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キリストの復活と七つの意識レベル

7

さて、前生において、あなたは決して光よりむ先に進むことはなかった。
あなたがこの生に戻ってくる前に、光のもとで、あなたは自分の前生を回顧した。
その回顧は、光の体の中で行われた。
その人生を振り返るとき、すべてのエネルギーが展開され、あなたが何をしたのか、あなたが誰であったのか、あなたが何を達成したのか、あなたがどのように進化したのか、また何を進化させなかったのかが、生きたスクリーンの上に映し出された。

それはただエネルギーをほどき、それが上演されるのを許したのだ。
それから、あなたがこの天界に戻ることを決心したときも、あなたは肉体ではなく、光の体を使って考えていた。
しかし、あなたは肉体の中でもっとうまくやれたはずだということをまだ認識していた。

光に向かって進む存在たちが彼らの人生の回顧について語り、しかも、審判という認識をもって回顧していたというのは面白いことではないか?
彼らはこの脳を持っていなかった。
彼らはそこで見たことをどうやって評価したのだろうか?

彼らは脳を持っていたのだ。
その脳とは、何だったのか?
それはここにある灰色の組織の脳ではなく、彼らが宿っている体の脳だ。

あなたが死ぬと、直ぐに赤外線領域に入って行く。
それはサイキックな領域だ。
サイキックな領域から光のシャフトが現われ、あなたがそれを降りて行くと、実際には、あなたは赤外線領域の低い周波数帯から高い周波数帯に移動しているのだ。

それから、あなたは光にぶつかる。
その光とは、誰だろうか?
あなただ。
そこは、あなたがすべてを眺める場所だ。
あなたが自分の肉体的な人生についての決定をしている間も、他の四つの潜在的な生命、体は、光の中に畳み込まれて存在している。

そして、あなたが続けているのは、この人生に一戻ってくることに同意することだけである。
何人が理解しているだろうか?
従って、あなたはこれら四つの体(上位のシール)を全く変えなかった。
全く変えなかったのだ。
それは言わば、隠れているのだ。

我々は常に光の体を変えているが、それは、光の体がもっと若々しく、健康なこと以外は、今のあなたが入っている体とちょうど同じようなものだからだ。
なぜそれは今のあなたの体と同じように見えるのだろうか?
なぜなら、今のあなたの肉体は、それを今見えているようにする精神を光の場に与えなければ、そのように見えることはなかったはずだからだ。
何人が理解しているだろうか?
だから、我々はいつも光の体、赤外線の体と肉体をリサイクルしている。
しかし、我々は上位の四つの領域にある隠れた体をまだ使ってはいないのだ。

さて、私の話についてきなさい。
眠ってはいけない。
私はたくさんの知識をあなたに伝えようとしているのだ。
退屈しないように。

それらの体のすべては、あなたの内側と周囲にある。
あなたが自分の手を見て、前に話した原子の場について考えたならば、このことについて考えてみて欲しい。
ひとつの原子の放射の場は、それらの体の放射場に相当する。
言い換えれば、あなたの手のあらゆる原子は、七つのレベルの時間によって構成されている。

わかっただろうか?
つまり、手は七つのレベルがこれ(物理的な物体)に凝縮されてできたものなのだ。
しかし、もし我々がその現実に挑戦したらどうなるだろうか?
我々が自分の体がこのように見えるのを無視して、違うように見えることを主張し続けるとどうなるだろうか?
そうすることは可能なのだろうか?

何人がそう思うだろうか?
もちろん、可能だ。
これは電子にはあてはまるが、あなたにはあてはまらないなどと、量子力学は言っていない。
あなたの体の回りのこの場は、あなたの体の組織の中に隠された七つの体を持っている。
これが死んだとき、まずは、ひとつの体を手放す。
その体は赤外線になる。
しかし、赤外線の体には、他のすべての体が含まれており、あなたはそれらを脱ぎ去って行く。
あなたは理解しているだろうか?

では、これや、これや、これや、これ(上位の四つの体)は、イエシュア・ベン・ヨゼフがキリストになったのと、どんな関係があるのか?
というのも、彼は神の上位の王国にアクセスしていることを証明しなければならなかったからだ。
そして、彼は奇跡を行ったり、教えを与えるというあらゆる方法でそれを証明した。
しかし、すべての人が心の奥底で恐れるものがただひとつあった。
それが死だった。

その時代、ギリシャ系ユダヤ人だけが輪廻転生を信じる人々だった。
アブラハムのユダヤ人は、転生を信じていなかった。
彼らは地獄を恐ろしい所だと信じていたが、Hellという言葉は、もともと、遺体が(動物に食べられて)ばらばらになってしまうような浅い墓という意味にすぎなかった。

イエシユア・ベン・ヨゼフは、ひとつの文化の人々に死後にも生があることを見せなければならなかった。
そして、彼がそのためにとるべき方法とは、自分自身の生命を犠牲にすることだった。
従って、彼はここ(第一シール)の意識と、ここ(第二シール)の意識を引き上げなければならなかった。
体を死なせてから、次々にすべての体を開きながら―ずっと上まで―ちょうどここ(第七シール)まで移動しなければならなかった。


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そして、彼は「私の父と私は一体である」と言い、
「私の精神は、もはやこの恐ろしい時代のダピデの家からのものではない。
私の精神は、内面の父そのものである」と続けたのだ。
この精神とは誰のことだったのか?
第一の精神のことだ。

