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ツァラトゥストラはこう語った

最近、二人の知人が自らの命を絶ちました。親しく会話する間柄では無かったのですが・・・
二人は、人生に立ち現われてくる現象だけを見て他の人の生と比較しながら生きていたのかもしれないと考えると、ニーチェの永劫回帰思想、超人思想を紹介してあげたかったと思います。
「ツァラトゥストラはこう語った」は、生きる勇気を湧出させてくれます。いつもの独り言です・・・

ニーチェ・賢い大人になる哲学(宮原浩二郎 著、PHP研究所)より

――――

二〇・永遠回帰の考え方

・なぜ永遠回帰なのか
ここで、物語の進行を止めて、もう一度確認しておこう。
ツァラトゥストラが永遠回帰の思想に目覚めたのはなぜだろうか。
それは、人間をそのとり返しのつかない過去への復讐心から解放するためである。
時の流れに復讐できない腹いせに、他人や自分を責め苦しませる悪習から、人間を自由にするためである。
自分の不幸や絶望を誰かのせいにして、その誰かを責めさいなむという悪習を絶つためである。
死ねば天国に行けるとか、いつか誰かが救ってくれるとかいう、他人まかせの依存心から脱出して、人が自分自身の人生の主人になれるようにするためである。
生きるよろこびを深く深く味わい、この人生を何度も何度もくり返し生きたいと思えるようにするためである。
踊り、笑い、歌いながら、身も心も軽快に生さることを可能にするためである。
つまり、究極の救いをもたらすためである。
そのために是非とも必要なのが、永遠回帰を識ることなのである。

・永遠回帰を識るための二つのステップ
では、永遠回帰を識るとは、どういうことなのだろうか。
物語は今まさにその場面にさしかかっている。
ここで再び、簡単な道しるべを置いておこう。
できるだけ自分にひきつけて考えてみてほしい。
永遠回帰の思想を自分のものにするためには、二つのステップを踏む必要がある。
まず、第一のステップ。
「私は、私のこれまでの人生をそっくりそのまま何度もくり返し生きることになる」と考えてみる。
つまり「これまでの人生が永遠に回帰する」と考えてみる。
すると、「私の人生は今現実にあるがままの人生であり、今とは別の人生など未来永遠にわたってありえない」ということになる。
つまり「この現実からの逃げ道はどこにも絶対にありえない」ということになる。
これが科学的に真理かどうかは、どうでもよい。
とにかく、そういうものなのだと徹底的に本気で思い込んでみる。
それができたら、今度は第二のステップ。
これまでの人生がそっくりそのまま永遠に戻ってくるだけで、この現実からの逃げ道はどこにもないものとして、「私はそうした永遠回帰に不満はないか?」と自分に問いかけてみる。
そしてさらに、「私は永遠回帰を喜んで欲するか?この人生を未来永遠にわたってそっくりそのままくり返したいと思えるか?」と問いかけてみる。
この問いかけに対して腹の底から「イエス!」と言えたら、その時人は永遠回帰思想を消化したことになる。
いいかえれば、「超人」になる!
けれども、これは簡単なことではない。
この人生がそのまま回帰するのなら、もう二度と来てほしくない苦悩や苦痛も、やはりそのまま回帰することになる。
とり返しのつかない残酷な過去をこれからまた無限に経験しなければならない。
それを知っていて、「イエス!」と言い切るのは難しい。
また、恐ろしい。
実際、ツァラトゥストラもこの難問を前にして七転八倒の苦労をする。
「イエス!」を言いかけては、ためらい、しり込みし、絶望に襲われる。

・あらゆる苦悩に「イエス!」を言う
物語の次の場面では、ツァラトゥストラの幻覚に「瞬間」という名の門が出てくる。
この門の前で、ツァラトゥストラは時間の循環に思いをめぐらす。
時の流れは大きな円を描いてぐるぐるまわっているのではないか?
だから、あらゆる出来事は永遠に回帰するのではないか?
自分のこの人生もまた永遠回帰するのではないか、と彼は考える。
これが、第一のステップである。
すると場面が急転し、恐怖に顔をゆがめ、のたうちまわる若者が現れる。
若者の口からは黒くて太い蛇が垂れ下がっている。
若者は最後に蛇の頭を噛み切って立ち上がる。
この蛇は苦悩の永遠回帰を受け入れることの恐怖であり、蛇の頭を噛み切ることは、この恐怖に打ち勝つことである。
彼は永遠回帰に「イエス!」を言ったのだ。
が、これもまだ幻覚にすぎない。
ツァラトゥストラ自身はまだそこまで強くない。
まだ十分に成熟していない。
蛇を噛み切った若者の幻覚は、ツァラトゥストラ自身がやがて永遠回帰を肯定するための、第二のステップのためのイメージトレーニングである。
その後、このイメージをしっかりと胸に抱きながら、ツァラトゥストラは旅を続ける。
島々をめぐり、町々を通りながら、人々に語りかける。
長い旅を終え、鷲と蛇の待つ洞穴に帰ってしばらくすると、最後の決戦の時が来る。
そして彼は勝利する。
ツァラトゥストラ自身が万物の永遠回帰に、そしてこの自分の人生の永遠回帰に対して腹の底から「イエス!」を言えるようになる。
その時、第二のステップが完了する・・・。

二一・時間の円環

・時はぐるぐるまわっている
さて、物語に戻ろう。
反撃をくらった小びと(重力の魔) はツァラトゥストラの肩から飛びおり、道端の石に腰かけた。
ふと気づくと、二人のいる場所には「瞬間」という名が刻まれた門がある。
道は門を通って前方の未来へ永遠に延びている。
また、門の手前から後方の過去へ永遠に続いている。

『ぼくたちの佇(たたず)んだところにちょうど門があり道が通じていた
「この門を通る道を見るがいい! 小びとよ」とぼくは言いつづけた
この長い道をもどれば永遠に果てしがない
またあちらの長い道を出て行けばそこにも別の永遠がある
そしてこの門のところこそかれらがまさにぶつかっている場所なのだ
門の名は上に掲げられている――「瞬間」と』

この門を見て、ツァラトゥストラは考える。
この未来へ延びた道は、どこかで過去の道へつながっているのではないか。
また、過去へ延びた道も、どこかで未来の道につながっているのではないか。
つまり、道は一つの環になっているのではないか。
時の流れは一つの環をなし、過去はかつて未来であったものであり、未来はかつて過去であったものなのではないか。
いまこの門に入った人は、かつてこの同じ門に入って来たのではないか。
いいかえれば、この瞬間に起きているのと同じことが、かつて起きていたのではないか。
かつて起きていたのではないか。また、この瞬間に起きているのと同じことが、これからもまた起きるのではないか。
そして、この瞬間そのものが、かつて何度もあり、これからも何度もあるのではないか。
この瞬間は、他の無数の瞬間とともに、時間の円環をつくっている。
どの一つの瞬間をとってみても、他の無数の瞬間と円を描いて結ばれている。
そして、あらゆる出来事は、この時間の円環のなかで固くむすばれている。
ツァラトゥストラは続ける。

『およそ走りうるすべてのものは
すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?
およそ起こりうるすべてのことはすでに一度起こり行なわれ
この道を走ったことがあるのではなかろうか?
すでにすべてのことがあったとすれば
この門もまたすでにあったのではなかろうか?
そして一切の事物は固く連結されているので
この瞬間はこれからくるはずのすべてのものを
ひきつれているのではなかろうか?
したがって――自分自身をも?』

