欲という欲は、得られない愛の代償として生まれる。
真の愛のあるところに欲は生じない。
そして真の愛は、個人の性をぬき超えた聖性、グレートタオを経ずしては生ずることはない。
後に知ったことだが、アイヌの文化では、自然界の存在を自分たちの生活のためにいただく時、祈りをささげる。
その祈りは、私たちの目でみれば、歌でもあり、踊りにもみえる。
彼らは音声によって場を清め、踊りによって空間を息づかせ、直接に神々に結ばれる。
これを知った時、私は、私のこの体験と同じだと思った。
そういえば西洋のフォークダンスでも、たとえばマイムマイムは手をつなぎ円形になり、これとよく似た形で踊る。
もちろんマイムマイムはさほど古い歴史はないだろうが、フォークダンス自体は、おそらくこうした人類の基底的文化に根ざしているのだろう。
東洋の基底文化は、遠い昔、ヨーロッパの基底文化でもあったに違いない。
こうした意味の踊るという人類始源の行為は、人類が求めるすべてを満たす力を秘めているのかもしれない。
あの体験以後、私に生じた明確な変化は二つあった。
一つは、あの体験以後、森に入ってゆく度ごとに一種の恍惚感に包まれるようになったことだ。
森の木々や草花との間に大きな交流が起こるのがわかるようになった。
村の少女たちが言っていた精霊の働きが、概念としてではなく、体でわかるようになったのだ。
森の中で一人でヤーマをやっている人たちの深い恍惚感も、はじめて私にもわかるようになった。
もう一つは、先にふれたあの体験の後、今までどうにもならなかった問題が一挙に解決したことだ。
私のかかえていた問題は二つあって、一つは恋愛、もう一つは家庭上の問題だった。
後者は私個人の努力ではどうにも不可能に思われる深刻で辛い問題だった。
ところが、日本に帰ると、まるで別世界のように家族に変化が生じ、まったくなかった問題であるかのようにこれが解決されてしまったことは、私にとって最大の奇跡だった。
そういえば、あの村にはこの私のような問題に苦しむ人などいなかったことを思い出す。
私は日本の社会に育って、男女というものは、愛し合う片方で憎しみ合う性質をもつものだと、そうとは意識しないまでもそう信じていた。
多くの男女関係のもつれを見たり、テレビドラマを見たりしながら、それが人間の姿なのだと思い込んでいた。
しかし、この村で生活するうちに、私のそうした人間観はあっけなく崩壊した。
この村で、私は男女関係のもつれなど、ただの一度も目にしたことはなかった。
それどころか、日本では日常的な、ごく小さな男女の諍(いさか)いさえも見たことはなかった。
あの祭りで体感したような愛に包まれて育つ彼らは、愛に飢えたり、愛を渇望することがない。
だから、それを相手に求めたり、不満を抱いたりすることがなく、反対に、誰もが当然のごとく愛を与えようとする。
そうした彼らの満たされた意識が自然に理想的な男女の関係を生じるのだろう。
あの村での体験以後、私は日本の人々が愛に飢えている姿がわかるようになった。
あの村の人々は、異性を獲得して自分のものにしようとか、自分の気持ちを何とか告白して通じさせようとか、そうした個人的意思で異性に向かうことをしない。
あの祭りで私も体験したように、意識と意識が通じ合っている彼らは、好きという気持ち自体、私たちのそれとは違って彼らのそれは互いの共感から生じる愛の意識であるために、片方にその意識が生じるときには相手にも生じていることを彼らは知っている。
だから、ことさら言葉に出さなくても相手のことを好きと思えば、相手にそれは通じているのが通常で、文明社会の人間のような片思いに苦しむ姿はほとんど目にしたことはなかった。
こうした見えない愛の次元で出会うべき人を探り当てる彼らが、誰を見ても幸せに満たされているように見えるのは当然かもしれない。
彼らを見ていると、人間は最初から出会うべき理想の異性が本当にいるのだろうと思われてくる。
日本では「赤い糸」の話が夢として語られるが、この村ではそれが当たり前の現実としてある。
だから結婚は早く、十四、五歳までには自然に望む相手と結ばれる。
彼らを見ていると、この年代で結ばれることが人類として自然であるような気がする。
所有欲や嫉妬心で相手を縛る観念のない彼らは、相手と結ばれた後も、他の異性と実に調和的で親密な関係を保っていた。