それから、彼はそれらの体の一つ一つをすべて脱ぎ、光の体さえも脱いで行かねばならなかった。
彼はそれを身につけていることができなかった。
彼はブルーボディを顕現させるために、光の体を脱ぎ去らなければならなかったのだ。
彼はシパであるブルーボディを脱ぎ去らなければならなかった。
こうして、彼はゴールデンボディを顕現させた。
彼はゴールデンボディを脱ぎ去ると、ローズボディに到達し、それから「未知なる無限」に行かなければならなかった。
そして、彼がそこまで行って初めて、もはや腐敗しない存在になったのだ。

彼が下にある体を復活させ、それに生命を与えたのは、ちょうどここ(第七の天界)の状態からだった。
彼が体に与えたのは生命だ。
言い換えれば、ここでの彼の肉体は、光の周波数に近いところで振動していた。
そして、彼は人々と交流して最後の教えを与えられるように自分の体の波動を遅い状態に保ったにすぎなかった。

なぜその体はそれほど速く振動していたのだろうか?
彼の意識がそのレベルにあったからだ。
今や神が人になっていた。彼は体の波動を上昇させ、その物質を再構成させた。彼はそれを神の点から再構成したために、それはとても速く振動していた。

では、彼が去ったとき、どこに行ったのだろうか?
彼はただ周波数を上昇させただけなのだ。
言い換えれば、彼はこの原子の周りでこれを回転させ始めたのだ。
すると、その回転が原子核の内側に向けて崩壊し、今度は原子核が回転を始めた。
彼はそれをやり続けている間―その問中―、そのすべての回転によって、それらの粒子のどれもが自由な空間に入ることができるようになった。

こうして、彼は七つの体を展開させたのだ。
だから、彼が消えたとき、彼は光の中に消えて行ったのだ。

さて、彼がキリスト、覚醒した存在と呼ばれるようになったのは、このときだった。それが最後の試練だった。
彼の意識は絶対的にこれと一体になり、死さえもその精神に逆らえないほどになる必要があった。
その結果、今やこの存在にまつわる偉大な伝説や神話や宗教が存在している。
しかし、あなた方に全く語られてこなかったことがある。
イエスはあなたの人生を救うために来たのではなく、むしろ、人間の中にある神の力を体現した一人のマスターだったということだ。

誰であろうとそれを見る目を持っていれば、それが理解できただろう。
そして、誰であろうと、そのメッセージを聞く耳を持っていれば、メッセージが与えられただろう。
そして、人々は人間の聖霊が永遠へと変容していくことを理解できるほど単純にならなければならなかった。
それが実演されていたのだから。
それは彼だけによって示されたのではない。
人々はすぐ忘れてしまうので、ずっと昔からあらゆる文明において、それは示されてきたのだ。

では、今、我々は何を持っているのか?
イエスが神の唯一人の息子だとする宗教だ。
彼だけでなく誰もが神の息子、神の娘なのだから、全くナンセンスな話だ。
それに、彼はあなた方を救うことはできない。
もし彼にそれができたなら、一世紀にそうしただろう。
わかっただろうか?
だが、彼のメッセージはこうだったのだ。
では、どうして、彼は弟子たちにこれを教えなかったのだろうか?
彼らが単純な人々だったからだ。
彼らは漁師だった。
彼らは税金徴収者だった。
彼らはちょうどあなた方のような人々だった。
どうしたら、彼がそれを彼らに教えることができただろうか?
彼にはできなかったのだ。
彼にできたのは、寓話や行動を通して教えることだけだった。
そして、彼はこう言った。
「信じなさい。あなたの目があなたに嘘をついたなら、その目をつぶしなさい。
あなたが信じているのに、あなたの腕があなたに逆らうなら、それ切り落としなさい」。
それは、あなたの肉体が何を主張しようとも、それは真実ではないということを表現するための例え話だったのだ。
わかっただろうか?


『ラムサの教え』(後藤雄三 訳、ホームポジション刊)
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

来たるべき時代

地球がもともと持っている方向性は、変化のサイクルにしたがって動くことである。

この変化のサイクルがあることによって、ここに転生してくる魂は、混沌の中で、あるいは平穏の中で、自らの心を変化の方向に向ける能力を獲得することができるのだ。

歳差運動には重要な理由がある。
地球がこのような長い周期を持ち、そのサイクルを完了するまでにこれほど長い時間がかかることには重要な理由があるのだ。

その理由とは、進化するスピリットであるあなた方に、平和と豊穣の時代に創造する能力だけでなく、混沌と不足の時代にも創造できる能力を与えることである。

それゆえ、地球は自らの変化のサイクルにしたがって動きながら、そこに転生する魂が持つ自然な必要性を満たしているが、そのサイクルの中で、地球はそれを完了させる必要がある。

あなた方の中には、「魂の旅」と「人間の旅」の違いを学ぶことができない者がいるだろう。

あなた方は、いま起こりつつある、きわめて衝撃的で激しい、地球物理学的、地質学的、宇宙的な変化を体験することになる。

この変化に耳を傾け、これに気づき、これを生き延びた者たちは、新しいドラマ、新しい時代という贈り物を与えられるのだ。
この新しい時代は、適者生存、そして自然およびその法則との共生という形で、新しい挑戦をもたらすことになる。
これは、彼らの中で最も魂が目覚めている者にとっても挑戦となるだろう。

では、なぜあなた方はこのような時代に生きなければならないのか?
そうすることが魂の望みだからだ。
それは人間が望むことではない。
人間にとっては、それは恐ろしいことである。
魂は恐れ知らずだ。
魂はこのような壮大な時期をさがし求める。
混沌を通してエネルギーを動かすことは、まさにマスターの技であるが、それこそが、魂が求めていることなのだ。

