殖よりも速いペースで捕獲する場合などがそれである。
そういった捕獲は特定の個人や集団の短期的利益に資するかもしれないが、他の人々の利益に反することは明らかである。
そして、ひいては、その資源の究極的崩壊を招き、最初に捕獲した者を含めて、だれにも何も残されないことになってしまう。

コモンズの問題を解決するために、心理学者たちはさまざまなシミュレーション・ゲームを試みた。
イェール大学でこの問題に取り組んでいる環境心理学者ジュリアン・エドニーは、シミュレートされたコモンズの滅亡を何度も体験すると、だれもが長期的生存のために個人的欲求の削減を(徐々にではあるが〉学ぶということを発見した(『サイコロジー・トゥデl』誌、1979年8月)。

しかし、現実の世界では食料の供給、化石燃料その他の共有の資源の崩壊を百回どころか一回たりとも体験しているひまはない。
体験から学んでいるだけの余裕はないのだ。

そう遠くない将来、先進諸国では石油と原材料の消費を削減せざるをえないであろうという兆しが見られる。
だが、個人のアイデンティティが消費財や物質的ぜいたくによって強化されるかぎり、人々が浪費の少ないライフスタイルという考えを、そう簡単に受け入れるとは思えない。
われわれのほとんどが石油の消費を削減せねばならないことを知っているにもかかわらず、厳しい配給制をしくかあるいは法外な値上げをしないかぎり、自発的に燃料消費を切り詰める者はほとんどいないし、いぜんとして自分の車を運転することに強いアイデンティティを感じつづけている。
自我を支えたいという欲求が、どうしても必要な変化に抵抗する方向へとわれわれを導いているように思われる。

このジレンマは、社会学者がしばしば「ただ乗り問題」と呼ぶものと関係がある。
これは、人が自分自身を分離独立した個と捉え、「私のやったことは、集団に対してなんら影響を与えない」という態度を取るときに生まれる。
たとえば、ある人が税金の一部を払わずにおこうと決めたとする。
政府の損失は、1パーセントの百万分の1にも満たないだろうし、政府をはじめ国中の誰もその差には気づかないであろう。
税金のがれをした人は、財政的に得をするだけでなく、他人の税金を財源としているあらゆる公共サービスの恩恵をいぜんとして享受しつづけることができる。

この問題に対する解決策の欠如が、強引に人々に個人的目的を捨てさせる強制立法の論拠として使われている。
しかし、これは真の問題を一時的に取りつくろっているにすぎない。
個人の主な欲求が自分自身の面倒をみることであるかぎり、自分の福利を案じてか、あるいは仲間から尊敬されたいという理由で、集団の目的に追随するにすぎないからだ。

ただ乗りする人はある意味では正しい。
彼は個人的に得をするうえに、彼の行動によっていかなる個人も損害を被るわけではない。
しかし、もし全員がこの論に従うとすると、それこそ悲惨だろう。

自己と世界の区分は、個人レベルと国家レベルでの「私対あなた」式の生き方につながってしまう。
人々は、優位性を維持するために互いに競い合う。
科学者は、自ら最初の発表者になろうと、業績を秘密にしておこうとする。
家主側に分がいいために人々は家をもてなくなり、高層住宅はどんどん空き家になっていく。
カトリックとプロテスタントは、共存できず互いにののしり合う。
諸国家は、資源を互いに分かち合えず、それを巡って争う。
そして、他国が飢餓と戦っているというのに、豊かな国は自国の経済的、政治的利益のために殻物を買いだめする。

個人や国家の競争的、自己中心的な行動から生じる問題の責任は、「そのシステム」にあるという人もいるかもしれない。
しかし、獲得された自己という観点から今日の危機を見ると、社会の欠点はそれを構成する人々の意識状態を反映したものであり、そのシステムを作り出すのは自己であって、その反対ではないという方が正しいように思われる。

エゴノミックス

二百年前、哲学者で政治経済学者のアダム・スミスは、個々人の自らの安全を維持したいという衝動こそが、資本主義の背後にある基本的な力だということに気づいた。
そして、個人は自己の利益を追求することによって、「見えざる手に導かれ・・・知らず知らずのうちに、社会の利益を増進する」と論じた。
彼の理論は、自然にシナジーが高まるような社会を描いていたのである。

不幸にも、資本主義社会はスミスの理論どおりにはならないことがわかった。
彼は個人が長い目で見て自分の利益になるように行動すると考えたが、アイデンティティを確認したいという欲求が行動を支配している場合、獲得された自己は長期的利益より、むしろ短期的あるいは当面の強化を求めるということを理解していなかった。
したがって、個人はしばしば自分たちの真の利益や社会全体の利益に反した行動を取ることがある。

しかし、獲得された自己意識の弱点に苦しんでいる経済体制は資本主義だけではない。
共産主義もまたその支配下にある。
資本主義は自我の欲求に屈し、共産主義(私が言っているのはソ連や東欧で行われている当世風の共産主義のことである)はその反対に自己の欲求を考慮に入れていないという間違いを犯しているように見える。

政治理論は個々人が自分の欲求にしたがって互いに支え合えばいいと主張するかもしれないが、それではもっとも差し迫った個人の欲求つまりアイデンティティの欲求が軽視されすぎてしまう。
共産主義体制は、抑圧、検問、強制によってしか機能できないようにできている。
集団活動や国民的支持は、資本主義の広告と同様、アイデンティティ再確認の欲求を食い物にするプロパガンダ(宣伝活動)によって支えられる。
ここでもやはり心の糧は、「しかるべき」タイプの国家への帰属感から獲得される。

しかし、ソ連でさえ金は物を言うので、金銭があいかわらず重要な誘因となっている。
現在ソ連の農地の約3パーセントが私有地である。
しかし、この3パーセントが農業生産の大きな割合を占めている。
そこにより大きな金銭的誘因が潜んでいるからである。
その結果、自らの政治原理と整合させることが難しいにもかかわらず、国は私有農場の数をふやしはじめている。

共産主義諸国におけるコンシューマリズムの風潮の高まりに、当局は大いに頭を痛めているが、これもまた当然予期しうることであった。
ソ連の日刊紙『イズヴェスチャ』の最近の記事は、「無限食欲」病を嘆きながら、骨董品や珍品の類などの不必要ながらくたの充満したアパート、闇市場のハイファイ・セット・マニアもどき、新車を買うために金を蓄えて車をもたないお隣りさんを馬鹿にする夫婦などについて報じている。

西側のわれわれには、この手の話しは耳慣れたものかもしれない。
自己が再強化を必要としているかぎり、どんな経済体制の下で暮らしていようと、この種の行動は一朝一夕には姿を消すことはあるまい。

今日、資本主義社会のシナジーが高くないのと同様に、共産主義社会のシナジーも高くはない。
どちらの場合にも、個人の欲求が社会全体の欲求と調和していないからだ。
資本主義国では、個人の欲求が優位を占め、社会全体が(究極的には個人も)滅びそうである。
一方、共産主義国側では社会の欲求が優位を占め、個人の方が(そして究極的には国家も)滅びそうである。

体制にかかわりなく、個人のリアリティはいまだに「私」は「このなか」にいて世界は「外に」あるとか、あるいは「私対あなた」といった類のものである。

人類対自然

低シナジー社会の兆候であるこの危険な自他の分離は、われわれをより深い分離へと導いてきた。
すなわち西洋文化における「人類対自然」という形に象徴される「私対それ」式の自然のとらえ方である。
このアプローチは、人類を世界を支配して自分の目的に沿わせる万物の霊長と見る科学的、技術的モデルによってさらに勢いづけられた。

しかし、科学や技術自体に現在の危機的な状況に対する責任があるわけではない。
問題はその使われ方にある。
多くの場合、それは人類や地球のためというより、個人や集団や国家のエゴのために使われてきた。
国家は、それを構成する個々人以上にシナジー的になることはできない。
そのため、国家もまた限られた近視眼的な目的の餌食となる。

イギリスは、亜硫酸ガスを大気中に放出し、北欧に酸性雨を降らせる。
カリフォルニアで使われたガソリンから出た鉛は、最終的にはエスキモーの食料のなかに現れる。
われわれはつぎつぎと巨大な森林をなぎたおし、地球の最上の酸素供給源を取り除き、百万種もの自然の住人を撲滅してしまう。

そういった行動は、燃料、紙、建築資材のニーズを満たしはするが、森林がなくなってなにが起こるかを考慮していないし、生物界に与える長期的損傷について考えてもいない。
当面のエネルギーの需要を満たすために、各国は原子炉の建設を計画しつづけているが、だれひとりとして地球を汚染するような重大な偶発事故が起こらないと保証するものはいない。
そのほうが差し迫った目的に合致するという理由で、われわれは潜在的災害という遺産を放置している。