・苦痛も永遠にくり返し戻ってくる
「瞬間」の門の前に立つツァラトゥストラも、かつてここに立ったのであり、これからも立つだろう。
何もかも、すでに今と同じに存在していたのであり、これからもまた今と同じに存在するだろう。
人はみな、すでにあった人生をくり返しているのであり、これからもまたくり返すだろう。
いや、くり返さなければならない。
たとえば、今この本を読んでいる、この瞬間も永遠にもどってくる。
きみはそう言われても、怖くはないだろう。
この本を楽しみながら読んでいるはずだから。
むしろ、この瞬間の永遠回帰をよろこぶにちがいない。
けれども、永遠回帰には恐ろしい一面がある。
なぜなら、戻ってくるのはこの瞬間だけではないからだ。
きみのこれまでの人生のあらゆる瞬間が、この瞬間に引き連れられて戻ってくる。
そのなかには、死にたいほどの苦痛の瞬間もあるだろう。
もう二度と来て欲しくない沈痛な、醜悪な、悲惨な瞬間もあるだろう。
そうした最悪の瞬間もまた、このいまの瞬間に引き連れられて、戻ってくる。
きみはそうした瞬間も未来永劫にわたって無限にくりかえし生きなければならない。
そう言われたら、さすがのきみも怖くはならないだろうか?

『ここに月光をあびてのろのろ這っている蜘株
この月光そのもの そして門のほとりで永遠の問題について
ささやきかわしているぼくとおまえ
――ぼくたちはみなすでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?
そしてまためぐり戻ってきて
あの向こうへ延びているもう一つの道
あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか
――ぼくたちは永遠にわたってめぐり戻ってこなければ
ならないのではなかろうか?』

こう語りながらツァラトゥストラの声はしだいに低くなっていく。
自分自身の言葉に恐怖をおぼえたからだ。
しかも、彼一人だけの問題ではない。
ツァラトゥストラの仕事は、小さな人間をふるいにかけ、大きな人間を育てることにある。
超人を育成することが彼の仕事である。
が、永遠回帰の教えに従えば、ツァラトゥストラがいくら超人を育てたところで、小さな人間は永遠に戻ってくることになる。
陰険な羊飼いの独裁者が、卑屈な奴隷根性の民が、逆向きの障害者が、ありとあらゆる小さな人間が永遠にくりかえし戻ってくる。
それならば、すべては無駄ではないだろうか。
何をやっても徒労におわるのではないか。
あの疲労と倦怠の予言者が語っていた「すべてはむなしい。すべては同じことだ」という教えと、いったいどこが違うのか。
ひょっとしたら、あの予言はツァラトゥストラのことをいっているのではないか?
自分の教えは、結局のところ、生きることへの嫌悪に帰着してしまうのではないか?
ツァラトゥストラの足もとに、鉛色をした虚無がぽっかり口をあけている。
底知れない深淵が口をあけている。
ツァラトゥストラは、自分の言葉が連れてくる深い虚無に気づき、背筋の寒くなるような恐怖をおぼえたのだ。

二二・超人誕生のイメージ

・苦しみだけでなく悦びがある
しかし、ここで光景が一転する。
ツァラトゥストラは依然として幻覚を見ている。
が、小びとと「瞬間」の門が消え、一人の若者の姿があらわれる。
若者は顔をゆがめて地面をのたうちまわっている。

『一人の若い牧人がのたうちまわり
息をつまらせ痙攣をおこし顔をゆがめて
苦しんでいるのをぼくは見た
その口からは一匹の黒くて重たい蛇が垂れさがっていた
これほどの嫌悪の情と蒼白の恐怖が
人間の顔にあらわれたのをぼくは見たことがなかった
牧人はおそらく眠っていたのだ
そこへ蛇が来て喉に這いこみ――しかと噛みついたのだ』

この幻覚は一つの比喩であり、また、未来の予感でもある。
とぐろを巻く蛇という動物は、永遠回帰の円環を思わせる。
だから、その黒くて重いさまは、永遠回帰のもつ重苦しい暗黒面を示している。
永遠回帰の教えによれば、人がそれまで体験した出来事はすべてそっくりそのまま戻ってくる。
沈痛な、悲惨な、醜悪な苦悩の体験が何度もくりかえされる。
あの無数の小さな人間たちもそのままに戻ってくる。
すると、何をしても無駄であり、人生は無意味な徒労にすぎないと思われてくる。
「すべては同じことだ。すべては無駄だ」と思われてくる。
永遠回帰は生存への嫌悪を誘発する。
ツァラトゥストラが小びとに語りながら自分の言葉が恐くなったのは、永遠回帰思想が誘発する生存への嫌悪に気づいたからだ。
黒くて重い蛇は、この生存への嫌悪を象徴している。

『ぼくの手は蛇をつかんで思いきり引きに引いた
――その甲斐はなかった!
ぼくはわれを忘れてそのとき絶叫した
「噛むんだ!噛むんだ!」
「頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」
ぼくの恐怖 ぼくの憎悪
ぼくの嘔吐 ぼくの憐憫
ぼくの善意と悪意の何もかもが
ただ一つの絶叫となってほとばしった
しかし 牧人はぼくの絶叫のとおりに噛んだ
力強く噛んだ!』

若い牧人はツァラトゥストラの全身の叫びにこたえて、蛇の頭を噛みきる。
永遠回帰の暗黒面である生存への嫌悪を噛みきる。
そのとき彼は、真の意味で生存を肯定し、永遠回帰を肯定する。
自分の人生が、また、あらゆる事物や出来事が永遠にくりかえし戻ってくることに対して、身をもって「イエス!」と言い切ったのだ。
いっそ死んでしまいたいような絶望的な瞬間を、何度もくりかえし生きなければならない。
醜悪な奴隷根性をもつ小さな人間たちも何度も戻ってくる。
それを認めてなお、どうして生存への嫌悪を振り切れるのか。
どうして、別の人生や世界を夢見たり、深い諦観のなかに沈んだりしないでいられるのか。
どうして、「もう一度!」と喜び勇んで永遠回帰を肯定できるのだろうか?
人生には、苦しみだけでなく、悦びがある。
永遠回帰の教えによれば、苦悩だけでなく、よろこびもまた永遠に回帰する。
ほんとうは、苦悩とよろこびは組になっているのだ。
どちらかが欠けると、もう一方もない。
すべては緊密に結ばれている。
すべては互いに愛しあっている。
だから、よろこびを肯定すれば、苦悩をも肯定したことになる。

『かれは蛇の頭を遠くへ吐きだした
――そして飛びおきた
もはや牧人ではなかった
もはや人間ではなかった
一人の変容した者
光につつまれた者であった
そして哄笑(こうしょう)した
これまでこの地上でかれが哄笑したように
これほど哄笑した人間はなかった!』

・永遠回帰を肯定したとき、人は超人になる
存在の車輸をまわらせる原動力は、よろこびである。
苦しみではない。
身をもってそれを知るとき、はじめて人は自己自身の主人となる。
なぜなら、自己自身の永遠回帰を欲するのはよろこびだけだからだ。
よろこびは、「もう一度」「もう一度」と自己自身の回帰を欲する。
よろこびが深ければ深いほど、回帰を強く、より強く欲する。
よろこびの深さとその自己充足を身をもって知るとき、人は自己自身の主人となる。
永遠回帰を真に肯定するとき、人は超人になる。

ぼくはいかなる人間の哄笑でもない哄笑を聞いた
いまや決して鎮(しず)まることのない
ひとつのあこがれがぼくの心を蝕む
この哄笑へのあこがれがぽくの心を蝕む
どうしてぼくはおめおめと生きて行くことに堪えられよう!
また いまにして死ぬことにも堪えられるだろう!』

