あなたは最近、反逆者に関するあなたの洞察を語っておられますが、それでもなお、私がこの瞬間に私たちのまわりに感じる雰囲気は、とりわけソフトで、愛情にあふれ、しなやかです。
私には、これはあなたの魔法の一部であるように感じられます
――まるであなたが自らの存在を通して、反逆者は暴力や不幸からではなく、愛と歓喜の芳香から生まれてくるのだということを示しているかのように感じるのです。
――――――――――――――
暴力から生まれ出る反逆者たちは、最終的にはまったく反逆的でないことが証明される。
権力を手に入れた瞬間に、彼らの反逆性は消え失せてしまう。
彼らは自分たちが追い出した者たちと同じほど醜くなる。
なぜなら、暴力を通じて愛の花をもたらすことはできないからだ。
毒の種をまいておきながら、その花が毒以外のものになることを望むことなどできはしない。
過去における最大の悲劇は、安らかで、愛情深く、静かで喜びにあふれた人たちが反逆者ではなかったことだ。
彼らには、愛や慈悲や喜びからの反逆が可能になることなど思いもよらなかったのだ。
彼らのヴィジョンは、その未来の可能性を見抜くほどには明晰ではなかった。
だから愛情深い人々、平和的な人々、宗教的で祈りに満ちた人々は、反逆者になる代わりにただの逃避主義者になってしまった。
それは彼らにとっては反逆の代用品だった。
彼らは安らかで、静かで、至福に満ちた生を送るために、山々や森に逃避した。
ある意味で、彼らは確かに身勝手だったといえる。
彼らは自分たちが見棄てた人たちのことを、けっして考えなかったからだ。
彼らの慈しみはそれほど大きくはなかったし、その安らぎはそれほど強くはなかった
――彼らはかき乱されることを恐れていた。
その愛はそれほど偉大ではなかった
――反逆の炎のなかで焼かれるのを恐れていたのだ。
そして一方には反逆者たちがいたが、彼らは安らかではなく、静かでもなく、歓喜など想像したこともない人たちだった。
彼らは瞑想について何ひとつ知らなかった。
彼らには自分のハートとの触れ合いがなかった。
その反逆は、たんに自我の反動にすぎなかった。
彼らはあらゆる搾取や抑圧、体制がほかの人間たちに加えてきたすべての非人間的行為に怒り、憤慨していた。
彼らは自分の怒りから、自分の暴力、自分の激怒から反逆した。
だから、反逆の資格のない者たちが反逆し、ほんとうに反逆の資格のある者たちは逃避していたということになる。
暴力と怒りに満ちた人たちは成功した。
が、彼らは反逆を経験するうちに、ますます暴力に慣れ親しむようになり、権力が彼らの手中に収められたとき、その権力は暴力的な人々の手に握られることになった。
彼らがその権力をよりいっそうの暴力に使ったのは当然のことだ。
今や彼らには、可能なかぎり多くの人々を殺戮(さつりく)するたいへんな機会が与えられていた。
ときとして、彼らは無差別の殺戮を行なった。
ソビエト連邦では、スターリンが少なくとも百万人の人々を虐殺した
――だがこれら百万の人々は、彼が反逆した金持ちたち、その反逆全体がもくろまれた当の相手ではなかった。
彼らは貧しい人々であり、彼らにとってこの反逆全体は、よりよい未来を約束し、希望を与えてくれるはずのものだった。
では、なぜ彼らは殺されたのか?