そして、瞬く間に一掃されてしまう者たちは、(ライトレビューにおいて)文化の中に捕われてしまった自らの人生を振り返ることになる。
そして、自然に背を向け、自立と独立を目指す人々に背を向けた愚かさを見ることになる。
そして、次に転生してくるときには、彼らは保存と準備に関して以前よりも気を使うようになるだろう。
なぜなら、彼らの本能がこう言っているからだ。
「物事は変わるものだ。自然の容赦ない法によって、変化に適応できない者は破壊される。
だが、生き延びる者は、地上にふたたび広がる選ばれた存在になるのだ」というふうに。



私の愛する神よ
私の存在の太陽よ
今日の学びを 私はあなたに深く感謝する

私はこの知識を
自らの自由としてたたえる

私は自らのスピリットだけを通して
自分の体とつながる

神よ、私のスピリットをよみがえらせたまえ
ソーピーイット

生命に


『ラムサ メイキング・コンタクト ―人生における魂の旅と魂の目的』(松野健一 訳、ホームポジション刊)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

人生における魂の旅

この天界(三次元界)を制するまで、あなたはキリスト、すなわち「神なる男」、「神なる女」になれないが、その理由はこのように説明することもできる。
つまり、物質でできた人間という種の中に征服すべきものが存在する限り、あなたはずっと人間でいることになる。

この天界に降りてきて以来、あなたは第四の天界よりも上に行ったことはない。
あなたはこの天界(三次元界)で眠りに落ち、混乱してきた。
あなたはひどく沈滞した文化の創始者になってきた。

あなたの仕事は自分自身を完全に創り直すことだが、最終的にはそれが人類全体を創り直すことにつながるのだ。

私の話をここで聞いている者たちよ、そしてこの話をテープで聞いている者たちよ、あなた方も例外ではない。
あなた方の中の誰か、あるいはあなた方全員が、東方の文明を統ーした人々だったかもしれないということは別に理解し難いことではない。
もしかしたら、あなたはヒンズー教の教義をまとめた人間だったかもしれない。
あなたはエジプト文明の立法者だったかもしれない。
古代ギリシャの幾何学に関わっていたかもしれないし、それよりも遥かに深く、ローマの権力機構に関与していたかもしれない。
その後、スエトニウスの「皇帝伝」の時代の改革者になり、それからキリスト教徒によるローマの改革に参加したかもしれない。
あなたはそういったものに関わっていたかもしれない。

そして、あなたがそれらに関わっていたのだとすれば、あなたが自分自身を完全に創り直すまでは、この天界でのあなたの仕事が完了することはない
ということが理解できるはずだ。

そのような創り直しによって、人間は自由になり、原始的な文化を持つ種族ではなく、人間がもともと持っている多次元性にもとづく種族を体験できるようになる。
この多次元とは、見える次元と見えない次元の両方を含む。

極族や文化を何が何でも現在の状態にまとめておこうとする怒りっぽい人々に対抗して創り直すのは、時間のかかるプロセスである。
そういった人々が現状を維持しようとするのは、そうすることによって彼らは多数派に属することになり、それによって自分たちの安全が保証されるからだ。
結局のところ、それは死に対する恐怖である。

死の恐怖に屈服せずに創り直すということは、偉大なる行為である。

生がずっと続くことを信じていない文化がどれだけたくさんあるか考えてみなさい。
神が宇宙と同じように無限であること、そして神がこの文明よりも遥かに進歩した文明を創造したことを受け入れない文化が、どれほどたくさんあるか考えてみなさい。
この地球上の文明は、偉大なる進化のレベルに達している、より進歩した人間型種族に比べれば、野蛮に見えるだろう。

何が「閉ざされた心」を生み出すのか考えてみなさい。
「閉ざされた心」は、組織化された文化が持つ症状である。
それは種族内での同意によって生じる症状である。
「閉ざされた心」は種族の存続を保証する。
一方、「開かれた心」は混乱をもたらし、ひいては種族の崩壊をまねく。
これは家族であろうと、国家であろうと、世界であろうと同じことだ。
「閉ざされた心」こそが、文明を存続させているのである。

あなたの心はどれくらい閉ざされているだろうか?
あなたはどこまでなら信じられるだろうか?
また、あえて考えようとしないものは何だろうか?

あなたが考えようとしないもの、そしてあなたの考えとは一致しないものに対してあなたが心を開くように、魂はあなたに迫ってくるだろう。
あなたが信じていないものは、まさに魂が求めているもの、つまり「創り直し」である。
すなわち、無知な状態でいること(これは最悪の罪)から、知識のある状態へと遺伝的系列を創り直すことである。

言っておくが、知識を得たからといって、その人間が理性を失うわけではない。
また、子どもを持つ親に言っておくが、子どもが大学に行くことを選ばず、社会に出て働くことを選んだとしても、それは学校で学ぶのとまったく同じことである。

教育は哲学しか与えてくれず、体験をもたらしてくれるわけではない。
子どもの心を開かれた状態にするのだ。
子どもがこれまでの普通の道を歩まなかったからといって、子どもに失敗を恐れさせたり、他人からの軽蔑を心配させたり、他人の小言にきまりの悪い思いをさせたりするのではなく、愛とサポートを提供して子どもにその道を歩ませるのだ。

時代遅れの考え方や、そういった考え方に同意しようとする古い態度を創り直すのは、神の仕事である。

「改革者」は誰も傷つけることはないが、彼らはいつでも傷つけられる。
では、誰が彼らを攻撃するのか?
改革者が邪悪なことをやるのではないかと深く恐れている人々だ。
そういった人々は、改革者を見るとすぐに悪事を働き、開かれた心を破壊してしまう。
そして、自分たちの悪事を「よい行い」だと言うのだ。