若い牧人は噛みきった蛇の頭を吐き出して飛び起きる。
そして、呵々と一笑する。
この哄笑はもはや人間のものではない。
光につつまれたその姿を目にし、かつてない笑いを耳にしたツァラトゥストラは、もう後戻りできない。
超人への憧れに身が灼(や)かれそうな思いがする。
足踏みし後ずさりながら生きのびること、それにはもう耐えられない。
いまやもう、前進あるのみだ。

二三・偶然の足で踊る

・目的や必要にしばられない自由
ツァラトゥストラは今、永遠回帰の思想をはっきりと認識している。
だが、それを自分のこととして肯定できるかと考えると、さすがのツァラトゥストラも逡巡する。
永遠回帰を肯定しようとすれば、自分自身が砕け散ってしまうのではないか。
自分はまだそこまで十分に強くないのではないか。
弱気になったツァラトゥストラはしばし感傷にふけりながら、深淵の入り口に立ちすくむ。
が、遠い未知の世界を旅する海の冒険野郎たちに囲まれて、ツァラトゥストラはふたたび元気づく。
雲一つない空と紺碧の海の間に身をおく幸福に感謝しながら、彼はふたたび雄弁になる。

『「偶然」――これはこの世で最も古い貴族の称号である
これをぼくは万物に取りもどしてやった
およそ目的にしばられた奴隷制から救いだしてやった
およそ万物を支配し動かしている
神的な「永遠の意志」などはありえないと
ぼくが教えたことによって』

晴れやかな天空に棲む神々は、サイコロ遊びを好む。
ツァラトゥストラは、「偶然」こそ高貴であり、最古の貴族の名なのだと言う。
人間は何かのために生きている、万物は何かの目的によって動かされている、などという人がいる。
これは、せこい考えである。
そう考えると、人間(や動物や植物や鉱物)はすべて「目的に縛られた奴隷」になってしまう。
あらゆる「~のために」をやめにしよう。
万物を支配する永遠の神の意志などないのだ。
万物を偶然の足で踊るにまかせよう、とツァラトゥストラは言う。

『そうした意志のかわりに
ぼくはあの騎りと狂愚を置いた
知恵が万物に混入されているのは狂愚に役立つためだ!
ぼくが万物において見いだした確実な幸福は
万物がむしろ偶然の足で
踊ることを好むということにある』

この世に狂愚があるのは理性に役立つからだと考える。
しかし、ほんとうは逆なのだ。
むしろ狂愚のほうがメインディッシュであり、理性はその味をひきたたせるスパイスのようなものである。
「よく学ぶためによく遊ぶ」のではない。
「よく学ぶと遊びの味がひきたつ」のである。
ツァラトゥストラは、サイコロの飛び交う偶然だらけの世界に、ある必然的な幸福を見いだす。
この世界では、あらゆるものが偶然の足で踊りたがる。
「目的」とか「必要」とか「規定」とか、うるさいことをいわなければ、万物は偶然の足で踊りだすだろう。
それは美しい舞踏場であり、至福の光景である。
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テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

なぜあなたは我慢するのか

ヴァーノン・ハワード、この名前にピンと来る人は相当のスピ古参(?)かと・・・
私が初めて氏の書籍に触れたのは30年前の大学生の頃でした。
「なぜあなたは我慢するのか」、「スーパーマインド」に魅了されたのが、スピ探求のきっかけでした。
最近、須藤元気さんの焼き直しによる「宇宙のセオリー」という書籍が出版されています。読んでみましたが、原典である「なぜあなたは我慢するのか」、「スーパーマインド」が私にはスンナリと入ってきます。
皆さんには如何でしょうか・・・

―――――――
なぜあなたは我慢するのか 第3章 日々の人間関係を克服しよう

賢者は常に人間の本性を、表面に顕われているところからではなく、真にあるがままを直視する。
へンリック・イプセンの痛烈な戯曲のなかに、ラ・ロシュフコーの歯に衣きせぬ警句に、イエスや仏陀の人間を叱る説教に、われわれはこの健全な正直さを見ることができる。
人間性のネガティブな半面は変えることができる。
だが、その一見美しい幻想については、それにより苦しみ悶える以外にない。
傷口に薔薇を置いても、傷はいぜんとして傷である。

なぜ自分が他人とうまくいかないのかどうしても理解できないときは、次の訓(おし)えに耳を傾けるとよい――あなたが自分自身について何でも知っているとき、あなたはまたあらゆることについて何でも知っているエキスパートとなるはずである。
鷹は己れ自身を知り、己れの本性を知る。
それゆえ鷹は同じ本性をもつ他の鷹どものことなら何でも知っている。
あなた自身を、その在るがままに知れ、そうすれば他人を彼らの在るがままに知ることができよう。
すなわち、あなたはあなたの人間関係ではたいへん賢い人となれるのである。

人間の場面をそのあらゆる混乱と苦悶のまま明視することによって自己覚醒はスピードアップされる。
ジョージ・マクドナルドが哀しい情景を描写している。
「ほら、彼らが行く――人間世界のあわれな小雀どもが、ぺちゃくちゃ囀(さえず)りながら、すこしでも得になればとやたらにパン屑や種子を漁りに駆けまわって!」

こうした情景の惨めさを見ることのできる眼は、その人のネガティブな人柄を現わしているのではない。
ひとつの正直な心を示しているのである。
この心は彼にこう叫ばせる。
「おれはあんな生き方はしたくない!」

マイケル・Jは職工長をしているが、人間の本性をもっとよく知るために、彼の日々の人間関係を資料として使っている。
彼は毎日、観察事実をひとつだけ認(したた)めた。
ここに三つだけ紹介する。
・どの男も見かけ以上にはるかに怯えている。
・人々は他人を傷めつけることで威力感という誤った自己破壊的な自負を身につけていく。
・真の知慧にもとづいた強さのみが正しい人間関係の礎石である。

あなたが既成システムと闘うならば、あなたはその既成システムの一部である。
そうであるかぎり、あなたは逆襲される。
逆襲されるということは、ほんとうは、あなた自身の内部にある不可視のネガティブなものによって攻撃されているのである。
システムと戦うことは敵に弾薬を与えるようなものだ。
よしたほうがいい、無意味である。
あなた自身のために戦うがいい、それなら意味がある。

「どうすれば人類は争いをやめられましょうか?争いをやめるシステムさえ発明できればいいと思うのですが・・・」とあるクラスメンバーが訊いた。
答え――「争いをやめるのにシステムは要りません。
ただ争うのをやめればよいのです。
争い合う人類は、たとえば平和会議といったようなシステムの有効性を信じるフリをしています。
事実は、平和的であるかのごとく見せかけながら、争いを続けるためなのです。
システムはいま直ちに健全な心となることを回避する方便です。
健全な心は今ここにあるのであって、明日にではありません」

〈誰とも仲よくする方法〉――偽りの自己イメージを粉砕せよ

他人の誤りから自分を守る方法はひとつしかない、それは自分の誤りから自由になることである。
自分の誤りと他人の誤りは同一レベルにあるのであって、激突は必至である。
しかし自分自身の誤りを見ることは、「正しい人間」という自家製の自己イメージにとっては不快なショックである。
自己解放へのプロセスで、自分自身の誤りを見るというこのテストに合格するものが少ないのも当然である。
自分が、偽りの自己イメージを粉砕することをためらっている――これを知ることが正しい方向へ踏みだす手近な第一歩である。

