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愛の三次元的体験

「愛」という名のエネルギー
  そのエネルギーを三次元的側面から体験し、
  味わいたいと願った私たちでした。

―――――

そこでまず本書では、あなたがエネルギーであるという解釈から入っていくことにしましょう。

わたしたちがエネルギーの話から始める理由は、現時点の地球では、あなたがたの意識が三次元の現実と呼ぶところ、つまりあなたがたの身体的感覚によって見たり触れたりできる物質界に固定されているからです。

しかしながらエネルギーのスペクトル、すなわち地球の物理学者がまだ解明していない電磁スペクトルのなかでは、そこに存在するもののうちあなたに見ることのできる範囲は1パーセントにも満たないのです!
この宇宙で人類が把握していない無数の領域と同様、わたしたちもまた、人類がまだ知覚していない残りの99パーセントのエネルギーのなかに存在しています。

そうした残りの領域においてあなたがたがどれほど愛されているかがわかれば、幾世紀もの歳月にわたって人類を支配していた自己否定の桎梏(しっこく)からあなた自身を解き放つことができるでしょう。

しかしありがたいことに、こうした抑圧は徐々に消滅しはじめています。
わたしたちはこうした状況を大いなる飲びをもって笑いさざめきながら見守っています。
事実、あなたがたの先輩である兄弟姉妹たちはユーモアのセンスにも富んでいることがおわかりいただけるでしょう。

無数の意識レベルや領域で展開されつつ明らかになる「一なる根源」の顕現は、本質的には歓喜にあふれ、ユーモラスでさえあるのです。

おそらくそうした現れの一端であるがゆえに、「無限」がみずからを「有限」のなかに据えてみることが可能だったのでしょうか。

それはあたかも大空がガラスの壺に詰め込まれ、自分はガラスの壺だと思い込んでいたところ、あるとき壺が割れて大空が自由一面に広がるようなものです。

友よ、どうか壺の崩壊を怖れないでください。
崩壊が困難である必要はありません。
悲劇である必要もありません。
それどころか、歓喜と幸福にあふれ、多くの笑いをもたらす出来事なのです。


『ハトホルの書』 (トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン (著)、紫上はとる 訳、ナチュラルスピリット)
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

三途の川

ある会社の社長が亡くなりました。

心臓マヒ。
いきなりの死亡でした。

社長は林の中を歩いていましたが、突然、きれいなお花畑に出ました。
美しい青空、寒くなく暑くなく、とても気分が良いところです。

お花畑の向こう、感覚的には百メートルほど先に、川が流れていました。
お花畑に出たとたんに、どこからか声が聞こえてきました。

男の声、女の声、どちらとも言えず、荘厳とか厳(おごそ)かとか、そういう感じもない。
といって、冷たい事務的な声というのでもない。

その声は、こう言ったそうです。
「川のほとりまで行ったら、そこであなたの人生について尋ねます。
川のほとりまでに、どんな人生だったかを、まとめておきなさい。」

この社長は、他人の十倍も二十倍も働き、努力して頑張ってきた人でした。
会社も大きくし、従業員も増やした。
商工会の役員もやり、名誉や地位も充分に手に入れました。

「胸を張って、人よりもたくさん努力し、頑張ってきた、と言える。
それなりの成果、実績、数字も達成してきた。」
と思ったそうです。

川のほとりまで来ました。
いわゆる「三途の川」でしょうか。

再び、「あの声」が聞こえてきました。
「それでは、あなたの人生について聞く。答えの用意はできたか。」

胸を張って、社長は、「はい」と答えました。

何でも聞いてくれ。
たくさんのことをやってきた。
恥ずべきことは無い。
自慢できることばかりだ。

誇らしい気持ちで質問を待ったそうです。

「それでは聞く。
人生を、どれほど楽しんできたか。」

社長は絶句しました。
全く答えられなかった。
人生を楽しもう、と思ったことはなかったし、楽しんだこともなかった。

従業員を怒鳴りつけ、家族に対しても厳しかった。
自分に厳しく生きてきた分、まわりの人にも常に厳しく当たってきたのでした。

「楽しむ」という考えは、社長の人生には無かったのです。

答えられずに、絶句していました。

「あの声」は、こう言ったそうです。

「あなたは人生について考え違いをしていましたね。
やり直です。」

生き返って、やり直しをさせられているそうです。


『「人生を楽しむ」ための30法則』 (小林正観(せいかん) 著、講談社)

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ジャンル : 心と身体

人間体験イコール情緒体験

人間の存在性、人間存在の意味とは何でしょうか?

