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光明を得た反逆者が必要だ

反逆者と光明を得た人との違いはなんですか?
光明を得ていなくても、真の反逆者であることは可能でしょうか?

――――――――――――――

光明を得ていなくても、反逆者であることは可能だ。
また、反逆者ではないのだが光明を得ている、ということもありうる。
だが、どちらも中途半端だ。
何かが欠けている、何かごく本質的なものが。
それはほとんど死体のようなもので
――魂か失われている。

光明を得ていない反逆者は、盲目であり、無意識のなか、暗闇のなかに生きている。
彼は何が正しく何が正しくないのかを知らない
――彼にはヴィジョンの明断さがない。
彼は新しい人類の誕生のために、ほかの人々のハートを開け放つことができない
――彼自身がまだ生まれていないのだ。
彼の反逆性は、彼の頭脳のなかのある種の思考でしかない。

彼はひとりの革命的思想家、ひとりの哲学者かもしれないが、何がこの夜を終わらせるのか、どうすれば私たちは夜明けをもたらすことができるのかを、正確には知らない・・・どのように太陽は昇るのか、どのように小鳥たちは再びさえずるのか、どのように花々が開くのかを。
だが、彼は夢想し、考えることならできる。

私たちの過去には反逆者、偉大な反逆者であると認められていた多くの哲学者たちが存在した。
しかし彼らからは、一貫性がなく、非科学的な、非実用的で現実に変えることのできない、いくつかの美しい思想の断片以外、何ひとつ生まれてこなかった。

あなたがたも、哲学者についての定義を聞いたことがあるにちがいない
――哲学者とは、暗い夜に、明かりのない家で、だれも見たことのない黒猫を探している盲目の男のことだ。
だが、困ったことに問題はそこで終わってくれない
――なぜなら、黒猫を見つけたと言う哲学者がたくさんいるからだ!

彼らはその黒猫を描写した。
ほかにはだれもそれを見たことがないのだから、彼らの描写がまちがっていると言うことはあなたにはできない。
彼らはいかなる証拠も示せないかもしれないが、それはあなたにしても同じことだ!

それゆえに、何であれ、こうした盲目の哲学者たちが言いつづけていることは、反論されることのないまま受け容れられてしまう。

そして、それらが反論されないのには別の理由もある
――それは、体制がこうした反逆者たちと、その反逆的な思想のことをまったく心配していないからだ。
彼らは、そうした思想がシャボン玉以外の何ものでもないことを完壁によく承知している。
これらの反逆者たちは、深い眠りのなかでただただおしゃべりをしているだけなのだ。

ミックとジョーは、農場主にさんざんもてなしを受けて、イタリアの「ぶどう園ツアー」から家に帰るところだった。

「ミック、そろそろ町かい?」
とジョーがたずねた。

「ああ」ミックは答えた。
「きっとそうさ。跳ね飛ばす人の数が増えたからな」

「だったら、ゆっくり運転しろよ」とジョー。

「ゆっくり運転しろだって、何のつもりだ?」
ミックは言った。
「おまえが運転してるんだぜ」

光明を得ていない反逆者は、盲目の反逆者だ
――盲目であるばかりでなく、酔っぱらってもいる!

そして、彼の反逆性は一種の反動だ。
それが「反逆者」ということばの元々の意味だ
――何かに反対して闘うこと、抵抗すること。
彼は何かがまちがっていること、何かが破壊されなければならないことは理解できる
――自分の生は自由ではないから、きっと両足には鎖がつながれているはずだし、両手には手錠がかけられているにちがいない。
だからそれらは破壊されねばならない、と。
彼は自分を解き放たなければならない。
だが、そういったことはすべて憶測でしかない。

ひとつだけ確かなことがある
――それは彼が惨めさを知っているということ、苦しみを知っているということだ。
彼は自分の人間性がほとんど動物と同じレベルにまでおとしめられているのを、自分の誇りが傷つけられているのを、自分の尊厳が完全に抹殺されているのを知っている。
彼は少なくとも自分から奪い去られているものが何であるかに気づいているから、それに対抗して闘いをはじめる。
彼の反逆性は反動であり、否定的だ。
彼は何かに反対して闘っている、何かのために闘っているのではない。

私は「反逆者」ということばの意味に、辞書にはない肯定的な面もつけ加えたい。
辞書はみな例外なく、ただひとつの意味しか与えていない。
それは抵抗すること、反対して闘うことだ。

だが明断な洞察もないのに抵抗し、反対して闘うことに何の価値があるだろう。
あなたに未来のヴィジョンが、もっと喜びに満ちたよりよい未来のヴィジョンがないのだったら、いたずらに闘うことに意味はない。

しかし光明を得ていない反逆者は、その方法論において否定的なままだ。
それゆえに彼は〈半分〉にとどまる。

反逆的ではない光明の人もまた、その同じ意味において〈半分〉だ。
彼は達成されるべきものを知っているし、人間の可能性も知っている。
彼は、はるか彼方の栄光が人間に可能であることを知っている。

だが、彼には現存する社会、現存する隷属に対抗して闘い、未来と現在のあいだ、古い人類と新しい人類のあいだに横たわる、すべての障害と妨げに反対して闘うだけの用意がない。
そういったたぐいの光明の人が存在してきた。
そして彼らは崇拝されてきた
――伝統的で正統的で因習的な人々、古代の遺産に根ざしている古い人類によって。

光明を得た人にはよりよい未来、よりよい人間のヴィジョンがあるが、そのために闘うだけの度胸かない
――伝統的で因習的な社会の構造や、条件づけられ、堕落している古い精神に反対して闘うだけの度胸が。

なぜなら彼は、人々の寄付によって生計を立て、人々の敬意と賞賛と崇拝によって生きているからだ。
彼には人々から与えられた地位を放棄するだけの勇気がない。
腐った古い過去から聖人や賢者という称号をもらうことを忘れ、ただの何でもない人になるだけの勇気
――非難され、磔(はりつけ)にされることになろうとも、あくまでまちがったものに反対して闘い、正しいもの、すべての人々の祝福になるもののために闘うだけの勇気が・・・。

だから、この両者が存在してきた
――光明を得ていない反逆者と、光明を得てはいるが反逆的ではない賢明な人が。
私があなたがたにしっかりと理解して欲しいのは、人間は、光明を得ていると同時に反逆的でないかぎり、〈全体〉ではないということだ。
彼は未完成で、完全ではない。
何かが欠けている。

彼は何も欠けていない存在ほどには豊かではない。
私にとって「光明を得た人間」とは、反逆的な、全面的に反逆的な人間を意味する。
私のなかでは、反逆性と光明は、ほとんど同時に起こる現象、調和ある統合、有機的統一体と化している。
私があなたがたに、
「私は世界に新しい人間をもたらそうとしている」
と言うのはそのためだ
――新たな反逆者と新たな光明を得た存在が、ひとりの人間のなか、それぞれの個人のなかに統合されなければならない。

この統合が、今どうしても必要になっている。
過去には、完全に光明を得てはいるが反逆的ではない、ゴータマ・ブッダのような人がいた。
彼が磔にされるどころか、その時代の王や皇帝や学識者たちにすら崇められたのはそのためだ。
ゴータマ・ブッダが自分たちにとって危険な存在だなどという恐れは、当時の体制のなかにはまったくなかった。

私はバクーニン、ブカーリン、カミュについて話したことがある。
彼らはみな反逆的な思索家だったが、光明を得てはいなかった。
彼らもまた社会によって磔にはされなかった。
社会は、彼らのことばが無力であること、彼らが人々のハートに火をつけることができないことを承知していた。
人々は彼らの本を娯楽として読む。
彼らの著作に関するかぎり、それ以上は期待できない。
だからこそ、社会は彼らを容認したばかりでなく、彼らに敬意を払い、すばらしい賞をもって彼らに報いたのだ。

私の言う反逆者は、たんなる哲学者ではなく、実体験のある、目覚めた存在だ。
彼の現存そのものが、世界のあらゆる体制に脅威を与える。
彼の現存は、人間を奴隷にし、そのスピリットを破壊するあらゆるものへの挑戦となる。

彼の現存は、強大な権力を握っているすべての者たちを心底から恐れさせる
――なぜなら彼らは、もし人々から搾取できなくなったら、自分たちの権力か消えてしまうということを充分に承知しているからだ。
その権力の座は、人々を知恵遅れのままにとどめ、人々の知性を破壊し、人々が自分自身の〈個性〉、自分本来の顔をもつことを許さないようにしておくことによって維持されてきたのだ。

世界中に、反逆的な光明を得た人がほんの数人いるだけで、すべての権力の座は揺らぎはじめる。
私には、十字架にかけられているただひとりのイエスでなく、何千もの十字架にかけられているイエスたちが見える。
だが、彼らの死は世界中に新しい人類と新しい意識の復活をもたらすことになる。
彼らの生は、この世界を美しくするための途方もない貢献となり、彼らの死はさらに偉大な貢献となるだろう。
――人々は自らの尊厳、自らの人間性、自らの精神性を取りもどすだろう。