ものごとがうまくいかず、ことが思いどおりに運ばなかったとしても、われわれは自分のアプローチの不備を繕う「トリック」を発明する。
自然よりも賢いヨーロッパの農業関連産業は、能率の悪い昔の三圃制を修正し、集約化して、囲いを破り去り、収穫の増大をはかった。
そして、次に自らが傷つけた生態系を余分の肥料で修正した。
収穫量を上げるために新たなハイブッリドが開発されたが、それを育てるために必要な特別の肥料や農薬は主に石油に依存したものである。
現在、食料の生産には、その食料からわれわれが摂取するエネルギーの50倍ものエネルギー(主に石油)が使われている。
石油が無くなったらどうなるのだろう。
本当は、それに頼ってはいけないのだが、おそらくまた別のテクノロジーのトリッグが必要になるのだろうか。

新しい世界観

人類が直面しているほとんどすべての問題に関して、われわれは進路を変えて破局を回避するのに必要な知識をもち合わせており、もしまだ持っていないとしても手に入れるためにどのような手を打てばよいかを知っている。

たとえば、われわれは10年のうちに化石エネルギーから水力発電、潮力、風力、地熱、太陽エネルギーといった再生可能な資源への転換を果たし、世界の主要なエネルギー需要を満たすだけの知識とテクノロジーをもち合わせている。
しかし、再生可能なエネルギーの研究開発に費やされる先進国のエネルギー予算の割合は、急速に減少する原油供給への依存を強めるために費やされる予算の1パーセントに満たない。

真の問題は、外界から課される物理的な制約ではなく、われわれの心の制約にある。
現行の支配的な世界観によると、人間とは生まれつき攻撃的で国家主義的な、自然の支配者かつ操縦者であり、生産性、物質面の進歩、経済的効率、成長という主な目標をもっているということになる。
そして科学は究極的な知識のよりどころであり、テクノロジーはあらゆることを達成するための手段とされている。

この世界観は、先進国にあまねく在存するといっても過言ではないが、わずか過去数世紀の間に生まれてきたものにすぎない。
それは、科学の代わりに宗教的教義を知識のよりどころとし、神を最高の審判者とみる中世の教会優位のモデルから転換してきたものであり、産業革命とともに現れてきた。
現在のモデルはかつて価値があったかもしれないが、もはや機能はしない。
古くなったモデルはその有効性を失うにつれ、この惑星上でのわれわれの存在を脅かしはじめつつある。
その上、古くなったモデルに固執すればするほど、自らが現在向いつつある所に実際に到達する可能性が高まってくる。

世界観を変え、集団的破滅を防ぎたいと思うなら、重大かつ根本的な変革が必要になってくる。

自分自身、身体、環境との関係の変革、欲求の変革、他人や地球に対する要求の変革、世界に対する認識と理解の変革が必要なのだ。

数多くの人が指摘しているように、ホリスティックで、エコロジカルで、グローバルで、平和的で、慈悲深く、協力的な長期的視野をもった新たな世界観が必要である。
これは、個人と社会と地球がその存在を完全に認められるような真の意味でのグローバルな視野への転換、言い換えるとシナジーの低い社会からシナジーの高い社会への転換である。

現代社会における低シナジーの根本的原因は、われわれが殻をかぶった自己のモデルをアイデンティティの中心に据えている点にあることが、ここに示されている。

最近まで、この二元論的モデルを疑うべき理由はほとんど存在しなかった。
つまり、それはかなりうまく機能し、言語的、文化的伝統の多くはそれを強力に裏づけていた。
しかし、急速に迫りくる地球の危機によって、そこになんらかの欠陥があることが明らかになってきた。

世界の現状を変えるには、一連の社会的、科学的、技術的パラダイムの転換以上のものが必要とされる。
低シナジー社会から高シナジー社会へ転換するためには、メタ・パラダイムの転換、すなわち基本的自己モデルの根本的な転換を要する。
今やそのような意識の変化が、進化の緊急課題となってきている。

だがこれは、殻をかぶったモデルを取り除かなければならないという意味ではない。われわれは、環境を知覚し、それにしたがって行動する非常に特異な生物有機体であり、この個性を維持し育もうとする強い欲求をもっている。
しかし、これは自己のほんの一面でしかない。
文化や時代を超えて、精神的指導者、神秘主義者、予言者たちは、われわれが単に皮膚で仕切られた有機体以上の存在であることを繰り返し断言してきている。

われわれは、何ものにも縛られず、より大きな全体の一部をなし、宇宙全体と一体である。
これは、われわれのアイデシティティのもう一つの側面であり、個体性と分離性をおぎなう自己の側面である。
このより深速なアイデンティティの本質とそれを解き明かす手段をこれから取り上げてみよう。

ヒゲおやじ


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

PART 2. 内的進化

シナジー

人は旅をし、山々の高みに、海の巨大な波に、川の長大な流れに、大洋のぼう洋たる広がりに、星の周期的な動きに驚嘆する。
ところが、自分自身に関しては驚嘆を知らず、ただ通り過ぎる。
  ――聖アウグスティヌス AD399年

これまでたどってきたのは、現在、社会が複雑さの度合を加え、人間の精神が一つの生命システムへ発展的に統合されつつある、人類史上もっとも劇的かつ重大な時期をわれわれが生きているというさまざまな証拠であった。

だが、同時に人類が今日破滅の淵に立っているということも明らかである。
われわれをここまで推し進めてきた技術的、科学的、社会的進歩が、同時に絶滅の種子をはらんでいるのだ。
われわれは、全地球的な社会的超有機体へ到達するか、あるいは混乱と来たるべき絶滅へと崩れ去るか、という相いれない二つの方向の間を、危なげに揺れ動いているように思われる。

もしも選べと言われれば、人は自ら進んで破滅を選びはしまい。
にもかかわらず、われわれは集団としてそのような方向に押し流されている。
社会がどこまで複雑になっているのか、見抜くことができないために、自分たちが望む方向に向う能力を失っているのであろう。
なぜこんなことになったのだろうか?
潜在的能力をもっているのに、どうしてもっと有機体らしくなってはいないのだろうか?

その答えは、スムーズに機能している有機体の特徴のうちにある。
人間社会は別にして、あらゆる生きた有機体をながめてみると、それらすべてが共有している一つの特質が見えてくる。
それは、さまざまな構成要素が、全体と調和を保ちつつ自然かつ自発的に機能し合っているということである。

この特徴は、変形菌、樫の木、人体などのさまざまな有機体に共通して見られるものである。
こうした調和のとれた相互作用は、「共に働く」というギリシア語に由来するシナジーという言葉で表現することができる。
シナジーは、いかなる強制や抑制も意味しないばかりか、努力によってもたらされるものでもない。

そのシステムの個々の要素はそれぞれ自らの目標に向って活動し、その目標自体もきわめて変化に富んでいる。
しかし、各要素は「自発的」に相互に助け合うように機能する。
したがって、本質的な対立はほとんどない。

シナジーという言葉は、しばしば部分の和よりも全体の方が大きいといった意味で用いられる。
しかし、それがこの言葉の本質的意味というわけではない。
それはシナジー本来の意味から生じてくる一つの結果にすぎない。
シナジー的システムの各要素が相補的であるために、システム全体の機能を助け、同時に全体の能力を高めるからである。

高シナジー・システムの好例はわれわれ自身の身体である。
われわれは数兆個の細胞の集合体であり、個々の細胞は自らのために行動しているが、同時に個々それぞれが全体の利益を支えている。
あなたの指の皮膚細胞は皮膚細胞としてさまざまな栄養物を摂取し、排せつ物を取り除き、細胞として生死する。
それは、足の指の皮膚細胞に起こっていることに直接の関心をもっているわけではない。

また、骨細胞、血液細胞、脳細胞、筋肉細胞で起こっていることに関心をもっているわけでもない。
単に、自己の利益を追求しているにすぎない。
しかし、自己の利益は同時に身体の他の細胞の全般的利益や、組織全体の活動の利益にもなるのである。
かりにこの高シナジーがなかったとしたら、われわれは単なるゼリー状の塊にすぎず、個々の細胞は自分自身のためだけに行動し、身体の他の部分に対しては何の貢献もしないであろう。

有機体におけるシナジーは生命の本質であり、健康と密接に結びついている。
なんらかの理由でシナジーが低下し、全体としての有機体がその大半の部分から不完全な支援しか得られなくなると病気になる。
さらにシナジーがまったくなくなってしまうと、有機体は死ぬ。
個々の細胞は生きつづけるかもしれないが、全体つまり生きた生命体はもはや存在しない。

シナジーは個人の活動が全体としての集団を支援する度合いを表している。
プリミティブな部族システムを研究している人類学者たちは、高シナジーのグループでは、同様に、社会集団においても、個人の間でも、個人対グループの間でも、いさかいやけんかが少ないということを発見した。
だがそれは、そのような社会が互いを一所懸命助け合おうとする「おせっかい焼き」であふれているという意味ではない。
そういった社会は、個人の活動が自然に他人やグループの必要性と調和するような社会的、心理的構造をもっているのである。