「自分が生きている」ということの意義は何でしょう?

この疑問を別の問いにすり替えてはいけません。
どうか、問いをはぐらかした回答を持ち出さないでください。


――私の人生の目的は何だろう?
――私は何に貢献できるだろう?
――人は皆、幸せにならなければならない・・・どうやって?
――それに応えるのが人生の目的だ
――この世から悪を放逐しなければならない
――善なる社会を造りたい
――涙のない生をおくりたい
――人に感謝される人間にならなければいけない
――思い遣りのある優しい人になりたい
――苦しみの無い世界を
・・・・・

これらは「人間存在の意味」に対する答えではありません。

これらは、社会が押し突けてきた「目的志向」の考えに依って導出される回答です。

どうか「目的志向の考え」を放棄してください。



人生には、時系列上に配置される目的など無いのです。


~になりたい、~しなければならない、~できるようになりたい、社会を(人を)~させたい、~を手にいれたい、~と思われたい・・・・

そんな「目的」を放下したとき、
  つまり、「義務感」という潜在的な脅迫観念を手放したとき

「自分が生きている」ということの意義、
人間の存在性、人間存在の意味が見えてきます。



「私」が存在することの意味は、

  「私」を体験すること

  「人間」を体験すること、です。



「人間体験」の本質は、「感情」の体験です。

  私を、他人を、他物を、
  環境を、言語を、時間を、三次元空間を媒体に

  意識・思考で「現実という名の投影」を創造して・・・

情緒を体験しているのです。



「私」が存在する意義は、
  人間を体験すること
すなわち
  情緒を体験すること、しかも「強烈な」情緒を体験すること
  そして、その体験を抱きしめること
なのです。


『究魂』拝

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ジャンル : 心と身体

全部がわかってしまう時代は幸福か

茂木
そうか、携情持ってたら、擦れ違いとはいわないですもんね。
これからミステリーはどうしたらいいんでしょう。
『Wの悲劇』を読みかえして、とても懐かしく人間らしい感じがしたのは、逆にいえば、いまは生活の中からある種の人間らしさっていうか、ちょっとした間合いだとか余裕だとかそういうものが失われてきてるからかなと思います。

夏樹
それはおっしゃるとおりだと思う。
たとえば、メールを打って送信したら、もう取り返しがつかないじゃないですか。
手紙だと、昨日はこう書いたけどやっぱり投函するのはやめようとか、書き直すとか、ポストに入れた後でさえ、集配人を待ってて返してもらうみたいなことも小説に出てきたけど。
今のように逡巡する暇もないような、影の部分がなくなり過ぎるというのは、やっぱり文学的な環境ではないですよ。

茂木
「全部がわかっちゃうと困る」のは、脳とミステリーということでいえば、まさにいま、犯罪捜査とか、刑事司法の現場において大問題になってまして。
犯人の脳の様子を調べたら、これこれの脳の特徴を持っていた、しかし、それゆえに犯人を罪に問えないというケースがこれからはありうるんです。

夏樹
責任能力がない、ということが判明する?

茂木
まさにそうなんです。
ある人を罪に問えることの前提として、その人がその犯罪行動を、数ある選択肢の中から主体的に選んだっていうことがありますよね。
でも、犯人が罪を犯す以外のことを選べないんだとすると、そもそも今の刑法だと罪に問えないわけです。
今われわれ脳科学の研究テーマで一番大きなテーマの一つが、自由意思はあるかどうかってことなんですが、これは犯人が何かをしてしまったとき、果たして彼ないし彼女にそれ以外の選択肢があり得たのかどうかということです。
哲学的な問いであると同時に、今は「ファンクショナルMRI」などの最新機器で脳を計測すると、ある程度答えがわかってきてしまう時代になってきてる。
今後さらに脳科学が発達していって、大量殺人であれなんであれ、実は仕方がなかったんだとなっちゃうと、そもそも人を罪に問うとはどういうことなのかっていう、大変に厄介なことが出てきちゃう。

