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もう古い自分に戻れないときがくる

人間は、もう少しで目覚めて、本当に素晴らしい叡智が手に入りそうというところまで来ると、一歩下がってしまう。
また進むとまた下がってしまうということを続けています。

後退する原因は、人々は慰めを欲しているということです。
その慰めは、なじみのある古い世界観なのです。
なじみのあることは、私たちを安心させます。
たとえなじみあることが苦痛であっても、慰めになるのです。

本当に拡大し始めると、自分が全部の情報にアクセスできるし、自分の周りのものすべてを、より拡大した意識で感覚的に体験することができます。
だから、誰かと話すだけではなくて、相手の感情とか、体に痛みがあったらその痛みまでも全部感じてしまいます。
相手の人と完全につながることができるのですが、それは自分の全身がさらされることになります。

私たちが外国に行くとき、飛行機の翼の上に立っていたら、落ちるのではないかと怖いし、体全体に外気をまともに受けなくてはなりません。
飛行機の中にいたほうがずっと楽です。
そういうフィーリングなのです。

そのために、意識が拡大すると普通の慰めという感覚の枠から外れてしまいます。
そこまで出てしまうのは本当に怖いので変えたくない、これまでのように布団にくるまって、無意識になって眠りたいと思ってしまうのです。
本当にいいところまで行くのに一歩退くという感じです。
でも、叡智を手に入れるのは本当は、すばらしいことです。

私がクライアントさんとワークをすると、境界線がなくなります。
クライアントさんは簡単に変わることができるのです。
クライアントさんは、私のそばにいる間に明晰になって、完全性を感じます。
しかし、セッションルームから出て日常に戻ってしまうと、新しいアイディアは自分の中に入っているにもかかわらず、古い考え方に戻ってしまいます。

ですから、誰かが「私は変化したい」と言ったときに、私は「家族の中にあなたの変化を望まない人が、誰かいますか?」という質問をします。
身近な人で、あなたに変わってほしくないと一番強く思っている人は誰か。
今までのあなたと違ってしまっては困ると思う人は誰かということです。

みんな、自分は変わりたいと思うのです。
変わらなくては、というインスピレーションも来ます。
でも、親がいたり、子供がいたり、家族や愛する人がいるので、変わるのは大変なのです。
だから、そこで進みかけても一歩退いて、古いやり方に戻ります。
そこでちょっと慰められるのです。
そしてまた、自分がやっていることは何かを確認するチャンスが来ます。
もう一度見ると、古いやり方がどんなものかわかります。
その確認がとれると、また前に進めます。

子供時代の友達と交友が続いていないとしたら、自分自身が拡大してしまって、その部分は終わったということです。
誰かが電話してきで、「今度、東京に行くからぜひ会いたい」などと言われたら、自然にあなたの意識の一部はちょっとスリルを感じます。
みんなどうしているのだろうとか、何をしてきたのだろうとか、どんなやつになったかなとか思います。
同窓会などはそのためにあるのかもしれません。
友達関係の中で、自分はどう変化してきたかということを知ることで、自分自身を知ることができます。

前進、後退を繰り返しながら進んでくると、あるポイントで、遠くに行き過ぎてしまって境界を越えてしまう時点が来ます。
そうすると、もうもとには戻れません。
言わば変異するというのでしょうか、肉体的にも精神的にも感情的にも一種の変異が起きて、もう古い自分には戻れなくなります。
それが量子的飛躍――クォンタム・ジャンプです。

自分の前世を知る、輪廻転生を知ることが、量子的飛躍です。
過去世で、いろいろな人生を反射的に反応しながら生きて、ゆっくり転生を繰り返してきました。
量子的飛躍をすると、その結果、すべての過去世が見えるようになります。
すると自分は、こんなふうに進んできたというのが見えるし、すべての転生が、今自分がここにいるその瞬間に対して、全部収束しているのだということがわかります。

そして、小自我を手放して、自分がかつて過去世で誰であったか、あるいは自分がどういう人間になるのかということに一切恐れを抱かなくなります。

多くの人が、過去世で自分がひどい悪人だったらどうしようと怖がるのですが、私はその人に、
「自分が悪者だったことがありますようにと、ぜひ祈ってください」と言います。

というのは、もし悪人であった過去世がないなら、これから未来にそれが起きる可能性があるからです。
未来で悪いことをしなければいけなくなる。
魂は、そういうすべての体験をするためにこの地球に来ているのです。

物語の1つの側面だけを体験しても、それでは済みません。
反対側も見なければならないのです。


『新・光の12日間―5次元へのシフト』(ゲリー・ボーネル 著、大野 百合子 訳、徳間書店刊)
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