一つのシステムとして見た場合、今日の人間の社会は比較的シナジーの低い状態にあるように思われる。
後で見るように、われわれが今日直面しているさまざまな危機は、こういったより深刻で根本的な問題の兆候を示しているものが多い。
しかし、できるだけ社会のシナジーを増加したいと思っても、願望や、知的決断、あるいは議論とか強制的力によって、それを実現するわけにはいかない。
社会のシナジーの量には、われわれの外の世界との関連における自分自身の理解の仕方が反映されている。
したがって、シナジーを増加したいと望むならば、われわれの思考や行動の中核にある基本的前提を変える必要がある。

今、進化の最前線は自省的な意識のうちにある。
もしも、進化がより高いレベルの統合へ至ることだとすれば、もっとも重要な変化は人間の意識の領域で起こるであろう。
実際この進化のプロセスは、今われわれ一人一人のなかに内在しはじめている。
それが何を意味し、われわれがどうやって内面的進化をなしとげるのかを理解するために、まず内面的な自己モデルがどのように知覚、思考、行動を支配しているかを見ていくことにする。


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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第6章. 社会的超有機体の出現

われわれは、お茶の葉っぱが東インド会社の運命を知らないのと同様、自分自身の運命を知らない。
  ――「銀河ヒッチハイクのガイド」ダグラス・アダムス

自由度と多様性を包含しながら

われわれがこれまで社会の内部で辿ってきた複雑度の増大は、進化に関連して三つの重要な成長領域があることを明らかにする。

その数が10の10乗という臨界規模の周辺で安定する人口の増加に象徴される人類の多様性、
他のすべての生命体に観測される組織構造に類似した精巧な組織構造、
人間の脳に近づくコミュニケーションと情報の処理能力、
以上の三つである。

社会は新しい進化のレベルが出現するために必要な条件を整えつつあるかのように見える。
その新しいレベルとはどのようなものだろう?
物質が組織化して生きた細胞になり、生きた細胞が集まって多細胞有機体になったように、ある段階で人類が統合し、なんらかの形の地球的な社会的超有機体になるのかもしれない(私が有機体ではなく超有機体という言葉を用いているのは、有機体という言葉が生物学的な有機体、つまり多細胞有機体に限って適用されるのに対し、われわれが今諮っているのは多有機体的有機体であり、これらは生物学的な有機体とはきわめて異る形態を取る可能性があるからである)。

ここで用いられている意味での社会的超有機体は単なる生命システム以上のものである。
第一章で、われわれは、人間社会が生命システムのもつ19九の特性を示しているかに思われることを観察した。
同じことが他の多くの社会集団、たとえば船の乗組員、多国籍企業、赤十字といったものにもあてはまる。
しかし、そのような集団は、独立した全体という意味での社会的な超有機体ではない。
それらはむしろ甲状腺とか鼻、あるいは肝臓といった構成器官、すなわち、より大きな有機体の内部で特定の役割を演じる部分としてのみ存在する生命システムに近い。
真の社会的超有機体は、生物学的な有機体同様、独立した一個の全体であり、それ自体で完結性をもっている。
大国は独立した単位で機能できるという意味で、超有機体に近いように見えるかもしれない。
しかし、ほどなく見ていくように、ほぼすべての人間社会には、健全に機能するあらゆる有機体に欠かせないもう一つの特徴が決定的に欠如している。

そのような実体は自然にとって目新しいものではない。
動物の世界には、寄り集まって統合された社会単位を形成しているいくつかの有機体が存在する。
数千匹の蜜峰は一つの巣箱に群居し、彼らの集合的「身体」の体温と温度を調節するが、その巣箱は全体として、構成員の絶えまない誕生と死を超えて生きながらえる。
軍隊蟻は二千万匹までの個体を含む群体を形成する。
森のなかを一匹の有機体のように行進する群体は、互いにしっかりとしがみついて生きた蟻の橋を形成し、河を渡る。
白蟻は、換気口や複雑な食物処理システムを完備した、数百万匹を収容する複雑な街を構築する。

同様な傾向は高等動物にも見られる。
多くの魚は群れをなして泳ぐが、全体はいかなる先導者ももたない単体としてふるまう。
特定の魚が、「目」の機能のような特定の機能を受け持ち、他の魚が四六時中あたりに気を配らなくてもいいようになっている場合もある。
危険が発見されると、群れ全体が五分の一秒以内に反応できる。
同じく鳥の群れも超有機体のようにふるまうことができる。
かつて記録されたうちで最大級のものの一つは一億五千万羽のみずなぎ鳥の群れで、距離にして十マイル、オーストラリアとタスマニアの間で観測された。
鳥の群れを撮ったスローモーションのフィルムは、五万羽の鳥が7O分の一秒以内にいっせいに方向転換することを明らかにした。
それらが先導の鳥に従っていることを示す兆候はなにもない。
その群れは機能的な全体に統合されているのである。

しかし、いくら魅力的に思われようと、そういった例は、人類がなるかもしれない統合された社会的超有機体を垣間見せてくれるにすぎない。
第一に、この超有機体は、蜜峰、蟻、鳥の例のように数百万の個体を含むだけではない。
地球の表面に散らばった数十億の全人類によって構成されるのである。

第二に、動物の超有機体の例では、どれをとっても個的多様性はほとんど認められない。
蜜蜂や蛾の群体は普通二、三種ほどの異なったタイプ(たとえば働き蜂、雄蜂、女王蜂)を含むが、魚や鳥の群れでは、一般に、すべての個体は、一時的に特殊な機能を受けもつことはあるものの、同一である。
ところが、人間社会はきわめて多様で、専門化し、何千という異ったタイプの人からできており、各人が全体に対して独自の貢献をすることができる。

第三に、人間の社会的超有機体は、われわれ全員に、なんらかのより高等なもののために個体性を放棄した特徴のない「細胞」になることを要求したりしない。
われわれはすでに社会を構成するさまざまな器官の細胞であるが、いぜんとしてかなりの個体性を保持している。
社会的な超有機体への変換とは、基本的に、社会がより統合された生命システムになることを意味する。
後の章で見るように、これはおそらく個体の面でのよりいっそうの自由と自己表現につながり、多様性も増大するであろう。

最後に、見虫や動物が一緒になる場合、それらは一つの単位に凝集する。
しかし、人間の社会的超有機体がそれ自体、物理的レベルで形成されることはまずありそうにない。
これまで見てきた進化の傾向から察すると、人類が寄り集まって、ある種の超巨大都市に住む巨大な集合体になるとは考えられない。

以前、物質から生命が出現した後、進化が物質レベルから生物学的レベルに上昇したように、進化は今や新しいレベル、意識へと上昇した。
したがって、われわれは社会の超有機体への統合が物理的あるいは生物学的進化ではなく、意識の進化を通して発生すると仮定できよう。
これは心が寄り集まることを示唆している。
だからこそ、今日、コミュニケーションがこれほどまでに進化の重要な局面とみなされるのである。
それは心をつなぐプロセスなのだ。
人類は、物理的にいかに離れていようと、共に精神的に成長しているのだ。

進化の第五レベル「ガイアフィールド」

単一の存在への人類の統合を思索することに生涯の大半を費した哲学者の一人に、フランスの神父、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンがいる。
テイヤールはまれにみる科学と宗教の統合の才を見せた。
彼はイエズス会の神父であると同時に、地質学者兼古生物学者であった。
1930年代、中国で働いていた彼は「北京原人」の頭骸骨の発見に深く関与した。
進化のプロセスを研究した末、彼は種としての人類ばかりか、人間の精神、さらには宗教的経験と自然科学の諸事実の関係にも適用される進化の一般理論を生み出した。

彼の主要な結論の一つは、人間が種全体として相互に結ばれた単一の集団に統合する方向に向っている、というものであった。
地球全体を被う人間の心の蓄積的効果を表すために、彼はギリア語のヌース(心)から取った精神圏という言葉をあみ出した。
生命圏がすべての生命体から成るシステムであるように、精神圏はすべての意識的な心によって構成される。

地球の生成、生命の生成を通過してきた進化は、今や心の生成の段階にさしかかっている。
彼はこの段階を「1つの巨大有機的単位への人類の惑星化」とみなした。
心の生成のプロセスの実現を、テイヤールは「オメガ・ポイント」と呼んだ。
われわれ全員が向っている最終地点、進化のプロセスの頂点という意味である。

テイヤールの同時代人、インド人の神秘家、シュリ・オーロビンドも同様なヴィジョンをもった哲学者であった。
オーロビンドのなかにもおもしろい才能の組み合わせが見られる。
彼はケンブリッジのキング・カレッジで古典音楽を学び、インドに戻ると行動的な政治革命家となった。
その結果、彼はインドの監獄で数年間過ごす羽目になり、その期間に人類の進化に関するもっとも重要な洞察のいくつかを得たのだった。

シュリ・オーロビンドは、進化を、限りなく高度な存在形態へと進む「神聖なリアリティ」の自己表現とみなした。
物質と生命を通してエネルギーから意識へと進んできた進化は、今や意識から「スーパーマインド」と呼ばれるものへの変容を経ている。
「スーパーマインド」とは、現在われわれが夢想する完成度をはるかに超えた意識であり、「霊性」の究極的な進化である。
この新しいレベルは、究極的な全包括的意識へ向う個人の意識の霊的発達を通して、個人と集合的なレベルの双方で実現されると彼は考えた。