夏樹
一方で、被害者側の感情も無視できませんしね。

茂木
実は、脳の研究をしている人たちの最先端のところでは、「自由意思はない」という議論がされています。
もうちょっと正確にいうと、すべてが決まっている。
ちょっとややこしんですが、「すべてが決まっている」といういわゆる決定論と、「自由意思がある」ことは両立する。

「コンパティビリティセオリー」っていうんですが、この両立説が定説になっていて、つまり、ある時点での人間の振る舞いというのはどうやら自由には決められないらしいんですが、われわれは自分が自由であるという幻想を持っている。
これが、今の脳科学の考え方なんです。

自由であるという幻想とは何なのかについては、いろいろ論争があるんですが、決して遺伝子で決まっているものではなく、人生のあらゆる経験というものが反映されると考えられます。

僕は以前から思っているのですが、なんでわれわれが犯罪者を憎むのかというと、一つには、そのときのその人の心の状態を想像したとき、嫌と感じるからだと思うんです。
たとえば、自分の身を守るためにほかの人を犠牲にする。
何で嫌と感じるかというと、そのときにわれわれが思い描くような、ふくよかな自由がそこにないからなんですよね。
人間としては、やっぱり自由という幻想を持つことがとても大事だと思うんです。
大いなる幻想だとしても。

夏樹
どんどんそういうふうに脳のことがわかってきて、あんたは殺人をするしか、ほかの選択はなかったんだとか、誘拐するしかなかったんだと、そういうことになっちゃうと、今度は刑法の方が変わるでしょうね。
世の中のシステムが保てないから。

茂木
そうなんですよ。
これは本当に困った問題ですけど、でも、ある意味、中世の神学者たちはそういう問題をすでに論じています。
つまり、神がこの世を創ったのなら、なぜ悪人の存在も許容するのか。
人は何か悪事を犯したあとで反省しますが、もし神が万能なら、なぜそもそも人が罪を犯さないようにしないのかとかいうような議論は深刻な問題だったんです。
遠藤周作さんも『沈黙』という小説で、神の沈黙の問題を扱ってるわけですけど、非常に歴史の古い問題ですし、ぜひミステリーでちょっとそこらへんを書いていただけないかなと・・・夏樹さん、書いていただけませんか。脳科学ミステリー。


『脳がよろこぶ話―幸せを見つける五つの対話』 (茂木健一郎 著、朝日新聞出版)

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人間はリモコンロボット

私の説ですが、人間は本来五次元中心核が放ったリモコンロボットで、自分の心、意思等は持っていないのです。

ただ太陽からの光言語の命令のままに動いています。
自然のなかの分業で、人間は思考する部品、パーツであるがごとくに働きます。
そのために「意識」という機能が備わっているのだと思います。

その証拠として、人間には自律神経がありますが、それはなんのためでしょうか。
人間の意識の及ばない部分、たとえば内臓の自発的活動や瞬間的な行動など、あるいは睡眠中でも心臓は動いているでしょう。
自律神経はこれを直接指揮するための器官です。
自然力の光線が、その指示を送っているのです。

人間は自分の意思で一体どれだけのことをしているというのでしょうか。
せいぜい喧嘩くらいのものだと思います。

目から光が入るとまず脳下垂体へ入る。
脳下垂体は、これを電波(パルス)に変えて、松果体へ送る。
松果体は、これを増幅・解読して、セロトニンというホルモンを分泌し、意識の受容体へ送る。
意識器官は、これを担当の実行器官へニューロンで送り、人体はそのとおりに動く。
同じ系統を逆行して結果を報告する。
そこで五次元の中心核は対処の手段方法を命令します。

これこそが直感力の自然における構成で、
人間はロボットであることを自覚せねばなりません。

意識器官が一旦命令を受け取るので、それを自分の意思だと錯覚混同してしまうのです。
受けたままを実行すれば、理想の直感力行動ができるのです。

しかしそれを自分の思考だと勘違いし修正してしまいますと、実行器官に伝わって誤った行動になってしまうのです。
それが、暴力、戦争、エゴ等の間違った行いになるのです。
そして、思想にもなってしまいます。