その理由は愚かきわまりない。
共産主義は私有財産があるべきではないと信じるが、人々は権力をもつと人間の現実に対してまったく目か見えなくなる。
たとえば、私有財産は少数の者たちにのみ集中されるべきではなく、そのことで何百万もの人々が貧困を強いられるべきではない、というのは真実だ。
ここまでは、共産主義はまったく正しい。
だが、私有財産を完全に廃止するというのは、きわめて反心理学的で不自然な考え方だ。
そのことは理解されなければならない・・・私有財産はあなたに一定の〈個性〉、一定のアイデンティティ、一定の自由を与える。
もしすべての私有財産が取り払われ、いかなる個人的所有物もなしにすっかり丸裸にされてしまったら、あなたは自分からすべての自由、すべての〈個性〉、反逆するすべての能力が奪われてしまったことに気づいて驚くだろう。
あなたはある種のやり方で殺されてしまったのだ。
私有財産が取り上げられただけではなく、あなたもまたおしまいになってしまった。
マルクスには心理学的な洞察がなかった。彼は人間の心理的・精神的な体験に関して完全に盲目だった。
彼の方法論のすべては、純粋に経済学的なものだった
――だが人間は、たんなる金銭ではない。
人間ははるかにそれ以上のものだ。
人間はたんなる所有物ではなく、はるかにそれ以上の存在だ。
しかし、〈個性〉というものに関するかぎり、所有物にもそれなりの価値がある。
私のビジョンでは、正しい共産主義は、あらゆる人が私有財産をもてるようにするためにこそ、私有財産の小数への集中をなくす。
だれひとり極端に豊かな者はおらず、だれひとり極端に貧しい者もいない。
金持ちはいなくなり、貧乏人もいなくなり、中産階級だけが唯一の階級となる。
そして人々は、ほとんど同等の私有財産をもつようになる。
私は、ほとんどと言っている。
なぜなら、人間は数学的な観点から扱われるべきではないからだ。
いくらかのおおらかさも必要だ。
ある人は少し多めにもっているかもしれないし、ある人は少し少なめにもっているかもしれない。
が、それはかまわないし、だれもそれで傷つくことはない。
人によっては必要かもしれない・・・医者には自家用車が必要かもしれない。
それは彼の仕事の一部であり、彼から自家用車を取り上げてしまうことは、医者という職業にとって必要不可欠なものを奪い取ってしまうことになるからだ。
だから、この多くをもたない何百万もの貧しい人々
――ある人は二頭の牛をもち、ある人は一頭の馬をもち、ある人は何羽かのめんどりをもち、またある人は小さな土地をもっていた・・・。
だが、共産主義者たちの盲目的な数学的・経済学的頭脳
――それは全権力が手に入ったとき、よりいっそう盲目的になった
――は人々からあらゆるものを奪い去りはじめた。
自分たちの食料すら充分には取れない小さな一片の土地。
だが、それが彼らの所有するすべてだった。
それは彼らが先祖代々から受け継いできたものだった。
それすらも失ってしまった彼らは、突然、自分たちが丸裸になっているのに気がついた
――まるで身ぐるみを剥がれてしまったかのように。
彼らの家もたいしたものではなく、けっして宮殿と呼べるような代物ではなかった。
彼らは牛や馬たちと同じ屋根の下に住んでいた
――それは家というより家畜小屋に近かった。
が、それすらも取り上げられた。
あらゆるものが国の所有物になってしまった。
そしてこれらの貧しい人々
――彼らのためにこそ革命はなされたはずだった
――はわけがわからなかった。
いったいこれはどういう種類の革命なのだ
彼らは自分たちの貧困が消え失せて、もっと豊かになるものとばかり思っていたのだ。
しかし反対に、彼らがそれまでもっていたものすらもなくなってしまった。
今や彼らは乞食と同じだった。
生産手段のすべてが国家に掌握されるようになり、権力の座にあった人々は今やはじめて、二重の権力をもつようになった
――政治権力と経済的実権のすべてを。
それまでは、それは分割されていた。
経済的実権は金持ちたちが握り、政治権力は政治家たちが握っていた
――いくらかの分割があった。
が、今や権力はすっかり全体主義的になってしまった。
権力のすべてが、支配者である人々の手に集中するようになったのだ。
教育も受けていない貧しい人々には理解できなかった
――これは何という平等だろう?
彼らはあらゆる人を貧しく、平等に貧しくしているのだろうか?