テイヤールのオメガ・ポイントにおける精神圏の一体化は、統合された惑星意識を指しているように思われる。
同様に、オーロビンドも、スーパーマインドが個人の心をはるかに凌駕するものであると断言はしているものの、概して、この新しい現象を心と意識に基づいて論じることが多かった。

けれども、われわれが見てきた進化の傾向とパターンは、もう一歩進んだ可能性を示唆している。
すなわち、単一の惑星意識あるいはスーパーマインドを超えたなにかを示唆しているのだ。
それは、意識が生命とは異なり、生命が物質とは異なっているように、意識と異なるまったく新しい進化のレベルである。

この新たな存在の秩序は絶えることなくつづいてきた人類の統合の最終結果であるかもしれない。
こういった意味で人類はその土台となるであろう。
けれどもそれは人類に起こるわけではない。
それは惑星地球のレベル、すなわちガイアで起こるであろう(この区別は多くの点で構成されている写真を思い浮べていただければ、お分りになるだろう。
点そのものは写真の映像を含んでいるわけではないが、それらは写真の映像の基礎である。
写真の映像は全体として眺めた点の集合的組織から現れてくる)。

われわれはまだこの第五レベルを表す適切な語彙をもっていない。
そこで、私はそれを「ガイアフィールド」と呼ぶことにした(これは、自省的意識を「ヒューマンフィールド」と呼びうるのに対応する)。

意識が個々の細胞の特性ではないように、ガイアフィールドも個々の人間の特性ではない。
それは惑星レベルで起こり、社会的超有機体内部のすべての心の共同的な相互作用によって生じてくるものである。

この新しいレベルがどんなものになるか正確に説明するのはきわめて難しい。
進化の第五レベルに思いをめぐらせる場合、どうしても人間の経験に照らさざるをえなくなってしまうからである。
すでに見たように、それぞれの新たな存在の秩序は、先行する秩序に照らして完全に説明しつくすことが不可能なものである。
そのため、ガイアフィールドも意識では想像もつかないまったく新たな性質をもっている可能性がある。

同じように、人体の一個の細胞は生命システム全体から生まれる意識についてはなにも知らない。
それはごく初歩的な自覚の形式をもっているかもしれないが、当人の思考、感情、想像、霊感などという観念はもっていない。
当人がどんな意識状態にいるか判断できないし、また意識があるかないかさえわからないであろう。
もちろん自省的意識とはどんなものかを「心に思い浮かべる」ことなどまったくできないはずだ。

したがって、われわれが個々の細胞を超えているのと同じような意味で、われわれをはるかに超えた進化の諸段階を思い浮かべるのが困難だとしても、まったく驚くにはあたらない。
個体としてのわれわれにとって、集合的現象は理論的には不可知なものである。
われわれは自分である「細胞」を知ることしかできないのである。

個的な意識活動によって生み出される集合的現象という観念はいささか奇妙に聞こえるかもしれない。
多くの孤立した意識がどうやって一つの惑星的現象を生み出すのであろうか?
実のところ、その疑問は、多くの独立した神経細胞の電気的・化学的活動はどうやって一つの統合された意識を生み出すのかという、科学者や哲学者が人間の意識を扱う時に絶えず直面する疑問と同じものである。
確実に言えるのは、個人の意識というものが脳の何十億という生きた細胞のきわめて擾雑な統合的相互作用になんらかの形で関連しているということだけである。

ここでは神経生理学的な議論には立ち入らないが、特定の意識的体験は小さな細胞集団の活動ではなく、全体的な活動パターン、つまり脳の内部で休みなく起こっている無数の情報交換の結合に対応しているような気がする。
同様に、この惑星の場は、人類を構成する何十億という意識的存在の統合された相互作用から生まれるのかもしれない。
人類をつなぐコミュニケーションの輪が広がるにつれ、ゆくゆく、ネットワークを行き交う何十億という情報交換が、グローバル・プレインの内部に人間の脳に見い出されるものと同様な結合パターンを生み出す時点に到達するだろう。
その時、ガイアはめざめ、地球の意識に相当するものになるであろう。

では、われわれは何時、そういった時点に到達するのだろうか?
テイヤールは、進化がオメガ・ポイントに急速に向っていると語ってはいたが、人間的な時間の物差しではなく、宇宙的な時間の物差しで考えていた。
彼の言う「急速」とは数千年あるいはもしかすると数百万年を意味していたものと思われる。
それとは対照的にシュリ・オーロビンドは、それよりずっと早く、おそらくこれから百年以内に起こるだろうと信じていた。

けれども、もしかするとこの新しいレベルはテイヤールやシュリ・オーロビンドが思い描いていたより早く訪れるかもしれない。
数十年以内に起こる可能性があるような気がする。

われわれは何世紀あるいは数千年かけて起こる社会変化に慣らされてきた。
そのために、そのように重大なことがそれほど短期間のうちに現れてくれるとは考えにくいかもしれない。
しかし、第四章で見たように、変化の速度は急激に増している。
今世紀になってから、ほぼあらゆる分野で大幅な加速化が起こった。
これはごく近い将来になんらかの形の大転換が起こることを告げるものではなかろうか。
おまけに、「主要な進化の指示器」――多様性、組織化、連結性――が、新しいレベルの出現に必要と思われる複雑さの度合の臨界値に急速に近づきつつある。

第二部では、ほかにも、われわれが生きている間にこういった転換が起こるのを目のあたりにできると思わせるいくつかの理由があることを見ていくことになろう。
そのような転換には人類の側にいくつかのすみやかな変化が要求されるだろう。
いかに人類が一貫性のある統合した全体にほど遠いものかは、新聞を手に取ってみればすぐわかる。
ところが同時に、社会は、どうみても各自がばらばらな道を行くつながりを失った個人の集合体以上のものである。
進化の観点から言うと、われわれはそのどちらでもない一種の「黎明期」にいると言っていいかもしれない。
これもまた進化の転換の特徴的な側面の一つなのだ。

進化の薄明時(トワイライトゾーン)

主な進化のレベル(エネルギー、物質、生命、意識)の間の境界は必ずしも明確ではない。
あい接する2つのレベルの間には、新しい秩序が顕在化しつつあるもののいまだ完全に出現するに至っていない薄明時のような時期が存在する。

まず、エネルギーと物質が接する地点を見てみると、そこに存在するのは電子や陽子といったいわゆる素粒子である。
しかし、それらは本当に物質だろうか?
ある状況では、それらは粒子のようにふるまうが、他の状況では、波のようにふるまう(エネルギーに特徴的なふるまい)。
これは、多くの物理学者たちが解決しようとしてきた矛盾である。
しかL、進化を一つの発現のプロセスとみなすなら、素粒子はエネルギーと物質との境界線上にあるように思われる。
それはエネルギーから発現しつつある物質なのである。

次の二つのレベル、物質と生命の間にあるのは、ウイルスやDNAのような巨大分子である。
ここで問題となるのは、それらは生きているのだろうか、ということである。
ある意味で、それらは生きている。
なぜなら、適当な環境に置かれれば、自らを再生することができるからだ。
しかし、それらは、規則的な結晶を形成し、多くの単純な分子のようにふるまう場合もある。
それらは、物質がいまだ真の生命の出現にいたるほど十分に組織されていない薄明時に存在しているように思われる。

生命と自省的意識の間にも同様な薄明時が存在しているようだ。
この場合、チンパンジーのような霊長類がそれにあたる。
他の動物同様、霊長類も環境を自覚しているという意味では意識的である。

しかし、それらは自分を意識したり、自分が意識していることを意識するだろうか?
答えは明確ではない。
スタンフォード研究所、ネバダ大学、カリフォルニア大学、その他の大学で行われた数多くの実験では、チンパンジーに単純なサイン言語を教えてきた。
そういったチンパンジーのあるものは、自分を名前で認識できるという意味で初歩的な自己意識を示したようだ(しかし、これに関してはまだかなりの議論の余地がある)。
けれども、そういった言語がないと、チンパンジーは、知的で表現豊かとはいえ、自分が意識していることを意識するような兆候をほとんど示さない。

にもかかわらず、チンパンジーやオランウータンのような他の数種の霊長類は、自己認識を示すという意味で他のすべての動物と異っている。
彼らは鏡に写った自分の像を見ると、同じ種の別の動物ではなく自分自身を見ていることに気づく。
したがって、彼らは真の自省的意識の出現に先行する薄明時のどこかに存在しているように思われる。

現在、進化はまた別の薄明時に達したようだ。
意識とガイアフィールドとの間に存在する薄明時である。
人類は現在、双方のレベルの特徴を示している。
われわれは独立した意識単位であるが、共通の目的のために寄り集まって統合された全体として機能することもある。
こういった意味で、社会は細胞状の変形菌(ジクチオステリウム・ジスコイデウム)という興味深い生物を思わせる。
それは単細胞のアメーバの集合体と真の多細胞有機体との中間に位置する「有機体」である。

