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息子よ、やりたいことを見つけること、それは容易なことではない

息子よ、
だが、やりたいことを見つけること、
それは容易なことではない。

何故なら、
お前は生まれ落ちたときから今現在まで

この父や母や、友人、教師、社会から
ありとあらゆる偏見を植え付けられてきたからだ。

その偏見とは、

お前が持つ、本来の魂の価値感を封印させ
「社会的正義」という名のもとに押し付けてくる似非(えせ)価値観だ。

全てのひとが
テレビやら新聞やらラジオやらによって植え付けられた
社会的意識という見えない宗教を基盤に生きている。


「損か得か」

「正しいか間違いか」

「人にどう思われるか」

「しんどいか楽か」

「偉いか偉くないか」

「利口かバカか」

「哀れか誇れるか」

「勝つか負けるか」

「言い包(くる)めるか言い負かされるか」

「あの人がこう言ったから」・・・・

そんなことは、
お前が本当にやりたいこととは何の関係もないことだ。


だから息子よ、

お前が、お前の本当にやりたいことを見つけること、
それは容易なことではない。


この父ができることは、ただ

テレビやら新聞やらラジオから離れていなさい、
ひとり静かにできる時間を大切にしなさい

と言うことだけだ。


『究魂』拝
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テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

お父さん、満足ですか


昨年の僕の大学受験の失敗を挽回するために、浪人を認めてくれて、お父さん、ありがとう。

苦しい浪人生活だったけれど、今春、僕は晴れて憧れの大学の門をくぐることができました。

旧国立一期校に学ぶ学生であることは、僕にとって誇らしいことです。

お父さん、お父さんも僕が国立大学の学生であることが嬉しいですか?誇らしいですか?

お父さんに喜んでもらえるなら、僕も嬉しいです。


でも、でも・・・・

でも、お父さん、


実は、僕は・・・・

本当は、本当は、


僕は、お笑い芸人になりたかったんです。




息子よ、父さんはお前が国立大学に合格したことを誇らしく思っている。

でも、息子よ、お前は、本当はお笑い芸人になりたかったのか・・・


息子よ、お前は・・・・父さんの、そして社会の操り人形なんかじゃない。

生きなさい。自分自身の望みの通りに。

お前が、やりたいこともやらないで、我慢しながら生きていくなんて・・・父さんには耐えられない。

お前が自由に生きていくこと、嬉しい楽しい人生を送ること、それこそが親として、父としての歓びだ。

生きなさい。自分自身の望みの通りに。

決して、父さんの喜びや社会の評価なんかを気にするなよ。

お前の人生だ。お前の歓びのために人生を生きて欲しい。

お前が歓びの人生を生きること、それが父さんの歓びだ。



―――― 息子と親父の歓び、それは、私と守護神霊・指導神霊の歓びの関係に等価なのかと存じます。・・・・たぶん

『究魂』拝

テーマ : 気付き・・・そして学び
ジャンル : 心と身体

愛(大道)に満たされて―地球上で最も正当に進化した社会システム

欲という欲は、得られない愛の代償として生まれる。
真の愛のあるところに欲は生じない。
そして真の愛は、個人の性をぬき超えた聖性、グレートタオを経ずしては生ずることはない。

後に知ったことだが、アイヌの文化では、自然界の存在を自分たちの生活のためにいただく時、祈りをささげる。
その祈りは、私たちの目でみれば、歌でもあり、踊りにもみえる。
彼らは音声によって場を清め、踊りによって空間を息づかせ、直接に神々に結ばれる。

これを知った時、私は、私のこの体験と同じだと思った。
そういえば西洋のフォークダンスでも、たとえばマイムマイムは手をつなぎ円形になり、これとよく似た形で踊る。
もちろんマイムマイムはさほど古い歴史はないだろうが、フォークダンス自体は、おそらくこうした人類の基底的文化に根ざしているのだろう。

東洋の基底文化は、遠い昔、ヨーロッパの基底文化でもあったに違いない。
こうした意味の踊るという人類始源の行為は、人類が求めるすべてを満たす力を秘めているのかもしれない。

あの体験以後、私に生じた明確な変化は二つあった。
一つは、あの体験以後、森に入ってゆく度ごとに一種の恍惚感に包まれるようになったことだ。
森の木々や草花との間に大きな交流が起こるのがわかるようになった。
村の少女たちが言っていた精霊の働きが、概念としてではなく、体でわかるようになったのだ。
森の中で一人でヤーマをやっている人たちの深い恍惚感も、はじめて私にもわかるようになった。

もう一つは、先にふれたあの体験の後、今までどうにもならなかった問題が一挙に解決したことだ。
私のかかえていた問題は二つあって、一つは恋愛、もう一つは家庭上の問題だった。
後者は私個人の努力ではどうにも不可能に思われる深刻で辛い問題だった。

ところが、日本に帰ると、まるで別世界のように家族に変化が生じ、まったくなかった問題であるかのようにこれが解決されてしまったことは、私にとって最大の奇跡だった。
そういえば、あの村にはこの私のような問題に苦しむ人などいなかったことを思い出す。

私は日本の社会に育って、男女というものは、愛し合う片方で憎しみ合う性質をもつものだと、そうとは意識しないまでもそう信じていた。
多くの男女関係のもつれを見たり、テレビドラマを見たりしながら、それが人間の姿なのだと思い込んでいた。

しかし、この村で生活するうちに、私のそうした人間観はあっけなく崩壊した。
この村で、私は男女関係のもつれなど、ただの一度も目にしたことはなかった。
それどころか、日本では日常的な、ごく小さな男女の諍(いさか)いさえも見たことはなかった。
あの祭りで体感したような愛に包まれて育つ彼らは、愛に飢えたり、愛を渇望することがない。
だから、それを相手に求めたり、不満を抱いたりすることがなく、反対に、誰もが当然のごとく愛を与えようとする。
そうした彼らの満たされた意識が自然に理想的な男女の関係を生じるのだろう。

あの村での体験以後、私は日本の人々が愛に飢えている姿がわかるようになった。
あの村の人々は、異性を獲得して自分のものにしようとか、自分の気持ちを何とか告白して通じさせようとか、そうした個人的意思で異性に向かうことをしない。

あの祭りで私も体験したように、意識と意識が通じ合っている彼らは、好きという気持ち自体、私たちのそれとは違って彼らのそれは互いの共感から生じる愛の意識であるために、片方にその意識が生じるときには相手にも生じていることを彼らは知っている。
だから、ことさら言葉に出さなくても相手のことを好きと思えば、相手にそれは通じているのが通常で、文明社会の人間のような片思いに苦しむ姿はほとんど目にしたことはなかった。

こうした見えない愛の次元で出会うべき人を探り当てる彼らが、誰を見ても幸せに満たされているように見えるのは当然かもしれない。
彼らを見ていると、人間は最初から出会うべき理想の異性が本当にいるのだろうと思われてくる。
日本では「赤い糸」の話が夢として語られるが、この村ではそれが当たり前の現実としてある。
だから結婚は早く、十四、五歳までには自然に望む相手と結ばれる。
彼らを見ていると、この年代で結ばれることが人類として自然であるような気がする。