人間は松果体への光言語による信号で動いているロボット―
そのことさえ忘れなければ、直感そのままの行動ができます。
自分の心に勇いてくる思いは、自然の意志であり直感そのものなんですね。
だから、実行が自然の力で行われるので、たいへん強力になります。

光言語や色による会話はシャーマンだけではなく、実はわれわれも日常的に体験しています。
果実の熟れた色、紅葉、若葉などは、自分の気持ちをよく表現しています。
人間のみならず、それを見る蝶や蜂にも会話は通じているのです。

また、ある種の形状の物体はそれを見る(光が入る)だけで、松果体や自律神経が、人間を調節します。
難しい理論や手法は不要です。
聖人の顔を見るだけで、仏像の温顔を拝するだけで、十分に効果は現れます。
ある図形を見れば、人間の器官は光言語の意味を知り、そのとおりに行動する精巧極まりないリモコンロボットなんです。
自分の意思など不要なのです。

どうも古代エジプトなどではこうした知識があったようです。
ピラミッドなどの設計には特定の効果を狙って意図的に図形が組み込まれている。
それでその場にいるだけで敬虔な気持ちになれるようです。
そのノウハウはヨーロッパに伝わり、大聖堂の建築にも活かされているようです。

――――

いつの日かまた生き物として、人間として個を意識して運命を嘆きながらこの世に生きていける日が廻り来るのか、もう来ないのか。
それこそいつどこから来て、私はだれだろう。
そして、なにをしてどこへ行くのだろう。

死ぬ前に次の世のことを考えてみる方が、私は切実である。
とすれば、今これが結果の世界とすればなおさら感謝し努力し、そして一時でも多く長い間楽しんでおきたい。
これが、エゴの世であろうと、負け犬の世であろうと、もう再び意識の世界に来ることがないのかもしれないと思えば、名残惜しい。

今の世も過去から見れば未来だったのだ。
今、全力をつくしておかなくては、結果はだめだと考えると地球は逆に回り始める。
思考は昔へ昔へともどる。

太陽系で金星だけは逆に自転しているとか、では金星では過去と未来が逆だろうか。
それであんなに輝くのだろうか?
明星と呼ばれて幸せがいっぱいあるのだろうか?
でも幸せすぎるとうるさく感じるかもしれない。

人間は贅沢だから、地球も昔はそうだったのかもしれない。
人間はいつでもどこでも不満なんだ。
足ることを知らないのが人間なんだ。
それは人間の進化文明のため、原始の人間からの進化の結果である。

今の人間は、古代の人間を「野蛮人」だと思っている。
口に出してそう言ってはばからない。
がその「野蛮」な過去は、未来の現在、今の原因を作っている。

現在、今の世相を考えてみると、これが、今の社会が原因だとすると、過去の結果はなるほどと思える。
まったくそのとおりだ。
とすると過去の歴史を考えてみると、今の世相がよくわかる。

過去の現実の原因を今作っているのだとすると、過去はもう現実に過ぎて来た。
今これからどう改めても過去は変わらない。
取り返しがつかない。

200万年以上前に猿だった人間は、今から猿になる原因を作らねば理論が成り立たないが、いったいどうなるのだ。

そうだ。今から猿になればいいのだ。
猿は人間よりほんとうは進化しているのだ。
地球を汚さない生き物なのだ。
そして、人間より正直で、意識も鋭敏だ。
自然と会話ができるのだ。
アマゾンのシャーマンはアンデスの文明を捨て、今、猿の原因の生活をしているのだ。

現在の日本人もそうだ。
まだ、文明人まがいの格好をしているが心はすでに人間ではない。
もうすぐアマゾニアとなり、猿の原因作りの時代に入る。
そのほうがよほど地球上の生き物としては優れた生き物になるに相違ない。

まず、シャーマンになろう!
なにも知らなくてもいい。
文字を読めなくてもいい。
すべての生き物のDNAへアクセスしよう。
直感のとおりに行動しよう。
行動しようと思わなくても自分はそう動くに違いない。
直感こそ大自然の意思である。
そう思うことさえ無用である。
リモコンロボットは思うがままに行動すればよいのである。