変形菌を構成する個々のアメーバは、ほとんどの時間、古い木くずや朽ちた葉の周囲をうろつきながら、食糧のバクテリアを探し回り、増殖していく。
食糧供給が乏しくなると、独立したアメーバは数ダースの個体からなる小集団を形成しはじめる。
次に、これらの集団が凝集し、時に数千のアメーバから成る「グレックス」と呼ばれる一個の塊となる。
合体すると、いくつかの細胞が他の細胞の上によじ登って半球状のドームを形成し、頂上に「乳首状の突起」をもった円錐体に成長する。
それから、全体が横倒しになり、もたげた乳首状の部分を先頭にして、森の地面を光の方に動くことのできる小さな「なめくじ」となる。

もし、食物が見つかると、グレッグスは再び数千の個体アメーバに解体し、散り散りになってしまう場合がある。
そうでなければ、一端を支えにして上向きとなり、数千のアメーバが互いに重なり合って2.5センチぐらいの高さの細い垂直の茎となることもある。
この細い茎の上で他のアメーバが小さな球体を作り、胞子となって投げ出され、風に乗って運ばれる。
一匹のアメーバが豊富な食糧の供給があるところに着地すると、それは前と同じように増殖し、広がりはじめる。
そして、食糧の供給が底をつきはじめると、以上のプロセスが再び繰り返されるのだ。

未開、文明、いずれの人間社会にも、同様な行動が見い出される。
たとえば、英国の人類学者、エドムンド・リーチが綿密に研究した北ビルマのカチン族は、ほとんどの時間を個別の部族共同体のなかで過ごす。
ところが、食糧が乏しくなると、一人の王の下に一単位として寄り集まり、事態が好転するまで一つの共同体としてとどまる。
より発達した西洋諸国でも大きな災害がない時には、同様に、各人がだいたい好きかってなことをしている。
しかし、広範な飢饉、洪水、戦争といった災難が発生すると、人々は公共の利益のために行動しはじめ、社会は統合された有機体の特徴を強く帯びるようになる。

危機の〈機〉(チャンス)

人類が薄明時にいるというのは、新しいレベルの出現が不可避だという意味ではない。
転換期は危険に満ちている。
明らかにこれは今日の社会にあてはまる。
われわれは人類の歴史上、もっとも複雑な社会的、政治的、経済的、生態的、倫理的危機の真只中にいる。
こういった危機は進化の新しいレベルの出現を妨げてしまうだろうか?
そうなるかもしれない。
確かに、われわれは終末の可能性をこと細かにあげつらう、
最後の審判の日の筋書きを数多くもっている。
しかし、前述した進化の概観はもう一つのまったく異るシナリオを明らかにしてくれた。
危機が進化をより高いレベルへと押し進める触媒になりうる、というものである。

当初は、どんな危機も苦痛に満ち、危険なものに思える。
誰もが古い秩序にできるだけしっかりしがみつき、それを止めようとするであろう。
しかし、この危機から新しい秩序が生まれる可能性があるなら、現状にしがみつくことは非生産的であり、かえって問題を深刻にしてしまうかもしれない。

未来学者、バーバラ・マッyクス・ハバードのアナロジーを借りて、35億年前、さるバクテリア小集団の光合成使用計画が環境にどんな影響をもたらすかについてバクテリア委員会が言ったであろうことを思い浮べてもらいたい。
「このプロセスによって生み出される酸素は危険物質である。
それは既知のあらゆる生命形態に害があるうえ、きわめて燃えやすく、われわれ全員を灰にしてしまう畏れがある。
それが生命を破滅に導くことはほぼ確実であろう」。
もしそんな委員会が存在していたら、文句なく光合成は「利己的、不自然、無責任」であるとして禁止されていただろう。
幸いにも、そういった委員会は存在せず、光合成が実施された。
それは確かに一大危機をもたらしはしたが、一方で、植物や動物、あなたや私を生み出したのである。

人類が今日直面している一連の地球的問題は、われわれの進化の継続にとって、「酸素危機」に劣らず重要なものになるかもしれない。
人類の歴史において、これほどさし迫った危険があったためしはなかった。
しかし、進化の触媒という役割りを荷うものとして、それらはわれわれをより高いレベルに押しあげるために必要なものなのかもしれない。

危機が否定的な側面と肯定的な側面をもっているという考えは、危機という漢字に取り入れられている。
〈危〉は「用心、危険」を意味する。
けれども、〈機〉には、まったく異った含蓄がある。
「変化の機会」を意味するのである。

この〈危機〉という概念は、危機の二つの側面の重要性を認識させてくれる。
近年、われわれの注意は概して〈危〉つまり地球の崩壊を暗示する多くの可能性とそれらをいかに避けるべきかということに向けられてきた。
こういった姿勢も、われわれの直面するきわめて現実的な問題を扱おうとする限り、必要なものでありつづけるだろう。
と同時に、これらの危機を通して、われわれは自らの基本的な心構えや価値観のいくつかに疑問を投げかけることになるかもしれない。

われわれはなぜここにいるのか?
われわれが真に求めているのはなにか?
生命にとってもっと大切なものはなにか?
こういった疑問は、われわれの目を危機のもう一つの側面である〈機〉、すなわち方向を転換し、われわれを待ち構えているかもしれない驚くべき可能性をひらく機会に向けさせてくれる。


『グローバル・ブレイン ―情報ネットワーク社会と人間の課題』
(ピーター・ラッセル 著、工作舎刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

第5章. 進化する現代社会

あなたは類まれなる世紀の例外的な時代にいることを忘れてはなりません。
新世界の誕生に立ち会うという大きな幸福と貴重な特権を忘れてはなりません。
  ――マザー シュリ・オーロビンド・アシュラム

人口急増のゆくえ

宇宙の誕生から現在にいたるまで、進化は一貫して複雑さのレベルが高まる(多様性、組織、連結性の増大)方向へと進んできた。
こうして複雑さの度合が高まるにつれ、進化の新たな諸秩序が出現してきた。
こういった傾向がいま止まるだろうと推定する論理的根拠はない。
逆に、あらゆる兆候がそういった傾向がつづくことを示している。
現在、複雑さの度合を物語る三つの主要な局面は、新たな秩序の存在が出現しうる地点にいま一度到達しそうな気配を見せている。
しかも、今回の進化の飛躍の中心舞台はまちがいなく人類そのものになりそうである。

今日の社会における複雑さのレベルを確かめるために、まず多様性について見てみよう。
進化の観点に立つと、多様性には二つの重要な要素がある。
一つは変化の多様性で、特定集団内での広範なタイプの発展を意味する。
明らかにこれは人類の内部で起こっていることである。
国、人種、体型、信念体系、いかなる分け方をしようと、人類の多様性には疑う余地はない。

多様性の第二の局面は数の増加である。
人口は急速に膨れあがり、多くの人はこれを否定的な傾向と見ている。
しかし、進化の観点からすれば、数の増加は、進化の土台である複雑さの度合いを高める上で、欠くことのできないものである。

皿のなかのバクテリアであれ、胚細胞であれ、オーストラリアに棲息するうさぎであれ、ほぼあらゆるものの数の増加は、当初、指数曲線と呼ばれるものによって代表される急激な増加パターンを示す。
この曲線の性質はこれからの議論にとって重要なものなので、その特性のいくつかを見ていきたい。

指数曲線においては、成長速度は現在の規模に直接比例する。
つまり、規模が大きければ大きいほど、成長が速いということである。
人口は古典的な例である。
人口の増加率はすでに生存している人間の数に依拠する。
従って、膨れあがっていく人口は、戦争、疫病、飢謹といったものによる突然の減少がなければ、ますます急速に増加する傾向がある。
複利でお金を投資した場合にも指数成長のもう一つの例が見られる。
その利子は元金とこれまで生じた全利子を足し合わせた金額に基づいて計算される。
毎年、利子が加算されていくにつれ、図4に見られるような典型的な指数曲線を描き出す。

すべての指数曲線は、一定の比率で成長するため、それ独自の「倍加時間」をもっている。
これは、人口(あるいは他の測定されるもの)が二倍の規模になるのに要する時間である。
成長率と倍加時間の間には単純な数学的関係が存在する。
倍加時間は70÷成長率(%)に等しい(より正確を期せば、69.31÷成長率(%))。
このようにして、もし人口が1年につき2パーセントの割合で成長していれば、それは35年の倍加時間をもつことになる(この関係は、後に、社会のさまざまな面の成長率の意味を考える時に有効である)。

もちろん、指数曲線は数学的モデルであり、自然の成長が必ずしもこのパターンに正確に従うとは限らない。
たとえば、人口の増加は真の指数曲線には従わなかった。
何世紀もたつうちに、倍加時間は確実に短縮されていった。
紀元1OOO年頃、世界の人口はおよそ三億四千万ぐらいで、倍加時間は約5OO年だった。
17世紀になる頃には、倍加時間は300年に短縮された。
18OO年には100年にまで短縮され、1940年には約50年、1960年代になると、人口は35年ごとに倍加した。