所有欲や嫉妬心で相手を縛る観念のない彼らは、相手と結ばれた後も、他の異性と実に調和的で親密な関係を保っていた。
さらに言えば、彼らには私たちのような統制された結婚パターンさえなかった。
法律や政府による結婚管理のない彼らは、一夫一婦を基本に、状況に応じて一夫多妻はもちろん、一人の女性に複数の男性や、通い婚のようなものまであるようだった。
驚いたことに、複数の結婚形態が自在に混在しながらも、全体では見事なバランスが保たれていた。
まるですべてが一つに統一された生命体の複雑な組織のように、この村の男女関係の全体が完壁なまでの調和を生み出すのは、やはり、あの一なる中心に村人たちすべての意識が結ばれているからに違いない。

彼らは、村の異性すべてと、私たちの妻や夫に対するそれよりも深い一体感で結ばれているようにさえ思われた。
彼らの日常はスキンシップで満ちていた。
まるですべての人が心の通い合った恋人のようでさえあったが、かといって、他の異性とのスキンシップに嫉妬心が起ころうはずはなかった。

大道に満たされた彼らの中には、個人的な欲でそれを求める心などないからだ。
異性に対する所有観念がないことが、逆にこうした自由な一体性を結果として築いているに違いない。
それは、人間以外の存在に対しても同様だった。

財産の一人じめなどあろうはずはなく、財産という概念自体が彼らにはなかった。
彼らの愛のすべてを実現させているものは、単なる男女の愛そのものではなく、そのすべてを包括する大きな愛(大道)なのであり、そしてそれを支えるものこそ、あの彼らの祭りなのだ!

文明人は、この愛の本質であるグレートタオを失っている。
だから、求めながらも愛が得られないのだ。
私はそれまで、理想の異性を求めながらも、本当に通じ合える相手に出会えず、悩んでいた。
しかし、この旅から帰って間もなく、特別に相手を求めたわけでもないのに、私がそれまで理想として思い描いていた通りの人物に突如として出会った。

彼女は、はじめから先住民文化に関心をもっていた女性で、当時、昔ながらの生活が残されていた台湾のアミ族の村で、私に近い体験に出会った女性である。
私が東京の小さな自然食品店で買い物をしていた時、彼女のほうから声をかけられ、話をしたのがきっかけとなった偶然な出会いであった。
M老人は、グレートタオへと到ったとき、本物の男女の出会いが実現すると言っていたが、まさにその通りになったことに驚かされる。

私はあの体験以後、人々がなぜこんなにも金銭に飢え、権力に飢えるのか、そうした心理も不思議なほどわかるようになった。
文明人の物質欲は愛の代償だ。
人間の心には、精神の世界と物質の世界を混同してしまう性質がある。
異性を自分のものとすることを愛の獲得と錯覚する心理は、物を手に入れることをも愛の獲得と錯覚する。
デパートで買い物をすることで心が満たされた気がするのも、そうした心理がその裏に潜んでいる。
文明社会ではこうして人々が所有欲という倒錯した愛欲を発展させてきた。
そうした倒錯的愛欲の飽和点で生まれた制度が、現代の資本主義でもある。

愛に満たされない心理が生み出すものは、権力欲でもある。
他者を自分のものにすることを愛の獲得と錯覚する心理はまた、多くの人々を自分のものにし、自分の配下に収めたかのような状態に快感を覚える。
潜在心理はそれを多数の愛の獲得と錯覚する。
この倒錯した愛欲が、権力欲と呼ばれる文明人特有の欲だ。

よく観察してみればわかることだが、権力欲旺盛な人間ほど、愛に満たされない過去の体験をもっているものだ。
こうして無数の権力欲が権力欲とぶつかり、争いが争いを生む。
憎しみ、破壊、争い、孤独、病的心理など、文明社会のありとあらゆる悲劇は、たった一つの欠落から生まれている。

それは、真の愛の欠落という、人にとって中心にあるべき一点が欠落したことによる悲劇なのだ。

この村の人々には私たちのような権力欲や物質欲など、みじんもなかった。
当然、彼らの社会には私たちの社会のような悲劇もない。
それは、彼らは、はじめから真の愛に満たされているからだ。
人にとっての中心なる一点を失っていないからだ。

欲という欲は、得られない愛の代償として生まれる。
真の愛のあるところに欲は生じない。
そして真の愛は、個人の性をぬき超えた聖性、グレートタオを経ずしては生ずることはない。

私はそのことを、人類の源初的あり方が奇跡的に残されたあの村でのあの祭りで学んだのである。
私にとってあの体験は、病んだ文明人の一人だった私が、自然なる人間へと復帰したイニシエーションでもあったと思う。

思えば、現代文明が直面しているあらゆる問題は、すべてこの「欲」をクリアすれば解決できるものばかりだ。
人類が調和団結すれば難しいはずはない環境問題、戦争の問題、人心荒廃の問題、こうしたすべてはこの異常愛欲から生じている。

この村で得た体験は、現代社会の抱える大問題を一挙に解決させてしまえるほどの方法論を秘めていると私は確信する。
あらゆる異常心理は、愛のひずみから生じ、その異常心理は、特別な犯罪者の心理ではなく、文明社会のあらゆる人にまで及ぶほどのごく日常的な心理である。
あの体験以後、私は日本人が異常だとは思っていないごく日常的な感情さえも、その多くが倒錯した愛欲に基づいているとわかるようになった。
嫉妬心や競争心、優越感、あるいは、正義感さえも、その裏には歪んだ愛欲の心理が潜んでいる。
文明人の多くの争いは、この病的な正義感が生み出している。
誰かを傷付けることでしか幸せを感じられない優越感の心理も、文明人の病的心理の典型だ。
それまでは見逃していたこうした感情が、病的であることがわかる認識眼が私の中にいつの間にか生まれていた。

M老人は、「愛は愛を呼び、感謝は感謝を呼ぶ」と言っていた。
あるいは都会人について語っていた時に、「不満は不満を呼ぴ、憎しみは憎しみを呼ぶ」と語ったこともあった。
そうしたことがどんな心の構造や働きによって、生ずるのか。
私は説明されなくてもわかるようになっていた。

認識のあるところに悲劇は生まれない。
文明人は、こうした心理を認識さえできないために、問題意識すらもっていない。
それがそもそもあの村の人々との大きな違いだ。

こうした見えなかったものが見えるようになる人間としての認識の拡大を、昔の人々は悟りとも言ったのだろう。
しかし、いつのまにかこの言葉も、宗教世界では宗教者を権威づけるために用いられるようになってしまい、悟りとは、何か特別者のものとなってしまった。
この村には、そうした権威づけなどない人間本来の姿がある。

私たちの社会では、あらゆる動物の中で、人間のみが自然を破壊し、人間のみが不必要に他の命を奪い、人間のみがさかしらな考えをもつとよく言われる。
しかし、それが誤りであることを彼らはみせつけてくれている。
人間としての彼らは、あらゆる生きものの中で最も命を大切にし、最も高度に自然と調和している。
そして何よりも生命としての輝きを最も輝かしく放っている。

