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無・空・神の願い

私たちが日常的に用いる温度の単位である「℃」は、セルシウス度(摂氏)です。
これは、水が1気圧下で氷になる温度を0℃、沸点を100℃と定義したスケールです。

ほかにも温度を表す単位として

・熱力学温度(単位はケルビン(記号: K))は、熱運動が全て停止する温度を0 K、水が1気圧下で氷になる温度を273.15 K、沸点を373.15 Kと定義したスケールです。

・ファーレンハイト度(華氏、°F)は、水の氷点を32度(32°F)、沸点を212度(212°F)、水の氷点と沸点の間は180度に区切られます。よって、この温度目盛によって計った温度Fは、セルシウス温度目盛による値(セルシウス度、摂氏度)Cと、次の関係にあります。

F=C×9/5+32
C=5/9(F-32)

温度を表す単位は他にもいろいろございます。


距離(長さ)を計測・表示する単位、質量(重さ)を計測・表示する単位、時間を計測・表示する単位、・・・・等々もいろいろあって、それぞれに由来がございます。


さて、私たちが乗っかっているこの3次元物質宇宙の温度の基底・ベースは、「絶対零度」と言われるものです。

絶対零度とは、物質における温度の下限です。

0K(ケルビン)と表され、セルシウス度で表せば-273.15℃です。
温度は、物質の熱振動をもとにして規定されているので、理論上の下限が存在します。

絶対零度は、熱振動(原子の振動)が小さくなり、エネルギーが理論的に最低(下限)になった状態です。

ところが、量子力学では、不確定性原理のため原子の振動が止まることはなく、エネルギーが最低の状態でも零点振動をしているので、熱力学第三法則により、ある温度(0Kよりも大きい温度)をもった物質を、有限回の操作で絶対零度に移行させることはできません。

このことは、3次元「物質」宇宙においては、絶対零度にたどり着くことは不可能であるということです。

ただし、「物質」を超えた次元の宇宙においては、到達できます。・・・・たぶん



神が用意してくれた3次元物質宇宙のグラウンド・基盤が「絶対零度」です。
万物はこの絶対零度の上に存在していることになります。

私は、この絶対零度を「無」あるいは「空(くう)」と言い換えても良いものと存じます。

絶対零度=無

3次元物質宇宙の全ての「有」は、「無」をグラウンド・基盤として顕現している。
という訳です。


「無」とは、「何もない」ということではありません。

森羅万象を在らしめているベース、万物を乗っけているグラウンド、3次元の全宇宙を飲み込んでいるもの、それが「無」なのです。

「無」とは、つまり「神」なのです。



さて、その「無」ですが、「無」が「無」である限り、「無」(つまり自分自身)を知ることは出来ません・・・・・・


森羅万象あらゆるものを可能性として潜在させている「無」は、ある日、自分自身を思考しました。

そして、「無」は自身の投影として「私」を創造したのです。
これは革命でした。

全ての物語(ものがたり)はここから始まったのです。

「無」は自身の投影である「私」に語りかけました。

『私を祝福します。
私は私自身を使って、やってみたいことを何でも創り出してください。
私はいつも私と一緒にいます。
だから、さあ、行って私の喜ぶものを何でも創り出しなさい。』