いくつもの現実

セッション531

あなたとは別に、個々に自分の現実に焦点を絞っている独立した自己があり、あなたはそうした自己の一部でもあるのですが、それだけではありません。
そこには共感をべースとした相互関係が存在するのです。
この相互関係のおかげで、例えばあなたの体験が物理的な知覚作用によって制限される必要がなく、他の独立した自己に属する知識を利用することが可能なのです。

あなたは物質的現実から焦点を外す方法や、新たな知覚の方法も学ぶことができます。
その結果、みずからの現実の概念を広げ、みずからの体験を大幅に拡大することができるのです。

あなたがたが別の現実に目を投じようとしないのは、「物質的な在り方」が唯一、存在根拠のあるものと信じているからです。
テレパシーや遠隔透視などの能力は、別種の知覚能力の存在を知らしめる手がかりの役目を果たしているのですが、あなたがたは平素の覚醒時にも睡眠時にも、極めて「限定的な」体験のなかに浸りきっています。

いわゆる意識の流れというものは、思考やイメージや感動などのひとつの小さな流れであり、それよりずっと深遠たる意識の大河の一部にすぎません。
その意識の大河は、あなた自身の存在や体験が如何に壮大かを表わすものです。

あなたはもてる時間の限りをつくして、この小さな流れをあれこれ吟味しますが、その間にその滔々たる流れに魅了されて運行に耽溺するのです。
それとは別の知覚や意識の流れも、あなたに気づかれることなく同時進行しています。
しかしそれらは、間違いなくあなたの一部なのであり、極めて存在根拠の確かな局面や出来事、行為、そして感情を表わしています。
あなたは別の現実の層にありながら、それらとも関わっているのです。

現在のあなたがたが、一番に焦点をあてている現実に対してそうであるように、それとは別の現実とも積極的かつ活発に関わり合っています。
概して今のあなたがたは、単に自己の肉体と物質的な面のみを気にかけているため、それらに関係すると思われる意識の流れにだけ注意を傾けているのです。

しかし、それとは別の意識の流れも、あなたが知覚していない他の自己である形態と繋がっているのです。
肉体は、換言すれば、あるひとつの現実においてあなたが何者であるかという、ひとつの発現にすぎません。
しかし、あなたはさらに別の現実において別の形態をまとって存在しているのです。

どれだけ初歩的な意味においても、「あなた」はそうした別の意識の流れと切り離されているわけではありません。
別の意識の流れや、それらが関与する出来事とあなたを分け隔てるものは、あなたが注目する焦点のほかにはありません。
もし、あなたが自分の意識の流れを無色透明なものとして見るのであれば、その向こう側や下方にある別の水底(みなそこ)に横たわる別の現実を見つけることを学ぶでしょう。
さらに現在の意識の流れを超越し、あなたの意識の流れと平行に進む別の流れを知覚することを学ぶでしょう。

ここで肝腎なのは、あなたの既知の自己が、自分はその既知の自己に限定されたままであると考えていたり、「個としての存在すべてを内包する全体自己」より大きくかけ離れていることに気づいていない場合は、いつまでも既知の自己に限定されたままであるということです。

あなたがたは、今でも頻繁に、そうしている自覚のないまま意識の別の流れに同調しています。
再び繰り返すことになりますが、そうした流れも、あなたがたの「自己としての存在」という同じ流れの一部なのです。
よって、すべては繋がっているのです。

いかなる創造的な仕事も、その共同作業の過程においてあなたを必要としています。
あなたはそうしたプロセスにあって意識の別の流れに浸かりながら、既知の平素の狭い意識の流れから生じるものよりも、はるかに多くの次元を知覚できる能力を獲得したうえで、そこからの浮上を学ぶことができます。

偉大な創造性というのは、それゆえ多次元性を帯びているのです。
また、その発祥源は、ただひとつだけでなく多数の現実に及んでいるため、そこにも発祥の多様性の現われを見て取ることができるのです。

偉大な創造性とは、常にその純粋に物理的な実質や局面よりも壮大な何かを感じさせるものです。
そして、いわゆる平凡なものとは対照的に、不意に飛び込んでくるような感覚や、はっと息をのむような驚きを観察者にもたらすものです。
このような創造性は個々の人々に、反射的に多次元的現実の記憶を思い起こさせるはたらきがあります。
よって「汝自身を知れ」という箴言(しんげん)は、これまで大多数の人々が考えてきた以上に意味深い言葉なのです。

現在のあなたがたも、一人きりの刹那に意識の別の流れに気づく可能性があります。
例えば、時おり自分の思考の文脈からまったく外れた言葉を聞いたり、イメージを見ることがあるかもしれません。
あなたの受けた教育、信条、出身などによって、それらに対する解釈もまちまちかもしれませんが、そうした現象については、実際、複数の源泉から生じている可能性もあります。