これが人としての進歩でなくて何だろう。
いや、人としての進歩以前に、生命としての正当な進化を彼らは達成している。
それは万物の霊長にふさわしい進化だ。

私たちは外側の世界だけに目を向け、それを向上させることを進歩と考えてきた。
しかし、こうした進歩を進歩と信じる社会は、たとえばテレビが生まれることで家庭的団欒(だんらん)がなくなり映像中毒になりその埋め合わせがどこかで必要になったり、車が増えることで空気が汚れ、交通事故が増え足腰が弱くなり、やはりその埋め合わせが必要になりといったように、より複雑化へ向かうばかりの社会となる。
テレビがあり、車があるという、私たちのもつ人類の進歩の概念は、常にそうした複雑化へと向かう外側の発展がすべてであった。
そしてそうした基準で、彼らのような文化を遅れた文化だと見下し、優越感に浸ってきた。
そうしてうさぎとカメのうさぎのように、先に進むことを忘れ、忘れていることにさえ気づかずにいた。

彼らは、最も肝心な、人間という存在そのものの進歩の道を着実に歩み、私たちが遠く及ばないほどにそれを進歩させてきた。
真実は、彼らこそ我々よりもはるか先端を行く、進歩した人々なのだ。
私はそう確信するようになった。
彼らがこうした進歩の道を確実に歩んで来られたのは、それ一つですべてを継承し、すべてを育むことのできる、あの超越的体験の文化が守られてきたからに違いない。


『タオ・コード―老子の暗号が語り出す』(千賀一生 著、徳間書店)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

深遠なる身体観

たとえていえばこの村の人々は、すべての人が最高レベルの医学博士である。
彼らは私たちのいう健康という概念をはるかに超えた健康観をもっている。
この人たちのすき透った健全な目の輝き、それは、私たちが遠く及ばない健康というものの証しでもある。

そういえば、思い出した話がある。
M老人は次のように語っていた。
「私は中国社会で学校というものを見たことがあるが、子供たちがイスに長時間座るあの不自然な状態は、性エネルギーの流動を滞らせる体質を作ってしまうことになる。
この村では決して子供たちをあんなふうにさせたりはしない。
この村の子供たちは、自分の好奇心だけですべてを学ぶ」

M老人から見たら、文明国の学校というものが、病人の製造所のようだというのである。
私はこれに限らず私がまったく気づいていなかった文明社会の問題点を数多くM老人に指摘されたが、あまりにもその数は多すぎてすべてを思い出すことは不可能かもしれない。

彼らの体の文化を考えながらもう一つ思いだしたことがある。
それは、この村にはスポーツが存在しないことだ。
彼らは私たち以上に体を培い、よりよく洗練しようとする。
しかし、私たちのように勝負を本気で競い合うようなものは一つも存在しないのだ。

後で世界の体育史を勉強してわかったのだが、私たちが当たり前に現在行っているスポーツは人類の文化の中では非常に特殊な形態の体の文化なのだ。
人類史の中では例外的なこの形態は、競争経済社会に適した人間性をもたらすために欧米から世界に広がり、共通の文化と見なされるようになったものなのだ。
私たちは始めからこの西洋スポーツによって育っているので、これが特殊という意味がわからないかもしれない。
しかし、M老人からみたら、勝敗ばかりにこだわるスポーツの姿は、あまりにも粗野で自己中心的な姿にみえるらしい。

互いの体の力を比較し、戦い合うための文化と、自らを精霊の表現体として完成させるための彼らの文化とでは、比較にならないほどの次元の違いがある。
彼らはこの体の文化を通して人間本来の輝きを実現しているのだ。


『タオ・コード―老子の暗号が語り出す』 (千賀一生 著、徳間書店)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

実在するパラダイス―精霊と交流・交信をする人々

先の少女たちに、強烈な印象を受けたように、同じ東洋人でありながら、彼らの顔の表情は固く緊張感のある今の日本人とはまるで違う。
見るだけで心が癒される健康的な笑顔、はずかしがりやが多い若い女性の照れながらの笑顔、彼らは笑顔が一番よく似合う。
できればこの村に一生住めたとしたら、どんなに幸せだろうと思った。

近くの川からは魚がとれる。
彼らにとって神の使いであり、しかし、この魚は、彼らにとって神の使いであり特別な時にしか食べない。
彼らは私を気に入ってくれたようで、私が訪れた歓迎に、長時間かけて祈りを捧げてから川に入り、この魚を食べさせてくれた。
これは最大の歓迎なのだと思う。

この村では自然で素朴な農作物だけで食生活は成り立ってしまう。
たとえ農作物がだめになったとしても、椎の実、どんぐり、栗などの森の木の実は無限ともいえるほどで、食ベ物に困ることはない。
また、果物もたくさん植えられていて、野生のものも含め、余るほどにあった。

女性たちは暇さえあれば織物をするが、実用のためだけならすぐにできるところを彼女たちは時聞をかけて丁寧に仕上げる。
生活に必要なだけでなく、これは、衣装を楽しもうとする美しさへの憧れからそうしているのだろう。
彼女たちの作品は一つ一つ違っていてどれもみな美しく、明るく色鮮やかなこの衣装を男性も女性も着ている。
機械的に生産された服しか着たことのない私は、この村に来て、心を込めた手作りの衣装というものが、こんなにも人の心を豊かにするものだと初めて知った。

彼女たちの織った布は、スカートとして腰に巻きつけたり、女性は胸から巻き付けたりしていることが多く、ワンピースの衣装のように作られたものは、正装用のようだ。
誰もが髪が長く、きれいな髪を独特の形に丹念に結ってあることが多い。
髪には男性も生花を付けて飾ることが多い。
私たちよりもはるかにおしゃれを楽しんでいることに感心させられる。

しかし、後で村の少女たちと話したり行動を共にしたりしてわかってきたのは、この村の人たちの美の概念は、私たちとはだいぶ違うということだった。
実は、この概念こそ、老子の性の概念ともつながるものであることが、後でわかるのだ。

彼女たちは森の中で美しい花に出会うと、両手を上方に、やわらかく、何かをすくい上げるようにゆっくりと伸ばしてかすかにおじぎをしつつ手のひらを自身に向ける。
何かのおまじないかと思ったが、後でその理由がわかってきた。
彼女たちは、花を見て美しいと感じる心が自身に生じるのは、花の精霊の働きを自身の魂が感知したからだととらえるのだ。

私たちは花を見て美しいと感じるのは花が美しいからだと考えてそれ以上を考えようとはしない。
しかし、なぜその色彩を美しいと感じ、その形を美しいと感じる心が自身の中に生ずるのか、その心の働きは実際には論理的に説明できるものではない。

彼女たちは、単なる視覚上の問題としてだけでは説明付けられないこの美の感覚の発生因に精霊の存在を認めているのだ。
だから、美しいと感じる心が強ければ強いほど、精霊への感知力が強いことになる。
精霊たちは人聞をより高い次元へと導き、より美しくさせる力をもつ。
だから、彼女たちは、自身の魂や体が美的感応を生じた時には、それを生じさせてくれている精霊たちと交信し、交流しようとするのだ。