私のこの偉大な親は、何一つとして私に制限をしていません。

ただひとつ、成長し、拡大して欲しいという願いがあるだけでした。

祝福だけを与えてくれたのです。

何一つ、制限などしていないのです。

「無」の分身である私は、創造の旅に出ました。

原初の「無」の中の旅です。

でも、私は何処にも行くことができません。
時間と空間を持たなかったからです。

何処にも行くことができない私は、親の言いつけを守ろうと「無」がそうした様に、自身の内面に自分の反射意識を創造しました。

つまり、自分を知るために自分を映し出す現実を創ったのです。

私の意識と、私の反射意識の間に生まれたその現実が、最初の時間と空間です。

それは極めて速く振動する現実でした。
振り子の支点(無)から、とても短い糸で結ばれた私という「投影」は高速で振り子運動を行っていたのです。

私は親の言いつけを守る本当によい子です。

更なる創造を望みました。

そこで私は、もうひとつ別の位置に、自分の反射意識を創造します。

それは「無」と最初に置いた位置との距離よりも少しだけ遠いところでした。

こうして、最初の現実よりも少しだけ遅く振動する時間と空間が生まれました。

これが私が創造した二つ目の現実です。

私は、更に更に....冒険のためのステージ創りを繰り返していきました。

次、次....と創造していった反射意識の位置は、だんだんと原初の「無」から遠ざかって行きました。

そして私は遂に、今いる位置に反射意識を創造したのです。

それは「無」から遥かに隔たった七つ目の投影の現実です。

それは3次元物質世界の中で、極めて遅く振動する時間と空間の中にある、私の体験のためのユニークなステージです。

原初の「無」から遥かに隔たった、この現実の中で、
振り子の支点(無)から、とても長い糸で結ばれた私という「投影」は低速で巨大な二極の振り子運動を行っています。

  右←→左 、 東←→西 、 損←→得 、 美←→醜 、
  尊←→卑 、 光←→闇 、 大←→小 、 高←→低 ・・・

確かに、あまりにも遥かな時間と空間の旅でした。

でも・・・・それは・・・・
ほんの小さな意識の隔たりでしかないのです。


そして、私の親である無の「私への祝福」は途切れることは無いのです。


「万物への祝福」これこそが私の存在の意義なのです。



      究魂 拝
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最後だとわかっていたなら

あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら

わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら

わたしは あなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら

わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

確かに いつも明日は やってくる

見過ごしたことも取り返せる

やりまちがったことも
やり直す機会が いつでも与えられている

「あなたを愛してる」と言うことは
いつだってできるし

「何か手伝おうか?」と声をかけることも
いつだってできる

でも もしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるとしたら

わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして私達は 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを

愛する人を抱きしめるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず

もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと

忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう

そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だと言うことを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう

そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから


『最後だとわかっていたなら』(ノーマ コーネット マレック 著、サンクチュアリ出版 刊)

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”わたし”が鞄の中に入っている

あらゆる面倒をひき起こす根っこは、あなたがたの神――あなたがたの家で製造された神だ。
おのおの自分の家でつくりあげた神から自分自身を救い出してみることだ。
家で神を製造することなどできはしない。
そのような神の存在はまったくの欺瞞だ。

わたしは神を投影しなさいといっているのではない。
しょせん神の名において何を投影するというのかね?
クリシュナの崇拝者は、横笛を手に茂みのうしろに隠れている神を見るというだろう。
いっぽうラーマの崇拝者は、弓と矢を手にした神を見るのだろう。
誰もが異なった神を見る。

このような観想は願望と概念の投影以外の何ものでもない。
神はこのようなものではない。
おのれの願望と概念を投影してみたととろで、神を見出すことはできない。

神を見出すためには、われわれもともに消えねばならない。
あらゆる概念とともに、あらゆる投影とともに、このわれわれが消えてゆかねばならないのだ。

両方が手に手をとってゆくことはできない。
あなたが自我として存在しているかぎり、神を体験するのは絶対に不可能だ。
自我(エゴ)としてのあなたは去らねばならない。
そうしてはじめて神を体験できるようになる。
わたしの”わたし”が、わたしの自我が存在しているかぎり、神性の扉をくぐることはできない。

こんな話を聞いたことがある。
ある男がすべてを捨てて聖なる扉にたどり着いた。
男は富を、妻を、家を、子供を、社会を、すべてを捨てた。
ことごとく捨て去って、男は神性の扉へと歩み寄った。

ところが扉の番人は男をひき止めていった。
「あなたはまだ入れない。まずはもどってすべてを置いてくることだ」
「でもわたしはすべてを置いてきました」と男は訴えた。

「どう見てもあなたはあなたの”わたし”を持ちこんできている。
われわれはほかのものには関心はない。
あなたの”わたし”だけを問題にしているのだ。
あなたが何を置き去りにしてきたといおうと、それはどうでもよいことだ。
われわれはあなたの”わたし”に関心がある」
と、番人はそう説明した。
「行きなさい。それを落とすのだ。
それから出直してくるがいい」

男はいった。
「わたしは何も持っていない。
わたしの鞄は空っぽです。
金も、妻も、子供も入っていない。
わたしは無一物です」

「あなたの”わたし”がまだ鞄のなかに入っている。
行きなさい。
それを落とすことだ。
”わたし”を持ちこんでくる者には、この扉は閉ざされている。
そういう者には、扉はつねに閉ざされているのだ」
と番人はいった。


『死・終わりなき生』(オショー ラジニーシ 著、講談社 刊)

ほんとうの愛はからだの中にある

ずっと稽古一筋でやってきますと、いろいろ不思議な体験をさせられます。
私がまだ元気はつらつとした青年時代のことなのですが、いまだに忘れられない出来事があります。

当時、私は師とともに、いろんな大学の空手部に教えに行っていました。
学習院大学の夏の合宿のときのことです。
長野県の過疎地にある廃校の木造体育館で稽古しているときのことでした。
その頃の私は、空手だけで生きていて、生活は非常に厳しい状態でしたが、空手の実力はいちばんあったときです。
道場でやっている限り、相手が後ろから突いてこようが、真っ暗闇の中で突いてこようが私はよけられる。
まして前から突いてくるなんていうのは、万が一にも受け損じるなんてことはありえません。
ただし街中はまた別です。

その私があろうことか、正面から突いてきた学生に、みずおちをパーンとものの見事に突かれてしまったのです。
それも背後のガラス戸まで吹っ飛ばされるていたらく。
なぜよけられなかったのか。
いくら考えても理由がわかりませんでした。