改革者は過去を再創造するわけではない。
改革者は崇高な考えを生み出すことにおいて進歩的である。
改革者とは、あなたやあなたの子どもを一夫多妻制の窮屈な小部屋に送り返したりしない者のことである。
改革者は人々にドラッグをやらせたりしない。
改革者は子どもを奴隷にしたりしない。
改革者は自らの自由を実現するために古いやり方を創り直す。

彼らの自由とはつねに、頂点を追求することである。
自由とは下ることではなく、上ることだからだ。

さて、このような驚くべき存在に出会ったとき、われわれはその人間の体ではなく、その人間の神と関わっていることを確信できる。
自分が目にしているのは、変容を支配している魂であるということを確信できるのだ。
われわれは畏敬の念を抱くはずだ。
というのも、彼らは本当にまれな存在だからだ。
改革者である魂は、恐ろしい存在であると同時に、畏敬の念を起こさせる存在である。

彼らのことを「自由に転がる大砲の玉のようだ」と形容する人間もいる。
知ってのとおり、船の中に大砲の玉があって、それがしっかりと固定されていないと、大波がやってきたときにそれが転がり、船の側面に巨大な穴をあけてしまうものである。
改革者とはこのようなものだ。
彼らは畏敬の念を起こさせるだけでなく、あたかも「自立の風」とともに進んでいるようである。

彼らは恐れ知らずだ。
それゆえ、彼らはトラブルに巻き込まれることもある。
どんなトラブルだろうか?
追放だ。
つまり、かつて彼らがその一員であった有力者集団から追い出されるということだ。

こういった魂が人生を終えたとき、彼らは自分の人生を振り返りながら、自分が人間性という暴れ馬をとてもうまく乗りこなしたことに気づく。
彼らは自らの歩みの痕跡としてわずかばかりの変化を残してきたことになる。
たとえそれが、彼らの子どもによる変化であったとしてもだ。

彼らの進軍を見た人々は、それによって変化する。
彼らはそのことを知っている。
だから、彼らはたったひとりの人間に変化をもたらせばいいのだ。
たったひとりの人間を変えればいいのである。

彼らは人間性ではなく、魂の力・霊性を成長させていることになる。
そして、次に彼らが転生してくるとき、彼らのスピリットの力は非常にパワフルなので、彼らは人間をマスターした存在として生まれてくる。
自らの魂、自らのスピリットと一体になった意識的な存在として彼らは戻ってくる。

自分のあらゆる行為において、彼らは「生の書」を調べる。
彼らは他の人々と比べて非常に進化しており、この世界ではつねに独りである。
というのも、肉体に従う動物人間を引き付けるものは、彼らをまったく引き付けないからだ。
彼らが美と力強さを見いだすものは、動物人間が美と力強さを見いだしているものとはまったく異なる。

こういった人々は、いわゆる「神の預言者」として戻ってくる。
彼らは「神の天使」である。

彼らはマスターが転生した存在であり、彼らはここに戻ってきてある種の人生を送る。
たとえば、彼らが人類に対する自らの偏見を完全に取り除くことを必要としているなら、彼らはここに戻ってきて、全人類に対する無私の奉仕を行うだろう。
人類のために奉仕し続け、出会う人間すべてに愛と光を与えるだろう。
あるいは、彼らは放浪する預言者になるかもしれないし、自然の大規模な変化のために働く存在になるかもしれない。
これらの存在の多くは、普通の人間とはまったく関わりを持たず、人類を手助けすることにだけ関わる。

こういった人間を見てわれわれは驚嘆する。
迫害され、火あぶりにされ、拷問されでも、彼らは悲鳴を上げたり、命乞いをしたりしない。
というのも、彼らはすでに命を持っているからだ。

彼らの命とは、魂のことである。

さらに、今日何かを奪われたとしても、明日それをふたたび創り出せることを彼らは知っている。
だから、彼らは戦いを引き起こすのではなく、迫害されることを許し、真実であるものを高潔に守り続けるのだ。
彼らはマインドの改革者である。

そういった人生を終えた後、彼らはまた戻ってくる。

今回は、彼らは孤独な存在で、完全に活動状態にある意識とエネルギーとして戻ってくる。
彼らは自らの魂の旅を完了したのだ。

彼らはすでに創り直し、肉体を制するために奮闘した。
子孫という形で彼らは人類に与えた。
彼らは普遍的な法を変え、自然を含めた生命全般が彼らの恩恵を受けたのだ。

彼らはふたたび戻ってくるわけだが、今回が最後である。

彼らは戻ってくるが、それは戻ってくる必要があって戻ってくるわけではない。
必要性から解放された人生を生きるために戻ってくるのだ。

自分の体に執着していない魂のことを想像してみなさい。
水鳥を見て同志愛を抱き、ハゲワシの中に繊細さを見いだし、ミミズの姿に優美な滑らかさを見いだす魂のことを想像してみるのだ。
カシの木の長い思いめぐらしの中に喜びを感じる魂のことを。

このような魂は、生命のあらゆる側面をいまや自分自身として美しく飾っている存在である。

それゆえ、自分は肉体であるというフォーカスされたアイデンティティーは、宇宙全体に拡散してしまうのだ。

彼らがここを去りたいと思ったとき、彼らは慣れ親しんでいない未知の場所に行くのではなく、すでによく知っている場所へ行く。
というのも、彼らは神と一体だからだ。

彼らがここを去るとき、彼らはただ消えてしまう。
体のヴァイプレーションを上昇させ、ここを去っていくのだ。

彼らは必要性を持つ肉体によってこの場所に縛り付けられているわけではない。
彼らは解放され、上に向かって飛んでいる。
彼らは進み続けているのだ。

それから、彼らは驚くべき文明の中に生まれる。
想像もしなかったような文化を持つ文明である。
より偉大で進んだレベルの「創り直し」を必要とする別の冒険の中に生まれるのだ。