コチコチの既成概念が自己救済を阻んでいるのである。
ソクラテスはかつて、すばらしく巧みに彫られた石の人体像を見て感嘆し、「なんと、人間というものはこの彫刻家に劣らない巧みさで、彼ら自身をみんな石に変えてしまうものか!」と嘆いたという。
自己溶解(石のように固くなった自分自身を溶かし柔軟にする)と自己回復とは同じプロセスである。
あなた自身を変えるという自分の仕事に、自分自身がどこまで、いかほど関わっていることか!
このことをじっくりと問うとよい。

ブルース・Mが問うた。「誤った自己感覚を棄てることがどうして人々の間に真の人間関係を築くのでしょうか?」
答え――「ここが大切なポイントですからよく聴いて下さい。
『わたし、あなたとは何か?』
わたしは、あなたをあなたと見ないかぎり、わたし自身をわたしと見ることはできません。
あなたとは、わたしが創りだした対象です。
わたしはわたし自身を、あなたとの対照関係でしか見ない。
あなたを友としてか敵としてか、そうしたあなたを、わたしは意識的に創りだしている。
それは、わたし自身を、わたしというレッテルを貼られたものとして確立する。
ということはそう誤って思い込んでしまうためなのです。
しかしこの、わたしがあなたとは別個の、対立した存在であるというアイデンティフィケーションは、そもそもの出発点からして間違っている。
対立ではなく、一体であることこそが現実であり真実なのです。
これが分ると、幻想のうえに築かれた友と敵とは消え、わたしはあらゆる人と真の人間関係に立たせられます」

偉大な思想家はみな、一なるものであることを説いている。
彼らは人と神とは一である、人と字宙とは一である、人と彼自身とは一である、と教えている。
幻想に曇らされた思考が、人をして、自分は他とは離れた別の、固有の自我を有しており、この自我こそ拡大され守られねばならぬと信じさせるのである。
この幻想が戦争やあらゆる人間的悲惨を惹き起すのだ。
個人であるその人が、この「一なる本質」を悟るとき、彼の内的葛藤は完全かつ永久に消滅する。

われわれは自分自身のうちにある好きなところを、他人のうちにも好く。
自分自身のうちで拒むところを、他人のうちでも拒む。
それゆえわれわれは交互に入れ替わる自己像によって、お互に惹かれたり斥けられたりしているのに、他人が一方的にわれわれの感情を惹き起こすのだと錯覚している。
この事実に気づくことが実際的、現実的な自己認識である。
自己賞讃をも自己処罰をも滅却し、かくてより高い次元からものを考えることによって、われわれは決して誤って他人に魅せられることはなくなる。
従って他人から傷つけられることもやむ。

あなたが自分自身を律しているとき、あなたはまた、あなたの出会う誰をも律しているのである。
ただし一般の人々が考えるのとはまったく異る仕方で律しているのである。
他の誰かに力を及ぼそうという欲求はなしに、おのずとその人を律する立場に置かれるのである。
これは自然で、非神経症的で、ごく平和的な力である。
この素晴しい境地は、東洋の導師たちのいう「事物の本性への随順」を達成した人すべてのものである。

あなたは、出会う誰とでも全く気楽にくつろいでいられるあなた自身を想像できるだろうか?
この落ち着きはあなたのものとなり得る。
一国の大統領と会おうが、あなたの隠された過去を知っている人と会おうが、あなたを敵視している人と会おうが、常に泰然自若としていられる心境だ。
苛立ちとか神経質とかいう心理状態は、過去の経験を現在の瞬間へ出しゃばらせるから起こってくるのである。
過去が現在へ権利を主張するのは不合理である。
あなたはこれを不合理と見抜かなくてはならない。
ミシシッピ川の堤防に立って川を見る。
一分後、あなたはまだそれをミシシッピ川と呼ぶだろうが、あなたの眼前の流れはすでに新しい水なのだ。
そこにさっきいった気軽さの秘密があるのだが、おわかりだろうか?

〈勝敗を超えた勝利〉――人間関係はどうしてできるのか

人間のいざこざがどうして起こるのか理解するためには、人間の本性を深く調べてみなければならない。
他の方法ではダメである。
何かを隠している人たちは、たとえば「平和委員会」の設置といった代替手段を提案するが、そんなものは意味がない。
人間の本性をたゆまず掘り下げている人は、人間の悪意を理解しており、決して悪意のとりこにはならない。
例えば、人間というものは、もしなにかのチャンスがあれば、いかに悪辣に他人を虐げるものであるかは、その人自身が同じように虐げられたとき、どれほど憎悪をこめて絶叫するかを見れば、あなたも理解されよう。

「なぜ、霊的な教師たちはみんな、人類により大きな調和と共存をもたらすと思われるあらゆる種類の社会的計画に、力をこめて反対するのでしょうか?」とビル・Wが訊いた。
答え――「不純な水を飲んで病気になった人は、不純な水をいくら飲んでも快くなりません。
人間の計画は決して人間の病気を治癒することはできないのです。
薬が病気を治す訳は、薬が病気とは異るからです。
偉大な教師たちの説く原理で勉強すれば、不純物と薬との違いが分るようになります」

エソテリシズムの教師であるジョージ・グルジェフは人の表白する理想とその内面の空虚さのショッキングな隔りを明らかにする実験を行ないつづけてきた。
非常に強い信念をもっている人を、その表面的なパーソナリティを遮断するような心理状態に一時的に入れる。
そこで、「君はまだこの強烈な意見を述べたいと思うか!」と問いかけると、その人はどんより曇った眼であたりを眺め、「ぜんぜんそんなものに関心はない。キイチゴのジャムが欲しい!」と告白した。
グルジェフは「偽りのパーソナリティを剥ぎとってしまえば、甘いものの好きな幼児にすぎない」と結論づけている。

霊的に目覚めた人々の比類なくすぐれた洞察力についてディスカッションの間に、私は次のことをクラス一同に伝えた。
「みなさんは、自分のことを何でも知り抜いている人に会いたいと思いますか?
ニヤニヤしている人がいますね。
人間の仮面を即座に見透すような人にはたいてい誰も会いたがりませんが、でもそうした人だけが、ほんとうに助けてくれるのです。
病気を理解しているから治療法も知っているのです。
しかしまず、患者が治りたいと思わなければダメです」

目覚めた人は社会と独特の関係をたもっている。
ゲームについては知り尽しているが、自分ではプレーしないフットボール試合の見物人のようなものだ。
いずれかの側に就くという重大な誤りから超越しているので、勝ち敗けにはまったく関心がない。
勝ったかと思うとすぐまた敗けに転じるといったたぐいの生き方に飽きあきした人々にとって、このような人が貴重なのはその人生ゲームに対する洞察の深さである。
彼はまったく新しいかたちの勝利を見せてくれよう。
それはコンテストでの勝利ではなく、分割されない道である。

われわれの人間関係はどうして出来るか?
われわれは、われわれが既にそうで在るところのものに惹きつけられるのである。
自分の心と似たような他の心と接すると、ますます人は彼が既に在るところのものになっていく。
蜂蜜の味は蜂が訪れた花の種類によって決まる。
自分の内的な自己に働きかけない人は、無目的社会の味気なさに、もっともっと惹きつけられていく。
最初にまず独りで自己自身に働きかけている人は、意識(目覚めた状態)の味わいを感得し、それで更に彼は他の目覚めた人々へと惹きつけられていくのである。