その翌々日のこと。
別の学生にまたやられました。
今度は背中を、剥き出しになった鉄骨にゴツンとぶつけた。
絶対あってはいけないことが二度続けてあるとは・・・さすがの私もその晩は寝床に入っても眠れませんでした。

「あんなの、スッとよけたら、相手はポーンと後ろに行ったのに・・・」
と思った瞬間、私はハッとしました。
謎が解けたのです。
もし私がよけていたら相手はどうなっていたか。
一人はガラス戸の中に頭から突っ込んだに違いない。
もう一人は同じく鉄骨に正面から激突しただろう。
どっちも私がよけたら大変なことになる場面だったのです。

つまり、相手が攻撃してくることを、私のからだはとうに察知していたのです。

私はこれに気づくと冷水を浴びせられたような気がしました。
相手の攻撃を察知したうえで私のからだはこう考えたに違いない。
「お前がよけたら相手はケガするぞ。
ひょっとすると大事故になるぞ。
へたすりゃ、死ぬかもわからんぞ」

私の心、あるいは私の心を超える何者かが、私に「動くな!ッ!」と命令していたとしか考えられないのです。
これがほんとうの敵だったら、また別の動きがあったのでしょうが、自分の仲間が攻撃してきた、さらにそれが当人の危険につながるような場合は、からだというのはこういう武道の法則を超えた身の処しかたをすることもあるのだと知りました。

相手の身を救うために私の足を踏みとどめた力、それを私は愛の力だと思っています。
愛といっても、この場合は同胞愛ですが、人間のからだの中には愛情が自覚されようがされまいが、いざというとき自分の身を犠牲にしてでも同胞とか家族、子、親など、自分にとって大切なものを守ろうというすごいものがある。
それをこの出来事から私は身をもって教えられたように思いました。

「焼野の雉子(キジ・キギス)」という言葉があります。
雉(キジ)の母親は草原に火が迫ってくると、赤ちゃんを抱いたまま死んでいく。
これを称して「母性愛なんかじゃない。ただ腰を抜かしているだけだ」と言った有名な評論家がいますが、私の体験に照らしてみてもこれはとんでもない解釈というべきで、人間も動物もみんな自分ではそれと気づかなくても、自己犠牲をもいとわない深い愛情というものをからだの中に持っているのです。


『「新からだ主義」宣言』(青木 宏之 著、ビジネス社 刊)

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天国へいった娼婦と、地獄へいった聖人

聞いた話だ・・・。
ひとりの聖人とひとりの娼婦が、向かいあって住んでいた。
ふたりは同じ日に死んだ。
娼婦の魂は天国へみちびかれ、聖人の魂はどういうわけか地獄へつれてゆかれた。
ふたりをつれにきた御使いたちはひどく面喰らった。
お互いに訊ねたものだ。
「どうなってるんだ。何かの問違いじゃないのか。
なぜ聖人を地獄へつれてゆかねばならんのだ。
彼は聖なる人ではなかったのか?」

なかでもいちばん賢い御使いがいった。
「たしかに聖なる人だった。
だが彼は娼婦をうらやんでいたよ。
娼婦のところのパーティやそこで繰りひろげられる歓楽のことに、いつも思いふけっていた。
家に流れよせる音楽の調べが、彼を心底からはげしく揺さぶっていた。
娼婦の家からのざわめき、娼婦が足首につけている踊り用の小さな鈴の音。
娼婦のまえに坐って称賛しているどの客も、聞き耳をたてている聖人ほどに心動かされてはいなかったろう。
彼の意識はすべてつねに娼婦のところに向いていた。
神に祈りを捧げているときでさえ、耳は娼家からの物音に向けられていた。

で、娼婦のほうはどうだつたのか?
惨めさの地獄のなかであえぎながらも、自分にはあずかり知らぬどんな至福のうちに聖人がいるのかと、いつも思いをはせていた。
聖人が朝の礼拝へと花を運んでゆくのを見かけるたびに、娼婦は思った。
『いつに、なったらわたしは、お寺に、お祈りの花を捧げにゆくにふさわしい人間になるのかしら。
わたしはこんなに汚れてしまって、お寺にはいる勇気も持てない』

聖人はけっして娼婦ほどには香の煙のなかに、ランプの輝きのなかに、礼拝の声のなかに溶けこんではいなかった。
娼婦はつねに聖人の生活にあこがれ、聖人はつねに娼婦の快楽に飢えていた」

お互いにまったく正反対であり、お互いにおよそ異質なふたりの関心と振る舞いが、完全に入れかわっていた。
これはよくあることだ。
そしてこういった出来事の裏には、一定の法則がはたらいているのだ。

過去世の記憶があの女性教授のもとにもどってきたとき、彼女はいたく傷ついた。
苦痛を感じたのは、彼女の自我がこなごなに砕かれたためだ。
自分の過去世を知ったことが彼女を震えあがらせた。
そして今や彼女はそれを忘れたがっている。
充分な準備もなしに過去世を思い出すことのないように、最初に忠告しておいたのだが。


『死・終わりなき生』(オショー ラジニーシ 著、講談社 刊)