私たちには、何千もの十字架と、その十字架にかけられる何千ものイエスが必要だ。
そうなってはじめて、眠りこんでいる人類が
「そろそろ起き上がって何かをする時だ」と感じる可能性がある。


『反逆のスピリット』(和尚ラジニーシ 著、めるくまーる刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
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ゾルバのシエスタ(再び)

以前にアップした記事を我が身にあてはめて少し改編してみました。

あまりにナイスな小噺ですので再読して戴ければと存じます。

―――――――――――――――

メキシコ湾を望む小さな田舎町
 ―― 海岸に小さなボートが停泊している。

人の良さそうなメキシコ人の漁師が、楽しそうに小さな網に魚をとっている。
男は、年のころなら30代の半ば、働き盛りに見える。

採れた魚はなんとも生きがいい。

それを見ていたアメリカ人の旅行者が声を掛ける。
「美味しそうな魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの?」

漁師は答えた。
「なぁに、ほんのちょっとの時間だよ」

旅行者
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れただろうに。おしいなあ。」

漁師は
「これでいいんだよ。自分と自分の家族が食べるにはこれで十分さ」と。

「それじゃあ、あまった時間はいったい何をしているの?」
旅行者が聞くと

漁師は答える。
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それからわずかの時間だけ漁に出るんだ。

戻ってきたら子どもたちと遊んで、女房とシエスタ(昼寝・午睡)して・・・

夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって、ダンスもするよ。

たまにはエッチもね。

もちろん女房とだよ。

これが楽しみなんだ! エヘ、エヘ、エヘ。

あぁ、これでもう一日は終わりだね。」


すると旅行者は急にまじめな顔になり、漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBA経営管理学修士を取得した人間として、きみに素晴らしいアドバイスを贈ろう。

いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。
それであまった魚は売るんだ。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。
そうすると漁獲高は上がり、儲けも増えていく。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。
やがて大漁船団ができるまで頑張るんだ。

それで仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。

その頃にはきみは、メキシコ湾のこのチンケな村を出てメキシコシティに引っ越し・・・そして遂にロス、ニューヨークへと進出していくんだよ。
そうさ、きみはマンハッタンの摩天楼のオフィスビルから多国籍大企業の指揮をとるんだ。」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどのくらい時間がかかるのかね?」

「おそらく25年でそこまでいくね。
それまでは何事も辛抱だよ。」

「それからどうなるの?」

「それから?
きみ~、そのときは本当にすごいことになるよ!」

旅行者はにんまりと笑う。
「自社株を売却して、きみは億万長者になるのさ!」

漁師は不思議そうに尋ねた。
「それで何をするの?」

アメリカ人旅行者は我が事のように興奮して答えた・・・

「そうしたら引退して・・・・うん!

メキシコ湾の海岸近くの小さな村に住んで、

日が高くなるまでゆっくり寝て、釣りに出る。

戻ってきたら孫と遊んで、奥さんとシエスタ(昼寝・午睡)して・・・

夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって、ダンスもいいね。

残念だけど・・・もう出来ないだろうけれど、
たまにはエッチもね。もちろん奥さんとだよ。 エヘ、エヘ、エヘ。

ああ、こうして一日が過ぎていくんだ。

どうだ!
すばらしいだろう!!」

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感情や思考は愛ではない

この和尚の原理とほぼ同様の愛を語っているのは、やはりJ・クリシュナムルティ(『自我の終駕』)だ。
内容は概略同じであっても、クリシュナムルティには独特の語り口がある。

それを述べてみると、彼はまず愛ではないものを理解することによって、愛を発見していく。

なぜなら、愛は未知のもので、私たちは既知のものを捨てることによって、それに近づかなければならないからだ。
肯定的にではなく否定的に接近する。

私たちにとって愛とは何であるか。
それは私たちがその人間を所有するということを意味している。

所有によって人は物になってしまう。
その所有から嫉妬が生まれる。
なぜなれば、私たちは相手を失えば、空虚感を覚える。
そこで所有を合法化(独占化)してしまう。
このような独占することから、嫉妬や恐怖が出てくる。
従って所有は愛ではない。

言うまでもなく、愛は感情でもない。
感傷的になったり、感情に走るのは愛ではない。
なぜなら感傷や感情は単なる感覚に過ぎないからだ。

イエスやクリシュナ(インド教中もっとも多く信者を持つ神)や、あるいはグル(導師)のことで涙を流す人間は、ただ涙もろく、感傷的であるに過ぎない。
そういう人は感情に溺れている。

そしてこの感情というのは思考のプロセスの意であり、思考は愛ではない。
思考は感情の結果だ。

ところで私たちはたいてい感傷的で、感情的ではないだろうか。
感傷性や感情性は一種の自己拡大に過ぎない。
多感であることは決して愛ではないのだ。

なぜなら感傷や感情の人は自分の表現に反応がないと、他者に対したちまち残酷になれる。
これでは愛はない。

それでは寛容は愛か。
また寛容とは何か。
例えばあなたが私を侮辱する。
すると私は腹を立てる。

しかしその後に後悔して「私はあなたを許します」と言うと、これはどう意味だろう。
それは相変わらず「私」が中心人物ということだ。
まだ「私」が重要であって、相手を許すのは同じ「私」だ。
重要なのは「私」であって、相手ではない。

このような状態は愛とは呼ばない。
愛している人間は憎しみを持たず、こんなことに無頓着だ。

同様に同情、所有、嫉妬は、すべて愛ではない。
これらは皆精神という領域に属する。
精神が仲裁者である限り、愛はない。

というのは精神は所有欲を通してのみ仲裁するからだ。
この仲裁は所有欲が形を変えただけのことだ。
精神は愛を堕落させることしかできない。
精神は愛を生むことはできないし、美を与えることもできない。

明らかにほんとうの尊敬がない時、愛は存在しない。
あなたは普通自分以下の者には、関心がない。
自分以上の人を尊敬している。
自分以下には乱暴な口をきくということで、尊敬がない時には愛が存在しない。
また慈悲や憐憫や寛大がないところには、愛はない。

私たちの大部分がこういうふうなので、私たちには愛がないのだ。

このようなものがすべて停止した時、あなたが所有しない時、あるいは一つの対象に愛着を持ったり、感情に走らない時、その時にのみあなたは愛を知ることができる。
愛着というものは懇願と同じであり、それとは違った形で何かを求めているのだ。
従って懇願する人は愛を知らない。
あなたは所有欲が強く、愛着や懇願(このためにあなたは感傷的で感情的になるのだ)を通して結果を求めているために、そこには愛がないのだ。

繰り返すと尊敬や慈悲のないところには、愛はない。
あなたは持っているというかもしれないが、それは何らかの利益を当てにしている時に、あなたは寛大になり、またお返しを当てにできる時に、慈悲深くなるのだ。

あなたがほんとうの尊敬や慈悲の気持ちを持った時、その時こそほんとうの愛が得られるのだ。
そしてこの愛だけが、現代の世界に見られる狂気や愚行を変革することができるということだ。

愛を考えたり、教化したり、実践したりすることはできない。
愛は状態であって「すること」ではない。

同胞愛の実践も、依然として精神の領域のことであり、愛ではありえない。
こういうことがすべて止まった時に愛が現れるのだ。
その時愛は量ではなく、質の問題だ。
あなたは「世界を愛している」などとは言わない。
しかしあなたが一人の人間を愛することを知った時、あなたはすべてのものを愛する方法がわかるのだ。

私たちは一人を愛する方法を知らないため、私たちの人間愛というものは嘘になってしまうのだ。

あなたが愛している時には一も多もないのだ。
ただ愛があるだけだ。
私たちの抱えているすべての問題が解決されるのは、愛がある時に限るのだ。


『和尚の超宗教的世界』(玉川信明 著、社会評論社刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

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人はなんで生きるか

「人はなんで生きるか」は、レフ・トルストイがロシアに古く伝わる民話や伝説に材を取った改作群の中で、最も有名な作品の一つ。

一人の貧しい靴屋が礼拝堂の壁にもたれた素っ裸の男を拾った。
その男、ミハイルは、綺麗な体と優しくかわいらしい顔をしているが素性を明かさない。
靴屋の家に引き取った後、ミハイルは何処へも出ず、余計な口も利かず、寡黙に仕事をこなし、5年経っても笑顔をたった2度見せただけだった。

ある日、客として来た婦人と2人の女の子の話を聞いて、ミハイルは3度目に笑った。

そして婦人達が暇を告げた後、靴屋の家族に語る。
神に与えられた
「人間の中にあるものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか」
という三つの命題の回答を得られた旨、天使である自分が神の罰を受けた経緯を話してミハイルは天に昇る。
家には靴屋の家族だけが残された。
           ――― ウィキペディア より

―――――――――――――――――――――――――――――

ある日、神様は天使ミハイルに、一人の死にそうな女の魂を天国に連れて来るよう命じます。
しかし、その女は生まれたばかりの双子の女の子を抱えており、しかも夫は死んでいました。