これは、花だけでなく、たとえば遠くの山々が霞みに霞んで神秘的な雰囲気が漂う時などにも、山々に向かって同様の交信をしている場面を時折見かけた。

これがどうして「性」と関連するのかと、読者は思うことだろう。
その理由を、知識としてではなく、体験的に知った私の体験を通して、私は読者にもこの本を読み終えた時に、私に近い疑似体験ができるよう配慮してこの先を書いてゆくつもりである。

少女たちはよく花輪を作る。
しかし、これも単なる遊びやおしゃれではなく、精霊たちの加護を受ける意味だということを後で知った。
これに限らず、私からみたら、信仰行為のように思える様々な彼女たちの行為も、すべて私自身の認識不足、能力不足によってそうみえるにすぎないという現実に、私は直面することになった。

彼女たちは私たちの認知できない世界を認知し、私たちが語り合うことができない存在と語り合っているのだと、私はしだいに謙虚な思いで彼女たちをみるようになっていった。

私はあの滝で村の少女たちに最初に出会った時、その不思議な雰囲気から、まるで妖精か、天使か何かに出会ったような印象を受けたが、これは、彼女たちの心の世界のイメージが私たちとはまるで異なっていて、その心像世界が彼女たちの雰囲気となり、実際上の形となって表現されていたからかもしれない。
もしかしたら、実際に彼女たちは花の精と共にいるのではないかと、私でなくても彼女たちを見ればそう思うに違いない。

実際に、彼女たちの性質は、花のように無私で、花のように人にやさしかった。
彼女たちは、自身の輝きが衰えたと感ずると、まず、精霊の働きを働けなくさせてしまった自身の心のあり方を振り返ろうとする。
そして純粋無垢な花の精たちと交流することで精霊本来の働きをとり戻そうとするのである。

美しさのために化粧品を買いあさり、流行通りに着飾って自尊心を満足させている文明社会の女性と比べ、どちらが質の高い美しさであるかは、彼女たちの存在そのものがそれを証明していた。

先に述べた彼女たちの衣装作りも、本当は単なる美の追求ではなく、彼女たちにとってそれは自然の精霊を織物に宿す行為を意味するのだと知った。
彼女たちは精霊たちと一つになり、精霊たちに揺り動かされてそこに魂を宿す。
だからあれほどまでに彼女たちの織る織物はいきいきと輝くのだ。
織物ではなく、木の葉を連ねたスカートを身に着けている人もいるが、これもやはり木の精霊に守られる意味があるのだそうだ。
しかし、彼女たちはそうしたことを楽しんでやっていることも確かである。
とくに木の葉のスカートは遊び心を満たすもので、子供たちもよく作っていた。
しかし、そんな自然のままの衣装が、こんなにも女性を魅力的にさせ、快活に感じさせるということに驚かされた。

彼女たちは様々な自然物でパックをする習慣があり、そのせいかどうかはわからないが、彼女たちの肌は透き通るように美しくきめ細かだ。
しかも不思議なほど知的で端正な顔立ちの人が多い。

家の入口には南国を思わせる大きく鮮やかな花が咲き乱れ、こうした花々も、やはり精霊を招く意味があるようだ。
村一帯の地面は、きれいに竹箒(たけぼうき)で掃かれ、地面についたかすかな箒の跡が心地よい。
家と家との配置など、そうした全体に、美しさと、なぜか懐かしさが感じられた。
掃除は男の人たちもよくやっているが、これも労働というよりは、気持ちよさのために行っている(この気持ちよさという概念も、私たちのそれとは異なっている)のだ。

また、男の人たちは、土器作りを女性にとっての織物作り同様に楽しんでいた。
彼らにとって土器作りは、娯楽でもあり、芸術でもあり、宗教でもあるだろう。
文明社会の陶芸家には作れないような大胆さと力強さが感じられる造形のセンスは、彼らにとってそれが、一つの精霊との交流行為であるところから生じているのだろう。

彼らの生活は、ある意味ですべてが芸術行為とさえ言える。
それも、私たちの言う芸術とは異なり、いたずらな美だけの追求ではない。
彼らの創り上げた一つ一つはどれをとっても生きているかのように私の心に語りかけるのだ。

電気がない彼らの生活は、七時半頃には就寝の時間で、朝は四時半頃には起きる。
もちろん、これは私たちの時間概念による説明であって、彼らにはそんな認識はない。
彼らは、お日様と共に寝、共に起きるだけなのだ。
日本のようなふとんはなく、わらのような植物素材の上に布をかぶせただけのベッドだ。
しかしこれが意外にも心地よい香りがして快適な寝心地であった。

薄暗くなった天井を見上げて横になる。
天井とは言っても、日本のような平らな天井ではなく、屋根裏がそのままの天井だ。
平らなものや直線のものはまったくないことに気づく。
柱も、自然のままの素材で微妙な曲線を描いている。
そんな天井を見ながら、逆に日本は家も町もすべてが直線の世界であることに気づかされる。
この直線のない空間が、私に日本では体験したことのないような安らぎを与えた。
直線というものがこんなにも人間の意識に強い刺激を与えていたものなのだということに気づかされた。
そういえば、自然界に直線がないように、この村にも直線の物は一つもない。
道さえも、彼らの村は微妙な曲線で構成されている。
これは、彼らが時間に追われた生活をしていないからだろう。
彼らは時間の合理性よりも、空間感覚の豊かさを優先しているのだろう。

ともかく、こうして、まるで大きな胎内に守られているような家の中で、私は太陽と共に寝て起きる生活が始まったのだ。
M老人は時折、私と夜を迎えながら、家の中央の炉で明かりをとりながら村に伝わる神話を話してくれることがあった。
彼の話はまるで詩のようにリズムがあり、美しかったが、こうした話は、各家庭で年配者が子供たちに語るのだという。

先の話に戻るが、こうした彼らの家もまた、精霊認識に基づいていることを後で知った。
彼らは住居を建てる際に、まず中心となる柱か炉を設け、そこに精霊の降臨する儀式を行う。
そしてその後にその周囲に住居を形作る。
「すまい」とは、彼らにとって精霊の働く場であり、彼らの認識の中では子宮に相当するのだそうだ。
だから住居が完成するとそこで働き給う精霊に祈りを捧げる。
「精霊の宿る場である空間に、精霊の仮の姿である人間も住まわせていただく」
これが彼らの建築概念なのだ。

この村の家々が、不思議な懐かしさを感じさせたり、あたたかい何かを感じさせるのは、こうした認識の上に彼らが家というものを造るからかもしれない。

また、彼らの家はまるで新築のような真新しい美しさが感じられる。
これは物理的には、彼らが住居を精霊の場と考えるために、常に家を新しく保つためもある。
彼らの家は特定部分を新しくとり替えることができるような仕組みになっており、冬至と夏至の前に新たにとり替える習慣がある。
これは考えてみれば生命体が、常に新しい細胞に入れ替わるのと同じだ。


『タオ・コード―老子の暗号が語り出す』(千賀一生 著、徳間書店)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

合気解明

「力抜き」と「力ませ」 ―魂のシンクロ―

かくて保江先生により、突き倒されることで自分の足の力が抜け、また合気上げによって自分の脚の筋肉が(後で震えがくるほどに)強制的に作動させられる、
しかもそれらの事態が己の意識せざるところにて引き起こされるということを知った私は、ではなぜこのようなことが起きるのかと考え始めました。