革命は、こんな平等のためにわざわざ闘われたのだろうか?
そしてこれらの人々は、自分たちの鶏、自分たちの一片の土地、自分たちの小さな家、自分たちの馬や牛を供出することに逆らったがゆえに・・・反抗したがゆえに、いとも簡単に殺されてしまった。
暴力からは、さらにより多くの暴力が生まれるだけだ。
それら百万の人々は下層中の最下層だった。
革命は貧しい人々を虐殺した。
それは盲目的な革命であり、それはそうなって当然だった。
なぜなら、革命家たちにはいっさい慈悲という考えがなかったし、人類に対する愛もなく、精神性の体験もなかったからだ。
彼らはその美しい空間からやって来たのではなかった。
彼らはよりよい人間性のために闘っていたのではなかった。
彼らは怒りゆえに体制を破壊することに関心があったにすぎない。
その怒りのなかにあったのは嫉妬であり、羨望だった
――すベてのまちがったものがそこにはあった。
私の努力は、反逆者と探求者(サニヤシン)とのあいだに大いなる統合をもたらすことだ。
サニヤシンは逃避者であるべきではない。
彼は自分の愛を育て、自分の慈しみを充分に強くし、自分の歓喜を深く根づかせ、それを中心の定まった円熟したものにすべきだ。
そしてこの愛に満ちた空聞から反逆するべきだ。
その反逆において彼は、基本的に、体制を破壊することにではなく、新しい世界を創造することに関心をもつ。
その焦点は新しい世界、新しい人類、新しい価値をもった新しい人間性を創造することにある。
新しいものを創造するために、彼は古いものを壊さなければならない
――だがそれは怒りからではなく、あくまで必要性からだ。
そして彼は、人々に知的な考えを押しつけるのは危険だということを理解していなければならない。
あなたはまず人々の心理を理解し、それに従ってあなたの反逆が形づくられなければならない。
その反対であってはいけない
――人々をあなたの反逆の観念の鋳型にはめてはならない。
人間はけっして、いかなる理念のためにも犠牲にされるべきではない。
すべての理念は、人間のために用いられるべきだ。
人間心理を研究すれば、確かに人々のあいだの大きな隔たりは醜い社会をつくり出すといえる。
ほんの数日前、私はこういう報告を受けた。
インドには真に豊かな人々はわずかに15人しかいない
――九億の民をかかえる国で、真に豊かな人々がわずかに15人!
つまり、九億の人々のすべての富が搾取されてきたということだ。
彼らの労働、彼らの全生涯は、わずか15の家族によって吸い取られてきた。
この不均衡は非人間的だ。
なぜなら、生産する者は飢えているのに、寄生虫たちは、自分たちには何の役にも立たない金を集めつづけているからだ。
金は飢えで死にかけている人たちには有用だ
――そして彼らこそ生産者なのだ。
これら15の豊かな家族は働くことをしないし、生産もしない。
彼らはただ、いかにして生き血を吸い取るかということについて狡知にたけているだけだ。
彼らはタコのようにその触手を伸ばし、何百万もの人々の生き血を吸っている。
千とひとつの道を通って、すべての金が静かに音もたてずに彼らのふところに入ってゆく。
これを聞いたらあなたがたも驚くかもしれないが、ボンベイ市には全国の金の半分が流入している。
奇妙なことだ・・・国中が働いているのに
――人々は田畑で、農園で、工場で働いている
――だが、どこかに何らかの策略かあって、金はボンベイに向かって動きつづける。
全国の半分の金がたったひとつの都市に!