ミハイルは、この女と双子の女の子の境遇を慮(おもんぱか)ると可哀そうになり、魂を取らずに天国に帰ってしまいます。

神は命令に背いた天使ミハイルを人間に堕として、3つの問題が解けるまでは天に帰さない言います。

「人の中には何があるか。」

「人には何が与えられていないか。」

「人は何によって生きるか。」

ミハイルは翼をもがれて地面に落ちてしまいました。
冬の寒い中、裸で凍え、飢え、死ぬ寸前です。

そこに、貧しい靴屋が通りかかります。
通り過ぎようとしましたが、かわいそうになり、靴屋はこの男にコートを着せ、靴を履かせて自分の家に連れ帰りました。

靴屋の妻は、食うや食わずの生活の中、夫が宿無しの男を連れてきて怒りましたが、男が哀れに思え、もてなします。

ミハイルは、この夫妻に神が宿っているのを見て取り、最初の言葉の意味がわかります。

「人の中に愛がある!」

天使はそれから靴屋の家に住み込んで働きました。
1年経ったある日、裕福な地主の男が来て、1年たってもゆがまず、破れない長靴を注文しました。

しかし、その地主の背後には仲間の天使がいて、今晩にも魂が召されることがわかりました。
でも、人間にはそのことがわからないのです。

天使は2つめの言葉の意味がわかりました。

「人には自分に何が必要なのか知る力が与えられていない!」

6年目に一人の女が双子の女の子を連れてやった来ました。

ミハイルは驚き、懐かしさでいっぱいになりました。
その女の子たちは6年前に死んだ、あの女の子供たちだったのです。

母親が死んだので近所の女がその女の子を引き取って育てていたのでした。

双子の女の子を育てた経緯をその女から聞き知ったとき、ミハイルは3つ目の問題が解けました。

「人は誰でも与え合う愛によって生きている!」

「人は神から与えらえている愛によってお互いに助け合いながら生きている!」

ミハイルの全身は光に覆われ輝き出しました。
肩には翼が生えています。

「ありがとうございます。
私はあなたがたの優しい心遣いで助かったのです。」

ミハイルはそういいながら静かに天に帰っていきました。


                 究魂 拝

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そんなものは存在しない

不幸やら幸福などというものは存在しない。

有るのは周囲に押し付けられた不幸感、幸福感という、
個的・論理的と思わされている感想・観念だ。

それは人間集団の社会意識によって捏造された幻想だ。


屈辱、優越もしかり、存在しない。

屈辱感、優越感という社会的に押し付けられた感想・観念だ。


成功、失敗もしかり、存在しない。

成功感、失敗感という社会的に押し付けられた感想・観念だ。


アゲハ蝶もゴキブリも白鳥もミミズも、不幸感やら幸福感やら屈辱感やら優越感やら成功感やら失敗感は持たない。

彼らはただ彼らで在るだけだ。

彼らはただ自らの存在のダンスを踊り続けるだけだ。



                 究魂 拝

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観察者とは

問題:

今日テストを返されたとき私は0点でした。

私は心の中で半ベソをかきながらも誰にも見られないよう、机に入れました。

誰にも絶対に見られていません。

でも0点を取った事を知っているのは、私と先生の他にもいます。

さあ、誰でしょう。




答:

0点を取った事を知っているのは・・・・

この問題を読んだ 「あなた」 です。

「あなた」は、事件、事故、出来事、

事象、物象、心象、現象、形象に巻き込まれることなく、

ただ超然と観ている 「私」 の 「観察者」 なの
です。

          究魂 拝

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愛と瞑想からの反逆

あなたは最近、反逆者に関するあなたの洞察を語っておられますが、それでもなお、私がこの瞬間に私たちのまわりに感じる雰囲気は、とりわけソフトで、愛情にあふれ、しなやかです。
私には、これはあなたの魔法の一部であるように感じられます
――まるであなたが自らの存在を通して、反逆者は暴力や不幸からではなく、愛と歓喜の芳香から生まれてくるのだということを示しているかのように感じるのです。

――――――――――――――

暴力から生まれ出る反逆者たちは、最終的にはまったく反逆的でないことが証明される。
権力を手に入れた瞬間に、彼らの反逆性は消え失せてしまう。
彼らは自分たちが追い出した者たちと同じほど醜くなる。

なぜなら、暴力を通じて愛の花をもたらすことはできないからだ。
毒の種をまいておきながら、その花が毒以外のものになることを望むことなどできはしない。

過去における最大の悲劇は、安らかで、愛情深く、静かで喜びにあふれた人たちが反逆者ではなかったことだ。
彼らには、愛や慈悲や喜びからの反逆が可能になることなど思いもよらなかったのだ。
彼らのヴィジョンは、その未来の可能性を見抜くほどには明晰ではなかった。
だから愛情深い人々、平和的な人々、宗教的で祈りに満ちた人々は、反逆者になる代わりにただの逃避主義者になってしまった。
それは彼らにとっては反逆の代用品だった。
彼らは安らかで、静かで、至福に満ちた生を送るために、山々や森に逃避した。

ある意味で、彼らは確かに身勝手だったといえる。
彼らは自分たちが見棄てた人たちのことを、けっして考えなかったからだ。
彼らの慈しみはそれほど大きくはなかったし、その安らぎはそれほど強くはなかった
――彼らはかき乱されることを恐れていた。
その愛はそれほど偉大ではなかった
――反逆の炎のなかで焼かれるのを恐れていたのだ。

そして一方には反逆者たちがいたが、彼らは安らかではなく、静かでもなく、歓喜など想像したこともない人たちだった。
彼らは瞑想について何ひとつ知らなかった。
彼らには自分のハートとの触れ合いがなかった。
その反逆は、たんに自我の反動にすぎなかった。
彼らはあらゆる搾取や抑圧、体制がほかの人間たちに加えてきたすべての非人間的行為に怒り、憤慨していた。
彼らは自分の怒りから、自分の暴力、自分の激怒から反逆した。
だから、反逆の資格のない者たちが反逆し、ほんとうに反逆の資格のある者たちは逃避していたということになる。

暴力と怒りに満ちた人たちは成功した。
が、彼らは反逆を経験するうちに、ますます暴力に慣れ親しむようになり、権力が彼らの手中に収められたとき、その権力は暴力的な人々の手に握られることになった。
彼らがその権力をよりいっそうの暴力に使ったのは当然のことだ。
今や彼らには、可能なかぎり多くの人々を殺戮(さつりく)するたいへんな機会が与えられていた。

ときとして、彼らは無差別の殺戮を行なった。
ソビエト連邦では、スターリンが少なくとも百万人の人々を虐殺した
――だがこれら百万の人々は、彼が反逆した金持ちたち、その反逆全体がもくろまれた当の相手ではなかった。
彼らは貧しい人々であり、彼らにとってこの反逆全体は、よりよい未来を約束し、希望を与えてくれるはずのものだった。
では、なぜ彼らは殺されたのか?
その理由は愚かきわまりない。

共産主義は私有財産があるべきではないと信じるが、人々は権力をもつと人間の現実に対してまったく目か見えなくなる。
たとえば、私有財産は少数の者たちにのみ集中されるべきではなく、そのことで何百万もの人々が貧困を強いられるべきではない、というのは真実だ。
ここまでは、共産主義はまったく正しい。
だが、私有財産を完全に廃止するというのは、きわめて反心理学的で不自然な考え方だ。

そのことは理解されなければならない・・・私有財産はあなたに一定の〈個性〉、一定のアイデンティティ、一定の自由を与える。
もしすべての私有財産が取り払われ、いかなる個人的所有物もなしにすっかり丸裸にされてしまったら、あなたは自分からすべての自由、すべての〈個性〉、反逆するすべての能力が奪われてしまったことに気づいて驚くだろう。
あなたはある種のやり方で殺されてしまったのだ。

私有財産が取り上げられただけではなく、あなたもまたおしまいになってしまった。
マルクスには心理学的な洞察がなかった。彼は人間の心理的・精神的な体験に関して完全に盲目だった。
彼の方法論のすべては、純粋に経済学的なものだった

――だが人間は、たんなる金銭ではない。
人間ははるかにそれ以上のものだ。
人間はたんなる所有物ではなく、はるかにそれ以上の存在だ。
しかし、〈個性〉というものに関するかぎり、所有物にもそれなりの価値がある。

私のビジョンでは、正しい共産主義は、あらゆる人が私有財産をもてるようにするためにこそ、私有財産の小数への集中をなくす。
だれひとり極端に豊かな者はおらず、だれひとり極端に貧しい者もいない。
金持ちはいなくなり、貧乏人もいなくなり、中産階級だけが唯一の階級となる。
そして人々は、ほとんど同等の私有財産をもつようになる。
私は、ほとんどと言っている。
なぜなら、人間は数学的な観点から扱われるべきではないからだ。
いくらかのおおらかさも必要だ。
ある人は少し多めにもっているかもしれないし、ある人は少し少なめにもっているかもしれない。
が、それはかまわないし、だれもそれで傷つくことはない。
人によっては必要かもしれない・・・医者には自家用車が必要かもしれない。
それは彼の仕事の一部であり、彼から自家用車を取り上げてしまうことは、医者という職業にとって必要不可欠なものを奪い取ってしまうことになるからだ。