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ある女性教授の過去世

いかにして瞑想がその方向に向けられうるかについて、二、三の手がかりを紹介しよう。
すべて教えてしまうことはやめておく。
おそらく誰もやってみるつもりはないだろうし、やってみたい人はわたしに個人的に会いに来ればいい。
ということで、二つ三つ糸口を話してみようと思うが、いうまでもなく、それであなたが実際に過去世を思い出す試みができるようになるわけではない。
しかし概念を与えるくらいのととはできる。
わたしは全部を話すつもりはない。
なぜなら、これを試みることがすべての人にとって有益だとはかぎらないからだ。
むしろ、この試みはしばしば人を危険におとしいれることがある。

わたしのいっていることをはっきりさせるために、ある出来事を話させてもらいたい。
二、三年のあいだ、瞑想のことでひとりの女性教授がわたしとの接触を保っていた。
その女性教授はジャティ・スマランの試みに、つまり過去世を知ることにひどく固執していた。
その試みにはわたしも力を貸したのだが、同時に、瞑想が充分に進展するまではこんな試みはしないほうがよいと忠告もしておいた。
さもないとそれは危険なものになる、と。

それでなくても、ひとつの人生の記憶だけでも耐え難いのに、三つも四つもの過去世の記憶が垣根を破って押し寄せてきたら、人は気が狂いかねない。
だからこそ自然はわれわれが過去を忘れてゆくように仕組んだのだ。
自然は、思い出せる以上のことを忘れ去ることができるという偉大な能力を授けてくれた。
そのおかげで心(マインド)が持ち運べる以上の重荷を背負いとむことはない。
心(マインド)の受容力が増大してのちはじめて、重荷に耐えることができるのだ。
この受容力ができあがっていないうちに記憶の重みがのしかかってきたとき、問題が起こる。
だがその女性教授は頑固だった。
わたしの忠告には耳もかさず、実験へと入っていった。

ついに過去世の記憶の洪水が襲いかかってきたとき、夜中の二時ごろだったが、女性教授はわたしのところへ飛びこんできた。
混乱のきわみ。
すさまじい苦境におちいっていた。
彼女はいった。
「なんとかしてこれをくい止めなければ。
物事のこんな面は見たくもないわ」

しかし、ひとたび破れ放たれた記憶の潮(うしお)を押しとどめるのは容易ではない。
打ち砕かれてしまった扉を閉めるのはひどく困難だ。
扉はただ開くのではない。
破れて開くのだ。
およそ十五日かかった。
そしてようやく記憶の波はおさまった。
何が問題だったのか?

この女性は、日頃から自分がとても敬虔(けいけん)で、一点の罪のくもりもない女性だと自称していた。
前世の記憶に出くわしてみると、そこでは彼女は娼婦だったのだ。
身を売っている場面が浮かびあがってきたとき、彼女の全存在が震えあがった。
現世における品性のすべてがかき乱された。

この極の啓示の場合、その光景は他人事のように見えたりはしない。
貞節をふれまわっていたその同じ女性が、いまや娼婦としての自分を見るのだ。
前世では娼婦だった人間が、つぎの生では徳の高い人間になるというのはよくあることだ。
前世での苦悩に対する反動だ。
その女性を貞節な女性にするのは前世での苦痛と傷の記憶なのだ。

前世での悪人が現世で聖人になるというのはよくあることだ。
それゆえ、悪人と聖人のあいだにはとても深い関係がある。
こういった反動はしばしば起こる。
ななぜなら、おのれの体験したことがみずからを傷つけ、そこでわれわれは逆の極端へと振れるからだ。

心(マインド)の振子は逆方向へ動きつづける。
振子は左に振りきるやいなや、右へと取って返す。
右にかろうじて触れるのは、すでに左へもどりはじめているときだ。
時計の振子が左へ向かうのを見れぼ、振子が右へもどるためのエネルギーを蓄えつつあることがよくわかるだろう。
左へ行ったと同じだけ、右へも行く。
こうして有徳の人物が罪人になったり、罪人が徳の高い人物になったりするのは、生においてはよくあることだ。

それはごくありふれたことだ。
こういった反動は誰の生のなかでも起こっている。
だから、現世での聖人はきっと前世でも聖人だったというのが原則だ、などと思わないこと。
必ずしもそうとは限らない。
必ずそうと決まっているのは、むしろまったくその逆だ。
前世でくぐり抜けてきたことの痛みを負って、人は逆の方向に向かってゆく。


『死・終わりなき生』(オショー ラジニーシ 著、講談社 刊)

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不幸、死

あるとき、ユダヤ人の行者(ファキール)が、自分のかかえている問題にひどく心乱されていた。
これが気に病まずにいられるかね?
人は誰もおのれがかかえる災厄に悩まされている。
そして、最大の苦痛は他人が幸せでいるのを見ることだ。
他人が幸福でいるのを見て、われわれは不幸になりつづける。