さらに言えば、彼らには私たちのような統制された結婚パターンさえなかった。
法律や政府による結婚管理のない彼らは、一夫一婦を基本に、状況に応じて一夫多妻はもちろん、一人の女性に複数の男性や、通い婚のようなものまであるようだった。
驚いたことに、複数の結婚形態が自在に混在しながらも、全体では見事なバランスが保たれていた。
まるですべてが一つに統一された生命体の複雑な組織のように、この村の男女関係の全体が完壁なまでの調和を生み出すのは、やはり、あの一なる中心に村人たちすべての意識が結ばれているからに違いない。
彼らは、村の異性すべてと、私たちの妻や夫に対するそれよりも深い一体感で結ばれているようにさえ思われた。
彼らの日常はスキンシップで満ちていた。
まるですべての人が心の通い合った恋人のようでさえあったが、かといって、他の異性とのスキンシップに嫉妬心が起ころうはずはなかった。
大道に満たされた彼らの中には、個人的な欲でそれを求める心などないからだ。
異性に対する所有観念がないことが、逆にこうした自由な一体性を結果として築いているに違いない。
それは、人間以外の存在に対しても同様だった。
財産の一人じめなどあろうはずはなく、財産という概念自体が彼らにはなかった。
彼らの愛のすべてを実現させているものは、単なる男女の愛そのものではなく、そのすべてを包括する大きな愛(大道)なのであり、そしてそれを支えるものこそ、あの彼らの祭りなのだ!
文明人は、この愛の本質であるグレートタオを失っている。
だから、求めながらも愛が得られないのだ。
私はそれまで、理想の異性を求めながらも、本当に通じ合える相手に出会えず、悩んでいた。
しかし、この旅から帰って間もなく、特別に相手を求めたわけでもないのに、私がそれまで理想として思い描いていた通りの人物に突如として出会った。
彼女は、はじめから先住民文化に関心をもっていた女性で、当時、昔ながらの生活が残されていた台湾のアミ族の村で、私に近い体験に出会った女性である。
私が東京の小さな自然食品店で買い物をしていた時、彼女のほうから声をかけられ、話をしたのがきっかけとなった偶然な出会いであった。
M老人は、グレートタオへと到ったとき、本物の男女の出会いが実現すると言っていたが、まさにその通りになったことに驚かされる。
私はあの体験以後、人々がなぜこんなにも金銭に飢え、権力に飢えるのか、そうした心理も不思議なほどわかるようになった。
文明人の物質欲は愛の代償だ。
人間の心には、精神の世界と物質の世界を混同してしまう性質がある。
異性を自分のものとすることを愛の獲得と錯覚する心理は、物を手に入れることをも愛の獲得と錯覚する。
デパートで買い物をすることで心が満たされた気がするのも、そうした心理がその裏に潜んでいる。
文明社会ではこうして人々が所有欲という倒錯した愛欲を発展させてきた。
そうした倒錯的愛欲の飽和点で生まれた制度が、現代の資本主義でもある。
愛に満たされない心理が生み出すものは、権力欲でもある。
他者を自分のものにすることを愛の獲得と錯覚する心理はまた、多くの人々を自分のものにし、自分の配下に収めたかのような状態に快感を覚える。
潜在心理はそれを多数の愛の獲得と錯覚する。
この倒錯した愛欲が、権力欲と呼ばれる文明人特有の欲だ。
よく観察してみればわかることだが、権力欲旺盛な人間ほど、愛に満たされない過去の体験をもっているものだ。
こうして無数の権力欲が権力欲とぶつかり、争いが争いを生む。
憎しみ、破壊、争い、孤独、病的心理など、文明社会のありとあらゆる悲劇は、たった一つの欠落から生まれている。
それは、真の愛の欠落という、人にとって中心にあるべき一点が欠落したことによる悲劇なのだ。
この村の人々には私たちのような権力欲や物質欲など、みじんもなかった。
当然、彼らの社会には私たちの社会のような悲劇もない。
それは、彼らは、はじめから真の愛に満たされているからだ。
人にとっての中心なる一点を失っていないからだ。
欲という欲は、得られない愛の代償として生まれる。
真の愛のあるところに欲は生じない。
そして真の愛は、個人の性をぬき超えた聖性、グレートタオを経ずしては生ずることはない。