だから、この多くをもたない何百万もの貧しい人々
――ある人は二頭の牛をもち、ある人は一頭の馬をもち、ある人は何羽かのめんどりをもち、またある人は小さな土地をもっていた・・・。
だが、共産主義者たちの盲目的な数学的・経済学的頭脳
――それは全権力が手に入ったとき、よりいっそう盲目的になった
――は人々からあらゆるものを奪い去りはじめた。
自分たちの食料すら充分には取れない小さな一片の土地。
だが、それが彼らの所有するすべてだった。
それは彼らが先祖代々から受け継いできたものだった。
それすらも失ってしまった彼らは、突然、自分たちが丸裸になっているのに気がついた
――まるで身ぐるみを剥がれてしまったかのように。

彼らの家もたいしたものではなく、けっして宮殿と呼べるような代物ではなかった。
彼らは牛や馬たちと同じ屋根の下に住んでいた
――それは家というより家畜小屋に近かった。
が、それすらも取り上げられた。
あらゆるものが国の所有物になってしまった。
そしてこれらの貧しい人々
――彼らのためにこそ革命はなされたはずだった
――はわけがわからなかった。
いったいこれはどういう種類の革命なのだ

彼らは自分たちの貧困が消え失せて、もっと豊かになるものとばかり思っていたのだ。
しかし反対に、彼らがそれまでもっていたものすらもなくなってしまった。
今や彼らは乞食と同じだった。

生産手段のすべてが国家に掌握されるようになり、権力の座にあった人々は今やはじめて、二重の権力をもつようになった
――政治権力と経済的実権のすべてを。
それまでは、それは分割されていた。
経済的実権は金持ちたちが握り、政治権力は政治家たちが握っていた
――いくらかの分割があった。
が、今や権力はすっかり全体主義的になってしまった。
権力のすべてが、支配者である人々の手に集中するようになったのだ。

教育も受けていない貧しい人々には理解できなかった
――これは何という平等だろう?
彼らはあらゆる人を貧しく、平等に貧しくしているのだろうか?
革命は、こんな平等のためにわざわざ闘われたのだろうか?
そしてこれらの人々は、自分たちの鶏、自分たちの一片の土地、自分たちの小さな家、自分たちの馬や牛を供出することに逆らったがゆえに・・・反抗したがゆえに、いとも簡単に殺されてしまった。

暴力からは、さらにより多くの暴力が生まれるだけだ。

それら百万の人々は下層中の最下層だった。
革命は貧しい人々を虐殺した。
それは盲目的な革命であり、それはそうなって当然だった。
なぜなら、革命家たちにはいっさい慈悲という考えがなかったし、人類に対する愛もなく、精神性の体験もなかったからだ。
彼らはその美しい空間からやって来たのではなかった。
彼らはよりよい人間性のために闘っていたのではなかった。
彼らは怒りゆえに体制を破壊することに関心があったにすぎない。
その怒りのなかにあったのは嫉妬であり、羨望だった
――すベてのまちがったものがそこにはあった。

私の努力は、反逆者と探求者(サニヤシン)とのあいだに大いなる統合をもたらすことだ。
サニヤシンは逃避者であるべきではない。
彼は自分の愛を育て、自分の慈しみを充分に強くし、自分の歓喜を深く根づかせ、それを中心の定まった円熟したものにすべきだ。
そしてこの愛に満ちた空聞から反逆するべきだ。

その反逆において彼は、基本的に、体制を破壊することにではなく、新しい世界を創造することに関心をもつ。
その焦点は新しい世界、新しい人類、新しい価値をもった新しい人間性を創造することにある。
新しいものを創造するために、彼は古いものを壊さなければならない
――だがそれは怒りからではなく、あくまで必要性からだ。

そして彼は、人々に知的な考えを押しつけるのは危険だということを理解していなければならない。

あなたはまず人々の心理を理解し、それに従ってあなたの反逆が形づくられなければならない。
その反対であってはいけない
――人々をあなたの反逆の観念の鋳型にはめてはならない。

人間はけっして、いかなる理念のためにも犠牲にされるべきではない。
すべての理念は、人間のために用いられるべきだ。

人間心理を研究すれば、確かに人々のあいだの大きな隔たりは醜い社会をつくり出すといえる。

ほんの数日前、私はこういう報告を受けた。
インドには真に豊かな人々はわずかに15人しかいない
――九億の民をかかえる国で、真に豊かな人々がわずかに15人!
つまり、九億の人々のすべての富が搾取されてきたということだ。
彼らの労働、彼らの全生涯は、わずか15の家族によって吸い取られてきた。
この不均衡は非人間的だ。
なぜなら、生産する者は飢えているのに、寄生虫たちは、自分たちには何の役にも立たない金を集めつづけているからだ。
金は飢えで死にかけている人たちには有用だ
――そして彼らこそ生産者なのだ。

これら15の豊かな家族は働くことをしないし、生産もしない。
彼らはただ、いかにして生き血を吸い取るかということについて狡知にたけているだけだ。
彼らはタコのようにその触手を伸ばし、何百万もの人々の生き血を吸っている。
千とひとつの道を通って、すべての金が静かに音もたてずに彼らのふところに入ってゆく。
これを聞いたらあなたがたも驚くかもしれないが、ボンベイ市には全国の金の半分が流入している。

奇妙なことだ・・・国中が働いているのに
――人々は田畑で、農園で、工場で働いている
――だが、どこかに何らかの策略かあって、金はボンベイに向かって動きつづける。
全国の半分の金がたったひとつの都市に!

これは許しがたいことだ
――だが、人はそのことに腹を立てるべきではない。
それが許しがたいのは、それが非人間的なことであり、人々の愛、人々の慈しみ、人々の優しさを破壊しているからだ。
それはあらゆるたぐいの犯罪を生みだしている。
貧困はあらゆる犯罪の母だ。

なんと奇妙な世の中なのだろう。
あなたはまず人々を貧しくしておいて、彼らに犯罪者になるように強い、それからあなたがたの法廷や警察や裁判官が彼らを処罰する。
まず最初に彼らは搾取されて、それから犯罪者として罰せられる。

真の犯罪者は、これら全国の富を搾取した15の家族だ。
しかし、彼らが罰せられることはけっしてない。
なぜなら彼らは、あなたがたの判事すべてを買収できるし、あなたがたの政治家全員を買収できるからだ。
彼らはすでにあなたがたの政治家をすべて掌中におさめている。
政治家は、選挙のための何百万ルピーという資金をどこから調達するのだろう?
それが貧しい人々から来ることはありえない。

それに政治家に何百万ルピーも与えるような人々は、それを慈善行為で与えているわけではない。
もし百万ルピーを与えるなら、彼らはその政治家から少なく見積っても五千万ルピーは得るだろう。
政治家が権力を握ったとき、あらゆる認可は彼を権力の座に導いた人々のところへゆく。

これらの政治家たちはみな、ある資本家グループの、あるいはほかの資本家一族の奴隷だ。
彼らは貧しい人々に、よりよい未来を約束しつづけるが、そんな未来などやって来ないことを彼ら自身がいちばんよく知っている。
なぜなら、政治家たちはまずはじめに、自分たちに与えられた金を返さなければならないからだ。
彼ら自身が奴隷なのだ。

この状況は醜い。
この構造が変えられなければならないことは確かだ。
しかし、その変革は、苦しみを受けているすべての人々への愛と慈しみからのものであるべきだ
――すべての金を握っている、すベての贅沢品を所有している、それら少数の者たちに対する怒りや羨望、嫉妬からのものであってはならい。

それはどこに焦点があるかの問題だ
――あなたは貧しい人たちのために闘っているのだろうか?
それともあなたは、自分がその15家族の一員ではないことに嫉妬して闘っているのだろうか?
あなたにこの構造に対して反逆することを促しているのは、あなた自身の嫉妬、羨望、怒り、暴力だろうか?

もしそちらの方が実情なら、権力の座に着いたあなたは、よりいっそう危険な存在になるだろう。
なぜならそのとき、あなたは自分に可能なかぎりの復讐を試みるだろうからだ
――それも徹底的に。

だが、あなたの革命が人類の苦しみを見てきたがゆえのものなら、あなたはあらゆる人に成長するための平等の機会を与える構造をつくり出すだろう。
だが、平等という考えを押しつけることはしない。
なぜなら、平等というものはそもそもありえないからだ。
それは心理学的にも、実存的にもありえない。

バートランド・ラッセルはあくまでバートランド・ラッセルであり、彼のような人にもっと楽な生活が与えられるなら、その方がずっといい
――その貢献は実に偉大なものであり、彼のような人にはできるかぎり快適な生活が与えられるべきだ。

アルバート・アインシュタインはあくまでアルバート・アインシュタインであり、彼は世界のほかのだれとも等しくはない。
だれひとり自分は彼と同等であると名乗りを上げられる人はいない。
彼に平等性を強いるのはただただ馬鹿げている
――彼の仕事は特別なものであり、彼の才能は特異なものだ。
彼を引き降ろしてはならないことは明らかだ
――彼は店主ではないし、人夫でもない。
彼は店主になるよう強いられるべきではないし、もしそうなったら、それは人類の進化全体にとって途方もない損失となる。
彼は人夫になることを強いられるべきではない。
ほかのだれも彼に取って代わることはできないのだから。