彼らにとってはいまや、野蛮さや身勝手さ、怒りや妥協といったものはまったく無縁のものである。
人間としてのアイデンティティーを持つ必要性からも完全に自由だ。

それから、彼らの魂は「進化の書」を閉じるのである。



『ラムサ メイキング・コンタクト ―人生における魂の旅と魂の目的』(松野健一 訳、ホームポジション刊)

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ダンサー・イン・ザ・ダーク

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、ラース・フォン・トリアー監督、ビョーク主演の、2000年製作のデンマーク映画。

舞台はアメリカのある町。
ミュージカル俳優に憧れるチェコからの移民セルマは息子と二人暮しをしていた。
貧乏だが工場での労働は、友人に囲まれて日々楽しいものだった。
だが彼女は先天性の病気で徐々に視力が失われつつあり、今年中には失明する運命にあった。
息子もまた、彼女からの遺伝により13歳で手術をしなければいずれ失明する運命にあった。

ある日、とうとう失明してしまったが、それを隠して作業していたことで工場の機械を壊してしまい、セルマは解雇を告げられる。
さらに、息子を心配させないために、父に送金していると周囲に嘘をついてまで貯め続けた手術費用が、隣人のビルに盗まれてしまう。
ビルの家を訪ねたセルマだが、借金で苦境に立つビルに
「金を返して欲しければ殺せ」と銃をつかまされ誤って発砲。
発砲したことで混乱し、ビルを殺してしまう。

逮捕され裁判にかけられるが、ビルと「二人だけの秘密」と約束したビルの借金のことや、手術に対する不安を息子に与えないようにと、
裁判で無罪を証明する事柄の一切を話すことを拒む。

刑の執行を控え、死の恐怖が最高潮に達したセルマは、息子の手術成功を知らされていくらか安堵し、心音の律動に誘われて唄いだす。
『夢想』の中でのみ演じられてきたミュージカルが、ついに『現実』の側へ流出したのである。
そのとき絞首台はミュージカルの舞台と化し、セルマは客席に向けて最後から二番目の歌を唄い続ける。
次にセルマは、全身を拘束されたままの状態で、タップダンスさえも演ずる(彼女はずっとタップダンスにこだわっていた)。

死刑執行のベルが響いた数秒後、セルマは床を一度大きく踏み鳴らし、台下へ落下する。
こうして、絞首台上のミュージカルは終演する。

――――――――

セルマのこの物語は、いずれ失明に至る遺伝病を抱え、それを知りながらも息子を出産したところから始まります。

死刑囚セルマへの面会に獄舎を訪れたキャシーは詰問します。
「なぜ子供を産んだの?」

キャシーの問いはつまり、
  損か得か―
  善か悪か―
  優か劣か―
  楽か苦か―

そうした価値基準で生きなかったあなたは大馬鹿者ですよ、
一般常識、社会通念を持たないければダメなのよ、
と言っているのです。

キャシーの問いにセルマは答えます。

誰も口をはさむことのできない
社会意識を黙らせる、単純で純粋な言葉で―


『私の赤ちゃんを抱きたかったの』

――――――――

人生に目的は御座いません。

こうしなければならない、あれをしてはいけない、
こうでなければならない、あれであってはならない、

そうした目的志向の生は決して生きているとは言えません。


そうでは無く、私たちは人生に問われているのです。
『人間とはなにか』と

それは神に問われているのと同じです。
『神である私を、あなたという人間で表現してください』と

――――――――

セルマは人間の創り出した社会意識に殺されることなく、
自分の生の態度を持って神に応え続けました。

『これが私というあなたである神です』



セルマの生の態度に、神は応えます。
『ありがとうセルマ。卒業です』 と。  たぶん・・・



その時にセルマはミュージカルの最後の歌を唄い、
セルマ・ミュージカルは終わるのでしょう。  たぶん・・・



『究魂』拝

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覚醒への自由落下

あなたの神話-S.jpg

あなたは移行や変容よりも因習を選び、長く苦痛に満ちた日々を過ごすかもしれません。
しかしいつかは停滞や衰退を克服するために、活動や変化へ向かう道を選ぶときがやってきます。
そういうときでさえ、この惑星の生のサイクルである成長と拡大は、エゴからすると喪失と苦痛として経験されるでしょう。

成長はあなたの人生のどの領域でも起きています。
それは状況の正確さについての理解によってなめらかな流れとしてやってくることもあります。
しかしもぎとられるようなものとして感じ、トラウマとなるかもしれません。
それはあなたがみずから因習的行動や思考とみなしているものを手放すことを拒絶するせいです。

まず変化への認識は自己の内側からわきでて、待ちかまえている世界へ向けてなんの苦もなくもたらされるでしょう。
またはあなたにおよぼす外側からの力のように思えるかもしれません。

どちらの場合も変化の表われは、あなたの内部にある小さい静かな声としてはじまり、それがあなたをかきたて、刺激し、あおり、動かそうとします。
そこであなたは選択をしなくてはなりません。

その刺激にのって動くか、心をそむけ無視するか。

魂は成長を必要とみなしているのにエゴによってそれが無視される状況にあるとき、あなたはなんらかの活動を引き起こすような手段を考えだします。
しかしその活動は世界の機能のしかたやそのなかにおけるあなたの位置についての、あなたの本質的で中心的な信念と一致するものです。

世界は敵意に満ち、人々は自分を利用しているという信念をもっていると、人生において変化が必要となったとき、あなたはその核の信念を支持し、強化するようなドラマをつくりだすことになります。