「合気とは敵を無力化する技術」あるいは「人を人形化する技術」という言葉はよく耳にするところです。
確かに相手の力が入らなくなれば、こちらは何でもできることになりますし、またマネキンなど人型の人形はその形態上、スタンドなしにはうまく立たせるだけでも大変ですし、立たせたとしても指で軽く押しただけでパタンと倒れてしまうでしょう。

しかしながら、それだけでは「突き倒し」は説明できても「合気上げ」は説明がつきません。
なにせ、ものすごい筋力を使ってまで自ら立ち上がってしまうのですから。

合気が見えざる原理だとすれば、その原理が場合によって複数あるとは私には思えません。
倒れるときも立ち上がるときも、やはり同じ原理でそうなるはずです。

となれば「無力化」も「人形化」も共に合気によって引き起こされる状態の一場面在「描いた」表現ではないのか。
それよりもむしろ我々にとってわかりやすいイメージで表現すれば、それは「催眠術」に近いものではないかと思われます。
催眠術なら術者のなすがままになってしまうというシーンはお馴染みです。
だから、合気の技とは何か瞬間催眠術(そんなものがあるかどうかは知りませんが)のようなものではないか。
そう言ってしまえば、何となく収まるように思う方々も多いでしょう。

しかし、先ほども申し上げたように未知なるものを既知の基準で判断するのは早計です。
というか実はある日、保江先生から先生が昔ご覧になったという催眠術ショーのお話を聞いて、ハッと気づいたことがあったのです。
このショーは術者が少女に催眠術をかけ、少女の前にはどこまでも花畑が広がり、少女は両手を広げてどこまでも歩いていけると暗示を与えます。
そして彼女が歩き出したところでプロレスラーが登場して少女の歩みを止めようとする。
ところが、止めるどころかプロレスラーは少女にグングン押され、遂には壁際まで押し込まれて冷や汗を流す始末だったとのことです。

この話を人にすると「そりゃ催眠術にかかっているのだもの」と一応は皆納得します。
が、少し待って下さい。
たとえ催眠術がかかっているといっても、なにもその少女がプロレスラーになったわけではない。
少女は少女のままのはずです!
なのになぜ?

私は催眠術について、今までこのように考えたことはありませんでした。
たとえば術をかけて「美味しいりんごです」と暗示を与え、玉葱を齧(かじ)らせるというのはわかる。本人の体格や力はその行為に関係がないからです。
しかしこのケースは・・・誠に不思議なことが起こっているに違いないのです。

「時間」と合気―リベット博士の学説―

プロレスラーと少女、もし双方の力がぶつかっているのなら、少女はひとたまりもなく押し返されたはず。
ということは・・・そう、実は力がぶつかっていないのではないか!
しかしなぜ?

考えられることは、ただ一つ。
それは、時間的に両者の間にギャップがあるのではないか。
そう思い至った私はベンジャミン・リベット博士の『マインド・タイム』(岩波書店)を購入し精読してみました。
するとそこには我々には信じられないことが書かれていたのです。
リベット博士が実験によって発見した驚異的な事実の要点は、次の二点です。

1.我々の脳は各感覚器官からの刺激を分析し意識に上らせるのに0.5秒かかっている。
しかしその刺激を意識に上らせる際に脳は時間的に逆行し、さもその刺激を受けたと同時にそれがわかっていた如く捏造する。

2.我々が何らかの行動をするように欲するとき、自分がそう思って行動しているように思っているが、実は脳が無意識下にその行動を行う準備をし、それが終わってから「それを行いたい」という意思を意識化させる。
その間の時間も0.5秒。

実は、我々が事を意識するのに0.5秒かかるというリベット博士の学説は、ある武術書にも紹介されており知っていましたが脳による捏造や上記二つのポイントについては言及されておらず、『マインド・タイム』を読んで初めて知りました。
しかしいずれにせよ、これは我々の常識を覆すとんでもないことです。

そしてこの二点から私は「力と力がぶつからない」タイムギャップをイメージすることができたのです。

つまりこういうことです。
催眠術によって目の前には花畑しか見えない少女は、プロレスラーが立ちはだかっても我関せず。
そのとき、彼女の動きはプロレスラーの脳の処理速度より早く(行動のスピードが速いという意味ではない。ここに武術の「速さ」とスポーツの「スピード」の違いがある)伝わってしまう。
それ故にプロレスラーはその動作に抗(あらが)えないどころか、なぜかその動きにシンクロしてしまったと考えられるのです。

私はこれに考え至り、次のことに気づきました。
つまり我々の認識が脳の機能上の問題で真の「今」を認識できずにいるということは、普段の我々の行動や格闘技の攻防に至るまで、それが意識的に行われる以上、「過去」の出来事でありながら、そう思わない一種の「約束事」になる。
ということは、この「約束事」を破り相手に全く取り合わない動きをすることで、合気現象は立ち上がるのではなかろうか。

そして、より驚くべきことに・・・片方が普通モードの約束事を破って相手に働きかけたとき、なぜか相手は迫りくるその「掟破りな動き」に(本人の意思には関係なく)シンクロしてしまう。
まるで我々の脳に由来する「自我意識」を放っておいて、その奥に存在する「魂」とも呼べる高次の存在同士が、仲良くフォークダンスを踊りでもするように。

だとすれば、力同士がぶつかるわけもない。
いや、ということは・・・そうか!

「力」つまり「筋力」とは、約束事の世界にのみ適用する自我同士の「申し合わせ」なのではないか!

(中略)

手首の固定―脳をだませ―

リベット博士は実験によって、我々があたかも自由意志によって行動しているように見えても、実はその自由意志が意思として認識される0.5秒前から無意識下で我々の脳が準備した結果にすぎないことを発見されたと言います。

もしこれが事実なら、たとえば殺人事件における犯人の責任はどう解釈されるのだろう。
『マインド・タイム』にはそれに対する博士の考察も述べられておりますが、合気研究からは話がそれますのでここでは言及しないでおきます。

さて合気の研究における一連の気づきや考えから、私は一つ面白いことを思いつきました。
「我々の脳が我々の知らぬうちに我々の意識(心)を支配しているというのなら、その脳に嘘の情報を与えることで逆に脳をだませないか」というものです。

そして、さっそくあることをやってみました。
坂道を登る際、立体写真を見るときのように目を寄せ目にして足もと一メートルほど先を見ますと、まるでフラットな道か、場合によってはむしろ下り坂に見えます。
そこで人通りの少ない真っ直ぐな坂道を選んで、その半分までは普通に登り、途中から寄せ目にしてみたのです。
するとどうでしょう、今まで感じていた「疲労感」が嘘のように消えただけでなく、走り出せそうな気さえするのです。
それで実際走ってみると、これが走れるのです!
しばらくの間この実験にやみつきになり、わかったことは以下のとおりです。

1.身体的には反応が出る。つまり心臓の鼓動は早くなり息も上がる。発汗も伴う。
しかしそれでもなお疲労感が現れない不気味なミスマッチ状態になる。

2.目を閉じても疲労感を消すことはできない。
やはり視覚をとおして偽の情報を脳に与えなければだませない。

これらのことから少なくともわかることは、「疲労感」というものが脳による捏造だということです。

これで「約束事の世界」ということがよりハッキリしてきた私は、保江先生のアドバイスよろしきを得て、もう一つ実験をしてみました。
それはガムテープで両手首をギブスのように堅く固定し動かぬようにしてから、その状態で合気上げをするというものです。

まず、この方法で手首を固定しますと、大きな違和感を感じます。
実はこの違和感の意味するところが大切なのだと後に考え至るのですが、それは後述するとして、とにかくこの状態で合気上げを行いますとビックリするほど簡単にスイスイ上がるのです!

