人間に「自由意思」はない?ここでもう一つ問題になるのが、人間に、そもそも「自由意思」があるのか、ということ。
ベンジャミン・リベットという人の有名な実験があります。
被験者に「ボタンを好きなときに押してください」と言っておいて、被験者がボタンを押したときの脳の活動を調べました。
当然、私たちの常識から考えれば、まず「押そう」という意思が生まれて、そして運動をプログラムする脳部位が活動して、そして、手指にボタンを押せという指令が送られるのだろうと考えられます。
ところが結果は違ったのです。
なんと、ボタンを押したくなる意思が生まれるよりも前に、長いと一秒くらいも前に、脳の「運動前野」がすでに準備を始めていたことがわかりました。
つまり、最初に脳の活動が生まれ、次に「押そう」という意思が生まれ、そして指令が出されて「手が動く」というメカニズムだったのです。
自分の意思でボタンを押しているような気がしているけれど、実は、脳の動きのほうが先で、意識はずっと後だったということで、つまるところ人間に自由意思があるといえるだろうか、という議論が出てきたのです。
科学的な見地としては、自由意思はおそらく「ない」だろうといわれています。
2005年2月の「サイエンス」に載った面白いデータがあります。
自由意思、つまり「行動の選択スキル能力」としてもっとも原始的な型が見えるのが「ヒル」です。
ヒルの体を触ると、逃げますが、その逃げ方に二通りあります。
同じように触っても、あるときは泳いで逃げ、あるときはシャーレの底を這って逃げます。
子どもにいじめられた公園のハトが、飛んで逃げるか、地面を走って逃げるかに似ています。
そんな具合に、ヒルは逃げ方を「選択」します。
同じように体を触っているのにもかかわらず、ヒルは二通りの方法で「逃避行動」を表現するわけすから、これは完全に自分の中で決定しているわけで、神経回路の内面の、いってみれば「心」の原始的な問題になるわけです。
ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。
神経細胞も全部で数万個しかありません。
これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。
つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。
この神経回路をしらみ潰しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。
実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。
その『選択』は「ゆらぎ」が決めていた神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。
神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。
空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。
つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。
そして、わかったことはこうだったのです。
細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。
逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。
実にそれだけのことだったのです。
「自由意思」、「選択」をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。
刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。
私たちの行動(選択)もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。
たとえば、ゲームでコインを投げて、表か裏かを当ててもらう。
その人が、「表」と答えたとしても、選択した根拠は何もありません。
理由を問い詰めても、「直観」だとしか言いようがない。
でも、直観とはいったいなんでしょうか。
直観によって当たる確率は平均すれば50%で、結局は、コイン当てゲームで「カン」なんてものはなくて、ただでたらめに選んでいることと同じなのです。
「表」を選ぶことをどこの神経細胞が決めているのか、まだわかっていません。
でも、ある特定の細胞、もしくは、ある特定の回路のゆらぎが決めていることは間違いなさそうです。
あるときに聞かれたら「表」と答え、別のあるときに聞かれたら「裏」と答える。
人間の一見複雑な行動も、きっとそういう偶発的なゆらぎが積み重なってできているのでしょう。
あの人を好きになったほんとうの理由2006年2月の「ネイチャー・ニューロサイエンス」の論文では、そのことを単語テストで実証しています。
日常的な単語を次々に見せていって、しばらく経ってから、また単語を見せ、その単語が先ほどの単語リストにあったかなかったかを言い当てるという実験です。
もちろん、すべては記憶できませんから、覚えている単語と覚えていない単語が出てきます。
その記憶の差がどうして生まれるのかという理由を、脳波を使って調べていったのです。
その結果、劇的なことが判明しました。
単語を提示する瞬間、もしくはそれよりも1秒ほど前の脳波を見ると、ちゃんと答えられるかどうかがわかるのです。
つまり、問題を出す前に、脳波を見れば、その人が正解するかどうかが予測できるわけです。
どんな単語が出題されるかは関係ありません。
ある特定の脳の状態のときに単語を示すと答えられるけど、別の状態のときには答えられなかった。
ただ、それだけのことでした。
極端な言い方をすれば、脳波を見ている脳科学者は、その人が正解するか間違えるかを、本人に問題を出す前にわかってしまっているわけです。
「君は答えられない」と。
先ほどのボタンを押す実験も、ボタンを押すのはいつでもいいのに、なぜ「そのとき」に押すことを決めたのか。
その理由をその人に問い詰めてみても理由はありません。
たまたま脳の神経細胞がゆらいで、その方向に神経回路の出力が収束していったから、ボタンを押そうという意思というかたちになっていっただけの話。
つまり、人間の行動は根拠があるようでいて、基本的には深い根拠はないのです。
恋愛も同じです。
なぜ、その人を好きになったか、根拠があるでしょうか。
彼氏に「おれのどこが好きなんだよ」と聞かれたら、どう答えますか?