過去が結果なら、過去は過ぎ去ってしまった。
未来が原因なら、過去に束縛される。
そうではなく、現在が結果、未来が原因なら結果と原因は並行し、未来とは見えぬ空間。
見える今を変更できる。
人間の行動は直感で決まる。
個の意識は無用。

――――

「思う」という現象は、人間の力ではないのです。
人間の力ではなく大自然の力であり、スピリット波動と同じです。

人間は宇宙の中心から地球に送られたリモコンロボットのようなものです。
探査することが役目なんです。
ですからその探査機に感覚がないと、この機械は使えません。

人間には光波動というスピリット波動によって、いろんなことが太陽を経由して伝送されてきますが、光波動伝送によって「思う」という現象がおこるのでないかと考えていました。

人間の行動を記憶するために脳神経があります。
これは人間の「意識」ですね。
だから「意識」と「思う」という概念は根底から違います。

無意識の間に夢を見るということがあります。
それはどういうことかというと「意識」の方は人間というリモコンロボットに付け加えた、ひとつの道具なんです。
それから「思う」ということは、これは太陽からの直命です。
その太陽の上には銀河のブラックホールがあって、その上には五次元の中心核があると考えてください。

その五次元の中心核を元とした系統的な宇宙の力で人間は「思い」ます。
それでその「思い」はどこへ来るかというと、人間の松果体で受け、自律神経にきます。

そして、それがどのように現れるかというと夢になるわけです。
人間の意思が止まっているときに、心臓も動けば肺も動く、人間の体は、全部運動していると。
それはどんな力によってそのようなことができるのか、です。
自然の力なのです。
でも人間は意識していないのです。だから人間の意識と自律神経が受ける光波動とはぜんぜん別物なんです。

ところがその意識の方が昼間は活動して、意識によって、要するに光波動で来たものを、脳に伝えて、脳が人間の肉体を動かしています。
だから意識した上に、自分の命令によって体が動いてそれによっていろんなことができるのです。
意識がそれを「思い」と混同してしまうのです。

言葉を発するときには、「思い」のまま素直に言うことが一番正しいのです。
ところがその思いに自分の「意識」を加えて言うから、ちょっと的外れのことを言うようになります。
日頃の行動にしても「思い」のまま素直に行えばいいものを、意識が加わるから誤動作がおこります。


『世の中大転換の行き先は五次元です―天才koro先生の大発明』 (ヒカルランド刊)

koro先生とは神坂新太郎さんです。
ちょっと難しい?
でも、私の直観が真実であることを伝えてきます。

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人間に「自由意思」はない

人間に「自由意思」はない?

ここでもう一つ問題になるのが、人間に、そもそも「自由意思」があるのか、ということ。
ベンジャミン・リベットという人の有名な実験があります。
被験者に「ボタンを好きなときに押してください」と言っておいて、被験者がボタンを押したときの脳の活動を調べました。

当然、私たちの常識から考えれば、まず「押そう」という意思が生まれて、そして運動をプログラムする脳部位が活動して、そして、手指にボタンを押せという指令が送られるのだろうと考えられます。

ところが結果は違ったのです。

なんと、ボタンを押したくなる意思が生まれるよりも前に、長いと一秒くらいも前に、脳の「運動前野」がすでに準備を始めていたことがわかりました。

つまり、最初に脳の活動が生まれ、次に「押そう」という意思が生まれ、そして指令が出されて「手が動く」というメカニズムだったのです。

自分の意思でボタンを押しているような気がしているけれど、実は、脳の動きのほうが先で、意識はずっと後だったということで、つまるところ人間に自由意思があるといえるだろうか、という議論が出てきたのです。

科学的な見地としては、自由意思はおそらく「ない」だろうといわれています。

2005年2月の「サイエンス」に載った面白いデータがあります。

自由意思、つまり「行動の選択スキル能力」としてもっとも原始的な型が見えるのが「ヒル」です。
ヒルの体を触ると、逃げますが、その逃げ方に二通りあります。
同じように触っても、あるときは泳いで逃げ、あるときはシャーレの底を這って逃げます。
子どもにいじめられた公園のハトが、飛んで逃げるか、地面を走って逃げるかに似ています。