あなたにとってこの地球という惑星における個人的な悲劇と恩われるものの多くが、じつは心の奥底の自己の願望の声に耳を貸そうとしない人格の一部からきているのです。
そうして活動へのドラマがはじまるわけです。

エゴがいだいている人生の目的に対する見かたは、魂のそれとは永遠に真っ向から対立しています。
エゴのおもな願いは安全、既知、安定にあります。

自己の不滅性を絶対的に認識する魂は、その無限性を表現するために成長と拡大、あらたなチャレンジだけを望みます。
魂は変化を、みずからがもう一度むすびつくことを求めている全体性への道として見ています。
魂にとって変化は、おびえている人格が築いた限界を乗り越え、拡大していくための直線コースなのです。

エゴは分別のつく時期が訪れるまで自己を安全にたもつという機能を与えられました。
そしてまさしくその時期、あなたはクリアな内部からのメッセージに気づき、それを解釈し、それにしたがって最終的に自分の行動を選択する能力をもつのです。
しかしその時期に到達してもなお、保護者的なエゴの指図のままになり、自分を無力な子供とみなしている人がたくさんいます。

つねにあなたの選択次第です。
変化のない道、かぎられたエゴの道は、生は無限ではなく、充分に生きるのは危険だというメッセージをあなたのからだに与えます。
最終的にそういうメッセージは、病気や老化をとおしてからだが生から退却する原因となります。

しかし直観の響きと想像の洞察によってあなたに語りかける魂の声に耳をかたむけはじめるなら、あなたの人生は驚くべきものとなるでしょう。
ダイナミックで創造的で、たえまなくつづく活動とエネルギーとして自分を見るようになるのです。
そしてそのとき、最終的にからだに伝えられるのは、人生は善であり、十分に経験されるべきであり、からだはもっともっと生を選ぶべきだというメッセージになるでしょう。

あなたは自分の人生をトラウマのより少ない、そしてもっと理解しやすいものにする方法を知りたいと思いますか?
答えはただひとつ。
あなたのエゴが無視するように命じてきた、あの内部からかき立てる刺激的な声に耳をすませることです。
そうすれば、物理的に耳をかたむけることを強いられたがって人生の破局をつくりだすことはやめるでしょう。

あなたがたが結果的に成長をもたらすために編みだしてきた方法は、一見そんなふうに作用してきたとは見えないのに、わたしたちがこれまで知ってきたすべての生物のなかで、もっとも創造的で独創的なものでした。
活動や成長が強制されるような状況があると、あなたはその責任やコントロールから逃れるためにどんなことでもします。
人身事故にはじまって、もう自分にふさわしくなくなった仕事を解雇されること、じつのところ重荷に感じていた所有物を強奪されること、あたらしい友達を受け入れるために、古い友達から絶交されることなど。

そういうお芝居はすべて、ひたすらエゴをなだめるためです。
エゴは自分から活動をはじめることをとても恐れているので、未知のことを経験するよりトラウマに対処するほうを好むからです。

エゴがもっとも恐れている「変化」は、地球上のすべてのものがおこなうことであり、たえまなく与えられます。
変化のプロセスにおいて、あなたは神の創造的で無限のエネルギーともっとも近くむすびつくのです。

あなたがいだいている神についての概念はとても奇妙です。
あなたは神が完壁であると信じていますが、完壁なものはすでに完了しています。
それは基準が定まっていて、すべてがそなわり、絶対で、限定されたものであるはずです。
それはまたあなたが死に対していだいている概念ではないでしょうか。
わたしたちが神として知っているエネルギーはとだえることなく、生の全開状態であり、動き拡大し成長しつづけています。
それはダイナミックで創造的で、そしてたえず変化しているのです。

あなたの生がそういう神の性質を反映するようになればなるほど、あなたは光とパワーのあふれる神の意識の流れのなかで動くことになります。
あなたに最大の困難を課す状況に感謝しましょう。
あなたは生命力のむだな消耗を経験しなくてすむようにそれらを自分でもたらしたのです。

そのすべてをもたらしたのはあなたです。
あなたは自分のパワーを使って人々をあなたの人生から追い払い、あるいは「事故」を「たまたま発生」させてきたのです。
強盗はけっして偶然のできごとではないし、病気はあなたを愛してくれていない神からの天罰ではありません。
すべてあなたがつくりだしているのです。

あなたが自分の心奥の欲求を表わす開かれたハートに耳をかたむけ、それにしたがって行動すれば、人生においてそういう必要はいっさい生じません。
耳をかたむけ、信頼し、内部で感じることにしたがって行動しましょう。
たとえほかの人たちがあなたのやりかたをわかってくれなくても。

地球上における理解には四つのレベルがあります。

最初のレベルでは自分の人生のあらゆる状況を無責任の観点から見ます。
自分はつねに外部から影響をおよぼされ、まわりの人を責め、かれらに罪があると考え、困難の原因となるのはたえずほかの人だと感じます。
そのレベルでの人生は怒りと憤慨に満ちています。

第二のレベルでは、しぶしぶながらいくらか責任を担います。
あいかわらず罪があるのはほかの人であると考え、相手に非難を投げかけますが、苦痛から逃れる方法としてゆるしのほうへと向かいつつあります。
なぜならゆるすことによって、体内に取り込まれるともっとも危険な感情である憤怒の支配の手から解放されることを知っているからです。

やがて自分がつくりだす人生のなかで起きるすべてのことに責任を担おうとするときがやってきます。
責めたり罪悪感を負わせたりするべき相手はだれもいない、間違っている人などいないのだということがはっきりわかってくるのです。
あなたの人生のできごとはあなたを動かし、みずからの声を聞かせようとする心奥の自分自身の反映にすぎないのだと理解したとき、いったいどこに非難の対象を向ければいいのでしょうか。