ところが・・・数回これを続けますと、やがて突如として上がらなくなってしまうのです。
「おや、おかしいぞ。どうしてだ?」と思えば思うほど、全く上がらなくなってしまいました。
やはりこんな方法ですぐに身につくほど合気は甘いものではなかったのだ。
自分の浅はかさを思い知ってこの実験を終了するために手首のガムテープを取ろうとしたとき、ある事実を知り愕然としたのです!

私の両手首をガチガチに縛っていたはずのガムテープは何と、たった数回の合気上げのうちにユルユルに緩んでいた!
もちろん、自分では手首を動かそうとしたつもりはありません。
それなのに、脳は無意識下でガッチリ固められた手首を何とか動くようにしようと私の手首をもがかせたのです!


『合気解明 ―フォースを追い求めた空手家の記録―』(炭粉良三 著、海鳴社)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

新・合気私考

合気の業(技ではない)を顕現させるには、とりもなおさず合気モードにならなければなりません。
合気モードとは、無念無想(夢想)になることです。
それは「滅私」即ち「己をなくす」ということですから、如何なる敵意をも生みません(敵意とは「己」つまり自我が作り上げるものだからです)。

この意味において、「無念無想」とは「愛」と同義です。
愛とは、敵意のない状態を指すからです。

ここで、仮にそのような合気モードになれたとしましょう。
すると・・・身体の内外にて、ある変化が起きます。

各々どのような変化なのかを述べる前に、私が前著で述べてきたベンジャミン・リベット博士の説について、御注意申し上げます。
この説において最も大切な点は「我々の脳による認識は、実は0.5秒過去なのだ」というところではありません!

大切なのは
「にもかかわらず、さも我々がことが起こると同時に認識しているように脳が捏造する」という点と
「我々が自発的に行おうとする0.5秒前に脳が無意識下で、行う準備をする」という点に尽きます。

決して我々の意識に上ってこない脳の「捏造」と「準備」、この事実をしっかりと覚えておいて下さい。
逆に言えば、これらがあるからこそ合気は(人間限定で)可能なのだといえます。
もし我々が(普段我々が勘違いしているように)本当にリアルタイムで物事がわかっているのだとしたら、合気は不可能なのです。

だから「合気をかける」ということの真の意味は・・・
「脳判断モードのままの普通の人に対して、自分は脳判断を完全に断ってしまう」
という意味になります。

するとどうなるか?
それだけで、脳判断を断った人は脳判断を継続している人より0.5秒速い地点即ち「真の今」に立つことになります。

このとき、その人の脳は使われていないが故に(これを「脳を初期化する」と呼んでおります)前述したように身体の内外で、ある変化が起きます。
まず外側ですが、それはその人の「雰囲気」が変わります。
これを「雰囲気だと?バパカぬかせ!武術の攻防において雰囲気を変えて何になる!部屋の模様替えをしてるのとは違うんだぞ!」
などと言わないで下さい。

生死をかけた武術の攻防なればこそ、これがある意味全てだといってよい。
何故なら「雰囲気」とは「情報」と同義だからに他なりません。

我々は日頃の対人関係において、無意識下で実に多くの情報を感覚器官から脳に送っています。
脳の判断を仰ぐためにです。
たとえば「この人は今怒っているのか?それとも喜んでいるのか?」
等々、顔色や目つき、振舞いなどを見て必死に判断しようとしているのです、実は。

ところが、観察される側の人の顔色や目つき、振舞いが生まれる原因は、脳による無意識下での準備に他ならない。
ということは・・・脳の機能を停止した者は最早それらの雰囲気(即ちどんな気持ちなのかという「情報」)を生み出すことがなくなってしまう!
無情報! 何の情報も発信しなくなる!

このとき、普通モードの人から見れば「こいつ、バカみたいな顔をしやがって、いったい何を考えているのだ?」と顕在意識で思う以上に無意識下での脳の作業は混乱をきたしているのです。
そして・・・顕在意識ではとても追いつけない「今」において、あの不可解なる合気シンクロ現象が起きる準備が整うのです!

一方、合気モードとなって起こる内なる変化は・・・ものの見え方が変化するのです!
前著でも「人は経験しなかったものを見ることは実はできない」と申しましたが、実際脳が最も捏造を施すのが視覚から入ってきた情報に対してです。
というか・・・少しでも「見る」という行為の科学的解説を語った著書をお読みになった方々ならおそらくわかって頂けると思いますが、「見える」ということそのものがもう、脳の捏造以外のナニモノでもない!
ということは・・・その脳を初期化してしまった後で見える風景とは、あるがままの風景をあるがままに網膜に写し出された像のままに見える風景ということになります。

脳の作業や捏造を全て取り払った後での風景がいったいどのようなものなのか、それはここでは語りません。
が、この分野を勉強した方々なら、おそらく想像はつくと思います。
というより、もっと簡単にわかるものかもしれませんが。
(ヒントを一つだけ。目は二つありますよね!)

実に、この操作捏造抜きの見え方が自分で「合気モード」に入れているかどうかを自分で判断できる手がかりになるのです。
とはいえ・・・脳は使っていない故、自分の中のいったいどこが「判断」などできるのでしょうか?
この部分は今でも極めて不思議な部分なのです。
とにかく脳がしゃしゃり出できた時点で、合気モードは完全に御破算になってしまいますから・・・。

さて、この身体の内外の変化のうち、外側の変化で一つ勘違いしてはいけないことがあります。
それは、何の情報も発信しないバカのような顔になるといっても、これは合気モード即ち脳からの命令を遮断する結果としてそうなるのであって、脳からの命令を無視することなく(演技で)バカの顔をしたって、何の役にも立たないということです。
これを「ポテトチップスの法則」と呼んでおります。
昔ポテトチップスのCMで「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません。悪しからず」というのがありましたので。
逆は真ならず。
あくまで合気モードに入った結果として、バカ顔になるのです。

脳からの命令を断ち、ただそこにたたずむ。
今までに勉強してきた多くの武術書に書いであった様々な事柄が、静かに思い出されます・・・
『猫の妙術』、『木鶏』、沢庵禅師の『不動智神妙録』・・・。

そして、この合気モードに入ったときの内なる変化を知るとき、宮本武蔵が「武の本懐とは?」と聞かれたときに語ったという次の言葉の意味が、静かに、鮮明に、わかってくるのでした。