この裏にはさらに大きな摂理がはたらいている。
死に関連して話したものと同じたぐいの摂理が。
人は自分の惨めさを見る。
そして他人の表情をうかがう。
そこに惨めさは見えない。
そこには微笑む瞳が、口もとに浮かぶ微笑が見える。
自分自身を振り返って見るとき、人は内なる苦悩とはうらはらに、表面では微笑んでいる自分を見る。
まさに、微笑みとは苦悩をおし隠すための方便なのだ。

誰も自分が不幸でいるのを見られたくない。
もしどうしても幸せになれないとなると、せめて自分が幸せになったかのように見せかけたくなる。
というのも、自分の不幸をさらけだすのは非常な屈辱を、敗北を、挫折を意味するからだ。
だから、外側では微笑みを絶やさない。
しかし、内側ではわれわれは依然としてわれわれでしかない。
内側には涙がたまってゆく。
外側では微笑みを保っている。
したがって、誰かが外側からわれわれを見るとき、その人はわれわれの微笑みに出会う。
しかし、その人がみずからの内側をのぞきこむと、そこには惨めさがある。
それがその人の問題となる。
その人は、全世界が幸福なのだと、そして自分だけが不幸なのだと考える。

同じことがこの行者(ファキール)にも起こった。
ある夜、神への祈りのなかでファキールはいった。
「わたしに不幸をお与えにならないでください、とはいいません。――不幸が当然の報いであるのなら、そのときは確かにそれを引き受けなければならないのですから。
ですが、少なくとも、こんなに多くの苦しみをお与えにならないでくださいと、祈るくらいのことはできるはずです。
世界中で人々が笑っているのが見えます。
泣いているのはわたしひとりです。
みんな幸せそうに見えます。
不幸せなのはわたしひとりです。
誰もが楽しそうです。
悲しみ、暗闇に迷っているのはわたしだけです。
いったいわたしは、あなたに対してどんな過ちをおかしたのでしょう。
どうかお聞きとどけください。――わたしの不幸とひき換えに、誰かほかの人の不幸をわたしにお与えください。
あなたがこれはと思うほかの誰かと、わたしの不幸を取りかえてください。
そうしてくだされば、わたしはそれを甘受いたします」

その夜、ファキールは眠っているあいだに奇妙な夢を見た。
無数の掛けくぎのある大邸宅。
群集がそのなかに入ってくるのだが、そのひとりひとりが不幸を束ねた包みを背負っているのだった。
こんなにたくさんの不幸の包みを見て、ファキールはひどく恐ろしくなってきた。
とほうに暮れた。
ほかの人が持ちこんでくる包みはファキールのものにとてもよく似ていた。
大きさといい形といい、誰のも皆まったく同じだった。
ファキールはひどく困惑した。
彼はいつも隣の人が微笑んでいるのを見てきた。
毎朝ファキールが機嫌をうかがうと、隣人はいったものだ。
「すべて申し分なしですよ」
まさにその男が、今同じだけの不幸を運んできたのだ。

政治家とその取り巻きたち、師(グル)とその弟子たち。
その誰もが同じ大きさの荷をたずさえてきていた。
賢明なる者と無知な者、富める者と貧しい者、健やかなる者と病める者。
誰の包みにも同じ重荷が入っていた。
ファキールは唖然としてしまった。
彼ははじめて包みを見たのだ。
今の今まで、彼は人々の顔しか見てこなかった。

突然、大声が部屋中に響きわたった。
「汝らの包みを吊るせ!」

ファキールもふくめて全員が命じられたとおりにした。
誰もがあわてて自分のごたごたを厄介払いした。
誰ももう一刻も不幸を持ち運んでいたく、なかったのだ。
もしわれわれがとんな機会に恵まれたら、やはりすぐにでも不幸を吊るしたことだろう。

また別の声が響いた。
「さあ、汝ら各自、好みの包みを取れ」

あなたがたは、ファキールがいち早くほかの人の包みを取りあげたと思うかもしれない。
いや、彼はそんな間違いはおかさなかった。
あわてふためいてファキールは走った。
誰かが手をつけるまえに自分の包みを取りあげようと。
さもないと厄介なととになる。
なにしろすべての包みがみんな同じに見えたのだから。
ファキールは自分の包みを取るほうがましだと考えたのだ。
少なくとも、そのなかの不幸には馴染みがある。
他人の包みにどんな不幸が入っているかなんて、誰にわかる?
馴染みのある不幸のほうがまだ惨めさが少ないというものだ。
それはよく知っている不幸、見覚えのある不幸なのだ。

あわてふためいてファキールは走った。
そして他人が手をつけるまえに、自分の包みを取りもどした。

ところが、まわりを見まわしてみると、誰もがみんな自分の包みを取りに走っているではないか。
自分のものでない包みを選ぶ者はひとりもいない。

ファキールは訊ねた。
「なぜそんなにあわてて自分の包みを取るのです」

「怖くなったんですよ。
これまでわたしたちは、ほかの人たちはみんな幸福だと、自分だけが不幸だと、信じていたんです」と人々は答えた。
その屋敷のなかの誰に訊ねても、いつも他人はみんな幸せだと思っていた、という返事が返ってきた。