ほかのだれが相対性理論をつくるだろう?
ほかのだれが、私たちに原子力エネルギーの途方もない力を与えてくれるだろう?
政治家たちがそれを、人間を破壊することに使いつづけてきたのは不幸なことだ。
しかし、アルバート・アインシュタインにその責任はない。
その同じエネルギーは、人間をより豊かにより健全にし、世界をより美しくするためにも使うことができたはずなのだから。

人間は等しくはない
――それが私の基本的なアプローチだ。
そして第二に、あらゆる人が私有財産をもつことを許されるべきだというのが、私の理解だ。
ただその隔たりは大きすぎるべきではない。
それは人間的な限界の範囲内であるべきだ。

国全体が豊かでありうる。
国家があらゆるものの唯一の所有者になる必要はない。
それはひとつの国にとって、起こりうるもっとも危険な事態だ。
なぜなら、国家にはすでに充分な権力があるからだ。
すべての軍隊、すべての法廷、すべての警察力、すべての法律、自分たちに都合のよいすべての判事たちをかかえながら、その上さらに国中のすべての財産まで国家権力の一部に加えようというのか?
そうなれば、国土全体が丸裸になり、「もう私たちには何もありません」という乞食同然の状態になってしまう。
そして国家はとてつもない怪物になってしまい、もはやそれを相手に闘うことすらできなくなる。

国家はその手のなかに可能なかぎり権力を集めてきた。
ロシアでは、すべての新聞は政府が発行している。
政府の政策を批判するいかなる記事も書くことはできない。
そんなものはけっして掲載されないだろうからだ。
もし書いたりしたら、あなたは鉄格子のなかに入れられることになる。
それが世に出ることはけっしてないばかりか、あなたもこの世からいなくなってしまう!

どんな本を出版することもできない。
なぜなら、何かを出版する権利をもっているのは政府だけだからだ。
その結果は明らかだ
――ロシア革命から60年、ただひとりのレオ・トルストイも、フョードル・ドストエアスキーも、ツルゲーネフも、チェーホフも、ゴーリキィも現われていない・・・これら5人の名前は、革命が起こる以前のものだ。
この5人は世界的に有名な小説家となった。
世界中から10篇の偉大な小説を選ぶとしたら、そのうちの5篇はロシアのものになる。
この5人の作品を除外するわけにはいかない。
そうするよりほかはない。
なぜなら彼らは最高傑作を生みだしているからだ。

そうした天才はどこへ消え失せてしまったのだろう?
この60年間で、ただ一篇の小説さえそれらの域にまでは達していない。
それは不可能だ。
なぜなら、〈個性〉が完全に破壊されてしまっているからだ。
今や政府の官僚たちが、どの小説が出版されるべきでどれが出版されるべきでないかを決定している。
ところがこの愚かな官僚たちには、繊細さのかけらもない。
彼らは詩人ではないし、小説家でもない。
彼らには創造性の微妙なニュアンスなど理解できない。
だが、今はその彼らに決定権が握られている。
最良のものが出版されないのはそのためだ。
ただ三流のものだけ!
なぜなら、彼らには三流のものしか理解できないからだ。

ほんの数日前、私の友人のひとりがデリーから私にこういう知らせをよこした。
「政府内部では、あなたの本はまず政府によって検閲されるべきで、あなたのテープも同様に検聞を受けるべきだという話が進んでいます。
検閲がすまないかぎり、それらが大衆に届くことは認可されないようにすべきだと」

私は彼にこう返事をした。
「彼らの好きなようにやらせておきなさい。
そうなれば彼らは、最高裁で私と面と向かわなければならなくなるだろうからね!」

それはだれが決めるのだろう
――その男の顔が見たいものだ
――私の本のなかで何が正しく、何がまちがっているかを決めるのはいったいだれなのだろう?
私は閣僚たちをみな知っているし、国会議員のほとんども知っている。
彼らにはそれだけの度量もなければ知性もない。
彼らのうちひとりとして、瞑想をしたことのある者はいない。
私の言っていることが正しいかまちがっているか、いったい彼らにどうやって決めることができるのか?

そのうち彼らは、科学者たちにも言いはじめるかもしれない。
「あなたの研究報告書は、公表される前に、まず政府の官僚たちによって正しいかまちがっているかを調べられねばなりません」

ところがこの政府の官僚たちには、いかなる科学の心得も、哲学の心得も、詩や音楽の心得もない。
もし、彼らに詩や科学や文学や哲学の心得があったなら、彼らは最初から官僚になどならなかっただろう!

それはこの世でいちばん醜い職業だ。政府の官僚であるということは、あなたが醜い機構の一部になってしまい、自分の魂を失ってしまっていることを意味している。
あなたは、もはや自分自身でものを考える独立した人間としては存在していない。

愛からの反逆、創造性からの反逆、瞑想性からの反逆
――それこそが私の希求、私の希望だ。
そしてそれはまた、全人類にとっての唯一の希望でもある。

私たちは、ゴータマ・ブッダのような人たちが反逆的になる道を拓かねばならない。
彼らの手のなかではじめて、権力は腐敗することがなくなる。
それどころか、彼らは権力を浄化することができる。
そして彼らの手のなかでのみ、人間の〈個性〉に安全が約束される。
なぜなら、彼らには人間の内と外の存在についての理解があり、人類を手助けすることができるからだ。

彼らはいかなる平等性も押しつけないが、あらゆる人に平等の機会を与える。
人が何になりたがろうとも、その人は平等の機会を与えられるべきだ。
そうであってはじめて、人はその潜在性、その才能、その天分を開花させることができる・・・ある人はバートランド・ラッセルのような人になるだろうし、ある人はラビンドラナート・タゴールのような人に、ある人はピカソのような人になるだろう。

そして確かに、生と〈存在〉を豊かにする人々には、より快適な生が与えられてしかるべきだ。
なぜなら、彼らはほかのだれにもできないようなやり方で貢献しているからだ。
彼らの貢献は独自であり、その独自性は尊重されるべきだ。

だがそれは、彼らの方がより優秀でより次元が高く、あなたの方が卑小で低次元だというのではない。
それはただ、私たちが人間についての基本的な事実を受け容れていることを意味するにすぎない
――あらゆる人はただ自分自身であり、ほかのだれとも等しくはない。
そして、彼にはある程度の私有財産も必要だ。
ちょうど衣服が必要なのと同じように。

中国で毛沢東が権力を握っていたとき、彼は人々に制服のみを着用することを強制した。
それはごく微妙なやりかたで〈個性〉を破壊する方法だった。
今や労働者がその制服を着用し、農夫がその制服を着用し、哲学者がその制服を着用し、神秘家がその制服を着用し、教授もその制服を着用している。
これはまったく正しいことではない。
なぜなら、衣服ですらあなたの〈個性〉を示すものだからだ。
あなたには自分の衣服を選ぶ自由が必要であり、政府がそれを決定すべきではない。

あなたは制服の着用を義務づけられる軍隊の一員ではない。
あなたは独立した個人だ。

平等性がその論理的極限にまで拡張されたなら、あらゆる人が同じ髪型にならざるをえない。
もしどこかの白痴が権力を握れば、おそらく・・・それに知性的な人々よりも、白痴たちが権力の座に着くことの方が可能性は高い。
なぜなら知性的な人々は、わざわざ群衆のなかに入り込んで、権力のために闘いたいとは思わないからだ。
それはそれだけの苦闘に値しない。
だが愚か者たちには、厚い面の皮と固い石頭がある。

愚か者だったら、人々が似通った鼻をもつことすら考えはじめるかもしれない。
ある人々には美しい顔があるのに、ある人々にはそれがない。
これは共産主義の、平等性を信じる社会には好ましくない。

だが、今では整形手術が可能になっている・・・だから、あるひとつの型をつくって、あらゆる人にその整形手術を受けさせるのだ。
生まれてくる子どもはすべてその整形手術を受け、まわり中が同じような顔つきになる。
はたしてそれは美しい社会だろうか?
そのような醜いやり方で人間を傷つけるのは正当だろうか?