まさにそのとき、あなたは知るのです。
問題はほかの人をゆるすことなどではないのだと。
あなたがゆるすべき唯一の相手は、あの内なる声が最初に聞こえたときに意識して行動しなかった自分自身なのだと。

理解への第四の最終レベルは熟達レベルと呼んでもいいでしょう。
その段階において、スピリットの駆り立てる声を無視しないことがいかに重要かを、あなたは絶対的明晰さと感受性をもって理解します。
この時点のあなたは自分のハートにしたがい、根源によって動かされるままに動き、あなたの存在の中心から生きます。

深い自己から伝えられるあらゆるメッセージに注意をむける必要を知っているので、あなたの行動にはなんのためらいもなく、なめらかに流れます。

その熟達レベルはすべての人の内部にあり、だれにでも到達できます。
外界の無思慮な動きに対応してではなく、目的をもって人生を生きたときはじめて、あなたは熟達レベルの技量をつかむのです。

変化を求めるあなたの魂のささやきのなかに、その熟達した存在の声を聞くのです。


『あなたの神話―アセンションのサイクル』(ドリアン・G. イスラエル、松岡敬子 訳、コスモテン刊)

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三次元界の私とは 補足説明

午前中にアップした下の記事ですが、
意味を理解できるひとはいないだろうな・・・

と思われます。 ごめんなさい。

補足説明いたします。


「存在Aの固有波長」と「存在Bの固有波長」を
私が恣意(しい)的に重ね合わせると
不思議な模様が浮かび上がります。
こような模様をモアレ、干渉縞といいます。

この模様は本来、存在Aにも存在Bにも認めることができないものです。

実は、浮かび上がったこの模様こそが、三次元界での「私」そのものなのです。

何故なら、「存在Aの固有波長」と「存在Bの固有波長」を
「私」が「私の意図」(視座)を持って重ね合わせた結果、
顕れ出た模様だからです。

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    解った~?


『究魂』拝

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三次元界の私とは

三次元界の私とは

例えば、

与える者という役を与えてくれる受け取る者
受け取る者という役を与えてくれる与える者
  加害者と被害者
  受益者と提供者

善を浮かび上がらせる悪
悪を浮かび上がらせる善

優等生を生み出している劣等生
劣等生を生み出している優等生

・・・・・・

それらの片一方ではなく、両方でもなく、どちらでもなくはなく、

その関係を認識しているところの
その「関係性―干渉縞、モアレ、ゆがみ」そのものが私です。

知覚した数多(あまた)の「関係性」の
重畳(ちょうじょう)、積分が三次元界の私なのです。


   何を言っているのか、意味不明? ゴメンネ


『究魂』拝

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快楽について

カリール・ジブラン(レバノンの詩人、1883年~1931年)は多くの困難に出会いながらも、詩篇『預言者』を1923年に発表します。
『預言者』は、ジブランの思想「神と愛は宇宙に偏在している」を表現した作品で、自ら「私の魂が考えることのできた最高のもの」と評しています。
詩篇は、預言者・アルムスタファが、オーファリーズという街から去る際に、街の人たちからの問いに答えるという形を採っています。
この舞台設定は、人間に内在する「観察者」が三次元物質宇宙を去る際に、残された人たちへ生命の智慧を開示するという比喩です。

「預言」とは、本来、言葉という記号で表象できない神の法則、真理をあえて言葉で代弁したものです。それは真理の預(あず)かりの言葉です。
一方、「予言」とは、三次元物質宇宙の未来に関して事象、物象を予測するモノ言いです。
両者は根本的に全く違う次元を扱っています。
ジブランの詩篇『預言者』は、まさに「預言」であると存じます。

―――――――

街を年に一度訪れる世捨て人が進み出ていいました。
「快楽のことを教えてください」

するとかれはこう答えました。

快楽は自由の歌だ。
が、自由そのものではない。

それはあなたの望みが花開くことだ。
が、それは実をむすばない。

それは高さに呼びかける深さだ。
が、深さでも高さでもない。

それは籠(かご)のなかで鳥がはばたこうとすることだ。
が、籠で囲まれた空間はない。

そう、たしかに快楽とは自由の歌だ。

どうか、こころから歌ってもらいたいが、
その歌にあなたがこころを奪われるようなことがあってはならない。

あなた方若者のなかには、
快楽がすべてであるかのようにそれを求めるものがいる。

かれらは裁かれ強く非難される。

が、私はかれらを裁きもしなければ非難もしない。

かれらに探し出させよう。
なぜならかれらは快楽を見つけるだろうが、
見つけるのはそれだけではないからだ。

快楽の姉妹は七人、
そして最も小さなものでさえ快楽よりも美しい。

根を探して土を掘っていて宝を見つけた男の話を
聞いたことがあるだろう。

あなた方の年配者のなかには、
快楽を酔っ払って犯したまちがいのように、
後悔とともに思い出す者もいる。

だが後悔は思考を曇らせるものであって、
こらしめにはならない。

かれらは夏の収穫と同様に感謝を込めて快楽を思い出すべきだ。

だが後悔することが慰めになるのなら、
慰めを味わうままにしておいてやりなさい。

あなた方のなかには快楽を探し求めるほど若くもなく
それを思い出すほど年配でもないものたちもいる。

そしてかれらは求めることも思い出すことも恐れる。

魂を軽んじたり怒らせたりすることを怖がって、
すべての快楽を締め出そうとするのだ。

しかしそういう転ばぬ先に杖(つえ)をつく人にも、かれらの快楽がある。

そしてかれらは震える手で根を掘ったとしても、
やはり宝を見つける。

だが教えてほしい。

いったい誰が魂を怒らせることができるのか?