これは許しがたいことだ
――だが、人はそのことに腹を立てるべきではない。
それが許しがたいのは、それが非人間的なことであり、人々の愛、人々の慈しみ、人々の優しさを破壊しているからだ。
それはあらゆるたぐいの犯罪を生みだしている。
貧困はあらゆる犯罪の母だ。
なんと奇妙な世の中なのだろう。
あなたはまず人々を貧しくしておいて、彼らに犯罪者になるように強い、それからあなたがたの法廷や警察や裁判官が彼らを処罰する。
まず最初に彼らは搾取されて、それから犯罪者として罰せられる。
真の犯罪者は、これら全国の富を搾取した15の家族だ。
しかし、彼らが罰せられることはけっしてない。
なぜなら彼らは、あなたがたの判事すべてを買収できるし、あなたがたの政治家全員を買収できるからだ。
彼らはすでにあなたがたの政治家をすべて掌中におさめている。
政治家は、選挙のための何百万ルピーという資金をどこから調達するのだろう?
それが貧しい人々から来ることはありえない。
それに政治家に何百万ルピーも与えるような人々は、それを慈善行為で与えているわけではない。
もし百万ルピーを与えるなら、彼らはその政治家から少なく見積っても五千万ルピーは得るだろう。
政治家が権力を握ったとき、あらゆる認可は彼を権力の座に導いた人々のところへゆく。
これらの政治家たちはみな、ある資本家グループの、あるいはほかの資本家一族の奴隷だ。
彼らは貧しい人々に、よりよい未来を約束しつづけるが、そんな未来などやって来ないことを彼ら自身がいちばんよく知っている。
なぜなら、政治家たちはまずはじめに、自分たちに与えられた金を返さなければならないからだ。
彼ら自身が奴隷なのだ。
この状況は醜い。
この構造が変えられなければならないことは確かだ。
しかし、その変革は、苦しみを受けているすべての人々への愛と慈しみからのものであるべきだ
――すべての金を握っている、すベての贅沢品を所有している、それら少数の者たちに対する怒りや羨望、嫉妬からのものであってはならい。
それはどこに焦点があるかの問題だ
――あなたは貧しい人たちのために闘っているのだろうか?
それともあなたは、自分がその15家族の一員ではないことに嫉妬して闘っているのだろうか?
あなたにこの構造に対して反逆することを促しているのは、あなた自身の嫉妬、羨望、怒り、暴力だろうか?
もしそちらの方が実情なら、権力の座に着いたあなたは、よりいっそう危険な存在になるだろう。
なぜならそのとき、あなたは自分に可能なかぎりの復讐を試みるだろうからだ
――それも徹底的に。
だが、あなたの革命が人類の苦しみを見てきたがゆえのものなら、あなたはあらゆる人に成長するための平等の機会を与える構造をつくり出すだろう。
だが、平等という考えを押しつけることはしない。
なぜなら、平等というものはそもそもありえないからだ。
それは心理学的にも、実存的にもありえない。
バートランド・ラッセルはあくまでバートランド・ラッセルであり、彼のような人にもっと楽な生活が与えられるなら、その方がずっといい
――その貢献は実に偉大なものであり、彼のような人にはできるかぎり快適な生活が与えられるべきだ。
アルバート・アインシュタインはあくまでアルバート・アインシュタインであり、彼は世界のほかのだれとも等しくはない。
だれひとり自分は彼と同等であると名乗りを上げられる人はいない。
彼に平等性を強いるのはただただ馬鹿げている
――彼の仕事は特別なものであり、彼の才能は特異なものだ。
彼を引き降ろしてはならないことは明らかだ
――彼は店主ではないし、人夫でもない。
彼は店主になるよう強いられるべきではないし、もしそうなったら、それは人類の進化全体にとって途方もない損失となる。
彼は人夫になることを強いられるべきではない。
ほかのだれも彼に取って代わることはできないのだから。
ほかのだれが相対性理論をつくるだろう?
ほかのだれが、私たちに原子力エネルギーの途方もない力を与えてくれるだろう?