私は、貧しい人々と富める人々という階級には反対だが、私有財産には大賛成だ。
その違いはあまり大きくなりすぎるべきではないが、差異というものも認められるべきだ。
そして国家は、土地財産のすべての所有者であるべきではない。
すでに政治家たちは必要以上の力をもっている。
彼らにさらにこれ以上の力を与え、彼らの掌中にすべての実権を握らせることは自殺的だ。

私の言う反逆者は瞑想者だ。
彼は平和を愛し、人々を愛し、人々の安寧を愛し、人々の自然な成長のためにあらゆることをする。
彼はいかなる理念も押しつけることはなく、ただあらゆる人が自分自身でいられるように助ける。
そのような反逆は、かつて起こったためしがなかった。
だが、今やその時だ
――その正しい時だ。
もしそれが起こらなかったら、私たちは、未来にもこの人間というものが存続してゆくその可能性すら、そのすべての希望すら失ってしまいかねない。
古い社会はすっかり腐りきって、今や死に絶えようとしている。
それが死んでしまう前に、私たちは新しい人類の種子をつくり出さなければならない。

私が反逆を力説するのは、それらの種子をつくり出すためであり、そうすればたとえ古いものが死んでも
――それは死なざるをえない、彼らは自らの死をつくり出してしまった
――新しいものがそれに取って代わることができる。
その新しい人間に、古い腐ったパターンを再びくり返さないよう、注意と〈気づき〉を促すことはできる。
古いパターンをくり返すことの方が容易だが、いったん注意深くなりさえすれば、人は二度と再び同じ過ちを犯すことはない。
同じ過ちを何度も犯すのは愚か者だけだ。

私は8回も結婚した男に会ったことがあるが、彼は私にこう愚痴をこぼしていた。
「私は一生をむだにしてしまった。
私は自分にふさわしい人を探してきたのだが、今だにその人を見つけ私られないでいる。
結局はどの女もみな同じさ」

私は言った。
「あなたは他の人たちのよい教訓になりますね」

「それはどういう意味かね?」彼はたずねた。

私は言った。
「私が言いたいのは、あなたは馬鹿の典型だということです。
ひとりの女性で充分だったはずです。
せいぜいふたり・・・せいいっぱいの可能性を試したとしても、三人がいいところです。
だがあなたは延々とそれをつづけてきて、そのたびに結局は同じところに突き当たってしまった。
8回だろうと80回だろうと、何の違いもありません。
なぜなら、あなたが同じままだからです。
人々の違いなどごく表面的なものにすぎません。
車の違いのようなものです。
ボンネットが違うし、ヘッドライトも違うけれど、基本的には同じメカニズム、同じエンジンです。
でも、運転手が同じ人間だったら、彼は何度でも何度でも溝に落ちるでしょう。
8回とはあんまりです!
あなたはとっくに運転をやめているべきでした。
運転の仕方を知らないんですからね」

彼は言った。
「そうかもしれない。でも、だれも私にそれを言ってくれなかった」

私は言った。
「あなたは自分自身で理解すべきだったのです。
人々はみんな自分自身の溝のなかであがいています。
だれがあなたのことなどかまうでしょう」

宗教的で精神的な反逆、暴力の炎から生まれるのではなく、愛と慈しみのかぐわしい香り、瞑想、注意深さや覚醒から生まれる反逆こそ、この美しい惑星を楽園へと変容させる唯一の可能性だ。

そう、あなたの言っていることは、まさに私がやろうとしていることだ。
あなたは言っている。
「あなたは最近、反逆者に関するあなたの洞察を語っておられますが、それでもなお、私がこの瞬間に私たちのまわりに感じる雰囲気は、とりわけソフトで、愛情にあふれ、しなやかです。
私には、これはあなたの魔法の一部であるように感じられます
――まるであなたが自らの存在を通して、反逆者は暴力や不幸からではなく、愛と歓喜の芳香から生まれてくるのだということを示しているかのように感じるのです」

まさにそのためにこそ、私は生きている。
まさにそのためにこそ、私はあなたがたに準備させているのだ。


『反逆のスピリット』(和尚ラジニーシ 著、めるくまーる刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

究極の恋愛

帰依の道とは何でしょう。あなたの反逆者のヴィジョンのなかに、ぞれが占める位置はあるのでしょうか?

――――――――――――――

帰依は道ではない。
あなたはそれを旅する必要がない。
帰依は〈存在〉と融合し、そこに溶け込むための方法だ。
それは巡礼ではない。
それは〈存在〉からあなたを分離させているすべての境界線を失うことだ。
それは恋愛だ。

愛は道ではない。
愛は個人との融合ふたつのハートの深い親密さだ
――そのあまりの深さに、ふたつのハートは同じ調和のなかで踊りだす。
たとえハートはふたつでも、その調和はひとつだ。
その音楽はひとつ、その踊りはひとつだ。

愛は個人と個人のあいだに起こるが、帰依はひとりの反逆者と〈全存在〉とのあいだに起こる。
彼は大海原の波のなかで踊り、陽の光に踊る樹々のなかで踊り、星々とともに踊る。
彼のハートは花々のかぐわしい香りに、小鳥たちの歌に、夜の静寂に応える。

帰依は道ではない。
帰依は人格の死だ。
自分のなかの死すべきものを、あなたはひとりでに落とす。

ただ不滅のものだけが残り、永遠のものだけが残り、不死なるものだけが残る。
そして当然、不死なるものは〈存在〉から分離していない
――〈存在〉は不死であり、つねに進みつづけ、はじめも終わりも知ることがない。

帰依は愛の最高の形だ。
あなたがある人を愛しているとき、その愛がより深まってゆくなら、だんだん徐々に、その愛の質そのものが帰依に変わってゆくということはありうる。
そうなればその相手は、あなたが〈存在〉のなかに飛び込むためのただの窓にすぎなくなる。

反逆者に関するかぎり、師というものはまさにそうした存在だ。
私の人々にとって、私は救済者ではなく、救世主でもない。私
はただの扉、無限へとかけられた橋だ。

インドには、ある非常に奇妙な都市がある。
おそらく、世界でそのような都市はほかにはない
――それはファテプー・シクリだ。
それは偉大なる皇帝アクバルによってつくられた。

彼は首都として特別な都市をつくろうとしていた。
その都市全体が完全に斬新な、ひとつの芸術作品でなければならなかった。
彼は首都をデリーからファテプー・シクリに移転するつもりだった。
彼はきわめて要求の多い人物だったから、ありきたりの都市では満足できなかったのだ。
どの家も宮殿のようでなければならなかった。

40年にもわたって絶え間なく、その都市の建設がつづいた
――その都市は美しい湖に固まれている
が、一度もそこに人が住んだことはない。
あれほど美しい宮殿がありながら、だれもそこに住んだことがないという都市は、世界にほかに例を見ない。

なぜなら、この計画が完成される前にアクバルが死んでしまったからだ。
それはあまりにも大きな計画だった
――首都全体が、特別な石材によって完全に斬新な新たなものにつくられ、すべての建物や道路は一定の意味をもち、一定の形につくられる・・・
その仕事のために世界中から何千もの芸術家や建築家、石切り工やレンガ職人が招かれた。

アクバルはおそらく、その時代では世界最大規模の帝国の領有者だった。
アクバルの治世下のインドは、もっとも偉大な国で莫大な富を蓄えていたが、アクバルはそのすべてを使いつくしてしまった。
彼は、自分が死ぬ前にその首都を完成させたかったのだが、それが不可能であることが
――少なく見積ってもその首都が完成されるまでにあと40年はかかるということが
――明らかになるにつれ、ある決断を下した。
「少なくとも私の生きているうちに、首都の半分
――とくに政府の官庁や主だった人々
――は移転しなければならない」

主要道路につながるように、ひとつの美しい橋が湖をまたいでかけられた。
その都市は湖のなかにほとんど小島のように浮かんでいた。
アクバルは、都を訪れるすべての人々を歓迎するために、その橋の正門に刻まれるべき美しいことばを見つけだすよう、彼の賢者たちに求めた。

彼らは世界のすべての聖典、すべての文学のなかを探しに探した。
彼らは回教徒だったのだが、奇妙なことに、それに完壁にかなった、まさにファテプー・シクリの門に刻むためにこそ語られたようなことばはイエスの言説のなかにしか見いだせなかった。

それはこんな一節だ。
「それはただの橋にすぎない。
覚えておきなさい、そこにあなたの家をつくってはならない。
それは通り過ぎるための場所だ」

これは生に関する声明だ。
生はひとつの橋だ。
そこに自分の家をつくってはならない
――それは通り過ぎるための場所だ。

アクバルはそのことばを愛した。
それはファテプー・シクリの正門に刻まれている。
しかし彼は、まだ移転がはじまりもしないうちに死んでしまった。
彼の息子は、まさに最初からその考えに反対しつづけていた。
財政のすべてはそのために喰いつぶされ、それ以外の事業が何ひとつできなくなっていたからだ。

できたものはただ死んだ都市だけ
――それに、デリーは首都として完壁にその機能を果たしていた。
まったく移転の必要はなかったし、実際のところ、その計画をあと40年も続行する資金などどこにも残っていなかった。

そこでこの計画は中断された。
だれひとりそこに移った者はいなかった。それはひとつの記念碑、偉大なる王の夢の偉大なる記念となった。

だが、私にとってもっとも重要なのは、その橋に刻まれた声明だ。
まさにそれが反逆者にとっての師だ。
まさにそれが反逆者にとっての愛だ。
反逆者にとっては、愛と師は同義語だ。

彼の師への愛があまりにも深くなり、自分がいかなる形においても、師と分離しているとは見なせなくなるとき、まさにその愛が新たなる高みへと変容される。
その高みは帰依として知られている。
帰依は道ではない。
帰依は恋愛、まさに究極の状態に浄化された恋愛だ。
そのとき、だれであれあなたの愛している人が、宇宙的な有機的統合への扉となり、橋となる
――まるで一滴の露が蓮の葉からすべり落ちるように、あなたの小さな自己が大洋に溶け込むための。


『反逆のスピリット』(和尚ラジニーシ 著、めるくまーる刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

暴力は問題外だ

反逆の表現としての暴力ということについて、何か話していただけますか?