「たとえばそれは、幅の狭い道を歩くようなものだ。
それくらい誰でもできると言うなかれ。
ではもし、その幅狭い道がはるか高所にただ一本通っていたとして、同じようにその上を歩めるや否や。
それを可能にすることこそが、武の本懐」

親愛なる読者諸兄よ、どうか悟られよ。
この武蔵の言葉は、精神論にあらず。
実際にそれを可能にする、ある現象が・起こり得るのです。

そして、無念無想、あるいは夢想・・・これを限りなく純化してゆく。
そうしてゆけばゆくほど、その人の速度は上がっていきます。
「反応のスピード、動きのスピードが上がる」という意味では、決してありません。

立っている場(場所ではないてそして自分という存在、更にはそれら二つを含む「世界」の全ての速度が上がるのです。
その加速はおそらく、下記のような事態を招くはずです。

敵意は、既に去り
悲しみもなく
痛みもなく
怒りもなく
憎しみもなく
在るのはただ「今」即ち「無時間」。
そのとき、あなたの前に立つ者は誰でしょうか?
かつては、敵だったかもしれません。
あなたに悲しみを与えた人だったかもしれません。
あなたに痛みを与えた人だったかもしれません。
あなたを怒らせた人だったかもしれません。
あなたが憎んだ人だったかもしれません。
しかし今や、それらの感情を生んだ「あなた」自身も既に去り、それ故そこにたたずむあなた方は最早、敵でも味方でもありません。
あたかも・・・枯山水の石庭に点在する岩の如くただその世界その場に「在る」という、当たり前の事態。

そう、これこそが「当たり前」なことなのです。
何故それがわからなかったのだろうか。
そして、それをわからなくさせているものとは、いったい何だったのだろうか。
それを突き止めることができたなら、そうです、その原因となっていたものを滅すればよい。
得る必要はない。
何故なら、どんなに天地ひっくり返っても我々は初めから「今」にいるのですから。
過去に戻ることも未来に行くこともできないのですから。

足りないのではない、余分だったのです。
どのような激しい攻撃技も、その威力を私達に発生させるはるか前。
どのような苦しい病でも、その苦しみを私達に与えるはるか前。
そのとき、即ち「今」に凛として在る私達にとって、それがどうして攻撃たり得ましょう。
病たり得ましょう。

空想ではありません。
私達が「実世界」だと思っているものこそが、空想なのです。
少なくとも、今の私には、そう思えるのです。

仲間達と共に、隠遁者様らお二人の神父が顕された技を再現している間(それはほんの一~二分ほどでしたが)、木蓮祭のことを思っていた間でさえ、何故か今語らせて頂いた気持ち(というより気配)を、ずっと感じていたような気がします。
思い出している自分の一歩前を行くものの気配・・・それは、決して怖れを感じさせるものではなかった。
そうだ、確かに、そうでした。

感情や思考、それら全てを滅し去った後に唯「魂」と共に残り得るもの、それを「愛」ともし呼んでよいのだとしたら・・・そのときこそ、私が保江邦夫先生を通じてイエスから今まさに教わりつつあるものを・・・
はじめて、合気ではなく「愛魂」と呼べるのかもしれない。
そして今、そう呼びたいと思う自分が、ここにいます。


『合気真伝 ―フォースを追い求めた空手家のその後―』(炭粉良三 著、海鳴社)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

ベルクソンのイマージュ

ニュートンやヘルムホルツといった高名な物理学者だけでなく、他にも多くの著名な科学者や哲学者が密かに精神物理学を研究していたことが知られている。
その中にはフェヒナーのように精神物理学を学問として確立するために表舞台に登場した人もいれば、終生精神物理学にかかわっていることを伏せていた人も多い。

時間について深い思索を続け相対性理論を提唱した物理学者アルベルト・アインシュタインに対し、時間概念の根本を正し続けたことで知れ渡っているフランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、ちょうど前者と後者の中聞に位置する。

ベルクソン自身が直接的に精神物理学に言及したことはないようだが、ベルクソンの哲学自体が実は精神物理学の基礎を与えるほどに根本的な科学的認識論の様相を呈していたのは事実だ。
特に、外界認識の場面における人間の一見高度とされる精神作用による認識と、最も原始的な単細胞生物の外界認識との間に大きな差違はないということを見事な論旨で納得させた点は、精神物理学や脳科学においてももっと評価されるべきものだ。

ベルクソンによれば、我々が主に視覚や触覚で認識している外界に存在する様々な物体について、我々は決してそのありのままの姿を認識できているわけではない。

我々の精緻な視覚認識をもってすれば、可視光線についての網膜受容体分解能の範囲で様々な物体の姿をそのまま見ることができているはずだと考えるのは、盲信にすぎないのだ。
いくつかの例を挙げておこう。

初期の精神物理学や心理学で指摘されてきたように、実際には可視光線の連続スペクトルを見ていながら、我々は虹を七色や八色だと認識する。
しかし、これは日常的に七色や八色のカラフルな自然背景や人工塗装を目にする高度な文明生活を営んでいる民族に特徴的なことであり、砂漠やジャングルなどの単調な色彩しか存在しない環境で原始的な生活を続けてきた未開民族において、虹は三色程度にしか認識できない。

我が国においても、やはり同じ理由により一般の国民の多くが虹が七色だと認識できるようになったのは、庶民文化が勃興する江戸時代以降のことであり、それ以前は緑色も青色も共に「青」であり、茶色も赤色も「朱」としか見られていなかった。

また、フランスの文化人類学者がマダガスカル近海の島の原住民の集落に入り込んで調査していたとき、たまたま水平線の手前に戦艦の姿を見つけたので原住民達に沖を指差して知らせたそうだ。

ところが、誰一人として戦艦が沖を航海していることがわからなかったので、最初は沖に見えているものが巨大な船だとは認識できないのだと考え、動く島だとか様々な表現を使って教え込もうとしたという。

結局すべての努力は徒労に終わり、最後に気づいたことは原住民の眼には何かが水平線の手前にあるとは映っていなかった、即ち海と空しか見えていなかったということだった。
原住民の視力は文化人類学者のそれを圧倒的に上回っていたにもかかわらず!

専門は文化人類学だったのだが、その後この不可思議な現象について考えを巡らせた結果、その学者は人間の視覚認識についての驚くベき新事実を発見することになる。
それは、フランス人の学者ならば誰でも一度は読んだことのある、ベルクソン哲学の基盤となる外界認識についての考察に基づいたものだ。

つまり、原住民はこれまで一度も戦艦を見たことも触ったこともなかったために、たとえその物体としての姿が原住民の網膜に像として映り込んだ結果の視覚刺激が脳の視覚野に送り込まれていたにもかかわらず、原住民の脳にはその視覚刺激を認識させるための素材であるイマージュ(「心像」と訳されることもある)が形成されていなかったために視覚刺激が無視されてしまった。

そのため、原住民は戦艦と呼ばれる異形の船を認識することができず、眼には空と海のみが見えているとしか認識していなかったのだ。

自分が何とか辿り着くことができたこの考えの正しさを確認するため、その文化人類学者はパリの同僚に手紙を書き、フランス海軍の協力を得て大がかりな実験をすることになった。