指数成長より急速な増加速度を示すこういったタイプの成長は「超指数的」と呼ばれる。
そういった曲線は、増加率が現在の人口の規模に依存するだけでなく、すでに過去において達成されたものにも依拠する場合に必ず起こるものである(たとえば、銀行があなたの現在の預金額ではなく、毎年通知される年間預金額を足し合わせ、そのトータルの預金額に基づいた利子を支払うべきものとするなら、あなたは超指数的に増える預金をもち、実際あっという間に金持になるだろう!)。
人口の場合に見られるこういった超指数的な増加は、言語、文字、印刷、コミュニケーション・システムの発達の直接的結果である。
そういったものが長年にわたって獲得された知識を蓄える能力をもたらしたからである。

この能力が健康管理の改善、生産の増大、高水準の生活、より効率的な土地利用へと導いた――こういった要因が人口の急増を可能にしたのである。

実際には、いかなる指数成長や超指数成長も、永遠に成長しつづけることはできない。
ゆくゆくそれは物理的環境によって課される限界に達する。
数時間ごとに倍加する皿のなかのバクテリアは皿を満たす以上のことはできない。
現在のところ、人類は地球を一杯にする以上のことはできない。
どこかで、増加しつづける人口を環境が維持できなくなることを感じはじめるだろう――l普通、そういったものが感じられるのは、限界の半分ぐらいに達した時である。
その時、増加速度は減速しはじめ、その曲線は反対方向に折れ曲がってS字型曲線を生み出すであろう。
皿のなかのバクテリアの場合、こういった増加の鈍化は食糧や空間の不足のような制御不可能な要
因によってもたらされる。
将来の人口の増加においても、病気や飢饉、あるいは食糧、資源、エネルギー供給の減少から起こる軋轢に端を発する戦争といった、同様の「自然」制御の形態が予測されるかもしれない。
けれども、人間はバクテリアと違って意識をもっているし、グラフ用紙ももっている。
われわれは未来を予測し、さまざまな自然制御の手段を先取りして、人口の制御に関して終末の回避につながるような決定を下すことができる。

人口に関する最新のデータは、増加がすでにゆるみはじめていることを示している。
もっとも正確な数字は先進諸国のものである。
ほぼすべての先進国で、出生率(1人の女性から生まれる平均的な子供の数)が確実に減少している。
スウェーデンではすでに人口増加率が零に落ちこんだ。一方、東西ドイツとアメリカもさほど遅れをとっておらず、出生率は置換レベル(2人)以下である(出生率が置換レベル以下に落ちたからといって、すぐに人口の増加が止まるわけではない。
それは応々にして20年間ぐらい増加しつづける。
というのは、潜在的な親の数が初期の高い出生率の結果として増えつづけていることがありうるからである。
三世界人口の四分の一を占める中国では、現在、一人っ子政策が取られている。
中国でも出生率は置換レベル以下に落ち、2OOO年までに増加率が零になると予測されている。

その他の国々のデータは多少信憑性に乏しいが、それでも全般的に着実に増加率の減少傾向が見られるようだ。
地球全体としての数字は、60年代初頭に年間増加率が2パーセントという頂点に達し、1970年には1.9パーセント、1977年には1.7パーセントに落ちたことを示している。
現在、われわれはちょうどS字型の中間点を通過しているのかもしれない。

もしこういった傾向がつづけばどんなことが起こるかという問題に関して、人口分析家はさまざまな憶測をめぐらせてきた。
一般的総意によると、世界の人口は紀元2OOO年までにおよそ6O億になり、21世紀の中頃から終わりにかけて、おそらく8O億から110億の間で安定するだろう、とされている。

人口が10の10乗付近で安定するかもしれないという可能性は興味深い。
すでに見たように、この数字は、新しい進化のレベルの出現に必要な要素のおおよその数を表している(単細胞にはこの数に近い原子が存在し、人間の脳の皮質にはこの数の細胞がひしめいている)。
もしより高度な統合のレベルで同様のパターンが起こるとすれば、人類は、次なるレベルの出現を可能にするだけの自省的意識の数をもつ段階に急速に接近しつつあると言ってもよかろう。

けれども、21世紀の末まで待たなくても、こういった可能性は実現されるかもしれない。
結局、10の10乗という数字は正確に必要とされる数ではない。
むしろ、それは、同程度の規模(10の9乗~10の10乗)の数字の全体を指しているのである。
こうしてみると、4O億(4×10の9乗)という現在の人口はすでに必要範囲内に十分収まっている。
したがって、人口が8O億に増えるか、11O億に増えるかはさして重要なことではないかもしれない。

組織された有機体としての社会

大きな進化の飛躍をもたらすには、数だけでは十分とはいえない。
1OO億の原子をピンの先に寄せ集めたからといって生きた細胞になるわけではないし、1OO億の神経細胞をガラスの瓶につめても、意識ある脳になるわけではない。
これらの要素は一貫した構造に総合される必要があり、要素間の相互作用も組織化されなければならない。

こういった組織化に向う第一歩は、普通、「群れをつくること」、つまり要素の群化の傾向である。
社会を例にとると、遊牧的な狩猟採集民の小集団から農業共同体、部族村落や世襲性の一族から小さな国や州、国から地理的、民族的な境界を超えるアメリカ合衆国、ソビエト連邦、英連邦、EEC(ヨーロッパ経済共同体)といった大集団へと向かう着実な歩みを見ることができる。

集団はより大きく統合されるようになればなるほど、より組織的になる。
ちょうど細胞が細胞小器官をもち、身体が器官をもつように、社会は組織と構造をもつ。
全員が向じ仕事をする原始的な狩猟採集社会と違い、近代社会は高度な専門化によって特徴づけられる。
今日ではほとんどすべての人が専門家であり、その結果生まれた人間社会の相互依存性と関連性がきわめて複雑な社会構造を生み出した。
単に、一瓶のオレンジ・ジュースを店に車で買いに行くだけでも、ゴム園、油田、製油所、製鋼工場、銅山、自動車製造工場、オレンジ果樹園、ガラス会社、輸出入や配送に関連した種々の会社(その他数えあげたらきりがない)といった、さまざまな場所で働く人々の相互に関連した世界規模のネットワークを前提としている。

社会における組織の拡大は物理的レベルだけに見られるものではない。
人類の進化とともに、われわれが住む世界を映し出す自省的意識や能力が出現した。
これは精神的レベルにおける進化を可能にし、われわれの内部でより大きな組織に向う傾向がさまざまな形で顕在化している。

知性自体、人間の意識の内に存在する一つの組織化の原理である。
ごく一般的な意味で、知性とは、生の感覚情報から秩序を抽出し、知覚を意味のある全体に組織し、それら(概念、期待、仮説等)の間の関係性を確立することによって行為を意味ある形に組織する能力と考えられる。

人間の知識の数多くの側面もまた、世界の体験を組織する方法とみなされうる。
個々の科学分野は、根底に横たわる規則や法則を探し求め、われわれの住む世界の秩序を明らかにする特定の方法を表している。
同様に、芸術は人間の意識に、隠された創造の諸秩序をもたらそうとするものである。
こういったさまざまな方法で、人類は絶えず新しい関係性を発見しながら、漸次、世界についての情報の組織化を進めている。

そして、人間の社会はこれをもう一段階押し進めた。
われわれは自分自身の内側で情報を組織するだけでなく、他人とその情報を共有することができるのである。
さまざまなコミュニケーションの手段を通じて、われわれは意識レベルで互いにつながり合い、複雑さの度合いの第三の重要な側面である連結性を高めることに着手しはじめている。

情報化時代とエレクトロニクス・シナプス

今日のコミュニケーションの領域における発達の意義を存分に把握するためには、過去2OO年の間にどんな社会的変化が起こったか振り返ってみる必要がある。
この短期間に、人間活動の推進力は著しい変貌を遂げた。

18世紀半ばまでは、支配的な人間活動の領域は、食料の生産――たとえば、農業や漁業――とその配分だった。
これらの分野で雇用される人間の数は、おおむね、人口そのものと同じ速さで増加していった。
ところが、近年になって、農業にますます多くのテクノロジーが使われるようになったため、農業雇用者の増加率が鈍りはじめた。
その結果、食料生産に従事する雇用者の増加曲線がS字型に曲がってしまった。

産業革命以来、先進諸国は工業や製造業に携わる雇用者の数を着実に増やしてきた。
工業に携わる労働力の割合がしだいに増していくにつれ、その数の増加率は農業雇用者の増加率よりかなり速くなった。
全般的に見れば、この転換は、食料の処理から鉱物やエネルギーの処理への転換とみなすことができよう。

アメリカにおける食料生産の従事者の数は、一八世紀から一九世紀にかけて、四五年という倍加時間を示したのに対し、工業雇用者はおよそ16年ごとに倍加した。
その結果、アメリカにおける工業雇用者の増加曲線は19OO年に農業雇用者のそれに追いついた。
したがって、雇用者の数からすれば、この年をアメリカにおける工業化時代の幕開けを記す年と考えてもよかろう。

それからの70年間、工業がアメリカの支配的な活動だった。
けれども、つぎつぎとテクノロジーやオートメーションが工業に導入された結果、過去数十年の間に、工業雇用者の増加率が衰えはじめ、再びS字型曲線を描きはじめた。