しかし多くの場合は、無意識に別の意識の流れに同調したり、別の部分が存在している別のレベルの現実に通じる情報回路が一時的に開かれたことで生じたものと考えられます。

そうした現象のなかには、転生と呼ばれる自己の、すでに知っている歴史上の別の時代に焦点を当てた見解が関与してくることもあるでしょう。
もしくは、あなた自身の知識への願望、好奇心、超自然的事象への順応性、あるいは好みなどによって、確率的偶然の自己が関与している出来事を「拾い上げる」ことになるかもしれません。

言い換えれば、あなたが現在認識している現実よりも、はるかに壮大な現実に気づいたり、また、すでに自分にそなわっていると気づかなかった能力を使えるようになるかもしれない、ということなのです。
なおかつ、みずからの意識と個としての在り方が、現在あなたが第一義的な注意の焦点と決めているこの世界には依拠していないことが、明確に理解できるようになるでしょう。
そのことが、かりに真実でないと言うのであれば、わたしがいま本書をしたためていることはないでしょうし、あなたがこれを読まれていることもないでしょう。

さて、あなたのそうした別の存在たちは、あなたが起きていようが眠っていようがかなり陽気にやっていけるものなのですが、あなた自身は普段目を醒ましている間、それらを除外してしまいます。
むしろ夢見の状態でのあなたのほうがそれらの存在をずっとよく知っています。

しかし、夢には終局のプロセスというものがあり、終わり近くの部分では密度の高い精神的あるいは超自然的な体験が繰り広げられます。
通常、夢主の記憶に残るのは、残念ながらこの夢の終局部分に解釈が施された変形版なのです。
この終局部分では、基本的な体験ができるだけ物理的言語に近づくように置き換えられます。
つまり、そこに歪曲が生じるということです。

しかしこの「最後の仕上げ」とも言うべき変換は、深層の自己による仕事ではありません。
これは認識されているよりも、ずっと意識的プロセスに近いものなのです。

これから指摘する些細な点が、ここでわたしが言わんとしていることを説明してくれるかもしれません。
思い出したくない特定の夢がある場合、あなたがたはとりわけ顕在意識に近いレベルで、みずからその夢の記憶を抑圧します。
夢の記憶を故意に見限るこうした行為そのものを自覚することさえ、往々にして可能なのです。
その「仕上げ」の変換プロセスは、それとほぼ同じレベルにおいて起きますが、まったく同じというわけではありません。

そこでは夢の基本的な体験に、たちまち可能な限りの物質的装いがなされます。
これは、あなたがそうした体験を理解したいと欲しているからでなく、根底において非物質的状態のままでの受け入れを拒んでいるからなのです。
しかし、すべての夢がこうした性質のものではありません。
なかには夢自体が、あなたの日常的活動と繋がる霊的あるいは観念的領域で展開するものもあります。
そうした場合には、「仕上げ」の変換は不要になります。

ですが睡眠中の体験でも、極めて深いレベルに達しているもの――それらは、いわゆる夢を研究する科学者たちによっても未だに取り上げられていません――については、そのなかで、あなたとあなたの別の「個としての存在」と、それらが存在する現実との間に意思の疎通が営まれているのです。

そこでのあなたは仕事や試みにも熱心に従事し、真剣に取り組みます。
そうした仕事や試みは、既知の興味や関心事と繋がりのある場合も、そうでない場合もあります。
あなたは学び、究め、そして遊びます。
つまり「眠る」という言葉から連想するようには、少しも眠っていないことになります。
「眠っている」あなたがたは、極めて活動的な状態にあります。
体験のまことの核心にあって、前衛的な仕事に関わっているのです。

さて、ここで強調させていただきたいのは、あなたがたが睡眠中にただの無意識状態にあるわけではないということです。
通常そうした仕事のことが朝にはまったく記憶に残っていないせいで、無意識であったように思われるだけなのです。
しかし、ある程度は、そうした夢境での活動に気づいている人々もおられますし、あるところまでなら、それらを思い出す方法も実在します。

例えばあなたがたが本書を読まれている時のような意識状態の重要性を、低く見るつもりは毛頭ありません。
ですが、当然あなたがたが目を醒ましていると思われる時であっても、あらゆる意味において、いわゆる夜ごとの無意識状態にある時よりも、起きていながら休んでいる時間が多いのです。
夜の無意識状態にあるあなたがたは、みずからの現実をより広汎にわたって自覚していますし、昼間のあなたがたが否定したり見て見ぬふりをしている能力を自由に使っているのです。