「わたしたちはあなたも幸せでいらっしゃるものと信じていたのですよ。
あなただってお顔に笑みをたたえて通りを歩いておられた。
あなたも内側では不幸の束を持ち歩いていただなんて、思ってもみませんでした」

不思議に思ってファキールは訊ねた。
「なぜ自分の包みを取ったのです?なぜほかのと取りかえなかったのです?」

人々はいった。
「今日、わたしたちの誰もが神に祈ったのです。
不幸の束を取りかえたいと。
ところが、誰の不幸も同じなのを見て恐ろしくなった。
思いもよらないことでした。
それで、自分の包みを取ったほうがましだと思ったのです。
それなら馴染みがあるし、よく知っている。
なぜ新しい不幸に落ちていかなけりゃならんのです?
少しずつ、古い惨めさにも慣れてきていたのですね」

その夜、誰もほかの人の包みを取りあげることはなかった。
ファキールは目を覚まし、自分の不幸を取りもどさせてくれた慈悲深い神に感謝した。
そして、二度とあんな祈り
「あなたがこれはと思うほかの誰かと、わたしの不幸を取りかえてください。」
はするまいと誓った。


実際、この裏にある算術は同じものだ。
他人の顔を見て、自分の現実を見るとき、――われわれが大きな過ちをおかすのはそのときだ。
生と死の感覚に関するかぎり、同じたぐいの間違った算術がはたらいている。
他人が死ぬのを見たことはある。
だが、自分が死ぬのを見たことは一度もない。
われわれは他人の死を見る。
しかし、死んでゆく人々の内なる何かが生き残るかどうかを知ることはけっしてない。
そのときわれわれは無意識になるため、死は異邦人でありつづける。
だからこそ自発的に死に入ってゆくことが重要なのだ。
一度でも死を見れば、その人は死から自由になる。
死に勝利をおさめる。
ほんとうは打ち負かすものなど何もないのだから、勝利などというのは無意味なのだが・・・。
そのとき死は見せかけだけのものになる。
死はただ存在し、なくなる。

2に2を足して5と書いた人が、翌日、2足す2は4だと知ったら、その人は5に打ち勝って4にしたなどというだろうか。
きっと、「勝ち負けの問題じゃない。5ではなかっただけのことだ」
というにちがいない。
5したのは間違いだった。
それは勘違いだった。
計算が違っていただけで、合計は4だ。
その人は五だと思っていた。
その人の思い違いだった。
間違いに気づきさえすれば、ことは終わりだ。

「どうすれば5を追い払えるだろう。
もう2足す2は4だとわかった。
でも以前は5だと思っていた。
どうすれば5から自由になれるだろう」
などというだろうか。
そんな自由を求めたりはしない。
2足す2は4であることを発見したとたん、ことは終わりなのだから。
もはや5は存在しないのだ。
だとすれば、何から自由にならなければいけないというのかね?

死から自由になる必要もなければ、死に打ち勝つ必要もない。
死を知ることが必要だ。
まさにその知ることが自由となり、知るととそれ自体が勝利となる。
だからわたしははじめにいったのだ。
知ることは力だ、知ることは自由だ、知ることは勝利だ、と。

死を知ることによって、死は消えてゆく。
そのとき不意に、はじめて、われわれは生と結ばれる。


『死・終わりなき生』(オショー ラジニーシ 著、講談社 刊)

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無垢

どの子供もみな、知識を詰め込まれている。
子供の純真さは、何とかして取り去られねばならない(と社会は仕向ける)。

なぜなら、純真さはこの競争社会では彼の役に立たないからだ。
子供の純真さは、世間からはまるでうすのろのように見えるだろう。
彼の無垢は、あらゆる可能な方法で食い物にされるだろう。

社会を恐れ、世間を恐れて、私たちは自分自身を創ってきた。
私たちはすべての子供を、りこうで狡猾な、もの知りに仕立て上げようとする――しいたげられている者や権力のない者の範疇にではなく、権力者の範疇に所属させるべく。

そして、ひとたび子供が間違った方向に育ちはじめたら、彼はその道を進みつづける――彼の生全体がその方向に動いてゆく。

いつであれ、自分が生を取り逃がしてきたとわかったとき、まず最初に取り戻すべき原則は、無垢だ。

あなたの知識を落としなさい。
あなたの聖地を忘れなさい。
あなたの宗教、あなたの神学、あなたの哲学を忘れなさい。
もう一度生まれて、無垢になりなさい――そして、それはあなたの手の内にある。

あなたが自分で知ったものではないすべてを、借りもののすべてを、伝統や因習から来たすべてを、他人から――親、先生、大学から与えられたものを取り除き、自分のマインドをきれいにしなさい。
ただ、それを取り除きなさい。