ロイド・Fが、「自己作業(修行)がわれわれを厄介な人々から解放してくれるという点を説明して下さい」と言った。
答え――「いいですか、口論とか敵対行動などが多くの人々に誤った生感覚を与えます。
彼らは争いを烈しい刺激としてもちいるのです、アルコールや麻薬をもちいる人がいるように。
こういった人はアジテーションがなければ生きていけないのです。
それゆえ、無意識のうちに執拗に、必ずいざこざを招くと予感されるような人間関係を求めるのです。
そしてスリルを得たあとは、また別の戦いを求めてでかける。
あなたの質問ですが、もしあなたがこうした低いレベルを超えておれば、そうした悶着を起こすような人たちを惹きつけない、なぜならあなたは彼らの求めるものはもってはいないからです」

たいていの人は、怒った人に出会うと、自分でも怒ってしまうか、相手を宥(なだ)めてその怒りをしずめようとする。
どちらも誤った反応である。
賢い人なら、なぜ他人の怒りが自分にそうした反応を起こさせるままに自分は委せるのか、その訳を理解しようと努めるだろう。
そして強く、自分の反応を拒否するであろう。
これで他人の怒りという問題は、その他人個人だけのものとして残る。
それを解決するのはその他人であり、それはその他人自身なのである。

他人があなたを好いてくれるようにと、あるいは彼らをあなたの味方につける目的で、便宜、親切を与えてはならない。
それは誤った動機であってあとで罰を招く。
ひとつには、他人はあなたが彼らを求めていることを嗅ぎつけ、友情を装いながら、内心軽蔑してあなたを利用しようとするだろう。
それにまた、そうした行為は、強さがあなたにではなくむしろ他人側にあるとの誤った確信を深める。
不誠実な国々とは交易を拒む独立不覊(ふき)の国民であるべきである。

あなたよ、あなた自身の監督人であれ。
あなたは自分で自分の責任をとらなければならない。
自己責任に徹した人は、自分だけの力で山頂に登った人に似ている。
彼は他人にたよらず、他人の意見に従わなかった。
だが、あくまで草の生えた低地にいようと言い張った人々に、なにかを負うているという罪の意識は感じない。
自己責任に徹し、あらぬことで罪の意識が湧いたら、すぐさまそれは一掃しなければならない。
罪の意識は心理的暴君と見るべきである。

他人の問題を自分のこととすべきではない。
誰かがあなたに向かって無礼を働いたとしても、なんで心を乱すことがあろうか?
他人が狼狽し動転したとき、自分もその責任を負って狼狽し動転しなければならないことがあろうか?
ところが実際そう感じるような、あらゆることに誤った罪の意識をもつ人が多い。
しかしあなたの義務はあなた自身を救うことだ。
他人の義務は彼自身を救うことだ。
センチメンタリズムではなく、知慧が救うのである。

偽りの自己感覚は誤った責任感を荷重し、それはまた自分の「道徳規範」に則って生きてはいないといった罪の意識を生みだす。
このダイナマイト製造工場に起こりやすいもうひとつの幻想は、自分が実際他の人々のために善いことができるという幻想である。
よりよい世界をめざして、無意味な社会改革案や組織的運動などがやたらに次から次へとでてくる根源はこれである。
エマーソンは「社会はけっして前進しない。一方で進めば他方で後退する」と喝破している。
ただ個人の意識性(覚醒)だけが物事を向上させることができる。

もともと善い人は善いことをしようと目論んで駆けまわるのではない。
彼自身の善性が善を行なうのであって、どこへいこうとおのずと善を行なうことにならざるを得ないのである。
だがこのことに気づく人は少ない。
善性を具えた人は、自分が悪い人を善くなるよう助けることのできる善人であるといった、分離した自己イメージはもっていない。
自己中心的な善性は自己偽瞞者の専売特許である。
悪い人は、善性というものを心のなかのなにか個人的なプラス面というふうに考える。
だが真に善なる人は、「自分が」という意識はなくておのずと善を表出するのである。
薔薇は薔薇であるから、寸毫(すんごう)もそれみずから薔薇と思う必要はないのだ。

〈辛抱づよい自己作業があなたを変える〉――敵意というものの理解が助けになる

他人と出会うとき、あなたにはその人達が正しいか間違っているかは分らないのだ。
ただ注意深く相手を観察しておればよい。
相手がネガティブな人格特性を暴露するかどうか、おし隠された敵意、自己賞讃を表わすかどうか、あるいはそれとない非難の意をふくめているかどうかを注意すればいい。
ネガティブな態度というものは、到底正しくはあり得ない。
それは彼の立脚点が間違っていることを意味している。
間違いやすい看板屋というものがなければ間違った看板はあり得ない。
あなた自身をこのようなテストに、同じく注意深く、かけなければならない。
この自己反省が正しさを築いていくのである。
「敵意」というものの理解が助けになる。
敵意とは、自分自身と、直視することが恐い自分自身についての事実とのあいだに障壁を立てようとする血迷った試みである。
しかし敵意は寸毫(すんごう)も彼自身を守ってはくれない。
そもそも敵意とは、その人自身の内部に存在するものなのだからだ。
防衛武器としてみた場合、この敵意なる代物は、敵の家を焼こうとして、暗闇のなかで勘違いして自分の家を焼いてしまうバカ者のようなものなのである。

他人の悪さや弱点を、それも彼らにとっては必要なことだと見るのはよくない。
むしろ、あなたが自分に与えたと同じ自己覚醒の機会を彼らに与えてやるべきである。
これはセンチメンタルなものでもなく、ありもしない誠実さを、彼らにあるとして認めることでもない。
むしろ、彼等も、見方さえ変えれば、みずからを自分の愚かさから救うことのできる怯えかつ混迷した人間存在として見ることを意味している。
これはあなたにとって、「あなた」と「わたし」といった言葉が創りだすかに見える偽りの区分を打ち破る手だてとなる。
それに、あなたが他人に与える優しさは同時にあなたがあなた自身にも与えているのだというのは心の法則である。

覚醒は闇夜の灯である。
覚醒していない人の状態とはどういうものであろうか?
彼は、自分が知らないのだということに気がつかない。
彼は覚めていない。
だから自分が覚めていないことに気がつかない。
そして迷っているから、同じく他の迷っている人々に、いっそう彼自身を迷わせる機会を与えてしまう。
あなたはこんな状態の人を見たことはないか?
しかし、そのような状態を続けているうちいつか、――いやそれが最適の時点なのだが、彼は「こんな馬鹿げたことはもう沢山だ!」と叫ぶに違いない。
そのとき既に、彼は覚め、彼の方向は変わるのである。

他人から受けいれられないではやっていけない人は、まだいくつかの誤った考えのもとに暮らしているのだ。
そうした人は、自我をくすぐる賑やかな交際や、自信ありげな他の人々からのはげましの言葉などに、まだ価値があると思っている。
彼はまだ、自分の虚しさを社会の神経症的な騒音で満たせば、その苦悶から逃げられると思っている。
目覚めた人は「受けいれる/拒む」といった対立用語に縋(すが)っていない。
単なる言葉を超えて生きている彼は、静かにおのずから満ちたりて、人々の間に立ち混ってやっていく。
このような境地は、依然として受けいれられることを求めている人達にとっては思いもよらぬものなのである。

薬剤師のアル・Hは、彼自身の精神的な成熟レベルがどんなふうに他の人々との関係に影響するのかを知りたいと言った。
答え――「・・・弱さというものはどうしても他の人々に嗅ぎつけられ、利用されてしまうものです。
あなたは自分はこれが欲しいのだと誤った欲求や願望をもっている。
自己充足が強みであるのに対して、誤った欲求は弱みです。
あなたの誤った欲求と、他人があなたをどう扱うかの扱い方とはつながっているのです」