そんな具合に、ヒルは逃げ方を「選択」します。
同じように体を触っているのにもかかわらず、ヒルは二通りの方法で「逃避行動」を表現するわけすから、これは完全に自分の中で決定しているわけで、神経回路の内面の、いってみれば「心」の原始的な問題になるわけです。

ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。
神経細胞も全部で数万個しかありません。
これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。
つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。
この神経回路をしらみ潰しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。
実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。


その『選択』は「ゆらぎ」が決めていた

神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。
神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。
空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。
つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。

そして、わかったことはこうだったのです。
細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。
逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。
実にそれだけのことだったのです。

「自由意思」、「選択」をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。

刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。

私たちの行動(選択)もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。
たとえば、ゲームでコインを投げて、表か裏かを当ててもらう。
その人が、「表」と答えたとしても、選択した根拠は何もありません。
理由を問い詰めても、「直観」だとしか言いようがない。
でも、直観とはいったいなんでしょうか。
直観によって当たる確率は平均すれば50%で、結局は、コイン当てゲームで「カン」なんてものはなくて、ただでたらめに選んでいることと同じなのです。

「表」を選ぶことをどこの神経細胞が決めているのか、まだわかっていません。
でも、ある特定の細胞、もしくは、ある特定の回路のゆらぎが決めていることは間違いなさそうです。

あるときに聞かれたら「表」と答え、別のあるときに聞かれたら「裏」と答える。
人間の一見複雑な行動も、きっとそういう偶発的なゆらぎが積み重なってできているのでしょう。


あの人を好きになったほんとうの理由

2006年2月の「ネイチャー・ニューロサイエンス」の論文では、そのことを単語テストで実証しています。
日常的な単語を次々に見せていって、しばらく経ってから、また単語を見せ、その単語が先ほどの単語リストにあったかなかったかを言い当てるという実験です。

もちろん、すべては記憶できませんから、覚えている単語と覚えていない単語が出てきます。
その記憶の差がどうして生まれるのかという理由を、脳波を使って調べていったのです。
その結果、劇的なことが判明しました。

単語を提示する瞬間、もしくはそれよりも1秒ほど前の脳波を見ると、ちゃんと答えられるかどうかがわかるのです。

つまり、問題を出す前に、脳波を見れば、その人が正解するかどうかが予測できるわけです。
どんな単語が出題されるかは関係ありません。
ある特定の脳の状態のときに単語を示すと答えられるけど、別の状態のときには答えられなかった。
ただ、それだけのことでした。
極端な言い方をすれば、脳波を見ている脳科学者は、その人が正解するか間違えるかを、本人に問題を出す前にわかってしまっているわけです。
「君は答えられない」と。

先ほどのボタンを押す実験も、ボタンを押すのはいつでもいいのに、なぜ「そのとき」に押すことを決めたのか。
その理由をその人に問い詰めてみても理由はありません。
たまたま脳の神経細胞がゆらいで、その方向に神経回路の出力が収束していったから、ボタンを押そうという意思というかたちになっていっただけの話。

つまり、人間の行動は根拠があるようでいて、基本的には深い根拠はないのです。

恋愛も同じです。
なぜ、その人を好きになったか、根拠があるでしょうか。

彼氏に「おれのどこが好きなんだよ」と聞かれたら、どう答えますか?
「優しいし、かっこいいし、背も高いから」などと理由を挙げて答えることはできます。
それに対して、彼氏が、「じゃあ、背が高くてかっこよくて優しければ誰でもいいのか」と聞き返したら、どうでしょう。
もちろん、誰でもいいわけではありません。
そうやって突き詰めていくと、理由なんてないのです。

人は選んだ後に「言い訳」を言っているだけなのです。

「なぜ僕のことを好きになったの?」と聞かれたら、正しい答えは一つ。
そう、「脳がゆらいだから」です。


「自由意思」はないけれど、「自由否定」はできる!