政治家たちがそれを、人間を破壊することに使いつづけてきたのは不幸なことだ。
しかし、アルバート・アインシュタインにその責任はない。
その同じエネルギーは、人間をより豊かにより健全にし、世界をより美しくするためにも使うことができたはずなのだから。
人間は等しくはない
――それが私の基本的なアプローチだ。
そして第二に、あらゆる人が私有財産をもつことを許されるべきだというのが、私の理解だ。
ただその隔たりは大きすぎるべきではない。
それは人間的な限界の範囲内であるべきだ。
国全体が豊かでありうる。
国家があらゆるものの唯一の所有者になる必要はない。
それはひとつの国にとって、起こりうるもっとも危険な事態だ。
なぜなら、国家にはすでに充分な権力があるからだ。
すべての軍隊、すべての法廷、すべての警察力、すべての法律、自分たちに都合のよいすべての判事たちをかかえながら、その上さらに国中のすべての財産まで国家権力の一部に加えようというのか?
そうなれば、国土全体が丸裸になり、「もう私たちには何もありません」という乞食同然の状態になってしまう。
そして国家はとてつもない怪物になってしまい、もはやそれを相手に闘うことすらできなくなる。
国家はその手のなかに可能なかぎり権力を集めてきた。
ロシアでは、すべての新聞は政府が発行している。
政府の政策を批判するいかなる記事も書くことはできない。
そんなものはけっして掲載されないだろうからだ。
もし書いたりしたら、あなたは鉄格子のなかに入れられることになる。
それが世に出ることはけっしてないばかりか、あなたもこの世からいなくなってしまう!
どんな本を出版することもできない。
なぜなら、何かを出版する権利をもっているのは政府だけだからだ。
その結果は明らかだ
――ロシア革命から60年、ただひとりのレオ・トルストイも、フョードル・ドストエアスキーも、ツルゲーネフも、チェーホフも、ゴーリキィも現われていない・・・これら5人の名前は、革命が起こる以前のものだ。
この5人は世界的に有名な小説家となった。
世界中から10篇の偉大な小説を選ぶとしたら、そのうちの5篇はロシアのものになる。
この5人の作品を除外するわけにはいかない。
そうするよりほかはない。
なぜなら彼らは最高傑作を生みだしているからだ。
そうした天才はどこへ消え失せてしまったのだろう?
この60年間で、ただ一篇の小説さえそれらの域にまでは達していない。
それは不可能だ。
なぜなら、〈個性〉が完全に破壊されてしまっているからだ。
今や政府の官僚たちが、どの小説が出版されるべきでどれが出版されるべきでないかを決定している。
ところがこの愚かな官僚たちには、繊細さのかけらもない。
彼らは詩人ではないし、小説家でもない。
彼らには創造性の微妙なニュアンスなど理解できない。
だが、今はその彼らに決定権が握られている。
最良のものが出版されないのはそのためだ。
ただ三流のものだけ!
なぜなら、彼らには三流のものしか理解できないからだ。
ほんの数日前、私の友人のひとりがデリーから私にこういう知らせをよこした。
「政府内部では、あなたの本はまず政府によって検閲されるべきで、あなたのテープも同様に検聞を受けるべきだという話が進んでいます。
検閲がすまないかぎり、それらが大衆に届くことは認可されないようにすべきだと」
私は彼にこう返事をした。
「彼らの好きなようにやらせておきなさい。
そうなれば彼らは、最高裁で私と面と向かわなければならなくなるだろうからね!」
それはだれが決めるのだろう
――その男の顔が見たいものだ
――私の本のなかで何が正しく、何がまちがっているかを決めるのはいったいだれなのだろう?
私は閣僚たちをみな知っているし、国会議員のほとんども知っている。
彼らにはそれだけの度量もなければ知性もない。
彼らのうちひとりとして、瞑想をしたことのある者はいない。
私の言っていることが正しいかまちがっているか、いったい彼らにどうやって決めることができるのか?
そのうち彼らは、科学者たちにも言いはじめるかもしれない。
「あなたの研究報告書は、公表される前に、まず政府の官僚たちによって正しいかまちがっているかを調べられねばなりません」
ところがこの政府の官僚たちには、いかなる科学の心得も、哲学の心得も、詩や音楽の心得もない。
もし、彼らに詩や科学や文学や哲学の心得があったなら、彼らは最初から官僚になどならなかっただろう!