「優しいし、かっこいいし、背も高いから」などと理由を挙げて答えることはできます。
それに対して、彼氏が、「じゃあ、背が高くてかっこよくて優しければ誰でもいいのか」と聞き返したら、どうでしょう。
もちろん、誰でもいいわけではありません。
そうやって突き詰めていくと、理由なんてないのです。
人は選んだ後に「言い訳」を言っているだけなのです。
「なぜ僕のことを好きになったの?」と聞かれたら、正しい答えは一つ。
そう、「脳がゆらいだから」です。
「自由意思」はないけれど、「自由否定」はできる!そういう話をしていくと、神経倫理の立場として疑問が一つ浮かんできます。
「意思がないとするならば、殺人犯の罪を問えるのか」。
自由意思がなくて、体が勝手に動いて殺したのだから、その人は何も悪くないではないか。
本人の意思ではない。
「たまたま」脳がゆらいだために、「たまたま」万引きしただけ、
「たまたま」電車の中で触っただけ。
だとしたら、そもそも人を裁けるだろうかという話になってきます。
でも、これはたぶん裁けます。
先ほどの「ボタン押しの実験」でいうと、好きなときに押していいですよと言われて、ボタンを押そうと思ったとき、確かに、脳は11秒くらい前から押す準備を始めていました。
1秒経ってからボタンを押そうという意識が生まれます。
そのときには、すでに脳は押す準備をしています。
でも、実際にボタンを押そうという指令が下るまでに0.2~0.3秒の時間の遅れがあるのです。
これがポイントです。
つまり、ボタンを押そうという「意思」が生まれでも、ボタンを押すことを「阻止」することはできるのです。
ボタンを押したくなったかもしれないけど、でも押すのをやめてもいいわけです。
そこに私たちの自由があるようなのです。
仮に私に、他人を殴りたいという衝動が生まれたとしても、これは脳が自動的に発する意思なので、それはさすがに仕方がありませんが、でも、殴ることを止めることはできます。
喧嘩して殺してやろうという意思がもし生まれたとしても、その意思を行動に移すことを止めることはできます。
「自由意思」はないけれども、「自由否定」ははできるわけです。
アイデアを生み出す秘訣も「ゆらぎ」にありもう少しポジティブな例で考えてみましょう。
「仕事上でアイデアを出したい」というとき。
「アイデアは一種のゆらぎで生まれてくる」ので、コントロールできません。
アイデアが生まれるかどうかは、「ゆらげるか」、「ゆらげないか」だけの話です。
アイデアは絞って出る性質のものではなく、アイデアが自然に生まれるのを待つしかありません。
そして、浮かんできたアイデアを「採用するか」、「採用しないか」は自分で決められます。
浮かんできたけれど、「これ、駄目」と否定することも、「おっ、これいいね」と採用することもできます。
ですから、「ゆらぎが多い人ほどアイデアマン」というのは正しいのです。
しかし、よく考えてみると、ゆらいでいるということは、集中力がないともいえます。
一つのことに集中して、あまりゆらがない人はアイデアがなかなか出ないでしょう。
つまり、集中力の高い人はアイデアマンではない。
集中力の欠如した人こそが、むしろ、創造性に富んでいるわけです。
集中力か創造性か、そのどちらに価値を置くかは、その人次第です。
集中力が大切な仕事についたら集中力が大切ですし、アイデアが大切な仕事であればゆらがなくてはいけない、ということになります。
アイデアの捻出において、「母集団」の重要性も確かにあります。
理想の男性に出会うためには、なるべくたくさんの男性と会うしかありません。
それと同じで、採用するアイデアより、役に立たないで捨ててしまうアイデアのほうがはるかに多いのがふつうです。
ゆらぎの渦のなかから自然に生まれるたくさんのアイデアの中に、「たまたま」いいアイデアがあるのです。
ですから、アイデアマンになれる秘訣の一つは、どれだけゆらげるかだと私は思います。
「コンチキショー」を言うか言わないかの違いさて、ここで「心の中が見えるかどうかはいいことか」という話に戻しましょう。
心の中に生まれてくるほとんどのものは、自由否定されています。
心はいろいろとゆらいでいて、「これを言いたい」とか、「あんなことを言いたい」とか思いますが、実際に決断して口から出てくるのは、そのうちのほんの一部です。
「うわ、この彼女の手料理、まずい」とか「隣の人は息が臭いなあ」などという感情は自然に生まれてくるものです。
これを避けることはできません。
でも、たいていの人は、そうした感想をそのまま口にすることはありません。
社会通念に照らし合わせて、言ってよいものといけないものを判断しています。
そうして常識的な判断を下しているわけですから、そんな心の内まで全部見透かされてしまうとしたら、これはどうでしょうか。
脳の中身を見れば「本心が見える」というけれども、私の意見では単に「ゆらぎが見えている」だけのこと。
上司のことを「コンチキショー」と心の中で思っているかもしれないけれど、それも一種のゆらぎであって、それを表面に出さないということは、その人の決断として、その感情を否定しているのだから、そういったところまで見ることにどういう意味があるのでしょうかという疑問が生まれます。
たとえば、「おれはこいつに殺意を持っている」と脳測定でわかったとしても、殺すという行動を取らなければ、その人は正常です。
そうなのです、内面までも判定の材料として、この人は殺意があるから法律で排除しようということは、やってはいけない気がします。
スピルパーグ監督は「マイノリティ・リポート」という映画で、近未来の監視社会を描いていますが、そこでは、犯罪予知システムで検査して「犯意」を持っているだけで容疑者として逮捕されてしまいます。
もしかしたら、近い将来、そういうことをやろうと思えば、脳科学的には不可能ではないのだろうとは思います。
でも、先に述べた意味で、そんな判定にどれほどの意味があるのかということについては、少なくとも今、私は懐疑的な立場を取っています。
最近、「神経倫理学」という分野も出てきて、科学と人間のあり方を、科学者自身が問うようになってきました。
こうした慎重な姿勢があるかぎり、SFに描かれるような科学の暴走というのは現実世界では起こらないだろうと信じています。
その一方で、社会倫理や、もしくは法規制がうまく機能するのであれば、fMRIなどで脳の中身を探索していくことは、脳生理の意外な側面が見えたりして、個人的には面白いと思っています。
『脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?』(池谷裕二 著、祥伝社)
テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体