過去25年ほどの間に、もう一つの重要な人間活動の分野が登場した。
情報処理である。
これは教育、印刷、出版、経理、銀行、ジャーナリズム、テレビ、ラジオ、テレコミュニケーションといった分野やコンピュータを基盤とした多様な活動を含んでいる。
情報処理は急激に加速化しており、らくその倍加時間は6年ぐらいであろう。

コミュニケーションの急速な拡大は、雇用の面においても再び転換をもたらした。
つまりエネルギーと物質の処理である工業から情報処理への転換である。
1970年代の半ばまでに、アメリカではこの新しい分野に携わる人の数が工業従事者の数に追いついた。
以来、情報処理は支配的な活動となり、「情報化時代」の幕開けを記すものとなった。

こういった発達はアメリカにおいてとくに顕著であるが、ほとんどの先進諸国にも同様な変化が認められる。
発展途上国も同様な傾向を示してはいるが、国によって程度の差こそあれ、全般的に先進諸国に遅れをとっている。
しかし、そういった遅れも時が経つにつれ、ほぼ確実に減少していくことになろう。

アメリカにおける雇用者の統計を見てみると、産業革命以前の18OO年、労働力の8Oパーセントが食料生産に従事していたことを示している。
19OO年には、工業労働者が食料生産の従事者と同数となり、それぞれ労働人口の38パーセントを分け合った。

最近になってさらに急速な成長を示す新た分野が登場した。
情報処理である。それは約6年の倍加時聞をもち、1975年に雇用者の数で工業を追い越した。
情報産業は今や先進諸国における第一の雇用形態である。

工業活動が支配的になる段階に達する時には西洋に5O年遅れを取っていたにもかかわらず、情報型社会に転換する時にはたかだか10年ぐらいしか遅れなかった国々がある。
日本はそのようにスタートが遅れたにもかかわらず、文句なく西洋に追いついてしまった国の一つであろう。
中東諸国、たとえばクウェートやサウジアラビアのような石油成金諸国も急速な進歩を示している。
中国は、いまだ農業主体の国であるが、「工業化時代」を短期間しか経験しないうちに情報社会に転換してしまうかもしれない。

多くの国が情報化時代に突入するにつれ、萌え出ずるエレクトロニクス・シナプスのネットワークを通じて、われわれはますます統合されるようになり、コミュニケーションと情報処理のテクノロジーが人類に劇的な影響を与えることになろう。

人類の歴史を振り返ってみると、こういった人間同士をつなごうとする傾向が数千年来つづいてきたことがわかる。
つまり、今日の情報テクノロジーの突発的なうねりは数百万年に及ぶ人間の努力の賜物とみなすことができるのである。

人類の相互連結への第一歩は、言語の発達によってもたらされた。
言語は、人間同士の間で、それまでよりずっと直接的な知識の伝達を可能にし、単純な共同体や村落のような人間の集団化を押し進めた。
第二の躍進はおよそ1万年前の文字の発明によってもたらされた。
これは情報を時間や空間を超えて伝達することを可能にし、大きな共同体の成長を促し、文化の歴史や伝統の記録を推進した。
15世紀の印刷機の発明は文字情報を広める人間の能力をいちだんと高めた。

次の飛躍は19世紀中頃に起こった。
それは電報、そして後に電話という形式をとった電気的コミュニケーションの発達であった。
今や世界中の人々を互いに電気ケーブルでつなぐことが可能となり、長距離のメッセージの伝達に要する時間が数日ないし数週間から一気に零コンマ数秒に短縮された。

50年後、伝達媒体として無線電波が使われるようになり、別の躍進が起こった。
これによって、人々をケーブルで物理的につなぐ必要がなくなるとともに、メッセージを多数の人に伝達すること、つまり情報の「広域放送」が可能になった。
以来、ラジオとそれから枝分かれしたテレビが急速に普及し、個々人が世界中で起こっている出来事の目撃者になることが可能になった。

全地球的なラジオとテレビの普及と軌を一にして、それらに劣らず重要な発達が情報テクノロジーの分野で起こった。
コンピュータである。
コンピュータは、紙と鉛筆と加算器では不可能な、複雑な計算や情報のはるかに迅速な処理を要求された第二次世界大戦中に考案された。
この要求を満たすために科学者たちは電子計算機を考案し、これらが1950年代の初期の電子コンピュータを生み出した。
初期のコンピュータは今日のものに比べ煩瑣(はんさ)でのろかったが、情報処理の力と速度の点では一大飛躍を記すものであった。

1960年代から70年代にかけて、コンピュータの処理能力と速度は著しい進歩を遂げた。
同時に、コンピュータの物理的サイズが目を見張るほど小さくなった。

一般に「チップ」と呼ばれるマイクロプロセッサは、コンピュータ技術における一大革命を表すものだった。
1980年の平均的チップは、0.5センチにも満たない大きさにもかかわらず、1950年のコンピュータをすべて足し合わせたもの以上の演算能力を擁している。
しかも、この能力は毎年倍加しているのだ。
小さなサイズによってもたらされる数多くの利点に加え、チップのエネルギー消費量は驚くほど低い。
1970年の平均的なコンピュータは、たった10年後に作られた、同様の演算能力をもつポケット計算機五千個分の消費エネルギーより多くのエネルギーを使っていた。
その結果、〈情報/エネルギー〉比率は着実に増加しつづけ、今や急上昇している。
われわれは少ないエネルギーでより多くの情報を処理することができるのである。

1970年には、コンピュータは政府や企業といった大組織によってほぼ独占的に使用されていたが、チップの出現により、地球の大切なエネルギー資源を浪費することなく、誰でもその気になればコンピュータ技術やデータ処理を利用できるようになった。
もし、これに比肩しうる変化が、過去20年、自動車のさまざまな部品製造の分野で起こっていたら、現在、ロールスロイスは価格が2ドル(520円)、大きさは1インチ(2.54センチ)以下、1ガロン(3.785リットル)あたりの走行距離数百万マイル、一時間の走行距離一万マイルとなり、サービスなどいっさい必要としなかったであろう!

もう一つの重要な発達は、コンピュータ同士の直接的な連結であった。
最初のコンピュータは独立した機械で、人間とだけ相互作用した。
ところが、1960年代の後期には、コンピュータ同士が互いに直接対話することができるようになった。
そして、この発達により、数年のうちに、それ以前のどんなものよりはるかに迅速に世界規模でデータを交換する無数のコンピュータ・ネットワークが生み出された。
1980年までに、数千のそういったネットワークができ、株式相場や飛行機の座席の予約から犯罪の予防や科学研究にいたるあらゆる分野で使われている。
おまけに、ネットワークの数は2、3年ごとに倍加している。

当初、コンピュータの使用は数字の計算やデータ処理に限られていたが、チップとネットワークの出現により、コンピュータを人間のコミュニケーションに適用することが可能となった。
以前、印刷、声、レコード、テープ、絵などの媒体を通して伝達されていたものを、今や、コンピュータ言語(「ビット」と呼ばれる0と1の組み合わせ)に翻訳し、電子データとして送ってから、受信端末においてほぼ完壁な忠実度をもって「再構成」することができるのである。

コミュニケーション技術とコンピュータの融合がさらに進めば、電子郵便、電子新聞、電子ショッピングといったものがビデオ電話同様あたりまえのものになるであろう。
ポケット計算機程度の大きさの家庭用コンピュータ端末を通して、各人は他の多くの人々とは言うに及ばず、世界中の他のコンピュータやデータ・バンクとも接することができるようになるだろう。
多くの新たな地平が切り拓かれるだろうが、そのいくつかは今日想像もつかない。
コンピュータ技術における進歩は「世代」という言葉で語られ、それぞれの新しい世代は根本的に新しい技術的進歩に裏づけられている。
コンピュータの最初の三世代は、それぞれ真空管、トランジスタ、集積回路を基礎にして組み立てられた。
チップは第四世代の機械である。
1980年代の中頃には、ジョセフソン効果(発見者のノーベル賞受賞者、ブライアン・ジョセフソンにちなんでつけられた)と呼ばれる特殊現象を用いる第5世代がおそらく登場するだろう。
ほぼ絶対零度に近い温度で作動するこれらのコンピュータは、現在の機械よりおよそ百倍の速さで情報を処理することになろう。
1990年代には第6世代が出現するものと見込まれているが、それらのコンピュータはたぶん知的活動の面で人間の脳に劣らぬものになるにちがいない。

そこから、あらゆる情報処理の分野で人間と同等あるいはそれ以上の能力を発揮できるUIM(超知的機械)と呼ばれる機械の出現まではほんの小さな一歩にすぎないだろう。
いったん、この段階に達したら、演算能力の面でさらにすばらしい進歩が見られるだろう。
UIMをより性能のいいコンピュータを考案する仕事にあたらせることができれば、人間の知的能力をはるかにしのぐ処理能力をもった第二世代のUIMを組み立てることが可能となろう。
間違いなく第三、第四世代のUIMがつづき、知的能力は幾何級数的に飛躍するであろう。