それはこの世でいちばん醜い職業だ。政府の官僚であるということは、あなたが醜い機構の一部になってしまい、自分の魂を失ってしまっていることを意味している。
あなたは、もはや自分自身でものを考える独立した人間としては存在していない。
愛からの反逆、創造性からの反逆、瞑想性からの反逆
――それこそが私の希求、私の希望だ。
そしてそれはまた、全人類にとっての唯一の希望でもある。
私たちは、ゴータマ・ブッダのような人たちが反逆的になる道を拓かねばならない。
彼らの手のなかではじめて、権力は腐敗することがなくなる。
それどころか、彼らは権力を浄化することができる。
そして彼らの手のなかでのみ、人間の〈個性〉に安全が約束される。
なぜなら、彼らには人間の内と外の存在についての理解があり、人類を手助けすることができるからだ。
彼らはいかなる平等性も押しつけないが、あらゆる人に平等の機会を与える。
人が何になりたがろうとも、その人は平等の機会を与えられるべきだ。
そうであってはじめて、人はその潜在性、その才能、その天分を開花させることができる・・・ある人はバートランド・ラッセルのような人になるだろうし、ある人はラビンドラナート・タゴールのような人に、ある人はピカソのような人になるだろう。
そして確かに、生と〈存在〉を豊かにする人々には、より快適な生が与えられてしかるべきだ。
なぜなら、彼らはほかのだれにもできないようなやり方で貢献しているからだ。
彼らの貢献は独自であり、その独自性は尊重されるべきだ。
だがそれは、彼らの方がより優秀でより次元が高く、あなたの方が卑小で低次元だというのではない。
それはただ、私たちが人間についての基本的な事実を受け容れていることを意味するにすぎない
――あらゆる人はただ自分自身であり、ほかのだれとも等しくはない。
そして、彼にはある程度の私有財産も必要だ。
ちょうど衣服が必要なのと同じように。
中国で毛沢東が権力を握っていたとき、彼は人々に制服のみを着用することを強制した。
それはごく微妙なやりかたで〈個性〉を破壊する方法だった。
今や労働者がその制服を着用し、農夫がその制服を着用し、哲学者がその制服を着用し、神秘家がその制服を着用し、教授もその制服を着用している。
これはまったく正しいことではない。
なぜなら、衣服ですらあなたの〈個性〉を示すものだからだ。
あなたには自分の衣服を選ぶ自由が必要であり、政府がそれを決定すべきではない。
あなたは制服の着用を義務づけられる軍隊の一員ではない。
あなたは独立した個人だ。
平等性がその論理的極限にまで拡張されたなら、あらゆる人が同じ髪型にならざるをえない。
もしどこかの白痴が権力を握れば、おそらく・・・それに知性的な人々よりも、白痴たちが権力の座に着くことの方が可能性は高い。
なぜなら知性的な人々は、わざわざ群衆のなかに入り込んで、権力のために闘いたいとは思わないからだ。
それはそれだけの苦闘に値しない。
だが愚か者たちには、厚い面の皮と固い石頭がある。
愚か者だったら、人々が似通った鼻をもつことすら考えはじめるかもしれない。
ある人々には美しい顔があるのに、ある人々にはそれがない。
これは共産主義の、平等性を信じる社会には好ましくない。
だが、今では整形手術が可能になっている・・・だから、あるひとつの型をつくって、あらゆる人にその整形手術を受けさせるのだ。
生まれてくる子どもはすべてその整形手術を受け、まわり中が同じような顔つきになる。
はたしてそれは美しい社会だろうか?
そのような醜いやり方で人間を傷つけるのは正当だろうか?