アルは後日こう報告してきた。
「わたしはもうある種の人々とのつきあいは要らなくなりました。
負担が大きすぎるのです。
その人たちに敵対しているのではありません。
ただ物事を新しく見る眼ができたのです」

あなたは戻りたいのに、彼らは戻らせようとしない、といった状況があると思う。
あなたに言いたい。
それでよいのだ。
そうなったのは、彼らとの関係でどこかにぎこちないことが起こって、あなたがもう彼らとの関係からは以前のような慰めも安定感ももたなくなったからかもしれない。
そしてそのことをあなたはまだ理解していないのかもしれない。
でも今は理解がいかないままで構わないのだ。
ただひたすらに、これらの高次のアイディア、原理、原則に思いを潜め、辛抱づよく、みずからの修行に励むことである。
やがてあなたは、それで構わないのだ、ほんとうはそれでよかったのだと、気づくことであろう。
そしてもう戻りたい気は起こさなくなるであろう。

〈ショックを受けいれなさい〉――そこに秘密の方程式がある

他の人々との幸せな生活とはなにか?
それは他の人々が自発的に、おのずと、あなたの仲間となったときに生じる。
人間関係の幸せはすべてこれである。
報酬や脅かしの約束は、機会があれば反抗しようとする奴隷を創りだすだけだ。
一般の人間社会は奴隷制度である。
A氏はB氏の圧制に服する、ただし条件がある、A氏がC氏に圧制を強いてもよければ、という具合である。
あなたは人々を、その人達の好むままに来させ、また行かせればよい、来ようと行こうとあなたにとってなんの変りもないという態度で。
何の変わりもないというとそれは冷淡だと人は考えがちであるが、そうではない。
それは愛なのである。
ただそういう人達にそれが分らないだけのはなしである。

ディーン・Wが訊いた。
「あなたはこの前の講義で、他人によく思われようと努めるのは偽りだとおっしゃいました。
あと数分しかないんですが、この点をもう一度説明していただけませんか?」
答え――「よい印象を与えなかったというのはどこが悪いんでしょう?
この問題を自分で考えてみたことがありますか?
どこも悪いところはないのです。
焦りで気違いじみた人々は、自分が困りきっている問題そのものから自分自身を紛らわそうとして、印象的な自己の外観を装うのです。
他人に自分をよく見せかけないではいられない欲求――世界の災厄の半ばはこれが原因です。
禍いをこれ以上増やすことはよしましょう。
リアルでありなさい、よく見せようとすることはやめなさい」

人間には優秀な人、凡庸な人、劣等な人といった区別はほんとうはないものなのだ。
これらは、自分が優秀であると感じたい、劣等であることを恐れるという無益な努力のすえに人間がお互い同士、貼りつけたレッテルでしかない。
目覚めていない人間はすべて同じ不幸のレベルにいる。
いわゆる優れた市長とか連隊長とか会社重役といった人々も、いわゆる劣等な人々と同じく密かに生を恐れているのである。
これが分れば、人間思考という平べったい草原を棄ててエソテリックな洞察の山巓(さんてん)をめざす助けとなろう。

大きな社会的ナンセンスが見通せない理由は、ただそれが途方もないナンセンスだからに外ならない。
立派な紳士に見せようとして窮屈な服を着るといった小さなナンセンスなら誰でも分る。
だがそれを越えたものとなると、人々はしばし戸惑う。
人はヒロイズムの危険性を見ようとはしない。
いや見ることを拒否する。
それは自己の空虚さをカモフラージュするもっとも頼り甲斐のある逃避手段のひとつなので、ヒロイズムが奪われるショックを恐れるからである。
ここにそうした人々の知らない秘密の方程式がある。
事実というものの価値はどうして測られるか?
それは、その事実に直面した人に、その事実がどれだけのショックを与えられるか、その程度に応じて価値があるといっていい。

もしわれわれが真に在るがままの自己自身を見るショックに耐えられる道を発見したなら、戦いは半ば勝ったも同じだ。
その地点は、ほとんどの人が、真の自己自身という故郷に還る旅路で、ふと立ちどまるところだからである。
その意味で、次の原理的な事実は、すべての人々にとって励ましとなるだろう。
・ショックは治癒処置のなかのダイナミックな一領域にすぎない
・ショックだけが自己混迷から脱する唯一の道である
・ショックに耐えるのが真のヒロイズムである
・ショックはけっして害ではなく、常に有用な恩恵である
・わずかな辛抱がより大きな辛抱に耐える力を生む
・他人の助けを借りず、みずからの力で為すのとは正しい行き方である

われわれはわれわれの存在の本質につけ加えることができる。
それは有難いプラスである。
あるいはわれわれの表面的なパーソナリティにつけ加えることもできる。
だがそれは物事を一層行き詰まらせるだけである。
いかにして本質と仮相とを見分けるか?
だがわれわれの本性はきわめて明瞭にその差異を知っている。
だからわれわれはその信号に気をつけていなければならない。
その心を魅惑的なイカサマ師に許すものは、彼自身の偽りの行動を増幅するだけである。
聞きたくない真実の声にあえて耐える人は彼自身の本質に寄与しているのである。

単純に出発することの偉大な価値を悟れ。
ある考え方を理解しようとする第一歩は、あなたの多岐にわたるエネルギーを総動員してひとつの力にまとめる召集ラッパの音に似ている。
あなたの内部のなにものかが叫ぶ、「うむ?これでできるのだな!」と。
解放への道はすこしも混み入ってはいない。
耳を傾ければ聞こえるし、聞こえれば学ぶ。
学べば成長する。
成長すれば成功するのである。

〈人間の本性をたえず観察することだ〉――眼を内部世界に向けよう

自己を変える作業が自己理解を生むとき、われわれは、他の人々を、その通常の語義においては好きになることも嫌いになることもない。
もし好きになれば、必ずこれとは正反対の態度が生じる可能性がある。
正反対の態度とは、おそらく争いの後に起こる嫌悪である。
しかし自己理解は、他者理解をもふくんでおり、これは好き嫌いといった態度を超越しており、これこそ真の愛である。

われわれは、われわれの夢を破砕する人達、われわれの期待するものを遅らせる人達に対して恨みを持ってはならない。
恨みは、何事であれ起こるものに対する真の認識の欠如を示すものだ。
恨みというこのつらい感情からの解放は、ふとブドウの樹を見つけて、ああこの樹のうしろにブドウの実があればと思った人にたとえられよう。
彼はブドウが見つからず、がっかりする。
これは一種の恨みの感情である。
しかし彼はすぐに反省して、自分は結局、ブドウの実が欲しかったので、それがないのはブドウの木のせいではないと悟る。

他の人を悪いと思いこむことと、その悪を理解することとの差を考えてみるといい。
これがあなた自身の成長に役立つのである。
他人の悪で苛立ったりするのは、われわれがまだ悪の虚勢を見抜いていないからに過ぎない。
それで悪に威力があると見誤ってしまう。
破壊的な人間行動を見て、ときには「なんと悪辣な!」と思うのではなく、「なんと痛ましい!」と反応するかもしれない。
その反応に芝居がかったセンチメンタリティが合まれていないならば、それが他者理解と共感との始まりなのである。