未来のシナリオを思い浮かべる時、すぐに心に浮かんでくるSF作家お好みのシナリオはこうだ。
究極的に、コンピュータがものすごく知的になって進化の主導権を人間から奪い取ってしまい、人間は無用の長物と化す。
だが、そのような発達は、知性の進化を表しているとはいえ、進化の全体的パターンに合致するものではない。

過去に起こった新たな発達は、どれも既存システムの統合と改良によってもたらされたものであった。
いかなる段階においても、進化の枝がその副産物や加工品によって置換されたためしはなかった。
それらはつねに共に進化し、分離するどころか統合の度合いを高めていった。
もし、過去四億五千万年のパターンに従うとすれば、次の段階では人間と人間が作った物とが互いに助け合いながら共に進化していくことになろう。
UIMは人間から主導権を奪ってしまうどころか、社会の統合を促進し、より高い複雑さの度合いに向って人間の進化を加速させるもう一つの要因になるだろう。

グローバル・ブレインの進化

胎児の脳は二つの主要な発達段階を経る。
最初は、受胎八週間後にはじまる神経細胞の数の爆発的増加である。
この時期、細胞の数は日に数百万ずつ増加する。
けれども、5週間たつと、このプロセスは始まった時と同じぐらい急激に減速する。
こうして、脳発達の第一段階である細胞の増殖が完了する。

そこから、脳は第二の発達段階に進み、何十億という孤立した神経細胞が互いに連結しはじめる。
隣りの細胞と連結することもあれば、神経線維を伸ばして脳の反対側の細胞と連結することもある。
誕生時には、典型的な神経細胞は数千の他の細胞と直接交信するが、細胞によっては、25万もの細胞と交信するものもある。
こういった連結の増加は誕生後1年間つづく。

同様な傾向が今日の人間社会においても観測される。
われわれは大がかりな「細胞」増殖の時期を脱し、相互連結を増やす段階に入っているように思われる。
全地球的なコミュニケーションの能力がますます複雑になっていくにつれ、社会は地球の神経系にしだいに似はじめている。
グローバル・ブレイン(地球の脳)が活動しはじめているのだ。

グローバル・ブレインのめざめを感じとっているのはわれわれだけではない。
数百万マイル離れた宇宙空間のなかでもそれを感じとることができる。
19OO年以前、好奇心にかられて「地球のEEG」を測った(すなわち、地球の電磁気活動の測定)生命体がいたとしたら、彼が観測したのは、カミナリによって生み出されるようなランダムで自然発生的な活動だけであったにちがいない。
ところが、今日では、地球の周囲の空間は、大勢の人たちを対象とした放送、個人的なコミュニケーション、情報交換するコンピュータのおしゃべりなど何百万という異なった信号でにぎわっている。
使用可能な無線帯域が一杯になると、われわれは情報を詰めこむ新しい手段を探し出す。
そして、コミュニケーションの能力をさらに押し広げる可能性をもった、光のような新しいエネルギーのスペクトルが活用されるようになる。

こういったコミュニケーション技術を通して人間同士がほぼ瞬間的に繋がれ、急速かつ大規模な情報の拡散が起こっている今、世界を一つの「地球村」とみなすマーシャル・マクルーハンのヴィジョンが急速に現実となりつつある。
イギリスの森の中にある一戸建ての山荘から、私はフィジーに電話をかけることができるのである。
私の声が電話線の向うのフィジーに着くまでに要する時間は、私の脳が指に指令を送って、ダイヤルを回すのに要する時間と同じである。

コミュニケーションに要する時間に関する限り、地球は著しく縮少してしまい、祉の脳にとって、グローバル・ブレインの他の「細胞」は私自身の身体と同じぐらい近くにある。

1980年の全地球規模の相互作用の速度が増すのに平行して、複雑さの度合いも高まっていく。
地球的なテレコミュニケーション・ネットワークは四億四千万台の電話とほぼ百万台に近いテレックスの機械から成っていた。
しかし、このネットワークは、こみ入っているように見えても、数百万兆のシナプスを通して神経細胞が相互作用する脳のコミュニケーション端末に比べればものの数ではない。

英国のコンピュータ・コンサルタント、ジョン・マクナルティによれば、1975年のグローバルなテレコミュニケーション・ネットワークは、えんどう豆大の脳の一部ぐらいの複雑さしかもっていなかった。
しかし、全体的なデータ処理の能力は2年半ごとに倍加しており、もし、こういった増加速度が維持されるなら、全地球的なテレコミュニケーション・ネットワークは2OOO年までに複雑さの度合いにおいて脳にひけをとらなくなるだろう。
もしこれが信じられないほど急速な発達にしか見えないとすれば、おそらく、それは、ほとんどの人がいかに速くものごとが変化しているか十分に把握することができないためにほかならない。

以上がもたらす変化はあまりに甚大なために、われわれの社会にどんな衝撃をもたらすか、想像を超えていると言ってもよい。
われわれはもはや自分が孤立した個人であるとは感じなくなり、自らが、急速に統合するグローバル・ネットワーク、すなわちめざめたグローバル・ブレインの神経細胞の一部であることを知ることになるだろう。


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4-10. 終わりか始まりか

今日は、あなたの残りの人生の最初の一日です。
  ――アビー・ホフマン

――――

地球上のこの特別な種が、完全な知識を得ることができるかどうかは、まだわかりません。
私達は時空の風の中に投げ込まれた進化の種子なのです。
私達がどのようになるかは、すべて私達次第です。
私達にはチャンスも才能も何もかもが与えられています。
また、自分自身の運命を支配する力も与えられているのです。

実のところ、私達は進化の試験、宇宙的英知のテストを受けようとしています。
私達は自分の自由になる巨大な力を持ち、この惑星を傷つけることさえできます。
そして、今後も進化の旅を続けてゆけるかどうか決まる前に、私達は自分自身の主人となるだけの知恵を持ち、すべてのためになるような方法で自分の創造性を使うつもりかどうか、証明しなければならないのです。

この試練は地球上の人間だけに特別なものではありません。
知的で道具を使っている生命体はみな、同じようなテストを受けるのかもしれません。
まわりの環境を変えることのできる種はどれも、自分が生き残るチャンスをふやすためにその創造力を使うでしょう。
そして、寿命が延びたのを大喜びして、最初はその生物学的生産性を低める必要など目に入りません。
そしてまず、ゆるやかに人口が増加し始めます。

技術の力についても同じことが言えます。
他のどの進化のプロセスもそうであるように、新しい進歩はさらなる進歩を促進します。
そして、発展の速度は加速化し、用心深くしないと、全惑星的な生態系が適合してゆけなくなるほどの速い勢いで、まわりの世界を変えてしまうかもしれません。

このような種が、利己的な心の罠に落ちているかどうかはわかりません。
もし落ちていなければ、巨大化してゆく自分の力を統率する知恵と意志を発達させて、破滅を避けるでしょう。
しかし、私達と同じような心の発展をしているとすれば、私達と同じように意識の危機に直面するでしょう。
そして、もし生き延びたかったら、彼らもまた、自己中心主義を超越するより他ありません。

別の言い方をすれば、道具を使用する知的な種は、時間の中の窓に入ります。
その窓は自意識の発現と共に開きます。
そしてその種は歴史をかけ抜け始めます。
その時、その種の心の進化は物質的な進化についてゆけるでしょうか。
誤った方向に使われた創造性の弊害の力で窓が閉まってしまう前に、魂が完全に目覚めて、窓の向う側までゆくことができるのでしょうか。

地球上の生命が、ホモ・サピエンス・サピエンスへと飛躍した時に開いた時間の中の窓は今、閉じようとしています。
私達は意識の出現から、完全な開花までの五万年間、全力疾走してきて、今、最後の瞬間にいます。
私達は時間それ自体と競争しているのです。

この種を導いてゆく責任を持っているのは、今、ここに生きている私達です。
この自己中心的な段階から自分自身を解放して、時間を超えた瞬間の大切さと、現在のこの瞬間の大切さに目覚めなければならないのは、私達なのです。

私達は本当に面白い時代を生きています。
おそらく、この惑星の歴史で、今までに一番面白い時代ではないでしょうか。


千年紀の最後の世紀の
最後の十年の
最初の年の最後の月の最初の日
ワシントン山の山上に満月がかかる。
それは北の峰の最も地球に近いところだ。
今までに見た中で、一番大きくて明るい。
その脇には、火星が輝いている。
飛行機の影が二つを切りさき、
山羊座が護り、運命は変転する。
政府は戦争を討議し、
ビジネスは新機軸を語る。
古い敵同志が結びつき、海の下で握手する。
時の共時性が人生をかけめぐる。
旅の終わり。
学習の終わり。
数々の祝福に感謝、
つかの間の平安、
私達はみな友達になれるのだろうかと疑い、
私達がそれぞれなすべき選択を思い出しながら。
そして、心配しなくていいんだ、と思い返しながら。


『ホワイトホール・イン・タイム ―進化の意味と人間の未来』
(ピーター・ラッセル 著、地湧社刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

         次回ぐらいに続くかも ・・・たぶん

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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