何と、戦艦の側壁に巨大なバナナの絵を描いて、その島の沖を再び航海させるというもの。
予定どおりの日時にバナナを描いた軍艦が沖合に姿を見せたとき、文化人類学者は黙って成りゆきを見守っていた。

すると、どうだ。
先回は軍艦を見ることさえできていなかった原住民達が、一人また一人と海にバナナが浮かんでいると叫び我先に沖に向かって泳ぎ始めた。
戦艦ははるか沖の彼方を巡航しているので原住民達がとうてい泳ぎ着くことはできない相談なのだが、原住民の目にはバナナが海に浮かんでいるとしか映っていないわけで、それがあの程度の大きさに見えるということはほんの一泳ぎの距離に浮いていると理解して取りに行ったに違いない。

その光景を見守っていた文化人類学者は自分の仮説の正しさを確信したのだったが、人間はベルクソン哲学におけるイマージュ認識でしか外界を認識し得ないという事実を視覚認識について裏づけることができた瞬間でもあった。

即ち、我々が物体を視覚によって認識するとき、その物体の物理的映像をそのまま認識しているのではなく、イマージュ、即ち既に素描として認識できる最小単位によって置き換えて認識しているにすぎないことが実験的に確かめられたのだ。

沖を進む戦艦のような物体の物理的映像は原住民のイマージュの中には存在せず、それをイマージュで置き換えることができないために認識することができなかったと考えられるわけだから。

そして、同じ戦艦にバナナの絵を描いたものについては、原住民のイマージュの中にバナナのイマージュが存在していたため、バナナの絵を描いた戦艦の物理的映像はバナナのイマージュによって置き換えられて認識されたと理解できる。
つまり、原住民の認識にとってそれは本物のバナナそのものだったのだ。

ただ、この文化人類学者の話には異論をはさむ向きも多いかもしれない。
原住民の認識を直接に読み取る方法がない以上、すべては状況証拠で組み上げた推論の域を超えるものではないと指摘されればそれまでなのだから。

とはいえ、これに似た話はもっと昔の時代にもあったようだし、我が国にもあったようだ。

それは1520年にマゼランの大型帆船が南米のフエゴ島に停泊したときのことだ。
それまで小さな丸木船しか見たことがなかった島民にはマゼランが乗ってきた帆船の姿が映らず、どのようにして島にたどり着いたのか理解できなかったという記録が残っていたという。

また、江戸幕府末期の1853年にアメリカ合衆国海軍の蒸気戦艦が浦賀沖に四隻姿を現したとき、当時の日本人の中には他の人々が指差す沖合に異形の蒸気船の姿をどうしても見ることができなかった人々も少なくなかったという記録がある。

マダガスカル沖の島の原住民と同じで、それまで蒸気船はおろか外洋を走る大型帆船の姿すら見たことのなかった一般庶民のイマージュの中には、蒸気船のイマージュや帆船のイマージュなどはなかったからに違いない。

しかしながら、幸いにも近年における脳科学研究の進歩、特に視覚機構についての実験的研究の進歩については著しいものがあり、その中にはベルクソンのイマージュ認識の正しさを科学的に裏づけたものも少なくない。
ここでは、有名なひとつの例だけを取り上げておこう。

最先端技術で初めて可能となった角膜移植による視力回復手術が、生まれてまもなく視力を失って五十年以上になる男性患者に対して行われることを知ったイギリスの脳科学者は、患者本人や主治医の許可を得て視力回復直後からの視覚認識の形成過程を詳細に観察することにした。

通常はそのような視覚認識形成は誕生後の乳児期に行われるため、その内的変化を誰も憶えていないし周囲の大人に語って聞かせることもできない。
したがって、人間が視覚認識を勝ち取るプロセスがどのようなものなのかを明らかにする手がかりさえも得られていなかった。
ところが、成人になってからの人が初めて視覚によって周囲の物体を認識することができるようになるのであれば、そのとき如何なる内的変化が伴うのかを本人が詳細に語ってくれることができる。

脳科学者は期待と共に手術後の患者の動向を見守った。
全盲の状態で成長してきたため、その患者の外界認識、特に様々な物体の形状認識は主に触覚で培われてきていたという。
そして、日常的に触れることができていたものについては、それがたとえ車ほどの大きさであっても形体を正しく捉えることができていたため、視覚を得て初めて目にした物体についてでも問題なく見ることができ特定することができた。
つまり触覚認識によって生まれていた物体のイマージュを、初めての視覚認識の場面においても使用することができたと考えられる。

ここで、脳科学者は患者に問う。
これまでの人生の中で会話やラジオなどの音声情報でその存在を聞いたことはあっても一度も触ったことのなかったものの中で、一番見てみたいと思うものは何かと。
その患者が答えたものは、工場で機械部品を加工するときに使う「旋盤」という工作機械装置だった。
確かに、自の不自由な人が手で触れて認識することが難しい物体ではある。

そこで、旋盤を展示してある場所に患者を連れていき、旋盤を初めて目にする瞬間を明確にするために直前から目を瞑っていた患者が、眼前にあるのがお目当ての旋盤だと聞いて瞼を開けたとき、本人にも周囲の人々にも大きな戸惑いが走った。

それもそのはずで、周囲の人達が目の前にあるのが旋盤だと教えてくれているにもかかわらず、そこには何もなかったのだから。

そして、旋盤という機械を見るという長年の夢がかなったはずの患者が、何の感動も興味も示さずボンヤリと前方の床を見ているだけなのだから。

何が起こっているのかを明らかにしたいと思った脳科学者が患者から聞いたところ、患者には旋盤がまったく見えていないということが判明する。
その原因が患者の中で旋盤のイマージュが形成されていないことにあるのではないかと考えた脳科学者は、再び目を閉じて勝ち得たばかりの視覚を封じ込めた上で、これまでの長年の全盲生活でそうしてきたように、初めての物体である旋盤を両手で思う存分に触ってみるように患者を促した。
大いなる感動と共に念願の旋盤を触覚で認識できた患者を、まだ目を瞑ったままで先程のように旋盤全体を正面に見渡せる位置まで連れてきて、脳科学者は前を見るように指示する・・・。

すると、どうだ。
ついさっきまではまったく見えていなかった旋盤が、眼前にありありとその複雑な姿を現したという。

そう、我々はありのままを見ているわけでは、決してないのだ。
ベルクソンの認識論哲学でいうイマージュを見ているにすぎず、したがってイマージュがまだ形成されていないものについては見ることはできない。

ここで一刀流の極意に戻ろう。(中略)

先程ご紹介したベルクソンの哲学に端を発した視覚認識についての脳科学からの研究によれば、我々は周囲の物質をそのまま認識しているのではなくベルクソンのいうイマージュを認識しているにすぎない。
ということは、互いに正面から向き合っている相手の姿だと認識しているものは、単に自分が作り上げた相手のイマージュと呼ばれる精神的実体ということになる。
そこから引き出される可能性としては、見ている相手の姿が精神的実体にすぎないのであれば、それは自分自身の内面である精神状態が変わることによって異なるものに変容することもあり得るということだ。


『脳と刀―精神物理学から見た剣術極意と合気』(保江邦夫 著、海鳴社)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

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魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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