もう一度純真に、もう一度子供になりなさい。


『生・愛・笑い』(和尚 著、めるくまーる刊)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

主観と客観

いかなる言語も、内なる体験、主観的な体験を翻訳することはできない。

その理由は単純だ。
言語というものは、客観的世界の事物や人々を表わすために生み出されたものだからだ。
いかなる言語も、あなたの実存の内奥の中心を表わすためには生み出されなかった。
なぜなら、同じ体験をした二人がそこで出会っても、何も言う必要がないからだ。
彼らの臨在そのもの、彼らの沈黙そのもの、彼らの深いまなざしとその優美な仕草でことは足りる。

起こりうる状況は三つしかない。

光明を得たニ人の存在が出会う。
この場合は言語は不要だ。
二人とも言語を超えたところで出会う。
彼らの出会いは無心の出会いだ。

二番目の状況は、光明を得ていない二人が出会い、多くを語り合う。
彼らはものものしい言葉、哲学、形而上学をふんだんに用いるが、それらはことごとく無意味なものになる。それは彼らの体験によって裏づけされていない。
彼らは、他人の言葉をくり返すオウムにすぎない。
明らかに、彼らには覚者たちの言語を生み出すことはできない。
彼らはあなたの実存の中核に何があるのか見当もつかない。

第三の可能性は、光明を得ている人と光明を得ていない人との出会いだ。
光明を得ている人は知っている。
光明を得ていない人は知らない。
だが、たとえ光明を得ている人が知っていても、それだけで伝達できるわけではない。
知っているということと、それを言葉にして伝えるということは別だ。

あなたは愛がどういうものか知っている――唄うこともできるし、踊ることもできる。
だが、愛がどういうものか、それを一言で言うことはできない。
それを手にすることもあれば、それに圧倒されることもある。
愛の極みを体験することもある。
だが、それでもその断片ですら言葉にすることはできない。
言葉は、それを表わすようにはできていない。
それをひとつの言語から別の言語へと移し換えることはまず不可能に近い。


『臨済録』(和尚ラジニーシ 著、めるくまーる刊)

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

苦しみ

創世の初め以来、災厄や悲しみがあった。
なぜリシたちが事態を正さないのかとあなたはたずねる。
ヴェーダは大昔から存在した悪魔(アシュラ)について記している。
争いや災厄をつくりだす世界の反対勢力があったが、それが人類を成長させ進化させるのである。
それが美とともに存在する本質的な力である。


質問者:世界におけるすべての苦しみと悪の目的は何ですか。

マハルシ:あなたの質問はそれ自体が苦しみの結果です。
悲しみは人をして神を信じさせます。
それが苦しみのためでないとしたら、あなたは質問を発したでしょうか。
ジニャーニ(覚者)を除いて、王様から小作農民まですべての人がなんらかの悲しみをもっています。
たとえそれが存在しないように見える場合にさえ、それはたんに時間の問題であり――遅かれ早かれそれはやってきます。
また、人ははじめは悲しみや神について問うことはなくても、しばらくすればたぶんその聞いを発するでしょう。
私たちは、自らの真の状態を知るために、この乗り物(身体)に乗ってきたのです。

質問者:しかし、なぜ完全なものから不完全なものが現われてこなければならなかったのですか。

マハルシ:もしそれが宇宙の顕現ではなかったら、われわれは真の状態についての想念をもたないでしょう。
宇宙の顕現の目的は、あなたにその原因を知らせるためなのです。
あなたが自らの真の状態を知るとき、マーヤ(幻影)は存在しません。
もしあなたが自分自身を知らないとすれば、それはあなたの過ちです。

質問者:それでは世界は本当によく計画されているのですか。

マハルシ:それはまったくよく計画されています。
誤りはあなたの方にあります。
私たちがその誤りを正せば、世界の全体計画はよくなります。

質問者:どのようにして世界の苦しみを変えることができますか。

マハルシ:真我を実現しなさい、それが必要なすべてのことです。

質問者:世界は物質的なものです。そのための救済法は何でしょうか。

マハルシ:物質的であるか霊的であるか、それはあなたの見解によります。
あなたの見解を正しなさい。
創造者はどのようにして自らの創造の面倒を見るかを知っています。

質問者:世界は進歩していますか。

マハルシ:世界を統治する一者がいます。
世界の世話をするのはかれの仕事です。
世界に生命を与えたのはかれであり、またどのように世話をするかを知っています。
もしわれわれが進歩すれば、世界は進歩します。
あなたがあるがままに世界もあります。
真我を理解せずに世界を理解するどんな効用があるのでしょうか。
真我の知識なしには、世界の知識など必要ありません。
あなたの至高の真我の眼を通じて世界を見なさい。