私は、貧しい人々と富める人々という階級には反対だが、私有財産には大賛成だ。
その違いはあまり大きくなりすぎるべきではないが、差異というものも認められるべきだ。
そして国家は、土地財産のすべての所有者であるべきではない。
すでに政治家たちは必要以上の力をもっている。
彼らにさらにこれ以上の力を与え、彼らの掌中にすべての実権を握らせることは自殺的だ。
私の言う反逆者は瞑想者だ。
彼は平和を愛し、人々を愛し、人々の安寧を愛し、人々の自然な成長のためにあらゆることをする。
彼はいかなる理念も押しつけることはなく、ただあらゆる人が自分自身でいられるように助ける。
そのような反逆は、かつて起こったためしがなかった。
だが、今やその時だ
――その正しい時だ。
もしそれが起こらなかったら、私たちは、未来にもこの人間というものが存続してゆくその可能性すら、そのすべての希望すら失ってしまいかねない。
古い社会はすっかり腐りきって、今や死に絶えようとしている。
それが死んでしまう前に、私たちは新しい人類の種子をつくり出さなければならない。
私が反逆を力説するのは、それらの種子をつくり出すためであり、そうすればたとえ古いものが死んでも
――それは死なざるをえない、彼らは自らの死をつくり出してしまった
――新しいものがそれに取って代わることができる。
その新しい人間に、古い腐ったパターンを再びくり返さないよう、注意と〈気づき〉を促すことはできる。
古いパターンをくり返すことの方が容易だが、いったん注意深くなりさえすれば、人は二度と再び同じ過ちを犯すことはない。
同じ過ちを何度も犯すのは愚か者だけだ。
私は8回も結婚した男に会ったことがあるが、彼は私にこう愚痴をこぼしていた。
「私は一生をむだにしてしまった。
私は自分にふさわしい人を探してきたのだが、今だにその人を見つけ私られないでいる。
結局はどの女もみな同じさ」
私は言った。
「あなたは他の人たちのよい教訓になりますね」
「それはどういう意味かね?」彼はたずねた。
私は言った。
「私が言いたいのは、あなたは馬鹿の典型だということです。
ひとりの女性で充分だったはずです。
せいぜいふたり・・・せいいっぱいの可能性を試したとしても、三人がいいところです。
だがあなたは延々とそれをつづけてきて、そのたびに結局は同じところに突き当たってしまった。
8回だろうと80回だろうと、何の違いもありません。
なぜなら、あなたが同じままだからです。
人々の違いなどごく表面的なものにすぎません。
車の違いのようなものです。
ボンネットが違うし、ヘッドライトも違うけれど、基本的には同じメカニズム、同じエンジンです。
でも、運転手が同じ人間だったら、彼は何度でも何度でも溝に落ちるでしょう。
8回とはあんまりです!
あなたはとっくに運転をやめているべきでした。
運転の仕方を知らないんですからね」
彼は言った。
「そうかもしれない。でも、だれも私にそれを言ってくれなかった」
私は言った。
「あなたは自分自身で理解すべきだったのです。
人々はみんな自分自身の溝のなかであがいています。
だれがあなたのことなどかまうでしょう」
宗教的で精神的な反逆、暴力の炎から生まれるのではなく、愛と慈しみのかぐわしい香り、瞑想、注意深さや覚醒から生まれる反逆こそ、この美しい惑星を楽園へと変容させる唯一の可能性だ。
そう、あなたの言っていることは、まさに私がやろうとしていることだ。
あなたは言っている。
「あなたは最近、反逆者に関するあなたの洞察を語っておられますが、それでもなお、私がこの瞬間に私たちのまわりに感じる雰囲気は、とりわけソフトで、愛情にあふれ、しなやかです。
私には、これはあなたの魔法の一部であるように感じられます
――まるであなたが自らの存在を通して、反逆者は暴力や不幸からではなく、愛と歓喜の芳香から生まれてくるのだということを示しているかのように感じるのです」
まさにそのためにこそ、私は生きている。
まさにそのためにこそ、私はあなたがたに準備させているのだ。
『反逆のスピリット』(和尚ラジニーシ 著、めるくまーる刊)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体