そういう話をしていくと、神経倫理の立場として疑問が一つ浮かんできます。

「意思がないとするならば、殺人犯の罪を問えるのか」。

自由意思がなくて、体が勝手に動いて殺したのだから、その人は何も悪くないではないか。
本人の意思ではない。
「たまたま」脳がゆらいだために、「たまたま」万引きしただけ、
「たまたま」電車の中で触っただけ。

だとしたら、そもそも人を裁けるだろうかという話になってきます。

でも、これはたぶん裁けます。
先ほどの「ボタン押しの実験」でいうと、好きなときに押していいですよと言われて、ボタンを押そうと思ったとき、確かに、脳は11秒くらい前から押す準備を始めていました。
1秒経ってからボタンを押そうという意識が生まれます。
そのときには、すでに脳は押す準備をしています。

でも、実際にボタンを押そうという指令が下るまでに0.2~0.3秒の時間の遅れがあるのです。
これがポイントです。

つまり、ボタンを押そうという「意思」が生まれでも、ボタンを押すことを「阻止」することはできるのです。
ボタンを押したくなったかもしれないけど、でも押すのをやめてもいいわけです。
そこに私たちの自由があるようなのです。

仮に私に、他人を殴りたいという衝動が生まれたとしても、これは脳が自動的に発する意思なので、それはさすがに仕方がありませんが、でも、殴ることを止めることはできます。
喧嘩して殺してやろうという意思がもし生まれたとしても、その意思を行動に移すことを止めることはできます。

「自由意思」はないけれども、「自由否定」ははできるわけです。


アイデアを生み出す秘訣も「ゆらぎ」にあり

もう少しポジティブな例で考えてみましょう。
「仕事上でアイデアを出したい」というとき。
「アイデアは一種のゆらぎで生まれてくる」ので、コントロールできません。
アイデアが生まれるかどうかは、「ゆらげるか」、「ゆらげないか」だけの話です。
アイデアは絞って出る性質のものではなく、アイデアが自然に生まれるのを待つしかありません。
そして、浮かんできたアイデアを「採用するか」、「採用しないか」は自分で決められます。

浮かんできたけれど、「これ、駄目」と否定することも、「おっ、これいいね」と採用することもできます。
ですから、「ゆらぎが多い人ほどアイデアマン」というのは正しいのです。

しかし、よく考えてみると、ゆらいでいるということは、集中力がないともいえます。
一つのことに集中して、あまりゆらがない人はアイデアがなかなか出ないでしょう。
つまり、集中力の高い人はアイデアマンではない。
集中力の欠如した人こそが、むしろ、創造性に富んでいるわけです。

集中力か創造性か、そのどちらに価値を置くかは、その人次第です。
集中力が大切な仕事についたら集中力が大切ですし、アイデアが大切な仕事であればゆらがなくてはいけない、ということになります。

アイデアの捻出において、「母集団」の重要性も確かにあります。
理想の男性に出会うためには、なるべくたくさんの男性と会うしかありません。
それと同じで、採用するアイデアより、役に立たないで捨ててしまうアイデアのほうがはるかに多いのがふつうです。
ゆらぎの渦のなかから自然に生まれるたくさんのアイデアの中に、「たまたま」いいアイデアがあるのです。
ですから、アイデアマンになれる秘訣の一つは、どれだけゆらげるかだと私は思います。


「コンチキショー」を言うか言わないかの違い

さて、ここで「心の中が見えるかどうかはいいことか」という話に戻しましょう。
心の中に生まれてくるほとんどのものは、自由否定されています。

心はいろいろとゆらいでいて、「これを言いたい」とか、「あんなことを言いたい」とか思いますが、実際に決断して口から出てくるのは、そのうちのほんの一部です。
「うわ、この彼女の手料理、まずい」とか「隣の人は息が臭いなあ」などという感情は自然に生まれてくるものです。
これを避けることはできません。
でも、たいていの人は、そうした感想をそのまま口にすることはありません。
社会通念に照らし合わせて、言ってよいものといけないものを判断しています。
そうして常識的な判断を下しているわけですから、そんな心の内まで全部見透かされてしまうとしたら、これはどうでしょうか。

脳の中身を見れば「本心が見える」というけれども、私の意見では単に「ゆらぎが見えている」だけのこと。

上司のことを「コンチキショー」と心の中で思っているかもしれないけれど、それも一種のゆらぎであって、それを表面に出さないということは、その人の決断として、その感情を否定しているのだから、そういったところまで見ることにどういう意味があるのでしょうかという疑問が生まれます。