テッド・Cが訊いた。
「あなたは意識が知慧と同じものだとおっしゃいましたが、人間関係でこの例をあげていただけませんでしょうか?」
答え――「意識ある人は、機械的な思考しかしない人がけっして気づかないものを見抜きます。
あなたは、自分が間違っていることを知らずに間違った振舞いをする人の様子を観察したことがありますか?
正しさの意識があれば、その正しさに似ていないものはすぐに看破されます。
日々の生活でこの心構えの有難さが分ります。
特に信用できない人々を扱うときはそうです」

こんど一群の人々と交わったとき、ひとつ実験をしてみるとよい。
喋らないこと。
声をだしても、ごく短い返答だけにしておくこと。
ただし周囲の人々の行動を静かに観察する。
人々がどんなに沈黙を恐れているかよく観察する。
その人々が彼らの人生でしてきたという重要な活動、すばらしい経験などを一所懸命に喋るのをじっと聴いてみるとよい。
大きな声で自信たっぷりに喋る人をよく観る、いっとき狼の姿が見えないから安心して勇敢に振舞っている臆病な小羊を観察する。
こうした人間の憐れさ、切なさへの洞察こそ、あなたがそこから脱けだす旅の一部なのである。

心的な眠りのうちに生きていることで別に問題はないとしても、こうした状態が孕(はら)む危険の大きさは、目覚めた人にとってはショックである。
こんな眠った状態の人は、頭のおかしい人が動物園へ見物にいって、ライオンの艦は、彼がライオンに怪我させないためにあるのだと思いこんでいるようなものだ。
こうした、自分自身から来る危険に晒されている人に、どうしてこの危険を排除する力がでようか。
彼の場合、彼自身のものの考え方が、彼が人生からうける裂傷に直結しているのである。

こうして勉強しているうちに、物事の道理が見え始める。
なぜネガティブな情動、感情は理解され除去されなければならぬかが分ってくる。
それは、激しい感情はその持ち主その人をきびしく傷つけるからである。
われわれの眼を内部世界に向けることがいかに大切か!
内部世界に眼を向けよう、そうすれば、内部世界こそ、平安であれ、悲哀であれ、われわれが、抜きがたくそこに生きている世界であることが理解されてこよう。

なぜ事実が迷妄を追いださねばならぬかが分ってこよう。
それは、事実のみが、ぐらぐらした信念の産みだす心の傷を癒やすことができるからなのだ。

〈自分を他人に説明する必要はない〉――人間は反響(こだま)の中に生きている?

人前でどう見られようかといった煩(わずら)いは棄てることだ。
「おれは他の人々にどんなふうに見えるだろうか?」とそんなことを心配するのは疲れきった奴隷根性である。
外観への注目は、注意力の注がるべき対象、真実なものの築城作業を阻む。
人は自分が知的に見えるようにしなければならぬとは思っでも、人間として知的でなければならぬ義務があるのだという、その義務のことはすこしも考えない。
他人にあなた自身のことを説明する必要のない生き方を築くのに、どんな代価を払おうというのか。
そうした生き方をいまわれわれは話し合っているのである。

マイロン・Vが「他人がわたしをコントロールすることはできないという考え方を要約していただけませんでしょうか?」と訊いた。
答え――「他人が真にあなたをコントロールできない訳は、あなたというものはあなた自身がこうだと考えている意味では存在していないからです。
あなたという存在は、あなたがあなた自身についてもっている記憶された観念のかたまりではない。
そこに気づくと、記憶された観念の固まりも、他人があなたを制御できるという思いこみも、融けて消えるのです。
自分が望ましい人柄であるという自己イメージをもっていると、他人はそこをおだててあなたをコントロールすることができます。
あなたがそんなイメージをもたなかったら、どうして他人があなたをコントロールできましょう?」

人間は反響(こだま)によって生きている。
そして反響が聞こえなくなると不安になる。
人は自分自身について、人ざわりがよいとか、活動的だとか、人気があるとかいうなんらかの観念を自分で貯えて保持している。
そして外界へ向かって放送している。
他の人々から反響が返ってくると、もちろんいい評判は有難がるが、他方、批判の声もまた受けいれる。
それは彼にとって完全になんの反響も返ってこないのが一番恐ろしいので、それよりはましだからだ。

だがわれわれは反響によらず生きることを学ばねばならない。
それがびくついた依存状態のない真の生き方だからである。
人は、他の人々のそばにいたがる。
近くにいるとは何を意味するかを全然考えてもみずに。
接近とは物理的に近くいることでもないし、家庭とか社会組織に属するとかいう意味でもない。
ましてや共通の願望をもつという意味などでは毛頭ない。
狼の群は一匹の羊を殺す共通の欲求をもっているのだ。
このような接近とは、近いことを装った隔絶に過ぎない。

自由な心にだけ安心して近づいていける。
自由な心には壁がないからである。
自由な心は、同じく壁を取り払う努力をしている他の人々にむかって、こころから友情の微笑を送るのだ。

砂漠で遭難した旅行者は、救出者の行く方向をいぶかりながらも、それについていくであろう。
われわれの務めも同様である。
逆らわず、恐れず、事実が示す道をひたすらに進むだけである。
われわれは、習慣的、固定的な選択に誘われないよう気をつけていなければならない。
固定観念が最初にわれわれを不毛の砂漠へ追いやったことをゆめ忘れてはならない。
どこまでもこの考え方で進むがよい。
あなたの内部状態はあなただけしか知らない。
それならば、その方向を変えられるのはあなただけではないか。

探究の初めには、予期しないものに出くわすのは当然である。
ときには、なんの前触れもなく、新しい謎を発見して驚きもしよう。
だがそれが正常で、完全に健康な行き方なのだ。
なぜか?
われわれが、自分が混乱していると思っていた以上にはるかに混乱していたと気づくことは、よいことだからだ。
なぜよいことか?
気づいているということは、意識があるということは、健康だからである。
今も、そして永遠に変りなく。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

達人のサイエンス 第8章 思いの力

達人のサイエンス 第8章 思いの力

著者ジョージ・レナードは
1953から1970年まで「ルック」誌の編集局次長をつとめ、アメリカの教育問題に関するレポートで多くの賞を受賞。
合気道四段の腕前を持ち、カリフォルニア州ミルヴァレーで「タマルペイス合気道道場」を主宰、指導にあたる。

人生のあらゆる局面に、マスタリー(達人の境地)への道がある
人生の意味はクライマックスの瞬間ではなく、終りなき実践の中にある
マスタリーの領域では、精神と身体は一つの美しい融合を遂げる
現代文明はマスタリーの道に反している
人はエネルギーを使うことによってエネルギーを得る
肉体は、日常の諸問題との取り組み方のメタファーである
運命の一打からさえも、人はエネルギーを得ることができる
達人とは「永遠の初心者」のことである