――――――――――――――

暴力は、けっして反逆のスピリットの一部ではありえない。
その理由は単純だ。暴力は人類の過去そのものであり、反逆者はその過去と断絶しようとする者だからだ。

何千年にもわたって、暴力が生のあり方だった。
直接的にあるいは間接的に、私たちは暴力の支配下に生きてきた。
私たちの軍隊、私たちの警察、私たちの刑務所、私たちの裁判官、私たちの戦争、私たちのいわゆる偉大な宗教、このすべてが暴力の影響下に存在してきた。
だが暴力は、その本質に立ちもどって理解するなら、生とはまったく無関係であることがはっきりする。

私にとって宗教的な人間、宗教的な意識とは、生そのものに対する深い畏敬の念以外の何ものでもない。
なぜなら、生を超えたところに神はなく、意識を超えたところに楽園はないからだ。

暴力は、生と破壊性のなかに生きてきて、それでいったい何を成し遂げただろう?
私が反逆者と反動家とのあいだに明確な一線を引くのはそのためだ。
私はまた、反逆者と革命家とのあいだにも一線を画している。

反動家はもっとも低いカテゴリーに属する。
彼はけっして過去から自分自身を切り離すことができない。
彼を方向づけているのは過去だ。
彼は過去に反対している。
だが、それに賛成していようと反対していようと、過去があなたの行動を左右しつづけていることにはかわりがない。

革命家は、反動家よりは少し高いレベルにある。
彼はたんなる反動にとどまらず、未来の夢、自らのユートピアをもっている。
だが暴力に関するかぎり、革命家はそれを肯定し、誤った方法によっても正しい結果を達成することができる、と考えつづけてきている。

私はその主張に反論する。
正しい結果は、正しい方法によってしか成し遂げることができない。
暴力によって、平和で、静かな、愛にあふれた人類を実現することはできない。
暴力が根本にとどまり、それが革命家のいう上部構造のすべてをだめにしてしまうからだ。

反逆者は非暴力でなければならない。
それはまったく必然性あってのことだ。

非暴力でないかぎり、彼が平和で、戦争のない、階級のない人類を生みだすための媒体になることはありえない。

もし暴力の種をまけば、その花が暴力によって冒されないことを期待し、希望することなどできない。
花々は、あなたがまいた種から出てくる。
だからどの暴力革命からも、もうひとつの暴力的な社会、別の暴力的な文化がつくり出されたのは当然のことだった。

私たちがいまだに軍隊を必要とし、核兵器を必要としている事実を目にせざるをえないのは、実に恥ずべきことだ。
警察官や裁判所や刑務所を必要とする事実を見るたびに、私たちの尊厳は傷つけられる。
よりよい人類、より意識的な人間は、私たちを取り囲んで、私たちの全存在を汚染しているこうしたナンセンスをすべて取り除くことだろう。

反逆者は生半可ではありえない。
彼には選択の余地はない。
過去からいくつかのものだけ選び、ほかのいくつかは理はない、といったことはできない。
全体としての過去がそっくり否定されなければならない。
そうしてはじめて、私たちは人類の野蛮さ、残忍性、暴力、生と〈存在〉を軽視する根深い態度を取り除くことができる。

私のアプローチは、生に対する崇敬だ。
反逆者には死ぬ用意はあっても、殺す用意はない。
何かの正当な理由のために死ぬということは、人間として誇りある行為だ。
だが、いかに正当な理由であろうと、だれかを殺すことは動物的だ。
殺すことで、あなたはそれをすっかりだいなしにしてしまう。

それに現実的な観点から見るなら、反逆者は全世界を向こうにまわして闘うたったひとりの個人にすぎない。
たとえ暴力を選ぼうとも、彼は簡単にたたきつぶされてしまう。
敵――すなわち過去
――は、はるかに強大な暴力的な力を手にしているからだ。

反逆者は愛を信頼し、瞑想性を信頼し、自分自身の不死性に目覚めていなければならない
――たとえその肉体が磔(はりつけ)にされようと、彼は触れられぬままにとどまる。

私はここでたんなる政治的な反逆について語っているのではない。
私は〈個〉としての反逆者
――政治的な存在ではない、精神的な現象について語っている。

いかなる精神性といえども、暴力を、何らかの結果を得るための手段として受け容れることはできない。

暴力は、私の反逆、私の反逆者に関するかぎりまったく問題外だ。
彼には破壊することなどできない
――私たちは充分に破壊してきた。
彼には殺すことなどできない
――私たちは充分に殺してきた。

今や、そういった白痴的な生き方のすべてをやめるべきときだ。
私たちはこの闇から出て、光のなかに入らなければならない。
たとえそれがあなたの命を奪うことになるとしても、まったく問題ではない・・・
なぜなら、私のいう反逆者は基本的に瞑想者だからだ。

私は、瞑想を知らないない反逆者など想定していない。
それは彼の本質的な体験としてある。
ひとたび自分の不死性を理解したら、殺されることをだれが心配するだろう?

そして、もし何百万という瞑想者に、古く腐った過去の銃口の前で自分たちの胸もとを開く用意があるなら、可能性はある。
おそらくそれは、自らの手に破壊的な兵器を握っている人々のハートをも変えてしまうだろう。

反逆が、広範な規模において試みられたことはかつてなかった。
瞑想し、沈黙と平和を愛し、暴力を生みだすあらゆるたぐいの差別を打ち壊す、何百万という人々の努力は、人類とこの惑星上のあらゆる生命を救うことができるような空間、隙間をつくり出すだろう。


『反逆のスピリット』(和尚ラジニーシ 著、めるくまーる刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

反逆者に従うべき道はない

反逆者の道は中庸の道でしょうか、それとも極端の道でしょうか?
私は、あなたがその両方を肯定的にも否定的にも語るのを、また道はないとおっしゃるのも聞きました。
反逆者を導くものはいったい何でしょう?

――――――――――――――

反逆者に従うべき道はない
――何らかの道に従っている人々は反逆者ではない。
反逆のスピリットは導きを必要としない。
それ自体が自らを導く光だ。

反逆することのできない人々は導きを求め、追従者になりたがる。
それは、追従者になれば、すべての責任から解放されるからだ
――案内人、師、指導者、救世主があらゆることに責任をもってくれる。

追従者に必要なのは、ただ信仰をもつことだけだ。
だが、信仰というのは、精神的な隷属の別名にすぎない。

反逆者は、何よりも自由を愛する
――それも全面的な自由であって、それ以下ではありえない。
彼がいかなる救済者にも、神の使者にも、救世主にも、道案内にも従わないのはそのためだ。

彼はただ自らの本性に従って進む。
彼はだれにも従わず、だれの真似もしない。
彼は、それが途方もない喜びと自由をもたらすがゆえに、自分であらゆることに責任をもたなければならない、もっとも危険な生き方を選ぶ。

彼は何度も転落し、過ちを犯すが、けっして後悔はしない。
なぜなら、そのことを通じて生の奥深い秘密を学ぶからだ
――過ちを犯すことで、あなたは賢くなる。
ほかに賢くなる方法などない。

あなたは道に迷うことによって、何が正しく何がまちがっているのかを、よりはっきりと理解するようになる。
もし、あなたが惨めさや苦しみを感じているなら、もしあなたの生が朝の来ない終わりなき闇夜になっているなら、それはあなたが道に迷ってしまったということだ。
そう判断して、あなたが安らいで、静かで、穏やかであった状態
――至福の源泉
――まで再びもどってくるがいい。
すると、あなたは再び正しい道の上にいる。

至福に満ちているのが正しい状態だ。
惨めでいるのはまちがった状態だ。
これよりほかに判断の基準はない。

反逆者の巡礼の旅は驚きに満ちている。
それには地図もなく案内もないから、彼は瞬間ごとに新たな空間、新たな体験に入ってゆく
――彼自身の体験、彼自身の真理、彼自身の至福、彼自身の愛に。

何らかの道に従っている人々は、自分自身で体験することのすばらしさをまったく知らない。
彼らはつねに使い古しの知識を使って、いかにも賢そうなふりをしている。
人々はまったくもって奇妙だ。
彼らは使い古しの靴を好まない。
けっして使い古しの靴をはこうとはしない。
だが彼らは、何というがらくたを頭のなかにもち歩いているのだろう・・・ただの使い古しの靴だ!
彼らの知っているすべては借りてきたもの、真似たもの、習ったものだ
――それは体験によるものではなく、たんなる記憶にすぎない。
彼らの知識は記憶から成り立っている。

反逆者はそのような道を歩まない。
彼は自分で歩き、歩くことによって自分の道をつくる。
反逆者は、まるで空を飛ぶ鳥のようだ。
鳥がいったいどんな道に従うだろうか?
空には高速道路はないし、いにしえの鳥たち、偉大な鳥たち、ゴータマ・ブッダたちの足跡もない。
いかなる鳥も空に足跡を残すことはない。
空がつねに開かれているのはそのためだ。
あなたは飛ぶことによって自分の道をつくる。