たとえば、「おれはこいつに殺意を持っている」と脳測定でわかったとしても、殺すという行動を取らなければ、その人は正常です。

そうなのです、内面までも判定の材料として、この人は殺意があるから法律で排除しようということは、やってはいけない気がします。
スピルパーグ監督は「マイノリティ・リポート」という映画で、近未来の監視社会を描いていますが、そこでは、犯罪予知システムで検査して「犯意」を持っているだけで容疑者として逮捕されてしまいます。
もしかしたら、近い将来、そういうことをやろうと思えば、脳科学的には不可能ではないのだろうとは思います。
でも、先に述べた意味で、そんな判定にどれほどの意味があるのかということについては、少なくとも今、私は懐疑的な立場を取っています。

最近、「神経倫理学」という分野も出てきて、科学と人間のあり方を、科学者自身が問うようになってきました。
こうした慎重な姿勢があるかぎり、SFに描かれるような科学の暴走というのは現実世界では起こらないだろうと信じています。
その一方で、社会倫理や、もしくは法規制がうまく機能するのであれば、fMRIなどで脳の中身を探索していくことは、脳生理の意外な側面が見えたりして、個人的には面白いと思っています。


『脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?』(池谷裕二 著、祥伝社)

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幸福になるために?

ネットに落ちていた(有名な?)小噺です。

――――――

メキシコの田舎町―

海岸に小さなボートが停泊していた。

メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。

それを見たアメリカ人旅行者、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの?」
と尋ねた。

漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。

旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ。」

漁師は、「自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だ」と。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの?」
旅行者が聞くと

漁師は
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。
戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタ(昼寝・午睡)して・・・
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって・・・
ああ、これでもう一日終わりだね。」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。
いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。
それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。
そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。
やがて大漁船団ができるまでね。

そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。

その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。

きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ。」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね?」

「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね。」

「それからどうなるの?」

「それから?
そのときは本当にすごいことになるよ。」

旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ。」

「それで?」

「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。

どうだい。
すばらしいだろう?」

――――――

幸福になるためには、苦労しなければならない―という神話。


幸福とは外的な目標ではなく、
内面的(心的)な状態であることに気付いていないから
MBAを取得したこの旅行者のように勘違いしてしまうのです。


幸福とは、「なる」ものではなく
「ある」ものです。


幸福になるためには、苦労しなければならない
のならば、

幸福=嬉しい・楽しい になるために、
苦労=辛い・苦しい しなければならない
という自己分裂に陥ります。


幸福になるためには、苦労しなければならない―それは、


先生に「脱力せよ」と言われたので、満身の力を込めて脱力に努めた

はたまた、

健康のためなら、死んでもいい

美しさのためなら、枯れ果ててもいい

と言っているのと同じこと。


幸福とは、「なる」ものではなく
「ある」ものなのです。

『究魂』拝

テーマ : 気付き・・・そして学び
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ゼロ意識

潜在意識、基盤意識、無意識、グラウンド意識、ゼロ意識、空意識、宇宙意識、普遍意識、ヴォイド(void)意識、超意識・・・

「無」、「空」、「ゼロ」、「ヴォイド」というのは、「なにもない」という意味ではありません。

「無」、「空」、「ゼロ」、「ヴォイド」というのは、「すべて」を乗っけているグラウンドです。

宇宙が乗っかる「基盤」です。

このゼロ意識の上に万物が顕れます。



ゼロ意識には、自他の認識がありません。

私、彼、彼女、彼ら、彼女ら、他者、これ、それ、あれ・・・

自己、他者、他物、自分のもの、他人のもの・・・

こうした区別がありません。



自己から発する他者、他物への言動・態度は
すべて自己に対しての所業として受け取っていることを
ゼロ意識のレベルでは識(し)っているのです。

その所業のままの宇宙が我々に顕現しています。

『究魂』拝

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

流行りに従う安易な人生

存在よ、

栄光であれ屈辱であれ、

あなたが過去に執着するということ、

また、あなたが属する社会が脅迫してくる社会意識に従うこと、

両親やら上司に褒められたいという奴隷根性、

これらに従うことは霊的に生きることとは何の関係も無い。

それは流行(はや)りに従う安易な人生に過ぎない。

霊的に生きる者にとっては許されないことである。


       ラムサ(『ラムサ珠玉の言葉 2』より)

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プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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