―書籍カバーより

「思いの力」のさまざまな訓練法

今日までにスポーツにおけるトレーニング法とその技術は実に大きな発展を遂げ、もう改善の余地がほとんどないのでは、と思えるほどだ。
ニクラウスが、スイングはショットの成功に一割しか寄与しないと言えたのは、彼のスイングがほとんど完壁の域に達していたからだろう。
しかし心や精神の王国はいまだ未踏の領野であり、おそらくスポーツの技能において、この分野に最初に参入する者は途方もない成果を得ることになろう。
このチャンスを生かそうとトップランクのチームや選手たちは、スポーツ心理学者を雇ってリラックス法や自信開発法、また特定のプレイや動きのメンタル・リハーサルの指導を受けるようになった。
そしてメンタルゲーム用のビデオやカセットが、そうした心理学者を雇うだけの経済的余裕がないスポーツ選手向けに発売されるようになった。
テープによっては、そのメッセージはあまり洗練されているとはいえないものもある。
たとえば、マインドコミュニケーション社ではサブリミナル(閾下)のカセットテープを販売している。
これは、波の音や心地よい音を背景に、通常では知覚できない音量で特定の言葉やセンテンスが吹き込まれているというものだ。
フットボールのサブリミナル・テープを例にとってみよう。
「私は自分のプレイの素晴らしさを知っている。私はチームに欠かせない選手だ。期待に恥じないプレイができる。私は走るのが大好きだ。私はリラックスしている。私はウエイトで体を鍛える。私はボールを素早くパスする。砂糖やコーヒー、アルコールはとらないし、たばこも吸わない。相手とぶつかり合うのが大好きだ。私の目標は決まっている。私は練習が大好きだ。私の腕はすばらしい。マークした選手を倒すことができる。追え!追え!私の呼吸は深く、乱れない。私は勝利者だ。」
こういうメッセージがフットボール選手にどういう効果をもたらすかについての研究は、まだ何もない。
(中略)
私の場合は合気道の道場での実際の体験から、イメージングには驚くべきパワーがあるという明らかな証拠を得ている。
個々の伝統を持つ武道では動作のメカニズムにともなう多くのメタファー(隠喩)とイメージを用いており、まさしく心あるいは精神という目に見えない世界から強靭な肉体的効果が現れるのである。
「二教」(手首締め・合気道の基本技〉の一つの型を例にとると、敵に手首をつかまれた時、つかまれたその手を逆に敵の手首に巻きつけ、敵の手を離さないようにしてある角度で下におろす。
確実に行なえばこれだけの技で自分より強く大きな敵を自分の膝あたりまで引きずり下ろすことができる。
二教はたんに力学の応用として行なっても可能だろうが、その場合は相当大きな筋力がなければ無理だろう。
だが「統計的に有意」という程度にとどまらず、本当に驚くべきレベルまでその効果を上げるイメージング戦略がある。
私は生徒に次のように指導している。
先ずつかまれた方の手を、指を広げたまま敵の手首の上にまわす。
そして自分の手首は意識せずに、それぞれの指がレーザー光線のように伸びていきながら、それらが敵の顔面を貫いて頭蓋骨の底部に達するようイメージする。
次にイメージで伸ばしたそれらの指を、敵の背骨をたどってゆっくり下ろす。
各人がすべて同じようにやっても、その技が決まるかどうかはありありとしたイメージをどれだけ描けるかにかかっている。
私の合気道の経験からすると、イメージを描いた場合の技は筋力だけの場合よりもはるかに効果的であり、力を入れた感覚がないのに相手はあっけにとられたかのように、目にも止まらぬ勢いでバッと崩れおちることがある。

真の実在とは何か

力学的な作用のみの場合と、イメージを加えた作用との違いをどう説明すればよいのだろうか?
魔法のように伸びだ指は、イメージによる虚構にすぎないのだろうか?
あるいはなにか「現実的な」ものなのだろうか?

いちばん簡単な説明は、伸びた指を敵の背骨にそって下ろしていくイメージは合気道家が二教を行なう際の適当なガイドにすぎない、という力学的な説明である。
イメージはたしかにそうした役目もはたしている。
しかし長年の経験から、私はそこにはきっと単なるガイド以上のものがあると思う。
私の頭の論理的な部分は、敵の体を貫通し背骨まで届く一メートルもの指など、俺の手についているものかとささやく。
しかしやはり、心にありありとしたイメージが湧き、自分の指が敵の背骨を下りていくように「感じた」場合にかぎって、特に力を加えずとも不思議に技が決まるのだ。

ここで問題になるのは、何がほんとうの「実在」なのかということだ。
行動主義の心理学者B・F・スキナーが言うように、意識とは単なる付随現象にすぎないのだろうか?
それとも詩人ウィリアム・ブレイクが言ったように、精神的なものだけが実在なのだろうか?
それとも精神的な創造物も、物質としての物も、実在のレベルは違うとしても両者ともに実在なのだろうか?
もしそうなら、この二つのレベルはどうやって相互作用するのだろうか?
この問題は、とても本書のような薄い本では説明できない。
分厚い本を書いても難しいだろう。
それでもやはり、思考、イメージ、感情はまぎれもなく実在であって、物質とエネルギーの世界に確かに大きな影響を及ぼしているのだ、と言い切ってかまわないだろう。

現に、純粋な情報は物質的なものよりもはるかに持続的なものだといえる。
あるいは、思考の世界と物質界とはその本質が同じものかもしれない。
天文学者サー・ジェームズ・ジーンズは次のように述べている。
「宇宙は巨大な機械というより、むしろ巨大な思考体のような姿を見せつつある。」
たとえば、ソロモンの寺院はもう木や石や金という形では残っていないし、またどこを捜してもそういうものは発見できない。
にもかかわらず、聖書の「列王紀上」の六、七章を読むと、そのイメージが心の中に細部まで鮮明に浮かび上がってくる。
スカーレット・オハラにしろアンナ・カレーニナにしろ実在の人物ではないのに、あなたは自分の隣人より彼女らのほうをよく知っているかもしれない。

また、ポータブル・ラジオは現実の中に存在し、手でさわって確かめることができる。
しかしそのラジオの回路図もまた実在であり、設計者の頭に浮かんだイメージも同様に実在しているのだ。
ではどれが、よりほんとうの実在なのだろうか?
これはきわめて難しい問題だ。
各部品の抽象的関係としての基本構造はこれらの三者においてすべて同じだとしても、やはりこの中で抽象度がいちばん高いものが、最も基本的で永続的なものといえるはずだ。
手に持ったラジオより、設計図という頭の中のイメージのほうが、永続的なのである。
しかも、このように物質的でない形態のほうがより有用だ。
なぜなら各部品間の配線を変更したい場合、回路図を書きかえるか頭の中で考え直すほうが、実際の三次元のラジオで変更するよりずっと簡単だからだ。

思考から現実への変換

この場合、「思いの力」が果たす役割とは何か?
それは思考の実体を創造することに関わっているのみならず、その創造した実体を思考形態から現実の形態に変換することも行なっているはずだ。
実は、こうした種類の変換はマスタリーのプロセスに深く関わっている。
私はときどき学生に対し、特定の投げ技について、そのビジョンや感覚を新しく心にイメージさせた上で一時間以上みっちり練習させている。
彼らがやがて汗だくになる頃には、その投げ技についての古い思考や感情は、新しくイメージしたビジョンによって一掃されてしまっている。
このように「思いの力」を使えば、三次元という現実の武道の世界では有意義な成果が得られることが多い。
思考、イメージ、感情は、実際ひじょうに現実的なものである。
「エネルギーは質量(M)に光速(C)の自乗をかけたもの」というアインシュタインの理論は、巨大なパワーの解放を現実のものとした。
このアインシュタインの思考が熱や衝撃となって現実に変換されるまでには、かなりの努力と時間が必要だった。
この場合もたしかに、思考、ビジョン、思いの力のほうが先であったのだ。
(中略)
思いの力は達人の旅にとってエネルギー源となる。
すべての達人は、ビジョンを思い浮かべる達人なのだ。

『達人のサイエンス』(日本教文社 刊)

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

究魂(きゅうこん)

Author:究魂(きゅうこん)

聴く耳を持つ者だけに届けばいい

精神世界ランキング
 ↑誰も押さない?
押してるのは僕だけ?・・・たぶん


魂には幾つかの系譜(けいふ、ライン、ファミリー、霊籍・ひせき)が御座います。

聴く時期に至ったラインのメンバーに届けばと存じます。

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