ナイチンゲールは夜の平穏を乱すだろうか?
あるいは蛍が星を怒らせることができるだろうか?
そして炎や煙は風を悩ませるだろうか?
魂とは杖でかき回せる静かな池だとでも思っているのだろうか?

しばしば自分自身に対して快楽を否定することで、
あなたは自分のこころのくぼみに欲望をためてしまう。

今日避けられたように見えるものが明日を待っていると、
あなたにもわかっているはずなのだが。

あなたのからだでさえ、運命とその正当な欲求を知っていて、
だまされることはないのだ。

あなたのからだは魂の竪琴だ。

そしてそこから甘い音楽を引き出すのも、
あるいは混乱した音を引き出すのも、あなた次第なのだ。

そこであなたは自分のこころにこう問いかける。
「快楽のなかでよいものと悪いものを、
どうやって見分けたらいいのだろうか?」

そんなときには、自分の畑や庭にいきなさい。

花の蜜を集めるのが蜂の快楽であることがわかるだろう。

しかし蜂に蜜をあげることも花にとっては快楽だ。

なぜなら蜂にとっては、花は生命の泉であり、
花にとっては、蜂は愛の使者だから。

そして蜂と花のどちらにとっても、
快楽をあたえることと受け取ることは、
やむにやまれぬ欲求であり至福をもたらすおこないなのだ。

オーファリーズの人々よ、
花や蜂のように快楽に身をゆだねなさい。



『よく生きる智慧 完全新訳版「預言者」』(カリール・ジブラン原著、柳澤桂子、小学館刊)

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いまだ問われざる問い

第十三章 いまだ問われざる問い

意識の領域や高次意識への可能性を探究してきたなかで、あなたの問う質問が、あなたの受けとる答えを決定することにおそらく気づかれたのではないでしょうか。

そこでこの最終章は「いまだ問われざる問い」と名付けたいと思います。
答えは質問そのものに包含されていますから、もっとも得るところの大きな回答がそこにおのずと姿を現わすような、的を射た質問をすることが大事です。

わたしたちが人類の進化のパターンを見るかぎり、人類の大半が自分の小さな世界や欲望や願い、あるいは個人的なファンタジーの満足にはまり込んでいることは明らかです。
いうなれば各人がばらばらに動いているかに見えます。
したがって人々の中心的な関心事は
「自分はここから何を受けとることができるか」
という問いになります。

何かがあるとほとんどの場合、人が自問するのは「ここで私が得られるものは何か」というものです。
そしてそれが人の最初の排除のプロセスです。
むろん、なかには少数ですがこうした内的姿勢を卒業した人もおり、これには勇気づけられます。

しかし、大多数の人はまだまだ多くの部分で気づきのない状態にあります。
「ここで私が得られるものは何か」
という問いは、ある一定の進化レベルにおいては適切な問いですが、今の人類が手のとどくところにある高次の意識レベルにおいては、あまりに偏狭であると言えましょう。

友であるみなさん、いまだ問われざる問いとは、その回答が
あなたに最大の自由と、
進化への最高の加速と、
気づきの膨大な広がりと、
あなた自身の意識のもっとも偉大な統御
をもたらすような問いのことです。

生命に関するもっとも深淵で奥深い神秘への答えは、この重大な問いの中にあるのです。

その質問の文脈は、人は進みゆく大いなる生命体験の一部であるという悟りから生まれます。

生命はみずからを生き、あなたを含め無数の形をとって必然的にみずからを表出させているのです。

たとえば樹木のなかには大きな生命力が流れており、何百何千ともいえる葉をとおしてみずからを表出させています。
もちろんその木にとってはどの葉も重要ですが、木は個々の葉よりもはるかに重要です。
実際、一枚の葉の意識は木全体の意識をもつことはできません。
それは木のほうが枝に下がる一枚の葉よりも広大であるからです。

ところが一見矛盾するようですが、葉における物質や意識のもっとも奥深いレベルには、情報としての木が含み込まれているのです。

脳内にある莫大数のニューロン(訳註:神経細胞と神経突起の総称)はみな相互につながっており、個の意識の集合とも見なせるほどの情報量の流れを可能にしています。
その実体はまさにそのとおりで、どのニューロンもそれぞれの意識をもちながら、ほかのたくさんのニューロンとつながりあっています。
その結びつきが、意識という現象、すなわち肉体における自覚をつくり出しているのです。

脳内にあるニューロンの個体は、自分がその一部であるところの巨大な複合体に対する気づきはそなえていません。
これは個人に関しても同様です。

人であっても植物や動物であっても、地上にあふれる存在はみな、より大いなる生命の一部であり、いうなればその大いなる思考の表出であると言えるのです。

そうです。
人は地球にとってのニューロンなのです。

したがってほとんどの人がもっている
「ここで私が得られるものは何か。
この場面で、この出会いで、私自身のためになるものはあるか」
という問いかけは、その性質において限定的な回答のみを引き出すことになります。

あなた自身の必要性や願望という意識をシフトさせ、
「この状況で少しでもよい結果をもたらすために、私にできることは何か」
という、いまだ問われざる問いに転じることであなたの意識は進化します。
文脈ががらりと変化したのがおわかりでしょうか。

あなた個人の要求のみに注目し専心していたのが、さまざまな形をとおして集合的表出がなされる生命レベルにまで自身の意識を拡大するという選択があなたの意識をとおしてなされたのです。


『ハトホルの書』 (トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン (著)、紫上はとる 訳、ナチュラルスピリット)

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プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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