質問者:飢餓や伝染病など、世界にはぴこっている災害があります。この事態の原因は何ですか。

マハルシ:このすべての事態は誰のところに現われているのですか。
あなたは睡眠中には世界とその苦しみに気づいていませんでした。
あなたは、目覚めている状態においてのみそれらを意識しているのです。
世界に気づいていなかった状態を持続しなさい。
そのとき、その苦しみはあなたに影響することはなかったのです。
あなたが真我として(眠りの中でのように)とどまっているとき、世界とその苦しみはあなたに影響を与えることはないでしょう。
それゆえ内部を見ていなさい。
真我を探し求めなさい。
そのときには、世界とその苦難は終わりを告げるでしょう。

質問者:しかし、それは利己的です。

マハルシ:世界は外部的なものではありません。
あなたは誤ってあなた自身を身体と同一視し、あなたが世界を見ているからです。
世界の苦痛はあなたに現われるようになったのです。
しかしそれらは実在するものではありません。
実在を探し求めなさい。
そしてその実在しない感情を取り除きなさい。

質問者:世界の悲惨を解決できない偉い人や公務員たちがいます。

マハルシ:彼らはエゴ中心的であり、したがって無能です。
もし彼らが真我の中にとどまっているならば、彼らは違ったものであるでしょう。

質問者:なぜ真我はこの悲惨な世界として現われたのですか。

マハルシ:あなたがそれを探し求めるように。
あなたの目は自分自身を見ることができません。
しかし、その前に鏡を置きなさい。
そうすればただそれだけで目は自分自身を見るのです。
(神の)創造物についても同様です。
まず、あなた自身を見なさい。
それから全世界を真我として見なさい。

質問者:なぜ宇宙には悲しみと災いがあるのですか。

マハルシ:それは神の意志です。

質問者:どうしてですか。

マハルシ:神は計り知れないものです。
その力はいかなる動機ももつと考えることはできませんし、いかなる願望も、達成すべきいかなる目標も、その全知・全能の存在のものと主張することはできません。
太陽のように、神はかれの現存の下で生ずる諸活動によって手を触れられることはありません。
もし心がさまざまな出来事のために満足せず落ち着かないならば、解決として神の意志を受け入れることはよい考えです。
こうして、自分自身を神の道具と見なすことによって、責任と自由意志の観念を弱めること、神の望むだけ行ないそれに耐えることは、賢明なことです。

質問者:なぜ完全一なものの中に不完全なものがあるのですか。

マハルシ:誰にとって相対性があるのですか。
誰にとって不完全なものがあるのですか。
絶対者は不完全ではありません。
絶対者が包み隠されている、とあなたに言うでしょうか。
何かが絶対者を覆っていると言っているのは個我です。

質問者:われわれは人口過剰が原因で多くの苦難がある、と感じています。
しかしわれわれが存在しなかったなら、苦難も現われなかったでしょうか。

マハルシ:われわれは出生の原因を見いだすことによって、この苦難の原因を見いだすことができます。
もし生まれてくるもの(エゴ)が知られるなら、災いは消滅します。

質問者:わたしは病と死の恐怖にとりつかれています。

マハルシ:誰が病気になるのですか。
あなたは病気になっているのですか。
もしあなたが自分とは何かを分析すれば、病気はあなたに影響を与えることができないことを知ります。
あなたは何ですか。
あなたは死にますか。
あなたは死ぬことができるのですか。
アートマンのことをよく考えなさい。
それをよく理解しなさい。

質問者:私は試みています。しかしそれは長く私の心にとどまっていないのです。

マハルシ:修練が完全なものをつくりだします。

質問者:その間に?

マハルシ:その間、苦しみはないでしょう。

質問者:私たちは世俗世界で生活しています。
そしてある種の悲しみなどを味わっています。
私たちは助けを求めて祈りますが、それでも満足しません。
何をすればよいでしょうか。

マハルシ:神にまかせなさい。
もしあなたが自分を投げだせば、あなたはかれの意志に従うことができるにちがいありません。
そしてあなたが望むように事が運ばなくても悲しむことはありません。
物事はそれが現われてきたのとは異なった結果になっていくでしょう。
災難はしばしば人ぴとを神に対する信仰へと導きます。

質問者:真我の探求は、苦しみ悲しんでいる世界では利己的です。

マハルシ:海はそこにある波に気づいていません。
同様に、真我はそこにあるエゴに気づいていません。

もし一人の人の幸福が外的な環境と所有物に基づくのであるならば、人はなんらかの所有物なしにはどのような幸福も得ることはできないでしょう。
実際の経験はこのことを示しているのではないですか。
いいえ。
深い眠りのあいだ、人は身体を含めてすべての所有物を欠いています。
しかし人は不幸である代わりに、この上なく幸せな解放を享受します。
人は誰でも気持ちよく眠りたいと思うのではないですか。
それゆえ幸福は外的な原因に基づくのではなく、真我の中に戻ることなのです。
純粋な「私」、すなわち実在が忘れられたときあらゆる種類の苦しみが急に起こります。
しかし真我がしっかりと保たれているときには、苦しみはその人に影響を与えることはありません。
真我から離れることが、すべての苦しみの原因となってきたのです。


『不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話』(ナチュラルスピリット刊)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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