極めて単純なレベルにおいては、例えば、睡眠状態にあるあなたの意識は頻繁に肉体を離れ、あなたの知るところとなっている他の現実レベルに在る人々と意思の疎通を図ります。
しかし、それよりもはるかに創造的なやり方で自分の物理的形態を然るべき状態で維持し、なおかつそれに新たな活力を与えているのです。
あなたは日ごとの体験を整理し、「未来」と見なすところへ投影します。
そして、無数の確率的偶然の出来事のなかから物質化させるものを選り抜き、それを物質界にもたらすための観念的あるいは霊的プロセスを始動させるのです。

同時にあなたは、自身の別の「個としての存在」すべてに対して、おのおのがその情報を利用できるように取り計らっています。
そして、まったく異なる現実に暮らしているそうした存在も、それに匹敵する情報をあなたにもたらしています。
あなたは通常の目醒めている状態の自己との繋がりをなくしたわけではなく、ただそこに焦点を合わせていないだけです。
いわば、そこから意識を逸らした状態にあるのです。

昼間のあいだは、単にそのプロセスが逆に働いているにすぎません。
もし、あなたがたが普段の自己を、他方の見地に立ってご覧になったとしますと、さて、ここでも比喩を用いることにしますが、あなたが睡眠中の自己を観察するのと同じくらい、物質的な存在である目醒めている自己が異様に映るかもしれません。
この比喩は、いつまでも持ちこたえる類いのものではありません。
それは単に睡眠中の自己が、あなたがたがこれだけ得意気に思っている目を醒ました時の自己よりも、はるかに聡明であるからです。

眠りと目醒めの外見上の区分けは恣意的なものでもなければ、強制されたものでもありません。
そうした区分けの存在は、単にあなたがたの現時点の進化の段階に起因するものであり、徐々に変化していく性質のものです。
今でも多くの人々が別の次元へと小旅行に出かけては、目を醒ました日常生活の一部として、別の意識の流れの中をいわば泳ぎ進む体験をしています。そうした流れの水面から、時おり奇妙な魚が躍り出ることもあるのです。

さて、あなたがたの見地から見たとき、別の現実の次元をぬってあなたがたのもとに泳ぎ着き、己の存在次元よりむしろあなたがたの存在次元を見守るわたしは、明らかにそうした魚と映るに違いありません。
したがって、精神的かつ超自然的体験のすべての象徴的大河の流れや、すべての意識の流れのあいだには情報回路が存在するのです。
そのために、あなたがたの次元からも、わたしの次元からも船出が可能なのです。

さて、ルパートとジョーゼフとわたしは、当初から同一の「存在」、あるいは同一の個の総体に属し、ともにその一部なるものです。
よって、象徴的に申しあげれば、わたしたちを結び付ける超自然的流れが存在するということになります。
こうした流れはすべて、意識の大海になぞらえるものへと流れ込んでいきます。
実際にそこは、いっさいが湧き起こる源泉なのです。
したがってどの意識から始めようとも、理論上あなたがたは他のすべての意識と出会うことができるのです。

さて、自我は、しばしば他のすべての知覚結果をせき止めるダムのような働きをすることがあります。
それは自我が故意にしているのではなく、そのような行動をとるのが自我の性質だからであり、それが自我の主要な機能であるとさえ言うことができます。
しかしそれは単に、あなたがたが自我の目的について、発展的というよりも限定的であると教えられてきたからなのです。
実際あなたがたが、自我は自己の極めて弱い部分であると考えているために、はるかに強力で説得力があり、危険そのものでさえある自己の他の領域から、自我はみずからを防御する必要があると思っています。

また、あなたがたは自我に目隠しすることを教え込んできましたが、それは自我本来の傾向に、まったく反しています。
自我は、物質的現実を理解し解釈を試みて、できれば順応したいと思っています。
しかもあなたの物質的存在としての存続を助けようとしているのです。
しかしあなたがたは、自我に目隠しを強いることで、自我の知覚や生得の柔軟性を奪ってしまいます。
さらにそうした理由で融通性に欠ける自我を指さして、これが自我の本来の機能であり性質なのだと言うのです。

自我は、あなたが知覚を許していない現実には順応することができません。
自我が自分のやりくりしていく場の嘘偽りない状況を見抜くために、自己の能力をすべて使うことをあなたが容認しない限り、自我はあなたの存続をいい加減に援助することしかできません。
あなたがたは自分で自我に目隠しをしておきながら、自我の洞察力のなさを嘆いているのです。


『セスは語る―魂が永遠であるということ』(ジェーン・ロバーツ 著、紫上 はとる 訳、ナチュラルスピリット刊)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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