自分が喜びを感じる方向を見つけるがいい。
あなたのハートの鐘を鳴らす星に向かって進むのだ。
どこへ向かうかはあなた自身が決定すべきであって、ほかのだれにも決めさせてはならない。

私が極端の道に従う人々を批判したとき、何度も中庸の道について語ったのはそのためだ。
なぜなら、極端はけっして全体にはなりえないからだ。
それはいずれか一方の極端にすぎない。
一方の極端にとどまることはもう一方の極端を見逃すことであり、生の半分だけを生きることにしかならない。
あなたはとてつもなく価値のある何かを見逃したまま、それが何であるのかをけっして知ることはないだろう。
そういった文脈のなかで、私は中庸の道について語ってきた。

中庸の道、中道
――ちょうど真ん中
――を歩く人は、はるかかなたまで伸ばされたふたつの翼のような両極をもっている。
彼はその両極を自らの存在の内に包み込んでいる。
彼は真ん中に立っているが、その翼は両方の極に同時に届いている。
彼は全体的な生を生きる。

しかし、別の文脈においては、私は中庸の道に対立することを語ってきた
――生を理解することはそれほど単純ではない。
それは世界でもっとも複雑な現象だ。
そうであって当然だ。
なぜなら生は、この全存在のなかで意識がもっとも進化した状態だからだ。

生は実に複雑な現象なので、人にはけっしてそのすべてを語ることはできない。
あなたはたったひとつの局面についてしか語ることができない。
そして、生のひとつの局面について語るとき、あなたは知らないうちに他の局面を否定することになる。
あるいは、少なくとも無視せざるをえない。
生はそういったすべての矛盾対立するものの組み合わせなのだ。

だから、あなたがひとつの局面について語っているとき、それに対立する局面は
――それもまた、あなたが今語っている局面と同じように生の一部なのだが
――否定され、打ち消されることになる。

私の話を理解するということは、特定の文脈において語られたことを理解するということだ。
けっして何かをその文脈から切り離して受け取ってはならない。
そうでないと、あなたはただただ当惑し、混乱するばかりだろう。
ときとして私は中庸の道について語るが、それはさっきも言ったように、それが生の全体を含んでいるからだ。
その美しさはその全体性にある。
またときとして、私は極端の道を擁護する立場でも語ってきた。
なぜなら、極端には極端の美しさというものがあるからだ。

中庸の道を歩く人の生は、つねに生ぬるい。
彼はきわめて用心深い。
彼は極端に走ることを恐れて、ひとつひとつのステップを実に計画的に進む。

中庸の道に従う人は、情熱的に生きることができない。
彼は、生の松明(たいまつ)を両端から同時に燃やすことができない。
それができるようになるためには、人は極限を生きることを学ばなければならない。
極限を生きることには強烈さがある。
が、それには全体性がない。
だから私が強烈さについて語るときは、極端の道の方を強調してきた。
だが、こういったことはすべて、一定の文脈のなかで語られている。

私はまた、道はないとも言っている。
道という考えとともに、いつも私たちはすでに完成された高速道路、超高速道路を想像する
――あなたがただその上を歩くだけでいいような。
私が、道などないと否定しつづけてきたのはそのためだ。

現実の世界において、あなたは歩くことによって道をつくり出さなければならない。
あなたが歩くにつれ、一歩一歩、小道がつくり出される。
別の言い方をすれば、あなたは境界線も、道も、道路標識もない、未知の領域に入りつつある。
あなたの歩みが道をつくり出していることは確かだが、あなたがその上を歩くことはできない。
あなたはすでにそこを歩いてきてしまった
――そうやって道は拓かれてきたのだ。

そして覚えておきなさい、あなたの道はほかのだれのための道にもならないということを。
なぜなら、それぞれの個人はきわめてユニークであり、もしだれかほかの人の道に従ったら、その人は自分自身のアイデンティティーを失い、自分自身の〈個性〉を失ってしまうからだ。
だが、アイデンティティーや〈個性〉をもつことこそが、〈存在〉におけるもっともすばらしい体験なのだ。

自分自身をなくして、あなたはいったい何を得ようというのか?
ただ偽善者になるだけだ。
いわゆる宗教的な人々がみな、世界で最悪の偽善者なのはそのためだ。
彼らはイエス・キリストやゴータマ・ブッダやマハヴィーラに従っている。

これらの人々はただ偽善者であるだけではない。
こういった人々は臆病者でもある。
彼らは自分の生を自分自身の手につかんでいない。
彼らは自分自身の尊厳に何の敬意も払っていない。
彼らは自分、がだれなのかを見いだそうとしていない。
彼らはただ、ほかのだれかを真似ようとしているにすぎない。
彼らは上手な役者にはなれるだろうが、けっして自分自身にはなれない。
そして、あなたの演技がいかに
美しかろうと、いかに正確だろうと、それはつねに表面的な何か、あなたの上に積もったほこりの層に
とどまる。
ちょっとした状況の変化だけでそれは吹き払われ、あなたの現実が姿を現わす。

あなたが自分の独自性を失うということはありえない。
それはまさにあなたの本性だ。
とりわけ反逆者にとっては・・・この独自性の主張こそが、彼のまさに基盤、彼のまさに精神性、彼の全存在となる。
だがそれは、彼が自分の自我を主張するという意味ではない。
なぜなら、反逆者はあなたの独自性をも同様に尊重するからだ。

人々は平等でもなければ、不平等でもない。
そういった哲学はまったく心理学的な事実、科学的真理に基づいていない。
平等というまさにその考え自体が、まったく根拠のないものだ。
それぞれにユニークな人間たちが等しいなどと、どうして考えることができるだろう?

もちろん、人々には平等の機会が与えられるべきだ
――が、何のために?
とても奇妙な目的のためにだ。
人々は自分自身になるためにこそ平等の機会を与えられるべきなのだ。
別の言い方をすれば、等しくはない、ユニークな存在になるためにこそ平等の機会を与えられるべきなのだ。
そうなれば、さまざまな花、さまざまな色彩、さまざまな香りの多様性が、この世界を豊かにしてくれるだろう。

すべての宗教は、この世界をよりいっそう貧しくしようとしてきた。
ちょっと想像してごらん。
今や世界の人口は増えつづけ
――おそらく今月末頃までには
――それは50億になろうとしている。
50億もの人々がみな、マハヴィーラのような人間になって、地球上のいたるところを裸で歩きまわっているのを想像してみるといい。

彼らは食べものすら見つけることができない。
だれが彼らに与えるのか?
どこで彼らは物乞いをしたらいいのだろう?
というのも、どこを見まわしても、そこには裸で立ちつくしている、空腹で、食べものを乞い求めている、別のマハヴィーラしか見つからないからだ。

人々がマハビィーラのような人々に最後まで従うほど愚かでなかったのはよいことだ。
彼らはそれらの人々に別れを告げ、こう言った。
「私たちはあなたがたを崇拝しますし、あなたがたのために寺院もお建てしましょう。
でも、どうか許してください。
私たちにできるのはそこまでです。
あなたがたのやっていることは、特別な人々にしかできないことです」

こういった宗教は、真理を教えてはこなかった。
こういった宗教は、ただ人類を奴隷にしてきたにすぎない。
彼らは、できるかぎり多くの人々を自分たちの群れに引き込もうとしてきた。
なぜなら、数は力をもたらすからだ。
そして臆病者たちはその群れに、その群衆に喜んで従ってきた。
臆病者たちは孤独を、恐れを感じていたからだ。
この広大な宇宙のなかで、あなたはたった独りだ・・・そこにはだれもいない。
ひとりの仲間さえ
――大空は完全な沈黙を守り、だれひとりあなたに道を示す者はなく、だれひとりあなたに導きを与える者もいない。

反逆者は、真に精神的な存在だ。
彼はいかなる群れにも属さず、いかなる制度にも属さず、いかなる組織にも属さず、いかなる哲学にも属さない。
もっと簡潔に、決定的な言い方をするなら
――彼は自分自身を他人から借りてきたりはしない。
彼は自分自身の内側を深く掘り下げ、自分自身の生の精髄、自分自身の生の源泉を見つける。

道の必要などあるだろうか?
あなたはすでにここにいる
――あなたは存在し、意識している。
基本的な探求に必要なすべては、すでに〈存在〉そのものによってあなたに与えられている。

自分の意識の内に目をやり、その味を味わうがいい。
自分の生の内に目をやり、それが永遠であることを見るがいい。
自分自身の内側に目をやり、もっとも神聖な、もっとも聖なる寺院は、自分自身の肉体であることを知るがいい
――なぜなら、そのなかには神性が、聖なるものが、美しいもののすべて、真実なるもののすべて、価値あるもののすべてが秘められているからだ。

あなたはたずねている。
「反逆者を導くものはいったい何でしょう?」

反逆者の美しさは
――彼が案内を必要としないことだ。
彼自身が自分の道案内であり、彼自身が自分の道だ。
彼自身が自分の哲学であり、彼自身が自分の未来だ。
それは「私という存在は私が必要とするすべてであり、この〈存在〉こそ私のわが家だ。
私はここではよそ者でない」
という宣言だ。


『反逆のスピリット』(和尚ラジニーシ 著、めるくまーる刊)
  ・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

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 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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