私はそのことを、人類の源初的あり方が奇跡的に残されたあの村でのあの祭りで学んだのである。
私にとってあの体験は、病んだ文明人の一人だった私が、自然なる人間へと復帰したイニシエーションでもあったと思う。
思えば、現代文明が直面しているあらゆる問題は、すべてこの「欲」をクリアすれば解決できるものばかりだ。
人類が調和団結すれば難しいはずはない環境問題、戦争の問題、人心荒廃の問題、こうしたすべてはこの異常愛欲から生じている。
この村で得た体験は、現代社会の抱える大問題を一挙に解決させてしまえるほどの方法論を秘めていると私は確信する。
あらゆる異常心理は、愛のひずみから生じ、その異常心理は、特別な犯罪者の心理ではなく、文明社会のあらゆる人にまで及ぶほどのごく日常的な心理である。
あの体験以後、私は日本人が異常だとは思っていないごく日常的な感情さえも、その多くが倒錯した愛欲に基づいているとわかるようになった。
嫉妬心や競争心、優越感、あるいは、正義感さえも、その裏には歪んだ愛欲の心理が潜んでいる。
文明人の多くの争いは、この病的な正義感が生み出している。
誰かを傷付けることでしか幸せを感じられない優越感の心理も、文明人の病的心理の典型だ。
それまでは見逃していたこうした感情が、病的であることがわかる認識眼が私の中にいつの間にか生まれていた。
M老人は、「愛は愛を呼び、感謝は感謝を呼ぶ」と言っていた。
あるいは都会人について語っていた時に、「不満は不満を呼ぴ、憎しみは憎しみを呼ぶ」と語ったこともあった。
そうしたことがどんな心の構造や働きによって、生ずるのか。
私は説明されなくてもわかるようになっていた。
認識のあるところに悲劇は生まれない。
文明人は、こうした心理を認識さえできないために、問題意識すらもっていない。
それがそもそもあの村の人々との大きな違いだ。
こうした見えなかったものが見えるようになる人間としての認識の拡大を、昔の人々は悟りとも言ったのだろう。
しかし、いつのまにかこの言葉も、宗教世界では宗教者を権威づけるために用いられるようになってしまい、悟りとは、何か特別者のものとなってしまった。
この村には、そうした権威づけなどない人間本来の姿がある。
私たちの社会では、あらゆる動物の中で、人間のみが自然を破壊し、人間のみが不必要に他の命を奪い、人間のみがさかしらな考えをもつとよく言われる。
しかし、それが誤りであることを彼らはみせつけてくれている。
人間としての彼らは、あらゆる生きものの中で最も命を大切にし、最も高度に自然と調和している。
そして何よりも生命としての輝きを最も輝かしく放っている。
これが人としての進歩でなくて何だろう。
いや、人としての進歩以前に、生命としての正当な進化を彼らは達成している。
それは万物の霊長にふさわしい進化だ。
私たちは外側の世界だけに目を向け、それを向上させることを進歩と考えてきた。
しかし、こうした進歩を進歩と信じる社会は、たとえばテレビが生まれることで家庭的団欒(だんらん)がなくなり映像中毒になりその埋め合わせがどこかで必要になったり、車が増えることで空気が汚れ、交通事故が増え足腰が弱くなり、やはりその埋め合わせが必要になりといったように、より複雑化へ向かうばかりの社会となる。
テレビがあり、車があるという、私たちのもつ人類の進歩の概念は、常にそうした複雑化へと向かう外側の発展がすべてであった。
そしてそうした基準で、彼らのような文化を遅れた文化だと見下し、優越感に浸ってきた。
そうしてうさぎとカメのうさぎのように、先に進むことを忘れ、忘れていることにさえ気づかずにいた。
彼らは、最も肝心な、人間という存在そのものの進歩の道を着実に歩み、私たちが遠く及ばないほどにそれを進歩させてきた。
真実は、彼らこそ我々よりもはるか先端を行く、進歩した人々なのだ。
私はそう確信するようになった。
彼らがこうした進歩の道を確実に歩んで来られたのは、それ一つですべてを継承し、すべてを育むことのできる、あの超越的体験の文化が守られてきたからに違いない。
『タオ・コード―老子の暗号が語り出す』(千賀一生 著、徳間書店)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体